奇異雜談集巻第三 ㊃越中にて人馬になるに尊勝陀羅尼の奇特にてたすかりし事
[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。
なお、高田衛編・校注「江戸怪談集」上(岩波文庫一九八九年刊)に載る挿絵をトリミング補正して掲げた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]
㊃越中にて人(ひと)馬(むま)になるに尊勝陀羅尼の奇特(きどく)にてたすかりし事
寶幢院(ほうどうゐん)の宗珎(そうちん)、語りていはく、
[やぶちゃん注:「巻第一 ㊁江州枝村にて客僧にはかに女に成りし事」でも話者として登場する。そちらの私の注を参照されたい。]
むかし、正道(《しやう》だう)[やぶちゃん注:「唱道」に同じ。]の僧、七人、同道して北国(ほつこく)に、くだりゆく。
越中におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、ひろき㙒を行くに、㙒中に、古き門(もん)あり。
時分は、ひるなるに、晴(はれ)たる天(そら)、にはかに、曇りて、夕(ゆふべ)になれり。
かは[やぶちゃん注:「革」。]衣《ごろも》きたるおとこ[やぶちゃん注:ママ。]、一人、門より出《いで》て、
「こなたへ、きたれ。」
と、よぶゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、みな、門の中にいりぬ。
奧より主人の老翁、出《いで》て、七人をみて、その中《うち》、一人《ひとり》を、ゆびさして、いはく、
「此の僧に、轡(くつわ)を、はめよ。」
といふ。
[やぶちゃん注:底本の明瞭でサイズの大きいそれは、ここ。]
男、轡を、もつて、一僧に、はむれば、すなはち、變じて、馬(むま)になりて、いななき、踊りぬ。
のこりの僧、これを見て、おほきにおどろき、
『ここは、畜生道(ちくしやうだう)なり。「越中の国には、地獄道(じごくだう)、ちくしやうだうあり。」と聞きし。こゝは、まさしく、ちくしやうだうなり。みな、馬になるへきや。』
と、おもふて、めいわく[やぶちゃん注:「迷惑」。激しく戸惑うこと。]す。
「『尊勝陀羅尼』を唱ふれば、來世(らいせ)に馬に生まるゝ事、なし、といふことあり。今、これを、唱ふべし。」
とて、六人、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、廿一遍を、となへたり。
[やぶちゃん注:「尊勝陀羅尼」尊勝仏頂の悟りや、功徳を説いた陀羅尼。読誦 (どくじゅ)すると、罪障消滅・除災・延寿の功徳があるとされる。「仏頂尊勝陀羅尼」。]
老翁も、男も、ちやうもん[やぶちゃん注:「聽聞」。]して、しづまりゐるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、
『さては。馬になさゞるよ。』
と思ひて、門を出《いで》て去りぬ。
一町ばかりゆけば、かの男、出《いで》て、よぶ。又、みな、めいわくす。
「馬になるべきにや。にぐるとも、のがるべからず。因果のみち、力(ちから)、およばず。」
と、いふて、みな、立ち返りたれば、老翁、出《いで》て、いはく、
「たゞいまの『尊勝陀羅尼』、近頃、しゆせう[やぶちゃん注:ママ。「殊勝」。]なり。その布施(ふせ)に、此の僧を、返し申すなり。」
とて、馬のかたちを改め、もとの僧になしてかへしすなり。
六人、大によろこぶ事、かぎりなし。
皆、いはく、
「是は、何としたる事ぞ。」
と問へば、老翁のいはく、
「此の一僧は、備中の国、吉備津宮(きびつのみや)のかんぬしの子なり。此の親、くろがねの商賣をする事、とし久し。毎日、馬をつかふて、をもに[やぶちゃん注:ママ。]をおふせて、馬をくしめ、あはれむ心、一念、なし。そのいんぐわによらずして、子にむくふなり。かるがゆへに、今日、馬になりて、なかく[やぶちゃん注:ママ。「長く」。]ちくしやうになるへき[やぶちゃん注:ママ。]に、おんせうだらにのくどくによつて、いんぐわを轉じて、僧になしてかへすなり。同道して、ゆけ。」
と、いひて、去れば、門も、なし。
老翁も、男も、なく、天(そら)、はれて、日、たかし。
「きどくなる事かな。」
と、いひて、かの一僧を同道せんとすれば、腰・膝、たたずして、行《ゆく》こと、あたはず。かるがゆへに、六人、互ひに、おふて、ありく。
其の一僧の素生(《す》じやう)を、とへば、老翁のいひしごとくに、
「我は、きび津宮のかんぬしの子なり。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「くろがねの商賣」岩波文庫の高田氏の注に、『吉備国は古代から砂鉄の産を以て著名。また吉備津神社は鋳物師集団とかかわりがあったとされる。』とある。といよりも、神仏習合時代の当時にあって、かの知られた吉備津神社の神主の子がこの僧という設定、その神主は、馬を激しく使役して、虐待の限りを尽くしている悪党だという設定自体に、ある種の作者自身の寺院寄りの立ち位置を感じる。そもそも、何故、ここに吉備津神社を、わざわざ出さなくてはならないのかが、全くのブラック・ボックスなのである。それについての学術論文も一つ見つけたのだが、私の注は学術研究ではないし、それを言い出すには、当該論文の引用も必要なので、そこには今回は立ち入らないこととする。悪しからず。]
加賀の国に、いでゆ、あり。行きて湯治(たうぢ)して、いゆる事を、えたり。
その時、りよかく[やぶちゃん注:「旅客」。]の僧、一人ありて、此の病僧(びやうそう)を見上《けんじやう》、くだんのゆらいを聞《きゝ》て、
「ふしぎの事なり。路費(ろひ)ののこり、すこし、あり。」
とて、五十錢、病僧に、あたへられたり。
「そのりよかくの僧は、後に泉涌寺(せんゆうじ)の住持長老になり給へり。」
ときこえたりと云々。
[やぶちゃん注:「加賀の国に、いでゆ、あり。……」以降は、六人の僧と別れて、馬にされそうになった僧が、ここで湯治したのである。その時、事情を聴き、布施を呉れた旅の僧が、後の「泉涌寺の住持長老」となったという後日談を附すことで、荒唐無稽な怪奇談にリアリズムを与えているのだが、流石に、この話、著者も嘘臭さを感じて、それを察した宗珎が、言い添えたものだったのかもしれない。前の話で掲げた、『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(5) / 卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四 / 二~了』にも言及がある。しかし、寧ろ、前の「奇異雜談集巻第三 ㊂丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事」で気をよくした著者自身が、「二匹目の鰌」を狙って二番を煎じて創作したと考えた方が、納得が行く気もしないではない。どうも、この謎の翁であるとか、轡をして、馬に変える変な男、人面馬のえげつない画像といい、どうも、本邦の怪奇談というより、やはり唐代伝奇の俤がするように思うのは、私だけだろうか? 妙に固有名詞が出るという点でも、この一篇は特異点で、逆に日本らしくないと疑いを持ってしまいたくなるのである。
「見上」岩波文庫では本文は『見情』であるが、高田氏は注を附して、『事情を推量すること。』と解説しておられる。まず、見かけない熟語ではあるが、意味としては、それで納得は出来る。]
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