只野真葛 むかしばなし (73) 村上平兵衛の妄想と失踪
一、村上平兵衞といひし人、近比まで御目付など勤めたりしが、其ぢゞは、御身近き役【何役にや。[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]】を勤めしに、其子、嫁もとり、孫も【孫は平兵衞なり。[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]】有(あり)などせしが、廿人餘なるべし。
「御小性(こしやう)[やぶちゃん注:「小姓」は、江戸時代の書籍では、しばしば、かく、書かれる。]に被二仰付一し。」
と吹聽(ふいちやう)し、
「直々(ぢきぢき)、御入(おいり)[やぶちゃん注:江戸城へ呼ばれること。]へ相(あひ)とほさるゝ。」
と、いひ、又、
「急(いそぎ)、登り被二仰付一し。」
とて、已にも、あい金[やぶちゃん注:途上のための支度金か。]まで受取、たゝむとせし事有しに、
「合點、ゆかず。左樣の被二仰付一なし。」
といふ人、有(あり)し故、能(よく)たゞしてみしに、空事(そらごと)なり。
其身は、信じて、きかざりしが、狐にばかされしといふ事、あらはれし、とぞ。
父は江戶づめ、女ばかりの時にて、さやうには、せしなり。
「御城にて、被二仰付一。」
とて、供人つれて出(いで)し事も度々(たびたび)なり。
いかにも、御城へ出入《でいり》せし事は、御門(ごもん)にて見しかども、何しにせし、とまでは、誰(たれ)も心つかず。
それより、家内、心付(こころづき)、あたら、わかき人を、外出をとめて有しが、何も、少しも、心の違ひし樣にも見えねば、隱居ぢゞの、つれて、三年目の春、花見に行(ゆき)しに、人ごみにまぎれて、行衞(ゆくへ)知れず成(なり)しとぞ。
誠に、せんかたなきなり。
[やぶちゃん注:一種の妄想性精神疾患で、見かけは正常に見えただけであろう。]
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