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2023/07/04

奇異雜談集巻第三 ㊂丹波の奧の郡に人を馬になして賣し事

[やぶちゃん注:本書や底本及び凡例については、初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

   ㊂丹波の奧の郡(こほり)に人を馬になして賣(うり)し事

 はるかの昔、たんばの国、おくのこほりの事なるに、山ぎはに、大なる家、一間[やぶちゃん注:ママ。「一軒」。](けん)あり。隣(となり)も、なし。人數《にんず》、十人あまり、渡世(とせい)、心やすく見えたり。農作をも、せず、職(しよく)をも、せず、あきなひをも、せず。心やすき事、人みな、ふしん[やぶちゃん注:「不審」。]す。

[やぶちゃん注:「心やすき事」何も仕事をしていないにも拘わらず、日々の一家の暮しが、至って豊かであること。]

 馬を買ひゆくとも見えぬに、よき馬を、うれり。

 一月に、二疋、三疋、賣るゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に、これまた、人、ふしんするなり。

 かいだう[やぶちゃん注:「街道なる」。]ゆへに、旅人(たび《びと》)、一宿(《いつ》しゆく)する事、あり。

 ないない、人の申すは、

「亭主、大事(《だい》じ)の祕術(ひじゆつ)をつたへて、人を、馬になして、賣る。」

と、いへり。

 一定(《いち》ぢやう)をば、知らざるなり。[やぶちゃん注:「そう人が噂するだけのことで、本当のところはよく判らないのである。」の意。]

 あるとき、たび人、六人、つきたり。

 五人は俗人(ぞく《じん》)、一人《いちにん》は會下僧(ゑげそう)なり。

[やぶちゃん注:「會下僧」特に一寺を持たず、師の下(もと)で学んでいる僧。「えか」とも読む。なお、小学館「日本国語大辞典」によれば、「日葡辞書」には「Yeguesô」で載り、訳すと、『二派に分かれている禅宗の僧侶のうちの一方の僧侶』、『(注)曹洞宗の僧侶を指す」とある』とあった。]

 亭主、うちへ請(しやう)じ入れて、枕を、六つ、出《いだ》して、

「御くたびれなるべし。先《まづ》、御休みあれ。」

といふ。

 俗人、みな、臥(ふし)たり。

 客僧は、丹後にて、粗(ほゞ)きくことあるゆへに、ようじんする也。

 ざしきの奧にゐて、ふさず。

 垣(かき)のひまより、内を、のぞけば、忙はしくみえたり。[やぶちゃん注:「垣」この場合は室内を仕切っている障子、或いは、衝立(ついたて)の類いである。]

 小がたなにて、かきのひまを、すこし、くりあけて、よくみれば、疊(たたみ)の臺(だい)ほどなるものに、土(つち)、一盃(ばい)あり。

 そのうへに、物のたねを、まきて、上(うへ)に薦(こも)をきせたり。

 釜には、飯(いひ)を、たき、汁を、たき、鍋に湯をたけり。

 茶、四、五服のむほどして、

「もはや、よかるべし。」

とて、薦をとれば、あをあをとしたる草(くさ)、二、三寸(ずん)に、をひ[やぶちゃん注:ママ。]しげりたり。葉は、蕎麥(そば)に、にたり。

 それをとつて、湯に煮(に)て、そばのごとくに、あへて、大《おほき》なる椀(わん)にもりて、さい[やぶちゃん注:「菜」。]にして、飯《いひ》を出《いだ》したり。

 俗人、おきて、みな、食(しよく)す。

「めづらしきそばかな。」

と、いふて、しやうくはん[やぶちゃん注:ママ。「賞翫」。]す。

 僧は、

「食する。」

よしして、すみ[やぶちゃん注:「隅」。]のすのこ[やぶちゃん注:「簀子」。]の下へ、すてたり。

 饌(ぜん)[やぶちゃん注:「膳」と同義。]をあげてのち、風呂(ふろ)をたきて、

「たちて候。一風呂、御入りあれ。」

といへば、

「もつとも。しかるべし。」

とて、みな、いれり。

 僧は、

「入る。」

よしして、脇へ、はづして、東司(とうす)[やぶちゃん注:禅宗で「厠」(かわや:便所)の呼称。]のうちにかくれゐて、よくみれば、亭主、きり・かなづち・かなくぎを、もちきたりて、風呂の戶を、うちつけたり。

 客僧、

『ここに居(ゐ)て、人にみつけられては、曲(きよく)なし。』[やぶちゃん注:「曲なし」は「つまらない」「なさけない」の意。]

とて、くらまぎれに[やぶちゃん注:暗闇に紛れて。]、出《いで》て、風呂のすのこの下へ入《はい》りて、靜まりゐて、みれば、良(やゝ)ありて、亭主、

「もはや、よきぞ。戶を、あけよ。」

と、いひて、釘ぬきにて、戶を、あくれば、馬一疋、出《いで》て、いなゝひ[やぶちゃん注:ママ。]て走りゆく。

 夜にて、門をさすゆヘに、庭に、踊りまはる。

 又、一疋、いで、又、一疋、出《いで》、五疋、出《いで》たり。

「今、一疋、出づべし。」

とて、まてども、出《いで》ず。

 火を、あかして、みれば、何も、なし。

「今一人は、いづかたへ行《ゆき》たるぞ。」

と、たづぬる間に、すのこの下より、出《いで》て、うしろの山にのほり[やぶちゃん注:ママ。]て、とをく[やぶちゃん注:ママ。]行《ゆく》なり。

 翌日、国のしゆご所[やぶちゃん注:「守護所」。]にゆきて、上(かみ)くたん[やぶちゃん注:ママ。「件(くだん)」。]のやうを、つぶさにかたれば、しゆごのいはく、

「曲事(くせごと)なり。聞(きゝ)およびし事、さては、まことなり。」

とて、人數《にんず》をそつ[やぶちゃん注:「卒・率」。]して彼(かれ)[やぶちゃん注:かの場所。]に發向(はつかう)し、人を、みな、うちころして、はたすなり。

 右、霊雲(りやううん)の雜談(ざうたん)なり。

[やぶちゃん注:「霊雲」作者の知り合いの僧らしい。が、これは、中唐代伝奇の「河東記」の「板橋三娘子」辺りを元にした、「曲がない」バレバレの焼き直しである。私の電子化注では、古いところでは、「柴田宵曲 續妖異博物館 馬にされる話」で、「江戸怪談集」上を底本に本篇を不全な正字化で電子化してある。しかし、この話と類似した奇怪譚は既に「今昔物語集」に見出されるのである。私の『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 二~(5) / 卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四 / 二~了』、及び、『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」 三 / 「卷第三十一 通四國邊地僧行不知所被打成馬語第十四」の「出典考」の続き』である。なお、この人を獣にすることの最後の本邦の幻想文学での奇体な輝きは、泉鏡花の「高野聖」にとどめを刺すと言うべきであろう。

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