佐々木喜善「聽耳草紙」 一七五番 尻かき歌
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]
一七五番 尻かき歌
或所に馬鹿娘があつた。父親がある日隣家へ遊びに行くと、隣家の娘は繪を畫いて居た。感心して家へ歸つて其話をして聽かせ、本當に隣家の娘のやうな利巧な子供を持つたならなんぼ良(エ)えんだか、なんだ俺家の娘と來たらろくな勘定も知らないとこぼすと、馬鹿娘がいきなり立上《たちあが》つて父親の前で、グエアラと着物の裾をまくつて、片手で尻をガリガリとかいた。親父が怒つて叱ると、娘は左のやうな歌を詠んだ。
かくべきための
十(とを)の指
けつをかいたて
咎(とが)ぢやあるまい
(江剌郡人首《ひとかべ》邊にある話。昭和五年七月七日佐々木伊藏氏談話の七。)
[やぶちゃん注:「江剌郡人首」現在の岩手県奥州市江刺米里(よねさと:グーグル・マップ・データ)の旧地名。ネットの「ことばバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」の一部記載によれば、『角掛(つのかけ)・菅生(すごう)・栗生沢(くりゆうざわ)三ヵ村の東に位置し、北上高地中央の山地・丘陵に立地。南部に阿茶山』(あちゃやま)『(五三三・三メートル)・烏堂(からすどう)山(五五二・七メートル)、東部に大森(おおもり)山(八二〇メートル)・物見(ものみ)山が』聳え、『これら山麓の沢水が中央部で人首川』(ひとかべがわ)『に合流し』、『西流』し、『流域に盆地状の狭い平地が開けている。村名について』は、『坂上田村麻呂に討伐された人首丸』(ひとかべまる:た蝦夷(えみし)の族長阿弖流為(アテルイ)の弟大武丸(おおたけまる:別に他の蝦夷の族長悪路王の弟とも伝えるが、「あくろわう」は「あてるい」に当てたものともされる)の子)『の潜居地であったことに由来するとの伝承がある。大谷地(おおやち)遺跡は縄文時代早期のもので、貝殻刺突文・縄文・無文土器とともに絡条体圧痕文的な土器遺物がみられる』(以下略)とあった。「ひなたGPS」の戦前の地図の方のここで、「米里村」と、そこを貫流する「人首川」が確認出来る。]
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