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2023/07/10

梅崎春生「つむじ風」(その6) 「春の風」

[やぶちゃん注:本篇の初出・底本・凡例その他は初回を見られたい。]

 

     春 の 風

 

 浅利圭介は戦争の夢を見ていた。

 戦争といっても、現代のそれでなく、夢の中で圭介はヨロイカブトに身を固め、弓矢を持っていた。

 なんでも敵にはものすごく強い女性がいるらしい。彼方にその姿が見える。肥って堂々としたその女性は、やはりヨロイに身を固め、大声をあげて攻め寄せてくるのだ。

(ああ、あれが勇女板額(ばんがく)だな)

 夢の中で圭介は考えた。

(するとこの俺が、浅利義遠与一というわけだな。しかし、いつの間に、おれは御先祖様になったんだろう?)

 圭介は弓をつがえて、板額をにらみつけた。見事に討ち取ろうというつもりなのである。

 すると板額が彼をにらみ返して大声で、呼ばわった。

「こら。そこにいるのは、おっさんだな!」

「あっ。おばはん」

 圭介はたちまちにして戦意を喪失、弓矢を投げ捨てて、一目散に逃げ出した。板額と思ったら、攻め寄せてくるのは、ヨロイに身を固めた妻のランコだったのだ。

「おばはん。許して呉れえ」

 せっぱつまって、そこにあった古池の中に、圭介はどぼんと飛び込んだ。泳ごうとしたが、ヨロイカブト姿だから、そう行かない。ぐんぐんぐんぐんと沈んで行く。呼吸が苦しく、懸命にもがくのだが、浮き上らない。

 沈みに沈んだ揚句、枯葉や泥の堆積(たいせき)した水底に、圭介はどっしりとあぐらをかいていた。ふしぎなことには、もう呼吸は苦しくなかった。

「ああ、たすかった」

 圭介はカブトを脱ぎながら、あたりを見廻した。藻のようなものがゆらゆら動き、魚が何匹も泳いでいる。その魚の一匹が、急に方向を変えて、圭介の正面に泳いできた。

 魚は真正面に圭介と向き合った。

 それはもう魚の顔でなかった。

「あ、君の名は――」

 圭介はそう叫ぼうとした。が、咽喉(のど)をしめつけられて、声が出なかった。魚のヒレが手になって、圭介の首をしめて来たのだ。

 苦しげにうなりながら、圭介の意識は薄紙を剝(は)がすように、すこしずつ目覚めて行った。

 誰かが肩をゆすぶっている。

 圭介はフッと眼をひらいた。

 肩をゆすぶっているのは、陣内陣太郎であった。

「ひどくうなされていたようですな」

 陣太郎はゆすぶり止めた。

「何か夢でも見たんですか?」

「夢?」

 圭介は不機嫌そうに眼をぱちぱちさせた。夢の中の魚の顔は、この陣太郎の顔であったのだ。

「うん。夢を見ていた」

 夢の中で首をしめられたからといって、現実の陣太郎に文句を言うわけにもゆかない。

「どんな夢です?」

「御先祖様の夢だ」

 お前から首をしめられた夢だ、とは言えないので、圭介はぶすっと答えた。

「僕が御先祖様になって、勇ましく戦っていた夢だよ」

「御先祖と言いますと?」

「浅利義遠与一だよ。歴史で習っただろう。板額を手取りにした勇将だ」

[やぶちゃん注:「板額」(はんがく 生没年未詳)巴御前と並び称される鎌倉時代の女傑。越後の豪族城資国(じょうのすけくに)の娘。生来、力が強く、弓術に優れた。兄の城長茂(ながもち)の反乱に呼応して、正治三(一二〇一)年、甥の城資盛とともに挙兵、鎌倉幕府軍と戦った。百発百中の射芸で奮戦したが、応戦した甲斐源氏の浅利与一に捕えられ、後に彼の妻となった。「坂額」とも書くが、ここで振られる「ばんがく」の読みは一般的ではないし、どうも、本来は「飯角」であったようであるから、「ばん」と読むのは誤りと私は思う。私の古い電子化注であるが、「★③★北條九代記 巻第三【第3巻】 改元 付 城四郎長茂狼藉 付 城資盛滅亡 竝 坂額女房武勇」、及び、「北條九代記 坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」の本文及び注(特に後者!)を読まれたい。私は巴とともに、板額姐さんが大好きなのである!

「浅利義遠与一」(久安五(一一四九)年~承久三(一二二一)年)は甲斐の武田信義の弟。逸見流弓術の創始者逸見清光の子。「壇ノ浦の戦い」で、平家方の武将仁井親清(にいちかきよ)を遠矢で射て、その胸を貫いて、武名を挙げた。以上の経緯で板額御前を捕縛し、鎌倉へ連行したが、後、将軍源頼家の許しを得て彼女を妻とした。「義遠」は名の一つ。他に義成・遠忠とも称した。]

 

「浅利、与一?」

 陣内陣太郎は遠いところを見る眼付きになった。

「それ、幕臣ですか?」

「幕臣じゃないよ」

 浅利圭介はうんざりした声を出した。

「徳川幕府が出来るずっと前のことだ。君は何にも知らないな」

「幕臣のことなら、割に知っているんだけれども」

 陣太郎は頭をごしごしとかいた。

「その浅利与一に、夢の中で、僕はなっていた。ヨロイカブトに身をかため、むらがる敵の中を、阿修羅(あしゅら)の如く荒れ廻っていたんだ。面白かったところを、君に起されて、残念だった」

「そんなに面白い夢でしたかしら」

 陣太郎はにやりと笑った。

「たしかに、許して呉れえ、と言う寝言が聞えたようでしたが」

「寝言? 僕は寝言を言ったか?」

 圭介はやや狼狽した。ヨロイ姿のランコから追っかけられた時の悲鳴が、おのずと口から洩(も)れ出たのだろう。

「そ、それは僕の言葉じゃない。敵の悲鳴を、僕が代行してやったんだろう。そんなこと、よくあることだ。で、君は先祖になった夢は見ないかね?」

「さてね」

 陣太郎は首をかしげた。

「この間、曽祖父さんになった夢を見ましたよ。あの夢は、つらかったな。おれ、思わずうなっちゃったよ」

「君の曽祖父さん、商売は何だったね?」

「将軍でしたよ」

「ショーグン?」

「そうです」

 陣太郎はけろりとした顔で言った。

「十五代将軍です。おれ、夢の中で、慶喜(よしのぶ)将軍になっていてね、江戸城をよこせよこせと迫られて、ほんとにつらくて、イヤになっちゃった。その時、おれ、許して呉れえ、と寝言を言ったかも知れない」

 圭介は複雑な表情をつくって、陣太郎の顔を見た。

「でも、夢というものは、ふしぎなものですな」

「君、今朝は何時に起きた?」

 圭介は傷ましげな声で訊(たず)ねた。

「今朝の気分はどうだね。頭かどこか、痛むところはないかね?」

「どこも痛くない。サッパリしていい気分です」

 陣太郎は自分の頭を撫で、それから腹のあたりを撫で廻した。

「おれはおなかが空いた。六時に起きて、ずっと書きものをしてたもんだから」

 圭介は机を見た。客用蒲団を二つ折りにたたみ、そこに机が据えである。机の上には、一束の用箋が置かれてある。昨夜圭介が間代をつつむのに使用した『陣内陣太郎用箋』という原稿用紙らしい。

「おれ、小さい時から、六時になると、パッと起きちゃうんですよ」

 廊下に長男の圭一の足音が近づいてきた。

「今朝、御飯を食べるかって?」

「うん。食べよう」

 圭介はちょっと考えて、そう返事をした。近ごろでは、間代のみならず、一食たべる度に五十円ずつ取られるのである。ふたたび圭一の声で、

「お客さんもどうぞ、だって」

 

 茶の間には、朝飯の準備がととのっていた。圭一だけはもう済ませたらしくランドセルを背負い、草履(ぞうり)袋をぶら下げて、立ったままあいさつをした。

「行って参ります」

「うん」

 圭介は父親らしい威厳を見せて、うなずいた。

「しっかり勉強するんだよ。昨夜のような悪い歌なんか、覚えてくるんじゃないぞ」

「しっかり勉強して、えらい人になるんですよ」

 傍からランコが口をそえた。そのえらい人という言葉を聞いて、圭介は情なさそうに肩をすくめた。同時に圭一も、子供ながらに、うんざりした顔になった。ランコが叱った。

「またそんな顔をする。それじゃあとても、えらい人になれませんよ」

「行って参ります」

 圭一が出て行ったあと、三人は食卓をかこんで坐った。火鉢にはしゅんしゅんと、鍋が湯気をふいていた。

「こちらが陣内陣太郎君」

 圭介は紹介した。

「こちらが、この家の、おばはん」

「浅利ランコでございます」

 分厚な膝をきちんとそろえて、ランコはあいさつをした。そして火鉢の鍋から、シジミの味噌汁を、それぞれの椀(わん)につぎ分けた。

 圭介はシジミ汁は大好物だから、またたく間に一椀食べ終って、手ずからおかわりをしたが、陣太郎君はツクダ煮とかオシンコばかりをつついて、飯をかきこんでいる。それを見て、ランコは心配そうな声を出した。

「シジミ汁はおきらいですか」

「いや」

 陣太郎は箸の動きを止めた。

「これは、おれには、熱過ぎるのです」

「熱過ぎる」

 圭介が手を伸ばして、陣太郎の椀の外側にさわった。

「もうさめているよ」

「これでもまだ熱いのです」

「ずいぶん猫舌なんだなあ、君は」

「熱いものは一切ニガテですよ。ニガテというより、不慣れなんでしょうな。小さい時から、冷えたものばかり食わされて」

 そして陣太郎はランコに言った。

「丼かなにか、貸して呉れませんか」

 運ばれてきた丼に、シジミ汁をあけ、またそれを椀に戻す作業を、陣太郎は二、三度くり返した。すっかりぬるくなった汁に口をつけ、旨そうにすすった。

 すすったのは汁だけで、シジミの貝肉には箸をつけなかった。圭介がまた口を出した。

「シジミを食べないのかい。これは肝臓にいいんだよ。なにしろ蛋白質(たんぱくしつ)のかたまりみたいなものだからね」

「おれは肝臓は強いのです」

 陣太郎は箸を置いた。

「ごちそうになりました。もうおなかがいっぱいです」

 注(つ)がれた番茶も、熱いと見えて、陣太郎はしばらく手をつけなかった。

「さて」

 つまようじを使いながら、圭介は舌を鳴らした。

「君は僕の部屋に行って呉れ」

 陣太郎が部屋から出て行くと、圭介はポケットから十円玉を五枚つまみ出し、それをそっと食卓の端にならべた。

 

 十円玉を五枚並べ終ると、浅利圭介はランコの顔色をうかがった。

「お客の分も、僕が払うのかね?」

「お客さんの分はよござんす」

 ランコは手早く卓上をかたづけながら答えた。

「あれはどういう人?」

「どういう人って――」

 圭介は返答に窮した。どういう人物なのか、彼にもよく判らないのである。

「肝臓が強いとか言ってたけれど、心臓も相当に強いんじゃないの?」

 ランコはつけつけと言った。

「一体どこで知り合ったの?」

「うん。あれで相当高貴の家柄の出らしい」

 どこで知り合ったか、言いたくなかったので、圭介はそんな風にごまかした。

「猫舌なんかも、そのせいなんだよ。ああいう身分の人は、ちゃんと毒見役がいてさ、毒見が済まなきゃ、食事が出来ない。たき立てのメシなどを食べるわけには行かないのだ」

「高貴の家柄?」

「うん。昨夜なんか、蒲団のしき方も不器用だった。自分で蒲団をしくことも、あまりないらしい。あんまりえらい家柄に生れつくのも、考えもんだね。不便なもんだよ」

「えらくない家柄よりも、えらい家柄の方が、よござんす」

 ランコはきめつけた。圭介の言い方が、えらいということにケチをつけた感じだったので、反撥したらしい。

「あのお客さん、いつまで滞在するの」

「うん。あれは大切なお客だから――」

 圭介は腰を浮かした。ランコからいろいろ突っ込まれると、困るのだ。

「とにかく、僕は今日、外出するが、陣内君はここに置いて行く。どこにも行かないように、おばはんは見張ってて呉れ」

「見張る?」

 ランコは片づけの手を休めて、眉の根をふくらませた。

「そんなことを命令する資格が、おっさんにはあるんですか!」

「いや。命令じゃないんだよ」

 腰を浮かしたまま、圭介は両掌を突き出すようにした。

「命令じゃなくて、依頼なんだよ。依頼でもいけないと言えば、それも取消す」

 そう弁解しながら、圭介は中腰のまま後退、廊下に飛び出した。

「ごちそうさまでした」

 ランコも何か言おうとしたが、そのまま圭介の姿が障子のかげに消えたので、言うのを中止して舌打ちをした。

 圭介は廊下を横歩きに歩いて、納戸(なんど)に戻ってきた。陣太郎は机の前に坐って、鼻毛を抜いていた。

「僕は今から出かける」

 圭介は不機嫌な声で言った。

「あの三・一三一〇七の番号車が、誰の所有であるか、調べて来る」

「おれもおともしましょう」

「君はここに残っておれ」

 圭介は高飛車(たかびしゃ)に言った。

「あのおばはんがやって来て、いろいろ訊ねるかも知れないが、余計なことをしゃべっちゃいけないよ。自動車なんかのこともだ。判ったね」

「判りました」

 陣太郎も仏頂面になって、抜いた鼻毛を机に植えつけた。

 

「僕が戻って来るまで待っているんだよ。どこにも行くんじゃないよ」

 障子に手をかけたまま、浅利圭介はも一度念を押した。

「退屈なら、書棚の本でも読んでいなさい。昼飯はおばはんに頼んである」

「おれは、退屈しないです」

 陣内陣太郎はそっけなく答えた。納戸に押しこめ奉られたのを少々無念に感じたらしい。圭介は言った。

「では、行って参ります」

 空はうらうらと晴れわたり、あたたかい春の風が吹いていた。

(はて。ナンバーから自動車持主をしらべるのは、やはり警視庁かな。では、警視庁に行って見ることにしよう)

 凸凹(でこぼこ)道を歩き悩みながら、圭介は今日の方針を立てた。天気はいいし、風はあたたかいし、何もかもすらすらと行くような予感があって、圭介は何となくにやにやと頰の筋肉をゆるめた。

 やがて昨夜の生籬(いけがき)が近づいてきた。その地点に立ち止ると、圭介はやや緊張して、そこらのやわらかい地面に視線をはしらせた。昨夜箸(はし)で書きつけた三・一三一〇七という数字は、すっかり消え去っていた。そこらは一面、彼自身の靴の裏で踏みつけられていた。

(どんな具合にして、あいつは自動車と衝突したんだろうな。いやはね飛ばされたんだろうな?)

 圭介はそこに佇(たたず)んだまま、明るい光の中で腕を組んだ。

(頭を打ちつけたとすれば、この生籬か、それとも地面にか。それとも、あいつの言う通り、打ちつけなかったのか?)

 昨夜からの陣内陣太郎の言動を圭介は反芻(はんすう)するともなく反芻してみた。陣太郎の時折の突拍子(とっぴょうし)もない言動を、後頭部を打ったためだとばかり解釈していたのだが、今ここで実地検証をして見ると、生籬はマサキだし、内でそれを支えているのは古竹だし、道路もアスファルトは中央部だけで、生籬の下は軟土[やぶちゃん注:「なんど」。]だし、ネジが狂うほど頭をぶちつける物件は、そこらに見当らないのである。

 それに陣太郎はリュックサックを背負っていたし、そのリュックサックの中は、用箋とか着換えとか、そんなやわらかいもので詰っていたようだから、あおむけにはね飛ばされても、それほどの衝撃は受けなかっただろう。

「はて。では、あいつは、ほんとに徳川慶喜の曽孫か」

 圭介は思わず口に出してつぶやいた。

 そうつぶやいてみると、なるほど、あの魚のような異相は、そこらにざらにころがっている顔ではないし、悠々と物怖(ものお)じしないところも、タダモノでない感じがする。猫舌であるという点で高貴の出だと、先ほどランコに説明したが、あるいはそれがほんとだったのかも知れない。

(いやいや、下賤の人間にも猫舌はいる)

(とはいえ、はね飛ばされたのが高貴人であるとすれば、はね飛ばした方は、ちょっと都合が悪かろう)

(はね飛ばした方が、ちょっと都合が悪ければ、その分だけこちらは都合がよくなりはしないか)

 そこまで考えて、圭介は腕組みをといた。

 その圭介の後姿に、十米ほどはなれたソバ屋ののれんの下から、ソバ屋のおやじが不審(ふしん)そうに声をかけた。

「浅利さん。一体そこで何をしてんだね?」

 

 午前中、陣内陣太郎は、浅利圭介に言った通り、退屈している様子はなかった。

 窓から晴れた空を眺めたり、ごろりと畳に寝ころがって何か考えたり、机の前に坐って用箋に何か書きつけたり、そんなことをしているうちに、お昼になった。

 浅利ランコも午前中、掃除をしたりミシンをかけたりしていたが、息子の圭一が、

「ただいま!」

 と元気よく戻ってきたので、あわてて台所に入り、昼食の用意にとりかかった。

 その母親のあとを追って、圭一も台所に入り込み、

「おなかがすいた。おなかがすいた」

 とわめき立てたので、ついにランコはたまりかねて一喝した。

「なんですか? 男の子が、おなかがすいたぐらいで、そんなに騒ぎ立てて。そんな風(ふう)では、とてもえらい人にはなれません!」

 それを言われると、たちまち圭一はげっそりして、わめき声をおさめた。親爺がえらくなれなかった埋め合わせとして、早くえらくなれ、えらくなれと要求されるのだから、それは小学生の力には余ることだろう。

 しゅんとなった圭一を、ランコは台所から追い立てた。

「ここは男の子が入るところじゃありません。納戸(なんど)に行って、あのお客さんが何をしているか、様子を見て来なさい」

 圭一はしょぼしょぼと台所を退出、廊下に出て元気を取り戻し、スキップ飛びで納戸にやって来た。障子をがらりとあけた。

「小父さん。何をしてるの?」

 机の前に端坐していた陣太郎は、のっそりと振り返った。圭一は遠慮することなく、その肩に飛びついた。

「何を書いてるの。小父さん」

「何を書いてるかって――」

 陣太郎はペンを置いた。

「字だよ。綴り方を書いているんだよ」

「大人でも綴り方を書くの?」

「書くとも。子供も書くが、大人も書く」

 そして陣太郎は机を部屋のすみに押しやった。

「君は何て名前だね?」

「浅利、圭一だい」

「それでは訊ねるが――」

 陣太郎は先生のような声を出した。声だけでなく態度も、いかにも先生そっくりになった。

「お父さんと、お母さんと、圭一はどちらが好きだね?」

「うん。それは――」

 圭一は困った顔になった。

「お母さんも好きだけど、しょっちゅう、えらくなれ、えらくなれって、言うからイヤさ」

「お父さんは?」

「お父さんも好きだけど、なんだかハッキリしないんだよ」

 小学生のくせに、圭一はませた口をきいた。

「僕、自転車が状しいんだよ。もうせんから、買って呉れって、お母さんに頼んであるんだけれど、ダメなんだよ。なぜダメかというと、お父さんに働きがないからだって」

「お父さんの働きのないのは、昔からか?」

 陣太郎は圭一の眼をのぞき込みながら訊ねた。

「お父さんとお母さんの喧嘩、見たことあるか。圭一」

 昼食の支度が出来るまで、陣太郎のひそやかな訊問は、執拗につづいた。

 

 圭一が納戸からスキップで戻ってきた時、ランコはせっせと茶の間のチャブ台を、布巾で拭いていた。圭一は甘ったれた声を出した。

「僕、ライオンみたいに、おなかがすいてんだよ。早く食べさせないと食いつくよ」

「もう出来てますよ」

 そしてランコは声を低くした。

「お客さん、何をしてた?」

「綴り方を書いていたよ」

「綴り方?」

 ランコは失笑した。

「お手紙か何かでしょ」

「お手紙じゃないってば。綴り方だよ。僕が行ったら止めちゃったけどさ」

「止めてから、何をしたの?」

「僕と世間話をしたよ。早く何か食べさせて」

「世間話だなんて、ナマイキを言うんじゃありませんよ」

 ランコは布巾をたたんで、台所に行き、大皿を三つ持って戻ってきた。

「どんな話をしたの?」

「いろいろさ。おや、中華ソバだね。僕はつめたいのより、あたたかい方がいいな」

「いろいろって、じゃあお前、またつまらんことを、おしゃべりしたんじゃないだろうね」

「つ、ま、ら、ん、こ、と――」

 圭一は困って、とぎれとぎれに復唱した。

「だって、いろいろ聞くんだもの。答えないわけには行かないや。まるで、学校の先生みたいだね。あの、松平の小父さん」

「松平の小父さん?」

 ランコはすこし驚いて反間した。

「松平じゃないでしょ。あのお客さんは、陣内という名なのよ。陣内陣太郎」

「松平というんだよ」

 圭一は真面目な顔になって答えた。

「だって、あの小父さんが、そう言ったん。だもの。おれは、松平陣太郎だって」

「へんねえ」

 ランコは首をかしげなから、大皿を台上に配置し、コショウや醬油や酢(す)の用意をととのえた。

「とにかく、お客さんを、呼んでおいで。お昼の用意が出来ましたって」

「用意が出来ましたか」

 障子越しの廊下から、即座に声が戻ってきた。そして障子がひらかれて、陣太郎がのそのそと入ってきた。ランコはびっくりして、思わず厚い片膝を立てた。

 陣太郎はそれにかまわず、部屋のすみに積まれた座蒲団を一枚つかみ、チャブ台の前にふわりと置いた。おもむろにその上にあぐらをかきながら、平然たる口調で、

「陣内というのは、これはペンネームなんですよ。ああ、おなかがすいた。どうして近頃、こんなにおなかがすくんだろう。これ、旨(うま)そうだなあ」

 機先を制せられた恰好で、ランコは狼狽していた。ぬすみ聞きに対する怒りよりも、ぬすみ聞かれたことのばつの悪さが、彼女をどぎまぎさせていた。そのどぎまぎをごまかすために、ランコは立て膝を元に戻し、わざと重々しげに言った。

「冷し中華ソバですよ。あなたが猫舌だから、特別にこしらえたのです」

「それはありがとう。おば……」

 さすがの陣太郎もちょっと言い淀(よど)んで、ランコの顔をうかがい見た。ランコはすかさず口を入れた。

「さんです。おばさん!」

 

「いや、それほど困らなかったですよ」

 冷しソバをつるつるすすりながら、陣太郎は答えた。

「でも、軍隊というところは、熱いものでも何でも、大急ぎで食べなくちゃいけないんでしょ」

 ランコは箸を止め、酢の方に手を伸ばした。

「うちの圭介ね、あのおっさんも、陸軍に引っぱられて、初めの中は、とにかく早く食わねばならないのが苦しかったと、復員してきて話してましたよ」

「ああ、初年兵の時ね」

 陣太郎も真似して、酢に手を伸ばした。ざぶざぶとソバにふりかけた。

「おれ、初年兵の経験はないんです。いきなり江田島の海兵に入ったもんだから」

「海兵?」

 ランコもかつては、軍国の妻的境遇と心境にあったこともあるのだから、びくりと反応を示した。今でこそカブが落ちたが、なにしろあの頃の海兵という名は、大したものであった。

「海兵では、そんなガツガツした教育は、やらなかったですな。ゆっくりと食べてよかった。その頃も、おれ、熱いのはニガテだったけれど、逃げ出したのはそのためじゃない」

「お逃げになったんですの?」

 ランコはやや気色ばんだ。士官教育という有利な身分を放棄したことのもったいなさ、と同時に、結局上等兵どまりで、終戦二年後までモタモタと引っぱられていた圭介の要領の悪さが、パッと彼女の胸によみがえって来たのだ。

「逃げましたよ。何となくあの世界が憂鬱になってね」

「江田島って、島でしょう。そんなにカンタンに逃げられますの」

「いや、それはカンタンです。しょっちゅう船が通っているから」

 陣太郎はあわれみの眼で、ランコを見た。

 「それで、おれ、東京に舞い戻ってきたんですよ。兵学校生徒の服装のまま、東京をうろついていたら、三目目に陸軍の憲兵にとっつかまった。その頃、あんな服装のは、東京にはいなかったんですな。東京には、海軍経理学校があったが、経理生徒の帽子は白線が入っているし、おれたちのとはそこが違う。ついにつかまって、海軍側に引き渡されちゃった」

 ランコはソバをすするのを忘れて、耳を傾けていた。

「そこで、おれ、横浜の大津刑務所に入れられたんです」

「軍法会議か何かで――」

「いや、まだ未決囚としてです」

 陣太郎は思い出したように、ソバをすすり上げた。

「未決のまま、のびのびになって、とうとう軍法会議にかからずじまいでしたよ。家(うち)の方から、何か圧力をかけたらしいんですな」

「ごちそうさま」

 ソバをすっかり食べ終えて、圭一が口を袖でぬぐった。

「軍法会議にかかると、大変ですからねえ。服役して、それが済んでも、シャバには帰れない。懲治(ちょうじ)部隊というのに入れられる。懲治部隊というのは、囚人上りばかりの部隊です。もしそこまで行けば、おれの運命も変ったかも知れたいが、幸いに未決のまま終戦となりました」

[やぶちゃん注:「横浜の大津刑務所」旧横須賀海軍刑務所(当初の創設されたものは「海軍監獄」と呼ばれたものであった)で、現在の三浦郡浦賀町大津の大津陣屋跡地(この附近であろう)にあった(グーグル・マップ・データ)。

「懲治部隊」陸軍教化隊の旧称。大正一二(一九二三)年以前は陸軍懲治隊と呼ばれた。ウィキの「陸軍教化隊」によれば、『日本軍の部隊の一つで、犯罪傾向の強い兵士や脱走兵などを集めた特別の部隊で』、『問題とされた兵士を』、『一般部隊から隔離して軍紀を維持し、特別教育と懲罰を加えて更生を図ること』を『目的』として特殊部隊であった。『当初は陸軍兵士のみが対象であったが』、明治四一(一九〇八)年、同年の『軍令第』一『号により、海軍兵士も編入されるようになった』とある。沿革や内部実態はリンク先を見られたい。]

 

「つまり、おれ、あんな生活には、性(しょう)が合わなかったんですな」

 冷し中華ソバの最後の一筋をすすり終えると、陣太郎はコップの水をごくりと飲んだ。猫舌だということを承知しているから、ランコもお茶を出さないでいる。

「なにしろ、皆が同じでしょう。朝起きるのも同じ、寝る時刻も同じ、毎日の課業も同じ。皆が皆、予定表通りというやつでね、くさくさして、呼吸がつまりそうで、それでふらふらと逃げ出しちゃった。反抗とか反戦とかいうものじゃなくて、もっと実存的な気分でしたな」

「うちの圭介もそうなんですよ。ちっとも実用的じゃない」

 ランコは共感の意を示した。

「いっそ、あなたみたいに、逃げ出しゃいいのに、その甲斐性もなくて、五年間も引っぱられた挙句(あげく)、上等兵なんですよ。あたしゃ情なくて、情なくって」

「軍隊じゃ出世しなくってもいいですよ」

 陣太郎はなぐさめた。

「いや、復員後も、てんでダメなんですよ。することなすこと、イスカのはしのくいちがいで」

 どこで覚えたか、ランコは古風な言葉を使用した。

「働き出したかと思うと、たちまち失業で、そうですねえ、終戦以来二十ぺんも失業しましたかしら」

「つまり、働きがないというわけですな」

 陣太郎はけろりとして、相槌を打った。ランコは眼をぱちぱちさせ、それからじろりと圭一の方を見た。形勢悪しと見た圭一は、立ち上って、陣太郎の背後から肩をしきりにゆすぶった。

「小父さん。映画に行こうよ。さっき連れてって呉れると言ったじゃないか」

「連れてってやるよ。も少しあとでな」

「圭一。お前は外で遊びなさい!」

 ランコが眼を三角にして叱りつけた。圭一のおしゃべりだと言うことを、見抜いたらしい。

 圭一は陣太郎から離れ、スキップで外に出ていった。それを見定めて、ランコは陣太郎に向き直った。

「さっき、圭一が、あなたのことを松平だと、松平陣太郎だと――」

「陣内はペンネームです。おれ、この頃、小説を書こうと思い立ってね」

「小説をねえ」

 ランコは感心したような、また呆れたような声を出した。

「もっとも近頃、わりと上流階級の若い人が小説を書いて、よく売れているようでございますね」

 陣太郎はちょっと不快そうな顔になった。立ち上ると、のそのそと縁側の方に出て行った。

 ランコが三つの大皿を台所に運び、すっかり洗って茶の間に戻ってくると、陣太郎は縁側にうずくまって、じっと庭の方を眺めていた。庭にはやわらかい風が吹いていた。

「おれ、そういう生活も、イヤになったんですよ」

 ランコの気配を背中に感じて、陣太郎は低い声で言った。

「でも、あんな世界というやつは妙なところがありましてねえ。いやがるおれをつかまえて、むりやりに相続させようと言うんですよ。おれ、一体、どうしたらいいのか」

 

 茶の間と縁側の敷居の上に、厚い膝をそろえて坐りながら、ランコは訊ねた。

「あなたはうちの圭介と、どういうことでお知り合いになったんですの?」

 ランコは疑問の中心をついた。

 陣太郎は黙っていた。黙って空を眺めていた。余計なおしゃべりをするなと、今朝圭介から一本釘をさされているので、河も言わないのだろう。

 空には一筋の飛行機雲が、それも今出来立てと見えて、一端がななめにずんずん伸びつつある。

「なにかうちの圭介と――」

「浅利さんと、今度、共同で、事業をやろうか、と言うことになってるんですよ」

 低い声で陣太郎はしぶしぶと答えた。

「事業? どんな事業ですの?」

 ふたたび陣太郎は沈黙した。掌をかざしで、飛行機雲に気をとられているような仕草をした。

「その事業というのは、見込みあるんでしょうか」

 少し経って、ランコはまた目を開いた。

「うまく行けば、うまく行くでしょう」

 陣太郎はあおむいたまま、あたりまえのような、とんちんかんのような答え方をした。

 また時間が流れた。

「一体、うちの圭介――」

 ランコは思い詰めた、沈痛な声を出した。

「あのおっさんには、見込みがあるんでしょうか?」

「え?」

 意外な質問だったらしく、陣太郎は空から眼を離して、ランコの方に向き直った。それはそうだろう。自分の亭主に見込みがあるかどうか、その糟糠(そうこう)の妻があかの他人に聞くなんて、これはちょっとめずらしい。

「そ、それは、おばはんの方が、いや、おばさんの方が、よく御存じでしょう。おれは、昨晩」

 そこで陣太郎は目をつぐんだ。圭介の釘さしを思い出したのだろう。

「それが一向に判らないんで才よ」

 ランコは肩を落した。

「一所懸命あたしが尻をひっぱたくんですけどね、一向にききめがないんですのよ。失業してごろごろしてるから、部屋代を払えと言ったら、奮起するかと思うと、奮起しないんですよ。おめおめと間代を払うんです」

「間代はいかほどですか?」

「月三千円ですよ」

 ランコは自分の膝をぴしゃりと叩いた。

「でもね、あたしゃ亭主から部屋代を取って、それを使おうという気はないんですからね、圭介名義でちゃんと積立貯金にしてあるんですよ」

「食費の方は?」

「間代を取っても奮起しないから、食費も取ることにしたんですよ。そしたらそれもおめおめと払う。あれは一体、どういう気持なんでしょうねえ」

「さあ」

 陣太郎は困ったような声を出した。

「やはり、何か、考えがあるんでしょう。おれにはよく判らないけれど」

「小父さあん」

 庭の向うの生垣の間から、圭一が顔をのぞかせて叫んだ。

「早く映画に行こうよ。約束じゃないか」

「うん。今行くよ」

 いい機会とばかり、陣太郎は腰を持ち上げた。

 

 春風の中を陣太郎と圭一が出て行くと、ランコは茶の間にでんと腰を据(す)え、茶簞笥(ちゃだんす)から塩センベイを取り出して、ぽりぽりと嚙み始めた。そして考えた。塩センベイとか南京(なんきん)豆とかいうやつは、とかく人をして、物思いにふけらせるものである。

(どうも妙な人だけれど、ウソは言っていないらしい)

(ウソを言ってないとすれば、あの若者は相当の家柄の相続人だ)

(その相続人と、圭介がどこで知り合ったのか、またどんな事業をいとなむのか、よく判らないけれども、うまく行くだろうか。うまく行けばいいが)

 ランコは塩センベイを食べ止めて、立ち上った。廊下に出て、何となく足音を忍ばせ、納戸に入って行った。

 納戸の内をひとわたり見廻すと、つかつかと隅の書棚に歩み寄った。厚ぼったい広辞苑を引っぱり出した。

「ええ。マの部。マツダイラと」

 ランコはぺらぺらと頁をめくり、松平の項を探しあてた。低く音読した。

「まつだいら。姓氏の一。三河国賀茂郡松平から起り、家康に至って徳川家を称し、宗家の外三家、三卿に限ってこれを許し、他は松平を称すると、徳川家も松平なんだわ」

 ランコはぱたりと頁を閉じた。

 「そして、松平はお大名なんだわ。すると、あの人は大名家の相続人――」

 そしてランコは胸に手を当て、視線を宙にして、しばらく何か考えていた。手を胸から外(はず)すと、広辞苑を元の書棚に押し込んで、そろそろと立ち上った。

 納戸を出ようとしたとたんに、ランコはそこの机に、机の上に重ねられた原稿用紙に気がついた。ランコは取って返して、それに顔を近づけた。

「小説かしら」

 しかしランコはすぐに身体を起し、また音を忍ばせる歩き方で、茶の間に戻ってきた。塩センベイの罐の前にどっかと坐った。ふたたび塩センベイをぱりぱりと食べながら、ランコは圭介のことを考えていた。

(あの人も、もうそろそろ四十だし、ここらでどうにかなって貰わなくては、あたしたちが困る。事業もいいかも知れないが、あの人はどこかグズなところがあって、いつも他人にひけを取る傾きがある。へんな事業に手を出すより、陣太郎にでも取り入って、相続の暁には、家令か何かに使って貰ったらどうだろう?)

 ランコは眼を閉じて、圭介の家令姿を想像して見た。すると瞼(まぶた)の裡(うら)で、その想像はぴたりと実を結んだ。ランコはびっくりして、眼を開いた。

 圭介が応召中、ランコは圭介の車服姿を想像しようとして、どうしても目に浮んで来なかったことがあるが、家令姿となると、またたく間に浮んできたから妙である。

(家令職というのが、あの人にはうってつけの仕事なのかも知れない)

 また塩センベイに手を伸ばしながら、ランコは考えた。

(あの人を家令にするためには、あの若者を早く相続させねばならない。ところがあの若者は、相続をいやがって、小説なんかを書きたがっているらしい。もったいない話だ。どうしてもあの若者に、小説を止めさせなければ、ことは始まらないんだわ)

 

 夕方になって、陣太郎と圭一は戻ってきた。圭一は手に大きなゴム風船を持っている。ランコは陣太郎にお礼を言った。

「まあまあ、ありがとうございました。映画だけじゃなく、風船まで買っていただいて」

「いや、圭一君が、映画があまり面白くなかったと言うんでね」

 陣太郎は無表情のまま言った。

「それで風船を買わせられましたよ」

 圭一の手の風船は、春風にのんびりと、ゆらゆらと揺れている。

 陣太郎が納戸に引込んでしまうと、ランコは圭一にうがいをさせ、つづいて手を洗わせながら訊ねた。

「どんな映画だったの。漫画?」

 圭一は首を振った。

「それじゃ、外国映画?」

「そうじゃないんだよ」

 タオルで手を拭きながら、圭一は答えた。

「何だかね、チンドン屋がたくさん出てくるんだよ」

「チンドン屋?」

「うん。チンドン屋の小父さんたちが、喧嘩ばかりしているんだ。退屈しちゃったよ」

「それはチンドン屋じゃありません。お侍さんです」

 ランコは教えてやった。圭一が今まで観た映画は、漫画映画か教育映画ぐらいなもので、時代劇というのを一度も観たことがないのである。圭一が接している現実において、チョンマゲを結ったり刀をさしたりするのは、チンドン屋以外にないのだから、チャンバラ映画をチンドン屋映画と間違うのも、ムリはない。

「昔の人は、皆あんな恰好をしていたんですよ」

「ふうん」

 圭一は納得の行かぬ顔をした。昔の人は皆チョンマゲ姿で、皆そろってチンチンドンドンと、街中をねり歩いているものと思ったらしい。

 夕食時になっても、浅利圭介は戻って来なかった。圭一がぐずり出した。

「おなかがすいた。おなかがすいた!」

 ランコは午後の三時頃から、夕食の献立にあれこれと心を悩ましていた。婦人雑誌付録の『家庭料理全書』のどの頁をめくっても、若人向きとか老人向き、お子様向きや病人食、そんなのはあるけれども、猫舌向きというのはないのである。

 そこで余儀なく、サシミにハムサラダにホーレン草のおひたしという、月並なところに落ちついた。

 実は家令のことを打診して見ようと思い、そのためにビールでも一本出そうかと思ったのだが、あまりにもそれは見えすいているようで、やめにした。

 陣太郎は相変らずたくさん食べた。

 ランコは飯をよそってやりながら訊ねた。

「今日のは、どんな映画でございましたの。マタタビ映画?」

「いや」

 陣太郎は悠然と四杯目を受取りながら答えた。

「マタタビ映画、あんな下品なものは見ないです」

「でも、圭一の報告では、時代劇――」

「そうです。題は、風雲のなんとかといって、つまり、ちょいとしたお家騒動の映画でしたな。でも、あんな世界は、圭一君にはよく理解出来なかったらしい」

 

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