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2023/07/31

橘南谿「東遊記」卷之五の「浮島」の条

 

[やぶちゃん注:カテゴリ『津村淙庵「譚海」』「譚海 卷之五 羽州湯殿山の麓大沼あそび島の事」で必要になったので、電子化する。

 橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)は江戸後期の医師であったが、文をよくし、紀行「東遊記」「西遊記」(併せて「東西遊記」と称される)と、優れた随筆「北窓瑣談」で知られる。当該ウィキによれば、彼は天明二(一七八二)年から天明五年にかけて、三十から三十三歳の時、三度の蝦夷を除く日本各地に、臨床医としての見聞を広めるための旅に出ていたが(実際に各地で治療もしている)、後の四十五の寛政九(一七九七)年一月に、かねてより、写本で回覧されて知られていた上記二篇の紀行文について、書肆から慫慂があり、「東遊記後篇」を刊行し、翌年六月に「西遊記続篇」を刊行している。

 私は「東洋文庫」版(宗政五十緒校注一九七四平凡社刊)を所持しているが、これ、買って後悔したのは後の祭りで、気持ちの悪い新字新仮名版である。そこで、それを加工データとして、国立国会図書館デジタルコレクションの「東遊記」(今泉忠義校註・昭和一四(一九三九)年改造社刊)の当該話を底本とした。底本の読みは、一部に留めた。逆に読みが振れそうなものは、私が推定で《 》で附した。一部で読点・記号を追加、或いは、除去(和歌の間に読点は厭なので)した。底本は全一段落であるが、「東洋文庫」版を参考に段落を成形した。挿絵は「東洋文庫」版にあるものをトリミングした。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

      浮   島

 

Ukisima

 

 出羽國山形より奧に、「大沼山(おほぬま《やま》)」といふ所あり。其山主(やまぬし)を大行院(だいぎやうゐん)といふ。修驗道(しゆげんだう)にて、俳諧の數寄(すき)人、俳名を「鷹窓(ようそう)」といふ。

 此山の緣記(えんぎ)[やぶちゃん注:「記」はママ。]を聞けば、人皇(にんかう)四十代のみかど、天武天皇の朝(てう)、白鳳年間[やぶちゃん注:私年号。通説では白雉(六五〇年〜六五四年)の別称・美称とされる。]、役行者(えんのぎやうじや)の開基にて、蒼稻魂神(あをなたまのかみ)勸請(くわんじやう)の地なり。

 此山に、「みたらしの大池」あり。「大沼」と名附く。是は、池の形(かたち)、「大」の字(じ)に略(ほゞ)似たるをもて、名附けし、とかや。

 此池に奇妙の靈異あり。世間未曾有の奇事なれども、か〻る僻遠(へきゑん)の地なる故、尋入(たづねい)る人も、稀々にて、知る者、すくなし。

 いかなる事ぞといふに、池の中に六十六の島ありて、其島、時々に、水面を遊行(ゆぎやう)す。島の數(かず)、六十六といふは、日本成就の形相(ぎやうさう)といふ。

 其昔、行基菩薩も此池に至り、實方(さねかた)中將も、此浮島を見物し給ひしとぞ。實方、遊び給ひし時、

  四つの海波靜(しづか)なるしるしにやおのれと浮きて𢌞はる島哉

と詠置(えいじおき)給ひしと、いひ傳ふ。

 池のほとりに、古松(こしやう)二株(にちゆ)あり。

 一株(いつちゆ)を「實方中將の島見松」といふ。

 實方、此松に倚りて、島を見給ひしとなり。其時、明神、感應ありて、池水を卷上(あげ)て、松の根まで、そ〻ぎし、とて、一株の松を「浪上(なみあげ)松」といふ。

 浮島、常は、池の岸に引附《ひきつき》て、渚(なぎさ)のやうに見ゆ。

 其中にて最(もつとも)大なるを「奧州島(おうしうしよ)」と名附く。其餘の島々も皆國々の名ありしかど、今は、まぎれて、何國(なにくに)といふこと、しかと、わからず。

 唯(たゞ)一所(いつしよ)、池の中へ突出でたる岸根を、「芦原島(あしはらじま)」といふ。此島ばかり、動かず、昔より、同じ所にあり。

 又、池の向う[やぶちゃん注:ママ。]の方(かた)の右の方によりて、浮みたる、色黑き木の株(かぶ)のごときもの、あり。是を「浮木(うき《ぎ》)」と名附《なづけ》て、天下の吉凶を占ふ、とぞ。浮みたる時は、天下太平の象(しやう)なり。沈みて見えざれば、必ず、變を示す、と也。

 塘雨(たうう)が遊びしは五月上旬の事なりしが、俳諧の交り、厚ければ、大行院主のもてなしを得て、一ト日、池邊(いけのほとり)に出《いで》て見るに、水面(すゐめん)、藍(あゐ)よりも靑く、水際(みづぎは)には蘆(あし)、萱(かや)、生い茂り、いとゞさへ、山深く、人跡絕(たえ)たる土地なるに、いと物凄く靜(しづか)にて、世外(せぐわい)の思(おもひ)を觀ぜり。時、夏の半(なかば)なれど、此邊(《この》へん)、深山(みやま)にて、寒氣、强ければ、藤、山吹、躑躅(つゝじ)など、折(をり)しり顏(かほ)に、咲亂(さきみだ)れて、鳥の囀(さへづる)るまで、のどやかなるに、心なぐさみて、今や、島々の浮出(いづ)るかと、目も、はなたで、詠居(ながめゐ)けれども、水面には、只(ただ)、三、四尺許(ばかり)と、七、八尺許の小島、二つのみ、有りて、さらに動く氣色(けしき)もなく、外《ほか》に、島々の、數々、有るやうにも見えず、日暮る〻まで、守り居(ゐ)けれども、それというべき事も、なし。

 早(はや)、日影も西山(せいざん)に傾(かたぶ)き、鳥(とり)は樹(き)に宿(しゆく)し、雲は高峯(かうはう)に歸れば、いと物すごくなりゆく程に、空(むな)しく大行院に歸りぬ。

 主僧、待得(まちえ)て、

「島遊(《しま》あそび)を拜み給ひしにや。」

と問ふに、

「いや。其事も無かりし。」

と、いうにぞ、主僧、

「日によりて、遊び給はぬこともあるなり。猶、逗留して、又の日こそ拜み給へ。」

といふ。

 塘雨、いと怪しみて、

「島の浮(うき)遊ぶといふは、そらごとなるべし。世に云傳(いひつた)ふること、さてもなき事をも、珍敷(めづらしき)やうに、いひなして、人を迷(まよ)はしむるは、世に多き習ひ也。此池の不思議も、其たぐひなるべし。」

と、いと、ほいなくて、其夜は臥(ふし)たり。

 其翌日、起出(おきいで)て見るに、天氣、殊に、ほがらかにて、たゞにやむべき心地(こゝち)もせざれば、朝、とくより、晝のもうけなどを懷(ふところ)にし、

「けふは、終日(ひねもす)、池に臨みて、ぜひ、其不思議をも見屆けん。」

と、例の二木(ふたき)の松の本《もと》に箕居(ききょ)して、池の面(おもて)を見渡したるに、きのふ見たりし二つの小島、見えず。

「こは。怪し。さるにても、動けばこそ。」

と、空賴母(そらたのもしく)しく、出ずるままの發句など、口ずさみ居(ゐ)ける程に、こなたの岸根、少し、動くやうに見ゆるにぞ、

「されば、こそ。」

と、目も、はなたず、詠居(ながめゐ)るに、一つの、島と、わかれて、浮かみ出でつ〻、靜(しづか)に、池の中に、はなれ行くさま、いと、目ざまし。

 又、しばし有りて、向う[やぶちゃん注:ママ。]の岸根、はなれ出《いで》て、こなたに、浮かみ來《きた》る。

 かくて、そこここより、浮かみ出《いづ》る程に、池の中に、數々(かずかず)の島、出來(いでき)て、遊行往來(ゆぎやうわうらい)す。

 其さま、物、有りて、島を負ひ𢌞るがごとし。

 目、さめ、心、動きて、悅ばしさ、いはんかたなし。

 中にも、彼《かの》「奧州島」にてもや有《ある》らん、二、三丈餘《よ》に及びて、いと大きく、其島の上には、小松、生ひ茂り、藤の花、咲(さき)か〻りて、つ〻じ、色を爭ひながら、浮《うか》み出《いで》て遊行するさま、不思議というも、あまりあり。

 面白さ、限りなくて守(まも)り居《ゐ》るに、其島、直(ぢき)に、岸に付くにもあらず、右に寄り、左に赴き、心のま〻に、遊ぶ。

 又、跡より出來《いでく》る島、先の島に行(ゆき)あたるに、よの常ならば、倶(とも)に押行(おしゆ)くべきに、左(さ)はなく、先(さき)の島、おのづから、傍(かたはら)によけて、行くべき島を通すなど、誠《まこと》に、心あるさまなり。

 終日(しうじつ)見居(みゐ)たるにも、いかなるゆゑ、といふことを、しらず。

 さて、有(ある)べきにあらねば[やぶちゃん注:(日も暮れかけて)そうもしておられぬので。]、大行院に歸るに、主僧も、浮島を見たることを、賀して、浮島の發句などを乞(こ)へり。

 其翌日は、いとまして立出《たちいづ》るに、江戶の旅人、四、五人、湯殿山登山して歸るさ、

「此浮島を見物せん。」

とて、來れるに逢ひ、きのふのことを語れば、

「是非、今一度、伴ひ申すべし。」

といふにぞ、いまだ餘興も盡(つき)ざれば、又、同道して、再び、彼《かの》池邊(ちへん)に至り見るに、きのふ見し、數々の島もなくなり、纔(わづか)に、二つばかりぞ、浮み居て、少しも、動く氣色、みえず。

 塘雨は、益(ますます)、信じて、

「やがて、遊行すべし。見給へ。」

と、いひて、待居《まちをり》けれど、さらに動くべき色もなけれぱ、旅人、大(おほき)に退屈し、

「いたずらなる所に、ひま入りては、明日の道のつもり、惡《あし》し。はや、行くべし。」[やぶちゃん注:「面白くもない、こんな嘘っぱちだらけの退屈な所で、こんなに暇(ひま)を持て余してしまっては、明日の旅程の捗(はか)も、大いに悪くなっちまう! さあ! 行くべえよ!」。]

とて、むなしく去れり。いと、殘り多きことなりき。

[やぶちゃん注:「大沼」「諸國里人談卷之一 芝祭」で私が考証した、現在、「大沼の浮島」として知られる山形県西村山郡朝日町大沼と比定する(グーグル・マップ・データ)。

「塘雨」は江戸中期の旅行家百井塘雨(ももい とうう ?~寛政六(一七九四)年)。「塘雨」は雅号で、俳号は五井。実名は定雄。紀行随筆「笈埃随筆」(きゅうあいずいひつ)でよく知られる。文人として、橘南谿と親交があり、南谿は百井の死後の「東西遊記」を板行するに際し、「笈埃随筆」を参考としている。また、かの「近世畸人伝」で知られる伴蒿蹊(ばんこうけい)や、同書の挿絵を描き、後の同続篇を書いた三熊花顚(かてん:思孝)らとも交友があった。蒿蹊は『おもしろき老人』と評し、花顚は、塘雨の死を悼んで「続近世畸人伝」にその伝記を載せている。【2023年8月15日追記】先ほど、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』を電子化注した。残念乍ら、その最後の部分を見るに、明かに確信犯で、以上のエンディングは、それインスパイアした作り物でしかないことが発覚した。実は……本文自体も、これ――そっくり――だもん……これ、ちょっと……残念だわサ!…………

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