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2023/08/31

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「巨椋池の鯉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 巨椋池の鯉【おぐらいけのこい】 〔北窻瑣談後巻二〕伏見小倉の湖は、古名を巨椋《おほくら》の入江といひて、淀川に水通ひ、大なる湖水なり。この中に一丈に余れる大鯉《こい》二頭住めり。この鯉を鳥羽殿と呼びて、この湖中の神霊《しんれい》とす。この鯉、出て遊行《いうかう》する時は、鳥羽殿出られたりとて、そのあたりには網を下《おろ》し釣をたれず。余<橘春暉《はるあきら》>も初めは虚談なるべしと思ひ居《をり》しが、後に親しく交りし、そのあたりの事を司《つかさど》る人に聞きしに、その人も見たりと語りき。この頃はたえて出ずと聞ゆ。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。当該部は八巻本の刊本のここ。「国文学研究資料館」の「国書データベース」版のそれをリンクさせた。所持する吉川弘文館『随筆大成』版と比較し、読みを添えた。但し、一部に、三者、或いは、二者に異同がある。必要と判断した部分を以下に示す。

「巨椋池」現在の京都府の南部(京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町に跨る地区)に嘗つて存在した池。近代の大干拓によって完全に消滅した。当該ウィキによれば、『規模からいえば』、『池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわし』い。『形成されたのは縄文前期頃と比較的新し』い。『豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする土木工事などにより』、『時代によって姿を変え、最終的には』昭和八(一九三三)年から昭和一六(一九四一)年にかけて『行われた干拓事業によって』六百三十四ヘクタールの『農地に姿を変えた』。『干拓前の巨椋池は周囲約』十六『キロメートル、水域面積約』八『平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった』とある。当該ウィキも詳しいが、何より、地図を比較対比するに若くはない。まず、「ひなたGPS」の戦前の地図と現在の国土地理院の左右対照がよい。なお、そこでは戦前の地図(明治四二(一九〇九)年測図で昭和七(一九三二)年要部修正測図版)の池の中央の池名(横書右から左)『巨椋池』の『巨椋』には『オクラ』と清音のルビが振られてある。但し、池左岸の縦書のそれには、水深の線と重なっていて、明確ではないが、『オグラ』と濁点が振ってあるようにも見える。そこで、「今昔マップ」の対比図を見ると、明治二四(一八九二)年から明治四三(一九一〇)年にかけて地図でも、そこでは『巨椋湖』となっているのだが、『巨椋』の箇所には『オグラ』と濁音であった。この「今昔マップ」は現代に至る地図上の変遷を見ることが可能なサイトなのだが、残念ながら、完全な大干拓の時期の年代部では地図が見られない。

「住めり」は「国書データベース」版は『住(すまへ)り』である。

「この鯉を鳥羽殿と呼びて」「国書データベース」版も吉川弘文館『随筆大成』版も、ともにこの前に(後者は新字体)、『此邊の漁者』とあり、前者では『ぎよしん』(「ぎよじん」か)というルビが振られてある。

「鳥羽殿」平安中期、白河上皇が山城国紀伊郡鳥羽(京都市伏見区下鳥羽と中島・竹田に跨る地)に造営した離宮。後、鳥羽上皇も入居した。北・南・東の三殿と田中殿・馬場殿・泉殿からなっており、壮麗を極めたが、鎌倉時代以後、次第に衰微し、当時の面影を伝えるものは、秋の山(築山)・安楽寿院・城南宮などに過ぎない。「今昔マップ」のこちらで、右の現在の地図で上記の地名が確認出来る。嘗つてあった巨椋池の北岸から三キロメートル位置に相当することが判る。

「遊行《いうかう》」の読みは「国書データベース」版のみにあるものを採用した。]

2023/08/30

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「屋上の足音」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 屋上の足音【おくじょうのあしおと】 〔続蓬窻夜話〕紀州湊の片原町<和歌山県和歌山市>を吹上へ出る道筋、御小人町《おこびとまち》辺の屋敷に昔し大川安左衛門と云ふ士あり。この屋敷昔より怪しき事ども多しと云ひ伝へて、安左衛門も略〻《ほぼ》その噂を伝へ聞きけれども、何ほどの事かあらんと思ひ、上《かみ》へ申し受けてぞ渡り住居ける。その年は安左衛門在江戸にて、屋敷には安左衛門母儀に俊慶といヘる尼公と、安左衛門の妻室と幼少の子共二人ぞ留主《るす》したりける。留主の中に色々の怪しき事ども折節に有りければ、子共《こども》を始め従者などは、殊の外に恐れ驚きけれども、この尼公俊慶はもと横須賀衆の娘にて、心剛《かう》におとなしき人なりしが、かゝる奇怪を見ても少しも驚かず。子供従者を扶《たす》け励まして月日を過されけるが、余りに性《さが》しき事ども多かりければ、尼公心には、いかさま来年《きぞ》安左衛門帰り上りなば、早々に上ヘ御断り申し上げ、この屋鋪を上げさすべしとぞ思ひ居られける。斯くて翌年の春、安左衛門帰り上りて、尼公申されけるは、この家怪しき事ありと昔しより云ひ伝へしに違《たが》はず、去年《こぞ》留主中、様々奇怪の事多かりし、子どもも恐れ、従者も嫌ふなれば、急ぎ上へ申し断りて早々屋鋪を上げらるべしと申されければ、安左衛門うけたまはり、定めて狐狸などの仕業にもや候らん、申し下し候て未だ間もなく候に、今又上げんと云ふも余りに甲斐なく候へば、今暫し見合せ申すべしとて、そのまゝ住居《すまひ》しけるが、或時珍客三四人入来して四方山《よもやま》の物語りしけるに、主《あるじ》の安左衛門、何がな馳走してと思ひければ、勝手へ出て従者を呼び、急ぎ切麦《きりむぎ》[やぶちゃん注:饂飩(うどん)。但し、現代のそれをより短く切ったものを指した。]を調(こしら)へて饗応(もてな)すべしと云付けて、その身はまた座敷に出て客に対し、暫しがほど物語りして居《をり》けるに、勝手より従者どもさゝやきて、呼び立てければ、何事やらんと行きけるに、従者ども背戸口の菜園を指さして、あれ御覧ぜよと云ひしほどに、安左衛門きつと望み見るに、芋圃(いもばたけ)の中に何やらん真白なる者すっくりと立ち居たり。心得ぬ事かな、狐狸の業ならんとよく見れば、七十ばかりの婆の莞爾と打笑みて、勝手口をながめて立ち居たり。悪《にく》し、只一打にと思ひて、大脇指ぬきくつろげ、芋圃をおしわけ行くに、この婆圃の中へ俯(うつぶ)くやう見えしにが、何地《いづち》へか行きけん、忽ち消えて見えず。安左衛門不思議に思ひ、芋圃を縦横に捜し求むれども、終に見えざりければ、あやしく思ひながら立帰り、客をもてなしてその夜は過ぎぬ。その後幼息毎夜夜啼きを仕出《しいだ》しけるが、小児の夜啼きは大形(おほかた)世間にも多き事なれば、何心もなくて有りけるに、或夜小児の啼き出すべき前に気を付けて窺へば、その子の寝たる屋《やね》の上を、何やらんめきめきと物の歩む音して、寝たる子の上へ来ると思ふ時分に足音止みて、則ちこの子啼き出しぬ。それより毎夜気を付けて窺ひ聞くに、時刻も差(たが)へず斯の如くなりければ、安左衛門その翌晩、雨戸を少し明け置き、例の時刻屋の上始めて音のしける時、雨戸の𨻶よりそつと庭へ忍び下りて、屋の上を窺ひ見るに、更にその形を見ず。只めきめきと足音ばかり聞えて、その子啼き出しければ、弥〻《いよいよ》不思議に思ひ、何とぞ形を見んと思ひ、翌日の晩は屋(やね)の卑(ひく)き処に小児を寝させ、側《かたはら》に浴室の有りけるが、その戸を人の出るほどあけおきて、この屋に宵より階子をかけおき、今や遅しと待ち居たり。やうやう例の時刻になりて、また足音の聞えければ、すはやと思ひて、浴室の戸口よりそつと出て、静かに階子を登りて窺ふに、小児の寝たるあたり、今宵は屋卑くて寔(まこと)にすき通りてよく見えけれども、物の形は更に見えず。只足音のみして、程なくいつもの如く啼き出《いだ》したり。若《も》し天水屋石(やねいし)の陰にもや隠れぬらんかと怪しみ、今は遠慮なく屋の上へ登り、従者をも呼び上せて彼れ是れ尋ぬるに、遂に見えず。せんかたなく従者どもをおろし、我も続いて階子《はしご》をおりけるに、この階子真中よりふつと折れて、安左衛門真俯(《ま》うつぶ)きに地に落ち倒れたり。漸《やうや》うに起上りて階子を見るに、新しく堅固なる階子にて、中々折れ損ずべき物にもあらぬに不思議なりし事どもなり。とかく変化(へんげ)の形も見えず。小児の夜啼も止まざりしかば、せんかたなくてまた申し上げ、屋鋪をば替へたりと、その門葉の人、直(ぢき)に我れに語られける。

[やぶちゃん注:「続蓬窻夜話」「蟒」で既出既注だが、本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保十一年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。但し、今回、ネットで一件認めたサイト「座敷浪人の壺蔵」の「釣人怪死」の現代語訳を見ても、それも、先の「蟒」中の一篇も、而して、この話も、明らかに紀州藩藩士個人に係わる子細な話であることから、作者は同藩藩士と推定は出来る。序でに言えば、この筆者は、怪奇談を語るに、独特の強い細部のリアリズムの筆致を持っているように感ずる。全篇を読んでみたくなった。どこかで手に入らんかなぁ。

「御小人町」「御小人」(おこびと)は、藩主が外出する際、槍・刀を持って同行し、警護する衛士であり、特に紀州藩の御小人らが住んでいたことから、この町名となった。現在も和歌山県和歌山市小人町(グーグル・マップ・データ)として名が残る。和歌山城の北西直近である。但し、作者は前で「紀州湊の片原町」「を吹上へ出る道筋」と言っている。現在、こことは城を挟んだ南東に「南片原」が飛び地状にあるばかりだが、これでは、位置関係に矛盾が起こる。私はこの「紀州湊」を旧「湊本町」ととる。そこを南に下れば、旧「湊」地区(ここの北が御小人町)である城の西を過ぎて「吹上」に至る。さて、一般に江戸時代の「かたまち」「かたはらまち」という呼称は、全国的に「ある町の側ら」の地区を指すことがままある。ここもそうとると、位置関係が説明できるように思う。「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。北に『本町』があり、その南に、順に『小野町』・『久保丁』(この附近を「片原町」と私はとるのである)とあって、この南の「湊」地区の北部分が御小人町に相当するのである。そして南下して「吹上」である。この推理なら、矛盾はない。なお、南東に現存する「南片原」に対する場合、江戸時代なら、城を中心にして考えるから、まさに、この『小野町』・『久保丁』附近こそが、対象位置の北の「片原」だったのではないかとも考えるのである。

「横須賀衆」戦国時代の三河の武将で、徳川氏の家臣となった大須賀康高(おおすがやすたか 大永七(一五二七)年~天正一七(一五八九)年)の、選りすぐりの猛将らが、かく、或いは「横須賀七人衆」と称され、その功を謳われた。

「天水」(てんすい)「屋石(やねいし)」防火用に家根の一画に置かれた石製の雨水を貯めておくための天水桶。]

2023/08/29

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大山伏」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大山伏【おおやまぶし】 〔異説まちまち巻三〕謙信、雪隠へ夜ゆかれけるに、大山伏立ちて居たり。怪しときつと見られければ、かいけちて失せぬ。其時一生に覚えずぞつとせられけるが、是れより病付《やみつき》て死去なりとぞ。信玄死去を聞きて、心ゆるまりける故なり、と云ひしとなり。母の談なり。〔秉穂録二ノ下〕熊野山中にて、炭を焼く者の所へ、七尺ばかりなる大山伏の来《きた》る事あり。魚鳥《ぎよてう》の肉を火に投ずれば、なまぐさきをきらうて去る。また白きすがたの女、猪のむれを追かけて来る事ありといふ。

[やぶちゃん注:「異説まちまち」「牛鬼」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページ冒頭から)で正規表現版が視認出来る(左ページ後ろから二行目以降)。前に「一」として話が載るが、関連性は全くない。

「秉穂録」現代仮名遣で「へいすいろく」と読む(「秉」はこれ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。雲霞堂老人、尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)による考証随筆で、寛政一一(一七九九)年に成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正規表現で視認出来る(左ページ二七~八行目)。

 因みに、柴田宵曲の「妖異博物館」に「大山伏」があるが、この話は孰れも採っていない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大門崩壊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大門崩壊【だいもんほうかい】 〔筱舎漫筆巻十二〕弘化二年七月七日[やぶちゃん注:一八四五年八月七日。]、大風雨にて京都市中所々破損あり。東本願寺の大門も崩れたり。その子細をたづぬるに、七日の日は九ツ<昼の十二時>時分は雨風絶えてなきを、上数珠屋町《かみじゆずやまち》不明(あかず)門通り西へ入る南側に、万屋惣助とて荒物あきなひをするものあり。このもの信者にて、例の御斎参《おときまゐ》りとて、九ツ半[やぶちゃん注:午後一時頃。]時分に参詣せしが、その時は小雨そぼふれども、傘もさゝずして宿を出《いで》ぬ。御影堂(みえいだう)に上り、しばしして宿より下女《げぢよ》傘を持ち来りて、やがて帰りぬ。要事をおもひ出しければ、縁先に出《いづ》る。すなはち空かきくもり真暗《まつくら》になる。大夕立もや降り来ると、きとみれば雲霧むらがりかゝりて、大門を包むとせし間に、身のけいよだち、ズンとするとひとしく、御影堂の屋根の上より、腰よりうへは黒く、下は赤きもの著て、頭は法体《ほつたい》か、有髪《うはつ》か見わけがたき人、雲に乗りてすらすらと門の上にいたると見えしが、地震とも雷鴫とも思はれず鳴動す。そのとき門外の人々、大門がつぶれこんだり、あれあれとよばはるにつけ、近くよりて見れば、この頃新たに建てかゝりし大門なれば、足場いかめしくゆひまはし、高さ十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]もあるべく、東西十八間[やぶちゃん注:三十二・七二メートル。]、南北十四間[やぶちゃん注:二十四・二五メートル。]なるが、半分より一様にをれたり。柱は太さ二囲の槻の丸柱にて、いまだ四本のみたてたりしが、白箸《しらばし》[やぶちゃん注:割り箸。]など折りたるごとくふたつに、一本は半分にさけ、一本はつゝがなし。その折れたるさまを見るに、大風の吹き倒したるにあらず。上の方より大力にて押しつぶしたるがごとし。そのあたりの塀や茶所など、すこしも損ぜし処なし。風のためにはたふるゝことまゝあれど、風もなきに押しつけられて、ヒシヤゲこむといふこと、かゝる奇妙なることなしと、則ちこの惣助が秋田屋忠兵衛といふ者に、七月九日の日に物語りしよし、秋田屋、同月十七日、下坂《げはん》しての物語りなり。

[やぶちゃん注:「筱舎漫筆」(ささのやまんぴつ)は「牛と女」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第二巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字で当該部が視認出来る。標題は『○不思議』である。この話を冒頭に、同年中の記事が後に三つ載る。二つ目は小人症の子どもと相撲取りの話で関連性がないが、三話目は暴風による大木倒壊事故、最後のものは、奥州仙台の白鳥社で、その社領の中の小山に埋蔵金があると言うので、神主主導で、皆で掘り始めるやいなや、山が鳴動して、恐れて沙汰止みとなったが、五日後に神主の自宅が、芝居の奈落に落ちるような塩梅で徐々に地中に沈み始め、金堀りに係わった者たちの家も同じように陥没現象が起きたという怪事件を記している。

「上数珠屋町」の通りはここの東西(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「御斎参り」僧に軽い食事を供して参拝することか。

「御影堂」東本願寺のこの建物。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大蜈蚣」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大蜈蚣【おおむかで】 〔事々録〕飛驒の国にて或深山、兎角《とかく》人を失なひ怪しみの沙汰あり。然るに山谷に穴を見付けたり。今年浪人来りて土民をさそひ、かの穴を火を以て責《せむ》るに、黒き物出《いで》て穴の口にありし。かの浪人の皮をさすといへども、格別のこともなく、不意にしてこれを打たんの間《ま》のなく、この時刀のつかに手をかくる間もなく、また引《ひき》かへして、かの黒き者向ひ来《きた》るゆゑ、ぬく手も見せず切りつけたり。これより火にも弱り、この疵にも弱る所を仕留めたり。死後引出《ひきいだ》すに壱丈六尺[やぶちゃん注:約四・八五メートル。]ありける蜈蚣なり。始めにむかへしは尾にて、後にむかへしが首なりけり。訴へに及びて、その蜈蚣の死骸はかの浪人に賜はれり。

[やぶちゃん注:「事々録」「異人異術」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊随筆百種』第六(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで正規表現の当該部を視認出来る。]

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」再校訂始動

次いで、二〇〇八年の古いサイト版の、
の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂に入った。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大蚯蚓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大蚯蚓【おおみみず】 〔斉諧俗談巻五〕『和漢三才図会』に云ふ。深山の中に大なる蚯蚓、一丈余のものあり。近ごろ丹波国柏原遠坂《かいばらとをさか》村<現在の京都府河内郡柏原町内>にて、一日大きに風雨して、山を崩す事あり。而(しか)して大なる蚯蚓二頭出《いで》たり。一は一丈五尺、一は九尺五寸ありしと云ふ。『東国通鑑《とうごくづかん》』に云ふ。高麗の太祖八年[やぶちゃん注:」九二五年。]に、宮城の東に蚯蚓出たり。その長さ七十尺あり。これは渤海国の来投の応なりと云ふ。

[やぶちゃん注:「斉諧俗談」は「一目連」で既出既注。殆んど総てが引用の堆積物で、これもそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(同書本文掉尾で標題は『○大蚯蚓』)で当該部を正字で視認出来る。引用元の正規表現版は、私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚯蚓(みみず)」を参照されたい。詳細注も附してある。

「丹波国柏原遠坂村」「現在の京都府河内郡柏原町内」の宵曲の附記は誤認誤記。現在の兵庫県丹波市柏原町(かいばらちょう)である。ここは京都府であったことはない。『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」では、『兵庫県丹波市内』に修正されている。しかし、「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚯蚓(みみず)」で注したように、この引用原本の原記載自体の村名にも私には若干の不審がある。そちらを見られたい。]

2023/08/28

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の再改訂全終了

先ほど、残りの「蟹類」の再改訂を終わった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大鼠」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大鼠【おおねずみ】 〔諸国里人談巻五〕信濃国上田<長野県上田市>の辺の或寺に描あり。近隣の猫おどかし喰ひ殺しなどして、世にいふねこまたなりといへども、流石《さすが》寺なれば追放もせで飼ひけり。一日《あるひ》田舎より野菜を商ふ土民来り、この猫を見て、世にはかゝる逸物もあるものかなと、こよなうほうびしけり。住僧の云ふ、所望ならば得さすべし。この男大きに悦び、厚く礼してもて行きけり。二三日過ぎて、かの男菜大根やうのものを以て謝し、御陰によりて年月の難を遁れたりといふ。その謂《いは》れを問ふに、我家に悪鼠《あくそ》ひとつありて、米穀をあらし器物を損ふ事年《とし》あり[やぶちゃん注:年中あって。]、これはさる事なれども、八旬にあまる老母あり、夜毎にこの髪をむしるを夜すがら追ふ事切《せつ》なり、昼も他行《たぎやう》の時は近隣へ頼み置くなり、この鼠をさまざまに謀《はか》れども取り得ず。あまた猫を求め合《あは》するに、飛びかゝつて猫を喰ひ殺す事数《かず》あり。きのふ当院《たうゐん》の猫にあはせければ、互《たがひ》にしばらくためらひけるが、例の如く鼠飛び付くを、猫則ち鼠を食ふ。ねずみまた猫をくらひて、両獣共に死しけるとなり。その所を鼠宿《ねずみじゆく》といふ。その猫鼠の塚あり。上田と屋代の間なり。

[やぶちゃん注:以上は五年前に「諸國里人談卷之五 大鼠」で電子化注してある。特に「鼠宿」については、かなり突っ込んで注してあるので、見られたい。]

〔翁草巻五十六〕宝暦の始め、中京何某方に夜々燈《ともしび》の消ゆる事有り、不思議さにこれをためし見れば、夜更けて大なる旧鼠《ふるねづみ》出《いで》て、油をねぶる故に此の如し。これに依り近隣の猫を借りて掛けけるに[やぶちゃん注:襲わせるために部屋に入れて仕掛けておいたところが。]、例の頃かの鼠出《いで》て、行燈《あんどん》に掛りし処を、猫見済《みすま》してねらふ。鼠また猫をにらむ。稍〻《やや》久しくいどみ居《をり》けるが、猫ひらつと飛びかかりるを、鼠飛び違ひて猫の咽《のんど》へ喰ひ付き、嚙み殺して去りぬ。これに驚《おどろき》て、方々にて逸物《いちぶつ》の猫を捜し、やうやう尋ね求めて、件《くだん》の鼠をねらはせけるに、いつもの通りに鼠出て、またかの猫と白眼合(にらみ《あ》)ふ処に、この猫は少しも鼠に掛らず、白眼詰《にらみつ》めて居《を》る事久し。鼠堪へかね猫に飛懸りけるを、何の苦もなく引《ひき》くはへて嚙み殺しけるとなん。窮鼠却《かへつ》て猫を嚙むの謂《いひ》、爰にまのあたりなりけり。

[やぶちゃん注:「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂六(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は「窮鼠嚙猫事」。但し、原本では、以上の後に、続けて、囲碁の勝負の在り方を、この話に掛けて記してある。私は囲碁を知らぬので電子化する気にならないので、各自、見られたい。なお、この最後のケースの方は、猫が、「堪へかね」で「猫に飛懸りける」鼠を、まんまと噛み殺した作戦勝ちと読むべきであろう。]

〔甲子夜話巻四十四〕これも緋威《ひおどし》が話しは、先年京より帰る道中、桑名<三重県桑名市>に宿りしとき、自余の角力取《すまふとり》は皆妓を買ひに往き、己れ一人留守をしてゐたるに、風呂所の槽樋《をけとひ》の下より鼠出たり。その大きさ猫ほどもあり。緋威これを捕へんと、かの槽に追ひこめたれども見えざれば、その口に魚網を張り、湯を樋につぎ入れたれば、鼠驚き出《いで》て網に羅れり。よつて捕へ、多葉粉に唐辛《たうがらし》をまぜて吹《ふき》かけたれば、口より漚(あわ)は出せども中々よわらず、再遍かくせしかば息絶えたりしが、やがて復《また》蘇《よみがへ》りたれば、もしこれを放さば定めて夜中仇《あた》をなすべし、殺すにしかずとて脇指《わきざし》を抜きたれば、亭主聞きつけてかけ来り平伏して、何卒これを御助け下さるべしと云ふゆゑ、緋威云ふ、この大鼠今殺さずんば害あらん、何(いか)にして止《と》むるやと問へば、御不審もつともなり、これには仔細あり、その仔細は某《それがし》は養子なり、この家養子をすれば頓《やが》て出で、終《つひ》に居つく者なし、某も初めは知らずして来りしが、その夜ふせりゐると何か物音するゆゑ、目を覚まし見たれば、大さ円盆《まるばち》ほどもあらん、黒蛇の身を半ば竪《たて》にして向ひ来《きた》る、側《かたはら》に臥したる養母を見れば、夜衣を引《ひき》かむりてあり、斯《か》くすると大鼠一匹出《いで》て某が臥したる辺《あたり》を終夜《よもすがら》旋(めぐ)りてありたれば、この蛇遂に来りつくこと無くして夜明けたり、かゝればこの鼠はこの家の主護なり、それ故に助命をかへすがへすも乞ひ申すなりと云へば、緋威これを聞《きき》てきみ悪く思ひたれど、流石力士と云はるゝ者、弱みを見せてはすまず、また放しなば返報に荷物など喰はれんも外聞あしゝと思ひ、明朝この家を出立し後《のち》放すべしと云ひて、その夜は気丈なる顔をしてこはごは枕元に置き、翌朝に至り亭主に渡し発足《ほつそく》せしとぞ。この家は酒屋久太夫と云ひて今に有り、この久太夫も去年迄は達者にて居たり。またその後桑名の町焼亡せしが、また其所を通行せしゆゑ、久太夫が方に立休らひ、かの大鼠は何(いか)にと聞きたるに、焼後《やけしのち》は何地《いづち》へ往きしや見ずとなん。

[やぶちゃん注:以上は事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷之四十四 16 桑名の大鼠」として電子化しておいた。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷之四十四 16 桑名の大鼠

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。

 なお、冒頭、「是も緋威」(ひおどし)「が話し」とあるのは、この前の前の44―14の話、「安藝(あき)の狸(たぬき)、人と交語(かうご)す」で、静山が、年来(としごろ)、親しくしていた、『世に知れたる關取の角力(すまふ)、緋威(ひおどし)』という安芸出身の力士の話が載っており、その同一人物の語りを受けたものである。この力士、初代緋縅力彌(ひおどしりきや 明和九(一七七二)年~文政一三(一八三〇)年:静山より十二年下)は、かなり知られた大関である。当該ウィキによれば、安芸国山県郡川戸(現在の広島県北広島町)の出身で、本名は森脇勝五郎。身長一メートル七十七センチメートル、体重百十六キログラム。幕内生活二十一年という、『驚異的な長期間の活躍が記録されている。上位陣にはあまり通じなかったが、下位には』、『順当に』、『取りこぼし少なく』、且つ、『運良く』、『一場所だけ大関に昇進した。引退後は「赤翁」と称し、養子であった錦幸太郎改め』、二『代目緋縅力弥(緋縅力弥)の活躍を楽しみとした』とある。]

 

44―16

 是も緋威が話しは、先年、京より歸る道中、桑名に宿りしとき、自餘の角力取(すまふとり)は、皆、妓(ぎ)を買(かひ)に往き、己(おの)れ一人、留守をしてゐたるに、風呂所(ふろどころ)の槽樋(をけとひ)の下より、鼠、出たり。

 その大(おほい)さ、猫ほども、あり。

 緋威、是を捕へんと、かの槽に追(おひ)こめたれども、見えざれば、其口に魚網を張り、湯を樋につぎ入れたれば、鼠、驚き、出(いで)て、網に羅(かか)れり。

 よつて、捕へ、多葉粉(たばこ)に唐辛(たうがらし)をまぜて、吹(ふき)かけたれば、口より漚(あわ)は出(いだ)せども、中々、よわらず、再遍[やぶちゃん注:何度も。]、かくせしかば、息、絕(たえ)たりしが、やがて、復(また)、蘇(よみがへ)りたれば、

『もし、これを放さば、定(さだ)て、夜中、仇(あた)をなすべし。殺(ころす)にしかず。』

迚(とて)、脇指(わきざし)を拔きたれば、亭主、聞きつけて、かけ來り、平伏して、

「何卒、これを御助け下さるべし。」

と云故、緋威、云ふ。

「この大鼠、今、殺さずんば、害あらん。何(いか)にして止(と)むるや。」

と問へば、

「御不審、尤なり。是には、仔細あり。その仔細は、某(それがし)は養子なり。この家、養子をすれば、頓(やが)て出(いで)、終(つひ)に居(ゐ)つく者、なし。某も、初めは知らずして來りしが、其夜、ふせりゐると、何か物音するゆゑ、目を覺(さま)し、見たれば、大さ、圓盂(まるばち)ほどもあらん黑蛇《くろへび》の、身を、半ば、立(たて)にして、向ひ來(きた)る。側(かたはら)に臥(ふし)たる養母を見れば、夜衣(やぎ)を引(ひき)かむりてあり、斯(か)くすると、大鼠、二匹、出(いで)て、某が臥たる邊(あたり)を、終夜(よもすがら)、旋(めぐ)りてありたれば、この蛇、遂に來りつくこと無くして夜明けたり。かゝれば、此鼠は、この家の主護なり。夫(それ)故に助命をかへすがへすも乞申(こひまを)すなり。」

と云へば、緋威、是を聞《きき》て、きみ惡く思ひたれど、

『流石(さすが)、力士と云(いは)るゝ者、弱みを見せてはすまず、また、放しなば、返報に荷物など喰(く)はれんも、外聞あしゝ。』

と思ひ、

「明朝、この家を出立し後(のち)、放すべし。」

と云ひて、其夜は、氣丈なる顏をして、こはごは、枕元に置き、翌朝に至り、亭主に渡し、發足(ほつそく)せしとぞ。

 この家は、酒屋久大夫と云ひて、今に有り。この久大夫も、去年迄は、達者にて居《をり》たり。

 又、その後《のち》、桑名の町、燒亡せしが、又、其所(そこ)を通行せしゆゑ、久大夫が方(かた)に立休(たちやすら)ひ、

「かの大鼠は、何(い)かに。」

と聞きたるに、

「燒後(やけしのち)は、何地(いづち)へ往きしや、見ず。」

となん。

2023/08/27

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「龜類」再改訂終了

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の前半三分の二に当たる「龜類」の再改訂を終わった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大猫の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大猫の怪【おおねこのかい】 〔醍醐随筆〕美作《みまさか》の国なる士の家に十五六歳なる嫡男有りける。ねやに入りて寝るに、夜半過ぎぬるころ、必ずものに襲はるゆゑにうめき強し。人往きてみれば何もなし。心地はいかにと問へば、老人のむくつけきにくげなるが来て、うへより胸のあたりを押《おさ》ふるに、手足なえて物もいはれずといふ。とぎする者二人三人も添ひ臥しぬればその事なし。独り寝れば必ず襲はるゝなり。主人怒りて、弓馬の家に生まるゝ人は勇を専らとす。汝すでに十五六に及びて、かくつたなく臆しぬれば、我家をつぐ事なるまじ、出家せよとはたる。かの童男この言あくまではづかしく涙落しむ。その夜人を入れず。たゞひとり殊に戸もさゝず、ともしびもかゝげずふし居たる。何にてもあれ、今夜は逃さじと匕首《あひくち》[やぶちゃん注:鍔のない短刀。]を手に持ちながら、きぬかづきてねぶらで待ちぬるに、夜半ころ身もたゆく、心ほれぼれとしてねぶらんとするを、さればこそと思へば、かの老人常の如く胸を押へんとするに、匕首をもてひしと切る。切られてさるとき、従者ども呼びければ、手々《てんで》に燭をさしあげて来《きた》る。血流れて閨《ねや》の中をひたせり。血についてたづねもとむるに、屛風の後《うしろ》に大狗《おほいぬ》ほどの猫ふしたり。肩より腰まで二つに切られて死たりけり。猫もよく化けて人をまどはすものなり。またある家の厠へゆけば、必ず手を出して尻をなづるとて行く人なし。さはあるまじとて試みにゆけば、またなでられて逃げかへる。後によく考へ見れば、厠にすゝき生ひたりけるが、風に吹かれてなびくとき尻をなづるなり。されば世に不思議なる事も皆この理《ことわり》あるなり。この理なければこの事なし。或ひは[やぶちゃん注:ママ。抄録写本(後注参照)は「或は」で問題ない。]附草依木《くさつき、気に依る》怪など、悪気・死気消散せずして暫時奇怪をなすものあれど、妖は虫人興[やぶちゃん注:抄録写本(後注参照)は「山人興」。こちらは「さんじんおこし」か。孰れも意味不詳でどちらが正しいかも判らない。]といひ、見ㇾ怪不ㇾ怪《かいにみゆるも、かいにあらず》その怪自消《おのづからきゆ》といへり。心を悩ますにあらず。〔半日閑話巻十六〕浦賀奉行内藤外記、八月中旬頃台所向《だいどころむき》へ何の獣とも知れざるもの出《いで》て飯を喰《くら》ひ、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]魚などとり喰ひ、中番[やぶちゃん注:一日の勤務・作業などが交替制で行なわれる場合の、中ほどの番。勝手向きのその差配担当者。]などを化かし、或時は奥方納戸に居られし処、奥方の名を呼びしゆゑ、障子を明け見られしに何も居らず、障子を立て置き候処、また呼びしゆゑ気味悪くなり、人を呼び尋ねし処、一同何もなく、右の類《たぐゐ》数度《すど》に及びしゆゑ、内藤下知して落しをかけ置かれしに、或夜右の落しへ何とも知れざるもの掛りしゆゑ、近習右の趣を申せしかば、落し共《とも》に取寄せ、大方狸なるべしとて、色々に落しを見られしかども、中闇《くら》きゆゑ何の獣とも知れず。依ㇾ之《これによりて》中番に申付け、引出《ひきいだ》させしに、画《ゑ》に書きし虎に少しも違《たが》はざる大猫にて、しらふ[やぶちゃん注:「白斑」。白い斑点。]等も虎の如くなり。さてさて珍しき猫なりとて縲(しば)り置かるゝり置かるゝに、右の沙汰専ら致せしにや、土岐山城守より使者を以て、先年山城守在所へ参り候節、道中にて貰ひ秘蔵致し飼ひ置きし猫を預るもの取逃《とりにが》せし処、この方様《はうさま》にてとらへなされ候由承り申候、何卒御返し下され候様願ひ奉り候、殊に山城守大坂在番中にては有ㇾ之、預りの者迷惑致し候間、何分願ひ奉り候由、口上を以て申入れけれども、もしや山師等承り、似せを以て申入るだも知れざるゆゑ、断りを申し返せし処、また候《ぞろ》使者参り、先年取逃せし節、漸々《やうやう》親類衆を頼み貰ひし間、少しも相違無レ之、若《もし》し危《あやう》く思召し候はゞ、この親類衆へ御聞合せ下さるべき由にて、五人の名前を書付に致し持参の内に、阿部備中守殿など名前ありし由なり。さてさて珍しき事なり。猫名まみといふ。その後返されしや否をいまだ聞かず。もつとも内藤氏直咄《ぢきばな》しなり。

[やぶちゃん注:前者の「醍醐随筆」は大和国の医師・儒者中山三柳の随筆。初版は寛文一〇(一六七〇)年(徳川家綱の治世)。国立国会図書館デジタルコレクションの『杏林叢書』第三輯(富士川游等編・大正一三(一九三八)年吐鳳堂書店刊)のこちらで正字版の当該部を視認出来る(但し、この底本は文化年間(一八〇四年~一八一八年:徳川家斉の治世)の抄録写本底本である)。

「美作国」とは、現在でいう美作市・勝央町・奈義町・美咲町・津山市・鏡野町・真庭市・新庄村・西粟倉村・久米南町を含む岡山県北のエリア。

 後者の「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は「○土岐山城守の大猫」。]

2023/08/26

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大入道」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大入道【おおにゅうどう】 〔煙霞綺談巻四〕去ル正徳[やぶちゃん注:一七一一年から一七一六年まで。]のころ、三河吉田町<現在の愛知県豊橋市の旧名>に善右衛門と云ふ古手《ふるて》商売[やぶちゃん注:古物商。]の小商人《こあきんど》あり。この者武家方より幕を五張《はり》請負《うけお》ひしが、吉田にて三張調へ、余は岡崎町<現在の愛知県岡崎市内か>へ求めに行きしが、調はずして、名古屋へと志し、大浜茶《おほはまぢや》や[やぶちゃん注:現在の安城市浜屋町(はまやちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]に到れば日晡[やぶちゃん注:「につぽ」或いは「ひぐれ」。「晡」は狭義には「申の刻」、午後四時前後の二時間を指す。]に及び、しるべの茶屋に一宿しぬ。

 折ふし中秋の長夜なれば、名古屋までの通《とほ》し馬を借り、夜半に大浜を出る時に馬奴《まご》がいふ。池鯉鮒(ちりう)[やぶちゃん注:東海道五十三次の三十九番目の宿場であった愛知県知立市にあった「池鯉鮒宿」(ちりゅうしゅく)。歴史的仮名遣は「ちりふ」が正しい。原書(後注参照)の読みは歴史的仮名遣を誤っている箇所が甚だ多い。]の近所より名古屋伝馬町《てんまちやう》<現在の愛知県名古屋市内>[やぶちゃん注:現在の愛知県名古屋市熱田区伝馬。]へ在郷《ざいがう》の捷径《ちかみち》あり、我等案内をよくしりたり、この道を参りたしといふ。それこそ幸ひなれとて、彼《か》の在道《ざいみち》へかゝり行きしに、烏頭(うどう)村[やぶちゃん注:位置関係から、恐らくは現在の愛知県岡崎市宇頭町(うとうちょう)と思われる。]といへるに、少し小松ありて、薄など生ひたるひろき野あり。其所に至れば、俄かに旋風《つぢかぜ》吹き来り、乗りける馬の足を折《をり》て地にうづくまる。その時善右衛門も馬奴(まご)も同じく気分あしく、蒙々虚々となりて覚えず地にふしぬ。時に小松の所より、その長(たけ)壱丈三四尺程の仁王のごとき大入道、眼のひかりは百煉《れん》[やぶちゃん注:何度も鍛えて作ったことを言う。]の鏡にひとしきが歩み来《きた》る。両人ともに腕肬(うろうろ)[やぶちゃん注:原本は「腕※」(「※」=「月」+「丸」。孰れにしても、この熟語で、この訓は不詳。]して、地に伏し居《ゐ》たれば、彼の化物程なく過ぎ行けり。程経て両人ともに本性《ほんしやう》となれば、馬も立《たち》て嘶《いなな》きたり。それより一里余も行きたれば、漸《やうや》く夜もあけて、民家へ立《たち》よりたばこなど吸ふ。そこの主に問ふ、このあたりに天狗または怪異の物ありやといへば、亭主の云ふ、この辺りは山中にあらざれば、天狗その余《よ》怪物なしといふ。烏頭村にて化物にあひたる事を語れば、それは不思議なり、天狗にもあるまじ、昔よりいふ山都(みこしにうどう[やぶちゃん注:ママ。])と云ふものならんと笑ふ。かくて名古屋の問屋に著き、馬奴をかへし幕を調へ、兎角するに食事一向すゝまず、発熱頭痛甚し。近所の医を招き見せしに、時疫《じえき》[やぶちゃん注:流行病。]の脈躰《みやくてい》なり、伏熱あればおぼつかなしといふ。途中にて化物に逢ひし事を語れば、薬を加減して用ゆれども験(しるし)なし。故に吉田まで通し駕《かご》を雇ひ、翌日たちかへる。しかれどもますます熱気つよく、医者を引《ひき》かへ服薬すれども快よからず。終《つひ》に十三日目に相果てたり。化物は疫病の神なるべしといふ。

[やぶちゃん注:「煙霞綺談」「池の満干」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。原本では、本篇は『卷之四』の冒頭で、その頭に、『世に怪力神を語る事を禁《きんず》うは、其事に附會する說を副言(ふげん)する故《ゆゑ》實(じつ)を失《うしなふ》を以《もつて》なり。正しくありし事語るまじきにもあらずかし』とあって、本話が語られ、以上の段落成形は、ない。また、以上の記載が終わった後に、改行して、同じ『吉田より四里北東上村といふところ』の『北六七町に本宮山より落《おつ》る大飛泉(《おほ》たき)』があり、昼も暗く、物凄い場所があるが、そこから『二間程下へ落』ちる『雌瀧(めだき)』という瀧で、東山六左衛門という者が、享保年中のある日、ここで鮎を捕えんとしたところ、流れが、『大に逆浪(げきらう)せし故、暫く見居たれば、淵の中より大なる黃牛(わうぎう)湧出(ゆしゆつ)し、角を』振り立てて、『吽々(うんうん)と吼(ほへ)て』彼を目がけて、向かってくる。六左衛門は剛強の者であったが、何も戦うべき物を持っていなかったことから、宿へ帰った。すると、忽ち、発熱して、譫言(うわごと)など口走って、三日目に死に果てた。深い淵から大蛇などにても出現するべきこともあろうが、牛が出たのは奇事である。この牛は淵の『主靈(しゆれい)なるべし』という話があり、そのまま続けて、また、この『東上村と新城《しんしろ》との間に、一鋤[やぶちゃん注:ママ。]田(ひとくはだ)村と』いう村があり、ここに『皆鞍(かいくら)が淵』といって、川筋の中で第一番の深い淵があり、土地の人々は、『龍宮城なり』と言い伝えているが、その六左衛門は、いつもこの淵に潜って漁をしていたとして、生前の彼のそこで感じた異常な、深さのことを附言してある。前半の部分との連関性は明確とは言えぬものの、既に別の禁断の場所を犯していたことが、彼の死に繋がったという示唆を示しているようである。そこで改行して、既出の允恭天皇の絡んだ、勇猛果敢の海士(あま)、男狹(おさし)による大鮑(おおあわび)の大真珠の話が附せらており、最後に、本書の校閲をした林自見の附記が、二条が附されて、終わっている。余裕のある方は、リンク先で読まれたい。但し、これらの後述の話は、最初の大入道の話との必然的連関性は、ロケーションと内陸の河川も龍宮城と通底しているらしいこと以外には、個々には、あまり感じられない(特に男狹の話は、最も連関性をかく)。著者西村白烏は、四巻の最初に、こうした怪奇談を羅列することで、読者の関心を引こうとしていたものであろう。特に、六左衛門の話は、冒頭の話の事実性をサイドからよく強める働きはしていると言える。

「山都」元来、「山都」は「木客」等と同じく、中国の奥地の異民族・少数民族を指していた語であるが、中華思想の中で、彼らが、皆、モンスターとして妖怪化されてしまったものと思しい。詳しくは、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山都」の項と、私の注を参照されたい。]

2023/08/25

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大鳥人を摑む」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大鳥人を摑む【おおとりひとをつかむ】 〔閑田次筆巻四〕四五年前に聞きし。加賀のあたりに遊びし浪士、大鳥に摑まれて、空中を行くこと二時《ふたとき》[やぶちゃん注:四時間。]ばかりを経て、いづことも知らぬ山中にして、大鳥この人を摑みながら下りて休みたり。この透キ間を見て、腰刀《こしがたな》を抜きてつかみたる手を切り、つひにさし殺し、片翼を切りてみれば、片々にて[やぶちゃん注:その片方の翼だけでも。]吾身隠るゝほどに余れり。辛うじてやゝ山を下りて人に会ひしに、その翼を見て大いに畏れしかば、その子細を語りて、さてこゝはいづこぞと問へば、箱根の湯本近くなりといふ。遙かなるほどを纔か二時ばかりに来しに、鳥の勢ひのはげしきをさらに驚きぬ。さてしばしその辺ンに逗留し、疲れを休めて後、江戸へ出たれば、その翼に付きてその所以(ゆゑ)を聞き伝へ、その勇壮をよろこび、かたがたの諸侯より召されしに、いづかたへか仕へて出身せりとかや。大かたの人ならば、空中にて正気なくなりぬべきを、堪ヘてかくまで振舞ひけるは、鳥のみならず、人も世にめづらなり。この鳥は大鷲なるべし。これ迄も箱根の辺にて、折々人の捉《と》られしことありしは、これが所為にてありしが、この後はこの禍ヒ止ミたりと、そのわたりにては喜びしとなん。

[やぶちゃん注:「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから四行目以降)で正規表現で視認出来る。直前に鷲に攫われて養育された人の話があり、それを受けて、冒頭に「鷲の因《ちなみ》に思ひ出たることあり」とあるのがカットされてある。]

〔甲子夜話続篇巻九十二〕印宗和尚語る。天保壬辰<三年>の夏のこととよ。薩摩領にて小給の士の子、年十四なるが、父の使として書通を持ちて、朝五つ<午前八時>頃と覚しきに、近辺に行きけるが、ある坂を越しゆくとき、大なる鷲空より飛下り、かの伜を摑みて飛去りぬ。伜は驚きたれど、はや空中のことなれば為ん方もなく、始めは遙かに村里も見えたるが、暫くして見えずなるまゝに、よく見れば渺海の上を行くなり。伜も恐ろしながら、為すべきことも無ければ、両手を懐に入れて、運命に任せ行くほどに、果しもなければ、片手をそと出して見るに自由なれば、鷲を刺さんと思ひしに、折ふし鷲は大なる木の梢に羽を休めたり。伜は指したる脇刀に手をかけ見しに、殊に高き木末なれば、鷲を殺せば己れは堕ちて微塵に成らんと思ひ、姑(しば)し猶予せし中、鷲復(また)飛び行く。やゝ有りて伜その下を臨むに、程近くして且つ平地なるを見て、頃よしと脇刀を抜《ぬき》て、胸と思ふ所を後ろざまに突きたれば、鷲よわるとおぼしきを、二刀《ふたがたな》三刀刺し通せば鷲死《しん》で地に落ちたり。この処《ところ》山中なれば、二町ばかりを下りたれど、方角弁ぜず。またふと思ひつきて立戻り、彼《か》の鷲の首と片翅《かたはね》とを切落し、打負(《うち》かつ)ぎて麓を志しつゝ下りしに、樵夫《きこり》に行逢ひたり。樵《きこり》何方《いづかた》の人ぞと云ふゆゑ、伜城下へ往く者なり、導(あんない)してくれよと頼めば、城下とは何《いづ》れのことぞと云ふゆゑ、城下を知らずやと云へば、曾て知らずと答ふるゆゑ、伜立腹して鹿子嶋《かごしま》のことよと云へば、鹿子嶋とは何れの所やと云ふゆゑ、伜心づきて、薩摩鹿子嶋なるが、汝居《をり》ながら弁ぜざるかと云へば、樵あきれて、薩摩とはこゝより何百里なるやと云ふゆゑ、さればこの処は何処かと問へば、こゝは木曾の山中なり、いかにしてかく分らざることを云ふゆゑ、我は薩摩の者なり、鷲に捕はれかくと言ひて、証《しるし》にかの首と翅とを出したれば、樵も疑はず。麓に連れ下り、庄屋にこの由を訴へたれば、陣屋へ達したるに、人々驚き、医者など呼びて見せたれど、少しも替《かは》ることも無かりければ、それより件《くだん》の遍歴を問ひたるに、薩州にて鷲に摑まれしは朝五つ<午前八時>過《すぎ》にて、木曾の山中にて鷲の手を離れしは、夕七つ過<午後四時>なりしと。されども暫時と覚えたれば、空腹とも知らず、云ふ体《てい》にて、帰さんに数百里の処なればまづ江都(えど)の薩摩屋舗(やしき)へ送りとどけたれば、老侯聴き給ひて、殊に賞感せられしと云ふ。計《はか》るに信濃より薩摩へは殆んど四百里なるべし。かゝる遼遠を僅か五時に到りしも、鷲の猛《たけ》きか、その人の暗勇か、奇事耳(のみ)。

 又、先年のことにて、江州膳所《ぜぜ》にても、少年の馬に乗りゐしを、鷲摑みて空中に飛行きたり。少年捕はれながら下を見るに、湖上を飛行くゆゑ、為ん方もなくする中、両刀邪魔になるまゝ刀は脱《ぬぎ》て湖水に投じ、脇差は指してありしが、後は陸地の方へ飛行きて、鷲も羽や疲れけん、摑みし足をゆるめければ、少年は浜辺と覚しき所に堕ちたり。鷲はその辺の巌上《がんしやう》に飛下《とびくだ》り、翅を休むる体《てい》なり。少年も幸ひに恙なければ起揚《おきあが》り、鷲を切らんと思ひしが、斯《か》くせば忽ち鷲に害せらるべしと、臥したるまゝ動かず。食はんとするを、少年即ち脇差にて切《きり》つけたれば、鷲は切られて斃《たふ》れたり。少年も辛き命を助かり、あたりの人を尋ねて、こゝは何《いづ》れの所なりやと聞けば、若狭の海辺なりしと、これ等は近国のことなれど、何れ廿余里もや往きつらん。大鳥の人を捕へしは同一事なり。

[やぶちゃん注:後者は事前に、「フライング単発 甲子夜話續篇卷之九十二 10 薩摩領にて十四歲なる子、鷲に摑れし事 付」(つけたり)「膳所にて少年の馬上なるを摑し事」で電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷之九十二 10 薩摩領にて十四歲なる子、鷲に摑れし事 付膳所にて少年の馬上なるを摑し事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは珍しい静山の振ったルビである。数も多く、特異点である。なお、標題の「付」は「つけたり」と読む。]

 

92-10

 印宗和尙、語る。

「天保壬辰(みづのえたつ)[やぶちゃん注:天保三(一八三二)年]の夏のこととよ。薩摩領にて小給の士の子、年十四なるが、父の使(つかひ)として、書通(しよつう)を持(もち)て、朝五つ[やぶちゃん注:不定時法で午前七時頃。]頃と覺(おぼし)きに、近邊に行きけるが、ある坂を越しゆくとき、大(おほき)なる鷲、空より、飛下(とびくだ)り、かの悴(せがれ)を、摑(つかん)で、飛去(おびさ)りぬ。

 悴は、驚きたれど、はや、空中のことなれば爲(せ)ん方もなく、始(はじめ)は遙(はるか)に村里も見へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]たるが、暫くして見へずなるまゝに、能く見れば、渺海(べうかい)[やぶちゃん注:果てしなく広がる海。]の上を行くなり。

 悴も恐しながら、爲すべきことも無ければ、兩手を懷に入(いれ)て、運命に任せ行くほどに、果(はて)しもなければ、片手を、そと、出(いだ)して見るに、自由なれば、鷲を刺さんと思ひしに、折ふし鷲は大(おほき)なる木の梢に羽を休めたり。

 悴は指(さし)たる脇刀(ワキザシ)に手をかけ見しに、殊に高き木末(こずゑ)なれば、

『鷲を殺せば、己(おのれ)は、墮ちて、微塵に成らん。』

と思ひ、姑(シバ)し、猶豫(いうよ)せし中(うち)、鷲、復(また)、飛び行く。

 やゝ有りて、悴、その下を臨むに、程近くして、且(かつ)、平地(ひらち)なるを見て、

『頃、よし。』

と、脇刀(わきがたな)を拔(ぬき)て、胸と思ふ所を、後ろさまに突(つき)たれば、鷲、よはる[やぶちゃん注:ママ。]と、おぼしきを、二刀(ふたがたな)、三刀、刺し通せば、鷲、死(しん)で、地に落(おち)たり。

 この處(ところ)、山中なれば、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]ばかりを下りたれど、方角、辨ぜず。

 又、ふと、思ひつきて、立戾(たちもど)り、彼(か)の鷲の首と片翅(かたはね)とを、切落(きりおと)し、打負(うちカツギ)て、

「麓を。」

と、志(こころざし)つゝ下りしに、樵夫(きこり)に行逢(ゆきあひ)たり。

 樵(きこり)、

「何方(イヅカタ)の人ぞ。」

と云(いふ)ゆゑ、悴、

「城下へ往く者なり。導(アンナイ)してくれよ。」

と賴めば、

「城下とは、何(イヅ)れのことぞ。」

と云ふゆゑ、

「城下を知らずや。」

と云へば、

「曾て知らず。」

と答(こたふ)るゆゑ、悴、立腹して、

「鹿子嶋(かごしま)のことよ。」

と云へば、

「鹿子嶋とは何(いづ)れの所や。」

と云ふゆゑ、倅、心づきて[やぶちゃん注:注意を与えて。やや、あきれて怒っているのである。]、

「薩摩鹿子嶋なるが、汝、居《をり》ながら、辨(べん)ぜざるか。」

と云へば、樵、あきれて、

「薩摩とは、こゝより何百里なるや。」

と云ふゆゑ、されば、

「この處は、何處(イヅク)か。」

と問へば、

「こゝは、木曾の山中なり。」

何(なに)かにして[やぶちゃん注:孰れの答えにも、いちいち。]、かく分らざることを云ふゆゑ、

「我は薩摩の者なり。鷲に捕(トラ)はれ、かく。」

と言ひて、證《シルシ》に、かの首と翅とを、出(いだ)したれば、樵も疑はず。

 麓に連れ下り、庄屋に、此由を訴へたれば、陣屋へ達したるに、人々、驚き、醫者など呼(よび)て見せたれど、少しも替(かは)ることも無(なか)りければ、夫(それ)より、件(くだん)の遍歷を問(とひ)たるに、

「薩州にて、鷲に摑(つかま)れしは朝五つ過(すぎ)にて、木曾の山中にて、鷲の手を離れしは、夕(ゆふ)七つ[やぶちゃん注:不定時法で午後五時前。]過なりし。」

と。

「されども、暫時と覺へ[やぶちゃん注:ママ。]たれば、空腹とも知らず。」

と云ふ體《てい》にて、歸さんに、數百里處なれば、まづ、江都(えど)の薩摩屋舖へ送りとどけたれば、老侯、聽(きき)給ひて、殊に賞感せられしと云(いふ)。

 計(はか)るに、信濃より薩摩へは、殆んど四百里なるべし。かゝる遼遠を、僅か五時に到りしも、鷲の猛(たけ)きか、その人の暗勇か、奇事のみ。

 また先年のことにて、江州膳所(ぜぜ)[やぶちゃん注:現在の滋賀県大津市膳所(グーグル・マップ・データ)。]にても、少年の、馬に乘りゐしを、鷲、摑て、空中に飛行(とびゆき)たり。少年、捕はれながら、下を見るに、湖上を飛行ゆゑ、爲ん方もなくする中(うち)、兩刀、邪魔になるまゝに、刀は脫(ヌギ)て、湖水に投じ、脇差は指(さし)てありしが、後(のち)は陸地の方(かた)へ飛行て、鷲も、羽や、疲れけん、摑し足を、ゆるめければ、少年は、濱邊と覺しき所に墮(おち)たり。鷲は、其邊りの巖上(がんしやう)に飛下(とびくだ)り、翅を休むる體(てい)なり。少年も、幸(さいはひ)に、恙(つつが)なければ、起揚(おきあが)り、

『鷲を、切らん。』

と思ひしが、

『斯(か)くせば、忽ち、鷲に害せらるべし。』

と、臥(ふし)たるまゝ、動かず。

 鷲は、動かざるを見て、頓(やが)て少年に飛移(とびうつ)り、その面皮(つらがは)を摑み食はんとするを、少年、卽(すなはち)、脇差にて切(きり)つけたれば、鷲は、切られて、斃《たふ》れたり。

 少年も、辛き命を助かり、あたりの人を尋(たづね)て、

「こゝは、何(いづ)れの所なりや。」

と聞けば、若狹の海邊なりしと。

 これ等(など)は、近國のことなれど、何(いづ)れ、廿餘里もや往(ゆき)つらん。大鳥の、人を捕へしは同一事なり。

■やぶちゃんの呟き

「印宗和尙」この法号を持つ僧は複数いるが、どうも静山と時代が合わなかったり、法号の一部が異なる記載があったりして、特定出来なかった。

2023/08/24

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大鳥」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大鳥【おおとり】 〔黒甜瑣語四編ノ二〕細井煕斎子《きさいし》の物語りに、淇園《きゑん》先生常に塾徒《ぢくと》を集め、その邦《くに》の異事を談ぜしむ。或時薩州の樋口某の云へる、我藩の鐘楼は府城の外にありて、雞人(けいじん)[やぶちゃん注:本来は、中古に宮中で時刻を知らせた役人。「にわとりびと」。]をして楼側に交番《かはりばん》なさしむ。或年の冬、三更[やぶちゃん注:午後十一時から午前一時までの間。]の夜に忽ち風声の南に至るがごとく鐘楼に落ちたり。その楼揺動して崩れんとするもののごとし。鐘《かね》撞木《しゆもく》にふれて声をなす事甚し。番直の者驚駭《きやうがい》して肝を冷す。竊《ひそ》かに出《いで》て伺へども、暗夜見る所なく、暫くありてまた風声をなして南に去れり。その声を審かにするに、分明に飛鳥《ひてう》博風(はうつ)の音なり。思ふに大鳥の来り息《いこ》ひしなるべし。前年琉球の人来り、舟をその港に泊《はく》せしに、或時一の大鳥の卵を舶上《ともべ》に残せり。回(まは)り四尺ばかり、鳥の大きさ知るべからず。藩士某の家に今にその殼を蔵せり。この鳥も思ふにそれらの類なるべしと。この事を託して明道館にて物語りせし時、那可《なか》教授の云へる、我藩新城の農民或雪の暁近きほとりに炭を焚きに行きしに、向うの山に常にしも見しらぬ大木を二本同根に生茂《おひしげら》せしがごときを見る。時に上に物ありて、垂天の翼扶揺し  て上るに、かの大木と見えしはその鳥の両脚にてありしと、かの売炭翁の物語りにてありしと。天地造化の間、必ずしも荘周が言を誣《し》ひざれ。

[やぶちゃん注:「ウルトラQ」の私の最も偏愛する一篇「鳥を見た」のラルゲユウスか!?!

「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。

「細井煕斎子」出羽久保田藩の藩校明徳館教授。

「淇園先生」儒者皆川淇園(享保一九(一七三四)年~文化四(一八〇七)年)は漢字の字義と易学を研究し、「開物学」を提唱し、また、漢詩文・書画をよくした。晩年、私塾弘道館を起したことで知られる。

「明徳館の助教兼幹事を務めた儒者那珂通博(みちひろ 延享五・寛延元(一七四八)年~文化一四(一八一七)年)。]

「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」本格改訂始動

次いで、二〇〇八年の古いサイト版の、

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」

の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂に入る。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大塚鳴動」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。なお、本篇の「塚」は底本のママである。

 

 大塚鳴動【おおつかめいどう】 〔奇遊談巻三ノ上〕洛西長岡村<京都市上京区内か>天神の社《やしろ》の東、細川三斎屋敷のあたり、神足(かうたり)村との間に大塚といふあり。むかしの陵墓なること明《あきら》けし。近き頃までは、陶器のたぐひなど出たることもまゝありし。この大塚折にふれては鳴動することなり。つよく鳴るときは雷声《かみなり》のごとく、あるひは猛獣の吼ゆるごとくなり。さあれば必ず明日雨降るとなり。思ふに地下の水気《すいき》湿熱《しつねつ》にむされて登るべきに、この塚のうち空虚(うつぼ)にして、彼(かの)くん上の気欝《きうつ》してかく鳴ることゝは思はる。近き年頃は、昔のごとく響き鳴らざるとぞ。されば地下の水脉《すいみやく》も少しづつはたがひ、また塚の傍《かたはら》かけ崩れなン[やぶちゃん注:ママ。]どして、空虚にこもれる地気《ちき》の外《そと》にもれいでて鳴らざるにや。東山将軍塚も異霊《いれい》あるにはあらずして、かゝるたぐひならん。

[やぶちゃん注:「奇遊談」川口好和著が山城国の珍奇の見聞を集めた随筆。全三巻四冊。寛政一一(一七九九)年京で板行された。旅行好きだった以外の事績は未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊のここで当該部が視認出来る(よくルビが振られてある)。標題は「長岡大塚鳴動」。

「洛西長岡村」「天神の社」京都府長岡京市天神にある長岡天満宮であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「神足(かうたり)村」現在、京都府長岡京市神足の東西の飛地の間に、同市の東神足が挟まっている。

「細川三斎屋敷」上記の東神足の南境を越えた箇所に、現在、「勝竜寺城公園」(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、この公園は一九九二年の新設である)があるが、ここはウィキの「勝龍寺城」によれば、『南北朝時代から江戸時代初期に存在していた日本の城』で、特に『細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても知られ』、天正六(一五七八)年八月、『藤孝の嫡男忠興』(=三斎)『と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝龍寺城で結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている』とある。「今昔マップ」で戦前の地図でこの城跡と東神足を見ると、この場所以外の辺縁は殆んどが、田圃であるが、東神足から、この城跡周辺は有意に茂った大きな竹藪となっていることが判る。この竹藪の広さは尋常ではなく、この場所が近代まで小さな丘陵であったことを証明するものと私は思う)である。従って、古くに城砦が作られたことを考えれば、この附近が江戸時代にも小丘を成していたことは明らかであり、その付近に古墳が存在したと考えてもおかしくない(但し、当該ウィキでは、『勝龍寺城は古墳を流用して築いたのではないかと』も『言われているが、「主郭や沼田丸ではそれらしき痕跡は認められない」とされている』とはあった。とすれば、逆に古い時代の土塁や堀が埋没し、そこに有意な地下空間が形成されたと考えてもよかろう)。なお、同城は江戸前期の慶安二(一六四九)年に廃城となっている。ともかくも、この周辺こそが、「大塚」であろうと私は思う。

「くん上」「燻蒸」であろう。]

2023/08/23

サイト版寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」全原文・訓読・注再校訂完了

ほぼ、四日半集中で、サイト版の

寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」

の全原文・訓読・注を総て再校訂した。

2023/08/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大多津が崎の老狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大多津崎の老狐【おおたつがさきのろうこ】 〔猿著聞集巻二〕相摸の国三浦に大多津が崎といふところあり。ここに海の中へ出たる山あり。この山に年ふりたる狐住《すみ》て、名をおみい女となん呼びける。この狐、鎌倉頼朝の御代《みよ》知りたまふ時のことなどよくおぼえ居《をり》て、人に見《まみ》えては常に物語らひける。またよくあでなる女となりて、近きほとりの若男《わかをとこ》らを引《ひき》まどはし、遠き野山をさそひ歩行《あり》き、あるは三日、あるは五日とかへらざることいと多かり。ここに永嶋荘びやうゑとなんいひけるむらをさあり。この家にとほつおやより伝ふる、兜のまへだての鏡ひとつをもたりける。この鏡を狐の恐ること限りなし。まどはされる者あるときは、いつもこれをとうでてさゝげさするに、たちまち心正しくなりぬ。この家のほとりにいと古くより祭り来たれる、宇賀の御霊の御社なんありけるを、そのかたへにまた一ツの祠(ほこら)を営なみて、かの狐を祭りにたれば、その後《のち》絶えて怪しげなく、人にも見えずなりにけり。

[やぶちゃん注:「猿著聞集」は既出既注だが、再掲すると、「さるちょもんじゅう」(現代仮名遣)と読む。生没年不詳(没年は明治二(一八六九)年以降とされる)の江戸後期の浮世絵師で戯作者でもあった岳亭春信が、号の一つ八島定岡(ていこう)で、鎌倉時代、十三世紀前半の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」を模して書いた随筆。文政一〇(一八二七)年自序。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字の本文が視認出来る。標題は「大多津がさき狐の事」。

「相摸の国三浦」「大多津が崎」位置不詳。日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに本篇を紹介したカードがあるが、そこでは、地域を『三浦市』とするので、三浦半島の崎の孰れかではあろう。地名表記の誤りが疑わられる。「おみい女」とフレーズで検索しても、上記リンク先しか情報はない。「宇賀 神社 稲荷 山」という条件でしっくりくるものは、地形からは、この附近(グーグル・マップ・データ)が一つの候補にはなるかも知れぬ。なお、ここには「きつね浜」がある。伝承として現地には全く残っていない模様である。]

2023/08/21

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大鯛」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大鯛【おおだい】 〔譚海巻五〕駿河の沖津鯛と云ふは、総名ばかりにはあらず、たしかにおきつ鯛と号する大魚ある事なり。さつた峠の上の山に地蔵堂あり。この堂より二三丁も上りて、頂上に燈明堂有り。海舶の目印(めじるし)に火をともす所なり。この山真直に海岸より立のぼりたる一片の石にて、麓は波にひたりたり。その波にひたる所の石、幅四五尺ばかり竪に裂けて、内は洞になりて広さいかほどといふ事もしれず。鯛の多くつく所にて、常に蜑《あま》のかよふ所なり。このあまの物がたりせしは、この石の裂けたる間より覗けば、内は南を受けて明らかによく見ゆる、その洞の内に大なる鯛壱ツ住みてあり。人の覗くをみては驚きいかりて、鰭をふり頭をもたぐるさま、恐ろしき事いはんかたなし。この鯛、水にひたり居《を》るゆゑ、全體は見えねども、いかほど大なるものとも計りがたし。これははじめこの鯛、石の裂けたるあひだより、入りて、洞の中にて生長して出る事なりがたく、年へてかくあるなり。これを興津鯛と号し来るといへり。

[やぶちゃん注:幸い、順次のルーティンで先月末に「譚海 卷之五 駿州興津鯛の事」として正規表現で公開してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大擂鉢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大摺鉢【おおすりばち】 〔譚海巻九〕備前国へ遊びたる人の物語りせしは、その国の瀬戸物商売する店に、二間四方の摺鉢有り。これは何に用事にやと尋ねしかば、これは久留米侯より註文にて、こしらへ進じたるとき、かけがへに出来したるなり。有馬の御在所の御別荘の、手水鉢にせらる之ょしにて、代金百三十両に請合ひ、こしらへさせ侍れど、かくのごとく大なる物ゆゑ、土にて拵へたる間に、ふちそりくづれて、七つまでこしらへそんぜし故、百三十両にて請合ひ侍れど、大いに損毛に及びたり、これはその七つの内、余計に焼きたるが残りたるなり、かほど大なるものゆゑ、外に望人無ㇾ之、こまり侍る、今は鳥目三十貫にもうり申度と申せしよし。大名の物数寄ドは無珀なる巾なり。かの侯寛裕を好まれ、俠者なるゆゑ、かゝる趣向もありし事にやといへり。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷之九 備前國大すり鉢の事 久留米侯寬裕の事 (フライング公開)」を正規表現で電子化しておいた。]

譚海 卷之九 備前國大すり鉢の事 久留米侯寬裕の事 (フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 備前國へあそびたる人の物語せしは、其國の瀨戶物商賣する店に、二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]四方の摺鉢有(あり)。

「これは、何に用(もちふる)事にや。」

と尋ねしかば、

「これは、久留米侯より、註文にて、こしらへ進じたるとき、かけがへ[やぶちゃん注:予備。]に出來(しゆつら)したるなり。有馬の御在所の御別莊の、手水鉢(てうづばち)にせらるゝよしにて、代金百三十兩に請合(うけあひ)、こしらへさせ侍れど、かくのごとく大なる物ゆゑ、土にて拵(こしら)へたる間に、ふち、そり、くづれて、七つまでこしらへ、そんぜし故、百三十兩にて請合侍れど、大(おほい)に損毛(そんもう)に及びたり。是は其七つの内、餘計に燒(やき)たるが、殘りたるなり。かほど大成(なる)ものゆゑ、外(ほか)に望人(のぞむひと)、無ㇾ之(これなく)、こまり侍る。今は、鳥目(てうもく)三十貫にも、うり申度(まうしたき)。」

と申せしよし。

「大名の物數寄(ものずき)は無類成(なる)事なり。かの侯、寛裕を好まれ、俠者なるゆゑ、かゝる趣向も、ありし事にや。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「久留米侯」有馬頼貴。筑後久留米藩第八代藩主。有馬家の始まりは、播磨の名門、赤松家四代円心則村の三男播磨(兵庫県)守護職赤松則裕で、その子義裕が摂津の有馬郡を配され、有馬と名乗るようになったが、元和六(一六二〇)年に丹波国福知山藩八万石の大名であった有馬豊氏(とようじ)が、久留米二十一万石で入封して以来、幕末まで有馬氏が藩主を務めた(以上はウィキの「久留米藩」に拠った)。有馬頼貴については、昨日、ルーティンで公開した本話の後にある「譚海 卷之九 同侯江戶の邸及侯性行の事」を参照されたい。このデカ鉢もさることながら、かなりのトンデモ変人であることが判る。【以上は総て二〇二四年二月二十五日追記】

「寛裕」「心が広くてゆったりしていること」或いは「(生活・時間などが)裕福である・豊かである・ゆとりがある」の意で、それでいいと思うのだが、何故か、本文の最後の「寛裕」(「寬」となっていないのはママ)に「裕」の右手に編者の補正注があり、『俗』とある。しかし、「寛俗」という熟語は私は見たことがない。敢えて文字列から言えば、「俗人や民草の風俗に対して寛容であること」を言うか。しかし、「寛裕」の後者の意でよくはないか?]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大坂城と難波戦記」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大坂城と難波戦記【おおさかじょうとなんばせんき】 〔耳囊巻二〕安永・天明の頃にや。予〈根岸鎮衛〉が知れる石川某大番の健士勤めて、大坂に在番なし、つれづれには同僚の人々寄り集りて、書物等読み、その外雑談等をなす事の由。夏の事なりしが、同僚の内、『難波戦記』の本を惜り出し、最早番所引候ゆゑ、何れも円居(まどゐ)して右の本を読みけるに、表の勤番所、市中火事沙汰の由申すゆゑ、各ヒ驚きて何方の火事にやと、所々を遠見すれど、火事の沙汰なし。誰より通じたるやと、表の番所を承れど、知れるものなし。寝おびれたるものの仕業ならんと、何れもまた元の所へ立帰りて、『難波戦記』を読みしに、暫く有りて、また火事沙汰の事を申入るものありしゆゑ、この度はいづれも庭までも立出て、段々札しけれども、何の沙汰もなし。さるにても何ものか、かゝるいたづらをなすやと、いづれもつぶやきて、元の所へ来りしが、列座の内ふと心附き申しけるは、今日は五月六日にて、大坂落城の日限なり、しかるに『難波戦記』を読みしは心なき事なりと、いづれもこれを聞きて、思はずぞつとして、早く仕廻ひ臥しぬと、彼石川の物語りなり。

[やぶちゃん注:私のものは、「耳囊 巻之九 戰記を讀みて聊怪しみ有事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大坂城中の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大坂城中の怪【おおさかじょうちゅうのかい】 〔甲子夜話巻二十二〕大坂の御城内の居所の中に、明けずの間とて有りとなり。此所大なる廊下の側にあり。こゝは五月落城の時より閉ぢたるまヽにて、今も一度も開きたることなしと云ふ。因て代々のことなれば、若し戸に損じあれば、版《いた》を以てこれを補ひ、開かざることゝなし置けり。これは落城のとき、宮中婦女の生害《しやうがい》せし所となり。かゝる故か、後尚その幽魂のこりて、こゝに入る者あれば、必ず変殃《へんわう》[やぶちゃん注:「禍(わざはひ)」。]を為すことあり。またその前なる廊下に臥す者ありても、また怪異のことに遇ふとなり。観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことに因て、稲葉丹州御城代たりしとき従ひ往きたり。或日丹州の宴席に侍して被酒《ひしゆ》し、覚えず彼(か)の廊下に酔臥《すいぐわ》せり。明日丹州問うて曰く、昨夜怪しきことなきやと。宗三郎不覚のよしを答ふ。丹州曰く、さらばよし、こゝは若《も》し臥す者あれば、かくかくの変あり、汝元来《もとより》この事を不ㇾ知、因て冥霊《めいれい》も免《ゆる》す所あらんと云はれければ、宗三聞《きき》て始めて怖れ、戦慄し居《を》る所を知らずと。また宗三物語りしは、天気晴朗せしとき、かの室の戸の透間より窺ひ見れば、その奥に蚊帳と覚しきもの、半ばはづれ半ば鈎《かぎ》にかゝりたるものほのかに見ゆ。また半挿《はんざふ》の如きもの、その余の器物共の取ちらしたる体《てい》に見ゆ。然れども数年《すねん》久しく陰閉の所ゆゑ、ただその状を察するのみと。いかにも身毛《みのけ》だてる話なり。また聞く、御城代某侯、その威権を以て開きしこと有りしに、忽ち狂を発せられて止みたりと。誰にてか有りけん、この事林子《しんし》に話せば、大咲《おほわらひ》して曰く、今の坂城は豊臣氏の旧《もと》に非ず、偃武《えんぶ》[やぶちゃん注:天下泰平。]の後築き改められぬ。まして厦屋《かをく》の類は勿論後の物なり。総て世にかゝる造説の実《まこと》らしきこと多きものなり。その城代たる人も旧事詮索なければ、徒に斉東野人《せいとうやじん》の語を信じて伝ふること、気の毒千万なりと云ふ。林氏の説また勿論なり。然れども世には意外の実跡もあり。また暗記の言は的証とも為しがたきなり。故にこヽに両端を叩きて後定を竣《ま》つ。〔同巻廿六〕或人曰く、大坂の御城代某侯(名は不ㇾ聞《きかざ》りし)初め彼《かの》地に赴かれしとき、御城中の寝処《しんじよ》は、前職より誰も寝ざる所と云ひ伝へたるを、この侯は心剛《かう》なる人にて、入城の夜その所に寝られしが、夜更けて便所にゆかんとて、手燭をとぼし障子をあけたれば、大男の山伏平伏して居《ゐ》たり。侯驚きもせず、山伏に手燭を持《もち》て便所の導きせよと云はれたれば、山伏不性《ふしやう》げに立《たち》て案内して便所に到る。侯中に入《いり》て良《やや》久しく居《ゐ》て出《いで》たるに、山伏猶居《をり》たるゆゑ、侯手水《てうづ》をかけよと云はれたれば、山伏乃《すなは》ち水をかけたり。侯また手燭を持たせて寝処へ還られ、それより快く臥《ふさ》れし。然るに後三夜の程は同じかりしかど、それよりは出《いで》ずなりしと。総じて世の怪物も大抵その由る所あるものなるが、この怪は何の変化《へんげ》せしにや、人その由を知らず。またこの侯は本多大和守忠亮と云はれしが、奥方相良氏(舎侯の息女)後《のち》栄寿院と称せし夫人の従弟にてありける。この話もこの相良氏の物語られしを正しく伝聞す。 (補。初めに名不ㇾ聞と註して、此処に本多とあるは矛盾、又舎侯は令侯か、文意不審)

[やぶちゃん注:前者は「フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事」として、また、後者も「フライング単発 甲子夜話卷之二十六 15 大阪御城代寢所の化物」として(但し、南方熊楠の「人柱の話」(リンク先はPDF一括版。ブログ分割版もある)の注に必要となったためのフライングである)既に正字表記で電子化注してある。]

〔同巻九〕新庄駿河守直規と云ひしは(常州麻生領主一万石)予〈松浦静山〉が縁家にして、活達直情なる人なりし。寛政中擢でられて大番頭となる。その話に、大坂在番に往きて御城中に居るに、深夜など騒々然と音あり。松風かと戸を開て聞けば、さにはあらで、正しく人馬喧噪乱争の声を遠く聞く如し。暫くにして止む。時々此の如き事あり。相伝ふ。当時戦没の人魂気残れるなりとぞ。予奇聞と思ひ、その後在番せし人に問ヘば、その事、知らずと云。駿州、虛誕を云ふ人に非ず。心無き輩は何ごとも氣の付ぬにや。

[やぶちゃん注:以上は、この条のために「フライング単発 甲子夜話卷之九 12 大坂御城中、深夜に殺氣ある事」として電子化注しておいた。]

〔真佐喜のかつら〕俳友蕉窓寥雨《しやうさうれうう》は青山五拾人町に住す。通称折井芳作と言ふ。父は仁左衛門、この人大坂並びに京二条御番五十余度勤められし。至つて健かにて七十歳にて没す。或年庭中にて目白一羽をとらふ。殊に愛し、京大坂へも行く折は、籠にて連れられしが、この鳥珍しく生きて九度在勤の供せしとは。仁左衛門隠居して只俳諧のみを好む。予〈青葱堂冬圃〉冬史(後《のち》且尊庵乙雄《しよそんあんおつゆう》と云ふ)とともに寥雨が宅へ行き、俳席の後、仁左衛門も出られ、酒飲み四方山《よもやま》の噺しの序《ついで》、大坂御城代の事をとふに、何事にても他へ洩らす事を禁ず。されど隠居の身分、ひとつふたつを申し語るべし。或夜自分の小家《しやうか》に臥しけるが、ふと灯消えぬ。また燈を打つも煩はしとその儘眠りぬ。頓(やが)て額に何やら障る物あり、驚きめざめて手を以てさぐり見るに、我身は蒲団とともに高く引揚げられ、天井にひたと附き、額に障りしは天井の板なり。いかにもおそろしけれど、声立つるも恥かしく、枕紙を引さき、天井に張り、こヽろをしづめ、眼をとぢゐけるに、思はずも眠りぬ。夜明けて天井を見るに、覚えの紙附きゐたり。まさしく引あげられたるとおもへば、何となくおそろしく、人にもかたらず慎み居たり。また年過ぎて在番の節、重役のかたへ要事ありて、手燭してひとり廊下を行くに、ふと灯の消えたりけれど、心得たる所なれば、静かに歩行《ありき》ゆくに、向うよりも人のくる音す。ふしぎにおもひ進み行くに、その人近くなりよく見るに、丈《たけ》高く色しろく、至つて肥えふとりたる男、紋附の衣に肩衣袴《かたぎぬばかま》を著たるなり。されど平日見も馴れぬひとなれば、互ひに摺違《すれちが》うて行き過ぎぬ。それよりふと思ひみるに、咫尺《しせき》もわからぬくらき所にて、人のかたち衣類等の色まであざやかに見えたるは、いかにも怪しき事なりと、はじめて心付《こころづ》きおそろしく、その夜は行きたる先に臥して、夜明けてより小屋に戻りぬ。かゝる事は折々同役どもの上にもありしよし語られぬ。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」帝江氏のブログ「自分の眼と引き換えに主人の眼病を治した猫の話-眼病と猫(青葱堂冬圃著『真佐喜のかつら』五より)」によれば、深川の商人で俳人でもあった青葱堂冬圃(せいそうどうとうほ)の随筆。作者は、『何らかの咎により江戸払いとなり、関西に逃れ諸国を巡り、弘化年間』(一八四四年~一八四八年)『のはじめに、江戸に戻り、四谷に在住したということがわか』っており、『また』、『本文の記述から、明治まで存命で、当時の著名な人物らと交際していたことがわかる』ものの『それ以上の詳細については不明である』とあり、この随筆は『主に写本で伝わる随筆で、成立は』、『序文』及び『本文から』、『天保~嘉永』(一八三〇年~一八五四年)『であると思われる。青葱堂冬圃が書き貯めた文を編んだもので、諸本に残欠本があることから』、『現存する十巻がすべてではないらしい。収録内容は、当時の事件事故から奇談遺聞までと多様である。豊臣氏を称揚し、徳川氏を抑えるような記事があり(藤堂高虎への苛烈な批判など)、当時の世相とあわせて著者の政治的思想が伺えるような部分もある』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから正規表現で視認出来る。

「蕉窓寥雨」(現代仮名遣「しょうそうりょうう」)不詳。

「青山五拾人町」現在の港区北青山二丁目(グーグル・マップ・データ)。平凡社「日本歴史地名大系」によれば、『矢倉沢(やぐらさわ)往還の北側にある拝領町屋で、別に往還の南側背後に飛地(現南青山二丁目)。本町の四周は道に囲まれ二区画に分れており、東が青山浅河(あおやまあさかわ)町と幕臣邸、南が往還を隔てて幕臣邸、西と北も幕臣邸。飛地は片側町で、東が幕臣邸、南が道を隔てて幕臣邸、北が青山御手大工(あおやまおてだいく)町。文政町方書上』(ぶんせいまちがたかきあげ)『によると、徳川家康が入部したとき』、『御茶ノ水台と湯島天神前に下された小給の者の町屋敷であったが、両所とも天和三』(一六八三)年に『御用地に召上げられ、代地を青山下野守の上げ屋敷内に拝領した。御作事方定普請同心』五十『人が受けたので』、『町名にしてきたが、その後』、『見習の者も増え、組内で七四ヵ所に地割を変えたという』とあった。

「京二条在番」江戸幕府の職名。大番組十二組が交代で、京都二条城の城内警固と管理に当たった。在番制は寛永元(一六二四)年に定められたとされ、江戸から大番が番士を率いて上洛し、一年交代で勤務した。東西の役屋敷と番衆小屋は二の丸内に設けられた。番衆の合力米(ごうりきまい)は銀渡りであったが、元禄一二(一六九九)年以後、二条蔵詰米から現米を支給した。番頭の定員は二名、役料三千俵、与力三十騎、同心百人をそれぞれ附属した。

「冬史」「且尊庵乙雄」不詳。読みは勝手に音読みしただけ。

「肩衣袴」肩衣(江戸時代の武士の公服の一部。袴と合わせて用い、上下同地同色の場合は「裃」(かみしも)と称し、相違するときは「継裃」(つぎがみしも)と呼んだ。また、上の部分を「肩衣」と呼んで区別した)に半袴(はんばかま:丈(たけ)が足首までで、裾に括(くく)り紐のない袴。則ち、現在、普通に着用する袴を指す。裾口に括り紐のある小袴より裾短かに仕立てたことによる呼称。「平袴」(ひらばかまとも言う)をつけること。江戸時代、武家の政務担当者の公服で、肩衣と袴を同地同色とする裃(かみしも)。肩衣小袴。]

フライング単発 甲子夜話卷之九 12 大坂御城中、深夜に殺氣ある事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

9―12

 新庄駿河守直規(なほのり)と云(いひ)しは【常州麻生(あさふ)領主、一萬石。】予が緣家にして、活達直情なる人なりし。

 寬政中、擢(ぬきんで)られて大番頭(おほばんがしら)となる。

 其話に、

「大坂在番に往(ゆき)て、御城中に居(を)るに、深夜など、騷騷然(さうざうぜん)と音あり。

『松風か。』

と戶を開(ひらき)て聞けば、さにはあらで、正しく、人馬、喧噪、亂爭の聲を遠く聞(きく)如し。

 暫(しばらく)にして止む。

 時々、如ㇾ此(かくのごとき)ことあり。

 相傳ふ。

『當時、戰沒の人、魂氣(こんき)、殘れるなり。』

とぞ。」

 予、奇聞と思ひ、その後、在番せし人に問ヘば、

「其事、不ㇾ知(しらず)。」

と云。

 駿州、虛誕を云(いふ)人に非ず。心無き輩は、何ごとも氣の付(つか)ぬにや。

■やぶちゃんの呟き

「新庄駿河守直規」(宝暦元(一七五一)年~文化五(一八〇八)年:静山より九つ年上)は常陸麻生藩第十一代藩主。当該ウィキによれば、第九代藩主『新庄直隆の長男として江戸で生まれる。父が宝暦』五(一七五五)年に『隠居したときには』、未だ五『歳の幼少だったため、家督は叔父の直侯』(なおよし)『が継いで』、『直規は』、『その養子となり、明和』九(一七七二)年に『直侯が死去すると』、『家督を継いだ。同年』十二月に『従五位下・駿河守に叙位・任官』した。『直規は積極的な藩政改革を推し進め、寛政元』(一七八九)年四『月には凶作による藩財政難により、家臣団に』三『ヵ年の倹約令を出した』。同十二月には、「享保の改革」を『模範として目安箱を設置している。寛政』二(一七九〇)年には、『藩人口減少に対処するため、困窮者の子供や』、『その妊婦などに対して養育米を支給したりしている。寛政』三(一七九一年)には『民政に関する』十八ヶ『条の条目を制定した』。寛政六(一七九四)年八月八日から寛政十一(一七九九)年十二月まで『大番頭』(江戸城警護及び江戸市中の警備にあたる大番十二組の各組の長が大番頭。老中支配。最初は譜代大名から任ぜられたが、後に上級の旗本から選ばれるようになった)『を務めた。また、大坂城・二条城・駿府城の勤番職も歴任した。享和三(一八〇三)年十月二十日、『病気を理由に家督を長男・直計に譲って隠居』した。文化五(一八〇八)年三月二十三日に死去し、享年五十八であった。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆を開始しているから、この時は既に白玉楼中の人であった。

「予が緣家」どのような縁戚なのかは不明。姻族であろう。

「大坂在番」大坂城を警護する江戸幕府の軍事組織である大坂在番の一つ。「大坂城番」「大坂定番」とも言った。元和七(一六二三)年に創設され、老中支配。職掌は大坂城の諸奉行を統括し、城内の維持管理に当たった。二〜三万石の譜代大名が任ぜられた。定数は京橋口定番・玉造(たまつくり)口定番各一名。月番制で、任期は不定であった。与力三十騎・同心百人が附属し、役料は三千俵で、役宅も支給された。なお、大坂在番には、ほかに大番・加番・目付があった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大鯉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大鯉【おおごい】 〔孔雀楼筆記巻一〕賀茂ノ蟻ガ池<京都市内>ハ、人ノ溺死スルコト度々アリ。竜スムトモ言ヒ伝フ。雨ヲ祈レバ必ズ効《しるし》アリ。我〈清田儋叟《せいたせんそう》〉童児ノ時、上立売通堀上丁《かみたちうりほりのうへちやう》ニ住メル某トモイフモノ、二三人ヲ伴ヒ、カノ池へ魚ヲ釣リニユク。巨蟒(ウハバミ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]出《いで》タリトテニゲ帰ル。ソレヨリ大熱シテ、翌晩ニ死ス。伴ヒタル二人ハ、数日ヤミテ平復ス。マタ一俠客《をとこたて》アリ。友ヲ伴ヒ釣ニユク。八ツ<午後二時>過ギノ頃、水波ニハカニ起リケレバ、皆ニゲテ帰ル。カノ俠客ハ、茂樹《もじゆ》ノ中ニ隠レ、ヒソカニ見届ケル。シバシ有テ、池中ヨリ物有テ頭サシ出《いだ》ス。水面ニアラハルヽ所、半身バカリト思ハル。竜ニモ蟒ニモアラデ、マガフベクモナク、甚《はなはだ》大ナル鯉魚ニテゾ有リケル。頭ハ馬頭ニ比スレバ、ナホ大ニアリシトカヤ。 〔譚海巻一〕安永元年の冬、下総国松戸<千葉県松戸市>にて川をせき水をほし、鯉鮒のたぐひを捕り得て市にひさぐに、六尺余りの鯉をえたり。これを貯ふる物なければ、酒屋の酒を造る桶に入れたるに、所の寺の住持、おほくの銭に代へてもらひ受け、もとの淵にはなちたり。已来この鯉取り得るものありとも、構へて殺すまじきよしを戒め約しけりとぞ。同五年にも、利根川にて捕りたる鯉七尺余有りけるを、ある人の夢にみえけるまゝ、千住<東京都足立区内>にて金三百疋に買ひ取り、不忍池<東京都台東区内>に放ちたりとぞ。

[やぶちゃん注:「孔雀楼筆記」儒者清田儋叟(享保四(一七一九)年~天明五(一七八五)年:京の儒者伊藤竜洲(りゅうしゅう)の三男。名は絢。長兄伊藤錦里は経学を、次兄江村北海は詩を、儋叟は文を以って知られた。父の本姓清田を継ぎ、越前福井藩儒となる)の随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、明和五(一七六八)年板行の原本が視認でき、ここと、ここが当該部。「目錄」には「蟻ガ池」である。

「賀茂ノ蟻ガ池」京都府京都市北区上賀茂本山(かみがももとやま:グーグル・マップ・データ)に現存する。別名「阿礼ヶ池」(あれがいけ)。上賀茂神社の後背で、東直近の上賀茂神社の北に丸山(標高百四十九メートル)があり、さらにその北に同神社の神山がある。

 後者は私の「譚海 卷之一 下總國松戶にて鯉人の夢に見える事」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大亀」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大亀【おおがめ】 〔閑田耕筆巻三〕同じ和尚〈守興〉備前の下津居より船にて、丸亀へ渡る浦上、丸亀近くなりて、遙かむかひに五尺ばかりなる黒き水尾《みを》つくしみゆ。さも深かるべき所に、いかに長き木を打ちこみて、かく見ゆるばかりにやと怪しくて、船頭に問はれしかば、船頭見て、あれは大亀の首を出したるなり。空曇りなく海のどかなる日は、かく首を出《いだ》し、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]全身をも見す。昔より大小二亀住みて、大なるは廿畳敷のほどもあらん、小なるもさのみは劣らず、このものの住めるが故に、こゝを丸亀とは名付けたりと語りしとぞ。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」既出既注だが、再掲すると、伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。

「備前の下津居」「下津井」が正しい。現在の岡山県倉敷市下津井田ノ浦附近(グーグル・マップ・データ。次も同じ)であろう。

「丸亀」香川県丸亀市。現在はこの航路部分には瀬戸大橋が架かっている。但し、丸亀の地名は、旧丸亀城のあった城山が亀の形をしていたことに由来する。

 なお、「閑田耕筆」の本文には、この前に一つ、後に四つの亀の記事が載る。後のそれは、連関性がないので、見て戴くとして、前者は、本篇の同じ僧の語る記なれば、以下に本篇も一緒に正字で電子化しておく。句読点は一切ない。

   *

○海龜は尾のふさやかなるものなりおのれはりま高砂の沖にて水中にをるを見たり守興和尙の話にこのもの岸に登りて卵を產み身をもてよく地を堅めて人しらぬやうに構ふ人も亦はゞかりて是をとらず取れば祟りて其年漁《すなど》りても魚を得がたし龜は龍王に次《つぎ》て海中に勢《いきほひ》ある物なればとかやさて彼《かの》卵を埋《うづ》みたる所の遠近《をちこち》をとめて[やぶちゃん注:目を留めて考え。]其年の波の高《たか》と低《ひく》を占ふ又童《わらは》などもし彼《かの》卵を取《とる》ことあれば是をもて脫肛を療するに妙なり味醬汁[やぶちゃん注:味噌汁のことか。]に調して喰へば數寸脫せるも卽時に收《をさま》りて其勢ひ病人も自《おのづと》おどろく計《ばかり》なり時にやゝ痛めども收りては後《のち》患《わづらひ》なしとなん

○同じ和尙備前の下津居より船にて丸龜へ渡る海上丸龜近くなりて遙むかひに五尺計なる黑き水尾つくしみゆさも深かるべき所にいかに長き木をうちこみてかく見ゆる斗にやとあやしくて船頭にとはれしかば船頭見てあれは大龜の首を出したるなり空曇なく海のどかなる日はかく首を出しあるひは全身をも見す昔より大小二龜住て大なるは廿疊敷のほどもあらん小なるもさのみは劣ずこのものゝ住るが故にこゝを丸龜とは名付たりと語りしとぞ

   *]

2023/08/20

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大蚊柱」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大蚊柱【おおかばしら】 〔塩尻巻五十〕同七月〈正徳三年[やぶちゃん注:一七一三年。]〉末、府城南門の左右(東は武平、西は御園御門)の堀の所々より、煙のごとく立のぼりたるもの有り。囲一丈ばかり、長四五丈もや有りなん。柱など立たるやうに薄曇りて、夕附日(ゆふぢくに)にうつろひ、色異様に見えし。人《ひと》立《たち》よりよく見れば、蚊幾百億ともなく集まりて、この形をなせし。蚊柱といふべきにや。いかさま希有の事とかたりしか。廿六日邦君<尾州藩主、徳川吉通>隠れさせたまへりとなん、廿九日に聞ゆ。さてはかゝ事の先兆にやといふ人多かりし。 〔煙霞綺談巻二〕元禄元庚戌六月、尾州名古屋広小路に出火ありとて、皆駈著《かけつ》けしに、出火なく只烟《けぶり》のみおびたゞしく立つ。よく見れば烟《けふり》にはあらで、蚊いかほどともなく集り、高サ三四丈あつて烟のごとく見えたるなり。これ蚊柱といふものなり。然れどもかやうの夥しき事は未曾有の事なり。暫く大いに忩動《そうどう》せしと云ふ。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ下段後方)から正字で視認出来る。

「蚊柱」は水辺などで、双翅目糸角亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae の形成するものが有名(老婆心ながらユスリカは刺さない)であるが、広くカの仲間や他の双翅類(ガガンボダマシ科Trichoceridaeやヒメガガンボ科Limoniidae。やはり吸血はしない)が軒下などに群れて柱状に長く延び上がり、上下しながら飛ぶ生殖行動に伴う現象をいう。刺すカ科の仲間でも、アカイエカ・コガタアカイエカなどが顕著な蚊柱を作る七~八月頃の夕方や朝、羽音をたてながら、二十~五十匹、時には数百匹の♂が群飛する(則ち、本来の蚊柱を形成するのは♂であるから蚊柱の蚊は刺さないのである)と、そこに♀が入ってきて、交尾が行われ、蚊柱は、凡そ四、五十分で消失する。♂は♀の入来を♀固有の羽音で感知するといわれている。蚊の産卵には水が必要で、蚊には低気圧が近づいて湿度が高まり、蒸し暑くなると、本能的に生殖活動を行うプログラムがなされているらしく、蚊柱が立つと、一日、二日のうちに雨の降ることが多いとも言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」の一部参考にさせて貰った)。

「府城南門」著者天野信景(さだかげ)は尾張藩士であるから、名古屋城のそれ。グーグル・マップ・データの門の跡はここ。堀川の東直近であるから、蚊柱は出来易い環境とは言える。但し、私は山の中腹の私の家の直近でしばしば巨大な蚊柱を見たから、必ずしも水辺とは限らぬようだ。

「徳川吉通」(よしみち 元禄二(一六八九)年~正徳三年七月二十六日(一七一三年九月十五日)は尾張藩第四代藩主。当該ウィキによれば、満二十三歳の若さで、『食後』、『急に吐血して悶死するという異常な死に方をしている』。『しかも医師が近侍していながら、まったく看病しなかったともいわれ、当時からその死因を不審がる者もいた』。『名古屋藩士朝日重章の日記』「鸚鵡籠中記」には、『その頃』、頻りに『和歌山藩の間者が名古屋藩邸をうかがっているという風聞を掲載している』。『なお、吉通の子の五郎太も正徳』三(一七一三)年十月に『死去したため、尾張徳川家の正統は将軍家に先立って絶えることとなった』とある。

「煙霞綺談」全四巻。遠州金谷(かなや)宿(現在の静岡県島田市金谷本町)の出身の俳人西村白烏(はくう)の主に三河附近の実話巷談を記した随筆。西村は京の儒者新井白蛾に易を学び、蕉門の中川乙由門の佐久間柳居に俳諧を学んだ。同郷の林自見が自分が書いた「市井雑談」の続篇を書くように勧められて執筆したものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。「けぶり」「けふり」はそれに従った。前者の濁点は汚損とも考えられるが、取り敢えず、打っておいた。

「元禄元庚戌六月」一六八八年六月二十八日から七月二十六日まで。

「尾州名古屋広小路」ここ(グーグル・マップ・データ)。戦前の地図を見ても、ここは水辺ではない。]

2023/08/19

「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の本格改訂始動

 「和漢三才圖會」の二〇〇八年の古いサイト版の改訂を「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」から始めたが、やり始めて、恐ろしく時間がかかることが判った。特に、欧文部分で特殊なフォントを用いているため、それを、いちいち、手動で作り変えねばならないのであった。

 まあ、まんず、ゆるゆるやろう。

 ほぼ毎日、一項以上は改訂補正する。恐らく、私の古層の仕切り直しの最後となろう――

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大鮑」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大鮑【おおあわび】 〔梅翁随筆巻四〕寛文五乙巳《きのとみ》年五月、安房国亀崎といふ所の海上、夜毎に光あり。蜑(あま)等不審におもひ、ある夜四五人申合せ、海底に入りてその光りを見るに、凡そ七八十丁余りの大鮑ありしとなり。珍らしきものなればとて、人々にも告げしらせし程に、この辺の海人《あま》ども皆見たりといふ。かほどまで大いなる鮑有るものにや。都(すべ)て鮑多くあつまりたる節は、海上時によりて光る事有るものなりといへり。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」作者不詳の寛政年間を中心とした見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページの「『○龜崎大鮑之事』)で正規表現版が視認出来る。

「寛文五乙巳年五月」一六六五年六月十四日から七月十二日。

「七八十丁余り」原文のママ。もし、これ、「七十町から八十町余り」だとすると、七・六三六~八・七二七キロメートルで、こんな途方もないものは存在しないのは当たり前で、寧ろ、事実として信じる者は当時でもいなかっただろう。海中なので、大きさがよく判らなかったから、「七、八」から「十」町ほどの大きさという意味か。とすれば、七百八十六~八百七十三メートル若しくは一・〇九キロメートルとなるが、それでも大き過ぎて、阿呆臭い。寧ろ、これは「十」は衍字で、「丁」は「間」(けん)の誤りで、「七、八間餘」の誤記であろうと思う。その証拠に、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一一)』の「九つ孔の開いた鮑貝――その背後のものを、すべて隱すほどに大きな――」の注で記した、国学者で強力な考証家として知られた小山田与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)の「松屋筆記」に、寛文五(一六六五)年のこと、安房国平群(へぐり)郡亀崎(現在の千葉県南房総市富浦町(とみうらまち))の海に潜った海士(あま)らが、海底に七、八間(十二・八~十四・五メートル)四方の鮑がいた、と記している(その時のソースは、所持している荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 漢産無脊椎動物」の「アワビ」の「巨大アワビ」の項に拠ったもの)のが、まだ、大きさが嘘とは言えども、腑に落ちるレベルであるからである。今回、国立国会図書館デジタルコレクションの同書の活字本(明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のここ(左ページ下段中央)で、漸く見つけた。確かに、『長サ七八間許ノ鮑アリ』とあった。但し、本邦には古くから諸所で、化け物大の鰒(あわび)の話が多くあり、光りを放っていたというのも、御約束としてある、かなりメジャーな伝承なのである。例えば、「大和怪異記 卷之五 第九 大石※明の事《おほあはびのこと》」を見られたい。最も古いものは、「日本書紀」の允恭天皇十四年乙丑(四二五年)九月甲子(十二日)の条の男狹磯(をさし)が身を挺して引き揚げた(彼は「大蝮を抱きて泛(う)き出でたり」とある)「大鰒(おほあはび)」であろう。そのアワビの大きさは記されていないが、その体内から取り出した真珠は「桃の子(み)」の大きさだったとあるから、これは誇張はあっても、まあ、あり得る限界値に近い大オアワビだったと言ってよかろう。その「日本書紀」の箇所は、『「日本山海名産図会」電子化注始動 / 第三巻 目録・伊勢鰒』の注で電子化してあるので、見られたい。因みに、現在までに知られている「巨大アワビ」の実例としては、アメリカ・カリフォルニア州沿岸に棲息するアワビ属アカネアワビHaliotis rufescens(英名:Red Abalone。既に本邦では輸入アワビの代表格となっている)の、一九九三年九月に採取された三十一センチメートル三十四ミリメートルという個体が現在までの世界最大記録とされている。『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一一)』の私の「九つ孔の開いた鮑貝――その背後のものを、すべて隱すほどに大きな――」の注を参照されたい。そこのリンク先で同種の「巨大アワビ」の殻が写真で見られる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鸚鵡石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。なお、この前の「鸚鵡蔵」も必ず参照されたい。

 

 鸚鵡石【おうむせき】 〔輶軒小録〕伊勢山田の祠官福嶋鶴渓氏、平素物語りに、本州市の瀬村に異石あり。人語に答ふ。土民因りて鸚鵡石といふ。享保十五年庚戌の歳、奥田蘭汀(名士享、字《あざま》喜甫)の招《まねき》に依りて勢州に往き、豊原に留りぬ。それより射和(いさわ)、相可(あふか)の辺に逍遙し、彼石を見んとて、案内者を尋ぬるに一人もしる者なし。蘭汀生、漸《やうや》う嚮導《きやうだう》一人を求めて得て、西山四神田など云ふ所を歴て、或ひは山、或ひは村、清泉茂林の幽辟の間を行くこと数里にして、駒が野と云ふ処にて日暮る。此処に寄り、川を見下し、もつとも絶景なり。此処に宿し、翌日行くこと二里ばかりにして、中村と云ふ処に著く。一《いつ》の大岩《おほいは》山の半腹に偃然《えんぜん》[やぶちゃん注:やすらかなさま。]たり。即ち鸚鵡石なり。その高さ十余丈、横はゞ二十丈ばかりもあり。その色青黒山石の色なり。その右手百間も有るべきか[やぶちゃん注:現在のそれは、高さ十八メートル、長さ四十メートルであるから、余りに誇大表現である。サイト「YAMAP」の「古くから愛される名勝『おうむ石』」で確認した。(写真が、多数、有り)]。その上に氈《おりかも/かも》[やぶちゃん注:毛織りの敷物。]など布《し》き、数人《すにん》坐し居《ゐ》るべし。その岩の上に居《を》りて云へば、彼石もまた人の言ふ如く対《こた》ふるなり。謡を諷(うた)ひ、皷《つづみ》を打ち、三絃など弾《だん》すれば、石もまたそれぞれの音をなし。[やぶちゃん注:読点とすべき箇所。]さゝやけばさゝやく声をなす。わめけばわめく声をなす。屛風障子のあなたにて人の言ふが如し。帝釈中之助と云ふ郷士あり。それより皷をかり来り打ちければ、岩の中にも皷を打つ。一行の中、笛を携へ来《きた》る人あり。試みに吹きけれども、曾て答へず。不審なり。総体その響く処は、岩の左の角にあり。全体へはひゞかず。唐《もろこし》にも有ることにて、響石とて詳かに『勢遊志』に著《しる》しおけり。こゝに贅せず。其所は紀州の領地にて、宮川《みやがは》の源なり。帰りは舟を買ひ、流に沿ひて下ること八里程にて、宮川に著く。この間も景よき処なり。その後伝播やゝひろく、桑原《くはばら》菅《すが》長義卿のうはさに因りて、詩記等を院の睿覧《えいらん》に入る時に、霊元帝御左院にて、画師山本宗仙に仰せ付けられ、屛風に図《づ》せられ、その記を書き付く。近ごろ、また奥田氏より云ひ来《きた》る。志州の海辺に、安楽嶋《あらしま》と云ふ処あり。此所に一の響石《ひびきいし》あり。鸚鵡石の如し。その地、海畔にて風景もつとも宜しき所にて、同言石《どうげんいし》と云ふとなん。また『海内奇観《かいだいきくわん》』と云ふ書を考ふるに、安慶府の浮山に、鸚鵡石と云ふ石あり。その形翅《はね》をたれ、啄《ついば》むが如しと。これは形を以て名付くるなり。また『雲林石譜』を考ふるに、荆南府に石あり。巨碑の如し。色浅緑にして甚だ堅からず。その色星《ほし》を靖《せい》す[やぶちゃん注:やすんずる。安泰にする。]べし。鸚鵡石と名づく。これは色を以て名付くるなり。広き天下の中、さまざまのことありて、人の物を名付くるも、同じき名にてもそれぐの趣向同じからざること、これにて推量すべし。 〔寛延雑秘録巻二〕備前国槇谷村金毘羅の社の近所の山に、寛保三年のころ鸚鵡石出来《しゆつらい》す。遠近《をちこち》の人見物に集り見ける所に、それかといへばそれかと響き、これぞといへばこれぞと答へ、何ほど長き事を云ひ懸けても詳《つまびらか》にこたふ。これを見聞く者おどろかぬはなし。よつて備前城下へ其所の役人相届け、また金毘羅の社一の宮の社家頭《しやけがしら》吉備津肥後守方《かた》へ申来り、肥後方よりも見届《みとどけ》に遣はしける所、さたの通りに紛れなし。不思議の事ども、其節是れのみ噂しけり。 〔煙霞綺談巻二〕伊勢国鸚鵡石といふは、世上に聞えたる石なり。同国磯部にも近年見出して人々美称す。三河国馬伏《ばぶし》村の山間へ、農家の女《をんな》摘草《つみくさ》に出《いで》しに、伴ふものに、もはや帰らばやなどいふに、石面《いしおもて》よりも同じくかへらばやと答ヘけるに、大いに驚き逃げ戻る。それより事を好む若者三味線・鼓《つづみ》など持ち行きて諷《うた》ひ踊るに、此方《こなた》にうたふよりは一際(ひときは)面白く響き諷ふ。磯部の石よりは響《ひびき》甚だよろしとて、誰いふともなく、鸚鵡石ともてはやす。二三ケ年已来の事なり。<『諸国里人談巻二』にも伊勢国鸚鵡石の事がある>

[やぶちゃん注:最初のそれは前項で述べた、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの写本が視認出来る。当該部はPDF一括版の16コマ目から。

「瀬村」同前の写本では「勢村」とある。

「西神田」同じく「神田」とある。

「鸚鵡石」以上に出る道程の地名はいちいち確認しないが、幾つかは、現存し、或いは戦前の地図で確認出来るので、この鸚鵡石は、三重県度会郡度会町町南中村にある「おおむ石」(グーグル・マップ・データ)であることは確定である。サイド・パネルの写真を確認されたい。

「勢遊志」当の伊藤(東涯)長胤著(天保一二 (一八四一)年板行)の伊勢紀行で、国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る(リンク先は同書の冒頭ある「鸚鵡石」を含む挿絵)。

「宮川の源なり」「おおむ石」の北方直近を流れる一ノ瀬川は、下って伊勢神宮近くに下る宮川にここ(グーグル・マップ・データ)で合流する。

「桑原菅長義」(万治四・寛文元(一六六一)~元文二(一七三七)年)は江戸後期の公卿。権大納言五条為庸(ためのぶ)の四男で、桑原家を起こした。五条家の本姓は菅原氏である。享保一〇(一七二五)年、権中納言に任ぜられ、同十九年には正二位に進んだ。

「霊元帝」第百十二代天皇(在位::寛文三(一六六三)年~貞享四(一六八七)年。但し、この以下の話は、先の「鸚鵡蔵」と混乱が生じているようである。例えば、ウィキの「鸚鵡石」では、『有名なのは三重県志摩市磯部町恵利原にある鸚鵡岩(おうむいわ)』『で、霊元天皇の叡覧に供したという』とあり、一方、てっつん氏のブログ「伊勢おいないな日記」の「鸚鵡(おおむ)石 (度会町南中村 )」では、『この地を有名にしたのは「桑原(菅)長義卿」(公家)の噂により霊元天皇』『が画工、山本宗仙に屏風を書かせ、書付けを行伊有名にしたと言われたりするが、伊勢参りが一生に一度のあこがれの大旅行になったとき、名所(奇跡)、寄り道の場所』、『観光名所として伝播していったのだろう』。『「鸚鵡(おおむ)石」は、伊勢志摩地区には』二『箇所あり』、『伊勢神宮「内宮」から別宮「伊雑宮」へ行く通称』、『伊勢道路を志摩市磯部町へ抜けた山肌にある「鸚鵡(おおむ)石(岩)」の方が有名だが、声の響きは明らかにこちらの方が良く』、『あまりにも訪れる人も少ないので、岩から声が返ってきたときの神秘さは、絶大で恥ずかしさもあまりない』と記しておられるのである。私も個人的には、岩の大きさから、てっつん氏の見解を支持するものである。

「御左院」正式な第一の上皇。霊元天皇は息子の東山天皇の際に院政を引いたが、東山天皇は宝永六(一七〇九)年に中御門天皇に譲位した。彼も存命している霊元上皇のように、自ら院政を開始する意向があったと見られるが、その後、間もなく天然痘に罹患して崩御した(満三十四歳没)。

「山本宗仙」詳細不詳。彼の描いたという屏風絵が現存するなら、どちらの「おうむ石」であったか判ると思うのだが、どうも、現存しないようである。ネットでは見出せなかった。

「安楽嶋」村名。現在の三重県鳥羽市安楽島町(あらしまちょう:グーグル・マップ・データ)・高丘(たかおか)町(前の安楽島町の中にある)・大明東(おあきひがし)町・大明西(おあきにし)町に相当する。

「同言石」現在は確認出来ない。

「海内奇観」明の楊爾曾輯になる地誌。一六一〇年序。

「安慶府の浮山」現在の安徽省安慶浮山景区(グーグル・マップ・データ)。

「雲林石譜」宋の杜綰撰になる名石譜。

「荆南府」現在の湖北省一帯(グーグル・マップ・データ)。

「寛延雑秘録」作者不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)の解題を見られたい。当該部はここの奇石記載の中の一節。「備前國鸚鵡石の事」。

「備前国槇谷村金毘羅の社」岡山県総社市槙谷(まきだに)にあった神社。現在は同地区のここにある池田神社(グーグル・マップ・データ)に合祀されてしまっている。

「寛保三年」一七四三年。

「煙霞綺談」は全四巻で、遠州金谷(かなや)宿(現在の静岡県島田市金谷本町)の出身の俳人西村白烏(はくう)の主に三河附近の実話巷談を記した随筆。西村は京の儒者新井白蛾に易を学び、蕉門の中川乙由門の佐久間柳居に俳諧を学んだ。同郷の林自見が自分が書いた「市井雑談」の続篇を書くように勧められて執筆したものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。但し、独立条ではなく、奇石記載の一節。左ページの後ろから八行目から。

三河国馬伏村」現在の愛知県田原市馬伏町(ばぶしちょう:グーグル・マップ・データ)。渥美半島のやや先に近い位置にある。

「『諸国里人談巻二』にも伊勢国鸚鵡石の事がある」私の「諸國里人談卷之二 鸚鵡石」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鸚鵡蔵」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鸚鵡蔵【おうむぐら】 〔一話一言巻二〕勢州磯部<現在の三重県志摩郡内>にある鸚鵡石の事は、伊藤東涯の『勢游記』並びに『輶軒小録』にも載せたれば、人みなしる所なり。また磯部にゆく道にある百姓の家に古き蔵あり。凡そ物の音響あつて、その音を発せざる事なし。よりて鸚鵡蔵あつて、その音を発せざる事なし。よりて鸚鵡蔵(ぐら)と名付くるよし、勢州津の人いせや金二郎かたりき。

[やぶちゃん注:「一話一言」(いちわいちげん)は既出だが、再掲すると、大田南畝著の随筆。全五十六巻であったが、六巻は散佚して、現存しない。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いたもので、歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四「増訂一話一言」四十八巻(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「奥州赤鼠」である。

「勢州磯部」「<現在の三重県志摩郡内>」現在は志摩市磯部町(いそべちょう:グーグル・マップ・データ)。而してこれは、三重県志摩市磯部町恵利原にある「鸚鵡岩」(おうむいわ:グーグル・マップ・データ)である。私は、幾つかの記事で既出既注。最も新しい「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鸚鵡石」の本文と私の注を参照されたい。ちょっと本文ではイメージし難いのだが、「蔵」とあるが、これは垂直に切り立つ大岩壁である。所謂、山彦現象と同じ、特定の場所から声を発すると、反響して聴こえる音声反射現象である。サイト「伊勢志摩観光ナビ」の「おうむ岩」に写真があるので見られたい。

「伊藤東涯の『勢游記』並びに『輶軒小録』」「伊藤東涯」(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)は古義学派の儒者。仁斎の長男。名は長胤(ながつぐ)。父の説を継承・発展させ、また、考証に長じて、現代でも有益な語学・制度関係の著書を残している。堀川の家塾で門弟を教授した。著作に「古学指要」・「弁疑録」・「制度通」・「名物六帖」などがある。前者は恐らく「勢遊志」の誤りである(次の項で示す)。後者は「ゆうけんしょうろく」(現代仮名遣)で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで写本が視認出来る。当該部はPDF一括版の16コマ目から。但し、これは次の項の「鸚鵡石」で載るが、実は同じ伊勢国にあるものだが、全く別な場所にあるものである。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「応声蟲」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。底本の標題の「蟲」はママ(ここ)。

 

 応声蟲【おうせいちゅう】 〔塩尻巻七十〕元禄十六(正月初)京師(油小路二条上る)の工人(屏風屋七左衛門)男子(十二歳、長三郎)俄かに発熱し、日をへて心《こころ》立直《たちなほ》りしに、腹中《ふくちゆう》物いふ声あり。合家おどろく。人のいふほどの事を答ふ。彼子毎にあらそふ薬禱を尽して験《しるし》なし[やぶちゃん注:不審有り。後注参照。]。一医(菅玄際)見て、方書および雑記の中にこの疾《やまひ》あり、応声蟲《おうせいちゆう》これなり、試みに薬あたへんとて、雷丸《らいぐわん》の入りし湯薬《たうやく》を三帖《さんでふ》を調して服せしめんとするに、腹声《はらのこえ》大いに拒《こば》みてその薬用ゆべからずと云ふ。頓《やが》て急にのませしが、次の日より声やゝかれしまゝ、弥〻《いよいよ》これを用ひしかば、日を経て声絶えし。一日《いちじつ》厠に登るに、肛門より一蟲を下《くだ》す。形蜥蜴(とかげ)のごとく額に小角《こづの》あり。走りてはたらく。その親やがて打殺しぬ。病者六月の末に快《こころよく》本復せしとぞ。奇疾《きしつ》さまざまにして人身をくるしめ侍る事、和漢の書に間々《まま》見ゆ。養林の上人、唐土《もろこし》この疾有出所《やまひ、しゆつしよあり》、さまざま記し、人間の身中にかぎりなき諸蟲ある事を書せり。(別に一冊とす)元より穢《ゑ》しき身、とく思ひとけばあさましかるべきを、うつくしく思ひひがみたるこそ愚《おろか》に侍れ。 〔閑田次筆巻四〕塘雨<百井塘雨>云ふ。元文三年の頃、四条坊門油小路の東に、観場(みせもの)の催しを業とする者あり。奥丹波の何とかいふ山里に、農人の妻五十歳ばかりにて、応声蟲の病《やまひ》あるよしを聞きつたへて、観場に出《いだ》さんやとかたらひに行きて、二三日逗留して有りしが、いかにも腹中に人声《ひとごゑ》ありて、病人の声に応じて、その詞《ことば》のごとくいふこと分明に聞ゆ。その夫(をつと)の物語に、先年霜月<十一月>に引きつれて、六条詣でせしに、茶所《ちやどころ》にて休らふ間、腹中にて物をいひしかば、諸人怪しみ、とやかくとふことのうるさく、恥かしくおぽえて、その夜たゞちに帰りしといへりとぞ。閑田云ふ。金蘭斎(こんのらんさい)といふ老荘者《らうさうしや》(この伝は予が『畸人伝』に出《いだ》せり)腹中より声に応じて物いふとおぼえたり。されどもこれはただ、みづからおぼゆるのみにて他人きかず。暫しの間にて止みたりと語られし、と馬杉亨安《ますぎこうあん》といふ老人の話なりし。自《みづか》らのみきくは気病《きびやう》にてもありけんかし。〔斉諧俗談巻三〕『遯斎閑覧(とんさいかんらん)』に云ふ。往古《わうこ》人あり。その人言語を発する度に、腹中にて小さき声ありてこれに応ず。漸々《ぜんぜん》にその声大なり。然るに一人の道士ありて云ふ。これ応声蟲なり。但《ただ》本草を読むべし。その答へざるものを取りて、これを治《ぢ》せとをしゆ。因《より》て本草を読むに、雷丸に至《いたり》て答へず。終《つひ》に雷丸を数粒服して、すなはち愈えたりと云ふ。

[やぶちゃん注:「応声蟲」この怪虫、日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の当該項では、この最初の一話を元として、しかし、「呼称」では、「応虫」を「コタエムシ」と訓じている。

「塩尻」「鼬の火柱」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ下段冒頭)から正字で当該部を視認出来る。

「元禄十六」一七〇三年。

「油小路二条上る」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「彼子毎にあらそふ」個人的には、ここで句点で切るべきかと思う。腹中の声と当の少年が言い争うの意で採りたい。

「菅玄際」不詳。

「方書」医書の処方を記したもの。

「雷丸」小学館「日本国語大辞典」では、『竹類の根に寄生する担子菌の一種の菌体。中国に産する。不整齊の塊状で径一~二センチメートル、表面は黒く内面は白色。条虫駆除薬に使われる』とある一方、同じ小学館「デジタル大辞泉」には、『竹に寄生するサルノコシカケ科』(担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Polyporaceae)『のキノコの一種の菌体。直径』一~二センチメートルの『塊状。回虫・条虫などの駆虫薬にされる』とあった。どうも起原生物が怪しい気がした。「森林総合研究所 九州支所」公式サイト内の「雷丸の話」には以下のようにある(部分引用では筆者の意が十分に伝わらないと判断し、特異的に全文を引用させて戴いた。学名の斜体化と最終段落の頭の一字下げは私が行った)。

   《引用開始》

 きのこの菌核である雷丸は、類似の茯苓や猪苓と並んで文献に登場する。日本には分布しないとされるが、古くから薬物として輸入され、正倉院にも保存されているという。竹の根に寄生し、直径一~三㎝の球形~塊状の表面が褐色~黒色の菌核を作る。漢方薬として腸内の条虫、回虫の駆除に用いられてきた。有効成分は蛋白分解酵素の一種で、腸管内の虫体を破壊する。

 中国最古の本草書の神農本草経に登場し、「三虫(回虫、蟯虫、寸白虫)を殺し、毒気、胃中の熱を逐う。丈夫(男子)を利し、女子を利せず。摩膏に作れば、小児の百病を除く。」と記している。

 明代の本草綱目には、「この物は土中に生じ、葉がない。虫を殺し、邪を逐うこと雷のたまのようなものだ。竹の余気が結したものである。だから竹苓という。雷丸の大きさは栗くらいだ。形状は猪苓のようだが円く、皮は黒く、肉は白く、とても堅実である。その昔、ある男が中年になって不思議な病気にかかった。物を言うたびに腹の中から小声で応答する声がする。しだいにその声が大きくなった。ある道士がそれを見て「これは応声虫というものだ。本草学の本を声を出して読んでみて、応答しない物を服用すれば治る。」と言った。そこで雷丸のところで、応答しなかったので、数粒を飲んで治った。」と記されている。

 江戸時代中期の和漢三才図会では、雷丸の生物としての知識はまだ無かったようで、本草綱目の記事を引用しているだけである。また雷丸は中国から安い値段で入るので、珍しくない物だろうが、日本や朝鮮では竹林が多いのに採れないと記している。

 江戸時代後期になると国内からも見つかることもあったようだ。本草綱目啓蒙には「舶来が多い。国産もあるが薬屋には出てこない。舶来の物は、形は猪苓に似るが、小さくて重くて堅実である。大きい物は栗のようで、小さい物はムクロジのようで円いが、円くない物もある。外側は黒く内側は白いが、皮が赤い物もある。皮が黒くて肉が白い物が良く、赤黒色の物は人を殺すといわれる。(中略)先年、遠州の金谷で掘採った物は大きな塊で肉が白く柔らかった。形は茯苓に似ていて中に竹根を挟み込んでいる物があった。阿州の祖谷山の竹林から掘出した物は、竹根の先端が雷丸となっていて茯苓のようだった。」とある。

 これほど昔から知られている雷丸だが、子実体を見たことのある人は少ない。学名はPolyporus mylittaeとされるが、この学名の菌はオーストラリアに分布するきのこで、その菌核は一〇~二〇㎝で大きい。「土人のパン (Blackfellow's bread)」と呼ばれ、雷丸と同一種とは思えない。

 雷丸(菌核)も、本の記載だけではよくわからない。実物を見たいので、十数年前に東京の漢方薬店で雷丸を買った。百gで約三百円だった。ショウロくらいの大きさの菌核で、表面は褐色である。乾燥しきっていたためか石のように硬い。店の人の話では入荷してから十数年経っているとのこと。休眠器官の菌核だから、組織は生きているかもしれないと思い分離を試みたが、残念ながら成功しなかった。

 寄生虫の駆除としては、雷丸は役目を終えたようだが、未知の有用物質があるかもしれない。また生物としての謎は依然として残っている。

   《引用終了》

「三帖」標準一回分の薬を紙に包んだものを「帖」と呼ぶ。現行の漢方医学では、標準的には二・五グラムが「一帖」のようである。

「養林の上人」不詳。

「閑田次筆」国学者伴蒿蹊(ばんこうけい:生まれは近江八幡の京の豪商の子で、同地の同姓の豪商の養子となったが、三十六歳で家督を養子に譲って隠居した)著になる考証随筆。文化三(一八〇六)年刊。「閑田耕筆」の続編。紀実・考古・雑話の三部に分類し、古物・古風俗の図を入れたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから四行目以降)で正規表現で視認出来る。

「塘雨」「百井塘雨」先般電子化した『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』の冒頭注を参照されたい。

「元文三年」一七三八年。

「四条坊門油小路」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「六条詣で」京都六条通りにある東・西の両本願寺に参詣すること。

「金蘭斎(こんのらんさい)」(こんらんさい 承応二(一六五三)年~享保一六(一七三二)年)は儒者。出羽久保田藩藩医金三室の子。京都に上り、伊藤仁斎らに学んだ。京で老荘を主として教え、「老荘家」とも呼ばれた。著作に「老子経国字解」「異学篇」などがある。

「この伝は予が『畸人伝』に出せり」伴蒿蹊著「近世畸人傳」のこと。第四巻に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一七(一八八七)年文求堂刊)のこちらで挿絵入りの正字表現で視認出来る。同書で、私のお気に入りの学者である。

「馬杉亨安」彼は儒者並河天民(なみかわてんみん 延宝七(一六七九)年~享保三(一七一八)年:京の人。初めは伊藤仁斎に学んだが、仁斎の仁義性情の説に反対し、人間主体の一元説を唱えた。経済・実用の学を重んじ、蝦夷開拓を幕府に建言し、自らも渡航を企て、「蝦夷地大地図」を作製した。和学・医法・本草学にも通じた。著に「疑語孟字義」「かたそぎの記」などがある)の門人で、実は、同じく「近世畸人傳」に「並河天民」があるのであるが、そこに追記して、彼のことが記されてある。同前でここ(三字下げの部分)。

「気病」所謂、「心気症」である。或いは、既にそれを通り越して、妄想性の強い強迫神経症或いは統合失調症に進んでいるのかも知れない。特に自分にしか聴こえない、自分には確かに聴こえる、というのは、後者の可能性が高いと思う。

「斉諧俗談」は「一目連」で既出だが、再掲すると、大朏東華(おおひ(或いは「おおで」)とうか)の随筆で、何時、刊行されたか不明だが、後編は宝暦八(一七五八)刊とするから、それ以前の出版ではある。但し、殆んど総てが引用の累積である。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページの『○應聲虫』)で当該部を正字で視認出来る。

「遯斎閑覧」北宋の陳正敏撰になる医書。現在は散佚して完本は伝わらない。]

2023/08/18

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「奥州の仙女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 奥州の仙女【おうしゅうのせんじょ】 〔梅翁随筆巻三〕筑前国遠賀郡〈福岡県遠賀郡〉の浦人ども伊万里のやきものを船に積みて、奥州へ商ひに下りけるが、山道に路みまよひ、行くほどに谷川にて、三十歳ばかりの女房の洗濯して居たるを見て道を尋ぬるに、此所は深山にて里へ通ふ道遠し、やがて日もくれぬべし、いたはしきよといふ。その詞《ことば》にすがりて色々に頼み、一夜の宿をかりけり。その女は生国は筑前国庄の浦〈現在の福岡県北九州市内か〉といふ所のものなりと申しけるゆゑ、このところに来り住居するよしを問ふに、女若かりし時、病《やまひ》にふして食もすゝまず、痩せ衰へけるゆゑ、我子ども螺貝《ほらがひ》に似たる貝をひろひ取りてすゝめしに、その味ひ甘く美なる事たとふべきものなし。それより食事《くふこと》出《いで》てその肉をことごとく喰ひ尽しけるころ、頓《やが》て病も愈えて、その後身体もとよりもすこやかになり、それよりしては病(やまひ)といふ事もなく、幾年を重ぬれども、老衰のかたもなく、我ながらいと怪しく思ふに、子も孫も、またその孫も幾代となく死替《しにかは》れども、その身はおもかげ変らず。あまりつれもなく思ひて、国々をめぐらんと思ひ、古郷を出て、今縁有りて此処に住するなり。我わかきころ寿永の乱に、安徳帝都を落ち給ひて、西海に漂泊し、刑部《ぎやうぶ》どのと申すをたのみ給ひて、山鹿(やまが)の東なる山奥に仮りの皇居を構へおはしませし頃は、みづからものなど供御《くご》に備へしなり。これ思へば幾とし月か過《すご》しけん、むかし語り《がたり》なり。わが身国を出し時、螺貝(ほらがひ)の殼は命の親なれば、記念とも見よかしと申しのこせしが、今も伝はりてやあらん。旅人のもし彼所《かのところ》にいたり給はん事もあらば、尋ねたまへかしと申しける。この商人《あきんど》珍らしくもまた怖ろしき事に思ひつゝ、国に帰りてこのよしを咄しけれども、まことに聞く人もなくて、狐狸にばかされたるならんと申すに、我もまた疑はしく思ひて、そのまゝに打過ぎける所に、寛政九年丁巳《ひのとみ》[やぶちゃん注:一七九七年。]筑前國遠賀郡庄の浦代官坂田新五郎、螺貝の事を尋ぬるに、同村の百姓伝治と申すものの家に、長寿貝とて持ち伝へたり。この貝の肉を食せし女、今に遠国存命いたし居るよし、老若《らうにやく》くちぐちに申し伝ふる処なり。またこの家に悪病人《あくびやうにん》ある事なく、代々八十歳九十歳の長寿をたもてり。よつて流行病(はやりやまひ)ある時は、この貝を出して村中をもち廻れば、人々病難をのがるとて、今にそのごとくに仕来《sききた》れりとて、今の貝を持来《もちきた》れり。長寿貝といふ名のめでたけれとて、筑前侯より一橋へ御覧に入れられしにより、御本丸へも上《のぼ》りぬ。その長寿にあやからんがために、貝の中へ入れたる酒を、女中衆《ぢよちゆうしゆ》より宿々へさし越しけるをば、みな人のしるところなり。この頃までは螺貝をばくらふ人なければ、商人なども持来《もちきた》る事なくて、生《いき》たる貝をば見たる人少なし。この長寿貝のまだ世に高くして、後は栄螺《さざえ》とおなじく荷ひ商ふ品となれり。<『退閑雑記後編巻一』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」作者不詳の寛政年間を中心とした見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページの「『○仙女傳之事』)で正規表現版が視認出来る。]

「福岡県遠賀郡」『ちくま文芸文庫』版では、『福岡県遠賀郡・北九州市』と追加されている。

「筑前國遠賀郡庄の浦」不詳。但し、「山口県文書館資料小展示」(二〇一九年二月『金谷』とある)の「山口県周辺の不老長寿伝説」PDF)の「2. 寿命貝を食す」『筑前国遠賀郡の仙女:「美々婦久路」所収「筑前国遠賀郡庄の浦仙女寿命貝のあらまし」』に、『当館毛利家文庫』二十九『風説』四十一『「美々婦久路」に所収の「筑前国遠賀郡庄の浦仙女寿命貝のあらまし」は、福岡県北九州市若松区大字乙丸の貴船神社に伝わる、法螺貝を食って不老長寿を得た女性の物語です』。『概略は、「ある年筑前芦屋浦の船が、奥州津軽の海岸に船がかりをして瀬戸物を売り歩いていたが、ある時山奥へ迷い込んだ。洗濯していた女房が国はどこかと聞いて非常に懐かしがり、私の故郷も筑前だといって、泊めてもらって色々な話をしたが、この女はもう』六百『余歳であった。筑前にいた時分、病気になったが、子供たちが案じて珍しい貝を取って来て食わせてくれたら、すっかり回復したばかりか、衰え知らずになった。子や孫、ひ孫や玄孫にも先立たれたので、国を出て、全国を巡った末に津軽に来た。あの貝は自分の命の親なので、神職を頼んで、舟留松の近くの祠に納めてある。筑前に帰ったら尋ねてみてくれ、と伝言した。この商人が筑前に戻りそこを訪ねると、伝次郎という者の家にその法螺貝が伝わっていた」』とあり、『「ほら貝」を食って不老長寿を得たという話は、筑後山門郡本吉に別話があり、先述した八百比丘尼伝承地の一つに、「九穴の貝」を食べたことによるとする例があります。また、山口県響灘沿岸では、トコブシを「千年貝」「センネンゴ」とよぶことが知られています』とあった。因みに、福岡県北九州市若松区大字乙丸にある貴船神社はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、別な話があるという筑後山門郡(やまとぐん)本吉は、まず、現在の福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)本吉(もとよし)である。但し、ここだけは、有明海湾奥の内陸で、生きたホラガイをそこで入手するというのは、ちょっと無理がある。

「退閑雑記」松平定信の随筆。全十三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十四巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)で正規表現の当該部がここから視認出来る。こちらの話では、商人はその後、再び、津軽に赴き、女の故郷に行ってきたことを語っており、こちらは、そこで安徳帝が逃げ延びて行宮に入られたのは、『予がはたちばかりの事なりけん』と述べているシークエンスがある(ここの左ページ一行目以降)。寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日)であるから、寛政九年当時は、実に、彼女は、六百三十一歳であったことになるのである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「黄金千枚の執念」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 黄金千枚の執念【おうごんせんまいのしゅうねん】 〔一時随筆〕いつのとしにか有りけむ、播州姫路に、千石あまりとりし人の屋敷あり。年来《としごろ》化物すみけるとて、五人も三人も取殺《とりころ》され、たまたま生けるものは気ちがひの様成《やうな》る病《やまひ》をうけ、よからぬ家とて明屋敷《あきやしき》となり、草茫々と生じけり。名もなき蟲のみすだきけり。さるに新知千石に住みける何某《なにがし》、当分似合しき家もなく、町屋をかりて居《をり》けるが、この宅を聞及びて、頻りに主君へ言上《ごんじやう》し、居住せん事を望むに、主君さうなくわたし給ふ。かの侍喜びにたへず。その夜、かのあれ屋敷の書院に、燈ほそくかゝげ、うしろの柱によりかゝり、学者とみえて、見台にむかひ、論語里仁の篇をくりひろげ、心静かに読みゐけり。やゝ三更の終りまで、何事もなかりしが、屋の後のうしとらのすみより、めきめきとひゞき渡りて、大盤石《だいばんじやく》をこかし出《いで》ぬ。しばし有りて、縁の下にしはぶき[やぶちゃん注:咳払い。]の声かすかにして、十畳ばかり動き出ぬ。あまりにげうげうしければ、何者なわばかく家あるじの前をもはゞからず、ものすさまじき音をのみして、その形をあらはさず、近ごろ卑狭《ひきやう》[やぶちゃん注:原本ともにママ。]の至りなり。もし狐狸のたぐひなれば、いふに及ばずと罵りければ、しばらくありて次の間の襖をさらりと明け、その体を見れば、七十にあまりし老人のやせからびしが、髭むさむさと生え、古き帷子《かたびら》やうの物を、しどけなく著《き》なして、つくづくとたゝずみ、物もいはずさめざめと泣きゐたり。かの侍見台《けんだい》をしりぞけ、言葉正しく礼をうやうやしくして申しけるは、さこそ有るべけれ、姿をあらはし給ふ上は、心静かに語るべし、余もこの家を申しうけ、今宵より来り住めり、よきときにこそ候へ、間近くより給へとしひければ、かの老人安堵の顔色あらはれて、下《しも》に坐《ざ》し申す様《やう》、今迄御身のごとくけなげなる人に逢はず、年頃諸人を試みけれども、気を失ひ、二日ともこの家にたまらず、申したき事もむなしくなし侍る、別の事にも候はず、余は先代のとき、この屋の主なりしが、常に有徳にして、黄金千枚庭前のゑの本の下に、瓶《かめ》ながら埋《うづめ》め置《おき》きし、臨終の時《とき》口こもり、この事申さず、只徒《いたづ》らに土中に候なり、この執《しふ》により永く浮びもやらず、夜明けば速かに掘出《ほりいだ》して世の宝ともなし、僧をも供養し給へ、これこそ我願ふ所に候へと、さもあざやかに申しけり。侍ききて、いかにも仰せ承はりぬ、明《あけ》れば早く僧をも供養し、経をも読みなん、心安く存ずべきと申しければ、喜悦のまゆをひらきぬといひて、そのまま襖をさしてさりぬ。かの侍、論語の読みさしを心静かによみ果て、暫し静座しければ、夜もほのぼのと明けぬ。それより老人の詞《ことば》にまかせて、ゑの木の下をうがちければ、瓶のうちに黄金恙なく見えけり。やがて国中の僧法師にあたへ、経など読みてかたのごとく弔ひけりとなん。この侍の心、真儒のはたらき、殊勝是非におよばず。

[やぶちゃん注:「一時随筆」医師で談林派の俳人で貞門攻撃の急先鋒の論客として知られた岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年)の七十九条から成る随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第一巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(右ページ四行目から)で正規表現版が視認出来る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「扇星」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

        

 

 扇星【おうぎほし】 〔異説まちまち巻三〕天和の初めにや、扇星といふ星出たり。要と覚しき所に、大きなる星ありて、その星より扇を開きたるごとく気《き》有りしとなり。母は庄内にて見たりしとなり。渋川助左衛門この星を見て、この分野は越後にありたるといひしなり。程なく越後公滅家し給ふとなり。

[やぶちゃん注:「異説まちまち」「牛鬼」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページ冒頭から)で正規表現版が視認出来る。

「扇星」箒星。

「天和」元年は一六八一年。天和は四年で貞享に改元。徳川綱吉の治世。

「越後公滅家し給ふ」江戸前期に越後国高田藩で起こった「お家騒動」である「越後騒動」藩政を執っていた小栗正矩の一族と重臣たちが争い、将軍徳川綱吉の親裁によって厳しい処分が下され、高田藩が改易となった事件。詳しくは当該ウィキを読まれたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「閻魔の眼を抜く」 / 「え」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。なお、「え」の部はここで終わっている。「え」の部には六つの項目しかないのである。

 

 閻魔の眼を抜く【えんまのめをぬく】 〔巷街贅説巻五〕武の四ツ谷なる内藤新宿〈東京都新宿区〉大総寺《たいそうじ》に、安置の焰魔王あり。その像大にして凡そ一丈余り、年古き像と云ふ。文化の頃、火災に御《み》ぐし[やぶちゃん注:ここは「頭部」の意。]ばかり持ち退《の》きて、体はその後あらたに建立せしとぞ。今年三月半ば頃、この焰王の眼を彫り抜きし者あり。片眼抜きとりていかにしけん、高きより落ちて気絶し、その物音に人々折合て捕へしに、最寄《もより》なる鳶の者といへる職人なるよし。水晶の玉《たま》とこゝろえ、盗み取《とり》たるなるべしと、様々諸説ありしかども、実は愛児の疱瘡全快を、焰魔王に祈願せし甲斐もなく、失ひぬる歎きの余り狂乱して、その恨《うらみ》をかへせし由なり。元より玉眼にもあらざれど、焰魔王なる故に、さまざまの浮説ありしもおかし[やぶちゃん注:ママ。原書も同じ。]。<『事々録巻二』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:「巷街贅説」自序に「塵哉翁」とある以外、事績不詳。寛政から安政(一七八九年から一八六〇年まで)に至る七十一年に亙る江戸市中の巷談俚謡を見聞のままに記したとされる随筆。これが事実なら、この作者は相当な長寿であったことになるのだが……。国立国会図書館デジタルコレクションの『近世風俗見聞集』第四(大正二(一九一三)年国書刊行会刊)のここ(左ページ下段の終りの方の「○熖魔の眼」)から正字で視認出来る。なお、宵曲は最後にある以下のなかなか上手い狂歌をカットしている。

   *

 舌をぬく熖魔娑婆で眼をぬかれ

      うそで内藤評判は大總寺

   *

「大總寺」これは恐らく「太宗寺」の誤りである。東京都新宿区新宿二丁目に現存する浄土宗霞関山本覚院太宗寺(たいそうじ:グーグル・マップ・データ)。同寺には新宿区指定有形民俗文化財に指定された「内藤新宿のお閻魔さん」といて親しまれている閻魔像があり、当該ウィキによれば、この像は『都内最大の閻魔大王像』であるとある。画像に好みの向きがあるであろうから、グーグル画像検索「太宗寺 閻魔像」をリンクさせておく。

「文化」一八〇四年から一八一八年まで。

「今年」前の記事によるなら、嘉永元(一八四八)年。

「玉眼」先日の「フライング単発 甲子夜話卷之四十八 25 入眼」の私の注を参照されたい。

「事々録」「異人異術」に既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第六(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のここ(右ページ四行目の項)。宵曲は「同様」と言っているが、かなり細部に違いがある。まず、事件は嘉永元年三月中旬ではなく、『三月初旬』で、寺は内藤新宿の太宗寺ではなく、『四谷大相寺』(不詳)であって、入ったのは、はっきりと『盜賊二人』とあって凡そ本話とは違ったソース(別な風聞)に基づいていることが判る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「閻魔頓死」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 閻魔頓死【えんまとんし】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕寛政八辰年の春の頃、閻魔になりて人を欺きし者を、予〈根岸鎮衛〉が役所へ捕へ来れるといへる事、専ら人の尋ねける故、跡形なき妄言なり、一向知らずと答へしが、同年の冬或人来りて、定めて虚談にも有るべきが、相州とやらんの村方に老夫婦有りて、一人の娘を寵愛せしが、二八[やぶちゃん注:十六歳。]の頃かの娘ふと煩ひ出して身まかりしを、老人夫婦殊の外愁ひ歎きて、朝に慕ひ夕に恋ひ、誠に目もあてられぬ様なれば、村役人五人組も手をかへ諫めけれど用ひず、只明暮に歎きにのみ取伏しける故、世の中には御身ばかりにもあらずと教論しけれど、更にその甲斐なかりしに、村内若き者ども寄合《よりあ》ひ、その内に名主の次男なる者、某《それがし》が異見の仕様ありと若き者申合《まうしあは》せ、その身は鎮守祭りの赤頭《あかがしら》又は修驗《しゆげん》などの裝束を着し闇魔の躰《てい》に成り、友達にも右赤頭などを著せて、かの修験の宅にて裝束なし、面は丹または墨にて塗りて、夜の八ツ時<午前二時>頃かの夫婦が許へ至り、ほとほとと戸を音信(おとづ)れて内へ入りければ、夫婦は犬いに驚きて、如何なる人と尋ねければ、その方娘が病死せしを地獄へ送り来ける故、鏡《ががみ》秤《はかり》を以てその罪を様(ため)しみるに、聊かも罪なし、これに依つて釈尊へ申し通じ、極楽へ遣はすべき処、両親歎きのみに打しをれて、法事等もろくろくにせざる故、中有(ちゆうう)に迷ひて未だ極楽へ至らず、これに依つてその不便(ふびん)見るに忍びず、爰に来りてはるばると告げるなりと言へるに、老人夫婦は歓喜の涙を流して、有難き事なり、いかで背き申すべき、さるにてもはるばる来り給へば物供へんとて、法事に拵へし餅を出しければ、閣魔も鬼も歓びてわけ喰ひしに、日数歴《ひかずへ》し餅なれば堅くなりしを、用捨せば作りものの事顕るべしとて、第一に閲魔一口に喰ひしが、咽に詰りてうごめき倒れけるを、初めの程は鬼ども介抱せしが、終《つひ》に閻魔相果てける故、鬼ども行衛なく逃去りける故、老人夫婦声を立て、しかじかの事と村長(むらおさ[やぶちゃん注:ママ。])などの方《かた》へ申し通じ、一村集りて委細の様子を聞き、かの死骸を改め、彩りし墨丹など洗ひ落し見れば、名主の二男なり。連立ちし鬼どもは如何致しけるやと、手分けして漸く捕へければ、しかじかの事に右の趣向なせしと語りける。人も死せし事ゆゑ、鬼どもも縄目にて地頭へ召され、奉行所の吟味になりしと聞きしが、如何あるやと人の語りぬ。〈『文化秘筆巻二』にこれと似た記載がある〉

[やぶちゃん注:私のものでは、「耳嚢 巻之五 閻魔頓死狂言の事」である。

「文化秘筆」作者不詳。文化より文政(一八〇四年~一八三〇年)の内の十年ばかりの見聞を集録した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第八(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和2(一九二七)年米山堂刊)のここで正字表現で視認出来るのが、類似話である(右ページ五行目以降)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「縁切榎」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 縁切榎【えんきりえのき】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕本郷〈東京都文京区内〉に名も聞きしが一人の医師あり。療治も流行りて相応に暮しけるが、残忍なる生質《じち》にて有りし由。妻貞実なる者なりしが、かの医師下女を愛して偕老の契りあれど、あながちに妬みもせざりしが、日にまし下女は驕り強く、医師もかの下女を愛するままに、家業もおろそかになりて、今は病家への音信も間遠となれば、日にまして家風も衰へければ、妻はこれを歎き、幼年より世話をなして置きし弟子に右の訳を語りければ、かの弟子も正直なるものにて、兼ねてこの事を歎きければ、共に心を苦しめ、かの下女の宿へ内々了簡もあるべしと申しけれど、これもしかじかの取計らひもなく打過ぎける故、弥〻《いよいよ》心を苦しめ、かの弟子ふと町方へ出《いで》し時、板橋<東京都板橋区>のあたりに縁切榎といへる有り、これを与ふれば、如何程《いかほど》膠漆《こうしつ》の中にも忽ち呉越の思ひを生ずると聞きて、医師の妻に語りければ、何卒その榎を取り来るべしと弟子に申し付け、かの弟子も忍びて板橋へ至り、右榎の皮をはなし持帰りて粉になし、かの医師並(ならび)に下女に進めんと相談して、或朝飯の折から、かの医師の好み食する羹物(あつもの)の内に入れしを、板元《いたもと》立働《たちはたら》きて久しく仕へし男、これを見て大きに不審し、若しや毒殺の手段ならんと、或ひは疑ひ或ひは驚き、如何せんと思ひ佗びしが、手水《てうづ》の水を入るゝとて庭へ廻り、密かに主人の医師ヘ語りければ大いに驚き、さて膳に坐り、羹には手も触れざりしを、兼ねて好む所、如何なれば厭ひ給ふと、女房頻りにすゝむれば、弥〻いなみて食せざれば、女房の言へるは、かく進め申す羹を忌み給ふは、毒にても有るやと疑ひ給ふは、毒にても有るやと疑ひ給ふらん、さありては我身も立ち難しと猶すゝめけれど、居間は詞あらにふせぎける故、妻も弥〻腹立ち、然らば毒なりと思ひ給ふならん、さあらば我等食べなんと、右羹物を食しけるとなり。縁切榎の不思議さは、かの事より弥〻事破れて、彼妻は不縁しけるとなり。

[やぶちゃん注:私のものでは、「耳嚢 巻之五 板橋邊緣切榎の事」である。詳細な注を附してあるので、そちらを見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「寃鬼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。なお、この話は長い。

 

 寃鬼【えんき】 死んだ後に恨みある者の浮ばれない亡魂 〔燕石雑志巻二〕今はむかし何がしの院なる一僧、秪店(ほしものだな)[やぶちゃん注:古本屋のことらしいが、何故、この「秪」を用いるか、不明。この字は「祗」の代字で使うことがあり、その場合、「うやまう」の意となるから、「古い書を大事にする」という意か。読みの「ほしもの」も判らぬが、「乾し物」ならば、「朽ちかけた湿気た古書を乾す」という意か。]においてふりたる『易経』を購《あがな》ひ得たり。寺に帰りて披閲《ひゑつ》するに、朱をもてこれを註せり。その説一つもとるべきなし。僧掌《たなそこ》を拍(うつ)て大いにあざみ笑ふ程に、その夜俄頃(にはか)に発熱頭痛して病むこと五六日、ほとほと死《しな》んとす。また某《それ》の坊《まち》に儒者あり。一夕《あるゆふべ》その門人某生《なにがし》忽然として来れり。儒生《じゆせい》これを見てふかく怪しみ、子《し》はいぬる月《つき》黄泉《よみぢ》の客となりたるにあらずやと問へば、門人いらへてしかなりといふ。しからば今何の故ありて、かくは訪《と》はるゝやらんと訝《いぶか》れば、門人うち微笑《ほうえみ[やぶちゃん注:原本(文末の私の注を参照)のママ。]》みて、わが易を注せんとして多年苦心したる事は、先生よくしりてぞ坐(おは)すべき、しかるに死後いく日《か》もあらで、妻《め》なりけるをんな、わが所蔵の書籍《しよじやく》を売りにき、易はおのが年来《としごろ》手いれせしものなれば、いとをしく思ひつるに、某《それ》の院の僧秪店において、かの『易経』を購ひ得て、わが説一つもとるべきなしとあざみ笑ふが憎ければ、矢庭に渠(かれ)が頭《かうべ》を打《うち》て懲らす事五六日に及べり、かゝればかの憎今三日ばかりにして、かならず死すべし、先生事に托《たく》して売憎(まいす)が病牀《びやうせう[やぶちゃん注:原本ママ。「びやうしやう」が正しい。]》を訪《と》ひ給へ、面(まの)あたりわが打懲らすを見せまゐらせんといふに、儒生ますます呆れ、しばらくしていへらく、子が憤りは理(ことわり)なれど、かの僧は子と原来(もとより)怨みなし、只その言(こと)の無礼(ぶらい)なるを咎めて、これを殺さば不仁なり、よしや身を殺して仁をなさずとも、子がごときはあまりにしふねし、とくゆるせかしといひ諭せば、門人しばし沈吟して、先生の言《こと》固(まこと)によし、さりとてもわれ今その処を失へり、こゝをもて放しがたしといふ。儒生またいへらく、しからばかの寺に墳墓を建立して得さすべし、その処に処(お)れかしといへば、うけ給はりぬといらへつゝかき消すやうに見えずなりぬ。かくて儒生は、次《つぐ》の日かの寺に至りて、縡(こと)の趣を告げにければ、僧聞きて驚き怕《おそ》れ、やがてその人の墓碑を造立し、いと叮嚀(ねんごろ)に読経などする程に、病《やまひ》やゝおこたりて後《のち》、遂に禍《わざはひ》なしといへり。この事怪談にわたるといへども、更に例の作り物がたりにはあらず。またこれもむかしのことなりし。子どもふたりあるもの、異妻(ことづま)に相馴《あひな》れて、しのびしのびにかよひにければ、嫡妻(ほんさい)これをねたしと思ふ程に、心さへ乱れにけん、夫《をとこ》の出《いで》たる𨻶《ひま》に、まづ五ツなる子を剌しころし、二ツなる子を剌さんとするとき、夫の母外面(とのかた)より帰り来て、この景迹(ありさま)を見て大いに驚き、矢庭に小児をかき抱《いだ》きて、また外面へ走り去《さり》にければ、力及ばで婦(よめ)は忽ちに自殺して失せにき。かゝりしかば、夫もおのが悞(あやま)ちを悔いて、妻の枉死《わうし》[やぶちゃん注:。非業(ひごう)の死。]を哀れみ、後《のち》の事など物するほどに、稺児《をさなご》を養ふにたづきなかりしかば、辰巳《たつみ》[やぶちゃん注:東南。]なる郷(さと)の親族のかたヘ遣して、縡のおちゐるまでともかくもして、養育(はぐくみ)て給はれと頼み聞ゆるに推辞(いなみ)がたく、家に女(むすめ)あれど、いまだ嫁(よめ)らず、孫といふものなかりしかば、近隣に小児あるものの乳汁《ちち》を乞ひつゝ、両三日を過《すぐ》す程に、かの親族の女《むすめ》、夕くれに浴室(ふろや)より帰るとて、途《みち》にかの稺児の母にあひぬ。怪しとおもひて。物をも得いはで足ばやに端るを、こやこやと呼びとゞめ、わが児《こ》の養育《はぐくみ》浅からざるをよろこび聞え、しばしおん身が体を貸し給はれといふ。いよゝ怪しき事限りなけれど、おそろしさにともかくもと諾《うけ》ひて、家に走り帰りしが、その夜《よ》俄頃《にはか》にこゝちわづらはしとて、次の日も起きず。殊に怪しきは、かの稺児が啼泣(なく)ごとに、病人《やむひと》これを抱きあげて乳を含まするに、処女《おとめ》なれど乳汁や出でけん、こゝろよげに吸うて飽くことあるが如し。かくてこの児を賺(すか)しなどするときは、声音《こはね》も面影もその母に似たり。また稺児のよく眠りたる時などには、忘れたるが如くて、物のいひざまも旧《もと》の如し。怪しき事いふべうもあらねば、その児の父にも縡の趣を告げしらし、追薦《ついぜん》の仏事を叮嚀《ねんごろ》にとり行ひ、乳母《めのと》してかの児を養育《はぐくま》せしかば、女の病ひも遂におこたり、後《のち》たえて怪しと思ふ事もなかりしとぞ。ある人むかし目撃したりとて、予〈滝沢馬琴〉に物がたりき。またいづれのおん時、いづれの里にや忘れにけり。市人《いちひと》の妻はじめて子を生みたるが、産後遂に得肥《えひ》だたずして身まかりぬ[やぶちゃん注:「得」は不可能の呼応の副詞「え」の当て字。]。その死《しな》んとするときに、この子には乳母《めのと》して家にて養育《はぐくま》し給へ、里親などいふものにな托遣(たのみつか)はし給ひそと遺言したりけれど、原来《もといり》富むにもあらねば、乳母を置かんやうなくて、里子《さとこ》といふものに遣はす程に、只一夜(ひとよ)を経て、里親その児を送りかへしけり。かゝること三度に及びしかば、いと怪しと思ひて、いかなる故にわが子をかへし給ふにかと問ふに、里親答《いら》へて、この児昼はよくねぶり侍れど、夜は通宵(よもすがら)泣きて暁《あかつき》に及べり、その啼くとき、誰《たれ》とはしらず、外面《とのかた》に女の声して、児の名を呼びはべるなり、かくは怪しき事のある故に、かへしまゐらするにこそといへりしかば、父は忽ちに悟りてふかく悲しみ、これより人の乳をもらひつゝその児を育つるに、怪しと思ふ事なかりしとぞ。こはみな予が親しくきけるところにして、一事《いちじ》も文《ぶん》を餝《かざ》らず。かゝれば世に寃鬼なしともいひがたし。或ひは書籍《しよじやく》を愛惜《あいじやく》し、或ひはその子に愛著《あい》して、魂魄《こんはく》いまだ散滅せず。人に触れて声と形とあるが如し。しかりとも魂魄久しく凝滞《ぎたい》する事あたはず。こゝをもて後《のち》遂に怪しみなし。寃鬼は臨終の余煙《よゑん》なり。みづからもとめて寃鬼となるものにあらず。

[やぶちゃん注:「燕石雑志」は滝沢解(戯作名は曲亭馬琴)が著した随筆。文化八(一八一一)年)刊。全五巻。古今の多岐に亙る事物を、和漢の書籍に拠って考証したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(右ページ七行目末から)で正規表現の本文が見られる。これ自体は長大な『(十一)鬼神論』の一節である。読みは、かなり難しいので、一部を以上の原本で補った。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「越後根張地蔵」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 越後根張地蔵【えちごねねばりじぞう】 〔梅翁随筆巻五〕越後国梅崎は富家軒をならべ、この辺りにての繁花の地なり。今は白川領となれり。この宿往来の中に根張地蔵とて、土中に肩ばかり出で、錫杖をもちたる手先少し出たるあり。いにしへよりこれを掘り出さんとするに、大雷大雨し、或ひは崇り、また掘出せし土、一夜の中に落ちて穴埋《うづ》もれ、終《つひ》に分り得る事なきゆゑに、根張地蔵といふなり。

[やぶちゃん注:この地蔵、現存しないようである。詳細な地名が書かれてあるが、場所自体が確定出来ない。

「梅翁随筆」著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。

「越後国梅崎」不詳。思うに、これは「柏崎」の原本の誤りである。羽生紀子氏の論文「『新可笑記』巻三の三「掘れども尽きぬ仏石」の検討―鎌倉幕府第四代執権北条経時と鎌倉大仏」(『日本語日本文学論叢』十七号・二〇二二年発行所収・「武庫川女子大学・武庫川女子大学短期大学部リポジトリ」のここでダウン・ロード出来る)を83ページ以降を読まれたい。そこに、柏崎に地の底深く(一説に金輪際から生えている)石地蔵の伝承が記されてあるのである。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「荏草孫右衛門」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 荏草孫右衛門【えぐさまごえもん】 〔裏見寒話追加〕逸見筋、荏草山中に異人あり。延宝の頃までは村人、山に入れば、いつとなく来りて、樵夫《きこり》とひとしく斧を持《もち》て伐木の助力をなす。名は孫右衛門といへるよし。その後《ご》人に語《かたり》て曰く、我は上州の産、壮年にして父母を失ひ、それより大酒放蕩、親族の諫めを用ひず、竟(つひ)に見放され、生国《しやうごく》を去《さり》て甲州に来《きた》る。その時分は信虎公〈武田信玄の父〉の世《よ》盛りと覚えたり。我々元より勇猛、深山に入りて猟をなし、鹿猿の類を食とし、村ヘ出《いで》ざる事数ケ年、自然と山谷を棲《すみか》として光陰をおくる。三十年已前までは府下へも出て遊びしが、近来は人の交りうるさく、常に駿・甲・豆・遠の山々をめぐりて楽《たのしみ》とす。樵夫食を与ふれば食ひ、烟草《たばこ》をくるればいぶす。その後は折々人に見《まみ》ゆる迄にて、近よる事なし。正徳年中、荏草の村人、山に入りて草を刈る時、異形《いぎやう》の者、岩上に立つを見る。髪は真白にて、黒白《こくびやく》の髭、胸に届き、眼の光り爛々たり。見る人驚愕し逃下《にげくだ》る時、忽ち暴風起り、黒雲山頭に満ち、雷鳴耳を轟かす。これ孫右衛門が熟睡の場を知らずして驚かせし故ならんと。村人、孫右衛門天狗と云ふ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの「追加」巻頭の『○荏草孫右衛門』(「衛」はママ)がそれ。

「逸見筋、荏草山」「逸見」は現在の北杜市街を抜ける道を言うのであろう(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)で、その東に北杜市須玉町(すたまちょう)荏草に「獅子吼城址」があるが、この城は別名を「荏草城」と言うので、この山を指していると考えてよい。グーグル・マップ・データ航空写真を見ても、それほど高い山でも、深山でもない。「ひなたGPS」の国土地理院図を見ると、標高は七百八十八・八メートルである。但し、東方向はかなりの深山であり、申し分ない。なお、この城には、別に怪伝承がある。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の「獅子淵」を見られたい。

「延宝」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・綱吉の治世。

「信虎公」「武田信玄の父」「の世」の「盛り」武田信直(信虎)が永正五(一五〇八)年十月四日の「勝山城の戦い」(笛吹市境川町坊ヶ峰)に於いて叔父武田(油川)信恵(のぶよし/のぶさと)を撃破し、これと同時に同族で覇者を競っていた者たちも多く戦死し、武田宗家の統一が達成された。そして、天文一〇(一五四一)年六月十四日に信虎が晴信(後の信玄)によって強制的に隠居させられるまでの三十三年間と考えてよいか(ウィキの「武田信虎」を参考にした)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蟒」 / 「う」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。「□」は欠字。因みに、本篇はかなり長い。そのため、底本が改行を行っている箇所で、注を挿入することとした。但し、底本では、異なった引用書で、総てが、それぞれ各個に独立して改行されている訳ではないので、注意されたい。

 

 【うわばみ】 巨大な蛇の俗称 〔甲子夜話巻廿六〕平戸神崎<現在の長崎県平戸市神崎>の渓間に細竹繁生せる所あり。一日某士の僕つれだちてこゝに来り、竹を伐らんとするに、渓そこに何やらん、大なる松の木を横へたる如きもの見ゆ。あやしく思ひ山腹の石を転したれば、かの大木動きたる故、驚きてよく視れば蟒(うはばみ)なり。僕等大いに懼れ、跡をも見ずして逃げ帰れり。その大きさ二尺まはりもありしと云ふ。またその辺に漁する蜑(あま)ありしが、或日舟行するあたりを、大魚あつて首を出して泳ぎゆくゆゑ、鰻ならんと思ひ、鋒(ほこ)(鋒は方言モリ、これを擲《なげうち》て刺すの用、手縄あり、数尋《すひろ》なり)を擲てこれを突くに、その身に中れりと覚しく、やがて反側して苦しむ体《てい》なり。見れば蟒なり。蜑大いに怖れ、もりも手縄もそのまゝ捨《すて》て逃げ去れりと。これより後は此辺に蟒を見ること絶えたりとなん。思ふに蟒の海を渡り近嶋に移り、その処の山に入らんと為し、中途にて害に遭ひしなるべしと人々云ひあへり。〔笈埃《きゅうあい》随筆巻二〕日州飫肥(おび)領折生迫(せりうさこ)<現在の宮崎県宮崎市内>(迫とは谷間を云ふ。余国にては渓《たに》と云ふ。鎌倉にて谷(やつ)と云ふ)仙左衛門と云ふ者、或年村の者二三人、昼より山へ柴薪《しば・たきぎ》をとらんとて行きける。そこ爰《ここ》に別れ伐りからげ、たがひに声を懸け合ひて山を下る。仙左衛門も独りもと来りし道を下るに、一抱《ひとかかへ》ばかりの大木道に横たはりあり。来る時はなかりし様におもひて、ふみ越えて通るに、何とやら足障(あしざは)り木の様におもはざりしかば、立帰り見れば大蝮蛇《おほまむし/だいふくだ/だいふくじや》の臥たるなり。これに肝を消し、思はず荷ひたる木柴《こしば》を投げて走り下る。余り周章(あわて)たるにや。かの蛇の上へ投げたり。何かは以て怺《こら》ふべき、木草(きくさ)ざわざわと音して一丈ばかり立上る。仙左衛門こは叶はじと、命限りに走り下るに、跡より追ひ来る事頻りなり。今は一口にのまるべき処に、仏神の加護や有りけん、山の尾崎《おさき》[やぶちゃん注:山の尾根の先。]を廻りて一つの大岩有りて差出《さしいで》たるが、常に此(ここ)にていこふ所なり。頓(やが)てこの奥に馳せ入り、身を縮め息を詰めて蹲《うづくま》りたり。間もなくかのもの見廻し、既に追ひ来り、この岩の上へずつと頭を差出して、四方を見廻し見廻し、時々紅《くれなゐ》の舌をひらひらと出《いだ》したる様《さま》、更に生きたる心地せず。只心中に神仏を願ひけり。その吐息自ら鼻に入りて、熱く臭くて堪ヘ難し。上にはしらず、下よりは見上げてすくみ居《ゐ》る中《うち》に、木草音し引きたりと覚ゆ。さては十死に一生を得たりと心ゆるまり、何となく気絶しけり。先の二人は宿へ帰り、夕飯したゝめければ、いかゞせしやと打連れ尋ね行見れば、岩下に絶え入り居たり。こは何事にやと、やがて水を与へて漸《やうや》く人ごころ付きければ、介抱して連れ帰りぬ。かくて半年ばかり熱病を悩みける後、本復して予<百井塘雨>が宮崎の寓居にも来りて、この事を咄して恐れけり。惣じて日薩隅の間大蛇多く、年々噂無き事なし。或秋予宮崎より飫肥《おび》に至る。その間拾里余、殊に山深し。されどをりをり通る路なれば、連れ二人にて行く。四里ばかり来り、山をかい廻り、向うの道中に、尋常より少し大なる猫壱ツあり。人家も遠き所にいかゞして来つらんと見れば、また向うに長《たけ》五六尺ばかりの蛇長く鎌首を揚げ、双方敵する様なり。こは珍らしと跡より来る二人を制して見てあれば、かの大蛇ねらひすまして飛び付くや否、くるくると巻き、アハヤとおもふに、猫つと抜けて、爪をもて搔きて引《ひき》くはへ振る。蛇は巻かんして解き、ときては巻き、猫は飛び上り飛び廻りす。蛇は尾をもつてひたと打ち、たがひに争ひ果なければ、礫《つぶて》を取りて投げければ、猫はこれにおどろき、人かげを見て木陰《こかげ》へ逃げぬ。さるにかの蛇飛びかゝり、一握り程あるかの礫を引《ひつ》くはへ立上《たちあが》りたるに、おのおのおどろき、先に進んで行く者なし。蛇は半ば延び上り、大いに怒れる様に見えぬ。かくては時刻うつるなりと、側(かた)へなる山に這ひ登り、はるかにそこを目に懸けて通りぬ。跡を見れば初めのごとし。頓て足早に行き過ぎけり。それより三里ばかり過ぎて、もはや城下近くなる所に、百姓二三人立て咄すを聞けば、今朝爰を通りかゝるに、蛇の山より谷へ馳せ下るを見て驚きひかへたり、見給へ、斯《かく》のごとしといふに見れば、山より土砂もすり落ちて、木の枝葉もしごきたる様《さま》、まことに大木を落しかけたる如し。道幅弐間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]余もあらんに、頭《かしら》は下の谷に臨み、尾は未だ山の上にありしといへば、その長さ凡そ五六間[やぶちゃん注:九~十一メートル弱。]も有るべし。かくて城下に逗留の中《うち》、専らこの咄有り。今年はいかなる事にや。所々にて見たるもの多く、山ヘも稼ぎに行き難しとて、評定有りて鳥銃《てうじゆう》の士二十人ばかり、毎日その出《いづ》る所に遣はさる。未だ見当らずと、後によく聞けば、ある日に小《ちさ》き谷川のむかひに出《いで》たるを見て、おのおの筒先を向けるに、誰《たれ》か一矢《いつし》射るものなし、互ひに見合せ居《をり》たりしと。然れども見当らずと云ふなり。もはや十月にもなれば、自ら蟄《ちつ》する故なりとかたる。予問ふ、何故に向ひて打たざるや。曰く、このもの一《いち》の矢《や》[やぶちゃん注:鉄砲でもかく呼ぶ。]を射たる者に祟りある事なり。よつて一応は見直しぬ。退引(のつぴき)ならぬ時は、打つ事は容易(たやす)しと語りぬ。一日《いちじつ》姪の津といふ地、梅が浜とて景地あり。いざと誘はれ行く、道の船渡《ふなわたし》にて見れば、鰷(あゆ)をとる梁(やな)[やぶちゃん注:網代。]の打砕けたるあり。いまだ落鮎の最中に早く収めたり[やぶちゃん注:「や」の脱字か。]といへば、舟人いやいや、先日の大水に通りものして潰れたりと。予聞《きき》て通り者とは何にやと問へば、大蛇の事なり、この山奥に夥しく住むことにや。毎年洪水には一ツ二ツ流れ来る。今年も二ツ出たり。さしも強勢なる恐ろしき物ながら、大水のまくり立《たち》て落ち来《きた》るには、両岸へも上り得ず、頓て海ヘ入るなり、時々首をさし出すを見れば、牛の頭《かしら》のごとしといへり。

[やぶちゃん注:前者の「甲子夜話」のそれは、「フライング単発 甲子夜話卷之二十六  神崎の蟒【平戶】」として事前に正字化したものを公開してある。

 後者「笈埃随筆」の著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。以上の本文は、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は「蚺蛇」。「蚺」は漢語で「大蛇」「大型のニシキヘビ類(中国には雲南省などに爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科アミメニシキヘビ Python reticulatus が棲息する)或いは現代中国語では「ボア(ヘビ亜目ボア科Boidae:中国には棲息しない。南北アメリカ大陸のみに分布する。同属には最大十メートルに達する世界最大のヘビとして知られるアマゾン川流域にに棲息するボア亜科アナコンダ属オオアナコンダ Eunectes murinus がいる)」を意味する語である。

「日州飫肥(おび)領折生迫(せりうさこ)」「現在の宮崎県宮崎市内」現在の宮崎県宮崎市折生迫おりゅうざこ読みが異なるので注意。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。宮崎市の南部の海岸に位置する。北直近に「鬼の洗濯板」で知られる青島があるが、この折生迫地区は、ごく一部を除いて、殆んどが海岸線まで山間が迫っており(グーグル・マップ・データ航空写真)、大蛇が出現しても不自然ではない場所ではある。なお、「飫肥領」飫肥藩は現在の宮崎県南部の日向国宮崎郡と那珂郡(現在の宮崎県宮崎市中南部及び宮崎県日南市全域)を広く領有していたが、殆んどが山間部であった。

「(迫とは谷間を云ふ。余国にては渓と云ふ。鎌倉にて谷(やつ)と云ふ)」言わずもがなだが、これは百井による割注である。鎌倉の独特の呼名を述べているのは、堅実である。

「大蝮蛇」所持する吉川弘文館『随筆大成』版にもルビはない。或いは、これで「うはばみ」と当て訓している可能性もあろうか。

「鳥銃」小銃のこと。猟銃。「こづつ」。もと、鳥を撃つことを目的としたため、或いは、その形が鳥の嘴に似ているところから名づけられたともされ、「鳥嘴銃」(ちょうしじゅう)とも呼ぶ。

「姪の津」は不詳だが、「梅が浜」は宮崎県日南市梅ケ浜で、「ライオン岩」で知られる景勝地であり、その東に接して「油津」があり、ここは宮崎県日南市にある商港・漁港で、江戸時代には飫肥杉の積み出しで繁栄した地として、とみに知られる。或いは、その古い異名であったか、或いは梅が浜は油津湊の東側直近の外海岸であるから、それに合わせて、かく呼んだのかも知れない。

「鰷(あゆ)」原本には読みはない。通常、この漢字は「はや」と読んで、広義通称のハヤ類を指すが、ここは後の叙述から問題ない。実際、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鰷魚 (アユ)」で益軒(福岡藩藩医)は「アユ」と振っている。なお、都合よく、その注で「ハヤ類」も解説してあるので(「ハヤ」という和名の魚種は存在しない)、参照されたい。]

 〔奇異珍事録〕一ツ橋御門内、今民部卿殿御屋形は、元松平右京大夫の屋敷なり。それを刑部卿殿へ進ぜられたり。その御普請の砌《みぎ》り、一ツ橋武者溜《むしやだまり》の上より、御書院御庭つづきしまり[やぶちゃん注:「締まり」。警備。]の為とて、栗丸太《くりまるた》出来《しゆつらい》の積り、未だ取かからず、栗丸太こゝかしこに運び置きたり。その節掛り小普請方手代中村作左衛門見廻るとて、件《くだん》の栗丸太を跨ぎしに、一本の丸太うごき、ざわざわと音せしに、あやしみ振り返り見たるに、一ツ橋枡形の上なる樅《もみ》の木へ、大なる蛇上《のぼ》るを見しより、しばし忙然[やぶちゃん注:ママ。]たる由。その頃相掛り手代岡田喜八・大平又兵衛もこの事知れりと、作左衛門物語りなり。その大蛇一尺二三寸廻り、長さ□間ばかりと覚えし由。 〔耳囊巻二〕廿年程以前の事なる。相州大山<別名雨降山《あふりやま》、神奈川県秦野市と厚木市の間にそびえる山>より、谷を余程隔てたる所に□□村有り。かの村方の山に年ふる古木ありて、朽ちたる穴ありしが、右の内に数年《すねん》住みけるうはばみ、折節は形をあらはし、眼精《がんせい》鏡の如く、里人驚き怖れ、或ひは煙を吹き、または鳥獣を取りて食ひ、人はおそれて用心なせども、時にふれて害をなしけるが、或夏の夜、ひとつの火の王、大山の方より飛び来ると見しが、右の大木の榎ヘ落ち、炎々と燃え上りしが、夜中すさまじき音して、震動する事ありしが、翌日見れば、右榎は片の如く焼けて、うはばみもともに焼けぬ。右の骨をば、所の者恐れて近辺の川原へ埋め捨てしを、医官山崎氏壮年の頃、彼地へ至りし時、骨をひとくるわ貯へ置きし、民の元に泊り、したしく見たりし由、右の委細あるじ山崎氏へ物語りせしと語りぬ。

[やぶちゃん注:前者「奇異珍事録」は幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(「三の卷」の掉尾)で視認出来る。普請用に運び込んだクリの丸太に紛れて運ばれたとはいえ、江戸城内に蟒出現というのは、まずまず特異点の奇談である。

 後者「耳囊」「巻二」は私のものでは、「耳嚢 巻之九 猛蟲滅却の時ある事」である。

「相州大山」「別名雨降山」これは別名と言っても、山上に鎮座する大山阿夫利(あふり)神社の「あふり」にかく判り易く覚えやすい当て字をしたに過ぎない。だから、この「雨降山」も「あふりやま」と読むのである。

「□□村」リンク先で私は大山の後背部に広がる神奈川県愛甲郡清川村を候補地とした。

「ひとくるわ」「一包(くる)み」の意か。「くるわ」には「一つのものを纏めた一帯」の意があるから、そこから数詞として誤って使ったものかも知れない。]

〔続蓬窻夜話〕紀州野上の庄《しやう》に孟子(もうこ)村〈現在の和歌山県海草郡野上町《のかみちょう》内か〉と云ふ処あり。その近き辺(あた)りに孟子の不動とて隠れなき不動あり。この地は魔処にて、申(さる)の時<午後四時>をさがれば人の往来なきよしを云ひ伝へり。この不動堂に住持する僧も一年半年、或ひは一年半はつとむれども、二年と住居する僧は古《いにしへ》より寡(すくな)し。いつとても住持の僧この堂に始めて至る時は、その日夜に射《いり》て何かは知らず、箕《み》の如くなる大手《おほて》を出《いだ》して、この僧を掌の上に載せて撈(すく)ひ上げ、右の手より左の手へ移し、左の手より右の手へ移し、かなたへ転ばし、こなたへころばし、様々に弄《もてあそ》ぶを、僧随分知らぬ顔して、死したる者の如くになり居《ゐ》て、終夜(よもすがら)翫(もてあそ)び物となり、少しも心を動かさずして居《を》れば、三四夜《さんしや》ほどすぐればなぶる事も止みて、遂に居住することなれども、怖ろしき事限りなし。

[やぶちゃん注:この前後二段落の引用元「続蓬窻夜話」は本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保十一年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。

「和歌山県海草郡野上町」現在は和歌山県海草郡紀美野町(きみのちょう)。野上町(のかみちょう)は二〇〇六年に同じ海草郡の美里町と合併し、紀美野町となったため、消滅した。

「孟子(もうこ)」宵曲先生、ちょっとだけ、上の現在地はハズれています。ここで、和歌山県海南市孟子です。紀美野町の東の直近ではありますが。

「孟子の不動」真言宗孟子不動山那賀寺(もうこふどうさんながでら)。弘仁六(八一五)年に弘法大師が開山したとされる山中の古刹。]

 享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]に住持しける僧、或る時用事ありて孟子の村へ行けるが、行く先きを見れば日頃ありとも覚えざる松の大木横はれり。かの僧思ひけるは、怪しやこれほどの大木を切倒すならば、寺も程遠からねば聞ゆべき事なるに、させる物音も人声《ひとごへ》も聞かざりしが、いつのまに伐倒しぬるものならんと不思議に思ひながら歩み近づきて、既に大木を跨げるとき、この大木するすると這ひ動きければ、気も魂《たま》も消えて怖ろしく、跡をも顧みず北(に)げ走りて、漸《やうや》う孟子の村に到り著きければ、村の人この僧の顔色を見て、足下《そこ》には山にて何ぞを見付けられしにや、殊の外顔色あしし、何をか懼れ玉ひけると問ひけるに、いや何も見侍らずと、さりげもなく答へけれども、村のものなほ怪しみて、とかく何ぞ見玉ひたるらん、足下の顔色只事にあらず、是非に聞かんと云ひけるほどに、僧路にての有りし事を語り、ふるひわななき恐れける。元よりこの里には昔より大蟒《うはばみ》[やぶちゃん注:二字でそう読んでおく。]のありと云ひ伝へたれば、それに逢ひけるものならんとぞ村の人は云ひける。斯くてこの僧二三日は人心地もなくて村に有りけるが、程へて気色《きしよく》もよくなり、不動堂へ帰りける。この堂のあたりに滝あり。住僧は毎朝滝水にて身を清めて後、堂の勤めをする事なれば、例の如く滝にうたれんとて空を何心なく見上げたれば、滝の上にまた大木横たはりて、今度は朱の如くに赤く大なる口を開きて、只今我を呑まんとするふぜいなるを見て、身の毛竪(たち)て怖ろしく、気も消え魂も飛んで跡をも見ず、赤裸《あかはだか》にて孟子村に逃げ来り、その後は住職も遂(かな)はず、すぐ何地《いづち》ともなく逐電しけり。その以後も今に於て代る代る住持の僧来りけれども、皆かゝる事にや逢ひけん、二年と務むる者なし。〔甲子夜話巻四十七〕林話に、濃州岩村領恵那郡久須美村<現在の岐阜県恵那市久須美>に山中と字《あざな》する所、今は兀山《はげやま》のよし、昔は灌莽《くわんまう》茂生《しげりはえ》りたりしとなん。今の城主(能登守乗保)先代(能登守乗蘊《のりもり》)の時、この地にて蟒蛇《うはばみ》の骨を獲て、今も尚その頭骨を庫蔵《こざう》す。大きさ馬頭《うまのかしら》ほどにて、銃丸の中《あた》りたる痕いちじるしく残れり。これを打留めたりしは猟師一郎右衛門と云ふ者なり。或日一郎暁かけて山中に往き弁色《べんしよく》[やぶちゃん注:曙になって周囲のものの姿形が識別出来るようになることを言う。]の頃、例の如く鹿を寄せんとて鹿笛吹きしかば、蔚然《うつぜん》[やぶちゃん注:草木の生い茂っているさま。]たる中より大なる蟒蛇の首を擡《もた》げ出でける。折りしも纔かに旭光《きよくくわう》の昇れるに、両目烱々《けいけい》と照り合ひしかば、八寸ばかりの鏡を懸けたるほどなりしが、頓て首を卸《おろ》して見えず。その時一郎思ふやう、馳せ出せば鹿と思ひ一口に呑まるべしと、鉄砲に込めたる玉《たま》薬《やく》をぬき、常に守護なりとて持ちゐし鉄玉《てつだま》を出《いだ》し、強薬《きやうやく》にこの鉛子《たま》を込め替へ、また鹿笛を吹きしかば、この度は蟒《うはばみ》首《くび》間近く我上に擡げたりしを、鉄砲引よせて仰《あをむき》ざまに腮《あぎと》より打抜くと斉しく、万山《ばんざん》一同に響き渡り、大地震動して、覚えず鉄砲持ちながら、その身は谷底に落ちけるが、幸ひに水も無かりしかば、岩角を伝ひ攀ぢ上るに、さしもの晴天俄かに変じ、雲霧深く四方を弁じがたし。されどその地は熟路なれば、山径《やまみち》を一筋に跡をも見ず、息を切《きつ》て家に帰り、家人にこの鉄砲は守護なれば、屋の棟に結《ゆひ》つけよと云ひながら、昏仆《こんふ》[やぶちゃん注:漢方で一過性に意識障害を指す語。]して人事を省《せい》せず、日を経ても茫然として病むこと久し。後《のち》三年を過ぎて、採薪《たきぎとり》の者かの山中に往きしに、何とも知らぬ白骨ありければ、訝《いぶか》りて草を分けて見れば、山二つに亘《わた》りて、その末《すゑ》頭骨と覚しき者あり。驚き還り村長に噺しければ、さらばとて衆人往きて視るに違はざりしかば、終《つひ》に城下の郡職へ訟へ出でけり。その時に至りて、誰《たれ》云ひ出すともなく、この三年《みとせ》猟師一郎臥病《ぐわびやう》せるが、鉄砲達者の男なれば、定めて渠《かれ》が打《うち》たるべしとの沙汰頻りにて、郡職より一郎を呼出して尋ねたるに、その事を云はず。因《より》て強ひて問詰《とひつ》められ、やうやうにその始末を云ひて、戦慄して後ろをふり顧みければ、箇《か》ほどまでに懼《おそろ》しきやとて、郡職の者等《ものら》も咲(わら)ひしとなり。それより一郎が疾《やまひ》愈えしが、遂に猟師を止めて農夫となりけりとぞ。また話、城下一里余に木実村と云ふあり。小川ありてあめの魚を産す。人々夜網を打《うち》て取る。家老味岡杢之允が譜代若党に岡其右衛門《をかきゑもん》と云ふあり。今の其右衛門が祖父なりし者、その川にて夜網せしが、常に見ぬ所に小橋ありければ、よき幸ひに橋を蹈《ふ》んで向岸《むかふぎし》へ渡らんと、橋に蹈みかけたるに、蹈み心《ごこち》何となく柔かきやうに覚えしが、橋と思ひし物しづかに向う[やぶちゃん注:ママ。]へ進むゆゑ、その時始めて蛇背《へびのせ》なることを悟り、駭《おどろ》いて水に墜ち、泳いでもとの岸に登り、はうはう逃げ帰りしとかや。〔譚海巻九〕みのの国にある百姓年老いて、所帯を子供にゆづりて、夫婦山里に隠居し、山畑などひらき、牛一つ飼ひて住みけり。然るに山中にうはゞみありてこの牛を心がけ、よるよる来りければ、牛おそれをのゝき[やぶちゃん注:ママ。]て、さわがしき事限りなし。老人いかで此ものをとらんとて、鉄砲を用意し置《おき》けるに、ある夜また例のごとく牛おどろきさわげば、心がまへして待つところに、うはゞみ萱屋根《かややね》の軒口《のきぐち》より、かしら差出《さしいだ》したり。かの鉄砲に二つ玉こめて打ちたれば、あやまたずうはゞみの口へうちいれたる時、かしら引きたると見えしが、したゝかなる音して、谷のかたへまろび落つるやうに聞えけり。夜明けて行きてみれば、さも大なるうはゞみ谷底におちて、死んで有りけりとぞ。 〔同〕因幡の国にも山中の池にすめるうはゞみ有り。これは人をとる事をせず。ある人長雨の後、用ありて山越に里へ行きたるに、山あひの池あふれて、水をわたりて往来する事なるに、何やらん材木のごとき物、足にさはりたるをふみつけたれば、うはゞみにて有りければ、やがてその足をかみてけり。さのみ覚えざりしかば、里にて用事とゝのへ、さて足をみれば、紫のあざ付きて、ふくれあがりたり。少し心地あやしきやうなるが、夕暮より熱気出て、くるしき事たとへがたし。宿の主人、例の物にくはれ玉ふなり、これにはよき療治侍るとて、やがて何やらん草をとり来り、風呂にてせんじわかしてあみさせければ、やうやう心地さわやぎ、一両度入湯せしかば、熱気さめて本復せりとぞ。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」「巻四十七」の二話は連続しているので、事前に「フライング単発 甲子夜話卷之四十七 36 濃州久須美山中の蟒蛇 / 37 同、木實村川の蛇橋」として正字化して、注もしておいた。

「譚海」「巻九」の二話も同じく連続して載るため、事前に「譚海 卷之九 濃州百姓山居うはゞみを討取たる事 因州うはゞみの事 (フライング公開)」として電子化しておいた。]

〔甲子夜話巻七十〕邸内の僕に越中国の少年ありて話せしを、小臣の物語れるは(原語鄙陋多し。たゞ聞く儘に録せり)、同国に白かい銀山[やぶちゃん注:不詳。]・駒ケ嶽<富山県魚津市と新川《にひかは》郡にそびえる山>並びにおすもん山[やぶちゃん注:不詳。]と云ふあり。この両山は大谷ありて渓谷多し。その麓に大白川、また平瀬といふ里あり。その里人は皆猟人にして、日々山中に入りて猪鹿を獲て生産とす。然るに時として山中に鹿猿の無きことありて生産に乏し。この時猟夫曰ふには、居中蟒来れりと。乃《すなは》ち谷間渓水の辺《あたり》岸石《きしいし》を窺ひ見るに果して巌穴《いはあな》の内に蟒の居《を》るべき処あり。(この猿鹿の居らざると云ふは、蟒来《きた》ればこれを捕り喰《くら》ひて無きか、またはこれを懼れて逃去りて居《をら》ざるかとぞ)これを覩《み》れば牽き往きし犬の食物を穴中《あななか》に投ずるに、犬即ち入りて食ふ。若し蟒の居る事あれば、犬敢《あへ》て入らず。就中牝犬は頻りに吠えて入らず。猟夫こゝを以て知り、巌前《いはのまへ》に集《あつま》り棚を構《かまふ》[やぶちゃん注:底本は「構」が「横」となっている。『ちくま文芸文庫』版もそれを踏襲して『横(よこた)ふる事』としているが、「棚」を「横ふる」というのはどうもピンと来ない。私は私の底本(平凡社の『東洋文庫』版「甲子夜話」)に従い、特異的に訂した。]る事高く、上に数人《すにん》登り、穴口に乱杭《らんぐひ》を樹《うゑ》て防《ふせぎ》とし、それより矩火《かがりび》を多く設け、蕃椒《たうがらし》を炬中《きよちゆう》に加へて穴中に擲入《なげいる》る。この烟《けむり》を数人《すにん》して扇《あふ》ぎ籠《こ》めば、蟒その毒烟《どくけむり》に咽《むせ》びて穴底より出でんとす。蟒動く時はその音風声《かぜのおと》の如し。然るとき棚上の猟夫、預(あらかじ)め設けたる槍、或ひは薙刀《なぎなた》を執りて待つ。瞬時に乱杭を破らんとするを、群槍蟒頭《うはばみがかしら》を刺す。蟒尚ひるまず、首已に杭を出でんとするとき、薙刀を持ちたるもの斬《きり》て頭を絶つ。若しこの如く為さずして、その全身を露(あら)はすに及べば、蟒尾《うはばみのを》人を払ひ倒して勢ひ震電《しんでん》の如く、人皆《ひとみな》これが為に害せらる。因《より》てこの備へをなすと云ふ。 〔塩尻巻六十〕この春<享保四年>丹波国千丈が原<現在の京都府福知山市内>と云ふ山家《やまが》にて、蟒蛇《うはばみ》[やぶちゃん注:同前。]出て人をなやませしを、狩人鉄砲にて打留めし。そこの地頭某《なにがし》へ見せ侍るとて、東都へ首ばかり持ち行く。三月中《やよいうち》に持帰《もちかへ》りしを、人々見しとて語る。大きさ炭斗《すみとり》ふくべの小さき物にして両《りやう》に耳あり。頭《かしら》に赤き毛むらむらと生《お》ひて見えしとかや。深山《しんざん》にはかゝるもの間々《まま》ありと。毎《こと》に人のいふもいつはりならず侍るにや。

[やぶちゃん注:前者は事前に「フライング単発 甲子夜話卷之七十 30 越中國の蟒話」を電子化注しておいた。最後の静山による「和漢三才図会」の引用の附記は、カットされている。

「富山県魚津市と新川郡」『ちくま学芸文庫』版では、この「新川郡」を「黒部市」と編者によって変更されてある。越中駒ヶ岳の頂上は魚津市であるが、頂上東北直近で黒部市と接している。しかも「新川郡」は行政区画として画定されたものではなく、富山の東半分の広域を示す古い通称呼称(当該ウィキ参照)だから、そもそもこの宵曲の言い方はおかしいのである。

「塩尻」「巻六十」「鼬の火柱」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(左ページ三行目から)で正字で視認出来る。

「炭斗ふくべ」「炭斗瓢」大型の瓢簞(ひょうたん)の底部分を、実の中を刳り抜いて乾燥させて作った茶道具。「瓢炭取」等とも書く。茶の湯で、亭主が、客の前で炉や風炉に炭を組み入れる炭点前(すみでまえ)で用いる、炭を組み入れ、香合・羽箒・釜敷・鐶・火箸を添えて席中に持ち出す器のこと。

「享保四年」一七一九年。

「丹波国千丈が原」現在の京都府福知山市大江町(おおえちょう)佛性寺(ぶつしょうじ)の「千丈ヶ原 子安地蔵」の附近か。]

2023/08/17

フライング単発 甲子夜話卷之七十 30 越中國の蟒話

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

70―30

 邸内の僕(しもべ)に、越中國(えつちゆうのくに)の少年ありて、話せしを、小臣(しやうしん)[やぶちゃん注:静山の下級の家臣。]の物語れるは【言語、鄙陋(ひろう)[やぶちゃん注:見識等が浅はかであること。以下の山名・地名なども、私は六年間、富山に居住したが、不明にして怪しいものがある。嘘臭い話であり、されば、特にそれらは注して突っ込まないことにした。]多し。たゞ聞くまゝに錄せり。】、

「同國に、『白(シラ)かい銀山駒ケ嶽』幷(ならび)に『おすもん山(ザン)[やぶちゃん注:二ヶ所のカタカナは珍しい静山のルビ。後も同じ。]』と云ふ、あり。

 この兩山は、大谷、ありて、溪澗(けいかん)、多し。

 其麓に、『大白川(おほしらかは)』、又、『平瀨』といふ里あり。その里人は、皆、獵夫(りやうふ)にして、日々、山中に入(いり)て、猿・鹿を獲(とり)て、生產とす。

 然(しか)るに、時として、山中に、鹿・猿の無きこと、ありて、生產に乏(とぼ)し。

 この時、獵夫、曰(イフ)には、

『山中、蟒(うはばみ)、來れり。』

と。

 廼(すなはち)、谷間・溪水の邊(あたり)、岸石(きしいし)を窺(うかがひ)みるに、果して、巖穴(いはあな)の内、蟒の居(を)るべき處あり【この猿・鹿の居(をら)ざると云(いふ)は、蟒、來れば、これを、捕喰(とりくら)ひて無きか。又は、これに懼れて逃去(にげさり)て居(をら)ざるか、とぞ。】。

 これを覩(み)れば、率(ひ)き往(ゆ)きし犬の食物(くひもの)を、穴中(あななか)に投ずるに、犬、卽(すなはち)、入りて、喰(くら)ふ。若(も)し、蟒の居《を》る事あれば、犬、敢(あへ)て入らず。

 就中(なかんづく)、牝犬(めすいぬ)は、頻りに、吠(ほえ)て、入らず。

 獵夫、こゝを以て知り、巖前(いはのまへ)に集(あつま)り、棚を構(かまふ)る事、高く、上に、數人(すにん)、登り、穴口に、亂椓[やぶちゃん注:意味不明。「椓」は「打つ・叩く」の意。柴田宵曲の「随筆辞典 奇談異聞篇」では、『乱杭』とする。腑には落ちる。]を樹(うゑ)て防(ふせぎ)とし、夫(それ)より、矩火(かがりび)を多く設け、蕃椒(たうがらし)を炬火に加へて、窟中(あななか)に擲入(なげいる)る。この煙(けむり)を、數人(すにん)して、扇(あふ)ぎ籠(こ)めば、蟒、その毒煙(どくけむり)に咽(むせ)びて、穴底より出(いで)んとす。

 蟒、動く時は、其音、風聲(かぜのおと)の如し。

 然るとき、棚上(たなうへ)の獵夫、預(あらかじ)め設けたる鎗(やり)、或ひは、薙刀(なぎなた)を執りて、待つ。

 瞬時に、亂椓を破らんとするを、群鎗(ぐんさう)、蟒頭(うはばみがかしら)を刺す。

 蟒、尙、ひるまず、首(かうべ)、已に椓を出でんとするとき、薙刀を持(もち)たる者、斬(きり)て、頭を絕つ。

 若し、この如く爲(なさ)ずして、その全身を露(あら)はすに及べば、蟒尾(うはばみのを)、人を拂ひ倒して、勢(いきほひ)、震電(しんでん)の如く、人皆(ひとみな)、これが爲に害せらる。

 因(より)て、この備へをなすと云ふ。[やぶちゃん注:「随筆辞典 奇談異聞篇」では、ここまでで、後をカットしている。]

 又、曰(いふ)。

「蟒の此山に棲むこと、一年に一度、或は、三年にして一度、又は、これを獲る。一年に兩度なることもあり。」

 彼(かの)僕(しもべ)も、

「一たび、目擊す。」

と。

「其狀(かたち)、頭(かしら)は平(ひらたく)、大(だい)にして、蛇と似ず。耳を生(しやう)ず。瑣小(さしやう)[やぶちゃん注:小さいこと。]なり。その長(たけ)、丈餘にして、圍(めぐり)、三尺なるべし。この如きは、蟒の小なる。」

とぞ。

 又、曰(いふ)。

「蟒、肉、食(しよく)すべし。」

 僕(しもべ)も、

「これを食せしに、美味、云(いふ)許(ばかり)なし。」

と。

「但し、味噌に漬(つけ)、三年を歷(へ)たる者、食すべし。一年を經たる如きは、毒ありて、逆上を患ふ。」

と。

[やぶちゃん注:この下部(しもべ)の少年は、恐らく、虚言癖のある人物のように思われ、凡そ、信じ難い。ただ、最後の部分は、思わず、『「新說百物語」巻之三 「あやしき燒物喰ひし事」』を想起した。

 以下、底本では全体が一字下げ。送り仮名の不備はママ。]

 良安が「三才圖」・「本綱」を引(ひき)て云(いは)く、『巨蠎生安南雲南諸處。蚺蛇之類ニシテ而有四足者也。有黃鱗黑鱗二色。能麋鹿。春冬居ㇾ山、夏秋ㇾ水。能ㇾ人。土人殺シテ而食フㇾ之。○又按、蚺蛇本朝深山中有ㇾ之。其頭大圓扁。眼大而光アリ。背灰黑色。腹黃白。舌深紅也。其耳小ニシテ二寸許、形如鼠耳。然ルニ蚺蛇不ㇾ謂有無、未ㇾ審。○「說文」大蛇可ㇾ食と。是ら、見合(みあは)すべし。

[やぶちゃん注:以上の引用は、殆んどが、「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」(リンク先は私の古いサイト版。漢字の不全や学名が斜体になっていないのは、許されたい)の「巨蟒(やまかゞち) おろち」及び「蚺蛇(うはばみ)」からの部分引用である。但し、最後の『○「說文」大蛇可ㇾ食』は私のそこには、ない。「和漢三才圖會」には別な版があるので、そちらに載るか。ただ、実際、中文サイトで確認したが、確かに「説文」にこの記載は、ある。以下、推定訓読を示す。

   *

巨蠎は、安南・雲南の諸處に生ず。蚺蛇(ぜんだ/うはばみ)の類(るゐ)にして、四足、有る者なり。黃鱗(わうりん)・黑鱗(こくりん)の、二色、有り。能く麋(び)[やぶちゃん注:多きな鹿。]・鹿を食ふ。春・冬は、山に居り、夏・秋は、水に居(きよ)す。能く、人を傷(きずつく)る。土人、殺して、之ㇾを食ふ。○又、按るに、蚺蛇は本朝の深山の中に、之れ有り。其の頭(かしら)、大(だい)にして、圓(まる)く、扁(ひら)たく、眼(まなこ)、大いにして、光りあり。背は灰黑色、腹は黃白、舌は深紅なり。其の耳、小にして僅かに二寸許(ばか)り、形、鼠の耳のごとし。然るに、蚺蛇に、耳の有無を謂はざるは、未だ審(つまびら)かならず。○「說文」に『蚺は大蛇。食ふべし。

   *

「三才圖」明の王圻(おうき)の類書「三才圖會」。

「本綱」明の李時珍の「本草綱目」。]

譚海 卷之九 濃州百姓山居うはゞみを討取たる事 因州うはゞみの事 (フライング・カップリング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。上記で続いて出、また原本でも続いているので、特異的に二話を連続して電子化した。間に「*」を挟んだ。]

 

 濃州百姓山居(さんきよ)うはゞみを討取(うちとり)たる事

〇美濃の國に、ある百姓、年老(としおい)て、所帶を子供にゆづりて、夫婦、山里に隱居し、山畑など、ひらき、牛、一つ、飼(かひ)て住みけり。

 然(しか)るに、山中に、うはゞみ、ありて、この牛を、心がけ、よるよる[やぶちゃん注:夜毎(よごと)に。]、來りければ、牛、おそれ、をのゝきて[やぶちゃん注:ママ。]、さわがしき事、限りなし。

 老人、

「いかで、此ものを、とらん。」

とて、鐵炮を用意し置(おき)たるに、ある夜、又、例のごとく、牛、おどろき、さわげば、心がまへして待つところに、うはゞみ、萱屋根(かややね)の軒口(のきぐち)より、かしら、差出(さしいだ)したり。

 かの鐵炮に、二つ、玉、こめて、打(うち)たれば、あやまたず、うはゞみの口へ、うちいれたる時、かしら、引きたると、見えしが、したゝか成(なる)音して、谷のかたへ、まろび落(おつ)るやうに聞えけり。

 夜明(よあけ)て、行(ゆき)てみれば、さも、大成(なる)うはゞみ、谷底に、おちて、死(しし)て有(あり)けるとぞ。

    *

 因州うはゞみの事

〇因幡の國にも、山中の池にすめる、うはゞみ、有(あり)。

 これは、人を、とる事を、せず。

 ある人、長雨の後(のち)、用ありて、山越(やまごえ)に里へ行(ゆき)たるに、山あひの池、あふれて、水をわたりて往來する事なるに、何やらん、材木のごとき物、足にさはりたるを、ふみつけたれば、うはゞみにて有(あり)ければ、やがて、其足を、かみてけり。

 さのみも、おぼえざりしが、里にて、用事、とゝのへ、扨(さて)、足をみれば、紫のあざ、付(つき)て、ふくれあがりたり。

 少し、心地(ここち)、あやしきやうなるが、夕暮より、熱氣、出(いで)て、くるしき事、たとへがたし。

 宿の主人、

「れい[やぶちゃん注:「例」。]の物に、くはれ給ふなり。これには、よき療治、侍る。」

とて、やがて、何やらん、草をとり來(きたり)て、風呂にて、せんじ[やぶちゃん注:「煎じ」。]、わかして[やぶちゃん注:「沸かして」。]、あみ[やぶちゃん注:「浴み」。]させければ、やうやう、心地、さわやぎ、一兩度、入湯せしかば、熱氣、さめて、本復せりとぞ。

フライング単発 甲子夜話卷之四十七 36 濃州久須美山中の蟒蛇 / 37 同、木實村川の蛇橋

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。「蟒蛇」は「うはばみ」。続いている話で、宵曲も続けて載せていることから、特異的に二話を電子化した。]

 

47―36

 林[やぶちゃん注:林述斎。]話に、濃州岩村領惠那郡久須美村に「山中(やまなか)」と字(あざな)する所、今は兀山(はげやま)のよし。昔は灌莽(くわんまう)、生茂(おいしげ)りたりしとなん。

 今の城主【能登守乘保。】)先代【能登守乘蘊(のりもり)】)の時、此地にて蟒蛇(うはばみ)の骨を獲(え)て、今も尙、其頭骨を庫藏(こざう)す。

[やぶちゃん注:「濃州岩村領惠那郡久須美村」現在の岐阜県恵那市長島町(おさしまちょう)久須見(くすみ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「山中」と字する所」この附近

「能登守乘保」老中にして美濃国第四代岩村藩主松平乗保(寛延元(一七四八)年~文政九(一八二六)年)。丹波国福知山藩五代藩主朽木玄綱(くちきとうつな)の八男。後に乗蘊の養子となった。

「能登守乘蘊」美濃国第三代岩村藩主松平乗蘊(享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)。

「灌莽」草木が生い茂った叢(くさむら)。ここ、畳語表現である。]

 大(おほき)さ、馬頭(むまのかしら)ほどにて、銃丸の透(とほ)りたる痕(あと)いちじる鋪(しく)殘れり。

 是を打留(うちとめ)たりしは、獵師、一郞右衞門と云(いふ)者なり。

 或日、一郞、曉(あかつき)、かけて、山中に往(ゆ)き、辨色(べんしよく)[やぶちゃん注:曙になって周囲のものの姿形が識別出来るようになることを言う。]の頃ほひ、例の如く、

「鹿を寄(よせ)ん。」

迚(とて)、鹿笛、吹(ふき)しかば、蔚然(うつぜん)[やぶちゃん注:草木の生い茂っているさま。]たる中より、大(おほき)なる蟒蛇の、首を擡(もた)げ出(いで)ける。

 折りしも、纔(わづか)に旭光(きよくくわう)の昇れるに、兩目、烱々(けいけい)[やぶちゃん注:目が鋭く光るさま。]と照り合ひしかば、八寸許(ばかり)の鏡を懸けたるほどなりしが、頓(やが)て首を卸(おろ)して、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。

 その時、一郞、思ふやう、

『馳出(かきだ)せば、鹿と思ひ、一口に吞まるべし。』

と、鐵炮に込めたる玉《たま》・薬《やく》をぬき、常に「守護なり」とて、持ちゐし鐵玉(てつだま)を出(いだ)し、强藥(きやうやく)に、此(この)鉛子(たま)を込替(こめか)へ、又、鹿笛を吹しかば、この度(たび)は、蟒(うはばみ)、首(くび)間近く、我上(わがうへ)に擡げたりしを、鐵炮、引(ひき)よせて仰(あをむき)ざまに腮《あぎと》[やぶちゃん注:顎(あご)。]より打拔(うちぬく)と斉(ひとし)く、万山(ばんざん)一同に響き渡り、大地、震動して、覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ず鐵炮持(もち)ながら、その身は、谷底に落(おち)けるが、幸(さいはひ)に、水も無(なか)りしかば、岩角(いはかど)を傳ひ攀上(よぢのぼ)るに、さしもの晴天、俄(にはか)に變じ、雲霧深く、四方を辨じがたし。去(され)ど、その地は熟路(じゆくろ)[やぶちゃん注:勝手知ったる山路。]なれば、山逕(やまみち)を、一筋に、跡をも見ず、息を切(きつ)て、家に歸り、家人に、

「この鐵炮は、守護なれば、屋(いへ)の棟(むね)に結《ゆひ》つけよ。」

と云ひながら、昏仆(こんふ)[やぶちゃん注:漢方で一過性に意識障害を指す語。]して、人事を省(せい)せず、日を經ても、茫然として、病むこと、久し。

 後(のち)三年を過ぎて、採薪(たきぎとり)の者、かの山中に往(ゆき)しに、何とも知らぬ白骨ありければ、訝(いぶか)りて、草を分(わけ)て見れば、山二つに亙(わた)りて、その末(すゑ)、頭骨と覺(おぼ)しき物、あり。

 驚き、還り、村長(むらをさ)に噺(はなし)ければ、

「左(さ)らば。」

とて、衆人、往(ゆき)て視るに、違(たが)はざりしかば、終(つひ)に城下の郡職へ訟へ出(いで)けり。

 其時に至りて、誰(たれ)云ひ出すとも無く、

「この三年《みとせ》、獵師一郎、臥病(ぐわびやう)せるが、鐵炮達者の男なれば、定(さだめ)て渠(かれ)が打(うち)たる當(べ)し。」

との、沙汰、頻りにて、郡職より、一郞を呼出(よびいだ)して尋ねたるに、其ことを、云はず。

 因(より)て、强(しひ)て問詰(とひつめ)られ、やうやうに、始末を云ひ、戰慄(せんりつ)して、後ろを、ふり顧みければ、

「箇(か)ほど迄に、懼(おそろし)きや。」

とて、郡職の者等(ものら)も咲(わらひ)し、となり。

 それより、一郞が疾(やまひ)、愈(い)へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、遂に獵師を止(やめ)て農夫となり鳧(けり)とぞ。

 

47―37

 又、話(はなし)。城下一里餘に木實(きのみ)村と云ふあり。小川ありて、「あめの魚」を產す。

 人々、夜網(よあみ)を打(うち)て取る。

 家老味岡杢之允(あぢをかもくのじよう)が譜代若黨に、岡其右衞門(をかきゑもん)と云ふあり。

 今の其右衞門が祖父なりし者、その川にて夜網せしが、常に見ぬ所に小橋ありければ、

「よき幸(さいはひ)に、橋を踏(ふん)で、向岸(むかふぎし)へ渡らん。」

と、橋に踏(ふみ)かけたるに、踏み心(ごこち)、何となく柔かきやうに覺(おぼえ)しが、橋と思(おのひ)し物、しづかに、向(むかふ)へ進むゆゑ、其とき、始(はじめ)て、蛇背(へびのせ)なることを悟り、駭(おどろき)て、水に墜ち、泳(およい)で、もとの岸に登り、はうはう、逃げ歸りしとかや。

[やぶちゃん注:「岩村城跡」から南東の同距離の箇所に「ひなたGPS」の戦前の地図と国土地理院図で、『木實』及び『木ノ実』の地名が確認でき、グーグル・マップ・データでは、「木ノ実川」を確認出来る。現在の地名は岐阜県恵那市上矢作町木ノ実(かみやはぎちょうきのみ)である。

「あめの魚」種としては、条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou に比定してよい。本種は、サクラマスのうち、降海せず、一生を河川で過ごす陸封型個体を指す。北海道から九州までの河川の上流などの冷水域に棲息する。但し、この本文で、その種だけに限定するのは、やや問題がある。近世以前には、多くの淡水魚類を「あめのうを」と呼んでいたからである。

「味岡杢之允」この人物は林述斎の知り合いである。「国立国会図書館サーチ」の「書下案 味岡杢之允が祭酒公林述斎より大小を賜る件につき」の書誌データを参照されたい。]

2023/08/16

フライング単発 甲子夜話卷之二十六 4 神崎の蟒【平戶】

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

26ー4

 平戶神崎(こうざき)の溪間(たにま)に、細竹(ほそだけ)、繁生(はんじやう)せる所あり。

 一日(いちじつ)、某士の僕(しもべ)つれだちて、こゝに來り、

「竹を伐(きら)ん。」

とするに、溪そこに、何やらん、大(おほき)なる松の木を、橫たへたる如きもの見ゆ。

 あやしく思ひ、山腹の石を轉(ころが)したれば、かの大木(たいぼく)、動きたる故、驚きて、よく視れば、蟒(うはばみ)なり。

 僕等(しもべら)、大(おほい)に懼れ、跡をも見ずして、逃げ歸れり。

 その大きさ、二尺まはりもありしと云ふ。

 また、その邊に漁(すなどり)する蜑(あま)ありしが、或日、舟行(ふなゆき)するあたりを、大魚(たいぎよ)あつて、首を出《いだ》して泳ぎゆくゆゑ、

『鰻(うなぎ)ならん。』

と思ひ、鋒(ほこ)【「鋒」は方言「モリ」。これを擲(なげうち)て魚を刺すの用。手繩あり。數尋(すひろ)なり。】を擲て、これを突(つく)に、その身に中(あた)れりと覺しく、やがて反側(はんそく)して、苦しむ體(てい)なり。

 見れば、蟒なり。

 蜑、大に怖れ、もりも、手繩も、そのまゝ捨(すて)て逃げ去れりと。

 これより後(のち)は、此邊(このあたり)に蟒を見ること、絕えたりとなん。

「思ふに、蟒の、海を渡り、近嶋(ちかきしま)に移り、その處の山に入(いら)んと爲(な)し、中途にて、害に遭ひしなるべし。」

と、人々、云ひあへり。

■やぶちゃんの呟き

「神崎」「フライング単発 甲子夜話卷之二十六 6 平戶の海邊にて脚長を見る事」で注したが、長崎県平戸市大久保町神崎地区であろう。南で薄香湾(うすかわん)を望む。「ひなたGPS」で戦前の地図を見たが、山名はないが、西の岬のピーク『106.1』或いは、『神崎』の地名の南に『97』のピークがあるので、その孰れかであろう。前者か。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海坊主」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。「□」は欠字。

 

 海坊主【うみぼうず】 海上にあらわれたという妖怪 〔斉諧俗談巻五〕相伝へて云ふ。西国の大洋に海坊主といふものあり。そのかたち鱉(すつぽん)の身にして、人の面《つら》なり。頭に毛なく、大なるものは五六尺あり。漁人、これを見る時は、不祥なりと云ひ伝ふ。果して漁に利あらず。たまたまこのものを捕へて殺さんとする時は、手を拱(こまぬい)て泪を流し、救ひを願ふ者の如し。因て誥(つげ)て云ふ、汝が命を免《ゆる》すべし、この以後、吾が漁に仇《あだ》をすべからずといふ時、西に向ひて天を仰ぐ。これその諾《だく》といふ形なり。すなはち助けて放ちやる。これ中華にていふ和尚魚《おをしやううを》なりと云ふ。  〔閑窓自語〕和泉にすみし人のかたりけるは、かひづかの辺りの海辺には、ときどき海坊主とかやいへるもの、いそちかくあゆみよる物ありて、家ごとに子どもをいださず。もしあやまちて人いづれば、とり□□いひておそるゝ事ぞ。両三日ばかりして沖のかたにかへる。そのかたち人に似て大きに、総身くろくうるしのごとし。半身海上にあらはれたちてゆく。かたりしもの後《うしろ》より見けるゆゑ、顔をば知らずとぞ。

[やぶちゃん注:以上の二話の「海坊主」のデーティルは、孰れも西日本の海上或いは海辺で目撃され、

①首から下は鼈(スッポン)にそっくり。

②頭部の前面は人間そっくりか、或いは、身体全体が人に似ているが、人よりは大きい。

③頭部には毛髪がない。

④大きな個体は約一・五十二~一・八二メートル。

⑤人間に対して手を合わせて擦る希(こいねが)うような行動をとり、涙を流しているように見え、所謂、命乞いしている動作に見える。

⑥西に向って天を仰ぐような行動をとる。

⑦中国で謂うところの「和尚魚」と同一生物である。

⑧概ね出現してから三日ほどは出現した海辺に留まっていて、後に沖の方へと帰ってゆく。⑨全身が黒く、漆(うるし)のようなテカりがある。

⑩通常、半身を海面上に現わして、立ち泳ぎするように行動する。

とある。この内、全く参考にならない嘘臭いものは、⑥ぐらいなもので、その外は、一寸考えると、誰もが、「あれじゃない?」と思わせる海獣がいる。而して、寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」(リンク先は私のサイト版)の中に、「おしやういを うみぼうず 和尚魚【俗に海坊主と云ふ。】」を立項して、この文字通りの図を添えて、詳述している。

 さて、「斉諧俗談」は「一目連」で既出だが、再掲すると、大朏東華(おおひ(或いは「おおで」)とうか)の随筆で、何時、刊行されたか不明だが、後編は宝暦八(一七五八)刊とするから、それ以前の出版ではある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここで当該部を正字で視認出来る。なお、そこで、「和尚魚」に「おせううを」とルビするのは歴史的仮名遣の誤りである。

 ところが――である。実は、「一目連」と同じく、これもまたしても、

「和漢三才圖會」の以上の「和尙魚」の丸写し

に過ぎないのである。そう、

「斉諧俗談」は、随筆と言うより、殆んどが、単なる諸書の怪異奇談を寄せ集めた抄録集成

に過ぎないのである。

 閑話休題。

 ここで、今度は、私のブログ版の「大和本草卷之十三 魚之下 和尚魚(をしやううを) (アシカ・オットセイの誤認)」を見て戴こう。本文は痩せていて読むべき箇所は殆んどないが、私は注で、本家本元の「三才圖會」の「和尚魚」の画像も添えておき、さらに私が嘗て、「和漢三才圖會 卷第四十六」の「和尚魚」で考証したモデル生物について、ディグしたのである。そこで私は、やはり、

哺乳綱ネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アザラシ科Phocidaeのアザラシ類

か、同じ、

アシカ(鰭脚)亜目アシカ科Otariidaeのアシカ類

及び

アシカ科オットセイ亜科Arctocephalinaeに属するオットセイ類

等の誤認以外の何物でもないという推定に落ち着いたのである。分布から見て、西日本で出現するという点では、前二者の可能性が高いが、体色はオットセイ類が最も黒い。さらには、そこには、我々が絶滅させてしまった(昭和五〇(一九七五)年に竹島で二頭の目撃例があったのを最後とする)アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

が含まれていた可能性も極めて高い(茶系の漆色というなら、よく一致する)のである。

「閑窓自語」は珍しく公卿(正二位権大納言)で歴史家であった柳原紀光(延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆で、当該項は「上卷」「七三」の「肥前水虎語(のこと)」。国立国会図書館デジタルコレクションの『隨筆三十種』第五集(今泉定介・畠山健校訂編纂・明三〇(一八九七)年青山堂刊)のここで当該部が視認出来る。標題は「和泉海獸語」(いづみかいじうのこと)である。

「かいづか」現在の大阪府貝塚市。

「とり□□いひて」比較対象資料がないので、欠字の復元は出来ない。私が思ったのは、「とり憑(つく)といひて」「とり攫(さら)ふといひて」であった。後者が子どもを出さないことに親和性があるか。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海蜘蛛」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 海蜘蛛【うみぐも】 〔中陵漫録巻一〕筑紫の海人相伝へて云ふ。大風に乗じて南海に漂流して一小嶋に倚《よ》るに、大なる蜘蛛海岸より来て、白き綿のごとくなる物を擲(なげうつ)て舟に当て引付くる。舟の引《ひき》かるゝ事、索(なは)にて引くより甚だし。皆驚きて腰刀《こしがたな》を抜いて切払《きりはら》つて其処を去ると云ふ。今案ずるに『香祖筆記』曰く「海蜘蛛生奥海嶋中。巨若車輪。文具五色。糸如絙組。虎豹触ㇾ之不ㇾ得ㇾ脱。斃乃食ㇾ之」これ乃《すなは》ちこのものなり。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来るが、実は私は既に「柴田宵曲 妖異博物館 蜘蛛の網」で電子化している(その一部はちょっと古い電子化で、正字・仮名ともに不全であったので、全面的に修正しておいた)。

「香祖筆記」清朝初期の詩人として王漁洋の名で知られる王士禎(一六三四年~一七一一年)の一七〇二年作の随筆。引用部を推定訓読しておく。漢字は正字に直した。

   *

海蜘蛛は奥海(わうかい)の島の中に生ず。巨きさ、車輪のごとし。文(もん)、五色(ごしき)を具(そな)ふ。糸は絙組(こうそ)のごとし。虎・豹、之れに觸るれば脫するを得ず。斃(たふ)れて、乃(すなは)ち、之れ食(くら)ふ。

   *

「絙組」「太い組み綱」の意でとっておく。って、んな、蜘蛛、いるわけ、ないじゃんッツ!]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「厩橋の百物語」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 厩橋の百物語【うまやばしのひゃくものがたり】 〔怪談老の杖巻四〕延享の始めの頃、厩橋〈群馬県前橋市の旧称〉の御城内にて、若き諸士宿直《とのゐ》して有りけるが、雨いたうふりて物凄き夜なれば、人々一ツ処にこぞりよりて、例の怪談になりぬ。その中に中原忠太夫といふ人、座中先輩にて至極勇敢の人なりしが、世に化物ありと云ひ無しといふ。この論一定しがたし、今宵は何となくもの凄まじきに、世にいふ所の百もの語りといふ事をして、妖怪出るや出ざるや、ためし見んと云ひ出しければ、何れも血気の若とのばら、各〻《おのおの》いさみて、さらば始めんとて、まづ青き紙を以て、あんどうの口を覆ひ、傍に鏡一面を立て、五間[やぶちゃん注:約九メートル。]も奥の大書院になほし置き、燈心定りのごとく百すぢ入れて、一筋づつ消し、鏡をとりて我顔を見て退《しりぞ》くべし、もつともその間の席々には、燈をおかず闇《くら》がりなるべしと、作法進退形《かた》のごとく約をなし、先づ忠太夫より云ひ出したる事なれば、咄し出さるべしとて、ある事なき事、短かきを専らに廻して、八ツ<午前二時>の時計のなる頃、はや八十二番の咄し済みけれども、何のあやしき事もなし。然るに忠太夫八十三番目の咄しにて、ある山寺の小姓と僧と密通して、ふたりながら鬼になりたりなど、あるべかゝり[やぶちゃん注:「あるべきかかり」の変化した語で、「おざなり・紋切り型」の意。]の咄にて、さらば燈を消して来られよといふにつきて、詰所をたち、静かに唐紙をあけ、一ト間々々を過ぎ行きしに、行燈のある座へ出《いづ》るとて、ふすまをあけてふりかへりあとを見ければ、右の方の壁に白きもの見えたるを、立よりて見ければ、きぬのすその手にさはるを、あやしとおもひてよくよく見れば、女の死骸、首などくゝりたるやうに、天井より下りてあり。忠太夫もとより勇気絶倫の人なれば、さても世にもなき事は云ひあへぬものなり、これや妖怪といふ者なるべしとおもひて、さあらぬ体にて次へ行き、燈を一すぢ消して立帰るとき見けるに、やはり白くみえたり。黙して座につき、また跡番の士代りて行きしが、いづれもこの妖径の沙汰をいふものなし。さては人の目には見えぬにや、また見えても我がごとくだまりて居るやらん、いぶかしくて、咄しをいそぎて仕舞ひ給へと、小短き咄しばかりにて百番の数終り、はや終らんとする時、その座中に筧《かけひ》甚五右衛門といふ人、さながら色青く心持あしげに見えしが、座につきていふ様、何と旁(かたがた)咄《はなし》も已に終るなり、何ぞあやしき事を見しものはなきやといふとき、皆人そこには見給ひたりやといふ。成程我らは先程より見たりしが、だまつて居たり、各〻はと問ふ。忠太夫、我は八十三番目の時見たりといふ。それより皆々口をそろへて、女の首くゝりかといふ。いかにもはや妖怪見えし上は、咄をやめて一同に行きて見るがよろしからんと、もつともとて皆々行燈を下げて行きて見れば、年頃十八九の女、白むくを著て白ちりめんのしごきを〆《しめ》、散《ちら》し髪にて首を縊りて居たり。何にてくゝりしや、天井より下《さが》りしたればしかとは見えず。抱《いだ》きおろさんといひけるを、まづ無用なり、跡先のふすまをしめ、この化物いかに仕舞《しまひ》を附《つけ》るぞ、見よとて、皆々化物の脇に座を構へて見物する内、はや東もしらみ、夜はほのぼのとあけけれども、化物消えんともせず、やはり始めのごとし。これはすまぬ物なりと各〻驚きて、先づ役人の内、奥がかりの人まねき見せければ、嶋川殿といふ中老の女なり。殿のをりふし使はるゝなど、取沙汰ある人なれば、皆々驚きて、これはけしからぬ大変なりといひけるが、皆々打よりて、まづ沙汰すべからず、此所へ女中の来る所にあらず、決して妖怪に違ひなし、広く沙汰して、麁忽《そさう》の名をとりてはいかゞとて、奧家老下田某、まづ、奧へ行きて、嶋川どのに逢はんといひけるに、夕べより不快のよしにて逢はず。さてはあやしやと、ちと御目にかヽらねばならぬ急用事ありとせめけるにぞ、やむことを得ず出《いで》て逢ひぬ。実《げ》にも不快の体《てい》なれども、命に別条なければ先づ安堵して、兎角の用事にかこつけ、表へ出て最前の場処へ行きて見るに、かの首くゝり、段々と消えて跡もなし。つきて居たる人々も、いつ消えしとも見えぬといふにぞ、さては妖怪に相違なし、但し堅く沙汰するべからずと、右[やぶちゃん注:「左右」の脱字か。]口をかためて別れぬ。そののちこの嶋川は、人を恨むる事ありて、自分の部屋にて首を縊り失せにき。この前表《ぜんぴやう》を示したるものなり。されば人の云ひ伝ふる事、妖気の集る処、怪をあらはしけるなるべし。かの忠太夫後《のち》藩中を出《いで》て、剣術の師をし居《をり》たりしが、語りけるなり。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之四 厩橋の百物語」を見られたい。正規表現乍ら、遙かに読み易くしてある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「馬にて空中を飛来る」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 馬にて空中を飛来る【うまにてくうちゅうをとびきたる】 〔半日閑話巻十五〕同年<文化十三年[やぶちゃん注:一八一六年。]>八月初旬の頃、本所辺より及深更《しんかうにおよび》、狩衣を著て鳥帽子を著し、馬にて空中を江戸の方へ飛来るを、両国橋〈東京都墨田区内〉茶屋に腰掛けしものたしかに見るといへり。これまたその頃の専ら巷説なり。

[やぶちゃん注:逆転層等による蜃気楼であろう。

「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は「○兩國橋巷說」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鰻の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鰻の怪【うなぎのかい】 〔耳嚢巻一〕音羽町<東京都文京区内>とかに住める町人、至つて穴うなぎを釣る事に妙を得、素より魚猟を好みけるが、右町人は水茶屋同様のものにて、麦食《むぎめし》またはなら茶などあきなひけるが、或日壱人の客来りて、麦食を喰ひて、彼れ是れ咄しの序《ついで》、漁もなす事ながら、穴にひそみて居り候鰻(うなぎ)を釣出すなぞは、その罪深し、御身も釣道具など多くあれば、釣もなし給はんが、穴釣りなどは無用の由、異見なしけるに、折節雨つよくふりければ、かのなら茶屋、例の好物の釣時節、やがて支度して、どんど橋とかへ行きて釣りせしに、いかにも大きなるうなぎ得て、悦び帰りて、例の通り調味しけるに、右うなぎの腹より、麦食多く出でけるとなりと、人の語りければ、また壱人の噺しけるは、それに似たる事あり。昔虎の御門、御堀浚《さら》ひとかありしに、右人足方引請けたる親仁、うたゝねなしたるに、夢ともなく壱人来り、浚ひのはなしなどを致しけるゆゑ、定めて仲ケ間も大勢の事ゆゑ、その内ならんと起出て、四方山《よもやま》の事語り、さてこの度の浚ひに付き、うなぎ夥しく出で候はんが、そが中に長さ三四尺、丸みも右に順じ候うなぎ出づべし、年古く住むものなれば、殺し給ふな、その外うなぎを多く失ひ給ひそと、頼みければ、心よくうけ合ひて、有合《ありあひ》の麦食などふるまひ、翌(あす)をやくして別れぬ。あけの日、右親仁さはる事ありて、漸《やうや》く昼の頃、彼《かの》者の頼みし事思ひ出して、早々浚ひ場所へ至り、うなぎか何ぞ大きなる活物《いきもの》》掘出し事なきや、何卒それを貰ひたきと申しければ、成程すさまじき鰻を掘出しぬと中すゆゑ、早々その所へ至り見れば、最早打殺しけるとぞ。さて腹をさきて見しに、麦飯出しゆゑ、弥〻《いよいよ》きのふ来りてたのみしは、この鰻なるべしとて、その後はうなぎ喰ふ事を止まりしと咄す。両談同様にて、何れか実、何れか虛なる事をしらず。

[やぶちゃん注:私の底本のものでは、「耳嚢 巻之八 鱣魚(せんぎよ)の怪の事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「宇土の岩屋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 宇土の岩屋【うどのいわや】 宮崎県南那珂郡の奇談〔塩尻巻五十三〕日向国宇土〈現在の宮崎県南那珂郡鵜戶[やぶちゃん注:ママ。]町〉の岩屋は、うがやふきあはせすの尊《みこと》降誕の処とかや。浜辺より無下《むげ》に近き山ぎはにて、いはやの入口の凡そ二十間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]ばかり、深き事十四五間[やぶちゃん注:約二十五・五~二十七メートル。]、上へは岩一枚にて天井のごとし。窟中三祠をまつり、御《み》あかし立《たて》て、いといと神さびたり。その岩屋の奥に竜宮穴とて数尺ばかりの穴あり。立《たち》よれば風甚しく吹出《ふきいだ》して物すごしと、見し人かたれり。日・隅・薩の三州はもと一国にして、共に日向国と呼びし。神代巻古事多く残り聞え侍る。

[やぶちゃん注:「宇土の岩屋」「現在の宮崎県南那珂郡鵜戶」は現在の宮崎県日南市宮浦の鵜戸神宮境内の「山窟前の嚴岩」(「さんくつまえのいそ」と読む。グーグル・マップ・データ)のこと。私は、十八の時、行ったことがある。独特のロケーションである(サイド・パネルの俯瞰写真)。「南那珂郡」は消滅して現在の日南市及び串間市となった。

「塩尻」「鼬の火柱」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ下段中央)で正字で視認出来る。

「うがやふきあはせすの尊」鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと/うがやふきあわせずのみこと)は地神五代の五代目にして日向三代の三代目で、かの神武天皇の父である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「空船」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。この項には、初めて挿絵が載るが、底本のそれではなく(すこぶる小さいため)、同一原本の大きな原画像を頭に挿入しておく。

 

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 空船【うつぼぶね】 大木をくりぬいて造った舟〔梅の塵〕享和三癸亥年三月二十四日、常陸国原舎浜(はらとのはま)と云ふ処へ、異船漂著せり。その船の形ち、空(うつろ)にして釜の如く、また半《なかば》に釜の刃《は》の如きもの有り。これよりうへは黒塗にして四方に窓あり。障子はことごとく、チヤンにてかたむ。下の方に筋鉄(すぢかね)をうち、いづれも南蛮鉄《なんばんてつ》の最上なるものなり。総船の高さ一丈弐尺、横径一丈八尺なり。この中に婦人壱人ありけるが、凡そ年齢二十歳《はたち》ばかりに見えて、身の丈五尺、色白き事雪の如く、黒髪あざやかに長く後《うしろ》にたれ、その美顔なる事、云ふばかりなし。身に著《つけ》たるは異やうなる織物にて、名は知れず。言語は一向に通ぜず。また小さ成る箱を持ちて、如何なるものか、人を寄せ付けずとぞ。船中鋪物(しきもの)と見ゆるもの二枚あり。和らかにして、何と云ふもの乎《か》しれず。食物は菓子を思(おぼ)しきもの、并《ならび》に煉《ね》りたるもの、その外肉類あり。また茶碗一つ、模様は見事成る物なれども分明(わか)らず。原舎の浜は、小笠原和泉公の領地なり。<『兎園小説第十一集』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:私にとって古くから最も守備範囲としてきたトッテオキの怪奇談の登場である。最も古いものでは、私のサイトのHPに配した、

「やぶちゃんのトンデモ授業案:やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン 藪野直史」の【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!

がそれ。二〇〇五年以降、二十回近く、最後の三つの高校の古典の授業で実際に行ったオリジナル授業案である。主文対象は宵曲の言う「兎園小説第十一集」のものだが、以上の「梅の塵」版の同事件(日時等の異同があるが、同一事件の記載である)も詳細な電子化注をしてある(挿絵も総て単体画像でリンクさせてある)。但し、以上は高校生向けのものであるため、漢字は新字である。正規表現で、ガッツリと一から注をやり直し、「梅の塵」以外の別資料も可能な限り、採録注釈した完全版(各個画像(全八葉)附き)は、ブログで二〇二一年十月二十三日に公開した、

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) うつろ舟の蠻女

がそれである。この怪奇事件、現在はネットに複数の記事が載るが、私の以上のものは、それらに遜色ないものと自負している。未見の方は、是非、読まれたい。

「梅の塵」:梅の舎主人の見聞記。天保年間(一八三〇~一八四四)の人物と思われるが、一切不詳。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「空木の人」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 空木の人【うつぼぎのひと】 空木は中の朽ちた木〔黒甜瑣語二編ノ一〕津村黙之が筆記に奥州二本松〈現在の福島県安達郡二本松町か〉丹羽《には》侯封内の農民某が門前の榎《えのき》、五百年の物にして、十囲《めぐり》の抱《かか》へある古木なり。或時これを伐倒しひきわりしに、中に宛然《ゑんぜん》[やぶちゃん注:そっくりそのままであるさま。]たる人像《ひとのざう》あり。鬚髪《しゆはつ》通体《つうたい》[やぶちゃん注:全身。]掌中の筋《すぢ》[やぶちゃん注:掌紋。]まで分明にして、さながら生きたる人のごとし。今にその家に秘して所持なせるを、親しく見たりし者の物語りとなん。この埋《うもれ》水[やぶちゃん注:「水」はママ。原本(後に指示した)は「うもれ水」。「水」は「木」の誤記かと思われる。]の巻の中に、元禄中飛驒山中にて大なるうつぼ木、風に吹かれて折れし中に一人の老翁あり。齢《よはひ》八旬[やぶちゃん注:八十歳。]ばかり、白髪長《たけ》とひとしく、髪[やぶちゃん注:後注の前者では『鬚』、後者は『髪』。前の部分から「鬚」の方が正しい。]は膝に及べり。熟睡して引《ひき》おどろかせども覚《さ》めず。ふしぎの事なれば里ヘ扶《たす》け来り、打群《うちむ》れ怪しみけり。一人の云ふやう、かやうの人には大鼓にて打《うち》おどろかせば、目さますものと聞きしとて、大いに大鼓を打ちければ、やうやう目さましけり。よりていづくの者ぞと聞けば、我はこの里の某《なにがし》なり、いつの何月この山中に入りしが、雨に逢ひてうつぼ木に笠《かさ》やどりしはべると。その年月を考ふれば、三百余年におよべり。元禄の後《のち》までも、その人生きてかの里に居《をり》たりしと。宋の徽宗《きそう》の時、陳昌《ちんしやう》の僧七百年前峨嵋山に遊びしが、空木に眠りてこの時出たりと『仏祖統記』を引《ひき》て誌《しる》せり。<「譚海巻二」にも同様の文章がある>

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」(こくてんさご)「二編ノ一」出羽国久保田藩の藩士で国学者であった人見蕉雨(宝暦一一(一七六一)年~文化元(一八〇四)年)の記録・伝聞を記した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。昭和四三(一九六八)年刊の「人見蕉雨集 第一冊」(『秋田さきがけ叢書』一)も当該部を確認したが、「うもれ水」は同じであった。なお、両書とも「うつぼ木」は「うつほ木」と清音である。

「福島県安達郡二本松町」現在の福島県二本松市(グーグル・マップ・データ)。安達太良山(あだたらやま)とその東麓盆地と東の山地に相当する。

「津村黙之」不詳。読みが判らないが、「もくし」と敬称で音読みしておく。

「丹羽侯」文末の元禄(一六八八年~一七〇四年)だと、陸奥国二本松藩第二代藩主丹羽長次光重或いは丹羽長之の治世。これは覚醒して亡くなった元号と読めるが、そこから「三百余年」としても、南北朝時代に遡ることになる。

「宋の徽宗の時」北宋の滅亡を齎した第八代皇帝。在位期間は一一〇〇年から一一二六年。

「陳昌」位置不詳。

「七百年前」最長で西暦四〇〇年。東晋の頃。本邦では履中天皇元年。

「仏祖統記」天台宗の立場から、仏教の伝統を明らかにしたもの仏書。五十四巻。南宋の志盤の著。一二六九年成立。インド・中国の高僧の伝記や系譜、宋代の仏教の情勢などが記されてある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

『「譚海巻二」にも同様の文章がある』私の電子化注「譚海 卷之二 奥州二本松人家杉引割ける中に人形」(ひとがた)「ある事」がそれ。場所も発見された時の様子も同じだが、そこでは生きて発見されたとか、生き延びたとは、なっていない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「謡と小鳥」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 謡と小鳥【うたいとことり】 〔北窻瑣談巻二〕伊勢の津の人に、亀井金八《かめゐきんはち》といへる人あり。小鼓《つゞみ》をよく打ち、謡曲《うたひ》をよくうたふ。声律の事に妙に到れり。その家に鶸(ひわ)<雀の一種>と云ふ小鳥を飼ひて、囀《さけづ》らせ楽しみしが、多年の後、金八、鶸の律を聞き知りて、その調《てう》に合せて謡曲をうたへば、鶸忽ち囀り出《いだ》す。金八、調を変ずれば、鶸囀る事能はず。常に以て楽《たのしみ》とせりと。大知氏《おほともうじ》語りき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ二行目)。読みはそれに従った。

「鶸」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科Carduelinae のヒワ類(ヒワという種はいない)の総称。本邦で単に「鶸」と言った場合は、複数種を指す。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶸(ひわどり) (カワラヒワ・マヒワ)」を参照されたい。囀りのリンクもさせてある。個人的にはその鶸のお気に入りの謡曲の名をそえていたらもっと良かったのに。]

2023/08/15

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「失なった釵」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 失なった釵【うしなったかんざし】 〔牛馬問巻四〕先年予<新井白蛾>が知音《ちいん》もの、比(ころ)はきさらぎの空、夙(つと)に[やぶちゃん注:朝早くに。]起(おき)て、庭園に遊ぶ。その妻を呼ぶ事三四声、通ぜざるをもて呼ぶこゑ急なり。妻驚き走りて庭に行く時に、銀の釵を失ふ。たづぬれども得ず。下女なるものを疑ふといへども、その証なければ止みぬ。ほどなく弥生の季《すゑ》も来ぬれば、かの婢《はしため》は暇《いとま》をとらせ、その事忘れて、この年も暮れぬれば、世とともに煤《すす》はらひせしに、庭の庇《ひさし》の屋根裏に、塵に埋《うづみ》て有りし。おもふに速かに走る時に飛びて、こゝに入りし事を覚えず、罪なき人を疑ひ疎《うと》んず。まことに慎むべき事なり。良《げに》も『輟耕録』に、木八刺《ぼくはつら》といふもの、妻とともに飯《めし》す。その妻、金鑱《かなふぐし》[やぶちゃん注:古くは「かなぶくし」で、本来は鉄製の土を掘る道具を指すが、ここは高価な金(きん)製の尖った笄(こうがい)を指すか。]にて肉を剌して口に入れんとす。時に客有りて至る。夫出《いで》て客に礼す。妻も肉を啖《く》ふに及ばず。置きて起つて茶をすゝむ。客かへるに及んで、膳に向ふに金鑱を失ふ。覓(もとむ)るに処《ところ》なし。時にひとりの小婢《せうひ》、側《かたはら》に有《あり》て給仕す。その竊《ぬす》み取る事をせむれども、終《つひ》に辞《ことば》なく、甚しきに至《いたり》て命《いのち》を損ず。歳去《としさり》て後《のち》屋《をく》を整ふ。人をして瓦上《かはらのうへ》の垢《あか》を掃《はら》はしむ。忽ち一物《いちもつ》をはき落《おと》し、石にあたつて声《こえ》有り。取《とり》てこれを見るに、向(さき)に失ふ所の金鑱、朽骨《くちたるほね》とともに墜《お》つ。その所以《ゆゑん》をたづぬるに、猫来《きたり》て肉を偸《ぬす》む。時に金鑱、肉に刺《さし》たれば、ともにもち去るなり。この婢、見るに及ばずして罪《つみ》に死す。哀しむべきの甚《はなはだ》し。これその品《しな》異《ことな》るといへども、和漢同日の談のみ。ともに記して後人の鑒《かがみ》とす。

[やぶちゃん注:「牛馬問」「烏賊と蛇」で既出既注。この正字原文は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧三期・㐧五卷(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここの「卷之四」巻頭にある「○釵を失ふ話」がそれ。

「輟耕録」元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆。巻十一にある「金鑱刺肉」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の訓点附きの承応元(一六五二)年板行の、ここと、ここで視認出来る。新字新仮名だが、「青空文庫」の岡本綺堂「中国怪奇小説集 輟耕録」の「金の箆(へら)」で訳が読める。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牛と女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 牛と女【うしとおんな】 〔筱舎漫筆巻九〕東の洞院とかやに、牛車《ぎつしや》やり出《いだ》すところ、むかふより三十ばかりなる女の、きぬき[やぶちゃん注:「絹、着、」。]よそひたるが、ゆきあひたり。牛この女をきとみてうごかず。女もすくみてあゆめず。いろは草の葉のやうなり[やぶちゃん注:女の顏が真っ青になったことを言う。]。牛飼かねて心得て、かやうの時は、女のたふさぎはづして、牛の眼の上にかくれば、牛うごくといふことなれば、その女にこひ、褌《たふさぎ》をはづしてかけければ、あゆみ出したり。女もあしかなひてあゆめり。さて家に帰れば、やがてたえいりたりとぞ。むかし物語のやうなれど、これ現在この頃の事なり。

[やぶちゃん注:これは牛の持つ一種の「邪視」か。

「筱舎漫筆」(ささのやまんぴつ)は豊前小倉藩藩士で、藩の勘定奉行や京都留守居役などを歴任した西田直養(なおかい 寛政五(一七九三)年~元治二(一八六五)年:本姓は高橋。儒学・和歌の他、国学にも精通したが、藩の佐幕体制を嘆き、元治元(一八六四)年、長州藩が英米仏蘭の連合艦隊によって下関を攻撃された際、自藩が傍観していたことに憤激し、絶食を以って自死した)の随筆。十五巻本と二十巻本がある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第二巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字で当該部が視認出来る。標題は『○牛、女を見とめてあゆまず』である。

「東の洞院」この南北の通り(グーグル・マップ・データ)。

「たふさぎ」(現代仮名遣「とうさぎ」)で「犢鼻」。これは「牛の子の鼻」に似ていることによる当て字。男女ともに、肌に附け、陰部を覆うものを指す。男は、その上に袴、女は裳を着けるところから、「したのはかま」・「裳の下のとうさぎ」とも呼んだ。所謂「褌(ふんどし)」である。万葉以来の古語である。

「たえいりたり」「絕え入りたり」。通常は「気絶・失神する」ことを言う。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牛鬼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。□は原本自体の欠字。

 

 牛鬼【うしおに】 〔異説まちまち巻四〕牛鬼といふもの、出雲の国にて□□といふ所に有り。山陰《やまかげ》に谷水の流れありて小さき橋あり。雨降りつゞき湿気など深き時は、夜この橋の辺りにて牛鬼に逢ふなり。そのあう[やぶちゃん注:ママ。]たる人の物語りに、橋の辺りに行懸《ゆきかか》りぬれば、白く光るものあり。ひらひらといくつもいくつも出《いづ》るが、蝶などのやうに見ゆる。さてその橋を渡らむとするに、その光り物惣身《そうみ/そうしん》にひしと取付《とりつ》きぬ。衣類にも付きて、銀箔《ぎんぱく》などを付けたるやうに見ゆ。驚きて手にて掃《はら》へども、都(すべ)て落ちず。辺り近き人家に馳《はせ》入りて、いかゞせんといへば、主《ある》ジ夫《それ》は牛鬼に逢ひ給へり。せんやうありとて、いろりへ柴薪《しば・まき》などおほく取《とり》くべて、前後となくあぶりぬれば、いつきゆるともなく消失《きえう》せぬ。いと怪しき事なりと、鵜飼半左衛門といふ者語りき。(雲州人)

[やぶちゃん注:「異説まちまち」は和田烏江(うこう)正路なる関宿(せきやど)藩(下総国葛飾郡の現在の千葉県野田市関宿三軒家(せきやどさんげんや:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、利根川対岸の現在の茨城県猿島郡境町に当たる地域をも城下町とした)藩士の著になる随筆。現行は四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページ冒頭から)で正規表現版が視認出来る。

「□□」この欠字部分が気になるが、補助し得る別資料が見当たらない。しかし、ウィキの「牛鬼」(うしおに/ぎゅうき:個人的には何故か後者の読みが好みである。知られる一般的な伝承される形態は、『頭が牛で』、『首から下は鬼の胴体を持』ち、多くの場合は、『非常に残忍・獰猛な性格で、毒を吐き、人を食い殺すことを好むと伝えられている』とあり、『江戸時代に描かれた妖怪絵巻では、牛の首を』持ち、『蜘蛛の胴体を持っている姿で描かれることが多』く、これが現在はイメージとして固定化してしまっている)を見るに、「山陰地方」の項では、旧石見国(現在の島根県西部)の伝承(但し、そこでは海岸近くで、最初に妖女と変じて出現の仕方をする。則ち、『釣り人のもとに赤ん坊を抱えた怪しげな女が現』われ、『「この子を少しの間、抱いていて下さい」というので抱き取ったところ、女が消えたかと思うと海から牛鬼が現』われ、『しかも腕の中の赤ん坊が石に変わり、あまりの重さに逃げることができないでいたところ、彼の家にあった代々伝わる銘刀が飛来して』、『牛鬼の首に突き刺さり、九死に一生を得たという』とする)、がとみに知られ、挙げられてある。さらに、カゲロウ氏のサイト「珍奇ノート」の「石見の牛鬼 ― 島根県の石見地方に伝わる牛鬼 ―」には、旧石見の複数の牛鬼伝承が具体に書かれてあり、その形態は『「牛の頭に蜘蛛のような身体」あるいは「長い角のついた鬼の頭に牛のような身体」を持っているとされている』とあって、一つ、『大田市』(おおだし:ここ。所謂、一応、旧石見国の北端である)『には、濡れ女ともに現れた牛鬼の伝説が伝えられて』おり、『ある男が夜釣りから帰ろうとした時に、濡れ女が現れて赤子を抱くように迫ってきた。男が赤子を抱くと濡れ女は消えてしまったが、男が赤子を投げ捨てて逃げ出すと、牛鬼が追いかけてきたので、男は付近の農家に逃げ込んで難を逃れたという』とあるのが、目に止まった。さて。以上の本文のロケーションは完全に山間部であって、海の「う」の字もないことに着目して欲しい。再び、当該ウィキを見ると、確かに、牛鬼の出現は諸伝承では海岸に多いとはいえ、ものによっては、山間の川の淵なども出現地とするものがある(本篇も無論、紹介されてある)。さらに、「岡山県」の伝承の後の話に着目して貰いたい。「作陽志」に拠れば、『美作苫田』(みまさかとまた)『郡越畑(現・苫田郡)の大平山に牛鬼(ぎゅうき)と名付けられた怪異が記されている。寛永年間に』二十『歳ばかりの村民の娘が、鋳(カネ)山の役人と自称する男子との間に子供をもうけたが、その子は両牙が長く生え、尾と角を備えて牛鬼のようだったので、父母が怒って』、『これを殺し、鋳の串に刺して路傍に曝した。民俗学者』『柳田國男は』、『これを、山で祀られた金属の神が零落し』(☜☞)、『妖怪変化とみなされたものと述べている』とあって、この苫田郡は完全な中国山地の中央部に位置する山間地である。而して、調べて見ると、先に提示した大田市には、実は旧石見国ではなく、出雲国に属していた地区が、山間部に存在するのである。ウィキの「石見」によれば、『市町村合併により、大田市の一部』『は旧出雲国であった部分を含む』とあって、注で具体的に『大田市のうち』、『山口町佐津目』(やまぐちちょうさつめ)と『山口町山口』の二箇所である。則ち、この山口町(別に山口町が二つの地区の間にあるが、ここは旧石見国となる)をグーグル・マップ・データ航空市写真を見ると、その昔の違いは、山間地にありがちなものとして、私などにはすこぶる納得されるのである。則ち、南北の出雲国の森林領と、現在の山口町の旧石見国の山間集落としての導線(ライフ・ライン)の違いからである。されば、石見にも、出雲にも、ここにはそれぞれの「山口」があったことが判るのである。とすれば、この二字の欠字の一つの候補としてこの――牛鬼が盛んに跋扈する石見国に接していた二つの「山口」を仮に本篇のロケーションとして措定してみたくなったのである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「兎の札」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 兎除の札【うさぎよけのふだ】 〔甲子夜話巻十一〕予<松浦静山>が封内にて小麦畑に兎入れば、実を食ふの害あるゆゑ、農夫これを避けんとて、小さき木札《きふだ》を畑の辺にたてて厭勝《まじなふ》なり。その札に「狐のわざと兎が申す」と書くことなり。然《しか》るときは兎入ることなし。これは狐《きつね》札を見て、我は穀を害せざるに兎の虚名をおほせたりとて、狐怒り責むるを兎恐れて害を為さずと、農夫ども云ひ伝へてすることなり。可ㇾ咲《わらふべき》ことなれど、この札を立つれば兎の難は止むこと必定なるも、不思議なることなり。

[やぶちゃん注:当該話は先に、正字で「フライング単発 甲子夜話卷之十一 30 兎の厭勝」(「厭勝」は「まじなひ」と訓ずる)として電子化しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷之十一 30 兎の厭勝

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「厭勝」は「まじなひ」と訓ずる。]

11―30

 予が封内[やぶちゃん注:平戸藩領。]にて、小麦畑に、兎、入れば、實を食ふの害あるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、農夫、

「これを避(さけ)ん。」

とて、小さき木札(きふだ)を、畑の邊(あたり)にたてゝ、厭勝(まじなひ)とす。

 その札に、

「狐のわざと兎が申す」

と書くことなり。

「然(しか)るときは、兎、入ること、なし。これは、狐、札を見て、『我は、穀を害せざるに、兎の、虛名をおほせたり。』とて、狐、怒り、責むるを、兎、恐れて、害を爲さず。」

と、農夫ども云ひ伝へてすることなり。

 可ㇾ咲(わらふべき)ことなれど、この札を立つれば、兎の難は、止むこと、必定(ひつぢやう)なるも、不思議なることなり。

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「兎と月」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 兎と月【うさぎとつき】 〔甲子夜話巻十六〕児謡に「兎兎何視てはねる、十五夜のお月さまを観てはねる」と云ふ。これ兎の月を好むを云ふにや。或ひは云ふ、兎を月下に置けば変じて水となると、信なりや否。予〈松浦静山〉若き時、たはぶれに野兎を多く捕らして、籠に入れて城内築山に月下一夜置きて、翌朝見るに籠中に一つも居ず。今に不思議に思ふなり。また近頃聞く、浅草福井町〈東京都台東区内〉に行弁と云へる山伏あり。予が隠邸隣宅の池の蛙鳴よきとて、三四つ取りて、かの住める所にある三四尺ばかりなる水溜に放ちて、逃去らざる為に竹簀をかけ、四隅に石を鎮に置きたり。明朝視れば蛙一つも居ずと。或人曰く、蛙和名かへると云ふは、その故地に帰るの性あるゆゑなりと云ふ。さすれば浅草より本庄にや帰りけん。〔寓意草〕越後川のほとりにすまひける人の、兎をこ[やぶちゃん注:「籠(こ)」。]に入《いれ》てかひける。秋の頃月のあかき夜のきにかけおきたれば[やぶちゃん注:「木に掛け置きたれば」。]、みなこよりぬけて、河の面(おもて)をはしりさりぬ。こにひまもなし。め[やぶちゃん注:「籠の目。]よりいでける。兎は月に向へば身の自由に成《なり》て、いかに小さきこのめよりもいでて、水の面をはしるとなん。

[やぶちゃん注:前者は、先に「フライング単発 甲子夜話卷之十六 29 兎月夜に消する事」で正字表現で注も施して公開しておいた。

「寓意草」「鼬の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「三十輻」の「第三」(大田覃編・大正六(一九一七)年国書刊行会刊)で活字に起こしたものがここで(右ページ下段後ろから六行目)。

「越後川」は信濃川の越後国での異名だろう。

「河の面」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 兔(うさぎ) (ウサギ)」で寺島は、

   *

△按ずるに、兔、善く走りて、飛ぶがごとく、山に登るときは、則ち、愈々、速し。山を下るときは、則ち、稍(やや)遲し。前足の短き所以(しよい)なり。毎(つね)に、熟睡すと雖も、眼を閉ぢずして、黒睛(くろまなこ)、瞭然たり。

「傳燈錄」に云はく、『兔、川を渡るときは、則ち、浮く。馬の渡るには、半ばに及ぶ。象は、〔川〕底に徹(いた)り、流れを截(き)る。』と。

   *

この「傳燈錄」とは「景德傳燈錄」で、北宋の道原によって編纂された過去七仏から禅僧及びその他の僧千七百人の伝記を収録している全三十巻から成る仏典。象まで語られているからには、根は古くインドに遡るかも知れない。少なくとも、中国仏教では古くから知られた兎の超能力のようだ。前者の「蛙」が「故地」に「歸る」という下らない洒落染みた知ったか振りより、実際のウサギの行動の敏捷さを考えると、遙かにマシな民俗伝承と言える。]

フライング単発 甲子夜話卷之十六 29 兎月夜に消する事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号を加え、段落も成形した。]

6―29

 兒謠(こうた)に、

「兎、兎、何視て、はねる、十五夜のお月さまを、觀て、はねる。」

と云ふ。

 是、兎の月を好(このむ)を云ふにや。

 或云(あるいはいふ)。

「兎を、月下に置《おか》ば、變じて、水となる。」

と。

 信(まこと)なりや否(いなや)。

 予、若き時、たはぶれに、野兎を多く捕らして、籠(かご)に入れて、城内築山(つきやま)に、月下、一夜(ひとよ)置(おき)て、翌朝、見るに、籠中(かごなか)に、一つも、居(をら)ず。今に不思議に思ふなり。

 また、近頃、聞く、淺草福川町(ふくかはちやう)に行辨(ぎやうべん)と云へる山伏あり、予が隱邸(いんてい)、

「隣宅(りんたく)の、池の蛙(かはづ)、鳴(なき)、よき。」

とて、三、四つ、取(とり)て、かの住(すめ)る所にある、三、四尺許(ばかり)なる水溜(みづたまり)に放ち、逃去(にげさ)らざる爲(ため)に、竹簀(たけす)をかけ、四隅に石を鎭(しづ)[やぶちゃん注:重石(おもし)。]に置(おき)たり。

 明朝、視れば、蛙、一つも居《をら》ず、と。

 或人曰く、

「蛙(かはづ)、和名『かへる』と云ふは、その故地(こち)に歸るの性(しやう)あるゆゑなり。」

と云ふ。

 さすれば、淺草より、本庄(ほんしやう)にや歸(かへり)けん。

■やぶちゃんの呟き

 ……消えた兎……静山さん……そりゃ、お母さまか、御家臣のどなたかの悪戯で御座いましょうぞ……なお、兎の博物誌は「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 兔(うさぎ) (ウサギ)」をどうぞ……因みに、その「本草綱目」の引用部には、『雄の豪(け)[やぶちゃん注:時珍の「毫」の誤字か。毛。]䑛めて孕む。五つ月[やぶちゃん注:五ヶ月。]にして子を吐く【或いは、「兔は雄無くして、中秋、望(もち)の月の中の兔を顧みて、以つて孕む。」と謂ふは、不經〔(ふけい)〕[やぶちゃん注:常軌を逸すること。道理に外れること。]の說なり。】。目、瞬(またゝきせ)ずして瞭然たり。【故に「明眎」と名づく。】兔は明月の精なり【白毛の者、藥に入るるに可なり。】。兔、潦(にはたづみ)[やぶちゃん注:大雨の水。]を以つて鼈(すつぽん)と爲り、鼈は旱(ひでり)を以つて、兔と爲る。熒惑星(けいわくせい)、明らかならざれば、則ち、雉〔(きじ)〕、兔を生ず』と、尤もらしいトンデモ変成(へんじょう)説が載っていますよ……蛙の、故郷の地に「かへる」は、恐らく、江戸時代の語呂合わせで御座いましょう……「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)」には載ってませんし、「日本山海名産図会 第二巻 山蛤(あかかへる)」なんどにも、あらしまへん……

「淺草福川町」現在の台東区寿四丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の内。

「隱邸」静山は隠居後は江戸本所の下屋敷で生活した。現在のこの中央附近。切絵図では、「江戸マップ」のここの左手上方の「松浦壹岐守」がそれ。この「隣宅」は周囲の内、灰色の町屋「原庭丁」か「表丁」であろう。因みに、平戸藩上屋敷は浅草橋の、この「蓬莱園跡」がそれである。

百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)

[やぶちゃん注:『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「浮嶋」』で、必要となったので電子化する。

「笈埃隨筆」(きふあい(現代仮名遣:きゅうあい)ずいひつ)は江戸中期の俳人で旅行家の百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年)の紀行随筆。「塘雨」は雅号で、俳号は五井。実名は定雄。京都の豪商「万屋」(よろずや)の次男であった。しかし、塘雨と親交があった文人画家三熊花顛(みくまかてん)が彼を偲んで死後、自著「續近世畸人傳」に載せた彼の伝奇の冒頭に(国立国会図書館デジタルコレクションの「近世畸人傳・續近世畸人傳」(前者は伴蒿蹊著・三熊花顛画)の当該部を視認して起こした)、

   *

百井塘雨(ももゐたうう)は通名左右二(さうじ)、京師の人なり。其の兄は室川の豪富萬づ屋といへるが家長をして有りけるによりて、思へらく、「商家とならば、此の如く富むべし。然れども及ぶべからねば、及ばぬことを求めんより、我が欲する名山勝槩[やぶちゃん注:「しやうがい」は「勝景」に同じ。]を樂しむに及(し)くはなし」とて、金三十片を携へ、西は薩摩、日向、東は奧羽外(そと)が濱の果て迄を窮む。其の記事有りといへども稿を脫せず。[やぶちゃん注:以下、略。実際、写本は多く行われ、読まれたものの、江戸時代の刊本はない。]

   *

以下、当該ウィキを参考にすると、『笈を背負った六部(ろくぶ)の姿に身を窶』(やつ)『して日本回国の旅に出立した』という。『その旅は宝暦』八(一七五八)年に『東国巡遊に始まり』、『一旦』、『帰京の後、安永初年から天明末年にかけて』(一七七〇年代から一七八〇年代)『西国を巡遊』、『その旅は都合およそ』三十年にも亙る『ものであった』。その『足跡は』当時の日本六十六『箇国中』、『至らざるは僅か』に六、七『箇国であったという』。『途中、富士山の登頂を果たしたり』、『挫折はしたものの』、『高千穂』の『峰の登拝を』三『度試みたりし、また』、『日向の地には』実に八『年間も滞在した』。『帰京の後』、『心ならずも兄の歿後の万家の後見をする事となり』、『寛政』六『年の春に醍醐寺の花見に出掛けた夜、帰宅の後に』『頓死』している。友人の文人『伴蒿蹊によれば』、『その生涯は「一生風流をつくした」ものであったという』。『万家の後見時代には主人』『(甥か?)に『「よしなき器財」ではなく』、『書物を買い集めるよう説いたり、その女』(むすめ:又は姪か?))『の為に』「自在抄」『という著作をものしたりしており』、『また』、『巡遊の記録を』この「笈埃随筆」として『纏めている。生前には文人として伴蒿蹊や橘南谿・三熊花顚等との交友があり、蒿蹊は「おもしろき老人」と評し』、『南谿は紀行』「西遊記」と「東遊記」を『板行するに際して』は、「笈埃随筆」を『参考としている』。以下、同随筆の項。『塘雨は日本列島の南端から北端迄を巡遊した記録を』「笈埃随筆」として『纏め』たものの、『それは「稿を脱せ」ないままに終わったものの、遺稿』十二『巻が残されている。各地で見聞した奇談・珍説に満ち』、『旅程とは無関係に各記事を配している点は』、『旅日記的な一般の』時系列『紀行と異なって』、『画期的であるものの、各記事に文献からの引用等を施している』ため、『却って見聞の直接性を稀薄にしている点が惜しまれる』。『塘雨と同様の旅に出た橘南谿の著した「東遊記・「西遊記」『両書は世間に好評をもって迎えられ、何度も板行を重ねたが、その執筆には塘雨の旅と』「笈埃随筆」の『影響が大であったと指摘』することが『でき、両書の板本においては全く』「笈埃随筆」に『拠った章も存在する』。『一方で塘雨も』「笈埃随筆」中では、『南谿の両書からの引用を行っており、両者の交友の密であった事が窺える』とある。

 以下、底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部を視認した。但し、加工データとして所持する吉川弘文館『随筆大成』版(第二期第十二巻所収)の新字データを用いた。

 「大沼」の「浮島」の記載では、恐らく最も長いものである。ちょっとダラつくので、句読点の変更・追加、一部に読みを歴史的仮名遣で推定で挿入し(カタカナになっているそれは、底本のルビ)、記号等も加え、読み易さを考え、改行・段落も成形した。底本で『〔割註〕』と本文同ポイントであるものは、【 】に代えて、『〔割註〕』と最後にある『」』はカットした。

 なお、私は既に、

「諸國里人談卷之四 浮嶋」

『橘南谿「東遊記」卷之五の「浮島」の条』

『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「浮嶋」』

を電子化注しているが、本篇は最も信頼出来る「大沼」の「浮島」の話である。今回を以って、この浮島は、現在の山形県西村山郡朝日町大沼にある「大沼」のそれ(グーグル・マップ・データ。サイド・パネルに五百四十六枚の画像がある)であることが確定した。

 

   ○大沼山浮島

 奧州より出羽へ越(こえ)て、彼(かの)實方朝臣(さねかたそん)の尋ね詫(わび)給ひしといふ、「アコヤの松」をみるに、今は「千歲山」といふ地に在(あり)て、出羽の山形の府より、坤(ひつじさる)[やぶちゃん注:西南。]の方(かた)と思しくて、凡およそ)二里計(ばかり)を隔てたり。常盤の陰、千歲の後も、昔の景色を見せて、誠に目出度(めでたき)木にてなん、ありける。

[やぶちゃん注:「實方朝臣」貴種流離譚的伝承の多い藤原実方(さねかた 天徳四(九六〇)年頃~長徳四(九九八)年)。左大臣師尹(もろただ)の孫で、歌人として知られ、中古三十六歌仙の一人。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか、叔父済時(なりとき)の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任した後、長徳元(九九五)年に陸奥守となって赴任したまま、任地で没した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首が入集。藤原公任・大江匡衡、また、恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、歌合せなどの晴れの場の歌は少ない。慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、優れた舞人(まいびと)としても活躍し、華やかな貴公子として清少納言など、多くの女性と恋愛関係を持った。奔放な性格と家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として一条天皇の怒りを買い、「歌枕、見て参れ!」と言われて陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くから様々に説話化された。松尾芭蕉も実方に惹かれており、「奥の細道」にも複数回登場する。例えば、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅24 笠島はいづこさ月のぬかり道』を参照されたい。

「アコヤの松」「阿古耶の松」で、現在の山形市東部にある標高四百七十一メートル。千歳山(ちとせやま:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にあったとされる阿古耶姫の伝説に出る松の名。「山形市観光協会」公式サイト内の「あこやの松(千歳山)」の解説によれば、『阿古耶姫は、信夫群司の中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契を結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので、姫は嘆き悲しみ、仏門に入り、山の頂上に松を植えて弔ったのが、後に阿古耶の松と称されたという』とある。また、別な比定地である宮城県柴田郡川崎町の公式観光ポータルサイト「かわさきあそびWEB」の「阿古耶の松」には、『藤原実方の娘・あこや姫の伝説を残す松』とあり(場所はここ)、「■あこや姫の伝説■」として、『むかし、陸奥の国司の娘に「あこや」という姫がいました』。『夜、あこや姫が笛を奏でると、若者が現れるようになり』、二『人はいつしか互いに慕うようになりました』。『しかし、若者は日々やせ細り弱っていき、ある夜、「私は松の精。もうすぐ切り倒される…」と打ち明け消えてしまいます』。『そして、あこや姫はもう若者に会えなくなってしまいました』。『姫は悲しみ、出羽の国へ旅に出ます』。『道中で、村人が橋にする松の木を動かせず困っていました』。『若者の言葉を思い出し、あこや姫が笛を吹くと、びくともしなかった松の木が簡単に動きました』。『「あの若者はこの松の精霊だ…」と姫は気付きます。最後の別れをするために待っていたのだと』。『あこや姫は』、二『人の思いを託して松の苗を植えました。そして笹谷峠を越え、出羽へとたどり着いたそうです』とあった。]

 此日、寶曆中、五月朔日也。[やぶちゃん注:「寶曆」は十四年までで、一七五一年から一七六四年まで。塘雨の最初の東国巡遊の折りである。]

 この城下の婦女、近所・隣家へ往(ゆき)通ふに、布の藍模樣あるものを、必ず、疊みてもちけり。怪しくおもひて、その故を問ふに、

「むかしは、皆、是を被(かぶ)りて往來しけるが、いつの頃よりか、洒落に成(なり)て、只(ただ)、手に持(もち)、疊みて、提(さげ)るばかりなり。是、則、「被(カツギ)」なり。されど、下女なるものは持(もつ)事なし。」

と。

「人の家童子(いへわらし)なるものゝみ。」

といふ。【奧州の國詞(くにことば)に、「童(わらは)」を「ワラシ」と云。爰(ここ)にいへる事、又、字、よく、叶(かな)へり。すべて、いにしへの詞は田舍に、のこれり。】

 實(げ)に、昔繪(むかしゑ)に、女の物詣(ものまうで)する體(てい)に、必ず、市女笠(いちめがさ)に、單(ひとへ)の白衣の樣(やう)したるを着(ちやく)して、「吾妻(あづま)からげ」したるなりなど、おもひ合せぬ。

[やぶちゃん注:「吾妻からげ」着流しの衣裳をからげること。所謂、歌舞伎で知られる衣装仕草で、女方或いは実際の女性では「丸ばしょり」・「片ばしょり」・「搔取(かいどり)からげ」「左褄(ひだりづま)」等があった。]

 かくて三日の朝、こゝを立(たち)て、大沼山に至る。

 此大沼山といふは、羽州山形より、七、八里が程、奧深く入る山にして、其路、嶮しく、坂のみにて、所々、崩れ落(おち)て、甚だ、危し。

 山深く、人跡稀(じんせきまれ)に、適(たまたま)、木伐(きこる)ものに逢(あひ)て、たどりたどり、七里計(ばかり)と覺へ[やぶちゃん注:ママ。]、その道路、一宇の人家も、なかりし。

 漸(やうやう)に山王大行院(さんわうだいぎやうゐん)に至る。

[やぶちゃん注:現在の浮島稲荷神社社務所内にある旧別当寺跡が後身。地図上では、記されていないが、同神社社務所のサイド・パネルのこの写真で、冠木門の右手に「大行院」の名札が視認出来る。「朝日町エコミュージアム」の「大行院」に、『別当大行院は役の証覚の弟子覚道の直系であり、現当主の最上氏は』五十四『代目を数えます。浮島稲荷神社は、源家、徳川家、大江家、最上家など時の権力者の尊崇厚く祈願所として加護を受けてきたことから、多くの貴重な文書が所蔵されています』とあり、また、同サイトの「大沼絵図」には、『昔、刷って配った地図の原版があったから刷ってたけれど、あんまりきれいには刷れなかった』。『名前がところどころ見えなくなっているけれど、これは消したのではないか。ここは徳川幕府の配下になっていたのが、御維新なって国さ返上したものだから、あまり思わしくないというので隠したみたいだな』。『こっちの色が付いている原版は、文化年間に作ったものだな。二百年くらい前だ。三十三坊とか、家の配置が書かってあるべ。あと、関所も書いてあるな。八つ沼の部落と大暮山の部落とそれから勝生の部落に行くところにあったんだな。誰も彼も大沼に入ることはできなかったんだ。許可がいるんだ』。『お話:最上敬一郎さん(大行院)』五十一『代当主』と注記があり、大型のPDF画像で、その「羽州大沼山浮嶌神池之圖」も入手でき、それを見るに、実際にはこの別当時山王大行院は、浮島の「大沼」の南にある「浮島稲荷神社」の境内地内にあったことが判る。さら、同じく「浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表」PDFの詳細年表も入手可能である! 

 是、本山の驗者(げんじや)にて、俳諧の好人(すきびと)評德(へうとく)[やぶちゃん注:雅号。]を「鷹牕(ようさう)」といヘば、四、五日、押留(おしとどめ)せられて、旅情を忘れて、たのしみぬ。

「そもそも、此山上に扶桑第一の靈驗地あり。かゝる邊土・遠境なれば、諸國の人、多くは參詣せず。故に其奇瑞をしらず。

 「緣起」に曰(いはく)、『人皇四十代、天武天皇白鳳年中[やぶちゃん注:私年号。通説では「白雉」(六五〇年〜六五四年)の別称とされる。]、役行者開基、倉稻魂神(うかのみたまのかみ)、勸請の山なり。』。[やぶちゃん注:私の判断でここで引用を切った。]

 社後に、『みたらしの大沼』有り。沼の形、『大』の字に類せるを以て、名とす。

 池中に、樣々の小島、有り。時として、遊旋(いうせん)す。或は、風に隨ひ、或は、風に逆ふて、動き𢌞る。見るものは、感稱し、見ざる者は、疑ふ。その神妙不可思議なる事、見るもの、奇異のおもひをなさずといふ事、なし。

 其島、六十六島、有り。すなはち、我邦、成就(じやうじゆ)の相形(さうぎやう)にて、行基菩薩も、おなじく祈願有(あり)しなり。

 池邊に、老松、二株、有り。

 そのかみ、中將實方朝臣、此地に遊び、『あこやの松』を尋(たづね)て、此島の浮遊(うきあそ)ぶふしぎを見て、和歌二首を詠ぜられし。一首は忘れたり。[やぶちゃん注:以下の一首は四字下げ一行であるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げて、上・下句に分け、前後を一行空けた。「廻」の字体はママ。]

 

 よつの海浪しづかなるしるしにや

    おのれと浮(うき)て廻る島かな

 

と詠(よみ)給ふ所を、「島見松」とて、一木(いちぼく)あり。

 其時、

『水神、感應して沼水(ぬまみづ)を卷騰(まきあげ)たり。』

とて、一株を「浪上松(なみうへのまつ)」とて、ある。」

と、物語(ものがた)らる。

 頓(やが)て、島を見ん事を乞(こひ)て、予、一人、彼(かの)大沼の土手に行(ゆき)て見渡せば、沼の深さ、いか程とも、しらざれども、周匝(しふさふ)[やぶちゃん注:沼の辺縁の長さ。]、六、七町[やぶちゃん注:六百五十五~七百六十四メートル。現在の沼の周縁を計測したところ、六百四十メートル程あった。]もやあらん。

 水面、藍よりも靑く、水際には、蘆・萱(かや)等生茂り、さも物凄き氣色(けしき)也。

 又、鷹牕の云へるは、

「沼の向(むかひ)の馬手(めて)の池上(ちしやう)に、何か、黑く、樹の株の如く浮たるものあり。是を『浮木(うきき)』と云(いひ)傳へて、天下泰平の相(さう)なり。昔より、『沈んで見えざるときは、天下の變ある事を示す。』となり。又、沼の中へ突出(つきいで)たる處、有り。此所を『蘆原島(あしはらじま)』と號して、此一所のみ、動き浮(うかば)ず。其餘、六十餘の島、皆、國々の名ありて、其國の形を備(そな)ふと云へども、今、定かならず。中に、大(おほき)なるを「奧州島(あうしうじま)」と云(いふ)こそ、まがふべくも、あらず。」

と、いへり。

 かくて、初めて行(ゆき)たるとき、池上には、只、七、八尺計(ばかり)と、三、四尺計と見えし小島、二ツ有りし。

 時、五月上旬なれど、此邊(このあたり)、大寒(たいかん)の土地なれば、藤・山吹・躑躅(つつじ)など、咲(さき)亂れて、景色ある頃なりければ、目を慰めて、

『今や、島の動き至るか。』

と見詰(みつめ)てある中(うち)、「浪騰の松」、ことに、麗はしく、面白かりしかば、興に乘じて、一句を吟ず。[やぶちゃん注:句は和歌同様、引き上げ、前後を一行空けた。]

 

 松の名も折から高し藤の浪

 

などひとりごちて、猶、其時も、「かゝる景色か松の藤なみ」と、再び、案じ[やぶちゃん注:再案は確信犯で「松」を一句に二回読むことにあるが、いかがなものか?]、既に、日も西山(にしやま)に傾きけれども、

『夫(それ)ぞ。』

と、おもふ事もなくて、鷹牕子の許に歸るに、

「御島(おしま)も拜み給ふや。」

と、人々、問ふに、予、

「何も見ずして止(やみ)けり。」

と。鷹牕曰(いはく)、

「日によりて、浮出(うきいで)ざる事も、まゝ、有(あり)。」

と、いふにぞ、いよいよ疑しく、

『聞(きき)し事は、空事にや。又、世に云傳(いひつた)ふるほどの事にもあらじ。かうやうの事は、多く、虛說あるなめり。しかれども、見ずしては、止むべからず。』

と、翌日は、朝の認(したた)めするより、晝飯(ひるめし)の設(まうけ)を懷(ふところ)にして、

「終日、居《を》らん。」

と覺悟して、彼(かの)「島見松」の陰に、箕踞(ききよ)[やぶちゃん注:その恰好が農具の箕(み)の形に似ているところから、「両足を投げ出して座ること・足を伸ばし広げて座ること・箕坐(きざ)」の意を示す。]して待(まつ)に、池の面(おもて)を見れば、昨日ありし二ツの島、見えず。

「コハ怪しや。さるにても、動けばこそ、見留置(みとどけおき)し島の、無きを。」

と、

『少(すこし)は、實(まこと)も。』

と、おもふ計(ばかり)なり。

 扨(さて)、其日は、殊に、天氣、晴やかに、水面(みなも)に微風(そよかぜ)の氣色もなく、快く、堤(つつみ)に匍匐(はらばひ)、松の下陰、凉みに睡(ねぶ)る心地(ここち)なるに、不圖(ふと)、此方(こなた)の水際(みづぎは)、動く樣(やう)に覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、能々(よくよく)、心を付(つけ)、見るに、實(まこと)に動くなり。

「扨は。」

と、目を留(と)め詠居(ながめを)るに、先(まづ)、池の片(かた)への地(ち)、おのづから、離れて、次第に、池の中央に出(いづ)るに、一島(いつたう)、靜(しづか)に、池中(いけなか)へ、浮(うか)み行(ゆく)さま怪(あやし)きに、また、向ふの際(きは)を離れて、此方(こなた)へ浮來(うききた)る。

 斯(かく)てこそ、爰(ここ)より出來るは、物、有(あり)て、負廻(おひまは)るごとし。

 既にして、七島(しちたう)、いづれも、つゝじ、花咲(はなさき)、芦・萱、茂れり。

 爰に於て、疑心、忽ち、解けて、手の舞(まひ)、足の踏(ふむ)事を覺えず。[やぶちゃん注:有頂天に舞い上がった高揚を、かく言ったものであろう。]

 中にも「奧州島」とかや云ふめる大島は、二、三丈もあらん松、生茂(おひしげ)り、藤の花、亂蔓[やぶちゃん注:底本にママ注記がある。「爛漫」か。]と咲(さき)かゝる、松下には、躑躅の花の、色を交(まぢへ)て、游ぎ出(いづ)る體(てい)、且(かつ)、恐れ、且、よろこび、いよいよ、脇目もふらず守り居《を》るに、其島、向ふの涯(はて)へ着(つく)にもあらず、中途に居《を》り、又は、四方へ遊び廻る。其欲する所に隨ふ。

 奇異なる中に、奇異なる事は、跡より出來(いできた)る島、先(さき)にある島に游ぎ當(あた)る。尋常ならば、倶(とも)に押行(おしゆく)べきに、左(さ)は無くして、先にある島、自(おのづ)ら除(よけ)て、行(ゆく)べき島を通す也。

 誠に、心ある物に似たり。

 且、夜となく、晝となく、何れの岸も、斯(か)く、放れ、步行(ありき)く故に、沼の形狀、變りて、一樣ならず。

 又、水中を行く物は、必ず、その跡に通りたる筋(すぢ)あるもの也。然るに、曾て、其事のなきも、奇妙なり。

 心、彷彿(はうふつ)として、感に絕(たえ)ず。依(より)て、又、一句を口ずさむ。

 

 出(いづ)る島へ引分(ひきわけ)て咲(さく)つゝじかな

 

と、漸(やうや)く[やぶちゃん注:底本も吉川弘文館『随筆大成』版も、たしかに「く」なのだが、不審がある。後注する。]、形狀(かたち)を述(のべ)て宿地(しゆくち)に歸り、其樣(そのさま)を語りければ、鷹牕子も、大(おほき)に悅び、申されけるは、

「此島の樣、芭蕉翁に見せざる事、無念なり。漸く[やぶちゃん注:この「く」は実は踊り字「〱」で、「やうやう」ではあるまいか。前もその方がいい気がする。]、伊勢の凉菟(りやうと)、加賀の千代女の、二人の句、あれども、みな、想像して送り越したる句也。子(し)は眼前の秀吟也。只に、やみなんや。」

と、頓(やが)て短册したる板に書(しよ)して、稻荷の社に、奉納せられぬ。

「此地、至(いたつ)て邊土なれば、風雅の人も、至て、見る事なきこそ、無念なれ。」

と吳々(くれぐれ)も語られき。

 今は、はや、逗留せんも、無益なれば、暇(いとま)を乞(こひ)て、立出(たちいで)ぬ。

 折から、江戶の同者(どうしや)、四、五人、湯毆山禪定(ぜんぢやう)[やぶちゃん注:修験道で霊山に登って修行することを言う。]の序(ついで)に此に來り、此夜、一宿して、今朝けさ)、立(たつ)なり。

 宿主(やどのあるじ)、是を誘ひ、彼(かの)沼に行(ゆき)て、暫く、「浮島を見ん」と待(まつ)に、さらに出(いで)ず。

 然れども、予が、昨日(きのふ)見たりし七島もなく、僅(わづか)に二島のみ、浮(うき)めぐりしかば、我は、ますます、これを信ずといへども、彼(かの)同者は、退屈して、

「此(ここ)に、𨻶(ひま)取(と)ては、道の積(つも)り、甚(はなはだ)、惡(あし)し。もはや、行(ゆく)べし。」

と云(いふ)に、

「實(げに)も。」

と、各(おのおの)出立(しゆつたつ)せんとするに、宿院(しゆくゐん)の人、長き棹(さを)を持來(もちきた)り、

「おのおの、現在、見給はざれば、生前の疑ひ、止(や)まじ。いでよ、證據を見せん。」

と、棹を取延(とりのべ)て水涯(みづぎは)を突出(つきいだ)せば、則ち、出離(いではな)る。

 然るに、棹を納(をさめ)れば、又、もとの所に歸り着く。

「そこ爰(ここ)、みな、同じ自然(おのづ)と出(いづ)べき氣機(きき)あらざれば、如ㇾ斯也(かくのごときなり)。」

と、いへり。

 同者も

「實(げに)。」

と思ふ體(てい)にて、立別(たちわか)れぬ。

 世に、神佛の奇驗(きげん)は、其人の信不信による事なれど、此島計(ばかり)は、たとひ、五日、七日を滯留してなりとも、見ずんば、有(ある)べからずとぞ、思ふ。

[やぶちゃん注:このエンディング、『橘南谿「東遊記」卷之五の「浮島」の条』のそれと、有意に似ており、偶然とは思われない。橘南谿は、確かに大沼に行ったのであろうとは思いたいのだが、少なくともこのコーダ部分は、百井塘雨の本篇の最後を意図的にインスパイアしたものであることが判る。しかも……本文自体も――実は――そっくり!……ちょっと、これ、残念だなぁ!…………

2023/08/14

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「浮嶋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 浮嶋【うきしま】 〔諸国里人談巻四〕出羽国最上郡羽黒山〈現在の山形県東田川郡にそびえる山〉の麓、佐沢に大沼といふあり。これに大小六十六の浮嶋あり。径三四尺より一丈二三尺に至る。おのおの国々の名ありといへども分明ならず。勝れて大きなる嶋を奥州嶋といふのみなり。池の真中に動かざる小さき嶋に葭蘆生ひたり。これを蘆原嶋と号(なづ)けたるなり。六十余の嶋々、常は汀《みぎは》に片寄り、地に副(そ)ひてあり。皆松柏《しやうはく》茂り、桃・桜・藤・山吹など生ひたり。春夏秋かけて日毎に浮き旋(めぐ)る。風にしたがひて行く。また風に向《むかひ》て行くもあり。時として、二十嶋、三十嶋も、うかみ巡るなり。春夏花の盛りは、藤・山吹・つゝじ・さつきの水に映じて風景斜めならず。この嶋々、汀にある時、出んづる嶋は震《ゆる》き[やぶちゃん注:ママ。]動き出《いで》て、出ざる嶋を押隔《おしへだ》て出《いづ》る事、もつとも奇なり。祈願の人あつて、その志す所の嶋をさして、旋行《せんかう》を考ヘ吉凶を占ふ事あり。 <『笈埃随筆巻七』『譚海巻五』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:「諸國里人談卷之四 浮嶋」はこちらで電子化注している。また、最後に宵曲が示した「譚海」のそれ、「卷之五 羽州湯殿山の麓大沼あそび島の事」も電子化注している。後者の注で述べたように、実際には行っていない著者たちが、勝手に誤った地理情報を添えてしまった可能性がかなり高い。『橘南谿「東遊記」卷之五の「浮島」の条』も「譚海」に合わせて電子化したのだが、こちらは、ちゃんと現地に行っているはずである。されば、私は、やはり、現在、「大沼の浮島」として知られる山形県西村山郡朝日町大沼と比定するものである(グーグル・マップ・データ)。橘南谿の友人百井塘雨 の「笈埃随筆」の「大沼山浮島」は、ここの注で電子化しようと思っていたのだが、実は最も長いもので、橘のそれと並べるべきしっかりした実録物であることが判ったことから、これより後に、ちゃんとした単独記事で示すこととする。明日まで、お待ちあれ。

「現在の山形県東田川郡」現在は山形県鶴岡市である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「魚石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

     

 

 魚石【うおいし】 〔耳囊巻三〕いつの頃にやありけん、長崎の町家の、石ずへ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]になしたる石より、不断水氣うるほひ出《いで》しを唐人見て、右石を貰ひたき由、申ければ、子細ある石ならんと、その主人これをおしみ[やぶちゃん注:ママ。]、右石ずへをとりかへて取入《とりいれ》て見しに、とこしなへにうるほひ、水の出《いで》けるにぞ、これは果して石中に玉《ぎよく》こそありなんと、色々評議して、打寄り連々《つれづれ》に研《みがき》とりけるに、誤つて打割りぬ。その石中より水流れ出て、小魚《こうを》出けるが、忽ちに死しければ、とり捨て済《すま》しぬ。その事あとにて、彼《か》の唐人聞きて、涙を流して、これを惜しみける故、くはしく尋ねければ、右は玉中に蟄《ちつ》せしものありて、右玉の損せざる様に、静かに磨きあげぬれば、千金の器物なり、をしむべしをしむべしといひしとなり。世に蟄竜などいへるたぐひも、かゝるものなるべしと彼地《かのち》ヘ至りし者語りぬ。 〔寓意草〕石の中にいきたるいをのゐることあり。長崎のつかさしける人のかたりける。二十年ばかりさいつころ、紅毛人の長崎より発船するとて、やどのあるじよびて、庭のかたへなる手水《てうづ》どころのほとりなる、いしひとつさして、これえさせよといふ。いとやすきなりといへばこよなうよろこほひて、こがね五両とりいでて与へぬ。えうまじ[やぶちゃん注:呼応の不可能の副詞「え」+「得まじ」で、「とても、こんな大金は貰うことは出来ない。」の意か。]といなべば、石得たるいはひなんやる、しろ[やぶちゃん注:「代」。代金。]にあらず、石はまたこんまでくらにをさめてたうべ、三年へばかならずきなんといふ。しきりに辞(いな)べどもきかで、こがねくれて舟だちしていにけり。いしは倉に納めてむとせ[やぶちゃん注:「六年」。]に成《なり》てわすれゐたり。あるひふととり出《いで》て、かたへの人にかくなんとかたりぬ。オランダびとのやういひぬるゆゑ、よしぞあらん、みとせへばかならずきなんと契りて、む年にもなりてこねば、又もこじ、いでわりてみてんよとて、をのもてうちわりぬ。石の中より水のさとこぼれて、あかき魚のいきたるをどりいづ。あなあやし、このいをのあるを知りてぞこひけめと、いぶかりてやみぬ。つぐる年かの紅毛人のきて、石はいかがしつらん、契りし年こざりければ失ひやしつといふ。あるじ身を措《を》く所無く、かほうちあかめて、かくとわびければ、力なきわざかな、万里の海を隔てぬれば、たよりもままならず。とひ聞かざりけるぞ悔しけれ。うへなきたから失なひぬとて歎きぬ。如何なる宝ととヘば、かの石をもていきて、すりみがきつれば、水さうなどのやうして、いをのすきてみゆ。千年ふれども此いをしなず。この中の魚をあさなゆふなにみをれば、人もしらず命を延《のぶ》るたからなり。命をながうするもの、この石の外にはあらず。国にもていきて、おほぎみに奉れば、かぎりなきめぐみをたべ[やぶちゃん注:原著(後述)では、編者によって「給(た)ぶ」の誤記か、とする割注がある。]、こと国にあらず、たゞ日の本にのみたまたまありといふ。石のみんやうこひまねびけれど[やぶちゃん注:「その石の見つけ方を教えて呉れるように頼んだが」の意か。]、をしへずしていにぬ。この物語は享保のすゑ、外記大久保忠清がいへにてきゝぬ。人のきたりてあやしきものがたりの侍る。このころ筑波山の麓なる人のかたり侍る。去歳《こぞのとし》の冬いづちともなき人ふたり来て、庭なる石どもみんとてみたり。その中の一つをかひなんといふ。あるじのおきな、かはばうらなん、我子の山へいきぬれば、帰らんを待《まち》てうらんといふ。しろにはこがね一両あたへん、かゝる石ひとつをこがねもてかはんてふはいつはりなめり。かたく偽らず、なほ山に入り石みてきなまし、かへるさに必ずえさせよとちぎりて、ふたりはいぬ。子の帰りければかくとかたれば、ゆゑありてぞほりすらめ、さあらばあらひてんとあらひつ、土のこほりたれば、あつき湯もて洗ひぬ。とばかりへて、二人のかへりきてもていなんといふ。とりてあたふ。おどろき歎きて、口をしきわざかな、湯にてあらひたればようなしといふ。あるじおやこもなげきて、あまりにつちにまみれたれば、さてあらひつ、あらひてようなきことやあるといへりければ、石のよしをしらぬからこそさは思ふらめ、わなみ[やぶちゃん注:「我儕・吾儕」は一人称代名詞。対等の者に対して自身を言う語。]は東の都よりきたれり、ちかき頃この石のみるようまねびて、かなたこなた尋ねめぐりて、たまたまかのひとつみえたり、この中にいをあり、湯もてあらひたるがふたついでたり。かゝるためしもあるぞといふ、長崎の物語とあひける。 信夫の山のもとを掘《ほり》ければ、ひらなるいしの四尺あまりありて青黒きに、三尺ばかりなるいをのつきたるをほりいでたり。鱒《ます》といふ魚ににて、いろこ[やぶちゃん注:「鱗」。]あらくあを色なり。めのうちもいきたる魚なして、板にのせたるやうに石につきてあり。その魚もいしなりけり。福嶋の孫右衛門といふもののいへにおきしを、原新六郎といふ人の御代官として、けみにきたりけるが、おほきみにたてまつらんとて、とりてのぼりき。

[やぶちゃん注:第一話は「耳嚢 巻之三 玉石の事」を見られたい。「雲根志」に載る同内容の話「生魚石(せいぎよいし) 九」を挿絵も添えて電子化注してある。

「寓意草」「鼬の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのそちらで示したのと同じ活字本で、当該部を視認出来る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「陰徳陽報」 / 「い」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 陰徳陽報【いんとくようほう】 〔耳囊巻五〕或武家、両国を朝通りしに、色衰へし女、欄干の辺をあちこち徘徊せる様《さま》、身を投げ、入水《じゆすい》を心懸るやと疑はしく、立《たち》よりてその様を尋ねしに、綿摘《わたつみ》を業《なりはひ》とせるものにて、預りの綿をぬすまれ、我身の愁ひは申すに及ばず、親方も呉服所《ごふくしよ》への申訳なき筋なれば、入水せんと覚悟極めし由かたりぬ。いか程の価ひあれば、つぐのひなりぬるやと尋ねしに、我等が身の上にて急に調ひがたし、三分程あれば償ひも出来ぬべしと云ひし故、それは僅かの事なり、我与へんとて、懐中より金三分取出し、彼女子に与へしに、百拝して歓び、名所《などころ》など聞きけれど、我は隠徳に施すなり、名所を云ふに及ばずとて、立別れしが、年を隔て、川崎<神奈川県川崎市>とか、また亀戸《かめいど》<東京都江東区>辺とか、其所は聞かざりしが、所用ありて渡し場へ懸りしに、彼女にふと出会ひけるに、女はよく覚えて、過ぎし両国橋の事を語り、ひらに我元へ立寄り給へと乞ひし故、道をも急げばと断りしが、切に引留めて、あたりの船宿ヘともなひ、誠に入水と一途に覚悟せしを、御身の御影にて、事なく綿代をも償ひ、我身もみやづかへにて綿摘みし事、過ぎし盗難に恐れ暇《いとま》取りて此船宿へ片付《かたづき》けるに、不思議にも今日御目に懸りしも奇緣とやいふべきとて、蕎麥・酒抔出《いだ》し、家内打寄《うちよ》りて饗應せしに、かの渡し場にて何か物騷がしき様子、その訳を尋ねしに、俄かに早手(はやて)出《いで》て渡船《わたしぶね》くつがへり、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]溺死、不思議に命助かりしも、怪我などして、大勢より集りて介抱せるよし、是を聞《きき》て、誠にこの船宿へ、彼女に逢ひ、引留められずば、我も水中のうろくづとならん、天道其《その》善に組《くみ》し、隱德陽報の先言《せんげん》むなしからざる事と人の語りぬ。〈『其昔談』に大体これと同じき話あり。明の『輟耕録』に基づくものの如し。『思出草紙巻四』に出でたるは、遥かに長けれども、話の眼目は全く同じ〉

[やぶちゃん注:「耳嚢 巻之六 陰德危難を遁し事」を参照されたい。

「呉服所」公・武・諸家の衣服類の御用達をした呉服屋。呉服調達の他に内証御用(金銀の融通)もした。

「其昔談」「そのむかしがたり」と読む。江戸後期の国学者三木隆盛(生没年未詳)が集めた明和(一七六四年~一八一八年)から文化に至る風聞随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの「續燕石十種」第二(明治四二(一九〇九)年国書刊行会刊)に載るもので当該話を発見した(左ページ上段三行目から)ので、見られたい。

「明の『輟耕録』に基づくもの」「飛雲渡」(ひうんど)がそれ。先の「耳囊」の私の注でもごく簡単に紹介してある。原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらから影印本が視認出来る。新字新仮名であるが、「青空文庫」の岡本綺堂「中国怪奇小説集 輟耕録」の冒頭で訳が読める。

「思出草紙巻四」「古今雜談(ざうだん)思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。その巻四の巻頭を飾る「○陰德陽報之事」がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから視認出来る。

 因みに、最近、たまたま電子化した「只野真葛 むかしばなし (76) 命を救って命助かる奇譚」の聴き書きも、明かに酷似した同型譚である。これらは、まさに合って欲しいと当時の読者が思う、架空の話であったことが、判る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「窟の女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 窟の女【いわやのおんな】 〔諸国里人談巻二〕勢州壱志郡<三重県一志郡>川俣剱が淵に方一丈余の岩窟あり。寛文のころ、この窟の中に人あり。川向の家城《いへき》村よりこれを見てあやしみ、里人《さとびと》筏《いかだ》を組みてその所に至る。三十ばかりの女髪をみだし、そらさまにして髪のさきを上の岩に漆を以て付けたるごとくに釣(つり)して、くるしげもなき体《てい》にて中《なか》にあり。里人抱きおろさんとするに髪はなれず。中(ちゆう)より髪を切ておろし、里につれ行とき、水そゝぎ薬などあたへければ正気となりぬ。しだいを問ふに、前後をしらず。美濃国竜が鼻村の長《をさ》の妻なるよしを云ふ。此所《ここ》は津の領分なれば政所《まんどころ》に訴ふ。国主より濃州へ通じられける。迎の者大勢来りぐして帰りぬ。

[やぶちゃん注:正規表現は「諸國里人談卷之二 窟女」を見られたい。注もしてある。

「三重県一志郡」旧郡名は「いちし」或いは「いし」と読む。同郡全体は現在の津市の一部と、松阪市の一部である。

「川俣剱が淵」は今回も調べたが、不明。リンク先で私が候補地とした附近には、現在、「瀬戸ヶ淵」というのは、ある。ここでは「ひなたGPS」で示す。

「美濃國龍が鼻村」やはり不詳。再度、識者の御教授を乞う。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「義眼と蜂」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 義眼と蜂【いれめとはち】 〔甲子夜話巻四十八〕入れ歯と云ふことは有れど、また入れ眼と云ふことも有りとよ。先年或る歌妓その事を語る。因てその状を尋ぬれば、或家の奥方疾を得て一目眇せり。婦人のことなれば殊に憂へて、眼科に頼んで治療を求めたるに、医とても回復の方なしと云ふゆゑ、奥方ますます悶えて強ひて治療を乞ふ。医さらば入れ目を為んと云ひて、とゝのひたり。その仕方は目匡(まぶた)の間に、仏工の用ゆる玉眼と云ふものを容るゝなり。傍人さへも真の眼と思へり。かの奥方は大いに悦びて、知らぬふりして有りしに、人もまた知るものなし。一日家宴ありて客群坐せしとき、游蜂ありて屋内に入る。坐中皆懼れ動きたるとき、蜂奥方の眼辺に飛ぶ。然るに目曽て逃(まじろ)かず。この時人皆その入れ目たるを知れりとぞ。咲(わら)ふべき話なり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之四十八 25 入眼」を電子化し、注もしておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷之四十八 25 入眼

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号を加え、段落も成形した。標題は「いれめ」と読む。]

48―8

 入れ齒と云(いふ)ことは有れど、また、入れ眼(め)と云ことも、有(あり)、とよ。

 先年、或る歌妓、その事を語る。

 因(より)て、その狀(じやう)を尋ぬれば、或家の奧方、疾(やまひ)を得て、一目(ひとつのめ)、眇(べう)せり[やぶちゃん注:目を悪くすることを言う。ここは以下から、眼球の色がひどく変質して、全く目が見えなくなる重篤な失明に至る眼疾患である。]。

 婦人のことなれば、殊に憂へて、眼科に賴んで、治療を求めたるに、毉(い)[やぶちゃん注:「醫」の異体字。]とても、

「囘復の方(はう)、なし。」

と云ふゆゑ、奧方、ますます悶(もだえ)て、强(しひ)て、治療を乞ふ。

 毉、

「さらば、『入れ目』を爲(なさ)ん。」

と云て、とゝのひたり。

 其の仕方は、目匡(まぶち)の間(あひだ)に、佛工の用ゆる「玉眼(ぎよくがん)」と云ふものを、容(い)るゝなり。

 傍人(かたはらのひと)さへも、眞(まこと)の眼と思へり。

 かの奧方は、大(おほい)に悅(よろこび)て、知(しら)ぬふりして有りしに、人も亦、知るものなし。

 一日(いちじつ)、家、宴(うたげ)ありて、客、群坐(むれま)せしとき、游蜂(ゆうはう)[やぶちゃん注:漢語で「飛び回る蜂」の意。]、ありて、屋内に入る。

 坐中、皆、懼(おそ)れ、動きたるとき、蜂、奧方の眼邊(めのあたり)に飛ぶ。

 然るに、目、曾(かつ)て逃(まじろ)がず。この時、人皆(ひとみな)、その「入れ目」たるを知れりとぞ。

 咲(わら)ふべき話なり。

■やぶちゃんの呟き

「玉眼」仏像を作るために眼球部分に施される、本物の眼のような印象を与える特殊な技法。主に木彫仏像の面部の眼に当たる部分を刳り抜いて貫通させた後、瞳を描いた水晶製の薄いレンズ状にしたものを、面部の内側から嵌め込み、和紙や綿で白眼(しろめ)を造作し、当て木をして、漆や木製の釘などで固定する。現行で知られているものの初めての作例は、仁平元(一一五一)年の奈良天理市にある高野山真言宗釜の口山(かまのくちさん)長岳寺の木造阿弥陀如来両脇侍(観音菩薩・勢至菩薩)像を最古とされるが、鎌倉時代以降、仏像の寄せ木造りが可能となり頭部を刳り抜いて内側から緻密に作成することが出来るようになり、工房の発展とともに技術がいよいよ精緻化した。ここでは、この医師は、それを応用して、精密に疾患眼球の前部全体を瞼の内側で完全に覆う極薄の水晶レンズを彩色成形したものと思われる。

 にしても、最後の一言は、ちょっと、大好きな静山にして、言って欲しくなかったな……

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「入方の火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 入方の火【いりかたのひ】 入方は村の名 〔諸国里人談巻三〕越後国蒲原郡入方村庄右衛門と云ふ村長(むらおさ[やぶちゃん注:ママ。])の居宅の庭に、火の燃え出《いづ》る穴あり。常は石臼を以て蓋とす。その臼の穴より炬松(たいまつ)のごとく赫々《かくかく》として家内を光(てら)し、燈火《よひのひ》に十倍す。夜は近隣の家々に大竹を以て筧《かけひ》とし、あなた此方《こなた》へわたし、此火をとり、夜の營みのあかしとする也。陰火なれば、これがために物を燒(やか)ず。稀代の重宝《ちやうはう》なり。寒火といふはこれなり。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之三 入方火」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「伊吹山異事」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 伊吹山異事【いぶきやまいじ】 滋賀県の伊吹山におこった奇蹟 〔月堂見聞集巻十六〕九月廿五日夜、江州伊吹山〈滋賀県米原市にそびえる山〉の麓、大雨震動す。その後《のち》野中より大入道の如き者出づ。左右に松明《たいまつ》の如き火大分《だいぶん》あり。一列になりて伊吹山へ上る。村民声々呼《よび》て曰く、地震にあらず、外へ出づべからずと。暫時ありて静まる。村民に老人ありて物語りに、この事五六十年には一度ほど在ㇾ之、昔より伊吹の明神湖中より出現して、登山したまふと云ひ伝へり。その跡を見れば湖辺より山上迄、田畠草木迄一筋に焼けて焦土となれり。凡そ幅三間余に長さ一里半余程。

[やぶちゃん注:「月堂見聞集」先行するこちらの「蟻が池の蛇」で既出既注。のこちらの「国史大辞典」からの引用を参考にした)。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集 苐二」(大正二(一九一三)年国書刊行会編刊)のこちらで当該部が視認出来る(右ページ下段「巻之十六」の冒頭)。その巻名の下にあるクレジットから、以上の話は享保八(一七二三)年のことと知れる。グレゴリオ暦では十月二十三日。

「伊吹山」頂上は現在の滋賀県米原市上野(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高千三百七十七メートル。

「伊吹の明神」現在の伊吹山の神を祀る現在の滋賀県米原市伊吹にある伊夫岐(いぶき)神社

「三間余」五・四六メートル余。

「一里半余」五・八九〇キロメートル余。現在の伊吹山登山口から麓から頂上に行くルートは五・五キロメートルである。伊夫岐神社は登山口の西北一キロ程の位置にあり、ほぼ二等辺三角形を成すので、頂上に達する実測距離であることが判った。

サイト「福娘童話集」の「琵琶湖の大入道 滋賀県の民話」に本篇と同内容の話が載り、その最後に『子どもの頃にも大入道の行列に出会って、今度が二度目のおじいさんが村人たちに言いました』。『「あの時も大入道が現れたのは、大雨があがった夜ふけの事だった。お前たちはあれを大入道の行列だと言うが、あれは琵琶湖の底にあると言われる竜宮城へ招かれた伊吹山の明神(みきょうじん)さまが、山へ帰る時の行列じゃ」』とあった。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「四」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 佐々木君が引いた「東奧古傳」に或說云《いはく》とて擧げた話は、奇體にも君と同姓の「佐々木家記」より出たらしい。其は、予、未見の書だが、芳賀博士の「攷證今昔物語集 本朝部」下卷六五五頁に「古風土記逸文考證」から又引きしてある。云く、『「佐々木家記」に、天文辛丑《かのとうし》[やぶちゃん注:天文一〇(一五四一)年]六月二日、今日《けふ》、武佐《むさ》より言上《ごんじやう》、地の、三、四尺或は一丈下に、木葉枝の朽《くち》たるを掘出《ほりいだ》す。稀有の事也とて、數箇所掘返し見るに、皆、同じ。其物を獻ぜり。黑く朽たる木の葉の塊まりたる也。屋形(佐々木義賢)、「希代の事也。」迚《とて》、國の舊き日記を見給ふに、其記に云く、「景行天皇六十年十月、帝甚だ惱む事あり。之に依《より》て諸天に病惱を祈れど、終《つひ》に其驗《しるし》なし。是に一覺と云ふ占者あり。彼に命ぜしに、一覺曰く、「當國の東に大木あり、此木甚だ帝《みかど》に敵する有り。早く此木を退治さるれば、帝の病惱、平治す。」と云々。之に依て、此木を伐《き》るに、每夜、伐る所の木、本《もと》の如くなる。終《つひ》に盡《つく》る事無し。然して、彼《か》の一覺を召して問ふに、「伐る所の木屑、每日、之を燒《やけ》ば、果して盡《つ》く。」と云ふ。「我は、彼《かの》木に敵對する葛也。數年《すねん》威を爭ふ事、久し。其志《こころざ》し、帝に差向《さしむ》く。」と云ふて、卽時に搔消《かきけ》す如く失せぬ。彼《かの》言《げん》の如く行ひ、木屑を燒き、每日に及び、七十餘日を終《をへ》て、彼木、倒る。此木、枝葉、九里四方に盛え、木の太さ、數百丈也。之に依て、帝の病惱、平治す。卽ち、彼木の有《あり》し郡《こほり》を「栗本郡」と號し、栗木の實、實《みの》らず云々」と。』。

[やぶちゃん注:以上の芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)の「本朝部」巻第三十一の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の付注の当該部を、国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ三行目下方から)で視認して校合した。熊楠の引用には不全が複数箇所あったので、訂正した。なお、一般的に郡(こおり)名「くりもと」の「栗太郡」は、元は「栗本郡」であったと考えられている。

「東奧古傳」「三」の私の注の佐々木喜善の引用を参照されたい。

『「佐々木家記」に、……』国立国会図書館デジタルコレクションの「古風土記逸文 下」(栗田寛纂訂・明治三一(一八九八)年大日本図書刊)のここ(右ページ後ろから三行目以降)で、全く同じ内容を見ることが出来る。

「武佐」現在の滋賀県近江八幡市武佐町(むさちょう)であろう。

「佐々木義賢」これは、かの南近江の戦国武将六角義賢(大永元(一五二一)年~慶長三(一五九八)年)のことと思われる。六角氏は宇多源氏佐々木氏流である。]

 爰に、所謂、國の舊記の筆者、景行帝の御時、佛法、未だ渡らずと知《しり》て、『諸天に病惱を祈る。』と、故《こと》さらに書《かい》たのを、「東奧古傳」には、之に氣付かず、『或者、諸寺・諸山に祈禱有り。』と替《かへ》たのは、不學の至りだ。但し、「諸天」てふ詞《ことば》、亦、彼《かの》帝の世に、吾邦に無かつたから、孰れを用ひても五十步百步で、等しく尻《し》つ穗《ぽ》を出し居《を》る。

[やぶちゃん注:ここが「三」の佐々木へのイヤミの立証部である。

 又、「攷證今昔物語集」に「三國傳記」を引《ひい》て、「和に云く、近江國栗太郡と申すは、栗の木一本の下《もと》也けり。枝葉、繁榮して、梢、天に覆へり。秋風、西より吹く時は、伊勢の國迄、果《はて》落つ。七栗といふ處は其故なり。又、此木の隱《かげ》、遙かに若狹の國に移る間だ、田畠、作毛の不熱に因《より》て彼《かの》國の訴訟有《あり》て此樹を切る。此木は、天竺栴檀の種より生じたる故に「西」「木」と書けり。釿(てうな)鈇(をの)を持(じ)して彼木を截れども、切口《きりくち》、夜は愈《いへ》、合《あひ》けり。然《しか》る間、自國・他國の輩、奇異の思ひを成して、杣人《そまびと》を集め、日每に、是を切れども、連夜、元の樹となる。其故は、此栗の木は樹木の中の王たるに依《より》て、諸草木、夜々、訪來《おとなひきたり》て、こけらを取《とり》て合《あは》せ付《つけ》ける故也。秋、來れば、一葉、落ちて、春、至りて、白花、開く、などかは、心のなかるべき。爰に一草、『蔓〔「カヅラ」で「佐々木家記」の「葛」に當《あた》る〕といふ物、訪來る。』由を云《いひ》ければ、『草木の數とも思はぬ物の、推參すること、奇怪。』とて追返《おひかへ》しけり。仍《より》て、此蔓、腹を立《たて》て、『同じ國土に栖乍《すみなが》ら、侮られけるこそ、口惜しけれ。』と瞋《いか》り、人々の夢に示しけるは、『此大木を切顚《きりたふ》し給ふべきならば、樾《こけら》、火にたき給へ。不然《しからざれ》ば、千草萬木《せんさうばんぼく》、夜な夜な、切れ目を合せて、差《いや》す[やぶちゃん注:「癒す」に同じ。]故に、此木、顚倒《てんたう》する事、有るまじ。』と語る。諸人《しょにん》、相《あひ》談話《だんわ》して敎への如くするに、無ㇾ程《ほどな》く、此木、倒れにけり。其梢、湖水の汀《みぎは》に至る。今の「木濱《このはま》」と云《いふ》所なり。侮る蔓に倒れするとは、此謂《いひ》なるべし。」と有る。

[やぶちゃん注:前と同じ芳賀の当該部で校合した。かなり不全があり、訂した。特に「樾、火にたき給へ、」の箇所は底本では「燒火にたく給へ」で意味が通らない。但し、この「樾」の字は漢語では「木蔭」の意で、「杮(こけら)」の意はないので、元の表記も不全ではある。「こけら」の読みは、「選集」でひらがなになってあるものを読みに採用したに過ぎない。

「三國傳記」は室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計三百六十話を収める。 「木濱」底本では「木の濱」とあるが、芳賀本に従い、そこにあるルビを添えた。現在の滋賀県守山市木浜町(グーグル・マップ・データ)であろう。

 以下最後まで、一字下げのポイント落ちで附記あるが、本文と同ポイントにして引き上げた。但し、一行空けた。]

 

 井澤長秀の「廣益俗說辯」五に、景行天皇に栗樹祟りをなす說と題して、「佐々木家記」と大同の話を出してある。著者は「今昔物語」近江の大柞樹の譚と、「玄中記」の、始皇、終南山の梓を伐らしめた談とを、取合《とりあは》して妄作したものと辨じゐる。

 大正十一年十一月、高山町發行『飛驒史壇』七卷七號、千虎某氏の「白川奇談」(二九頁)に云く、『新淵《あらぶち》より二丁程行きて「新田中畑《あらたなかはた》」と云ふ、此村の上に、昔、神代杉あり。大なること、十二抱《かかへ》といふ。杉の梢、越前の「花くら」の田に、影を、うちける。杣人、伐りけるに、一夜の内、愈合《いえあひ》て、切ること、能はず。後ち、火を焚《たき》て、「こわし」を燒きければ、愈ゆる事、なし。數十日懸りて、切り倒しけるに、二丁程なる川向ふへ、梢が屆きけると也。今の世にも切榾《きりほた》、「水まか」となりて、眼前に見る、となり。いつの時代、切りけると云ふふ事も知《しり》たる人は、なし。』と。

[やぶちゃん注:第一段落の部分は既に「二」で既出既注である。

「新淵」現在の岐阜県高山市荘川町(しょうかわまち)新渕(あらぶち)であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「新田中畑」現在の岐阜県高山市荘川町中畑(なかはた)。

『越前の「花くら」』不詳中畑から越前市郊外までは、真西で六十四キロメートルはある。

「こわし」不詳。今までの流れからは「木屑」であろう。

「水まか」不詳。意味不明。識者の御教授を乞う。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「犬の伊勢参宮」・「犬の転生」(犬奇譚二話)

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。但し、今回は、単に「犬」で並んでいるだけで、関係性はないが、まずは「犬奇譚」として二項を採った。

 

 犬の伊勢参宮【いぬのいせさんぐう】 〔譚海巻八〕寛政二年の秋、安房国ある荘屋の許に飼ひたる犬、伊勢参宮したきよし、主人の夢に見えけるとて、その犬を参宮にいだし立てける。村送りに人をつけてやりけるに、この犬恙なく参宮して帰りける。勢州にもみたる人の物語りせしは、他の犬と違ひて、呼びてものをくはせれば、やがて人家の板敷のうへにのぼり、うづくまり居て物をくひみたし、最早いねといへば、そのまゝ飛びおりて行きける。はじめ主人より鳥目《てうもく》三百文犬の頭にかけて出しけるが、路次《ろし》にても鳥目五文三文づつあたふる人有りて、帰路には三貫文にあまりたるほどになりて、犬のくびにかけてやりがたければ、村送りの者持送りて、やりたる事になりたりとぞ。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事」をフライング公開しておいた。そちらの私の注と、私の各種記事を見られたい。]

 

 犬の転生【いぬのてんしょう】 〔諸国里人談巻五〕和泉国境<大阪府堺市>の辺、浄土宗の寺に白犬《しろいぬ》ありける。二六時中勤行の時節、堂の縁に来りて平伏する事年《とし》あり。また常に修行者大路にて念仏すれば、衣の裾にまとはり、おかしげに吠えける。或師走《しはす》餅を搗く日、餅をあたへければ、咽《のど》につめて死してけり。和尚あはれみて戒名を授け、念頃(ねんごろ)に弔ひぬ。一夜《あるよ》住僧の夢に、かの犬来りて曰く、念仏の功力《くりき》によつて人間に生ず、門番人が妻にやどると。はたして男子を産めり。和尚しかじかの事を親に示して、六七歳の頃より出家させけり。聡明叡智にして、一を聞いて十を慧《さと》す。よつてこよなう大切に養育してけり。この者幼少より餅をきらひて食せざりける。前生《ぜんしやう》の犬なりける事、誰いふとなく、新発意(しんぼち)の中にて仇名《あだな》を白犬《しろいぬ》とよびけるを、やすからずおもひて、十三歳の時和尚に問ふ。我を白犬といふ事、何ゆゑかくは侍(さぶら)ふやらん、この事とゞめて給はれと云ふ。わどの餅をきらふゆゑにこそ、さ[やぶちゃん注:「そのように」。]いふなり。しからば餅を食し侍らば、この難あるまじきや。いかにもその事なるべし。いざ食ふべしと、餅の日《ひ》膳にむかひけるが、用ある体《てい》にて座を去りて行方《ゆきかた》しらずなりぬ。その所を求むれども、あへてしれざりき。和尚よしなき事をいひつるものかなと、甚だ後悔しけり。常に手習ふ机のうへに一首を残せり。

 何となくわが身のうへはしら雲の

 たつきもしらぬ山にかくれじ

[やぶちゃん注:最後の和歌は一字下げで二行に続いて記されてあるが、ブラウザの不具合を考えて、上句・下句で分ち書きにした。既に「諸國里人談卷之五 ㊈氣形部 犬生ㇾ人」で正規表現版で電子化注してあるので、そちらも見られたい。

「わどの」「我殿・和殿」「わとの」とも読む。二人称人代名詞。対等以下の相手に向かって親愛の気持ちを込めて用いる語。「そなた」。]

譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事 /(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 寬政二年の秋、安房國、ある莊屋の許(もと)に飼ひたる犬、

「伊勢參宮したき。」

よし、主人の夢に見えけるとて、其犬を參宮にいだし立(たて)ける。

 村送りに、人をつけてやりけるに、この犬、恙なく、參宮して歸りける。

 勢州にも、見たる人の物語りせしは、他(ほか)の犬と違(ちがひ)て、呼(よび)て、ものを、くはすれば、やがて、人家の板敷のうへに、のぼり、うづくまり居(ゐ)て、物をくひ、みたし、

「最早、いね。」

と、いへば、其まゝ、飛(とび)おりて行(ゆき)ける。

 はじめ、主人より鳥目(てうもく)三百文、犬の頭(かしら)に、かけて出(いだ)しけるが、路次(ろし)にても、鳥目(てうもく)、五文、三文づつ、あたふる人、有(あり)て、歸路には、三貫文にあまりたるほどに成(なり)て、犬のくびにかけてやりがたければ、村送りの者、持送(もちおく)りて、やりたる事に成(なり)たり、とぞ。

[やぶちゃん注:「寬政二年」一七九〇年で、これは伊勢神宮参拝の「抜け参り」が、爆発的なそれとなって、「御蔭参り」(明和八(一七七一)年以降)と呼ばれるようになって以降の話である。「御蔭参り」の様子は曲亭馬琴「兎園小説拾遺」に数回に亙って詳しく記されているが(私のブログ・カテゴリ「兎園小説」参照)、飼い主や雇われた随行者が連れて行くのではなく、犬が単独で伊勢神宮に行くのである(ここで言う「村送り」というのは、添え状を犬に添えて次の村や宿の村名主(庄屋・肝煎)や宿場の管理者宛で送り出すことで、或いは、人の「お蔭参り」の誰彼が次の村までその随行を行ったこともあったであろうが、基本、驚くべきことだが、犬一匹で丁重に送られたケースもあったのである)。さらに、『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」』で注したように、驚くべきことに、犬ばかりか、豚まで単独参宮した事実があるのである。「耳囊 卷之九 奇豕の事」に『文化六年』(一八〇九年)『豕(ぶた)壹疋、藝州より送り狀相添(あひそへ)、繼送(つぎおく)り來り候旨、右豕參宮致(いたし)候、送り狀』が示されてあるのである!

2023/08/13

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「飯綱の法」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 飯綱の法【いづなのほう】 管狐(くだ《ぎつね》)をつかって魔術を行う法、後に狐遺の別称となった[やぶちゃん注:以上は宵曲の解説附言である。]〔奥州波奈志〕清安寺といふ寺の和尚は狐つかひにて有りしとぞ。橋本正左衛門ふと出会ひてより懇意となりて、をりっをり夜ばなしにゆきしに、ある夜五六人より合ひてはなしゐたりしに、和尚の曰く、御慰みに芝居を御めにかくべしと云ひしが、たちまち座敷芝居の体《てい》とかはり、道具たての仕かけ、なりもののひやうし、色々の高名《かうみやう》の役者どものいでてはたらくてい、正身《しやうしん》のかぶきにいさゝかたがふことなし。客は思ひよらずおもしろきことかぎりなく、居合《ゐあはせ》し人々大いに感じたりき。正左衛門は例のふしぎを好む心から、分けて悦び、それよりまた習ひ度と思ふ心おこりて、しきりに行きとぶらひしを、和尚その内心をさとりて、そなたにはいづな法習ひ度《なら》と思はるゝや、さあらば試みに三度《みたび》ためし申すべし、明晩より三夜つゞけて来られよ、これをこらへつゞくるならば伝受せんとほつ言《げん》せしを、正左衛門とび立つばかり悦びて一礼のべ、いかなることにてもたへしのぎて、そのいづなの法ならはばやといさみいさみて、よく日《じつ》暮るゝをまちて行きければ、先づ一間にこめて壱人《ひとり》置き、和尚出むかひて、この三度のせめの内、たへがたく思はれなば、いつにても声をあげてゆるしをこはれよと云ひて入りたり。ほどなくつらつらとねずみのいくらともなく出で来て、ひざに上り袖に入り、えりをわたりなどするは、いとうるさくめいわくなれど、誠《まこと》のものにはあらじ、よしくはれてもきずはつくまじと、心をすゑてこらへしほどに、やゝしばらくせめて、いづくともなく皆なくなりたれば、和尚出て、いや御気丈なることなりと挨拶して、明晩来られよとて帰しやりしとぞ。あくるばんもゆきしに、前夜の如く壱人居《を》ると、この度《たび》は蛇のせめなり。大小の蛇いくらともなくはひ出て、袖に入りえりにまとひ、わるくさきことたへがたかりしを、これもにせ物とおもふばかりに、こらへとほして有りしとぞ。いざ、明晚をだに過《すご》しなば、伝授をえんと、心悦びてよくばん行きしに、壱人、有りて、待てども待てども何も出でこず。やや退屈におもふをりしも、こはいかに、はやく別れし実母の、末期《まつご》に著《き》たりし衣類のまゝ、眼《まなこ》引《ひき》つけ、小ばなおち、口びるかわきちゞみ齒出《いで》て、よわりはてたる顏色《がんしよく》ようぼう、髪のみだれそゝけたるまで、落命の時分身にしみて、いまもわすれがたきに、少しもたがはぬさまして、身にしみて、ふはふはとあゆみ出で、たゞむかひて坐《ざ》したるは、鼠蛇に百倍して、心中のうれひ悲しみたとへがたく、すでに詞《ことば》をかけんとするてい、身にしみじみと心わるく、こらヘかねて、真平御免被下べしと声を上げしかば、母とみえしは和尚にて笑ひ坐して有りしとぞ。

正左衛門めいぼく[やぶちゃん注:ママ。面目。]なさに、それより後《のち》二度《ふたたび》ゆかざりしとぞ。

[やぶちゃん注:これも既に正字で「奥州ばなし 狐つかひ」で電子化注してある。因みに、只野眞葛の「奥州ばなし」(附・曲亭馬琴註/私のオリジナル注附き・縦書(ルビ附)一括全篇PDF版)もサイトで公開してある。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「縊鬼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 縊鬼【いつき】 〔反古のうらがき巻一〕これも叔氏《をぢ》酔雪翁が話に、元がしら某、屋敷麹町〈東京都千代田区内〉なり。組内同心某よく酒を飲み、落し咄身振りなどする者ありけり。春の日永き頃、同役より合《あひ》のことありて、夕刻より酒宴あり。かの同心は給事《きうじ》ながら来《きた》るべしと申し約せしに、その日来らず。家人もみなその伎《わざ》を見るを興として、待てども来らず。大いに不興なりし頃、怱々《そうそう》として来れり。やむを得ざるの用向にて、御門前に人を待たせたれば、御断りの趣申し入れ、直に立帰るといひて去《いぬ》らんとせしかども、家来ゆるさず。先づ主人及び一座の客人にその趣申し通ずる間、ひかへ候へといへば、甚だ難渋の趣なれども、先づその意に従ひけり。かくて主人に告げしに、何用なるかはしらねども、御頭衆《おかしらしゆう》より合《あひ》に、先程より相《あひ》待つこと久し。縱令(よし)さり難き用なりとても、聞きにも出《いで》ず去《いぬ》ることやあるとて無理に引出《ひきいだ》し、用の趣を尋ねさせしに、その事別事にあらず、くひ違ひ御門内にて首を縊《くく》る約束せし間、やむを得ずといひて、ひた物去らんことを請ひけり。主賓弥〻《いよいよ》あやしみて、思ふに乱心と見えたり、かゝらんには弥〻引出して酒を飲ますべしとて、座に引出し、先づ大盃《おほさかづき》にて続けざまに七八盃を飲ます。さてこれにて許し玉へといふを、また七八盃飲ませけり。主人声をかけ、例の声色(こわいろ)所望なりといヘば、拠(よんどころ)なく一つ二つ伎を奏し、また立出《たちいで》んとするを、賓主各々盃を与へ、余程酩酊の色見えしかば、賓主これを興として、かはるがはるに酒をすゝめ、動静を窺ひける。一時《いつとき》ばかりする内、先づ去《いぬ》るを請ふ事は忘れたる様にて、別に乱心とも見えずなりぬ。その時家来立出で、只今喰違ひ御門内に首縊《くびくく》りありと組合より申し通ず。人、差出《さしいだ》すべしやといひたり。賓主きゝて、さてさて先頃の縊鬼《いつき》、この者を殺すこと能はで、他人を取りたると見えたり。最早この縊鬼は離れたりとて、先の様子を尋ぬるに、夢の如く覚えてさだかならず、その頃喰違ひ迄来りしは夕刻前なり、一人ありて此所にて首を縊るべしといひしが、吾辞すること能はず、如何にも縊るべし、今日は御頭《おかしら》の元へ御給事に行く約束なれば、その断りをなして後《のち》、その意に従ふべしといヘば、その人さらばとて御門迄付き来り、早く断りをいひて来《きた》るべしといひけり、その言《げん》背《そむ》きがたき義理ある者の如く覚えて、その人の義そむきがたく思ひしは、何の故といふことをしらずといひけり。さて今は縊る心ありやと問ふに、自《おのづ》から首に環《わ》をかゝへる真似して、穴おそろしや穴そろしやといひけり。かく約を践《ふ》むを重んぜしと、酒を飲みたるとの徳にて、命を助かりしといひあへりき。かゝる事もまゝある事にや。

[やぶちゃん注:「反古のうらがき 卷之一 縊鬼」を参照されたい。どうも、そちらのものとは、底本が異なるようで、微妙に表記に違う箇所があるが、展開は全く同じである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「異鳥の肉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 異鳥の肉【いちょうのにく】 〔甲子夜話巻五十一〕信州飯嶋〈長野県上伊那郡飯島町〉と云ふ所にて、土人異鳥を捕り得たり。大きさ小鴨ほどあり。人寄り合て食せんとて料理し、有合たる大鍋にて煮たるとき、熟するに従ひてその肉夥しくふえ、鍋の蓋を内より持挙ぐ。これを見る者懼て食する意なく、その辺の小川に棄てたり。翌日見ればその川の下流まで、大小の魚悉く死し浮きしとぞ。この鳥もしくは鴆(ちん)〈一種の毒鳥。その羽を浸した酒をのめば死ぬという〉ならん歟との説なり。

(堀和州話、飯田侯)

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之五十一 8 毒鳥」を注附きで公開した。]

フライング単発 甲子夜話卷之五十一 8 毒鳥

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号を加えた。]

22―8

〔甲子夜話巻五十一〕信州飯島〈長野県上伊那郡飯島町〉と云(いふ)所にて、土人異鳥を捕り得たり。大きさ小鴨ほどあり。人寄り合て食せんとて料理し、有合たる大鍋にて煮たるとき、熟するに従ひてその肉夥しくふえ、鍋の蓋を内より持挙ぐ。これを見る者懼て食する意なく、その辺の小川に棄てたり。翌日見ればその川の下流まで、大小の魚悉く死し浮きしとぞ。この鳥もしくは鶏〈一種の毒鳥。その羽を浸した酒をのめば死ぬという〉ならん歟との説なり。(堀和州話、飯田侯)

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げで、漢文訓点附きであるが、それに従い、一部は読みや送り仮名を推定補訂して附し、書き下して示す。

「本草」、「集解」に、『時珍、曰はく、「按ずるに、「爾雅翼」に云はく、『鴆は鷹に似て、大きく、狀(かたち)、鴞(ふくろふ)のごとく、紫黑色、赤き喙(くちばし)、黑き目。頸(くび)の長さ、七、八寸。雄(をす)を「運日」と名づけ、雌は「隂諧」と名づく。「運日」、鳴くときは、則ち、晴れ、「隂諧」、鳴けば、則ち、雨(あめふ)る。蛇(へび)及び橡(とち)の實(み)を食ふ。木石(ぼくせき)に、蛇、有るを知れば、卽ち、禹步を爲して、以つて之れを禁(ごん)ずる[やぶちゃん注:対象物に呪術をかけることを言う。]に、須臾(しゆゆ)に、木、倒れ、石、崩れて、蛇、出づ。蛇、口に入(いる)れば、卽ち、爛(ただ)れ[やぶちゃん注:爛れて溶解することを言う。]、其の屎(くそ)・溺(いばり)[やぶちゃん注:尿。]、石に着(つ)けば、石、皆、黃爛(わうらん)す。飮水(いんすい)の處[やぶちゃん注:鴆が水を飲む水場は。]、百蟲、之れを吸へば、皆、死す。惟(ただ)、犀角(さいかく)を得(う)れば、卽ち、其の毒を解(かい)す。』と。又、楊亷夫(やうれんふ)が「鐵厓集(てつがいしふ)」に云はく、『鴆は、蘄州(きしう)黃梅(くわうばい)の山中に出づ[やぶちゃん注:現在の湖北省黄岡(こうこう)市のここに「橫梅山(こうばいざん)」(グーグル・マップ・データ)はある。]。狀(かたち)、訓狐(このはづく)に類(るゐ)す。聲、擊腰鼓(げきようこ)のごとし。大木の顚(いただき)に巢(すく)ふ。巢の下、數十步、皆、草、生ぜず。』と。」と。

■やぶちゃんの呟き

「信州飯島」現在の長野県上伊那郡飯島町(いいじままち:グーグル・マップ・データ)。

「本草綱目」の「鴆」の引用は、「漢籍リポジトリ」の同書の巻四十九「禽之三」の「鴆」の「集解」の当該部の電子化を参考に、影印本画像と校合した。静山の引用は[114-28a]の部分にある。なお、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん) (本当にいないと思いますか? フフフ……)」もリンクさせておく。二〇一九年のものだが、かなり注にリキを入れてある。

「堀和州」「飯田侯」可能性が高いのは、老中で信濃飯田藩第十代藩主堀親寚(ちかしげ 天明六(一七八六)年~嘉永元(一八四九)年)か。大和守なのは、この人物の前後の藩主たちも同じではあり、彼は静山より二十六も若いが、同藩の藩主では、飛び抜けて有名な人物であるので、彼を一応の候補とした。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「銀杏樹の天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 銀杏樹の天狗【いちょうのてんぐ】 〔北窻瑣談巻三〕寛政四年壬子《みづのえね》[やぶちゃん注:一七九二年。]四月の事なりし。山城国淀の北横大路といふ里あり。[やぶちゃん注:現在の京都府京都市伏見区横大路草津町(よこおおじくさつちょう:グーグル・マップ・データ)。]その村の庄屋を善左衛門といふ。その家の裏の藪際《やぶきは》に土蔵あり。土蔵の傍《かたはら》に大なる銀杏樹《いてふのき》あり。近年大風などふく度《たび》に、土蔵の瓦を下枝《したえだ》にて払ひ落しければ、善左衛門、杣《そま》をやとひ下枝を切払《きりはら》はせけるに、段々下より切りもてゆきけるに、やうやう上に登り、三ツまたの所に到《いた》りて、件《くだん》の三ツまたになりたる枝を切らんとせしに、俄かに陰風《いんぷう》吹来《ふききた》り、杣が首筋を何やら物ありて、つかむやうに覚えて、身の毛ぞつと立ちければ、杣大いに恐れて、急《きふ》に逃げ下り見るに、首筋元《くびすぢもと》の毛一つかみほど引《ひき》ぬきて、顔色《がんしよく》土のごとくになりたり。善左衛門も怪しみて、何事にやといふに、杣恐れて、天狗の住み給ふ所を切りかゝりし故にとぞ思はる。今少しおそく下らば、一命をも失はれんを、なほこの上の祟りもおそろしとて、俄かに樹木に神酒(みき)を備(そな)へ、罪(つみ)を謝(しや)し過(あやま)りをわびて、その日の賃銭(ちんせん)さへ取らで逃げ帰れり。その三ツまたの所は、甚だ清浄《しやうじやう》にて琢(みが)きたるやうに有りける。何さま神物《しんぶつ》の久しく住みける処にやと、善左衛門も恐れて、この銀杏樹を敬《けい》しける。この事、善左衛門親類の嘉右衛門物語りき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ)。

「過(あやま)りをわびて」上記原本では『過(あやま)ちをわびて』となっている。その方がいい。

「嘉右衛門物語りき」上記原本では『嘉右衞門物語なりき』となっている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「一夜の夢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 一夜の夢【いちやのゆめ】 〔反古のうらがき巻三〕むかし(文政の初年)ある人(小普請手代何某)王子《わうじ》の金輪寺《きんりんじ》に御用の事ありて行きし帰るさに、飛鳥山の麓へかゝりけるに、ふと琴三味線などの声の耳に入りしかば、どこなるやといぶかり、遠近《をちこち》尋ぬるに、とある出格子《でかうし》[やぶちゃん注:町家の一階の表の柱通りより、外に突き出した形式の格子。]ある家の、いと清らかなる内になんありける。はや誰(たそ)かれ時の頃なりしかば、人もあやしめじとて、格子のすきまより見いれしに、いとあてやかなる女ども三人四人、いづれもおもひおもひに琴・三味線・胡弓・笛などかまへ、打解《うちと》けたる様《さま》にて、外《ほか》にあるじめきたる男なども見えず、客らしき人もなし。女だちなどの、つれづれなるまゝにつどひ興ずるならめなど思ひて、かいまみし程に、やかてそばなる木戸くゞりの戸明《あ》きたる音のしけわば、あなやと思ひしに、ひとりの女子《によし》いでていふ様《やう》、君には鳴もののおと好み給ふや、宵はつれづれなるまゝに、友達打つどひて興ずるにぞ、外に心置き給ふ人もなければ、いざこの方へ入り給ひてよと、切にすすめければ、初めのほどはいなみしが、また窻《まど》の内よりも、ひとりの女子顔さしだして、とくとくといひければ、もとより好みし道なれば、さらば縁の片はし、しばしかし給はれとて入りしに、ありあふ酒肴とう[やぶちゃん注:「等」。]でて、なにくれともてなしするまゝに、三人の女子は隣りわたりのものにや、つい行てくるまゝ、かならず待ち給へとていにけり。残りし女いと打とけたる様《さま》にて、ふすまやうのものとう[やぶちゃん注:同前。]でて、頓《やが》て帰り侍らん、しばしがほどやすらひ給へ、わらはもねむたくなりぬなどいひて、しめやかに打かたらひ居けるに、頓て一人の女帰りきぬ。いとわりなく契り給ふものかな、あなうらめしなどいうてつい[やぶちゃん注:「そのまま」。]入りぬ。何条《なんでふ》させる事やあるべき、さいひ給ふ君こそはとて、さきの女子、またいづこへか行きける。帰り来し女子は、いと恨めしげなる有様にて、今迄何して居《ゐ》給ひしや、たばかられぬる事の口惜しやなどいひつつ、頓てまた浅からぬ契りをぞ結びける。おなじやうにて先にいで行きし女子ども、かはるがはるに帰りきたりて、つひには夜もふけぬ、今宵はこゝに泊り給ひてよとて打ふしぬ。夜明けぬれば、麦畑の内に人の打ふしたるは酔《ゑひ》だれ[やぶちゃん注:酔っ払いの意か。]にやあらんとて、あたりの人々おどろかせしに、やうやうに目の覚めたるおももちして、あたりを見れば、元の家居などもなく、麦畑の中なれば、さてさて狐のしわざにやと心付きしが、やうやうものいふばかりにて、起《おき》ふしも得[やぶちゃん注:呼応の不可能の副詞「え」の当て字。]かなはざりしかば、あたりの人々駕籠やとひて家にゐて行きぬ。漸《やうやう》気は慥《たし》かになれど、いかにも様子のあしければ、薬やあたへん、医師や招きけんとて打さわぐにぞ、ありし事どもつぶさにもの語りければ、狐のしわざにやあらん、いといぶかしなどいひはやすほどに、遂にその夕方にはかなくなりにける。これは近き世の事なれば、さだかに見聞きし人もありて、つばらに語りけるを聞きける。この人《ひと》見目形(みめかたち)きよらにて、年も漸三十ばかりにもやなりけん、常に姿容を自負せしが、凡て狐狸のみならず、人のたのむ心あれば、そのたのむところに乗じて、たぶらかさるゝこと常なり。つゝしむべき事にや。[やぶちゃん注:以下の部分は、原本では、続いていて、しかも二行割注でポイント落ちとなっている。]

 これに似たる事あり。麻布〈東京都港区内〉のあたりに、さる大きやかなる屋形《やかた》のうちに引入れられて、あまたの美人に交《まじは》り、つかれはてていねたるに、広尾のはらにあすの朝は打ふして居たりしものあり。諸人《しよにん》みなきつねのわざならんといひのゝしりける。さて人あまり不思議におもひて、ふたゝひこゝぞと思ふあたりをたづねけるに、ゆひまはせし垣のあや、松の木立、杉のかはにてふきたる小さき門など顕然として、夢うつゝにはなかりけり。これはおもき方の女の君の孀(やもめ)ずみしたるに、あたりにかゝるたはれ[やぶちゃん注:「戲男(たはれを)」。放蕩男。]ありて、跡をおほはんとて、広尾のはらへすてゝ狐と思はせたるなりける。すてらるゝさへ、うつゝにも覚えぬほどなれば、いかにつよくつとめたりけんか、人と交りては死せず、狐狸と交るものは死するは、賦禀《ふひん》の殊《こと》なるゆゑにや。

[やぶちゃん注:「反古のうらがき」儒者鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年:幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子で、天保一〇(一八三九)年に昌平坂学問所教授となった)の随筆。かの江戸学者三田村鳶魚が江戸時代の未刊随筆を集めた叢書である国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』(そはくじっしゅ)第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちらで正字の当該部が視認出来る。というか、私は既に二〇一八年に同書を総て「怪奇談集」で電子化注している。「反古のうらがき 卷之三 きつね」がそれである。

「文政の初年」文化元年。文化十五年四月二十二日(グレゴリオ暦一八一八年五月二十六日)に 仁孝天皇即位のため改元している。

「王子の金輪寺」現在の東京都北区岸町にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺の前身。旧金輪寺(但し、伽藍は江戸末期に焼失し、再建されず、廃仏毀釈で廃寺となった。現在の金輪寺は明治三六(一九〇三)年に旧地に近い今の場所で再興されたもの)は旧王子村の王子権現社の別当寺であり、同境内地内にあったものと思われる。グーグル・マップ・データで中央上部に現在の金輪寺をポイントし、右手下方に旧地であった王子神社を配した。

「飛鳥山」現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園がそこ。グーグル・マップ・データで中央下方に同公園をポイントし、左上方に王子神社境内の銀杏(いちょう)の木を配した。

「賦禀」「天賦」に同じ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「一目連」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 一目連【いちもくれん】 〔甲子夜話巻二十二〕『雑談集』曰く、勢州桑名に一目連と云ふ山あり。 (是《この》山の竜《りゆう》片眼の由、依《よつ》て一目竜と謂ふべきを、土俗一目連と呼び来れり。)この山より雲出る時は必ず暴風迅雨《じんう》す。先年この山の片目竜おこり[やぶちゃん注:怒(おこ)り。]、尾州熱田〈愛知県名古屋市熱田〉の民家数百軒を、大石を以て累卵を圧《お》すがごとく潰し、熱田明神の一鳥居大さ二囲《ふたかかへ》程あつて、地中へ六七尺埋め、十文字に貫《ぬき》を通したる故、幾千人にても揺《ゆるが》し難《がた》きを、この時その鳥居を引抜《ひきぬ》き、遙かの野へ持行《もちゆ》きたり。斯《かか》るすさまじき者なれば、この辺の者は何にても疾《はや》く倒ることを一目連といふ。尾勢の里言なり。世に一もくさんと云ふも、この転語《てんご》なり。〔斉諧俗談巻一〕伊勢、尾張、美濃、飛驒の四ケ国にて、不時に暴風吹来りて、大木を倒し巌(いはほ)を崩し、民屋を破る事あり。然れども唯一路(ひとすぢ)にして、他の所を吹かず。これを一目連と名付けて神風《かみかぜ》とす。則ち伊勢国桑名郡多度山に、一目連の祠をまつる。また相摸国にもこれに似たる風あり。鎌風と名付く。駿河国にも有り、悪禅師の風と名付く。土俗伝へて云ふ。この神の形、人の如くにして、褐色の袴《はかま》を著《ちやく》すと云ふ。 〔猿著聞集巻二〕伊勢国桑名<三重県桑名>より二里がほどへだたりて、香取といへるところあり。この香取より十余町酉戌《とりいぬ》[やぶちゃん注:西北西。]のかたにのきて、多度明神のみや居《ゐ》あり。こゝの別殿に一目連と申すあり。いにしへより近きわたりにわざはひのありつるときは、たちまちあらはれましまして、すくはせたまふことゝなんいひつたふめる。今よりはたとせまり[やぶちゃん注:ママ。]さきのことになん。みな月のなかばより、霖雨《りんう》[やぶちゃん注:長雨。]しきりにふりつゞきて、木曾川・伊尾川《いびがは》[やぶちゃん注:嘗て揖斐川の下流を、この字を宛てたとされる。]のながれはやく、水たかくなりもて行くからに、ちかきほとりの小川まで、やがてつゝみかきれくづれて、村々に水おしいりぬ。さは水いでつるよといふほどこそあれ、大いなる家などやがてみな押し流さる。人々は木のすゑによぢのぼりて、助けよ、船よと呼ばふこゑ、耳をつらぬき、たましひ消ゆるおもひなり。風はげしく雨つよく、たすけ舟さへこぎあへず、むなしく死するを待つのみにて、あはれにもまたおそろしかりき。かゝること二日になんおよびけるを、何ものかいひいでたらん、今や一目連のあらはれまして、すくはせたまふなるぞ、いのれいのれと打さけぶ。そのこゑごゑ水の面にひゞきわたり、かまびすしきばかりにぞありける。その夜なかばばかりより、たちまち水引《ひき》さりて、人々からき命をさへ助かりぬ。さはれ一目連の出現を見たりし人もなかりけり。

[やぶちゃん注:「一目連」私のものでは、

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十八)』

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(1) 多度の龍神』

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(2) 神蛇一目の由來』

で柳田の言及があり、私も拘って注を附してある。また、「鎌鼬」関連では、

「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」

の私の注で、本話の「斉諧俗談」の丸写しの部分を注で、概ね、正規表現で電子化してあり、比較的新しい私の注釈物では、

「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鎌鼬」

がお勧めである。この悪風には、いろいろ言い添えたいことがあるのだが、最後のリンク先がそれらを述べ、私の他の記事へのリンクもしてあるので、屋上屋はしないこととした。

「甲子夜話」の当該話は、事前に電子化注「フライング単発 甲子夜話卷之二十二 8 桑名に一目連と云ふ龍ある事」として挙げておいた。

「斉諧俗談」は大朏東華(おおひ(或いは「おおで」)とうか)の随筆。何時、刊行されたか不明だが、後編は宝暦八(一七五八)刊とするから、それ以前の出版である。但し、以上は、前のリンク先で電子化した「和漢三才図会」の「颶(うみのおほかせ)」の丸写しに過ぎないので、原本は示さない。

「猿著聞集」は「さるちょもんじゅう」(現代仮名遣)と読む。生没年不詳(没年は明治二(一八六九)年以降とされる)の江戸時代の浮世絵師で戯作者でもあった八島定岡(ていこう)が、鎌倉時代、十三世紀前半の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集 「古今著聞集」を模して書いた随筆。文政一〇(一八二七)年自序。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字の本文が視認出来る。

「香取」現在の三重県桑名市多度町(たどちょう)香取(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。

「多度明神のみや居」「の別殿に一目連と申すあり」現在の多度大社の境内のここに「別宮一目連神社」が現存する。同大社の公式サイト内のここに、『別宮一目連神社』として、祭神を『天目一箇神(あめのまひとつのみこと)』とし、『別宮御祭神、天目一箇神は、天之麻比止都禰命、天久斯麻比止都命とも申し上げ、御本宮主祭神天津彦根命の御子神である』。「古語拾遺」に『よれば、天目一箇神は、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖であり、岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造られたと記されている』。『また、大物主命を祀るときに作金者(かなだくみ)として祭祀に用いる物をお造りになられたとも伝えられ』、「日本書紀」の『一書(傍説)では、高皇産霊尊』(たかみむすひのみこと)『により』、『天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとも記されている』。『また、天目一箇神は御父神である天津彦根命と共に、天候を司る神とも仰がれ、古来より伝えられる雨乞祈祷では、御本宮と並び、別宮においても祭典が執り行われ、近世では伊勢湾での海難防止の祈願も多く捧げられた』。『また、当地方一円では、天目一箇神が御稜威を発揚される際、時に臨んで御殿をお出ましになると言い伝えられ、古来御社殿には御扉の御設けが無い』とあった。]

フライング単発 甲子夜話卷之二十二 8 桑名に一目連と云ふ龍ある事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号を加えた。]

22―8

 「雜談集(ざうたんしふ)」曰、『勢州桑名に「一目連(いちもくれん)」と云(いふ)山あり【是(この)山の龍、片眼の由。依(より)て「一目龍」と謂(いふ)べきを、土俗、「一目連」と呼び來れり。】。此山より、雲、出《いづ》る時は、必(かならず)、暴風、迅雨(じんう)す。先年、此山の片目龍、をこり[やぶちゃん注:ママ。「怒(おこ)り」。]、尾州熱田の民家、數百軒を、大石を以て、累卵(るいらん)[やぶちゃん注:積み重ねた卵。]を壓(おす)がごとく潰し、熱田明神の一鳥居は、大(おほい)さ、二圍(ふたかかへ)程あつて、地中へ、六、七尺、埋(うづ)め、十文字に貫(ぬき)を通したる故、幾千人にても搖(ゆるが)し難(がた)きを、此時、其鳥居を引拔(ひきぬき)、遙(はるか)の野へ、持行(もちゆき)たり。斯(かか)るすさまじき者なれば、此邊の者は、何にても、「疾(はや)く倒るゝこと」を、「一目連」と云。尾・勢の里言(りげん)なり。』【同上。】。世に「一もくさん」と云ふも、この轉語(てんご)なり。

■やぶちゃんの呟き

「雜談集」は林自見の随筆「市井雜談集」(しせいぞうたんしゅう)で、宝暦一四(一七六四)年刊。「東京大学学術資産等アーカイブズポータル」のこちらの「18」コマ目から原版本の当該部が視認出来る。

「一目連」(これは、中部地方の広域方言で、「旋風(つむじかぜ)」を指す語である)については、所持する「和漢三才図会」の原本を見るに、巻第三の「風(かせ)」[やぶちゃん注:清音はママ。後も同じ。]の項の部分立項である「颶(うみのおほかせ)」の寺島の附記の中に(原文を訓点に従って読み下す。但し、この条、他と比べても、異様に送り仮名や読みが少ない。従って、送り仮名の一部や読みの多くは、私が推定で歴史的仮名遣で附した)。

   *

△按ずるに、勢州・尾州・濃州・驒州、不時(ふじ)の暴風、至ること有りて、俗に之れを「一目連」と稱す。以つて「神風(かみかぜ)」と爲(な)す。其の吹くや、樹を拔き、巖(いはほ)を仆(たふ)し、屋(をく)を壊(こは)し、破裂されざる者、無し。惟(ただし)、一路(いちろ)にして他處(よそ)を傷つけず。勢州桑名郡多度山、「一目連」の祠(ほこら)有り。

相州に、之れを「鎌風(かまかぜ)」と謂ひ、駿州に、之れを「惡禪師(あくぜんじ)の風」と謂ふ。相傳(あひつた)へて云ふ、「其神の形、人のごとくして、褐色の袴(はかま)を着(ちやく)す。」云云。

蝦夷(ゑそ[やぶちゃん注:ママ。原本はカタカナ。])松前に臘月(らうげつ)[やぶちゃん注:旧暦十二月の異名。]、嚴寒、而(しか)も晴天、㐫風(きやうふう)[やぶちゃん注:「㐫」は「凶」の異体字。]有り、行人(みちゆきびと)、之れに逢ふ者は、卒然、倒-仆(たふ)れ、其の頭(かしら)・靣(おもて)、或いは手足、五、六寸許(ばか)り、創(きず)を被(かふむ)る。俗に「鎌閉太知(かまへたち)」と謂ふ。然(しか)れども、死に至る無し。急に萊菔(たいこん)[やぶちゃん注:大根。]の汁を用ひ、之れを傅(つ)くるときは、卽ち、癒ゆ。痕(きずあと)は金瘡(かなきづ)のごとし。津輕の地にも亦、間(まゝ)、之れ、有り。蓋し、極寒(ごくかん)の隂毒(いんどく)なり【此れ、「一目連」と似て、同じからず。皆、惡氣の風なり。】。

   *

因みに、この「惡禪師」は、平安末から鎌倉初期の僧で源義朝の七男にして源義経の同母兄、源頼朝の異母弟である知られた阿野全成の通称である。彼は、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺されたので、所謂怨みを持った「御霊」(ごりょう)である。

「尾・勢の里言なり」上記原本を見るに、ここは『尾州勢州の鄕談(きやうだん)』となっている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「一念」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 一念【いちねん】 〔世事百談巻三〕人は初一念《しよいちねん》こそ大事なれ。たとへば臨終一念の正邪《しやうじや》によりて、未来善悪の因《いん》となれる如く、狂気するものも金銀のことか、色情か、事にのぞみ迫りて狂《きよう》を発する時の一念をのみ、いつも口ばしりゐるものなり。ある人の、主命にて人を殺すはわが罪にはならずと云ふを、さにあらず、家業《かげふ》といへども殺生の報いはあることとて、庭なる露しげくおきたる樹《き》をゆり見よとこたへけるまゝやがてその木の下《もと》に行きて動かしければ、その人におきたる露かゝれり。さてその人云ふやう、怨みのかゝるもその如く、云ひつけたる人よりは、太刀取《たちとり》にこそかゝれといひしとかや。諺にも盗みする子は悪しからで、縄とりこそうらめしといへるは、なべての人情といふべし。これにつきて一話《ひとはなし》あり。何某《なにがし》が家僕《かぼく》、その主人に対し、さしたる罪なかりしが、その僕《ぼく》を斬らざれば人に対して義の立たざることありしに依りて、主人その僕を手討《てうち》にせんとす。僕憤り怨みて云ふ。吾さしたる罪もなきに、手討にせらる。死後に祟りをなして、必ず取殺《とりころ》すべしと云ふ。主人わらひて、汝何ぞたゝりをなして我をとり殺すことを得んや、といへば、僕いよいよいかりて、見よ、とり殺さんといふ。主人わらひて、汝我を取殺さんといへばとて、何の証《しよう》もなし、今その証を我に見せよ、その証には汝の首を刎《は》ねたる時、首飛んで庭石に齧《か》みつけ、夫《それ》を見ればたゝりをなす証とすべしと云ふ。さて首を刎ねたれば、首飛びて石に齧みつきたり。その後《のち》何のたゝりもなし。ある人その主人にその事を問ひければ、主人こたへて云ふ、僕初めにはたゝりをなして我を取殺さんとおもふ心切《せつ》なり、後には石に齧みつきてその験(しるし)を見せんとおもふ志《こころざし》のみ専《もは》らさかんになりしゆゑ、たゝりをなさんことを忘れて死《しし》たるによりて祟りなしといへり。<小泉八雲『術数』も同様>

[やぶちゃん注:「世事百談」「麻布の異石」で既注の山崎美成が天保一四(一八四四)年十二月に刊行した随筆集。全四巻。風俗習慣・故事・文芸・宗教・天象地誌・奇聞など、広範囲に及ぶ百三十八条から成る。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該条「○欺きて寃魂(ゑんこん)を散(さんず)」が正字で視認出来る。これはルビが多く附されてあるので、それで読みを補った。

「小泉八雲『術数』」私の「小泉八雲 術數 (田部隆次訳)」を見られたい。そちらでは、原拠を不詳として示していなかったので、注を追補した。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼬と蛇」・「鼬の怪」・「鼬の火柱」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。今回はイタチ絡みで三項を続ける。

 

 鼬と蛇【いたちとへび】 〔耳袋巻五〕寛政八辰の六月の頃、武州板橋〈現在の東京都板橋区〉より川越道中に白子村といへる有り。白子観音の霊場に、槻《つき》[やぶちゃん注:ケヤキの古名。]とやらん、また榎《えのき》とも聞きしが、大木《たいぼく》ありしに数千の鼬(いたち)集りて、右大木のもと末よりうろの内へ入りて、数刻《すこく》群れけるが、程なく右うろの内より、長さ三間ばかりにて、太さ六七寸廻りのうはばみのたり出て死しける故、土地の者ども不思議に思ひて駈け集りしに、鼬はいづち行きけん、皆行衛なし。さるにても如何なる訳なるやと、かのうろを改めしに、鼬の死したる一つありしとや。日頃かのうはばみの為にその類をとられしを恨みて、同物をかり集めてその仇《あた》を報ひけるかやと、彼《かの》村程近《ほどちか》き人の咄(はなし)しけるなり。

[やぶちゃん注:私の古い「耳嚢 卷之五 始動 / 鳥獸讎を報ずる怪異の事」を参照されたい。なお、本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。以下、「耳袋」とする箇所はママ注記を附した。

「鼬」食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela に属する多様な種群を指す。本邦在来種は四種七亜種ほどが棲息する。詳しくは、「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」の私の注を参照されたい。]

 

 鼬の怪【いたちのかい】 〔寓意草〕狐狸《くつねたぬき》ばかり化けるはあらず。諏訪わかさのかみが屋《やしき》の中に、白きまりのやうなるものゝ、まろびありくあり。はじめは人もあやしみ侍りけれど、後はさもあらず。また畳のおのれと上がる事あり。なほあやしみもせざりけり。ひと日《ひ》おもと人《びと》の、むすめの局《つぼね》へいきける。しきのうちのたゝみの、ふとあがりけるを、またよとてとびのぼりければ、きと鳴声しけり。みか[やぶちゃん注:三日。]計《ばか》りへて、なにとなくくさかりければ、牀引《とこび》きはなちてみたり。大なるいたちの、頭《かしら》ふみくだかれてありけり。三尺ばかりありけるとぞ。これよりまりごとはやみけり。もろこしには、犬や猿のばけることものにはべり。我国にはきゝ及ばずやあるらん。

[やぶちゃん注:前の「和漢三才図会」の注でも述べたが、江戸時代以前の民俗社会では、鼬は狐狸と並んで人を化かす妖獣と認識されていた

「寓意草」作者不詳。林笠翁なる人物の文化六(一八〇九)年の識語がある。国立国会図書館デジタルコレクションの「三十輻」の「第三」(大田覃編・大正六(一九一七)年国書刊行会刊)で活字に起こしたものがここで(右ページ下段後ろから四行目)視認出来る。この原本は、ひらがな表記部分が多い。一部はそれを元に読みを添え、どうも躓く箇所は勝手に当て訓をした。なお、以上の後に、鼠が馬の爪の内の肉を齧(かじ)る、人が鼠に噛まれたときには「しきみ」の葉を揉んで附ければ、治る、なんどとという話が続いているが、まずいね、仏事に用いられるお馴染みの樒(アウストロバイレヤ目Austrobaileyalesマツブサ(松房)科シキミ属シキミ Illicium anisatum )は全体に猛毒の神経毒を持っているからね。危険がアブナいよ。和名の由来も実が特に有毒なことから、「悪しき実」の「あ」が抜けて「しきみ」に転じたとされているほどだからね。

「おもと人」「御許人」。貴人のお側近くに仕える人。侍従。侍女。女房。

「しき」「敷」。「敷いてある畳」の意で採っておく。

「牀引き」寝床用に敷いた畳を引き上げて、その下を見たことを言う。或いは、その部分は床板と畳との間に浅い空間があったもののように読める。]

 

 鼬の火柱【いたちのひばしら】 〔塩尻巻五十二〕鼬(いたち)の火柱を立《たて》るとて、世に妖《やう》とする事あり。いたちは夜中樹上にのぼりて煙気《えんき》を起《おこ》し、また地上に柱の如く煙気を発する事あり。これをいふ。

[やぶちゃん注:「塩尻」江戸前期の尾張藩士で国学者天野信景(さだかげ 寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)歴史・神道・文学・有職故実・風俗・博物学に通じた人物として知られ、実証的な立場で多くの著述を残した)の膨大な随筆。百七十巻以上が現存すると考えられている。元禄一〇(一六九七)年頃から没年まで書き続けられたもので、実際の原本は一千巻に及んだものとも伝える。著者は尾張(おわり)藩士で、博学の国学者として知られ、その合理主義的学風は、吉見幸和ら当代の尾張の学者や文人に留まらず、平田篤胤らにも大きな影響を与えた。本書は、有職故実を中心に広範囲な分野に亙る和漢の典籍や自己の見聞を抄録し、自ら、それらを考証・論評したもので、著者自身が「人の見るべきにあらず、只(ただ)閑暇遺忘に備ふ」と記しているように、その草稿は反故紙などに書き散らしたもので、散逸が甚だしく、完本はないが、天明二(一七八二)年に名古屋の書林西村常栄が出版の目的で編集した百巻本の他、数種の写本が伝わる(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ下段二行目)から正字で視認出来る。

「煙気」上記原本では前者は「焰氣」となっており、後者は「煙氣」である。宵曲は誤記としてともに「煙」としたか。だとすると、私は一寸疑問である。先の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」の本文で、寺島は以下のように述べている。

   *

△按ずるに、鼬、其の眼、眩(かがや)き、耳、小さく、吻(くちさき)黒く、全體、黃褐色。身、長くして、柔かく撓(たをや)かなり。小さき隙(すき)・竹の筒と雖も、反轉して出でざるといふこと無し。能く、鳥・鼠を捕へて、惟だ、血を吮(す)ひて、全く、之れを食らはず。其の聲、木を輾(きし)る音のごとし。群鳴すれば、則ち、以つて不祥[やぶちゃん注:不吉の前兆。]と爲す。或いは、夜中、熖氣、有りて、高く升(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで、「火柱(ひばしら)」と稱す。其の消へ[やぶちゃん注:ママ。]倒るゝ處、必ず、火災、有りといふは、蓋し、群鼬、妖を作(な)すなり。

   *

と述べており、ただの霞か雲かのような怪しい「煙」だけでなく、実際の火災を引き起こす火「焔」を立ち上げると述べているからである。ウィキの「イタチ」の「伝承」を見られたいが、そこでも、『日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた』「和漢三才図会」に『よれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を』、六『人で臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという』。『また』、『キツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという』。『鳥山石燕の画集』「画図百鬼夜行」(安永五(一七七六)年刊行)『にも「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり』(画の右手上方に『○鼬』とあり、その「鼬」の字に『てん』と読みを振っている。同ウィキには当該画も掲げられてある。)、『イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている』。『別説ではイタチが数百歳を経ると狢になるともいう』とある。なお、言い添えておくと、私自身、江戸時代の妖怪画集を十冊以上所持しているが、私は戦後の妖怪の映像イメージとその様態が水木しげる(個人的には偏愛する作家ではある)氏の絵と解説によって、圧倒的に正統化・固定化してしまったとのと同様、江戸時代の妖怪のイメージも鳥山石燕やその他の知られた妖怪画家によって、同じように固定化限定化されてしまい、本来あったはずの多彩な様態(おどろどろしくもあり、滑稽でもある)や異なった多数の諸伝承が隅に追いやられてしまい、江戸の、土俗性を失った漂白された、恐いけれど、ちょいと恰好いい都市伝説と成り下がった感があるようには思うのである。

2023/08/12

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「異人異術」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 異人異術【いじんいじゅつ】 〔事々録巻二〕尾州犬山〈現在の愛知県犬山市〉の酒屋、この春〈弘化四年[やぶちゃん注:一八四七年。]〉深夜に異相の人来て酒を乞ふ。与ふるに升にて数石を干す。只者ならざるを知りて心よく与ふ。異人言ふ。五口に数石の酒を与ふ。何なりと望めよといふ。酒屋言ふ。望める事なし、只うれふるは近き頃、妻をうしなへり、これのみ望みなりと言ふ。異人だくして去る。その後また深夜来り、懐《ふところ》よりちひさき人を出して言ふ。これ約束の爾《なんぢ》が妻なりというて去るに、この小人《こびと》見る見る大きくなり、常の女となり、只つかれたるおもむきなれば、寝かしけるに、翌朝起出てぼうぜんたり。くはしく問ふに及び、吾は江戸新川《しんかは》の酒屋何某の娘なりと名のる。よりて江戸ヘこの事を問合すに、月初《つきはじめ》に行方なくなりしとぞ。これは鼻高き人[やぶちゃん注:天狗。]なんどの仕業《しわざ》ならん、つれ行きてあたへたるは神の縁結べとの事ならんに、いなむべからずと終《つひ》に夫婦となれりとぞ。

[やぶちゃん注:「事々録」天保二(一七八二)年から嘉永二(一八四九)年に至る十九年間の風聞雑説を収録した随筆。著者の姓名は不明だが、大御番を務めた人物の筆になることの証があるという(以下の解題に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊随筆百種』第六(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで正規表現の当該部を視認出来る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「石の中の玉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 石の中の玉【いしのなかのたま】 〔譚海巻七〕寛政二年閏二月、江戸中橋五りん町〈現在地不明〉重兵衛と云ふもの家にて、王をとり出したる事有り。この重兵衛家に飯櫃がたの石有り。鼠色にて筋通りてある石なり。近所の鮓《すし》作るものの桶のおしになどかしやり、用なき時は縁の下へおし入れ置きたる事も、年久しき事なりしに、その舎弟なる者、徒(いたずら)ものにて、何心なく真木割斧(まきわり《をの》)にて、この石を扣(たた)きたるに、石二ツにわれて、中に茶碗ほどなる丸き玉《ぎよく》ありし取出したるなり。玉の形は玉子の色にして、甚だ色も滑らかなる体《てい》なり。石のわれたるをみれば、蘊《つつみ》てありし所は、別に蠟《らう》など引きたるやうにすべらかにして、その囲(まわり)も滑らかなる石にてありけるとぞ。やがて官へ訴へつゝ、この玉をもさし上げける。その後いかゞなりけんしらず。〔退閑雑記後編巻二〕寛政九の年[やぶちゃん注:一七九七年。]、備前児嶋〈岡山県倉敷市〉の榧ケ原となんいふ所にて、豪民石がきつくらせけるとき、石工巨石を割りければ、中より玉二ツ出《いで》たり。一ツは六寸まはり、一つはその半ばほどなりけり。石工怪しみ、小なるをば打《うち》くだきけり。大なるをばその豪民のわらはべのもてあそびとなしけるを、かの古松軒〈古河辰、備中の人〉聞きつたへて見たるに、げにも璞玉《はくぎよく》[やぶちゃん注:磨きをかけていない宝石を言う語。]にて、白き粉にて塗りたらんやうに見えしを、暗室へ投ずれば、方四五寸ほどはよく照らして、文字さへ見ゆるばかりなり。夜光の玉ともいふべきものを、はじめて見しと言ひこしたり。今は領主の蔵《ざう》になりたり。この頃領主ヘ乞ひて、その玉を見侍りしが、その玉にはあらぬにや、古松軒が言ひしとはたがへり。

[やぶちゃん注:前者は、事前に「譚海 卷之七 江戶中橋五りん町にて石中に玉を得し事」を正規表現でフライング公開しておいた。

「備前児嶋」「岡山県倉敷市」「榧ケ原」岡山県倉敷市真備町(まびちょう)上二万(かみにま)に「萱原(かやはら)公会堂」があるが(Mapion。地図有り)、この附近の旧地名か。

「退閑雑記」松平定信の随筆。全十三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十四巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)で正規表現の当該部がここから視認出来る。

「古松軒」「古河辰、備中の人」地理学者で旅行家の古川古松軒(こしょうけん 享保一一(一七二六)年~文化四(一八〇七)年。名は正辰。本姓は橘。 贈正五位。岡田藩に生まれ、中年期より、日本各地を旅し、「西遊雑記」・「東遊雑記」等の紀行を著し、また、絵図を作製した。晩年、江戸幕府に命ぜられ、江戸近郊の地誌「四神地名録」を編纂している。また、彼の紀行文は「奥の細道」等、故人の足跡を辿り、名所を歌に詠むような従来の文学志向的な旅行から、一線を画し、旅先で、自ら実見・体感したままを記述し、近代的な地理学・民俗学的考察を成そうとする点に特色がある。]

譚海 卷之七 江戶中橋五りん町にて石中に玉を得し事 /(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 寬政二年閏二月[やぶちゃん注:一七九〇年三月十六日から四月十三日まで。]、江戶中橋五りん町重兵衞と云ふもの家にて、玉(ぎよく)をとり出(いだ)したる事、有り。[やぶちゃん注:この町名は未だ嘗て聴いたことがない。不詳。]

 この重兵衞家に、飯櫃(めしびつ)がたの石、有り。鼠色にて、筋(すぢ)、通りてある石なり。

 近所の鮓(すし)作るものの、桶の「おし」になど、かしやり、用なき時は、緣(えん)の下へ、おし入置(いれおき)たる事も、年久敷(としひさしき)事なりしに、其舍弟なる者、徒(いたづら)ものにて、何心なく、眞木割斧(まきわりをの)にて、この石、扣(たた)きたるに、石、二ツに、われて、中に茶碗ほどなる、丸き玉ありしを取出(とりいだ)したるなり。

 玉の形は、玉子の色にして、甚(はなはだ)、色も滑らかなる體(てい)なり。

 石のわれたるを、みれば、蘊(たくはへ)てありし所は、別に、蠟など、引(ひき)たるやうに、すべらかにして、その圍(まはり)も、滑らかなる石にてありけるとぞ。

 やがて、官へ訴へつゝ、此玉をも、さし上(あげ)ける。その後、いかゞ成けん、しらず。

[やぶちゃん注:私は鉱物に疎いので、包んでいた岩石も、中から出た玉石も、何かは指示出来ない。悪しからず。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「石燈籠の夢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 石燈籠の夢【いしどうろうのゆめ】 〔諸国里人談巻二〕相摸国小田原<現在の神奈川県小田原市内>の寺に星霜ふりたる石燈籠一基、藪中《さうちゆう》にあり。元禄年中、当所の天守経営の砌《みぎり》、江戸神田の棟梁北村何某工ㇾ之《これをたくむ》。よつて此所に暫く足をとゞむ。左官棟梁弥三郎といふもの、この燈籠を見出し、大棟梁に告げて云ふ。比類なき異風の燈籠なり、これを得られかしとなり。これに因り住憎にこれを乞ふに、とても藪中に埋れたるもの、いと心やすしとて頓《とみ》に附属したり。人々よろこび、普請小屋に運び入れて、笠・火袋・竿台ひとつひとつに箱を調へ、隈々は藁を以て損せざるやうに補ひ、菰筵(こもむしろ)を以て箱を覆ひ、荷作りて船出しだいに江戸へ運送せん事をはかる。一夜下部《しもべ》の者、大熱して狂気の如く、云ふ事皆燈籠の事なり。何ゆゑに吾が印(しるし)を他国へ送るなる、此事とゞまらずば祟りあるべしとなり。人々驚き急ぎ元の所へ返してげり。住憎問うて云ふ、この燈籠何ゆゑ用に立たざるや。よつてしかじかの事をかたる。さては思ひ合《あは》する事あり。以前に二三所より所望のありて送りけるに、五三日経てたゞ何となく返しぬ。しだいを聞かざれば、何心なく過ぎたり。さだめていかめしき人の印ならんと、その後はいづれにも送らず。今にありとぞ。(寺号追つて考ふべし)墳に樹を栽ゑ、五輪石塔を立つるは、その霊をこれにとゞむるの理あり。この燈籠も巫石、殺生石のごとく、その精霊とゞまりけるにや。

[やぶちゃん注:既に「諸國里人談卷之二 石燈籠」で精注してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「石臼の火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 石臼の火【いしうすのひ】 〔翁草巻五〕越後国三条村<現在の新潟県三条市内>と云ふ所の百姓の庭に臼あり。この石臼の穴より風吹き出《いづ》る。この風に火を付《つく》れば、よく燈りて用事を弁ず。竹の筒にて、かの火をとれば、その内を通ひて、火幾つかにも移る。近所の女ども、夜の手業《てわざ》をせんとて、かの家へ集り、この火を借《か》るなり。またあふぐ消せば消え、また火を付れば燃ゆるなり。按ずるにこの家の下《した》泥にて、その泥の油より風出《いづ》ると見えたり。その所以《ゆゑん》は、同国の中に大泥《おほどろ》の池あり。高田<現在の新潟県高田市>より北国海道を三里行けば荒井なり。荒井より三里川手に別所と云ふ所有り。この村の池水の上へ、油の湧き上る事夥《おびただ》し。その油を汲み取りて、土器に入れ、銘々が家に燈すなり。これ則ち油の運上を出《いだ》して燈す事なり。然《しか》ればかの火も其の如く油気《あぶらけ》より生ずる風《ふう》なるべし。さりながら油の匂ひ、えもいはれぬ悪臭のありとなん。それを見たる人の物語りなり。されば越後の内には、井《ゐ》の内より潮《しほ》出で、その水にて塩を焼く所あり。また奥州には石を割《わり》て薪《たきぎ》とし、土を干乾《ほしかは》かして薪とする所も有りとぞ。

[やぶちゃん注:これは、先に私の古い「北越奇談 巻之二 古の七奇」を読んで貰い、そこに添えられた、かの北斎の筆になる挿絵(キャプションは「入方村 火井の図」)を見るのが、順序がいいと存じまする。

「翁草」(おきなぐさ)は俳人で随筆家神沢杜口(かんざわとこう 宝永七(一七一〇)年~寛政七(一七九五)年:諱は貞幹。杜口は号。京の入江家に生まれたが、享保五(一七二〇)年に京都町奉行所与力神沢弥十郎貞宜の養子となった(後に彼の娘を妻とした)。後を継いで同じく与力を勤めたが、四十過ぎで、病弱を理由として辞職し、婿養子に継がせ、自身は文筆活動に専念した)の前編・後編を合せて全二百巻からなる膨大な随筆。当該ウィキによれば、『蔵書や、先行文献、風聞や自身の見聞・体験を元にした、厖大な諸資料からの抜粋・抄写を含む編著』で、『諸資料からの抄写に杜口自身の批評や解説が加えられているものも多い』とある。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」(一~十巻分分冊・池辺義象校・明三八(一三〇五)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。

「現在の新潟県三条市」といっても、広過ぎる。旧三条村は恐らく、「ひなたGPS」の戦前の地図の『三條町』の町域(三条市街地区を中心とした部分。南には『三條町飛地』も確認出来る)であろうと推定する。

「高田」現在は上越市内(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「荒井」現在の上越市牧区荒井であろう。

「別所」ここに別所川が流れる。「ひなたGPS」で当該地を見ると、地名として「別所」の集落が確認出来た(左下方)。しかも、前の牧区荒井も「荒井」と書かれてある(右上方)。而してその地図を引くと、高田市街地と、この二箇所は、高田市街地の南東外と正三角形様位置にあって、叙述と整合するのである。

「越後の内には、井の内より潮出で、その水にて塩を焼く所あり」会津にあることは知っていたが、今回、「たばこと塩の博物館」公式サイト内の『たばこと塩の博物館だより』の『第15回 ~「移動」をともなわない塩適応(その2)』に、『【10】新潟県越後三島郡、魚沼郡の山中』で『近世には、製塩が行われた記録がある』とあった。私の「諸國里人談卷之一 塩の井」を参照。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「三」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 佐々木喜善君が書かれた近江の栗の大木の話(『閑話叢書』の内、「東奧異聞」參照)は予には耳新しいが、是は「今昔物語」の最末語に、「近江國栗太郡《くるもとのこほり》に大きなる柞(はゝそ)の樹、生《おひ》たりけり。其圍《めぐり》五百尋《ひろ》也。然れば其木の高さ、枝を差《さし》たる程を、思い遣るべし。其影、朝には丹波國に差し、夕《ゆふべ》には伊勢國に差す。霹靂《へきれき》する時にも、動かず。大風、吹く時にも、搖《ゆる》がず。而《しか》る間、其國の志賀・栗太・甲賀《こうか》三郡《さむぐん》の百姓、此木の、蔭を覆ふて、日、當たらざる故に、田畠を作り得る事なし。此《これ》に依《より》て其郡々《こほりこほり》の百姓等《ら》、天皇(てんわう)に、此由を奏す。天皇卽ち掃守宿禰(かにもりのすくね)□□等を遣《つかは》して百姓の申すに隨《したがひ》て此樹を伐倒《きり》してけり。然《しか》れば、其樹、伐倒して後ち、百姓、田畠を作るに、豐饒《ぶねう》なる事を得たりけり。彼《かの》奏したる百姓の子孫、今に其郡々に在り。昔は、此(かゝ)る大きなる木なむ有《あり》ける。此れ、希有の事也となむ語り傳へたるとや」と有りて、何帝の御時と明示せず。「先代舊事本紀」には、景行天皇四年春二月甲寅、天皇幸箕野路、經淡海、一枯木殖梢穿空入空、問於國老、曰神代栗木、此木榮時、枝並於山嶽、故並枝山(ひゑのやま)、又並聯高峰、故曰並聯山(ひらのやま)、每年葉落成土、土中悉栗葉也云々〔景行天皇四年の春二月の甲寅(かのえとら)に、天皇(すめらみこと)、箕野路(みのぢ)に幸(みゆき)す。淡海(おうみ)を經(す)ぐるに、一つの枯れ木より殖(お)ひし梢は、空(くう)を穿(ぬ)きて、空(そら)に入る。國老に問ふに、曰はく、「神代の栗の木なり。此の木の榮ゆる時は、枝は嶽(がく)に並ぶ。故に「並枝山(ひえのやま)」といふ。又、並びて、高き峰に聯(つら)なる。故に「並聯山(ひらのやま)」と曰ふ。每年、葉、落ちて、土と成る。土中、悉く、栗の葉なり。」云々〕とあるが、これは有名の僞書で、「和漢三才圖會」六一に、按燃土江州栗本郡[やぶちゃん注:ママ。]【石部・武佐、二村邊。】、掘山野取之、土塊黑色、帶微赤、以代薪亦臭【石炭者石類也與此而不同。】、理似腐木而硬、亦非石也、越後【寺泊柿崎二村交。】亦有之、相傳、昔神代有栗大木、枯倒埋地亘數十里、因其處名栗本郡、故有此物也、然越州亦有之、則恐此附會之說也、日本紀云天智帝七年越後獻燃土與燃水者是矣。〔按ずるに、燃土(すくも)は、江州栗本郡【石部・武佐二村が邊り。】にて、山野を掘りて、之れを取る。土塊(つちくれ)は、黑色にして、微赤を帶ぶ。以つて薪(たきぎ)に代ふ。亦た、臭(くさ)し【石炭は石類なり。此れとは同じからず。】理(きめ)は腐木(くちき)に似て、硬く、亦、石に非ざるなり。越後にも【寺泊・柿崎二村の交(かひ)に。】亦、之れ、有り。相傳ふ、「昔、神代に栗の大木有り、枯れ倒(たふ)れて、地に埋(うづ)むること、數十里に亘(わた)る。因りて、其の處を『栗本郡』と名づく。故に、此の物有り。」と。然れども、越州にも亦、之れ有るときは、則ち、恐らくは、此れ、附會の說ならん。「日本紀」に云ふ、『天智帝七年、越後より燃ゆる土と、燃ゆる水とを獻ずるといふ者は是れなり。〕と見える如く、栗本郡の名と、其地に、泥炭を出《いだ》すより、昔しは「柞」と傳へしを、「栗」として捏造した說だ。

[やぶちゃん注:「東奥異聞」は坂本書店の『閑話叢書』の一冊で、佐々木喜善が奥州で採集した民譚集。大正一五(一九二六)年三月刊。当該部は新字新仮名だが、国立国会図書館デジタルコレクションの一九六一平凡社刊『世界教養全集』第二十一巻ここ(「巨樹の翁の話」の「一」右ページ上段の後ろから九行目以降)で視認出来る。「青空文庫」で同刊本で電子化されているので、そちらの方が読み易い。それを原本と確認しつつ(漢字の一部が一致しないので訂した)、掲げる。最後の三つの注は原本では、一字下げポイント落ちで二行目に及ぶところは二字下げであるが、完全に引き上げて本文と同ポイントとした。頭の章番号「一」は外した。

   *

 樹木伝説のうちに、ある巨樹を伐り倒そうとするにあたりその伐り屑が翌日になれば元木に付着していて、どうしても伐り倒すことができなかったが、ある事よりその樹木のために悩まされているものの助けによって伐り倒し成功するという伝説が諸所にある。いまその伝説をわが奥州地方に求めると、自分の手近にある東奥古伝という写本に、稗貫郡高松(1)という所の山に、高松という孤松一樹ありその高さ虚空に聳え重葉四隣を蔽うた。この樹の精霊、時の帝闕[やぶちゃん注:「ていけつ」。宮廷。]を犯し奉りしによって、勅宣下って伐り倒したとの言伝えであるが、時代さらに確かならずと書いてある。この書の著者は、元祿の初めころに奥州に下り花巻城主北氏に寄寓していた京都の画家松井道円(2)という者で、こういう奥の口碑を写しながらも心が故山に馳せていたとみえて、この文のくだりに下のような付説を録している。[やぶちゃん注:以下が、熊楠が指示しているもの。]いわく、ある説にいう人皇十二代景行天皇六十年十月、帝御悩ありて甚だし、ある者は諸寺諸山に祈禱あり医術を尽くすといえどもさらにそのしるしなし、ここに一覚といえる占い者があって彼を召して卜筮をなさしむるにいう、これより東にあたりて大木あり、その木の精霊帝を悩まし奉る。はやくその木を退治せられなば、御悩すみやかに平安ならんと奏す。ここによってその木を尋ねみるに、近江の国に一郡を蔽えるクリの木あり枝葉九里四方にはびこり、その木の囲み数十丈、これぞ尋ぬる木なるべしとて人夫を催し毎日これを伐らしむるに、夜になればその伐り屑合して元のごとくになっている。毎日伐りても右のとおりなので、ここにおいてまたかの一覚を召し出して相談をかけると一覚申すよう、伐るところの屑を毎日焼き捨てたならばかならず伐り尽くさん、われはこれ、かの木に敵対するカツラの精なり、数年彼と威を争うこと久し、その志いま帝にさし向かい奉るとて搔き消すようにその姿は失せにけり。そこで一覚が申すとおり木屑を焼き捨てやっと七十余日かかって、その木を伐り倒したので、かくて帝の御悩御平癒ましましければその樹の生いありし所を名づけて栗田郡と号しけるとなん。……と著者はいってからまたさらにあれと同型同様の伝説はこのほかに、刈田郡、槻郡(3)といえる地方にもありと付記している。

 松井という人は昔の人だから、この近江のクリの木の伝説はなんという本にあることかその出所を明らかにせなかったが、けだしこれは有名な話であろう。奥州の山村には大図書館がないので古典に拠ることが能わぬからこの話の穿鑿はこのまま放っておき、そのかわりに同種同式の新しい話を左におみやげにする。

 

(1)岩手県稗貫郡矢沢村字高松、いまその跡に一祠堂あり。

(2)この京都の画家、奥州花巻城の松の間、葉の間の絵を書きしをもって有名なる人。

(3)宮城県の磐城国の苅田郡[やぶちゃん注:「かったのこおり/ぐん」と読む。]ならん、槻郡というはいまその類書もたぬから自分にはわからず。

   *

熊楠は「予には耳新しいが」と言っているが、ここには熊楠特有のイヤミが示唆されている。「君は『けだしこれは有名な話であろう』なんどと、無批判に言っておるが、出典は明らかじゃないいだろ! さればこそ、この松井道円が勝手に作話した部分があるんじゃねえのか?」と言いたいのだ。しかし、これに就いては、次の「四」で捏造の証拠を熊楠はしっかりと示してはいる。イヤミの言いっぱなしではない。「今昔物語集」の掉尾にあるそれは、「卷第三十一 近江國栗太郡大柞語第三十七」(近江國(あふみのくに)栗太郡(くりもとのこほり)の大柞(おほははそ)の語(こと)第三十七)。読みは、所持する小学館『日本古典文学全集』の「今昔物語集四」(昭和五四(一九七九)年第四版)に拠った。人名部分に欠字があるのを熊楠は略しているので、□で補塡した。以下の注でも同書を参考にした。

「栗太郡」同全集の頭注に、「大日本地名辞書」を引き、『西は湖水及瀬田川を以て滋賀郡と相限り、東は甲賀郡、北は野洲郡に接す』とある。明治期のものだが、当該ウィキの地図で確認出来る。但し、後の「東海道名所図会」で引く「灰塚山」が、その伐採した柞の木の灰で出来たとあり、その山は現在の滋賀県栗東(りっとう)市下戸山(しもとやま)のこの「灰塚橋」交差点の北部分(名神高速道路との間。山の高速を挟んだ北西に「灰塚池」もある)が、そこである(グーグル・マップ・データ航空写真)。灰塚橋の対岸から見たストリートビューもリンクさせておく。

「柞(はゝそ)」ブナ目ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata の古名。

「五百尋」「尋」は身体尺で両手を左右に広げた伸ばした長さで、概ね六尺=一・八メートルとされるので、九百メートル。文字通り、天を突き抜けるような、超巨木ということになる。この木ではないが、後に本文でも出る「筑後国風土記逸文」に載る「楝木(あふちのき)」(ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の別名(オウチ))は実に「九百七十丈」(二千九百三十九メートル)あったとある。

「掃守宿禰」「掃守」は「掃守寮」の役人。宮内省に属し、宮中の掃除・設営を司った。「宿禰」は「八色(やくさ)の姓(かばね)」の第三位。

「先代舊事本紀」は、この熊楠の引用した部分を国立国会図書館デジタルコレクションの同書では発見出来なかった。同書については、当該ウィキを見られたい。偽書説も詳しく記されてある。さても、仕方がないので、訓読は「選集」に拠った。

「箕野路」美濃路か。

「淡海」琵琶湖。

『「和漢三才圖會」六一に、按燃土江州栗本郡石部武佐二村邊、……』所持する原本で確認したが、熊楠の引用は甚だ不全で、腹が立ったので、大きく増補して、「燃土(もゆるつち) すくも」の項の本文を完全に収録し、二行割注は【 】で示した。訓読も原本の訓点に拠った。]

 「今昔物語」の文も、「日本紀」に、景行帝十八年『秋七月』、『到筑紫後國御木居於高田行宮、時有僵樹長九百七十丈焉、百寮踏其樹而往來、時人歌曰』云々、『爰天皇問之曰是何樹也、有一老夫曰、是樹者歷木(くぬぎ)也、甞未僵之先、當朝日暉、則隱杵島山、當夕日暉、亦覆阿蘇山也、天皇曰、是樹者神木、故是國宜號御木國。〔『秋七月』、『筑紫の後國(みちのしりのくに)、御木(みけ)に到りて、高田の行宮(あんぐう)に居(まし)ます。時に僵(たふ)れたる樹(き)有り。長さ、九百七十丈(ここのほつおうぇあまりななそつゑ)なり。百寮(ももちのつかさ)、其の樹を踏(ほ)むで、往來(かよ)ふ。時の人、歌いて曰く』云々。『爰(ここ)に、天皇(すめらみこと)、問ひて曰(のたま)はく、「是れ、何の樹ぞ。」と。一老夫(ひとりのおきな)有りて曰(まう)さく、「是の樹は歷木(くぬぎ)なり。甞(むかし)、未だ僵れざる先(さき)に、朝日の暉(ひか)りに當たりては、則ち、杵島山(きしまのやま)を隱しき。夕日の時に當たりては、亦、阿蘇山を覆(かく)しき。」と。天皇、曰(のたま)はく、「是の木は神木(あやしきき)なり。故(か)れ[やぶちゃん注:だから。]、是の國を宜しく『御木國(みけのくに)』と號(なづ)くべし。』と。〕と有るを沿襲したらしく、「舊事本紀」、亦、同樣と見える。「東海道名所圖會」、亦、近江の目川《めかは》と梅木(うめのき)の間(あひだ)に、古え[やぶちゃん注:ママ。]、大栗の樹有り。朝日に影を湖南に宿し、夕日には伊勢路に移す。爲に、數十里が間だ、農事を營み得ず。朝廷、命じて、之を伐り、燒き盡した灰で、「灰塚山(はひづかやま)」てふ山が出來た、と記す。「近江輿地誌略」四一には、『此山、栗太《くりもと》郡川邊村にあり。高さ二十間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]許り。掘[やぶちゃん注:底本「堀」。訂した。]れば、悉く、灰也と云ふ。』と載す。――爰までは單に大木の話だ。(二月七日稿)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」で補った。「日本書紀」の原文は信頼出来るネット上のものと校合し、訓読は概ね、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 中卷」(昭和六(一九三一)年岩波文庫刊)の当該部に従った。原文は随所に省略があるため、特異的に『 』を添えた。

「筑紫後國」筑後国。

「御木」「高田行宮」福岡県大牟田市歴木(くぬぎ)にある高田行宮伝承地(グーグル・マップ・データ)。旧三池炭鉱にごく近いことが判る。

「歷木(くぬぎ)」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima

「杵島山」一山ではなく、佐賀県南西部にある丘陵性の杵島山地を指す(グーグル・マップ・データ航空写真)。

『「東海道名所圖會」、亦、『近江の目川と梅木の間に、……』秋里籬島著のベストセラーの当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの一九七六年日本資料刊行会刊のここで視認出来る。読みは、それに従った。

「近江輿地誌略」原本に当たれなかった。

 以下、注記で、底本では全体が一字下げでポイント落ちだが、総て引き上げた。一行空けはママ。]

 

 藤澤氏の『日本傳說叢書』「和泉の卷」に、「泉のひびき」を引《ひき》て、泉南郡新家《しんげ》村兎田《うさいだ》の兎才田川《うさいたがは[やぶちゃん注:清音は参考原本のママ。]》の西に、昔し、大木あり[やぶちゃん注:底本「なり」。「選集」で訂した。]。其影、朝日に淡路島に到り、夕日には高安山《たかやすやま》を越ゆ。之を伐《きり》て船とし、いと速く走つたので、舟を「輕野《かるの》」と名づく云々、其木の跡、今も存す、とある。(大正十一年六月『土の鈴』一三輯)

[やぶちゃん注:最後の書誌は「選集」で補った。以上の引用は例によってかなり杜撰。国立国会図書館デジタルコレクションの藤沢衛彦編(大正九(一九二〇)年日本伝説叢書刊行会刊)のここから視認出来るので、そちらを必ず読まれたい。この記紀に載る伝承、私はとても好きな話で、見られれば判るが、続きがあって、船が老朽した後、その船材を塩焼きに使ったが、燃え残った材があったので、それで琴を作ると、その音(ね)は七里四方に響き渡ったというのである。この「輕野」は「枯野」(からの)の訛りとされる。高速を出せた船も、遠くにまで響き渡った琴も、名は「枯野」であった。

「泉南郡新家村兎田の兎才田川」大阪府泉南市兎田(うさいだ:グーグル・マップ・データ)。「兎才田川」は不詳。同地区を抜ける川は「樫井川」(かしいがわ)であるが、その旧称か、当該流域での部分川名かも知れない。

「高安山」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「池の満干」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 池の満干【いけのみちひ】 〔煙霞綺談巻四〕三河国江比間(えびま)〈愛知県渥美郡渥美町内〉といふ所は、海辺《かいへん》の山際《やまきは》にて、一段高き地面の村なり。松林山南岑寺《せうりんざんなんぎんじ》といふ寺の境内に、方半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかりの池あり。この池水、海中潮の満盈《まんえい》する時刻《じこく》には、一滴《いつてき》も水なくして、干汐《ひしほ》になればそろそろと涌き出《いで》て、汐のそこりには満々として元の池水《ちすい》となる。この寺近代《きんだい》西の里のはずれに移し、池は田となりて今にあり。池水の盈虚《えいきよ》むかしに変らず。

[やぶちゃん注:読みの一部は吉川弘文館『随筆大成』版で補った。「煙霞綺談」は全四巻で、遠州金谷(かなや)宿(現在の静岡県島田市金谷本町)の出身の俳人西村白烏(はくう)の主に三河附近の実話巷談を記した随筆。西村は京の儒者新井白蛾に易を学び、蕉門の中川乙由門の佐久間柳居に俳諧を学んだ。同郷の林自見が自分が書いた「市井雑談」の続篇を書くように勧められて執筆したものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。因みに、原本では後に、全く無関係な『駿河下鄕(しものごう)』という村では『むかしより疱瘡(はうさう)の患(うれへ)なし』云々の短い一節が付随している。

「愛知県渥美郡渥美町内」現在は愛知県田原市江比間町(ちょう)女郎川じょろうがわ:グーグル・マップ・データ)。但し、本文に有る通り、「西の里のはずれに移」っているので、恐らくはこの中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)の山裾にあったものと推定される(池は「ひなたGPS」で見たが、思うに、その地図に海にごく近い現存する神社(名前不詳)があり、その近くではなかったか)。しかし、田になったのに、海水が入るのじゃ、米は出来んと思うんだが?]

2023/08/11

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「池尻村の女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 池尻村の女【いけじりむらのおんな】 池尻村は現在の東京都世田谷区池尻町 〔耳囊巻二〕池尻村とて東武の南、池上本門寺<現在の東京都大田区池上本町内>より程近き村あり。かの村出生の女を召仕へば、果して妖怪などあると申し伝へしが、予〈根岸鎮衛〉評定所留役を勤めし頃、同所の書役に大竹栄蔵といへる者あり。彼者親の代に不思議なる事有りしが、池尻村の女の故なりしとかや。寛保・延享の頃にもあらんか。栄蔵方にて、ふと天井の上に大石にても落ちける程の物音しけるが、これを初めとして、行燈など宙へ上り、或ひ[やぶちゃん注:ママ。]は茶碗など長押(なげし)を越えて次の間へ至り、中にも不思議なりしは、座敷と台所の庭は垣を隔てけるが、台所の庭にて米を舂(つ)き居たるに、米舂[やぶちゃん注:「こめ、つき、」。]煙草などのみて休みける内に、右臼垣を越えて座敷の庭へ至りしなり。その外天井物騒がしき故、人を入れて見せしに、何も怪しき事なけれども、天井へ上りし者の面《おもて》は、煤《すす》を以て黒々と塗りしとなり。その外焚火《たきび》など折ふしは自《おのづか》ら出《いづ》る事有りければ、火の元を恐れ、神主山伏を頼みて色々祈りけれども、更にその験《しるし》なかりしに、ある老人聞きて、若し池袋か池尻辺の女を召使ひ給はずやと尋ねし故、召使ふ女の在所を尋ねしに、池尻の者の由申しければ、早速暇《いとま》を遣はしけるに、その後は絶えて右の怪異なかりし由。池尻村の産神《うぶがみ》は甚だ氏子を惜しみ給ひて、他《ほか》ヘ出で若しその女に交《まぢは》りなどする事有れば、必ず怪ありと聞き伝へしと、かの老人語りける。その頃栄蔵は幼少なりしが、親なる者右女を侵しける事も有りしやと語りぬ。淳直正道を第一にし給へる神明《しんめい》の、氏子を借しみ妖怪をなし給ふといふ事も、分らぬ事ながら爰に記し置きぬ。

[やぶちゃん注:まず、正字原話は「耳嚢 巻之二 池尻村の女召使ふ間敷事」である。次いで、考証論文では『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 池袋の石打』がよい。また、最近手掛けた(今年の四月)『柳田國男「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」』は、注で相当にリキをいれてあるので、未見の方は是非とも読まれたい。また、個人的にこうした擬似的怪異現象を注の中でディグしたものに、「小泉八雲 夕暗の認識 (岡田哲蔵訳)」があり、これも超お薦めしたいものである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「いくじ」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度としたい。

 

 いくじ 魚の名前 〔耳囊巻三〕西海・南海に、いくじとて、天時《てんじ》によりて、船のへさきなどヘかゝ心事あるよし、色はうなぎやうのものにて、長き事計り難く、船の舳先(へさき)へかゝるに、二日或ひは三日などかゝりて、とこしなへに動きけるよし、然れば何十丈何百丈といふ限りをしらずとかや。いくじなきといへる俗諺は、これより出し事ならん。或人の語りしは、豆州八丈〈現在の東京都八丈島〉の海辺などには、右いくじの小さきものならんといふあり。これは輪になりて、うなぎやうのものにて、眼口もなし、動くものなり。しかれば船の舳先へかゝるたぐひも、長く延び動くにてはなく、丸く廻るやといひし。何れ実なるや。勿論舟の害をなすものにもあらずとなり。

〔譚海巻九〕常陸の外海にはゐくちと云ふ魚ありて、時々舟に入るなり。ゐくち入りたる船は沈む事故、船頭はなはだ恐るなり。此ゐくち、ふとさはさのみもあらぬものなれども、長さ数百丈ありて、舟をこなたよりあなたへこゆるなり。そのこゆる際、いくらも長く続きたるものにて、一二刻もありて、こえはつれば水に落入りたる音して、何のさはりもなし。只こゆるあひだに、その内より油をこぼす事おびたゞしく、その儘におけばあぶら舟にみちて沈むゆゑに、ゐくち入りたりと見れば、船中の人無言にて、只このこぼるるを笠へうけて、いくらともなく海へこぼす事なり。ゐくちの油ふのりの如くねばりて、舟の中はなはだ滑らかなるゆゑ、進退なりがたきまゝ、ゐくちの入りたる舟をば、いつも跡にてよく洗ふ事なり。いつも夜陰の事にて、その形をしかと見たる事なけれども、うなぎのごとく総身ぬめりて、油おほくある物なりとぞ。

[やぶちゃん注:前者は、私の「耳嚢 巻之三 海上にいくじといふものゝ事」を参照されたい。後者は、事前に「譚海 卷之九 常州外海ゐくちの魚の事」としてフライング公開しておいた。なお、「譚海」の記事は、後半に舟に飛び込んで寝るとする「イルカ」の記事が載っている。

「天時」天が与えた時機・機会。また、「寒暑・昼夜などのように、自然に巡って来て、それが人事に関係ある時」の意。但し、底本が異なる私の以上のそれでは、単に「時」である。ここは「時」の方が躓かない。]

譚海 卷之九 常州外海ゐくちの魚の事 /(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

○常陸(ひたち)の外海(そとうみ)には、「ゐくち」と云(いふ)魚ありて、時々、舟に入(い)るなり。「ゐくち」入(いり)たる船は、沈む事故(ゆゑ)、船頭、はなはだ、恐(おそる)るなり。

 此「ゐくち」、ふとさは、さのみもあらぬものなれども、長さ數百丈ありて、舟を、こなたより、あなたへ、こゆるなり。その、こゆる際、いくらも長く續きたるものにて、一二刻もありて、こえはつれば、水に落入(おちいり)たる音して、何のさはりも、なし。[やぶちゃん注:「數百丈」六掛けで一・八一八キロメートル。「一二刻」ウィキの「イクチ」の注釈「1」によれば、『原文は「一二刻」だが、』「一、二刻」と『読むべきであろう。目撃されるのは』「『常に夜陰の事にて』」『とあるので夜の一刻が該当する。平均を取って 』一・五刻『あれば、夏場の夜の』一『刻が』二『時間弱だから』、三『時間弱という概算にもなりうる。ただ』、『夏至だと』、『昼の一刻は最長となり』、二時間四十分であるのに対し、『夜の一刻は』一時間二十分『しかない』という緻密な考証を私は尊重することとした。]

 只、こゆるあひだに、その内より、油をこぼす事、おびたゞしく、其儘におけば、あぶら、舟に、みちて、沈むゆゑに、『「ゐくち」、入りたり。』と見れば、船中の人、無言にて、只、此(この)こぼるゞ油を、器物へ、うけて、いくらともなく、海へ、こぼす事なり。

 「ゐくち」の油、「ふのり」の如くねばりて、舟の中、はなはだ、滑らか成(なる)ゆゑ、進退成(なり)がたきまゝ、「ゐくち」の入りたる舟をば、いつも、跡にて、よく洗ふ事なり。

 いつも、夜陰(やいん)の事にて、その形を、しかと見たる事なけれども、うなぎのごとく、總身(さうみ)、ぬめりて、油、おほく、ある物なりとぞ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之三 海上にいくじといふものゝ事」を参照されたい。一応、古いが、私のモデル生物を注で述べてある。

「ふのり」紅色植物門真正紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis に属する海藻類。私はこれがなくては生きて行けないほどの好物で、常にストックがある。本邦では。古くから糊の原料とされ、漆喰・織物の糊つけ・工芸品の接着・整髪料、蕎麦のつなぎ(「へぎそば」)などに幅広く利用されてきた経緯がある、民俗社会では馴染みの海藻である。]

 又、「いるか」といふは、「さめ」のごとき魚にて、鹿に似たるものなり。よく眠る事をこのむものにて、苫(とま)なき舟へは、いつとなく入(いり)て、いびきかき、寢るなり。夫故(それゆゑ)、獵師、いるかをとるには、夜陰、海上に出(いで)て、舟を、うかめ居(を)れば、「いるか」、おほかた、舟底に入(いり)て、寝る事なり。やがて、舟をこぎもどして、岸に着(つき)て、「もりは[やぶちゃん注:ママ。]」にて、突殺(つきころ)して、くひものにす。獵船の、江戶へ、魚、仕送(しおく)るに、時々、いるか入(いり)て、とものかたに、いびき、かきて、寢ている[やぶちゃん注:ママ。]事ありと、いへり。

[やぶちゃん注:「もりは」底本では編者による右傍注があって、『(もくわ)』とあるのだが、意味が判らない。私は単純に「銛」に「は」が衍字となったものと考えたのだが。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「異形を見る」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度としたい。

 

 異形を見る【いぎょうをみる】 〔北窻瑣談後編巻四〕小堀某公の家中に、何の久兵衛といへる人あり。炎暑の頃、役所に出て政(まつりごと)ありしが、終日の勤労に、夏日の事なれば、倦《う》みつかれて心地もあしく、夕がた漸々《やうやう》家に帰れり。さらば終日のつかれを休めんと座につきたるに、我妻の顔牛のごとし。久兵衛大いに驚き、抜打《ぬきうち》にせんと思ひしに、傍の下女の顔また赤馬《あかうま》のごとし。我子の顔は鬼《おに》のごとし。家内の者壱人として、異形ならざるはなし。さては大かたならざる怪異なり。かゝる時に仕損じて、武士の名も恥かしと思ひかへして、直《ぢき》にその座を立《たち》て、奥の居間にいり襖をさし切《きり》て、枕により眼を閉ぢて物をもいはず休みたり。女房あやしみ、夫の顔色常ならざるに、詞《ことば》もなくふしたれば、傍によりて心地いかゞと色々問ひしかど、久兵衛眼をも開かず叱り退けて、一時ばかり心を静め、眼をひらき見しに、家内の人の顔、常体《つねてい》のかほにて少しも奇怪の事なし。初めに異形に見えしは、終日の勤労に殊に炎熱の時なりしかば、心熱上達《しんねつじやうたつ》して斯く見えしにや。その時に女房を手打にせば、狂人の名をとるべかりしを、よく思ひかへせり。他人もまた、かゝる事のあるべければ慎むべしと、久兵衛のちに人に語られき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。当該部は八巻本の刊本のここ。「国文学研究資料館」の「国書データベース」版のそれをリンクさせた。なお、読みの一部は所持する吉川弘文館『随筆大成』版で補った。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「烏賊と蛇」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度としたい。

 

 烏賊と蛇【いかとへび】 〔牛馬問巻四〕一客有《あり》て夜話《よわ》す。一人が曰く、我船にして海辺を通るに、舟郎《せんどう/かこ》が曰く、希に見る事こそ候へ。各〻見物し給へとて船をとゞむ。その指す所を見れば、大《おほき》なる蛇、岸に臨んで水中を窺ふ。水中よりは大《おほき》なる鳥賊、岸に向《むかひ》て蛇を取らんの勢ひ有り。両物間近くなりければ、鳥賊、波を吸ひ墨を噀(ふき)て、かの蛇にそゝぎかくれば、蛇は断々にきれて海中に落つ。見るもの奇と感ぜざるはなし。その後、また他に往きて夜話す。客の曰く、近きころ或人、鳥賊を料理するに、彼もとより庖丁の業《わざ》に疎《うと》ければ、鳥賊をあらふの方《はう》をしらず。腹中の墨やぶれ、手を添ふ所ことごとく黒く、殆んど※[やぶちゃん注:「彳」+「亞」。]《あぐみ》[やぶちゃん注:この読みは『ちくま文芸文庫』版のルビに従った。底本には読みはない。]はてたる折から、彼が児、蝮《まむし》にさゝれたるとて泣き叫ぶ。その親、大いに驚きあはて、かの鳥賊を捨て走寄《はしりよ》り、黒き手も厭はず、そこかこゝかと撫摩(なでさす)りていたはるほどに、この児も真黒になりて、痛む所も見へざるに、疼《いた》み暫時の間に愈えて、泣《なく》をとゞめ遊ぶ事常のごとし。皆人《みなひと》不審し、鳥賊の墨、蝮の毒を解すやといヘり。この両人の話を聞くに、烏賊の墨、諸蛇の毒を解する事疑ひなし。本草に烏賊骨《いかのほね》(海螵蛸《かいへうせう》といふ)蝎螫《けつせき》[やぶちゃん注:サソリ。]疼痛を治すとあれども、墨の能《のう》を載せず。姑(しばら)く書して後人に備ふ。

[やぶちゃん注:「牛馬問」儒者新井白蛾(あらい はくが 正徳五(一七一五)年~寛政四(一七九二)年:名は祐登(すけたか)。白蛾は号。当該ウィキによれば、『白蛾の父・祐勝は加賀藩の出身だったが』、『その妾の子として江戸に生まれる。三宅尚斎の門人である菅野兼山に師事して、朱子学を学ぶ』。二十二『歳の時に江戸で教え始めるが』、『当時は荻生徂徠の門流が風靡していたので』、『京都に上り、易学を究め』、『「古易の中興」を唱え』た。寛政三(一七九一)年、『加賀藩主の前田治脩に招かれ、藩校となる明倫堂の創設に関わり、その学頭となり』、『亡くなるまで』、『その地位』にあったとある)の随筆。宝暦五(一七七五)年成立で、全四巻百十六条からなり、同ウィキには、『人からよく尋ねられる物事について記したもの』とあった。この正字原文は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧三期・㐧五卷(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここの「○烏賊の墨」がそれ。

「本草に烏賊骨(海螵蛸といふ)蝎螫疼痛を治す」江戸時代の本草学のバイブルである李時珍の「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三魚類」の「烏賊魚」の主治に『治蝎螫疼痛』とある。「漢籍リポジトリ」の同書同巻[104-46a] を参照されたい。「中日辞典」にも、海螵蛸(かいひょうしょう)=イカの骨(体内殻)は止血剤などに用いるとあった。但し、毒虫の解毒効果はない。因みに、タコの墨は、摂餌対象である甲殻類や、天敵ウツボの嗅覚を麻痺させる毒素が含まれているため、イカ墨のようには、食用とならない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「家焼くる前兆」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。

 作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度としたい。

 

     

 

 家焼くる前兆【いえやくるぜんちょう】 〔四不語録巻五〕寛永年中の事なりしとか、越前の国主松平伊予守殿の内、本田玄覚と云ふ人府中の御城代なり。玄覚家来に知行三百石ばかり取りける人、ある時に居間の天井より白米はらはらとこぼれ落る。払ひ捨てければその後よりまた落つ。かくするほどにたまりて俵となりぬ。食料に仕《し》けるに一段とよし。明けても暮れてもふる程に、家内の者は福神のなすわざなりとて悦べども、他人は眉を顰《ひそ》む。あまり不思議なるとて、天井の板はづし見るに何もなし。或時用の事あつて蔵を開き見るに、積み置きし俵は有りながら、内に米は一粒もこれなし。そろそろ黒米も減りかかりぬると、座中へ黒米ふる。さてはと云ひて米俵を一つもなく他所へあづけ置けば、後には陶(すゑもの)・銚子やうの物まで座敷中へ跳り出ける程に、米の時はさもなかりし引臼《ひきうす》など、人にあたりては痛むこと甚し。これは物怪《もののけ》なる事かなとて、貴僧尊僧を請じ申し、様々祈りしけれども、更にその験(しるし)なし。後には爰彼(ここかしこ)より焼出《やけい》でたり。夜の事なれば上を下へとかへす。近隣には道具を除《よ》けり。夜明けて見れば家も焼けず、本の如くなり。かくある事十日ばかりなれば、その家内も後には驚かざりしに、後には本火《ほんび》となりて家尽(ことごと)く焼けたり。されど類火はなし。それよりして別条もなかりけるとかや。

[やぶちゃん注:「四不語録」魚戸氏のブログ「雨乞山には夕日が沈んで」の「『四不語録』のこと」によれば、加賀藩士浅香久敬(姓は「浅加」とも。号は「山井」後掲リンク先を参照されたい)が著した奇談集で、作者は加賀藩四代藩主前田綱紀に仕え、六百石を拝領した人物であり、「三日月の日記』」・「能登浦伝」などの紀行文、及び、江戸時代最大級の「徒然草」の注釈書「徒然草諸抄大成」も残しているとあった。また、この「四不語録」は朝香久敬が六十代の頃に書かれたとされる。そこで魚戸氏が述べているように、『元々はかなりの数の話が書かれていたそうだが、今では散逸し』、『怪談話の部分しか伺えず、それも写本でしか残っていない』とあった。試みに国立国会図書館デジタルコレクションで調べてみたが、「四不語録」は見当たらなかった。しかし、『金沢古蹟志』第八編(森田平次著・日置謙校・昭和八(一九三三)年金沢文化協会刊)の同書の巻二十二のこちらに、「○淺加九之丞久敬語傳」があるのを発見した。それによれば、本書は別名を「吼噦物語(こんくわいものがたり)」(「吼噦」は「狐の鳴き声を表わすオノマトペイア。また、「狐」のことを指す」とあり、没年を享保一二(一七二七)年二月五日とし、享年七十一歳とあった。嘗つて「三州奇談」の注に盛んに使わさせて頂いた「加能郷土辞彙」のこちらPDF)のこちらに、

   *

シフゴロク 四不語錄 正徳六年淺加久敬の著。怪力乱神の四部に分かつて書く豫定であつたが、その中の怪の部だけが成つたものであらう。一名吼噦物語とも今怪物語ともいひ、古今著聞集・宇治拾遺・吉野拾遺・大和怪異記その他の諸書に見え、近くは加越能三州内にあつた古今の怪談奇事を編してゐる。

   *

とあった。以上の通りで、原本は示せない。なお、柴田宵曲は「續妖異博物館 火災の前兆」で、この話を訳して示しているので、参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雨畑の仙翁」・「雨夜の怪」・「雨夜の笛」・「網に掛った銘刀」・「怪しき古冑」・「蟻が池の蛇」 / 「あ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。

 作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度としたい。但し、今回は「あ」項にケリをつけるために六項目を纏めて電子化注した。

 

 雨畑の仙翁【あまばたのせんおう】 〔裏見寒話追加〕雨畑山《あまばたやま》は七面山《しちめんさん》〈共に山梨県南巨摩郡にある山〉の西南にあたりて深山なり。伝へ云ふ。先《さきの》国主の時、山奉行《やまぶぎやう》の士、主の御用にて彼《か》の山中に入らんとす。折ふし淫雨[やぶちゃん注:長雨(ながあめ)。霖雨。]、巌上《がんじやう》を湿《しつ》して嶺に上る事能はず。半腹の小寺に止宿す。折から雨中の徒然《つれづれ》、囲碁を翫《もてあそ》ぶ所に、何処《いづく》よりか一大法師来りて、席上に立《たち》て碁の勝負を見る。身には木の葉をまとひ、眼中碧玉《へきぎよく》の如し。白髪雪を戴く。彼《かの》士驚いて、寺僧に問ふ。答へていふ。信玄の時、三次入道とかいへる者、跡部・長坂が佞媚《ねいび》[やぶちゃん注:媚(こ)び諂(へつら)うこと。]をいとひ、この山中に入り、仙人に成れり、折節斯《かく》の如きの奇異をなす、しかし恐るゝには足らず、碁終れば何処《いづく》へか飛行《ひぎやう》して形を失ふ。

[やぶちゃん注:原書は既出。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの右ページの「○雨畑の仙翁」がそれだが、写本・伝本の違いか、かなり有意に表現の相違がある。以下に、正規表現で示す。

   *

○雨畑の仙翁 府下より西南にあたり十二里余、身延山に續いて深山のよし傳云。先國主の時、山奉行の士、一兩輦《いちりやうのさん》[やぶちゃん注:土台につけた轅(ながえ)を数人で肩に担いで進み行く乗り物。]、主の御用にて彼《かの》山中に入り、折節霖雨巖上を濕して嶺に登ること能はず、半腹の小寺に止宿す。折から雨中の徒然囲碁を翫ふ[やぶちゃん注:ママ。]處に、何處よりか一大法師來りて、席上に立て碁の勝負を、身には木の葉をまとひ眼中碧玉の如く、白髪雪を戴く。[やぶちゃん注:ママ。「碁の勝負を、」は「碁の勝負を見る。」の脱字らしくはある。]彼の士驚いて僧に問。答て云、信玄の時三次《みよし》入道とかいへるが、迹部・長坂が佞媚を厭ひ、此山中に入《いり》仙人になれり。斯くの如くの奇異をなす。しかし人に害ある事なしと。碁果《はて》て又飛行し跡を失ふ。

   *

「雨畑山」現在のこの中央附近に「雨畑」の地名があるので、この附近の孰れかのピークを指すようである。グーグル・マップ・データ航空写真で以下の七面山も東に配した。なお、調べると、柴田は「あまばたやま」と濁っているが、「あまはたやま」と清音の記載が多い。なお、この山には、嘗つては、金山があったようである。

「七面山」現在の山梨県南巨摩郡早川町赤沢にある標高千九百八十九メートルの山。身延山の西南西に近い。

「三次入道」不詳。

「跡部」跡部勝資(あとべかつすけ ?~天正一〇(一五八二)年三月)は武田信玄の侍大将で、信玄の死後は、その子勝頼に仕えた。武田氏滅亡の時、諏訪で討ち死にした。一説では勝頼を見捨てて逃げたともされる。

「長坂」長坂虎房(出家後は光堅(こうけん) 永正一〇(一五一三)年~天正一〇(一五八二)年)は甲斐国武田氏の家臣で、譜代家老衆。小笠原氏庶流。子息の昌国とともに織田氏に捕縛され、処刑された。当該ウィキの脚注には、「甲陽軍鑑」に『拠れば、信玄は光堅を「口だけしか動かない男」としてあまり重用せず、むしろ嫌っていたという』とあった。]

 

 雨夜の怪【あまよのかい】 〔怪談老の杖巻二〕麹町十二<現在の東京都千代田区内の一部>大黒屋長助といふ者の下人に、権助とて十七八の小僕あり。或時大窪百人町<東京都新宿区内>の御組まで手紙をもちて行き、返事を取りて帰りけり。はや暮に及び、しかも雨つよく降りければ、傘をさし来りけるに、先へ立て女のづぶぬれにて行くありければ、傘へ入りて御出でなされよと、声をかけて立より、その女の顔をみれば、口耳のきはまでさけて、髪かつさばきたる化物なり。あつというて即座にたふれ絶え入りけり。その内に人見つけて、たふれものありとて、所のものなど立合ひ吟味しければ、手紙あり。まづ百人町のあて名の処へ人を遣はしければ、さきの人近所など出合ひて、気つけを用ひ、なにゆゑ気を失ひしと尋ねければ、右のあらましを語りしを、駕にのせ麹町へ送り返しぬ。よくよく恐ろしかりしとみえて、上下の歯ことごとくかけけり。それよりあほうの様になりて、間もなく死にたり。大久保新田近所には狐ありて、夜に入れば人をあやなすといへり。 〔耳囊巻四〕予<根岸鎮衛>が一族なる牛奥氏、壮年の折から、相番より急用申し来り、秋夜風出強きに、一侍を召連れ、番町馬場〈現在の東京都千代田区内か〉の近所を通りしに、前後行来も絶え候程の大雨にて、提灯一つを吹き消されじと、桐油の影にして通りしに、道のかたはらに、女子と見えてうづくまり居しが、合羽のやうのものを著、傘笠の類も見えず。確《しか》と女とも見えず、合点行かざる様子故、右の際を行き過ぎしに、召連れたる侍、あれは何ならん、得と見申すべくやと言ひしが、いらざるものの由をこたへしに、折ふし提灯をもちたる足軽使体《あしがるつかひてい》のもの両人、脇道より来《きた》るゆゑ、右の跡に付き、元《もと》来《きたり》し道へ立戻り、かの様子を見んとせしに、始め見し所に何にても見えず、四逵《しおほぢ》[やぶちゃん注:大通りの四辻。]打《うち》はれたる道なれば、何方へ行き過ぎやうもなしと口ずさみ通りしが、帰りて門へ入らんとせし頃、しきりに寒けせしが、翌日瘧(おこり)<毎日一回または隔日に一回一定時間に熱くなったり寒くなったりする病気>を煩ひ、二十日程悩みしが、召連れし侍も同様、寒けして、熱病を二十日程煩ひけるとや。瘴癘(しょうれい)の気《き》の、雨中に形容をなしたるならん。

[やぶちゃん注:後半の「耳囊」の「予」の注を底本では、「松浦静山」と誤っている。訂した。二話ともに既に正規表現で電子化注している。前者は、「怪談老の杖卷之二 狐鬼女に化し話」で、後者は、「耳囊 巻之四 番町にて奇物に逢ふ事」(但し、底本が異なりかなり本文が異なる)である。孰れも詳細な注を附してあるので、不審な箇所は(例えば、「桐油の影にして通りしに」等)そちらを見られたい。また、この二話、柴田のお気に入りだったらしく、「柴田宵曲 續妖異博物館 雨夜の怪」でも紹介している。]

 

 雨夜の笛【あまよのふえ】 〔江戸塵拾巻五〕木挽町五丁目<現在の東京都中央区東銀座内>松平家の屋敷にあり。雨降り物静かなる夜は、いづくともなく笛の音聞え、屋敷の内にて聞けば外なりと聞ゆるがごとし、外へ出て聞けば内に聞ゆる。今も猶左の如し。

[やぶちゃん注:「江戸塵拾」は前回分に既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第三(岩本佐七編・明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のこちらで正字で確認出来る。次のページを見ると、原文は『外也と聞ゆるがごとし』の「外也と聞」の右に編者によると思われる傍注があり、『外に聞え歟』とある。穏当である。]

 

 網に掛った銘刀【あみにかかっためいとう】 〔北窻瑣談巻三〕今より百年も前つかたの事にや。備中玉嶋〈現在の岡山県玉島市〉の海にて、棒《ぼう》の形の物に貝多く付きたるを、漁夫ども網にて引上げたり。面白き形の物なり。この辺の酒屋何某は珍しきものを好める人なれば、いざや彼処《かしこ》に持行きて、酒にかへて飲むべしとて、漁夫どもやがてかの酒屋へ持行きて、酒二升にかへん事を乞ひしに、酒屋の手代笑うて、かゝる無用の物、酒にかふることやあらんとうけがはず。彼れ是れ論じ合ひてありしを、亭主聞て何事にやと出て見るに、件の貝の付きたる長き物を持てり。実《げ》に面白きものなり。何にもあれ、よしや酒二升は、漁夫どもこれまで持来れる労にも施すべしとて、頓(やが)て酒を与へて件の物を取り、居間《いま》の庭前に建て置きしに、数日へて雨の後、かの物より流れ来る雨水に鉄気《てつき》見えければ、内に何か有るべしとて、貝を打砕き見るに、中より刀の身を取出せり。さればこそとて備前岡山の研屋《とぎや》へ頼み礪《みが》きをかけしに、友成《ともなり》といふ銘見えて見事に研ぎ上げたり。久しく海中に有りしに、少しも腐爛せず。今新たに打出《うちだ》せる刀のごとし。それより刀剣の事よく知れる人に見せけるに、これは聞き伝へし事あり。能登守教経《のりつね》所持のサクウ丸と云ふ太刀の銘なり。さては教経の刀にてや有るべきと、かの酒屋甚だ珍重して、今にその家に伝へりとぞ。これも播磨の滄洲翁物語なりき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は江戸後期の医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年:本名宮川春暉(はるあきら)。医者の傍ら、文をよくし、紀行「東遊記」「西遊記」(併せて「東西遊記」と称される)と、優れた随筆「北窓瑣談」で知られる。当該ウィキによれば、彼は天明二(一七八二)年から天明五年にかけて、三十から三十三歳の時、三度の蝦夷を除く日本各地に、臨床医としての見聞を広めるための旅に出ていたが(実際に各地で治療もしている)、後の四十五の寛政九(一七九七)年一月に、かねてより、写本で回覧されて知られていた上記二篇の紀行文について、書肆から慫慂があり、「東遊記後篇」を刊行し、翌年六月に「西遊記続篇」を刊行している)の随筆。三巻本(文政八(一八二五)年刊)と八巻本(文政十二年刊)があるが、孰れも没後の刊行。当該部は八巻本の刊本のここ。「国文学研究資料館」の「国書データベース」版のそれをリンクさせた。なお、本文に振った読みは所持する吉川弘文館『随筆大成』版によって補ったものである。

「今より百年も前つかた」江戸中期。元禄頃か。

「備中玉嶋」「〈現在の岡山県玉島市〉」現在の岡山県倉敷市玉島地域。

「友成」サイト「刀剣ワールド」の「友成」によれば、『「友成」は平安時代、備前国(現在の岡山県東南部)で作刀に携わった刀工です。通称として「平三郎」(へいざぶろう)や、「権太夫」(ごんだゆう)とも名乗っていました。活動期は、「備前伝」(びぜんでん)の中でも古い時期に当たる「古備前」の頃』。『友成は、古備前の代表刀工であり、山城国(現在の京都府南部)の「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)、伯耆国(現在の鳥取県中西部)の「安綱」(やすつな)と並んで、「日本最古の三名匠」と称されています。備前国にあっては、名工「正恒」(まさつね)と共に双璧とされており、「備前鍛冶の祖」、あるいは、同国における「長船[おさふね]鍛冶の祖」などに位置付けされているのです。初代 友成の作刀時期は永延年間』(九八七年~九八九年)『の頃。しかし、現存刀で最も古い友成の作例は、康治年間』(一一四二年~一一四四年)、『及び仁平年間』(一一五一年~一一五三年)『の刀です』。『さらに友成の作刀には、二字銘の「友成」や三字銘の「友成作」、「備前国友成」、「備前国友成造」など、異なる銘振りが複数見られます。これらの物証から友成は、同銘の刀工が数代続いていたことが分かるのです。江戸時代の書物「古今銘尽」(ここんめいじんづくし)によると、その具体的な人数は、平安時代後期に』二『人、鎌倉時代初期に』二『人の計』四『人。多少の差異はありますが、作風はほとんどの点で共通しています』。『また』、『友成は、日本史上における著名人物の佩刀(はいとう)を多数鍛造したことで有名です。「源義経」や「平教経」』、『「平宗盛」』、『「北条貞時」』『といった人々が、友成の鍛えた太刀を佩用しています。また、現在の皇室に「御物」』『として秘蔵されている「鶯丸」(うぐいすまる)の太刀も、友成によって作刀されました』。『さらには、「厳島神社」』『の社宝である太刀も友成が手掛け、平教経が奉納しています。同太刀は「鎬造り」(しのぎづくり)の「庵棟」(いおりむね)で、腰反りが高く、踏張りのある堂々たる太刀姿が特徴。平家一門にあって、豪勇で鳴らした平教経の雄姿を彷彿とさせます』とあったので、これ、或いは、と思わせるものがある。

「能登守教経」私が最も愛する平家の猛将。

「サクウ丸」不詳。

「播磨の滄洲翁」著名人で大儒で飫肥藩士であった安井息軒が、この号を持っているが、「播磨」が合わないので違う。不詳。]

 

 怪しき古冑【あやしきふるかぶと】 〔天明紀聞〕六月廿日下タ町<現在地不明>辺の道具渡世何屋某、ある見世にて古かぶと相求め、それを冠り飯田町<現在の東京都千代田区内>を通りしに、存じも寄らぬ後より一刀切り付けられ候に付、大いに周章《あは》て、幸ひその近辺に出入の屋敷有ㇾ之に逃げ込み、それより付人致し貰ひ、こはごはに帰宅致し候。道筋に壱人の侍、ぬき刃を持ちながら斃《たふ》れ死居《しにを》り候由、如何なる心懸の人にや。

[やぶちゃん注:「天明紀聞」著者も成立年代も不詳。所持しないので原典は示せない。ネット上でも原本を視認出来ない。ただ、「柴田宵曲 妖異博物館 古兜」に、この話の訳が載る。]

 

 蟻が池の蛇【ありがいけのへび】 〔月堂見聞集巻十四〕この間西陣の者一人、中京(なかぎやう)の者二人申合せ、上賀茂蟻が池〈京都府京都市内か〉へ魚を釣りに至る。小虵(《こ》へび)の釣竿にかゝるあり。三人寄て打殺さんとす。忽ち三人ともに精神恍惚として、或ひは頭は磐《いは》の如きうはゞみと見え、或ひは池辺《ちへん》足下《そつか》に至る迄、小蛇幾千万と云ふかぎりなく見え、皆々驚き逃げ帰れり。西陣の者は即座に死す。中京の者二人は、発熱甚しく人事を覚えず。生死《しやうじ》未だ決せず。右三人ともに町所あれども、よろしからざる事故、秘《ひ》め語らず。

[やぶちゃん注:「虵」と「蛇」の混用はママ。

「月堂見聞集」(げつどうけんもんしゅう)は元禄一〇(一六九七)年から享保一九(一七三四)年までの見聞雑録。「岡野随筆」「月堂見聞類従」とも称する。本島知辰(ともたつ:月堂は号)著。二十九巻。江戸・京都・大坂を主として諸国の巷説を記し、政治・経済から時事・風俗にまで亙って記されてある。自身の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記したもので、大火・地震・洪水の天災を始め、将軍宣下・大名国替から、朝鮮・琉球人の来聘、正徳二(一七一二)年の「寄合松平左門家中騒動」、江島ら奥女中の一件、享保十年の「水野隼人正刃傷事件」、同十二年の「美作津山の百姓一揆」、翌十三年の象の将軍吉宗への献上のこと等、実録体で、参考になる記事も多い(以上は「レファレンス協同データベース」のこちらの「国史大辞典」からの引用を参考にした)。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集 苐二」(大正二(一九一三)年国書刊行会編刊)のこちらで当該部が視認出来る(左ページ上段中央)。標題は「○上賀茂蟻が池の風說」。

「蟻が池」宵曲は指定していないが、これは、現在の京都府京都市北区上賀茂本山にある蟻ヶ池(別名「阿礼ヶ池」。「蟻」は「あれ」の訛りか。グーグル・マップ・データ)。グーグル・マップ・データ航空写真の接近した画像もリンクさせておく。今はゴルフ場の中にあることが判る。

「町所あれども」「住む町名と住所(姓名もだろう)も判っているが」の意であろう。]

2023/08/10

ブログ1,990,000アクセス突破記念 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」始動 /扉・「はしがき」・凡例・「会津の老猿」・「青池の竜」・「青木明神奇話」・「青山妖婆」・「赤鼠」・「秋葉の魔火」・「明屋敷神々楽」・「明屋敷の怪」・「明屋の狸」・「悪気人を追う」・「悪路神の火」・「麻布の異石」・「足長」・「小豆洗」・「小豆はかり」・「油揚取の狐」・「油盗みの火」・「雨面」・「海士の炷さし」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物で、近世の随筆書の中から、見るべき記事を抄出して、主題別に辞典型の体裁を以って配列したもので、「衣食住編」(柴田宵曲編)・「雑芸娯楽編」(朝倉治彦編)・「風土民俗編」(鈴木棠三編)・本「奇談異聞編」・「解題編」(森銑三編)の全五巻が同社から刊行されてある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション。但し、総て、本登録をしないと見られない)。

 作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。漢字は新字である(ただ、時に正字を使用している箇所もある)。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 この手の怪奇談を抄録して注や解説を挿入した書は、現在も何冊も刊行されており、私も、五、六冊許り所持するが、この柴田の著作は群を抜いて優れている。現在、流通しているものは、多数の著者・編者によるものが殆んどで、全体のコンセプトが欠いた人間によってディグの深浅にばらつきが多く、中には、凡そ、その本の抄説をする資格が疑わられるような、いい加減なものも多い(私ならもっと魅力的に書けると思うものが半分以上を占める。怪奇談の裾野が浅過ぎるライターが多過ぎ)。それに対し、本書は柴田自身が、一人で作り上げており、余分な解説を極く短く、ストイックに注している点で、画期的なものである。

 踊り字「〱」「〲」は、生理的に受けつけないので、正字化した。但し、読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。但し、各項の読み等で、拗音・促音となっていない(ごく最近まで出版物のルビは読み拗音・促音はそうなっていないのが常識だった。活版印刷の無言の御約束によるもので、写植印刷になって、やっと概ね正しく印字されるようになった。半数近くの人はそれに気づいていなかった。かってに読み替えていたに過ぎない。嘘だと思うなら、十五年以上前のお持ちの本を見て御覧なさい。加工データとした筑摩書房『ちくま文芸文庫』版もそうなってまっせ)ものは、特異的に正しく修正した。また、柴田は( )で原本の割注を入れ、それをややポイント落ちにしているが、これは読み難くなるだけなので、本文と同ポイントとした。

 また、以上のような柴田の編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、一回一項或いは数項程度としたい。但し、今回は初回なので、特別に十九項目を纏めて電子化注した。なお、私は既にブログ・カテゴリ「柴田宵曲」で、「妖異博物館」・「續妖異博物館」・「俳諧博物誌」・「子規居士」(「評伝 正岡子規」原題)・「俳諧随筆 蕉門の人々」の全電子化等を古くに終わっている。特に「妖異博物館」・「續妖異博物館」の二書は、本「随筆辞典 奇談異聞篇」に対し、「ちょっと何か言って欲しいなぁ」と感ずる向きには、それを満足させてくれる恰好のものとなっているので、未読の方は、是非、お薦めである。

 なお、の後に、以上のシリーズの編者四名の連名に成る「刊行のことば」が掲げられてあるが、必要を認めないので、省略した。

 また、ページの上の罫線の端にページ内の当該項標題の頭のひらがなを(但し、項の選び方や表示文字数がまるで共通していない)、たとえば、ここの場合、「あすき」・「あまお」とあるが、流石にこれは、意味ないので電子化しない。

 なお、本記事は、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,990,000アクセスを突破した記念として始動公開する。なお、本書を電子化する関係上、ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」の更新はこれが終わるまで、暫く冬眠に入る。悪しからず。【二〇二三年八月十日 藪野直史】]

 

 

 随 筆 辞 典

   ④ 奇談・異聞編

     柴 田 宵 曲 編

 

 

東 京 堂

 

[やぶちゃん注:以上は。「東京堂」は囲みがある。

 以下、柴田宵曲の「はしがき」。]

 

 

    は し が き

 

 束寺の門に雨宿りをした日野資朝が、その辺にいる不具者を見て、いずれも一癖あって面白いと思ったが、暫く見ているうちに厭わしくなり、やはり平常なものの方がよろしいと感ずるに至った。資朝は多年桂木を好み、枝ぶりなどの異様に曲析あるものを珍重していたが、これは畢竟不具者を愛するに外ならぬと、帰来鉢桂の木を悉く掘り棄ててしまった、という話がある。奇なるものが一応目をよろこばし、久しきに及んで厭わしくなるのは、奇である以上、何者にも免れぬところであろうか、あるいは皮相の奇にとゞまって、真の奇でない為であろうか。

[やぶちゃん注:「日野資朝」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)は鎌倉末期の公卿・儒学者・茶人。当該ウィキによれば、『中流貴族の次男に生まれ、自身の才学で上級貴族である公卿にまで昇った』。正和三(一三一四)年、『従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。宋学を好み、宮廷随一の賢才と謳われた。文保』二(一三一八)年の『後醍醐天皇即位後も院司として引き続き』、『花園院に仕えていたが』、元亨元(一三二一)年、『後宇多院に代わり』、『親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという』。『花園は資朝の離脱を惜しみつつも、能力のある人物には適切な官位を与える後醍醐天皇の政策のもとなら、それほど身分の良いとは言えない資朝でも羽ばたけるだろうか、と後醍醐と資朝に一定の期待をかけている』。元亨四年九月十九日(一三二四年十月七日)、『鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らと共に捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、有罪とも言えないが』、『無罪とも言えないとして、佐渡島へ流罪となった(正中の変)』。元弘元(一三三一)年、『天皇老臣の吉田定房の密告で討幕計画が露見した』「元弘の乱」が『起こると、翌』年、『に佐渡で処刑された』とある。以上の話は、「徒然草」の第百五十四段に載る逸話である。

   *

 この人[やぶちゃん注:この前の二段が資朝関連の記事となっている。]、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集まりゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に[やぶちゃん注:「であって」の意。]、異樣(ことやう)なるを見て、『とりどりに、たぐひなき曲者(くせもの)なり。もつとも愛するに足れり。』と思ひて、まもり給ひけるほどに、やがて、その興(きやう)、つきて、見にくく、いぶせく覺えければ、『ただ、すなほに珍しからぬ物には、しかず。』と思ひて、歸りて後(のち)、「この間(あひだ)、植木を好みて、異樣に曲折(きよくせつ)あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かの、かたはを、愛するなりけり。」と、興なく覺えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆、掘り捨てられにけり。さもありぬべき事なり。

   *]

 奇談の奇ということも、人により書物によって固より一様ではない。余りに奇に偏し径に傾けば、久しきに及んで、厭にならぬまでも、単調に陥る虞れがないとも云えない。色彩や香気の類にしろ、刺激の強い中に暫くおれば、無感覚に近くなるようなものである。

 江戸時代には奇談と銘打った書物がいくらも出ており、奇談小説と呼ばれる一群の作品もある。随筆の筆者も亦頻りに奇談を録するに力めた。奇趣を欠いた随筆なるものは、他に多くの利用価値があっても、読む場合には索莫を免れぬ。

 本書は主として随筆中の奇談を収めると共に、巷談街説に属する異聞の類をも蒐録した。これは書物の単調化を避けたばかりではない。随筆として闘くべからざる材料だからである。但あまりに話数の多い奇談集――例えば「新著聞集」のような書物は、はじめからこれを採らなかった。これらは仮令「日本随筆大成」に収録されていても、自ら別扱いにすべきものと信ずる。

[やぶちゃん注:「新著聞集」(しんちょもんじゅう)は、寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる(以上はウィキの「新著聞集」に拠った)。]

 本書は随筆による奇談異聞集で、話材の範囲が限られているのみならず、辞典の名にそぐわないという人があるかも知れぬ。俳しこの種の奇談異聞は、随筆中の最も有力なる談柄である。その談柄の豊富なもの、狐狸の如き、天狗の如き、河童の如き、亡霊幽魂の如きは、類聚排列することによって、いさゝか研究の領域に近づくことが出来るであろう。「随筆辞典」の奇談異聞編である本書が、奇談異聞集の随筆編として見られる結果になっても、編者に於いて格別の異議はないのである。

 奇を好み径を談ずるは趣味の正常なるものでないにせよ、人間生活の続く限り、この趣味の絶滅することは先ずあるまい。現代人も常に談柄の奇を求めつつある。たゞその奇の内容が江戸時代と異るだけで、天狗や河童が跳梁跋扈しなくなれば、他の者がその代役を勤める。行燈、蠟燭の世界と、蛍光燈、ネオン・サインの世界とに、同じ奇談が通用すべくもないが、現代に立って汀戸時代を考える場合、乃至汀戸時代の事柄を現代に推し及ぽす場合、これらの奇談が何等かの役に立つことがないとも云えぬ。

 奇談を一歩離れた異聞になると、特にその感が強い。過去と現在とに截然たる区別をつけるのは、現代人の通弊であるが、表面の事柄はともかくも、人間そのものにはそれほどの違いがあるわけではない。今の吾々が経験したり感じたりしているようなことを、存外昔の人も親しく経験したり感じたりしていたのである。それは過去の文芸作品にも現れておるに相違ないが、随筆は筆者の作為の加えられる余地が少ない為に、最も端的に読者に感ぜしむる力を持っているように思う。

 奇談異聞の内容は一目瞭然たるように見えて、細説すればなかなか面倒である。出来るだけ広汎に亘り、興味ある談柄を集める必要があるので、最初は共編にするような話であったのが、中途から編者一人の仕事になってしまった。その結果は御覧の通りで、固より不備を免れぬが、一種の奇談集として存在する位の価値は無いこともあるまい。

 「衣食住編」には原本から種々の挿画を取り入れた。第二部は殊に材料が多かったが、奇談異聞になると、適当なものが見当らない。たまたま挿画のある書物があっても、多くは読本(よみほん)じみていて、辞典に用いるには工合が悪い。清少納言は「絵にかきておとるもの」の中に「物語にめでたしといひたる男女のかたち」を挙げた。由来奇談の妙味は形似《けいじ》[やぶちゃん注:東洋画で、対象の形態を忠実に写すこと。]に現わしがたい辺に存するのだから、その空気は読者の想像に任せるより仕方がない。僅かに入れた挿画は「衣食住編」に用いたのと大差ない程度のものであった。

[やぶちゃん注:以上の清少納言のそれは、言わずもがな「枕草子」の物尽くしの章段の一つで、

   *

 繪に描(か)き劣りするもの。なでしこ。菖蒲(さうぶ/しやうぶ)。櫻。物語にめでたしと言ひたる男(をとこ)、女(をんな)の容貌(かたち)。

   *]

 挿画ばかりではない。引用書目の数も、索引の件数も、「衣食住編」に比してかなり少ないように見える。これは奇談異聞の性質上、どうしても或る随筆に集中され易い傾向のあること、各項が衣食住よりも長いこと、その他の理由に帰すべきであろう。なるべく前巻より見劣りせぬ方がいゝとうが、内容の然らしむるところだから、どうにもならぬのである。

  昭和三十五年十二月

                    柴  田  宵  曲

 

[やぶちゃん注:以下、「凡例」。底本では二段になっていて、「凡例」の上には「目次」があるが、電子化する必要を感じないものであるので、省略した。]

 

     凡   例

 

一、見出し語は現代かなづかいによって五十音順に配列し、そのふりがなも現代かなづかいによった。

一、編者が見出し語の下につけた概要、説明文は現代文により小活字で組んだ。[やぶちゃん注:電子化では、同ポイントで【 】で示した。]

一、引用の文章は原文に従った。その用字については、主として当用漢字、新字体を使用したが、内容の性質上、旧字体、異体字を使用した個所が少なくない。