柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「石臼の火」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
石臼の火【いしうすのひ】 〔翁草巻五〕越後国三条村<現在の新潟県三条市内>と云ふ所の百姓の庭に臼あり。この石臼の穴より風吹き出《いづ》る。この風に火を付《つく》れば、よく燈りて用事を弁ず。竹の筒にて、かの火をとれば、その内を通ひて、火幾つかにも移る。近所の女ども、夜の手業《てわざ》をせんとて、かの家へ集り、この火を借《か》るなり。またあふぐ消せば消え、また火を付れば燃ゆるなり。按ずるにこの家の下《した》泥にて、その泥の油より風出《いづ》ると見えたり。その所以《ゆゑん》は、同国の中に大泥《おほどろ》の池あり。高田<現在の新潟県高田市>より北国海道を三里行けば荒井なり。荒井より三里川手に別所と云ふ所有り。この村の池水の上へ、油の湧き上る事夥《おびただ》し。その油を汲み取りて、土器に入れ、銘々が家に燈すなり。これ則ち油の運上を出《いだ》して燈す事なり。然《しか》ればかの火も其の如く油気《あぶらけ》より生ずる風《ふう》なるべし。さりながら油の匂ひ、えもいはれぬ悪臭のありとなん。それを見たる人の物語りなり。されば越後の内には、井《ゐ》の内より潮《しほ》出で、その水にて塩を焼く所あり。また奥州には石を割《わり》て薪《たきぎ》とし、土を干乾《ほしかは》かして薪とする所も有りとぞ。
[やぶちゃん注:これは、先に私の古い「北越奇談 巻之二 古の七奇」を読んで貰い、そこに添えられた、かの北斎の筆になる挿絵(キャプションは「入方村 火井の図」)を見るのが、順序がいいと存じまする。
「翁草」(おきなぐさ)は俳人で随筆家神沢杜口(かんざわとこう 宝永七(一七一〇)年~寛政七(一七九五)年:諱は貞幹。杜口は号。京の入江家に生まれたが、享保五(一七二〇)年に京都町奉行所与力神沢弥十郎貞宜の養子となった(後に彼の娘を妻とした)。後を継いで同じく与力を勤めたが、四十過ぎで、病弱を理由として辞職し、婿養子に継がせ、自身は文筆活動に専念した)の前編・後編を合せて全二百巻からなる膨大な随筆。当該ウィキによれば、『蔵書や、先行文献、風聞や自身の見聞・体験を元にした、厖大な諸資料からの抜粋・抄写を含む編著』で、『諸資料からの抄写に杜口自身の批評や解説が加えられているものも多い』とある。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」(一~十巻分分冊・池辺義象校・明三八(一三〇五)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。
「現在の新潟県三条市」といっても、広過ぎる。旧三条村は恐らく、「ひなたGPS」の戦前の地図の『三條町』の町域(三条市街地区を中心とした部分。南には『三條町飛地』も確認出来る)であろうと推定する。
「高田」現在は上越市内(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「荒井」現在の上越市牧区荒井であろう。
「別所」ここに別所川が流れる。「ひなたGPS」で当該地を見ると、地名として「別所」の集落が確認出来た(左下方)。しかも、前の牧区荒井も「荒井」と書かれてある(右上方)。而してその地図を引くと、高田市街地と、この二箇所は、高田市街地の南東外と正三角形様位置にあって、叙述と整合するのである。
「越後の内には、井の内より潮出で、その水にて塩を焼く所あり」会津にあることは知っていたが、今回、「たばこと塩の博物館」公式サイト内の『たばこと塩の博物館だより』の『第15回 ~「移動」をともなわない塩適応(その2)』に、『【10】新潟県越後三島郡、魚沼郡の山中』で『近世には、製塩が行われた記録がある』とあった。私の「諸國里人談卷之一 塩の井」を参照。]