柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「奥州の仙女」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
奥州の仙女【おうしゅうのせんじょ】 〔梅翁随筆巻三〕筑前国遠賀郡〈福岡県遠賀郡〉の浦人ども伊万里のやきものを船に積みて、奥州へ商ひに下りけるが、山道に路みまよひ、行くほどに谷川にて、三十歳ばかりの女房の洗濯して居たるを見て道を尋ぬるに、此所は深山にて里へ通ふ道遠し、やがて日もくれぬべし、いたはしきよといふ。その詞《ことば》にすがりて色々に頼み、一夜の宿をかりけり。その女は生国は筑前国庄の浦〈現在の福岡県北九州市内か〉といふ所のものなりと申しけるゆゑ、このところに来り住居するよしを問ふに、女若かりし時、病《やまひ》にふして食もすゝまず、痩せ衰へけるゆゑ、我子ども螺貝《ほらがひ》に似たる貝をひろひ取りてすゝめしに、その味ひ甘く美なる事たとふべきものなし。それより食事《くふこと》出《いで》てその肉をことごとく喰ひ尽しけるころ、頓《やが》て病も愈えて、その後身体もとよりもすこやかになり、それよりしては病(やまひ)といふ事もなく、幾年を重ぬれども、老衰のかたもなく、我ながらいと怪しく思ふに、子も孫も、またその孫も幾代となく死替《しにかは》れども、その身はおもかげ変らず。あまりつれもなく思ひて、国々をめぐらんと思ひ、古郷を出て、今縁有りて此処に住するなり。我わかきころ寿永の乱に、安徳帝都を落ち給ひて、西海に漂泊し、刑部《ぎやうぶ》どのと申すをたのみ給ひて、山鹿(やまが)の東なる山奥に仮りの皇居を構へおはしませし頃は、みづからものなど供御《くご》に備へしなり。これ思へば幾とし月か過《すご》しけん、むかし語り《がたり》なり。わが身国を出し時、螺貝(ほらがひ)の殼は命の親なれば、記念とも見よかしと申しのこせしが、今も伝はりてやあらん。旅人のもし彼所《かのところ》にいたり給はん事もあらば、尋ねたまへかしと申しける。この商人《あきんど》珍らしくもまた怖ろしき事に思ひつゝ、国に帰りてこのよしを咄しけれども、まことに聞く人もなくて、狐狸にばかされたるならんと申すに、我もまた疑はしく思ひて、そのまゝに打過ぎける所に、寛政九年丁巳《ひのとみ》[やぶちゃん注:一七九七年。]筑前國遠賀郡庄の浦代官坂田新五郎、螺貝の事を尋ぬるに、同村の百姓伝治と申すものの家に、長寿貝とて持ち伝へたり。この貝の肉を食せし女、今に遠国存命いたし居るよし、老若《らうにやく》くちぐちに申し伝ふる処なり。またこの家に悪病人《あくびやうにん》ある事なく、代々八十歳九十歳の長寿をたもてり。よつて流行病(はやりやまひ)ある時は、この貝を出して村中をもち廻れば、人々病難をのがるとて、今にそのごとくに仕来《sききた》れりとて、今の貝を持来《もちきた》れり。長寿貝といふ名のめでたけれとて、筑前侯より一橋へ御覧に入れられしにより、御本丸へも上《のぼ》りぬ。その長寿にあやからんがために、貝の中へ入れたる酒を、女中衆《ぢよちゆうしゆ》より宿々へさし越しけるをば、みな人のしるところなり。この頃までは螺貝をばくらふ人なければ、商人なども持来《もちきた》る事なくて、生《いき》たる貝をば見たる人少なし。この長寿貝のまだ世に高くして、後は栄螺《さざえ》とおなじく荷ひ商ふ品となれり。<『退閑雑記後編巻一』に同様の文がある>
[やぶちゃん注:「梅翁随筆」作者不詳の寛政年間を中心とした見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページの「『○仙女傳之事』)で正規表現版が視認出来る。]
「福岡県遠賀郡」『ちくま文芸文庫』版では、『福岡県遠賀郡・北九州市』と追加されている。
「筑前國遠賀郡庄の浦」不詳。但し、「山口県文書館資料小展示」(二〇一九年二月『金谷』とある)の「山口県周辺の不老長寿伝説」(PDF)の「2. 寿命貝を食す」『筑前国遠賀郡の仙女:「美々婦久路」所収「筑前国遠賀郡庄の浦仙女寿命貝のあらまし」』に、『当館毛利家文庫』二十九『風説』四十一『「美々婦久路」に所収の「筑前国遠賀郡庄の浦仙女寿命貝のあらまし」は、福岡県北九州市若松区大字乙丸の貴船神社に伝わる、法螺貝を食って不老長寿を得た女性の物語です』。『概略は、「ある年筑前芦屋浦の船が、奥州津軽の海岸に船がかりをして瀬戸物を売り歩いていたが、ある時山奥へ迷い込んだ。洗濯していた女房が国はどこかと聞いて非常に懐かしがり、私の故郷も筑前だといって、泊めてもらって色々な話をしたが、この女はもう』六百『余歳であった。筑前にいた時分、病気になったが、子供たちが案じて珍しい貝を取って来て食わせてくれたら、すっかり回復したばかりか、衰え知らずになった。子や孫、ひ孫や玄孫にも先立たれたので、国を出て、全国を巡った末に津軽に来た。あの貝は自分の命の親なので、神職を頼んで、舟留松の近くの祠に納めてある。筑前に帰ったら尋ねてみてくれ、と伝言した。この商人が筑前に戻りそこを訪ねると、伝次郎という者の家にその法螺貝が伝わっていた」』とあり、『「ほら貝」を食って不老長寿を得たという話は、筑後山門郡本吉に別話があり、先述した八百比丘尼伝承地の一つに、「九穴の貝」を食べたことによるとする例があります。また、山口県響灘沿岸では、トコブシを「千年貝」「センネンゴ」とよぶことが知られています』とあった。因みに、福岡県北九州市若松区大字乙丸にある貴船神社はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、別な話があるという筑後山門郡(やまとぐん)本吉は、まず、現在の福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)本吉(もとよし)である。但し、ここだけは、有明海湾奥の内陸で、生きたホラガイをそこで入手するというのは、ちょっと無理がある。
「退閑雑記」松平定信の随筆。全十三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十四巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)で正規表現の当該部がここから視認出来る。こちらの話では、商人はその後、再び、津軽に赴き、女の故郷に行ってきたことを語っており、こちらは、そこで安徳帝が逃げ延びて行宮に入られたのは、『予がはたちばかりの事なりけん』と述べているシークエンスがある(ここの左ページ一行目以降)。寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日)であるから、寛政九年当時は、実に、彼女は、六百三十一歳であったことになるのである。]
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