譚海 卷之五 司天臺築建新曆成就の事
[やぶちゃん注:句読点・記号を変更・追加した。]
○西川忠三郞といふもの、長崎の人にて、曆學に通達せしかば、公儀へ召出(めしいだ)され、「天文生(てんもんしやう)」に仰付(おほせつけ)られ、江戶、柳原北原[やぶちゃん注:サイト「人文学オープンデータ共同利用センター」のこちらで江戸切絵図と地理院図の重ねで確認出来る。]に役所を賜り、始(はじめ)て司天臺を建(たて)られ、諸事、嚴重に御創立ありて、おらんだより御取寄(おとりよせ)ありし、西洋の天文に拘(かかは)りたる御道具をば、殘りなく、預け賜はり、關東に新曆を制する事に成(なり)たり。貞享[やぶちゃん注:一六八四年から一六八八年まで。徳川綱吉の治世。]已來(いらい)の曆法にて用ひ行(おこなは)れけれども、年月(としつき)、久敷成(ひさしくなり)て、歲差(としのさ)のたがひも出來(いでき)ければ、此度(このたび)、一年の晷(ひかげ)を測り[やぶちゃん注:日時計のように、影の落ちる長短を計測すること。]、新曆の法を御取立(おんとりたて)あるべき結構也。是、延享[やぶちゃん注:一七四四年から一七四八年まで。徳川吉宗・徳川家重の治世。]年中の事也。是より以前は、貞享曆[やぶちゃん注:日本人の手で初めて編纂された和暦。渋川春海の手によって完成したもので、貞享元年十月二十九日(一六八四年十二月五日)に採用が決定した。詳しくは当該ウィキを見られたい。]の法を持(もつ)て、京都土御門家にて、年々、曆を作り、調達をせし事成(なり)しが、此度(このたび)改(あらため)られしより、曆算、一時(いちじ)に明(あきらか)に成(なり)て、關東にて、新曆の法をもちて作(つくり)たる曆(こよみ)を、世上に、わかち行(おこなは)るゝ事とは、なりぬ。土御門は、只(ただ)、陰陽(いんやう)の業(わざ)を守り、下段の吉凶をしるす事のみに成(なり)たり。幾程もなく、忠三郞、卒去して、山路彌左衞門などと云(いふ)天文生、引續き、相勤(あひつとめ)けれども、是も、數年(すねん)の後、築地、「采女(つきぢうねめ)が原」[やぶちゃん注:同前のサイトのこちらを参照されたい。]へ屋敷を賜はりて、引移(ひきうつ)り、柳原の司天臺は御取彿(おとりはらひ)に成(なり)て、暫く、改曆の沙汰も絕(たえ)たりしに、安永[やぶちゃん注:一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。]中、佐々木文次郞と云(いふ)人、此道に委しかりしかば、御步行(おぶぎやう)[やぶちゃん注:漢字はママ。]より召立(めしたて)られ、天文方、仰付られ、牛込の居宅、神樂坂(かぐらざか)の上[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データでこの附近。]、高き處にて、司天臺を建(たて)らるゝに及ばず、かしこにて、御用相勤けるが、天明のはじめ、文次郞子(こ)、吉田靭負(ゆげい/ゆきえ)と云(いふ)もの、引(ひき)つゞき、父の業(ぎやう)を勤むる事に仰付られ、淺草、「鳥越原(とりごえはら)」[やぶちゃん注:「国立天文台」公式サイト内の「浅草鳥越堀田原図」に切絵地図とともに、ここにあった司天台(絵図では『頒暦所御用ヤシキ』とある)についての詳しい解説があるので、読まれたい。所持する江戸切絵図と現在の地図を対照すると、グーグル・マップ・データでは、この中央附近に相当する。]へ、居宅を賜はり、司天臺をも築かれ、かしこにて、ますます、晷(ひかげ)を、はかり、改曆の法を調へられ、西川氏存生(ぞんしやう)の如く、公儀の御道具、殘らず、借下(かりくだ)され、一年を經て、新曆の法、精一に成就し、今時(こんじ)行(おこなは)るゝ所の曆は、天明の改曆[やぶちゃん注:不審。天明(一七八一年から一七八九年まで。徳川家治・家斉の治世)期には改暦は行われていない。]を元として、用らるゝ事なり。全く、頒曆(はんれき)の事、關東の御手に入(いり)たるは、年來(ねんらい)の結構より成(なり)たる事也。曆家(れきけ)の法には、時々、妖星(ようれぼし)・奇異なる星等、出(いづ)る事ありて、御尋(おたづね)ありても、「存(ぞん)ぜざる」由(よし)を答(こたふ)る事也。其譯(そのわけ)は、「定星(ていせい)[やぶちゃん注:恒星のこと。]の天にあらはれたるは、元より家業の事にて、度數を、たがへず、覺悟仕(かくごつかまつ)りたれども、時として現ずる怪しき星は、いかなるものとも覺悟仕らず、全く正しき星に候はねば、善惡も分明仕らず。其證(そのあかし)には、一旦、星の樣に見へ候得ども、定星に候はねば、時過候得(ときすぎそうらえ)ば、程なく落(おち)て、消滅いたし候まゝ。家業の外成(なる)星は、一向存知不ㇾ申。」よしを言上(ぼんじやう)する事也。「是、天文家の定(さだめ)たる辭(ことば)也。」と、いへり。
[やぶちゃん注:私は天文学も暦学も全く興味がない(星ならば、遥かに連れ合いの方が詳しい)ため、注は結果して、辞書やネットで拾うだけのことになるので、必要と思った部分のみの文章内注で終わらせる。悪しからず。なお、底本の竹内利美氏の注に、『延享年中のこととあるのは、同年天文台を神田佐久間町に設けたことをさすらしい。また、天明改暦も誤りで、ただ天明二年』に、『天文台を牛込から浅草に移したという事実はある』とあった。]
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