譚海 卷之十 某御奉行長屋住居の儒者に狸物語の事 /(フライング公開)
[やぶちゃん注:現在、作業中である――ある仕儀(それは、近々、公開を開始する新規予定の続き物でね――それまでは――「ヒ、ミ、ツ♡」)――のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号を加え、読み易さを考えて、特異的に改行・段落を成形した。]
寬政六年[やぶちゃん注:一七九四年。第十一代徳川家斉の治世。]、寺社御奉行某殿(なにがしどの)にて、儒者を召抱(めしかか)へられけるが、下屋敷(しもやしき)に長屋を給(たま)ひありけるに、
「老人成(なり)ければ、御講釋相仕(あひつかまつ)り、深更に、御(おん)下屋敷まで罷歸(まかりかへり)候事、何とも、難儀仕候間、いかなる御長屋にても、御上屋敷に被ㇾ下(くだされ)、移住(うすりすみ)仕度(つかまつりたき)。」
由、願ひければ、長屋、穿鑿ありけるが、皆、人、住(すみ)て、一向、明長屋(あきながや)なく、只(ただ)壹軒、明長屋、あれども、
「是は。怪異ある長屋なれば、是まで、住居(すまひ)する人、なく、合羽(かつぱ)・籠(かご)など、入置(いれおく)所となし、有ㇾ之(これある)。」
よし。
主人も、
「いかゞ。」
と申されけれども、此儒者、
「私事(わたくしこと)、妻子も無二御座一候間、いかやうにても、苦しからず。」
段(だん)、達(たつ)て、願(ねがひ)ければ、其長屋を給ひ、修覆・掃除して、移(うつり)けるに、其夜より、老人、一人、來り、
「隣舍(となりや)に住(すむ)者。」
のよしにて、物語りしけるが、此老人、殊の外、珍敷(めづらしき)事を覺え居(をり)て、往々、天正[やぶちゃん注:一五七三年~一五九二年。]頃の事など、物がたりなどせしかば、儒者も、
『興ある事。』
に覺えて、怪異なるものをも、忘れ、
『よき友を得たる。』
心地して、親しく、かたらふ事、半年許(ばかり)ありしが、ある夜、此老人、來りて申(まうし)けるは、
「是までは、つゝみ居(をり)候へ共、我等事(われらこと)、まことは、人間には、あらず。年久敷(としひさしく)、此屋敷に住居致(いたす)狸にて、かやうに御心安く罷成(まかりなり)候が、我等事(われらこと)、命數(めいすう)、盡きて、近日に相果(あひはて)候間、もはや、參る事も、あるまじく。」
と申候へば、儒者、大きにおどろき、そのわけを問ひければ、
「前年までは、御臺所(おだいどころ)にも、食物(くひもの)、餘計、落(おと)すたりども[やぶちゃん注:ママ。「棄てる物ども」]、有ㇾ之(これあり)、それを、たべ候(さふらふ)て、存命(ぞんめい)致し候が、所々、近年、御儉約、つよく相成(あひなり)、左樣なる給物(たべもの)も、少(すくな)く相成(あひなり)、食事、とぽしきゆゑか、次第に氣力も衰へて、病身に罷成候。」
と申(まうす)。
儒者、
「それは、氣の毒成(なる)事なり。さやうの事ならば、我等、一飯をわけて遣(つかは)すべし。何とぞ、存命いたす事、相成可ㇾ申(まうすべく)や。或は、醫療等にても、生延(いきのび)相成事ならば、又、いかやうにも致し遣可ㇾ申(つかはしまうすべし)。」
といひければ、老人、
「とかく、さやうの事にて助かる事に候はず。全く、命數盡(つく)る所なれば、致方(いたしかた)なく、是非なき事に候。」
と申。
儒者、聞(きき)て、
「それほどに決定(けつぢやう)したる事ならば、何とも、しかたなき事とおもはれたり。然しながら、是まで懇意せし報(むくい)に、何ぞ、好物(こうぶつ)のものあらば、振舞(ふるまひ)たし。」
と、いへば、
「千萬(せんばん)かたじけなし。左(さ)やうならば、餅を、何とぞ、御振舞下さるべく、明夜(みやうや)、參るべし。但(ただし)、明夜は、有(あり)ふれたる形にて參るべし。かやうに人間の體(てい)をなしてまゐる事は、われらも、はなはだ、窮屈成(なる)事なるうへ、もはや、氣力も盡(つき)候間、人のかたちに成る事も、大儀に候間、明夜、參(まゐり)たらば、かならず、是迄の挨拶に仰(おほせ)られ候ては、甚(はなはだ)めいわくに仕(つかまつり)候よしを、いひて、歸(かへり)ける。
扨(さて)、翌日の夜、餅を才覺して、土間にさし置きけれは[やぶちゃん注:ママ。]、その夜九つ時過(どきすぎ)[やぶちゃん注:午前零時過ぎ。]、はたして椽(えん)の下より、瘦せ衰ろへ、毛も落(おち)、とゞろなる[やぶちゃん注:ママ。意味不明。「老いさらばえて見る影もない」の意か。]狸、一疋、出(いで)て、此「もち」を、くらひけるが、度々(たびたび)、噎咳(いつがい)[やぶちゃん注:噎(むせ)せったり、咳をすること。]して、漸(やうやう)に、喰ひをはり、また、ゑん[やぶちゃん注:ママ。]の下ヘ入(いり)ける。
その後(のち)は、絕えて、見えず。
右の趣(おもむき)、儒者、主人へも申上(まうしあげ)ければ、
「奇怪。不便(ふびん)なる事なり。定(さだめ)て、その死骸、あるべし。とぶらひ葬(はうふり)て遣(つかは)すべし。」
とて、椽の下をはじめ、諸所、尋(たづね)させられけれども、一向、其死骸は、みえざりしと、いへり。
[やぶちゃん注:「寺社御奉行」定員四名。この当時は、高崎藩主松平輝和(てるやす)・松山藩主板倉勝政・篠山藩主青山忠裕・播磨国龍野藩主脇坂安董(やすただ)である。]
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