南方閑話 巨樹の翁の話(その「三」)
[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。
これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。]
三
佐々木喜善君が書かれた近江の栗の大木の話(『閑話叢書』の内、「東奧異聞」參照)は予には耳新しいが、是は「今昔物語」の最末語に、「近江國栗太郡《くるもとのこほり》に大きなる柞(はゝそ)の樹、生《おひ》たりけり。其圍《めぐり》五百尋《ひろ》也。然れば其木の高さ、枝を差《さし》たる程を、思い遣るべし。其影、朝には丹波國に差し、夕《ゆふべ》には伊勢國に差す。霹靂《へきれき》する時にも、動かず。大風、吹く時にも、搖《ゆる》がず。而《しか》る間、其國の志賀・栗太・甲賀《こうか》三郡《さむぐん》の百姓、此木の、蔭を覆ふて、日、當たらざる故に、田畠を作り得る事なし。此《これ》に依《より》て其郡々《こほりこほり》の百姓等《ら》、天皇(てんわう)に、此由を奏す。天皇卽ち掃守宿禰(かにもりのすくね)□□等を遣《つかは》して百姓の申すに隨《したがひ》て此樹を伐倒《きり》してけり。然《しか》れば、其樹、伐倒して後ち、百姓、田畠を作るに、豐饒《ぶねう》なる事を得たりけり。彼《かの》奏したる百姓の子孫、今に其郡々に在り。昔は、此(かゝ)る大きなる木なむ有《あり》ける。此れ、希有の事也となむ語り傳へたるとや」と有りて、何帝の御時と明示せず。「先代舊事本紀」には、景行天皇四年春二月甲寅、天皇幸箕野路、經淡海、一枯木殖梢穿空入空、問於國老、曰神代栗木、此木榮時、枝並於山嶽、故並枝山(ひゑのやま)、又並聯高峰、故曰並聯山(ひらのやま)、每年葉落成土、土中悉栗葉也云々〔景行天皇四年の春二月の甲寅(かのえとら)に、天皇(すめらみこと)、箕野路(みのぢ)に幸(みゆき)す。淡海(おうみ)を經(す)ぐるに、一つの枯れ木より殖(お)ひし梢は、空(くう)を穿(ぬ)きて、空(そら)に入る。國老に問ふに、曰はく、「神代の栗の木なり。此の木の榮ゆる時は、枝は嶽(がく)に並ぶ。故に「並枝山(ひえのやま)」といふ。又、並びて、高き峰に聯(つら)なる。故に「並聯山(ひらのやま)」と曰ふ。每年、葉、落ちて、土と成る。土中、悉く、栗の葉なり。」云々〕とあるが、これは有名の僞書で、「和漢三才圖會」六一に、按燃土江州栗本郡[やぶちゃん注:ママ。]【石部・武佐、二村ガ邊。】、掘山野取之、土塊黑色、帶微赤、以代薪亦臭【石炭者石類也與此而不同。】、理似腐木而硬、亦非石也、越後【寺泊柿崎二村交。】亦有之、相傳、昔神代有栗大木、枯倒埋地亘數十里、因其處名栗本郡、故有此物也、然越州亦有之、則恐此附會之說也、日本紀云天智帝七年越後獻燃土與燃水者是矣。〔按ずるに、燃土(すくも)は、江州栗本郡【石部・武佐二村が邊り。】にて、山野を掘りて、之れを取る。土塊(つちくれ)は、黑色にして、微赤を帶ぶ。以つて薪(たきぎ)に代ふ。亦た、臭(くさ)し【石炭は石類なり。此れとは同じからず。】理(きめ)は腐木(くちき)に似て、硬く、亦、石に非ざるなり。越後にも【寺泊・柿崎二村の交(かひ)に。】亦、之れ、有り。相傳ふ、「昔、神代に栗の大木有り、枯れ倒(たふ)れて、地に埋(うづ)むること、數十里に亘(わた)る。因りて、其の處を『栗本郡』と名づく。故に、此の物有り。」と。然れども、越州にも亦、之れ有るときは、則ち、恐らくは、此れ、附會の說ならん。「日本紀」に云ふ、『天智帝七年、越後より燃ゆる土と、燃ゆる水とを獻ずるといふ者は是れなり。〕と見える如く、栗本郡の名と、其地に、泥炭を出《いだ》すより、昔しは「柞」と傳へしを、「栗」として捏造した說だ。
[やぶちゃん注:「東奥異聞」は坂本書店の『閑話叢書』の一冊で、佐々木喜善が奥州で採集した民譚集。大正一五(一九二六)年三月刊。当該部は新字新仮名だが、国立国会図書館デジタルコレクションの一九六一平凡社刊『世界教養全集』第二十一巻ここ(「巨樹の翁の話」の「一」右ページ上段の後ろから九行目以降)で視認出来る。「青空文庫」で同刊本で電子化されているので、そちらの方が読み易い。それを原本と確認しつつ(漢字の一部が一致しないので訂した)、掲げる。最後の三つの注は原本では、一字下げポイント落ちで二行目に及ぶところは二字下げであるが、完全に引き上げて本文と同ポイントとした。頭の章番号「一」は外した。
*
樹木伝説のうちに、ある巨樹を伐り倒そうとするにあたりその伐り屑が翌日になれば元木に付着していて、どうしても伐り倒すことができなかったが、ある事よりその樹木のために悩まされているものの助けによって伐り倒し成功するという伝説が諸所にある。いまその伝説をわが奥州地方に求めると、自分の手近にある東奥古伝という写本に、稗貫郡高松(1)という所の山に、高松という孤松一樹ありその高さ虚空に聳え重葉四隣を蔽うた。この樹の精霊、時の帝闕[やぶちゃん注:「ていけつ」。宮廷。]を犯し奉りしによって、勅宣下って伐り倒したとの言伝えであるが、時代さらに確かならずと書いてある。この書の著者は、元祿の初めころに奥州に下り花巻城主北氏に寄寓していた京都の画家松井道円(2)という者で、こういう奥の口碑を写しながらも心が故山に馳せていたとみえて、この文のくだりに下のような付説を録している。[やぶちゃん注:以下が、熊楠が指示しているもの。]いわく、ある説にいう人皇十二代景行天皇六十年十月、帝御悩ありて甚だし、ある者は諸寺諸山に祈禱あり医術を尽くすといえどもさらにそのしるしなし、ここに一覚といえる占い者があって彼を召して卜筮をなさしむるにいう、これより東にあたりて大木あり、その木の精霊帝を悩まし奉る。はやくその木を退治せられなば、御悩すみやかに平安ならんと奏す。ここによってその木を尋ねみるに、近江の国に一郡を蔽えるクリの木あり枝葉九里四方にはびこり、その木の囲み数十丈、これぞ尋ぬる木なるべしとて人夫を催し毎日これを伐らしむるに、夜になればその伐り屑合して元のごとくになっている。毎日伐りても右のとおりなので、ここにおいてまたかの一覚を召し出して相談をかけると一覚申すよう、伐るところの屑を毎日焼き捨てたならばかならず伐り尽くさん、われはこれ、かの木に敵対するカツラの精なり、数年彼と威を争うこと久し、その志いま帝にさし向かい奉るとて搔き消すようにその姿は失せにけり。そこで一覚が申すとおり木屑を焼き捨てやっと七十余日かかって、その木を伐り倒したので、かくて帝の御悩御平癒ましましければその樹の生いありし所を名づけて栗田郡と号しけるとなん。……と著者はいってからまたさらにあれと同型同様の伝説はこのほかに、刈田郡、槻郡(3)といえる地方にもありと付記している。
松井という人は昔の人だから、この近江のクリの木の伝説はなんという本にあることかその出所を明らかにせなかったが、けだしこれは有名な話であろう。奥州の山村には大図書館がないので古典に拠ることが能わぬからこの話の穿鑿はこのまま放っておき、そのかわりに同種同式の新しい話を左におみやげにする。
(1)岩手県稗貫郡矢沢村字高松、いまその跡に一祠堂あり。
(2)この京都の画家、奥州花巻城の松の間、葉の間の絵を書きしをもって有名なる人。
(3)宮城県の磐城国の苅田郡[やぶちゃん注:「かったのこおり/ぐん」と読む。]ならん、槻郡というはいまその類書もたぬから自分にはわからず。
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熊楠は「予には耳新しいが」と言っているが、ここには熊楠特有のイヤミが示唆されている。「君は『けだしこれは有名な話であろう』なんどと、無批判に言っておるが、出典は明らかじゃないいだろ! さればこそ、この松井道円が勝手に作話した部分があるんじゃねえのか?」と言いたいのだ。しかし、これに就いては、次の「四」で捏造の証拠を熊楠はしっかりと示してはいる。イヤミの言いっぱなしではない。「今昔物語集」の掉尾にあるそれは、「卷第三十一 近江國栗太郡大柞語第三十七」(近江國(あふみのくに)栗太郡(くりもとのこほり)の大柞(おほははそ)の語(こと)第三十七)。読みは、所持する小学館『日本古典文学全集』の「今昔物語集四」(昭和五四(一九七九)年第四版)に拠った。人名部分に欠字があるのを熊楠は略しているので、□で補塡した。以下の注でも同書を参考にした。
「栗太郡」同全集の頭注に、「大日本地名辞書」を引き、『西は湖水及瀬田川を以て滋賀郡と相限り、東は甲賀郡、北は野洲郡に接す』とある。明治期のものだが、当該ウィキの地図で確認出来る。但し、後の「東海道名所図会」で引く「灰塚山」が、その伐採した柞の木の灰で出来たとあり、その山は現在の滋賀県栗東(りっとう)市下戸山(しもとやま)のこの「灰塚橋」交差点の北部分(名神高速道路との間。山の高速を挟んだ北西に「灰塚池」もある)が、そこである(グーグル・マップ・データ航空写真)。灰塚橋の対岸から見たストリートビューもリンクさせておく。
「柞(はゝそ)」ブナ目ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata の古名。
「五百尋」「尋」は身体尺で両手を左右に広げた伸ばした長さで、概ね六尺=一・八メートルとされるので、九百メートル。文字通り、天を突き抜けるような、超巨木ということになる。この木ではないが、後に本文でも出る「筑後国風土記逸文」に載る「楝木(あふちのき)」(ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の別名(オウチ))は実に「九百七十丈」(二千九百三十九メートル)あったとある。
「掃守宿禰」「掃守」は「掃守寮」の役人。宮内省に属し、宮中の掃除・設営を司った。「宿禰」は「八色(やくさ)の姓(かばね)」の第三位。
「先代舊事本紀」は、この熊楠の引用した部分を国立国会図書館デジタルコレクションの同書では発見出来なかった。同書については、当該ウィキを見られたい。偽書説も詳しく記されてある。さても、仕方がないので、訓読は「選集」に拠った。
「箕野路」美濃路か。
「淡海」琵琶湖。
『「和漢三才圖會」六一に、按燃土江州栗本郡石部武佐二村邊、……』所持する原本で確認したが、熊楠の引用は甚だ不全で、腹が立ったので、大きく増補して、「燃土(もゆるつち) すくも」の項の本文を完全に収録し、二行割注は【 】で示した。訓読も原本の訓点に拠った。]
「今昔物語」の文も、「日本紀」に、景行帝十八年『秋七月』、『到筑紫後國御木居於高田行宮、時有僵樹長九百七十丈焉、百寮踏其樹而往來、時人歌曰』云々、『爰天皇問之曰是何樹也、有一老夫曰、是樹者歷木(くぬぎ)也、甞未僵之先、當朝日暉、則隱杵島山、當夕日暉、亦覆阿蘇山也、天皇曰、是樹者神木、故是國宜號御木國。〔『秋七月』、『筑紫の後國(みちのしりのくに)、御木(みけ)に到りて、高田の行宮(あんぐう)に居(まし)ます。時に僵(たふ)れたる樹(き)有り。長さ、九百七十丈(ここのほつおうぇあまりななそつゑ)なり。百寮(ももちのつかさ)、其の樹を踏(ほ)むで、往來(かよ)ふ。時の人、歌いて曰く』云々。『爰(ここ)に、天皇(すめらみこと)、問ひて曰(のたま)はく、「是れ、何の樹ぞ。」と。一老夫(ひとりのおきな)有りて曰(まう)さく、「是の樹は歷木(くぬぎ)なり。甞(むかし)、未だ僵れざる先(さき)に、朝日の暉(ひか)りに當たりては、則ち、杵島山(きしまのやま)を隱しき。夕日の時に當たりては、亦、阿蘇山を覆(かく)しき。」と。天皇、曰(のたま)はく、「是の木は神木(あやしきき)なり。故(か)れ[やぶちゃん注:だから。]、是の國を宜しく『御木國(みけのくに)』と號(なづ)くべし。』と。〕と有るを沿襲したらしく、「舊事本紀」、亦、同樣と見える。「東海道名所圖會」、亦、近江の目川《めかは》と梅木(うめのき)の間(あひだ)に、古え[やぶちゃん注:ママ。]、大栗の樹有り。朝日に影を湖南に宿し、夕日には伊勢路に移す。爲に、數十里が間だ、農事を營み得ず。朝廷、命じて、之を伐り、燒き盡した灰で、「灰塚山(はひづかやま)」てふ山が出來た、と記す。「近江輿地誌略」四一には、『此山、栗太《くりもと》郡川邊村にあり。高さ二十間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]許り。掘[やぶちゃん注:底本「堀」。訂した。]れば、悉く、灰也と云ふ。』と載す。――爰までは單に大木の話だ。(二月七日稿)
[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」で補った。「日本書紀」の原文は信頼出来るネット上のものと校合し、訓読は概ね、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓讀 中卷」(昭和六(一九三一)年岩波文庫刊)の当該部に従った。原文は随所に省略があるため、特異的に『 』を添えた。
「筑紫後國」筑後国。
「御木」「高田行宮」福岡県大牟田市歴木(くぬぎ)にある高田行宮伝承地(グーグル・マップ・データ)。旧三池炭鉱にごく近いことが判る。
「歷木(くぬぎ)」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima 。
「杵島山」一山ではなく、佐賀県南西部にある丘陵性の杵島山地を指す(グーグル・マップ・データ航空写真)。
『「東海道名所圖會」、亦、『近江の目川と梅木の間に、……』秋里籬島著のベストセラーの当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの一九七六年日本資料刊行会刊のここで視認出来る。読みは、それに従った。
「近江輿地誌略」原本に当たれなかった。
以下、注記で、底本では全体が一字下げでポイント落ちだが、総て引き上げた。一行空けはママ。]
藤澤氏の『日本傳說叢書』「和泉の卷」に、「泉のひびき」を引《ひき》て、泉南郡新家《しんげ》村兎田《うさいだ》の兎才田川《うさいたがは[やぶちゃん注:清音は参考原本のママ。]》の西に、昔し、大木あり[やぶちゃん注:底本「なり」。「選集」で訂した。]。其影、朝日に淡路島に到り、夕日には高安山《たかやすやま》を越ゆ。之を伐《きり》て船とし、いと速く走つたので、舟を「輕野《かるの》」と名づく云々、其木の跡、今も存す、とある。(大正十一年六月『土の鈴』一三輯)
[やぶちゃん注:最後の書誌は「選集」で補った。以上の引用は例によってかなり杜撰。国立国会図書館デジタルコレクションの藤沢衛彦編(大正九(一九二〇)年日本伝説叢書刊行会刊)のここから視認出来るので、そちらを必ず読まれたい。この記紀に載る伝承、私はとても好きな話で、見られれば判るが、続きがあって、船が老朽した後、その船材を塩焼きに使ったが、燃え残った材があったので、それで琴を作ると、その音(ね)は七里四方に響き渡ったというのである。この「輕野」は「枯野」(からの)の訛りとされる。高速を出せた船も、遠くにまで響き渡った琴も、名は「枯野」であった。
「泉南郡新家村兎田の兎才田川」大阪府泉南市兎田(うさいだ:グーグル・マップ・データ)。「兎才田川」は不詳。同地区を抜ける川は「樫井川」(かしいがわ)であるが、その旧称か、当該流域での部分川名かも知れない。
「高安山」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]
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