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2023/08/02

南方閑話 神樣の問答を立聞した話

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、 南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行・段落成形もすることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされるか読者には非常に不便だからである)。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。

 より詳しい凡例は初回の冒頭注を見られたい。今回の分は、ここから。]

 

      神樣の問答を立聞した話

 

 西鶴の「男色大鑑《なんしよくおほかがみ》」七の三章に、「袖も通さぬ形見の衣《ころも》 子安の地藏は僞りなし 思はくの紋楊枝《もんやうじ》は口に入物《いるもの》 正月二日の曙の灰《はい》よせ」てふ題辭で、大阪『道頓堀の眞齋橋に人形屋の新六といえる人、手細工に獅子笛或は張貫《はりぬき》の虎、又はふんどし無しの赤鬼、太皷持たぬ安神鳴《やすがみなり》、これみな童子《わらべ》たらしの樣に拵へて、年中、丹波通ひして、其戾りには、竹の皮、荒布《あらぬの》に肩替《かたかへ》て、靜《しづか》なる心なく、元日より大晦日《おほつごもり》迄、夫婦《ふうふ》の口過ぎ許りに、去《さり》とはせはしく、橋一つ南へ渡れば、常芝居《じやうしばい》の在るに、遂に見た事もなし。燈臺本《とうだいもと》油《あぶら》の耗《へ》るを嘆き、始末心《しまつごゝろ》より是なり。此人或時、道に行暮《ゆきくれ》て里《さと》遠く、村雲《むらくも》、山も時雨《しぐれ》催ほして、風は松を噪《さは》がせて次第に淋敷成《さびしくなれ》ば、漸《やうや》う子安の地藏堂に立寄《たちより》て寒き一夜《ひとよ》を明《あか》しぬ。既に夜半と思ふ時、駒《こま》の鈴音、けはしく耳驚かし、旅人かと立聞《たちぎき》せしに、形は見えずして御聲《みこえ》新たに、「お地藏、お地藏。」と呼《よび》給ひて、「今夜の產所へ見舞《みまひ》給はずや。丹後の切戶(きれど)の文珠ぢや。」と宣へば、戶帳《とちやう》の内より、「今宵は思ひ寄らざる泊り客あり。役々《やくやく》の諸神諸佛によきに心《こころ》し給へ。」と言ひ別れ給ひ、其の夜《よ》の曉方《あかつきがた》に、又、文珠の聲し給ひて、「今宵、五畿内許りの平產《へいざん》一萬二千百十六人、此内、八千七十三人、娘なり。中にも攝津國《せつつのくに》三津寺八幡《みつでらはちまん》の氏子《うづこ》、道頓堀の楊枝屋に願ひの儘なる男子、平產せし。母、喜ぶ事、淺からず。大きなる顏して、味噌汁の餅、食ふ抔《など》、人間《にんげん》行末《ゆくすゑ》の身の程、知らぬは、淺まし。此子、美形に育ちて、後《のち》には藝子《げいこ》に成りて、諸見物に思ひ付かれ、是れ、盛んの時、至りて、十八歲の正月二日の曙《あけぼの》の夢と、有限《かぎ》[やぶちゃん注:二字への当て訓。同作原本に拠った。]りの命、世間の義理故に捨《すつ》る若衆《わかしゆ》ぞ。」と、先《さき》を見開きての御物語《おものがた》り、ありありと聞《きき》しに、程なく常の夜も明白《あけしら》み、新六、地藏堂を起別《おきわか》れ、丹波より難波《なには》に歸りて見しに、南隣《みなみとま》り楊枝屋に、日も時も違《たが》はず、男子《なんし》產出《うみいだ》して、「今日《けふ》六日。」とて、親類、集り、始めて髮垂るゝ祝言《しゆうげん》より、此子は備はりて野郞下地《やらうしたぢ》也。』。それから、「戶川早之丞《とがははやのじよう》」と名乘《なのつ》て、若衆形《わかしゆがた》の役者になり、當時の名優『藤田小平次に揉(もま)れて、武道殊更にしこなして、尾上源太郞《をのへげんたらう》が替《かは》りにも成るべき者と』言はれたが、同輩中の一人を兄分《あにきぶん》として、客人《きやくじん》に疏《うと》くなり、正月、衣裳に事缺《ことかい》て、二日の初芝居に出る事成《なら》ず、自殺した。『扨《さて》も、死《しな》れぬ處を、少しの義理に詰《つま》りて、武士もなるまじき最後、末々(すゑずゑ)の世の、語り句《く》ぞかし。物は爭はれぬ事、子安の地藏の御詞《おんことば》、思ひ合《あは》すれば、洵《まこと》に正月二日の骨佛《こつほとけ》とはなりぬ。』とある。

[やぶちゃん注:『西鶴の「男色大鑑」七の三章に、……』同書は貞享四(一六八七)年四月板行で全八巻・各巻五章・計四十章から成る、浮世草子として初の男色物(なんしょくもの)であった。当該話は当該ウィキによれば、『道頓堀心斎橋の人形屋新六は、旅中に行き暮れ、丹波の子安こやすの地蔵堂で夜を過ごしたが、そこに切戸の文殊が現』は『れ、今夜、道頓堀の楊枝屋に生まれた男の子は、芸子になって』、『十八歳の正月二日に早死にする』、『と予言するのを聞く。帰ってみると、その日』、『楊枝屋に男の子が生まれていた。その子は十三歳からその道に入り、戸川早之丞と名乗って大和屋甚兵衛座に出て評判をとったが、役者仲間の念者』(ねんじゃ:男色関係に於いて、若衆を寵愛する側の男を指す。衆道の兄分(あにぶん)で「念人」(ねんじん・ねんにん)「念士」等と呼んだ)『に溺れて』、『客を大事にしなかったため、極貧の状態となった。大晦日に借金を払えず、芝居衣裳を』呉服屋に『取り戻され』てしまい、『初芝居に着ていくものもないのを恥じて、正月二日に自害して果てた』と梗概がある。本文は国立国会図書館デジタルコレクションの博文館『帝国文庫』版『西鶴全集』上巻(尾崎紅葉・渡部乙羽校訂・明治二七(一八九四)年で校合した。巻頭の標題はここから(南方熊楠は小見出しに読点を打って繋げているが、分ち書きなので、字空けとした)で、本文はここから。この話全体は短く、すぐに読める。但し、原文には歴史的仮名遣の誤りがあったり、熊楠が漢字表記としている箇所が多分にひらがなであったりするので、ここは勘案して、読み易さを考え、折衷した箇所が多くある。また、原本にもルビがなく、迷った箇所については、国立国会図書館デジタルコレクションの『古典日本文学全集』第二十二巻の同作の現代語訳(一九六五年筑摩書房刊)の当該部を参考にした(例えば、「燈臺本《とうだいもと》油《あぶら》の耗《へ》るを嘆き」の読みと、その切れ等)。

「野郞下地」「野郞」は「男色の受け手となる若衆の象徴である前髪を剃り落とした歌舞伎役者」を指す語。徳川家綱の治世(前年に家光は死去している)の慶安五(一六五二)年、「若衆歌舞伎」の興行が、「衆道」(しゅどう:男色)の悪弊があったことから、幕府から禁止されたが、見た目がはっきりと異なる中性的「若衆」が、見かけ上の「野郎」になることで、興行の再開が許された。歌舞伎興行の再開が許されたのは承応二(一六五三)年三月であることから、これを以って「野郎歌舞伎」の始まりとされる。]

 

 此書が出た貞享四年[やぶちゃん注:一六八七年。徳川綱吉の治世。]より二十三年後、寶永八年[やぶちゃん注:一七一〇年。徳川家宣の治世。]に成つた自笑の「傾城禁短氣《けいせいきんたんき》」二にも、『難波《なには》の戶川早之丞は、勤め子(ご)[やぶちゃん注:校合本文の頭注に『舞臺に勤めてゐる俳優といふ意か』とある。]なれども、同じ役者に、念友《ねんいう》有りて、此の兄分《あにぶん》が仕過《しすご》しのたゝまり[やぶちゃん注:同前で、『仕過しは人形遣より出た言葉で「價をすますべきほどの買手はよきに、身にかなはぬ程買過して不捋なる事をいふ」。(『色道大鏡』)たゝまりとは原因が重り重つて現れた結果をいふ。こゝにては放埒の結果といふ意』とある。]、大晦日に一度《いちど》に起つて來て、借銀(しやくぎん)故に、一命捨つる眼色(がんしよく)を見て、念者《ねんじや》の命《いのち》を助けん爲め、初狂言の舞臺衣裳、其の外の道具迄、質(しち)に置いて、兄分の難儀を救ひ、其の身は正月二日の朝、衣裳無くて、芝居の勤まらぬ事を思ひやり、念友の役者の方(かた)へ一筆を殘し、あへなく自害して果てぬ。然《しか》も此の兄分、末(すゑ)の役者にして、我《われ》を引き𢌞す程の爲になる男にも有らぬに、斯かる志《こころざし》、女宗方[やぶちゃん注:「ぢよしゆうかた」で、「男色宗」(若衆道)に対する異性愛者、女色宗。]は怪我《けが》にも有るまい、但し、勤めの身を捨てて、男を助けし例《ため》しや有る。」と、川原寺《せんげんじ》の日尻《にちぐわん》が論じ有るを見ても、早之丞の自殺が長く人口に膾炙したと判る。

[やぶちゃん注:「傾城禁短氣」浮世草子。江島其磧(きせき:京都方広寺前で大仏餅を商う富裕な商家の四代目で、西鶴以後の最大の浮世草子作家となった)作。宝永八(一七一一)年刊。六巻全二十四話。題簽角書(つのがき)には「色道大全」とある。「禁短気」は「禁談義」のモジリで、談義・説法・宗論の形を借りて、女道と衆道(しゅどう)・公娼と私娼の優劣・遊女と遊客の駆け引きや心得などを説く。其磧の好色物中の集大成ともされる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションで調べると、伏字だらけのものが多いのだが、よくそれが起こされてある『評釈江戶文學叢書』第二巻(昭和一二(一九三七)年大日本雄弁会講談社刊)所収の当該部(右ページ八行目以降。「二之卷」の「第二」「身揚(みあが)りはくつわの方便品(はうべんぼん) 付《つけた》り 屆けの文(ふみ)は顏見世の花の種(たね)」)で校合した。頭注にもあるが、先の「男色大鑑」の記載と比べると、やや異なっている

「川原寺の日尻」この巻の語りの主人公「四條川原寺の日尻」。こちらの頭注に(太字は底本では傍点「ヽ」)、『四條川原・宮川町附近には蔭間茶屋が多かつたので、それに因んでつけた。日尻は男色の緣で、日蓮宗の僧侶めかしてつけたのである。原本の字の下部九をと書いて、それをグワンとよませたのである。勿論俗間お誤でそんな字はない』とあった。]

 

 子安の地藏が其堂に泊つた旅人保護の爲に、出產の所々を見舞ひ能《あた》はなんだ譯は、「地藏菩薩本願經」(于闐國《うてんこく》の三藏沙門學喜が唐に入《いり》て譯せし所)「見聞利益品《けんもんりやくぼん》」に、若未來世、有善男子善女人、或因治生、或因公私、或因生死、或因急事、入山林中、過渡河海、乃及大水、或經險道、是人先當念地藏菩薩名萬遍、所過土地鬼神衛護、行住坐臥、永保安樂、乃至逢於虎狼獅子、一切毒害、不能損之。〔若(も)し、未來世に、善男子・善女子、有りて、或いは治生(ぢしやう)に因(よ)り、或いは公私に因り、或いは生死(しやうじ)に因り、或いは急事(きふじ)に因り、山林の中に入り、河海及び大水(たいすい)を過ぎ渡り、或いは險しき道を經(ふ)るとき、是の人、先づ、當(まさ)に地藏菩薩の名を念ずること、萬遍(ばんぺん)なるべし。過ぐる所の土地(うぶすな)の鬼神、衞護して、行住坐臥に、永(つね)に安樂を得(う)。乃至(ないし)は、虎・狼・獅子に逢ふとも、一切の毒害、之れを損ふ能はず。〕とあり、「閻羅王衆讃歎品」には、有一鬼王名曰主命、白佛言、世尊、我本業縁主閻浮人命、生時死時我皆主之、在我本願甚欲利益。(中略)產難時有無數惡鬼、及魍魎精魅、欲食腥血、是我早令舍宅土地靈祇荷護子母、使令安樂而得利益〔「主命」と曰(い)ふ名の一鬼王有り、佛に曰(まう)して言(い)はく、「世尊よ、我、本(もと)、業緣(ごふえん)あつて、閻浮(えんぶ)の人命を主(つかさど)り、生死(しやうじ)の時は、我、皆、之れを主る。我が本願に在(あ)りては、甚だ利益(りやく)せんと欲するなり。(中略)產難(さんなん)の時は、無數の惡鬼及び魍魎精魅(もうしやうせいび)有りて、腥(なまぐさ)き血を食らはんと欲す。是(ここ)に、我は、早(つと)に舍宅土地の靈祇(りやうぎ)をして、子と母を荷(にな)ひ護(まも)らせしめ、安樂にして、利益を得さしむ。」と。〕と有つて、本《も》と、地藏菩薩の眷屬・諸鬼神が、其命《めい》に由《よつ》て、出產をも、旅客をも、守つたのを、追々、菩薩自分が、旅人看護と產褥訪問に忙殺さると信ずるに至つたのだ。

[やぶちゃん注:「地藏菩薩本願經」の白文は中文サイトの「地藏菩薩本願經」の「見聞利益品第十二」にあるものと、「大蔵経データベース」の二種とで校合した。熊楠の引用には脱落があるので補塡した。また、「閻羅王衆讃歎品」は「大蔵経データベース」で校合した。

「于闐國」シルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国ホータン王国(ガンダーラ語:コータンナ)。当該ウィキによれば、『タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では』『新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では』、「于闐」(うてん)・「于寘」(うてん)で、『コータン王国とも書かれる』とあった。地図もあるので参照されたい。

 なお、次の段落は、話しを読み易くするために、改行・段落を成形した。]

 

 地藏堂に泊つた旅人が、文珠と地藏の話を聞《きい》たに似た支那譚は、元の陶宗儀の「輟耕錄」九に出づ。

 臨海の章安鎭の蔡姓《さいせい》の木匠、一夕《いつせき》、斧を持つて家に歸る途上、東山《とうざん》の葬地《さうち》に至り、沈醉中の事とて、自分の家に着《つい》たと惟《おも》ひ、其處に在《あつ》た棺を寢臺と心得て、其の上に寢た。

 夜半、酒、醒《さめ》たが、眞《しん》の闇で、行く事、成《なら》ぬから、依然、棺の上に坐し、夜明けを待つ内、誰か來つて高く呼ぶと、棺の中より答へて、

「われを喚ぶは、何の用事ぞ。」

と問うた[やぶちゃん注:ママ。]。

 彼《か》れ、云《いは》く、

「某氏の娘は損證《そんしやう》を病む。是は、其の家の後園の葛大哥《かつたいか》がその娘を淫《いん》し居《を》るのだ。處が、今夜。彼《かの》家に法師を請《こふ》て、鬼を捉へしめると聞く故、伴《とものふ》て見に行かうで無いか。」

と。

 棺中より云く、

「我に、客、あり。泊り居るから、行く事は成《なら》ぬ。」

と。

 夜明けて、蔡、彼家に詣《いた》り、

「娘子《むすめご》の病《やまひ》は、我れ、癒すべし。」と云う[やぶちゃん注:ママ。]と、主人、果して、

「然《しか》らば、厚く、禮、せう。」

と云た。

 因《より》て、

「此家の後園に、葛を植ゑ有りや。」

と問ふに、

「左樣。」

と答ふ。

 そこで、其根を掘ると、甚だ大きく斫《き》れば、血を出《いだ》す。其を煮て、娘に食はすと、病が癒《いえ》た相《さう》だ。

 葛とはクズらしい。

 佐々木君が述べられた、葛の精が、栗の大木を伐る法を、人に告げた譚の葛は、カツラと訓《よ》ませあつて、何のカツラか知らぬが(『閑話叢書』のうち「東奧異聞」參照)、クズを意味するなら、和漢共に「葛に精あり。」と信ぜられた證になる。(大正十一年二月七日稿)(大正十一年四月『土の鈴』一二輯)

[やぶちゃん注:最後のクレジットと書誌は「選集」で補った。「輟耕錄」の当該話の原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちら(終りから二行目以降)で影印本で視認出来る。

「損證」「虛損證」のことか。漢方で、「気力や体力がだんだんと弱くなっていく状態。活力が減衰し、処置しなければ死にいたる病態」を指すものであろう。

「佐々木君が述べられた、葛の精が、栗の大木を伐る法を、人に告げた譚」「東奧異聞」とは、かの「遠野物語」の原作者である佐々木喜善のそれ。新字新仮名であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの『世界教養全集』第二十一巻(一九六一年平凡社刊)のこちら(右ページ上段後ろから九行目以降)で視認出来る。]

 

 「琅邪代醉編」三三に「蜀檮杌《しよくたうごつ》」を引いて、晋暉《しんき》、初め、王建と盜《ぬすみ》をなし、夜、武陽古墓中に泊り、人の、墓中の鬼を呼ぶを聞くに、「頴州《えいしう》に無遮會《むしやくわい》を設《まう》くれば、同行すべし。」といふ。墓中より、應へて曰く、「蜀王、此に在れば、相《あひ》從ふを得ず。」と。二人、相謂《あひい》つて、「蜀王とは、吾等の内、孰れだらう。」と。暉、曰く、「行哥狀貌(かうかじゃうばう)[やぶちゃん注:「行いと、詩を吟ずることと、その容貌」の意か。]、人に異《こと》なれば、必ず、不常の事、有らん。」と。後ち、建、蜀王と爲つて、暉と飮み、舊を敍《の》ぶ。暉曰く、「武陽で、墓中より言つた通り中《あた》つた。」と。建、笑つて曰く、「我れ、初めの望みは、王と成らうとまでは、思はなんだ。」と。

[やぶちゃん注:「琅邪代醉編」の当該話は、「中國哲學書電子化計劃」のこちらの「王建」の冒頭の五行分が、それ。

「蜀檮杌」「外史檮杌」後蜀の史書の一部,北宋の張唐英の撰になる。全十巻。

「王建」十国の前蜀の初代皇帝。在位は九〇七年から 九一八年。当該ウィキによれば、『許州舞陽県に生まれる。若い頃は屠殺や塩の密売に関わる無頼の徒であり、許州では賊王八と称されていた』。唐末、「黄巣の乱」が『発生すると』、『官軍に参加して』、『その鎮圧に軍功を上げた。その後、朝廷の実力派宦官である田令孜』(でんれいし)『の仮子(養子)となり、僖宗が蜀に脱出する際の功績により』、『神策軍使、西川節度使、壁州刺史などを歴任した』。『王建は在地勢力の歓心を買い、自らの陣営に取り込むことで勢力を拡大し』、八八八年には『永平軍節度使に』、八九一年には『仮父を殺害して』、『成都を制圧、更には剣南西川藩鎮を滅亡させ、西川を根拠地に定め、四川全域をほぼ掌握した』。九〇一年、『鳳翔の岐王李茂貞』から『漢中を奪』、902年には『山南西道を手に入れ』、九〇三年には『蜀王に封ぜられるに至った』。九〇七年、『唐が後梁に滅ぼされると、後梁の支配を嫌い、皇帝を称して』、『元号を天復と改め、国号を大蜀と定めた。後世の史家は前蜀と呼びならわしている』。『天然の要害である地理条件と、塩や鉄といった重要資源を豊富に産出する経済条件を利用し、在位期間中は国内の安定に力を注いだ。農業振興と水利事業を推し進め、「与民休息」の政策を実現した。また、多くの文人が平和を求めて前蜀に移動し、彼らを保護する文化振興政策も実行している。しかしその反面、国内への監視に注意を払い、「尋事団」と呼ばれる秘密警察を作り、不満分子を圧殺した一面も有している』とあった。]

 又、「西樵野記」から、錫山《しやくざん》の民《たみ》蒋容、素行、善し。一日、惠山に往《ゆき》て、神に禱《いの》り、歸る半途で、風雨、晦冥し、進む能はず。道傍の荒墓《あればか》に宿る。夜半、一人、來たつて、「吳照よ、前村《ぜんそん》、某《なにがし》の家に、酒食、あり。なんぞ同じく往《ゆ》かざる。」と呼《よば》はる。林間に人の聲して、「善人、有つて、此に止宿すれば、同行を得ず。」と答ふ。翌朝、其墓を拜して、出立《いでた》ち、村中に至つて、これは「吳照の墓」と聞知《ききし》つた。人の善き者は、鬼《き》も、之れ訶護《かご》すると見える、と引きある。王建は、後に王たるべき偉人、蒋容は著しい善人、前に述べた人形屋新六は、平凡ながら、惡人とも聞えず、左樣の人の泊つた處の鬼神が、在宿して保護するといふ信念は和漢共通だつたのだ。

[やぶちゃん注:「西樵野記」明の侯甸(こうでん)撰の小説。怪奇談集か。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの「鬼護善人」がそれ。

「吳照」不詳。]

 

 「今昔物語」一三に、天王寺の僧道公、熊野參りの途中樹下に宿つて、騎馬せる行疫神《ぎやうやくじん》が其樹下に立てる道祖神を催《うなが》しに來ると、「馬の足、損じたれば、行く能はず。」と答へて、行かざる始終を聞き居り、翌朝、見れば、道祖神の前に掛けた繪馬の足、缺け居《をつ》たので、畫き足しやり、其後も、泊つて居《を》ると、行疫神、又、來たり、催すに、伴つて、道祖神も騎馬し、同行したと云ふ譚あり。客人《きやくじん》を言立《いひた》てゝ同行せなんだとは見えぬが[やぶちゃん注:底本「ねが」。誤植と断じて訂した。]、神の住所に泊つて[やぶちゃん注:底本「泊つた」。「選集」で訂した。]其會語を聞いた丈は、上の數例に同じ。

[やぶちゃん注:事前に『「今昔物語集」卷第十三 天王寺僧道公誦法花救道祖語第三十四』を電子化注しておいたので、そちらを参照されたい。]

 同書二六に、東國に趣く者、往き暮《くれ》て、或家に泊ると、夜更けて、家の娘、子を產む。時に其人の宿つた室《へや》を過ぎて、身長《みのたけ》八尺許りの怖ろしい者が、「年は八歲。自害して果てる。」と云つて出去《いでさ》つた。其儘、夜明けて、出立《いでた》ち、八年、經つて、又、其家に泊り、「前年《まへのとし》、生れた子は。」と尋ねると、彼女、泣いて、「美しい男兒だつたが、去年の某日、高い木に登つて枝を切るとて誤つて落ち、手に持つた鎌で傷《きずつ》き、死んだ。」と答えた。其時、始めて、往年の怪事を話すと、彌《いよい》よ泣いた、とあるは、かの戶川早之丞の壽命と死にざまを、菩薩が豫報したに同一轍《どういつてつ》だ。(二月七日)(大正十一年六月『土の鈴』一三輯)

[やぶちゃん注:事前に『「今昔物語集」卷第二十六 東下者宿人家値產語 第十九』を電子化注しておいたので、そちらを参照されたい。]

 

 文珠大士が地藏菩薩を誘ひに來たと、同趣向の話が、「醒睡笑」四に出づ。云く、「山科の道づらに、「四《し》の宮川原《みやがはら》」と云《いふ》所、『袖競《そでくら》べ』とて、商人《あきうど》の集まる宿《やど》の、下司《げす》ありけり(熊楠謂《いは》く、「袖競べ」は、市で袖の内で指を觸れて、物價を示し取引する、所謂、「默商《もくしやう》」を指すらしい)。地藏を、一體、作り、開眼《かいげん》をせず、櫃《ひつ》に入れ、世の營みに紛れ、程へて、忘れけるに、三、四年過ぎ、夢に、大路《おほぢ》を過《すぐ》る者、聲高《こわだか》に、人を、呼ぶ。「何ごとぞ。」と聞けば、地藏を呼ぶ。奧の方《かた》より、答《いら》ふる也。「明日《あす》、天《てん》の帝釋《たいしやく》の地藏會《ぢざうゑ》し玉[やぶちゃん注:底本「王」。誤植と断じて訂した。]ふに、參らせ給へ。」と云へば、小屋の内より、「參るべけれど、眼《め》も見えねば、爭《いかで》か參らん。」と云《いふ》聲すなり。打驚《うちおどろ》き、『何の、かくは、夢に見ゆる。』と思ひ廻すに、怪しく、夜、あけ、奧を、よくよく見れば、置《おき》たりし地藏を、思出《おもひいで》て、見出《みいだ》したりけり。『是が、見え玉ふにこそ。』と思ひ、いそぎ、開眼し奉りけるとなむ」と。(大正十一年四月『土の鈴』一二輯)

[やぶちゃん注:最後の書誌は「選集」に拠った。同書には、最後に全体への編者注があり、『本書は『土の鈴』一二輯の「子安地蔵について」およびその追記と、同誌一三輯の「神様の問答を立聞きした話」を併せたものである』とある。

「醒睡笑」本文は、所持する一九八六年の岩波文庫版(鈴木棠三校注)の(上)、及び、そちらのルビの一部に不審があったので、国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第二十二巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)の当該部をも参考にして読みをガッチリ附した。三首の狂歌(面白くはなく、特に熊楠が紹介しなかったのもよく判る)が後に付随するので見られたい。

「四の宮川原」京都市東山区山科四ノ宮。この附近(グーグル・マップ・データ)。地名は仁明天皇第四皇子康親親王(山科宮)の館があったことに由来する。]

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