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2023/08/14

南方閑話 巨樹の翁の話(その「四」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 佐々木君が引いた「東奧古傳」に或說云《いはく》とて擧げた話は、奇體にも君と同姓の「佐々木家記」より出たらしい。其は、予、未見の書だが、芳賀博士の「攷證今昔物語集 本朝部」下卷六五五頁に「古風土記逸文考證」から又引きしてある。云く、『「佐々木家記」に、天文辛丑《かのとうし》[やぶちゃん注:天文一〇(一五四一)年]六月二日、今日《けふ》、武佐《むさ》より言上《ごんじやう》、地の、三、四尺或は一丈下に、木葉枝の朽《くち》たるを掘出《ほりいだ》す。稀有の事也とて、數箇所掘返し見るに、皆、同じ。其物を獻ぜり。黑く朽たる木の葉の塊まりたる也。屋形(佐々木義賢)、「希代の事也。」迚《とて》、國の舊き日記を見給ふに、其記に云く、「景行天皇六十年十月、帝甚だ惱む事あり。之に依《より》て諸天に病惱を祈れど、終《つひ》に其驗《しるし》なし。是に一覺と云ふ占者あり。彼に命ぜしに、一覺曰く、「當國の東に大木あり、此木甚だ帝《みかど》に敵する有り。早く此木を退治さるれば、帝の病惱、平治す。」と云々。之に依て、此木を伐《き》るに、每夜、伐る所の木、本《もと》の如くなる。終《つひ》に盡《つく》る事無し。然して、彼《か》の一覺を召して問ふに、「伐る所の木屑、每日、之を燒《やけ》ば、果して盡《つ》く。」と云ふ。「我は、彼《かの》木に敵對する葛也。數年《すねん》威を爭ふ事、久し。其志《こころざ》し、帝に差向《さしむ》く。」と云ふて、卽時に搔消《かきけ》す如く失せぬ。彼《かの》言《げん》の如く行ひ、木屑を燒き、每日に及び、七十餘日を終《をへ》て、彼木、倒る。此木、枝葉、九里四方に盛え、木の太さ、數百丈也。之に依て、帝の病惱、平治す。卽ち、彼木の有《あり》し郡《こほり》を「栗本郡」と號し、栗木の實、實《みの》らず云々」と。』。

[やぶちゃん注:以上の芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)の「本朝部」巻第三十一の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の付注の当該部を、国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ三行目下方から)で視認して校合した。熊楠の引用には不全が複数箇所あったので、訂正した。なお、一般的に郡(こおり)名「くりもと」の「栗太郡」は、元は「栗本郡」であったと考えられている。

「東奧古傳」「三」の私の注の佐々木喜善の引用を参照されたい。

『「佐々木家記」に、……』国立国会図書館デジタルコレクションの「古風土記逸文 下」(栗田寛纂訂・明治三一(一八九八)年大日本図書刊)のここ(右ページ後ろから三行目以降)で、全く同じ内容を見ることが出来る。

「武佐」現在の滋賀県近江八幡市武佐町(むさちょう)であろう。

「佐々木義賢」これは、かの南近江の戦国武将六角義賢(大永元(一五二一)年~慶長三(一五九八)年)のことと思われる。六角氏は宇多源氏佐々木氏流である。]

 爰に、所謂、國の舊記の筆者、景行帝の御時、佛法、未だ渡らずと知《しり》て、『諸天に病惱を祈る。』と、故《こと》さらに書《かい》たのを、「東奧古傳」には、之に氣付かず、『或者、諸寺・諸山に祈禱有り。』と替《かへ》たのは、不學の至りだ。但し、「諸天」てふ詞《ことば》、亦、彼《かの》帝の世に、吾邦に無かつたから、孰れを用ひても五十步百步で、等しく尻《し》つ穗《ぽ》を出し居《を》る。

[やぶちゃん注:ここが「三」の佐々木へのイヤミの立証部である。

 又、「攷證今昔物語集」に「三國傳記」を引《ひい》て、「和に云く、近江國栗太郡と申すは、栗の木一本の下《もと》也けり。枝葉、繁榮して、梢、天に覆へり。秋風、西より吹く時は、伊勢の國迄、果《はて》落つ。七栗といふ處は其故なり。又、此木の隱《かげ》、遙かに若狹の國に移る間だ、田畠、作毛の不熱に因《より》て彼《かの》國の訴訟有《あり》て此樹を切る。此木は、天竺栴檀の種より生じたる故に「西」「木」と書けり。釿(てうな)鈇(をの)を持(じ)して彼木を截れども、切口《きりくち》、夜は愈《いへ》、合《あひ》けり。然《しか》る間、自國・他國の輩、奇異の思ひを成して、杣人《そまびと》を集め、日每に、是を切れども、連夜、元の樹となる。其故は、此栗の木は樹木の中の王たるに依《より》て、諸草木、夜々、訪來《おとなひきたり》て、こけらを取《とり》て合《あは》せ付《つけ》ける故也。秋、來れば、一葉、落ちて、春、至りて、白花、開く、などかは、心のなかるべき。爰に一草、『蔓〔「カヅラ」で「佐々木家記」の「葛」に當《あた》る〕といふ物、訪來る。』由を云《いひ》ければ、『草木の數とも思はぬ物の、推參すること、奇怪。』とて追返《おひかへ》しけり。仍《より》て、此蔓、腹を立《たて》て、『同じ國土に栖乍《すみなが》ら、侮られけるこそ、口惜しけれ。』と瞋《いか》り、人々の夢に示しけるは、『此大木を切顚《きりたふ》し給ふべきならば、樾《こけら》、火にたき給へ。不然《しからざれ》ば、千草萬木《せんさうばんぼく》、夜な夜な、切れ目を合せて、差《いや》す[やぶちゃん注:「癒す」に同じ。]故に、此木、顚倒《てんたう》する事、有るまじ。』と語る。諸人《しょにん》、相《あひ》談話《だんわ》して敎への如くするに、無ㇾ程《ほどな》く、此木、倒れにけり。其梢、湖水の汀《みぎは》に至る。今の「木濱《このはま》」と云《いふ》所なり。侮る蔓に倒れするとは、此謂《いひ》なるべし。」と有る。

[やぶちゃん注:前と同じ芳賀の当該部で校合した。かなり不全があり、訂した。特に「樾、火にたき給へ、」の箇所は底本では「燒火にたく給へ」で意味が通らない。但し、この「樾」の字は漢語では「木蔭」の意で、「杮(こけら)」の意はないので、元の表記も不全ではある。「こけら」の読みは、「選集」でひらがなになってあるものを読みに採用したに過ぎない。

「三國傳記」は室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計三百六十話を収める。 「木濱」底本では「木の濱」とあるが、芳賀本に従い、そこにあるルビを添えた。現在の滋賀県守山市木浜町(グーグル・マップ・データ)であろう。

 以下最後まで、一字下げのポイント落ちで附記あるが、本文と同ポイントにして引き上げた。但し、一行空けた。]

 

 井澤長秀の「廣益俗說辯」五に、景行天皇に栗樹祟りをなす說と題して、「佐々木家記」と大同の話を出してある。著者は「今昔物語」近江の大柞樹の譚と、「玄中記」の、始皇、終南山の梓を伐らしめた談とを、取合《とりあは》して妄作したものと辨じゐる。

 大正十一年十一月、高山町發行『飛驒史壇』七卷七號、千虎某氏の「白川奇談」(二九頁)に云く、『新淵《あらぶち》より二丁程行きて「新田中畑《あらたなかはた》」と云ふ、此村の上に、昔、神代杉あり。大なること、十二抱《かかへ》といふ。杉の梢、越前の「花くら」の田に、影を、うちける。杣人、伐りけるに、一夜の内、愈合《いえあひ》て、切ること、能はず。後ち、火を焚《たき》て、「こわし」を燒きければ、愈ゆる事、なし。數十日懸りて、切り倒しけるに、二丁程なる川向ふへ、梢が屆きけると也。今の世にも切榾《きりほた》、「水まか」となりて、眼前に見る、となり。いつの時代、切りけると云ふふ事も知《しり》たる人は、なし。』と。

[やぶちゃん注:第一段落の部分は既に「二」で既出既注である。

「新淵」現在の岐阜県高山市荘川町(しょうかわまち)新渕(あらぶち)であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「新田中畑」現在の岐阜県高山市荘川町中畑(なかはた)。

『越前の「花くら」』不詳中畑から越前市郊外までは、真西で六十四キロメートルはある。

「こわし」不詳。今までの流れからは「木屑」であろう。

「水まか」不詳。意味不明。識者の御教授を乞う。]

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