譚海 卷之五 奥州土地異なる事
[やぶちゃん注:句読点・記号を変更・追加した。]
○奧州仙臺城下より、東半里計り行けば、宮城野なり。宮城野のうはて、高き海道にて、町屋つゞきてあり。原町(はらのまち)と號するなり。その町屋の中に名物の湯豆腐あり、豆腐を切(きる)事、髮の毛の如く、至つて細し。然れども、きれ、はなるゝ事、なく、箸にて、はさみ行(ゆき)、客に饗(きやう)するなり。斯樣(かやう)の物、他國にて未(いまだ)見ず。國主の調膳にも、時々、召さるるよしにて、別に其料に用る具は、棟(むね)にかけてあり。珍羞(ちんしう)と稱するに足れり。又、仙臺城下をはじめ、白石・岩沼の城下ともに、溫麺(うーめん)を商ふこと、家每にあり、味ひ、誠に勝れたり。又、柚の實を、さまざまの花の形に、きざみ、五色に色どりて、箱に入(いれ)て商ふ。出羽へ持行(もちゆき)て披露すれば、誠に珍重すること也。奧羽は、山一つ隔たる國なれども、奥州は、山北を、ふさぎたるゆゑ、柚のたぐひも、ともしからず。暖氣なる故なるべし。羽州は、山南を、ふさぎたる故、寒氣强く、柚のたぐひ、一向に生ずること、なし。雪も、十月中旬より、ふりはじめて、右の彼岸迄は、消ることなく、山谷(さんこく)、ひとつに埋(うづま)り、人家、「雪かこひ」といふ物を作りて、雪を防ぐなり。大雪、夜中(よるぢゆう)降(ふり)あかす時は、人每(ひとごと)に、屋上に登りて、雪を拂ひ落(おと)す事なり。かくせざれば、雪に家おされて、たほるゝと、いへり。他圖になきこと也。それ故、城の造りざまよりはじめて、人家に至るまで、しつくい[やぶちゃん注:ママ。後二箇所も同じ。]を用(もちひ)る事、なし。寒氣にあいて[やぶちゃん注:ママ。]、しつくい、はげ落(おち)て、用ひがたし。大かたは、城の櫓(やぐら)より、塀(へい)に至るまで、板にて、造りたてたるものゆゑ、外見には、宮寺(みやでら)の櫓門(やぐらもん)のごとくに見ゆるなり。人家も、土ぬりの土藏斗(ばか)りにて、しつくい、用ること、なし。瓦も、いてて、碎(くだ)けて、用ひがたし、とて、皆、ぬりたれにして、板にて、上を、被(おほ)ひ、したる物也。仙臺の城は、さもあらず、石垣に築建(きづきたて)、塀をしつくいにて、ぬりたれば、江戶の城に異(こと)ならず。人家も、土藏造り・しつくいの上ぬりの町屋、多し。雪も、多く積らず、一、二尺に及ぶを、「大雪」と稱するよし。氣候も江戶の冬と、多く替(かは)らざるにや。
[やぶちゃん注:「宮城野」萩の名所として知られた野で、当該ウィキによれば、『宮城県仙台市の東部にあった原野で』、『古代から歌枕として和歌に詠まれた。原野としては一部が近代まで残っていたが、それも戦後の都市開発で姿を消し、現在は仙台市宮城野区に町名として』、『その名が残っている』だけである。『宮城野という地名の初出は平安時代の勅撰和歌集』「古今和歌集」とされ、『以下がその歌』(前が六九四番、後が一〇九一番。歌の解説は私のオリジナル)。
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よみ人しらず
宮城野の
もとあらの小萩(こはぎ)
つゆを重(おも)み
風をまつごと
君をこそまて
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・「もとあら」「もと」は木の「根元」で、「あら」は「疎」で「まばらに生えている状態」を指す語。ここは、萩の木の根元の葉が疎らなことを指して、その嫋々たる可憐な雰囲気を導き、それに、そこより上の萩の広がった枝葉に降りた露が重いので、それを吹き落としてくれる秋風を待つ、と言いかえ、それを「あなたを待っています」へと引き出すのである。・「小萩」宮城野は、古くより、萩の名所として知られた。「小」は美称或いは愛称の接頭語。・「重み」形容詞語幹接尾語「み」がついた(~を(間投助詞)……み、――)の「原因・理由」を示す用法。「露が重いので」(この「重み」は、逢えないことで「心」が「重い」ことをも示唆している。
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東歌 みちのくのうた
みさぶらひ
みかさと申せ
宮城野の
木(こ)の下露(したつゆ)は
雨にまされり
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・「みさぶらひ」「御侍」。貴人の従者。・「みかさと申せ」「ご主人さまに、『御傘を召せ』と申し上げよ」の意。・「宮城野」この場合、『宮「城」の「域」の野』、則ち、「京の御所の内野」の意を掛けている(さらに加えて、神社や御所・宮殿の用材である「宮木」も掛けているという説もある)。下句は、「そんな雅びな意味も通わせるけれど、この曠野の木(こ)の下(した)蔭の下露は雨にも勝って滴り落ちて参りますから。」の意となる。
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(以下、ウィキの続き。なお、引用元には、それ以降の和歌も収載されてある)『ただ、この頃の宮城野の位置、範囲については明確ではな』く、『宮城野は陸奥国府の多賀城があった宮城郡』(みやぎのこおり)『に由来し、広い範囲を漠然と指していたとも考えられている』。『後に仙台城の城下町が建設される地域も、海辺付近も宮城野だったと言われている』。『古代の幹線道路の一つである東山道』(とうさんどう/とうせんどう)『は、陸奥国分寺の辺りを通り、多賀城に至っていて、この道沿いに歌枕が点在していた。江戸時代になって、仙台城城下町の東側、陸奥国分寺の北側の野原が宮城野と比定されるようになった』『正保年間』(一六四五年から一六四八年まで)『の仙台城下絵図に宮城野が見られる』。『また、この陸奥国分寺付近は』「国分原」(こくぶがはら)『とも言われていた。鎌倉時代の』「吾妻鏡」に『よれば、鎌倉政権と奥州藤原氏が争った』文治五(一一八九)年の「奥州合戦」で、『藤原泰衡は源頼朝の軍勢を迎え撃つため』、『国分原鞭楯』『に本陣を置いたという』。『江戸時代の仙台藩の地誌』「封内風土記」は、『国分原と宮城野を同』一地としている、とある。なお、同ウィキでは、芭蕉が「おくのほそ道」の『旅路で松尾芭蕉が宮城野を訪れたが、ここでの句を残してはいない』と不満げに述べているが、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅25 あやめ草足にむすばん草鞋の緒』を見て判る通り、季節は夏であり、しかも、ここから、芭蕉と曽良は、仙台藩による政治的な苛烈な異邦人忌避に遭遇し、宮城野の古風雅を味わうどころではなかったのだから、当たり前である。曽良の「随行日記」によれば、一杯の水を乞うことさえも断られているのである。
「原町」現在の宮城県仙台市宮城野区原町(グーグル・マップ・データ)。
「白石・岩沼の城下」白石城は宮城県白石(しろいし)市益岡町(ますおかちょう)のここに、岩沼の城は鵜ヶ崎城(岩沼要害)で宮城県岩沼市栄町(さかえちょう)のここに、城跡がある(孰れもグーグル・マップ・データ)。
「珍羞」この場合の「羞」は「御馳走」の意。「珍しくて美味い御馳走。珍しい料理。珍肴(ちんこう)。
「溫麺(うーめん)」現在の呼称を敢えて本文の読みに入れた。サイト「DELISH KITCHEN」の「うーめん(白石温麺)とは?そうめんとの違いや食べ方をご紹介」によれば、『うーめんは、そうめんの一種です。宮城県白石市の特産品であるため「白石温麺(しろいしうーめん)」とも呼ばれ、宮城県の土産物としても人気になっています』。『一般的なそうめんは製造の過程で油が使用されていますが、うーめんは油を使わない方法で製麺されるのが特徴です』。『製麺時に油を使うと、麺の表面が乾いて伸ばしにくくなるのを防げる一方で、食べたときの消化に影響します。うーめんは胃腸が弱い方でも食べやすいよう開発されたものであるため、油が使われず小麦粉、塩、水で作られています』とあり、さらに起源について、『うーめんは約』四百『年前に、現在の宮城県白石市で誕生したという説があります。伊達藩白石城下にいた鈴木味右衛門が、胃を患った父親のために消化のよい麺を作ったことが始まりといわれています』とあった。
「ぬりたれ」「塗り垂れ」で「ぬりだれ」とも称し、土蔵から母屋に庇 (ひさし) を連結して作り出して、土の塗り家 (や) にした家の造りを指すのであろう。]