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2023/08/21

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大坂城中の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 大坂城中の怪【おおさかじょうちゅうのかい】 〔甲子夜話巻二十二〕大坂の御城内の居所の中に、明けずの間とて有りとなり。此所大なる廊下の側にあり。こゝは五月落城の時より閉ぢたるまヽにて、今も一度も開きたることなしと云ふ。因て代々のことなれば、若し戸に損じあれば、版《いた》を以てこれを補ひ、開かざることゝなし置けり。これは落城のとき、宮中婦女の生害《しやうがい》せし所となり。かゝる故か、後尚その幽魂のこりて、こゝに入る者あれば、必ず変殃《へんわう》[やぶちゃん注:「禍(わざはひ)」。]を為すことあり。またその前なる廊下に臥す者ありても、また怪異のことに遇ふとなり。観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことに因て、稲葉丹州御城代たりしとき従ひ往きたり。或日丹州の宴席に侍して被酒《ひしゆ》し、覚えず彼(か)の廊下に酔臥《すいぐわ》せり。明日丹州問うて曰く、昨夜怪しきことなきやと。宗三郎不覚のよしを答ふ。丹州曰く、さらばよし、こゝは若《も》し臥す者あれば、かくかくの変あり、汝元来《もとより》この事を不ㇾ知、因て冥霊《めいれい》も免《ゆる》す所あらんと云はれければ、宗三聞《きき》て始めて怖れ、戦慄し居《を》る所を知らずと。また宗三物語りしは、天気晴朗せしとき、かの室の戸の透間より窺ひ見れば、その奥に蚊帳と覚しきもの、半ばはづれ半ば鈎《かぎ》にかゝりたるものほのかに見ゆ。また半挿《はんざふ》の如きもの、その余の器物共の取ちらしたる体《てい》に見ゆ。然れども数年《すねん》久しく陰閉の所ゆゑ、ただその状を察するのみと。いかにも身毛《みのけ》だてる話なり。また聞く、御城代某侯、その威権を以て開きしこと有りしに、忽ち狂を発せられて止みたりと。誰にてか有りけん、この事林子《しんし》に話せば、大咲《おほわらひ》して曰く、今の坂城は豊臣氏の旧《もと》に非ず、偃武《えんぶ》[やぶちゃん注:天下泰平。]の後築き改められぬ。まして厦屋《かをく》の類は勿論後の物なり。総て世にかゝる造説の実《まこと》らしきこと多きものなり。その城代たる人も旧事詮索なければ、徒に斉東野人《せいとうやじん》の語を信じて伝ふること、気の毒千万なりと云ふ。林氏の説また勿論なり。然れども世には意外の実跡もあり。また暗記の言は的証とも為しがたきなり。故にこヽに両端を叩きて後定を竣《ま》つ。〔同巻廿六〕或人曰く、大坂の御城代某侯(名は不ㇾ聞《きかざ》りし)初め彼《かの》地に赴かれしとき、御城中の寝処《しんじよ》は、前職より誰も寝ざる所と云ひ伝へたるを、この侯は心剛《かう》なる人にて、入城の夜その所に寝られしが、夜更けて便所にゆかんとて、手燭をとぼし障子をあけたれば、大男の山伏平伏して居《ゐ》たり。侯驚きもせず、山伏に手燭を持《もち》て便所の導きせよと云はれたれば、山伏不性《ふしやう》げに立《たち》て案内して便所に到る。侯中に入《いり》て良《やや》久しく居《ゐ》て出《いで》たるに、山伏猶居《をり》たるゆゑ、侯手水《てうづ》をかけよと云はれたれば、山伏乃《すなは》ち水をかけたり。侯また手燭を持たせて寝処へ還られ、それより快く臥《ふさ》れし。然るに後三夜の程は同じかりしかど、それよりは出《いで》ずなりしと。総じて世の怪物も大抵その由る所あるものなるが、この怪は何の変化《へんげ》せしにや、人その由を知らず。またこの侯は本多大和守忠亮と云はれしが、奥方相良氏(舎侯の息女)後《のち》栄寿院と称せし夫人の従弟にてありける。この話もこの相良氏の物語られしを正しく伝聞す。 (補。初めに名不ㇾ聞と註して、此処に本多とあるは矛盾、又舎侯は令侯か、文意不審)

[やぶちゃん注:前者は「フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事」として、また、後者も「フライング単発 甲子夜話卷之二十六 15 大阪御城代寢所の化物」として(但し、南方熊楠の「人柱の話」(リンク先はPDF一括版。ブログ分割版もある)の注に必要となったためのフライングである)既に正字表記で電子化注してある。]

〔同巻九〕新庄駿河守直規と云ひしは(常州麻生領主一万石)予〈松浦静山〉が縁家にして、活達直情なる人なりし。寛政中擢でられて大番頭となる。その話に、大坂在番に往きて御城中に居るに、深夜など騒々然と音あり。松風かと戸を開て聞けば、さにはあらで、正しく人馬喧噪乱争の声を遠く聞く如し。暫くにして止む。時々此の如き事あり。相伝ふ。当時戦没の人魂気残れるなりとぞ。予奇聞と思ひ、その後在番せし人に問ヘば、その事、知らずと云。駿州、虛誕を云ふ人に非ず。心無き輩は何ごとも氣の付ぬにや。

[やぶちゃん注:以上は、この条のために「フライング単発 甲子夜話卷之九 12 大坂御城中、深夜に殺氣ある事」として電子化注しておいた。]

〔真佐喜のかつら〕俳友蕉窓寥雨《しやうさうれうう》は青山五拾人町に住す。通称折井芳作と言ふ。父は仁左衛門、この人大坂並びに京二条御番五十余度勤められし。至つて健かにて七十歳にて没す。或年庭中にて目白一羽をとらふ。殊に愛し、京大坂へも行く折は、籠にて連れられしが、この鳥珍しく生きて九度在勤の供せしとは。仁左衛門隠居して只俳諧のみを好む。予〈青葱堂冬圃〉冬史(後《のち》且尊庵乙雄《しよそんあんおつゆう》と云ふ)とともに寥雨が宅へ行き、俳席の後、仁左衛門も出られ、酒飲み四方山《よもやま》の噺しの序《ついで》、大坂御城代の事をとふに、何事にても他へ洩らす事を禁ず。されど隠居の身分、ひとつふたつを申し語るべし。或夜自分の小家《しやうか》に臥しけるが、ふと灯消えぬ。また燈を打つも煩はしとその儘眠りぬ。頓(やが)て額に何やら障る物あり、驚きめざめて手を以てさぐり見るに、我身は蒲団とともに高く引揚げられ、天井にひたと附き、額に障りしは天井の板なり。いかにもおそろしけれど、声立つるも恥かしく、枕紙を引さき、天井に張り、こヽろをしづめ、眼をとぢゐけるに、思はずも眠りぬ。夜明けて天井を見るに、覚えの紙附きゐたり。まさしく引あげられたるとおもへば、何となくおそろしく、人にもかたらず慎み居たり。また年過ぎて在番の節、重役のかたへ要事ありて、手燭してひとり廊下を行くに、ふと灯の消えたりけれど、心得たる所なれば、静かに歩行《ありき》ゆくに、向うよりも人のくる音す。ふしぎにおもひ進み行くに、その人近くなりよく見るに、丈《たけ》高く色しろく、至つて肥えふとりたる男、紋附の衣に肩衣袴《かたぎぬばかま》を著たるなり。されど平日見も馴れぬひとなれば、互ひに摺違《すれちが》うて行き過ぎぬ。それよりふと思ひみるに、咫尺《しせき》もわからぬくらき所にて、人のかたち衣類等の色まであざやかに見えたるは、いかにも怪しき事なりと、はじめて心付《こころづ》きおそろしく、その夜は行きたる先に臥して、夜明けてより小屋に戻りぬ。かゝる事は折々同役どもの上にもありしよし語られぬ。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」帝江氏のブログ「自分の眼と引き換えに主人の眼病を治した猫の話-眼病と猫(青葱堂冬圃著『真佐喜のかつら』五より)」によれば、深川の商人で俳人でもあった青葱堂冬圃(せいそうどうとうほ)の随筆。作者は、『何らかの咎により江戸払いとなり、関西に逃れ諸国を巡り、弘化年間』(一八四四年~一八四八年)『のはじめに、江戸に戻り、四谷に在住したということがわか』っており、『また』、『本文の記述から、明治まで存命で、当時の著名な人物らと交際していたことがわかる』ものの『それ以上の詳細については不明である』とあり、この随筆は『主に写本で伝わる随筆で、成立は』、『序文』及び『本文から』、『天保~嘉永』(一八三〇年~一八五四年)『であると思われる。青葱堂冬圃が書き貯めた文を編んだもので、諸本に残欠本があることから』、『現存する十巻がすべてではないらしい。収録内容は、当時の事件事故から奇談遺聞までと多様である。豊臣氏を称揚し、徳川氏を抑えるような記事があり(藤堂高虎への苛烈な批判など)、当時の世相とあわせて著者の政治的思想が伺えるような部分もある』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから正規表現で視認出来る。

「蕉窓寥雨」(現代仮名遣「しょうそうりょうう」)不詳。

「青山五拾人町」現在の港区北青山二丁目(グーグル・マップ・データ)。平凡社「日本歴史地名大系」によれば、『矢倉沢(やぐらさわ)往還の北側にある拝領町屋で、別に往還の南側背後に飛地(現南青山二丁目)。本町の四周は道に囲まれ二区画に分れており、東が青山浅河(あおやまあさかわ)町と幕臣邸、南が往還を隔てて幕臣邸、西と北も幕臣邸。飛地は片側町で、東が幕臣邸、南が道を隔てて幕臣邸、北が青山御手大工(あおやまおてだいく)町。文政町方書上』(ぶんせいまちがたかきあげ)『によると、徳川家康が入部したとき』、『御茶ノ水台と湯島天神前に下された小給の者の町屋敷であったが、両所とも天和三』(一六八三)年に『御用地に召上げられ、代地を青山下野守の上げ屋敷内に拝領した。御作事方定普請同心』五十『人が受けたので』、『町名にしてきたが、その後』、『見習の者も増え、組内で七四ヵ所に地割を変えたという』とあった。

「京二条在番」江戸幕府の職名。大番組十二組が交代で、京都二条城の城内警固と管理に当たった。在番制は寛永元(一六二四)年に定められたとされ、江戸から大番が番士を率いて上洛し、一年交代で勤務した。東西の役屋敷と番衆小屋は二の丸内に設けられた。番衆の合力米(ごうりきまい)は銀渡りであったが、元禄一二(一六九九)年以後、二条蔵詰米から現米を支給した。番頭の定員は二名、役料三千俵、与力三十騎、同心百人をそれぞれ附属した。

「冬史」「且尊庵乙雄」不詳。読みは勝手に音読みしただけ。

「肩衣袴」肩衣(江戸時代の武士の公服の一部。袴と合わせて用い、上下同地同色の場合は「裃」(かみしも)と称し、相違するときは「継裃」(つぎがみしも)と呼んだ。また、上の部分を「肩衣」と呼んで区別した)に半袴(はんばかま:丈(たけ)が足首までで、裾に括(くく)り紐のない袴。則ち、現在、普通に着用する袴を指す。裾口に括り紐のある小袴より裾短かに仕立てたことによる呼称。「平袴」(ひらばかまとも言う)をつけること。江戸時代、武家の政務担当者の公服で、肩衣と袴を同地同色とする裃(かみしも)。肩衣小袴。]

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