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2023/08/02

譚海 卷之五 房州七浦へ漂着せし南京人の事

[やぶちゃん注:句読点・記号を変更・追加した。実は底本の「目次」では標題は「房州土浦へ漂着せし南京人の事」となっている。しかし、「土」は「七」の誤植と断じ、特異的に訂した。

○天明二年[やぶちゃん注:一七八二年]房州七浦へ漂着せし南京船、長さ十五間[やぶちゃん注:二十七・二七メートル。]也。波にくだかれて見る所もなけれども、皆、「ちやん」ぬりにて、板の厚さ、二、三寸ほど、朱ぬりの物なり。船中の柱は、皆、銀にて造り、船玉(ふなだま)の厨司(ずし)、殊に華麗を極(きはめ)たり。船中の人、すべて三十五人あり。每年、長崎へ來(きた)る商船なるが、大洋にて、風に、あひ、こゝに、吹よせられたる也。夜陰のこと故、制する事、あたはず、風雨にまぎれて、灘(なだ)ちかく寄來(よりきた)りて、陸へ、船を打(うち)あげて、岩角(いはかど)にて、船底(ひなぞこ)を突拔(つきぬ)かれ、散々(さんざん)になりたり。その所の者、常の船の、嵐にあひたると心得(こころえ)、大勢、破船の米を買(かひ)に行(ゆき)たるに、思ひもよらぬ唐船(からぶね)故、おどろきにげ歸りぬ。ものいひの通ぜぬまゝ、南京人、板へ、事の子細を書付(かきつけ)て、「風雨に逢ひて吹寄(ふきよせ)られたるよし。」を記し、しらせたるにより、村中(むらぢゆう)、さわぎ立(たて)、領主大岡兵庫頭殿、江戶の屋しきへ訟(うつた)へ、夫(それ)より、浦賀よりも、役人、大勢、詰(つめ)られ、濱邊に、五間に三間[やぶちゃん注:九・〇九メートル×五・四五メートル。]の家を、しつらひて、南京人を、殘らず、移し、公儀より扶助あり。三ケ月程は、そこに逗留いたさせ、そののち、長崎へ送り屆けられ、便船(びんせん)に歸國せし也。南京人、船中に、豚を、數(す)十疋、貯へ來り、それを、朝夕の食に、まじへて、くひけるとぞ。その豚を、生(いき)ながら、肉を、そぎとり、其跡へ、何やらん、藥をぬれば、そがれたる肉の疵口(きずぐち)、いえて、そこらかけ𢌞りあるきし、とぞ。南京人、皆、坊主あたまにて、三所に、髮を、長く殘し、髮の先より、組(くみ)て、糸のごとく、さげて居《を》る。衣裳は、皆、獸(けもの)の皮を以て、製したり。獸肉を、たへず、くらふゆゑ、臭氣、甚しく、居(ゐ)たる家のあたりへは、近寄(ちかより)がたし。剃刀(かみそり)を左の手にもちて、頭をそるにも、手前の方へそること也。此邦(このくに)の人の剃刀を、向(むか)ふへ、つかふを見て、笑ひたると、いへり。はじめは、浦賀より、役人、來らざる間(あひだ)に、船、破損して、潮(しほ)、入(いり)たれば、先(まづ)、「荷物を、さし置(おき)がたし。」とて、殘りなく、船中より、陸へ運び取(とり)たる時、所の者、日夜かゝりあひて、往來せしかば、その度(たび)ごとに、人參・藥物(やくぶつ)・瀨戶の物・沙糖の類を、もらひければ、不意に富(とみ)を得たる者もあり、とぞ。浦賀役人、詰られて後(のち)は、私(ひそか)に、唐物、貰ふこと、ならざりしなり。かくて、三ケ月の後、駕籠(かご)にて、殘りなく、長崎へ御歸(おんかへ)しあり。船は、其儘、その所に捨置(すておき)、要(かなめ)なる物ばかり、一艘に積(つん)で、長崎まで送らせ給ふ。長崎へ、此役に當りて、行(ゆき)たる人を、南京人、殊に奔走して、もてなしあへり。船の具に、人の髮を持(もつ)て、なひたる大綱一筋、太さ三尺にあまりて、長さは、二百尋(ひろ)[やぶちゃん注:換算値に二説(一・八一八メートル及び一・五一五メートル)あるので、三百三メートル或いは三百六十四メートルとなる。]も、ありける物、あり。はじめ、灘へ、打(うち)よせられてある間(あひだ)に、ぬす人、行(ゆき)、截取(きりとり)たる故、殘りのまゝにて、本國へ遣(つかは)されける。都(すべ)て、船板などをはじめ、御彿物(おはらひもの)になりたる故、板は、多くは、橋板(はしいた)に買取(かひとり)て去りぬ。その餘(よ)の苧綱(をづな)などは、皆、買取(かひとり)て、太きをば、うち直して、船の綱に用ひなどして、殘る物なく沽却(こきやく)に及びたり。南京人、此地を發足(ほつそく)の比(ころ)、一首の歌を詠じける。

  いざ立(たた)ふたつまの沖のあら波の人のこゝろの秋のこぬまに

此所(ここ)に、「立澤」といへる所あれば、かく、よめるなり。

[やぶちゃん注:先行する「譚海 卷之二 安永九年房州へ南京の舶漂着の事」は二年前の一七八〇年四月の漂着である。

「房州七浦」千葉県安房郡(旧朝夷郡)にあった七浦村(ななうらむら)。現在の南房総市の東部(旧千倉町(ちくらまち))に相当する。南房総市立七浦小学校などに、その名を留めている。「ひなたGPS」の戦前の地図で、「七浦村」を視認出来る

「苧綱」麻で綯(な)った綱。古代から近世に至るまで、船の各種の綱の具として最上とされ、碇綱・身縄・手縄、その他、強度を要する箇所に用いた。

「立澤」以上の現在のものや、上記の「ひなたGPS」でも調べたが、不詳。]

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