柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蟒」 / 「う」の部~了
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。「□」は欠字。因みに、本篇はかなり長い。そのため、底本が改行を行っている箇所で、注を挿入することとした。但し、底本では、異なった引用書で、総てが、それぞれ各個に独立して改行されている訳ではないので、注意されたい。]
蟒【うわばみ】 巨大な蛇の俗称 〔甲子夜話巻廿六〕平戸神崎<現在の長崎県平戸市神崎>の渓間に細竹繁生せる所あり。一日某士の僕つれだちてこゝに来り、竹を伐らんとするに、渓そこに何やらん、大なる松の木を横へたる如きもの見ゆ。あやしく思ひ山腹の石を転したれば、かの大木動きたる故、驚きてよく視れば蟒(うはばみ)なり。僕等大いに懼れ、跡をも見ずして逃げ帰れり。その大きさ二尺まはりもありしと云ふ。またその辺に漁する蜑(あま)ありしが、或日舟行するあたりを、大魚あつて首を出して泳ぎゆくゆゑ、鰻ならんと思ひ、鋒(ほこ)(鋒は方言モリ、これを擲《なげうち》て刺すの用、手縄あり、数尋《すひろ》なり)を擲てこれを突くに、その身に中れりと覚しく、やがて反側して苦しむ体《てい》なり。見れば蟒なり。蜑大いに怖れ、もりも手縄もそのまゝ捨《すて》て逃げ去れりと。これより後は此辺に蟒を見ること絶えたりとなん。思ふに蟒の海を渡り近嶋に移り、その処の山に入らんと為し、中途にて害に遭ひしなるべしと人々云ひあへり。〔笈埃《きゅうあい》随筆巻二〕日州飫肥(おび)領折生迫(せりうさこ)<現在の宮崎県宮崎市内>(迫とは谷間を云ふ。余国にては渓《たに》と云ふ。鎌倉にて谷(やつ)と云ふ)仙左衛門と云ふ者、或年村の者二三人、昼より山へ柴薪《しば・たきぎ》をとらんとて行きける。そこ爰《ここ》に別れ伐りからげ、たがひに声を懸け合ひて山を下る。仙左衛門も独りもと来りし道を下るに、一抱《ひとかかへ》ばかりの大木道に横たはりあり。来る時はなかりし様におもひて、ふみ越えて通るに、何とやら足障(あしざは)り木の様におもはざりしかば、立帰り見れば大蝮蛇《おほまむし/だいふくだ/だいふくじや》の臥たるなり。これに肝を消し、思はず荷ひたる木柴《こしば》を投げて走り下る。余り周章(あわて)たるにや。かの蛇の上へ投げたり。何かは以て怺《こら》ふべき、木草(きくさ)ざわざわと音して一丈ばかり立上る。仙左衛門こは叶はじと、命限りに走り下るに、跡より追ひ来る事頻りなり。今は一口にのまるべき処に、仏神の加護や有りけん、山の尾崎《おさき》[やぶちゃん注:山の尾根の先。]を廻りて一つの大岩有りて差出《さしいで》たるが、常に此(ここ)にていこふ所なり。頓(やが)てこの奥に馳せ入り、身を縮め息を詰めて蹲《うづくま》りたり。間もなくかのもの見廻し、既に追ひ来り、この岩の上へずつと頭を差出して、四方を見廻し見廻し、時々紅《くれなゐ》の舌をひらひらと出《いだ》したる様《さま》、更に生きたる心地せず。只心中に神仏を願ひけり。その吐息自ら鼻に入りて、熱く臭くて堪ヘ難し。上にはしらず、下よりは見上げてすくみ居《ゐ》る中《うち》に、木草音し引きたりと覚ゆ。さては十死に一生を得たりと心ゆるまり、何となく気絶しけり。先の二人は宿へ帰り、夕飯したゝめければ、いかゞせしやと打連れ尋ね行見れば、岩下に絶え入り居たり。こは何事にやと、やがて水を与へて漸《やうや》く人ごころ付きければ、介抱して連れ帰りぬ。かくて半年ばかり熱病を悩みける後、本復して予<百井塘雨>が宮崎の寓居にも来りて、この事を咄して恐れけり。惣じて日薩隅の間大蛇多く、年々噂無き事なし。或秋予宮崎より飫肥《おび》に至る。その間拾里余、殊に山深し。されどをりをり通る路なれば、連れ二人にて行く。四里ばかり来り、山をかい廻り、向うの道中に、尋常より少し大なる猫壱ツあり。人家も遠き所にいかゞして来つらんと見れば、また向うに長《たけ》五六尺ばかりの蛇長く鎌首を揚げ、双方敵する様なり。こは珍らしと跡より来る二人を制して見てあれば、かの大蛇ねらひすまして飛び付くや否、くるくると巻き、アハヤとおもふに、猫つと抜けて、爪をもて搔きて引《ひき》くはへ振る。蛇は巻かんして解き、ときては巻き、猫は飛び上り飛び廻りす。蛇は尾をもつてひたと打ち、たがひに争ひ果なければ、礫《つぶて》を取りて投げければ、猫はこれにおどろき、人かげを見て木陰《こかげ》へ逃げぬ。さるにかの蛇飛びかゝり、一握り程あるかの礫を引《ひつ》くはへ立上《たちあが》りたるに、おのおのおどろき、先に進んで行く者なし。蛇は半ば延び上り、大いに怒れる様に見えぬ。かくては時刻うつるなりと、側(かた)へなる山に這ひ登り、はるかにそこを目に懸けて通りぬ。跡を見れば初めのごとし。頓て足早に行き過ぎけり。それより三里ばかり過ぎて、もはや城下近くなる所に、百姓二三人立て咄すを聞けば、今朝爰を通りかゝるに、蛇の山より谷へ馳せ下るを見て驚きひかへたり、見給へ、斯《かく》のごとしといふに見れば、山より土砂もすり落ちて、木の枝葉もしごきたる様《さま》、まことに大木を落しかけたる如し。道幅弐間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]余もあらんに、頭《かしら》は下の谷に臨み、尾は未だ山の上にありしといへば、その長さ凡そ五六間[やぶちゃん注:九~十一メートル弱。]も有るべし。かくて城下に逗留の中《うち》、専らこの咄有り。今年はいかなる事にや。所々にて見たるもの多く、山ヘも稼ぎに行き難しとて、評定有りて鳥銃《てうじゆう》の士二十人ばかり、毎日その出《いづ》る所に遣はさる。未だ見当らずと、後によく聞けば、ある日に小《ちさ》き谷川のむかひに出《いで》たるを見て、おのおの筒先を向けるに、誰《たれ》か一矢《いつし》射るものなし、互ひに見合せ居《をり》たりしと。然れども見当らずと云ふなり。もはや十月にもなれば、自ら蟄《ちつ》する故なりとかたる。予問ふ、何故に向ひて打たざるや。曰く、このもの一《いち》の矢《や》[やぶちゃん注:鉄砲でもかく呼ぶ。]を射たる者に祟りある事なり。よつて一応は見直しぬ。退引(のつぴき)ならぬ時は、打つ事は容易(たやす)しと語りぬ。一日《いちじつ》姪の津といふ地、梅が浜とて景地あり。いざと誘はれ行く、道の船渡《ふなわたし》にて見れば、鰷(あゆ)をとる梁(やな)[やぶちゃん注:網代。]の打砕けたるあり。いまだ落鮎の最中に早く収めたり[やぶちゃん注:「や」の脱字か。]といへば、舟人いやいや、先日の大水に通りものして潰れたりと。予聞《きき》て通り者とは何にやと問へば、大蛇の事なり、この山奥に夥しく住むことにや。毎年洪水には一ツ二ツ流れ来る。今年も二ツ出たり。さしも強勢なる恐ろしき物ながら、大水のまくり立《たち》て落ち来《きた》るには、両岸へも上り得ず、頓て海ヘ入るなり、時々首をさし出すを見れば、牛の頭《かしら》のごとしといへり。
[やぶちゃん注:前者の「甲子夜話」のそれは、「フライング単発 甲子夜話卷之二十六 神崎の蟒【平戶】」として事前に正字化したものを公開してある。
後者「笈埃随筆」の著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。以上の本文は、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は「蚺蛇」。「蚺」は漢語で「大蛇」「大型のニシキヘビ類(中国には雲南省などに爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科アミメニシキヘビ Python reticulatus が棲息する)或いは現代中国語では「ボア(ヘビ亜目ボア科Boidae:中国には棲息しない。南北アメリカ大陸のみに分布する。同属には最大十メートルに達する世界最大のヘビとして知られるアマゾン川流域にに棲息するボア亜科アナコンダ属オオアナコンダ Eunectes murinus がいる)」を意味する語である。
「日州飫肥(おび)領折生迫(せりうさこ)」「現在の宮崎県宮崎市内」現在の宮崎県宮崎市折生迫(おりゅうざこ:読みが異なるので注意。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。宮崎市の南部の海岸に位置する。北直近に「鬼の洗濯板」で知られる青島があるが、この折生迫地区は、ごく一部を除いて、殆んどが海岸線まで山間が迫っており(グーグル・マップ・データ航空写真)、大蛇が出現しても不自然ではない場所ではある。なお、「飫肥領」飫肥藩は現在の宮崎県南部の日向国宮崎郡と那珂郡(現在の宮崎県宮崎市中南部及び宮崎県日南市全域)を広く領有していたが、殆んどが山間部であった。
「(迫とは谷間を云ふ。余国にては渓と云ふ。鎌倉にて谷(やつ)と云ふ)」言わずもがなだが、これは百井による割注である。鎌倉の独特の呼名を述べているのは、堅実である。
「大蝮蛇」所持する吉川弘文館『随筆大成』版にもルビはない。或いは、これで「うはばみ」と当て訓している可能性もあろうか。
「鳥銃」小銃のこと。猟銃。「こづつ」。もと、鳥を撃つことを目的としたため、或いは、その形が鳥の嘴に似ているところから名づけられたともされ、「鳥嘴銃」(ちょうしじゅう)とも呼ぶ。
「姪の津」は不詳だが、「梅が浜」は宮崎県日南市梅ケ浜で、「ライオン岩」で知られる景勝地であり、その東に接して「油津」があり、ここは宮崎県日南市にある商港・漁港で、江戸時代には飫肥杉の積み出しで繁栄した地として、とみに知られる。或いは、その古い異名であったか、或いは梅が浜は油津湊の東側直近の外海岸であるから、それに合わせて、かく呼んだのかも知れない。
「鰷(あゆ)」原本には読みはない。通常、この漢字は「はや」と読んで、広義通称のハヤ類を指すが、ここは後の叙述から問題ない。実際、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鰷魚 (アユ)」で益軒(福岡藩藩医)は「アユ」と振っている。なお、都合よく、その注で「ハヤ類」も解説してあるので(「ハヤ」という和名の魚種は存在しない)、参照されたい。]
〔奇異珍事録三〕一ツ橋御門内、今民部卿殿御屋形は、元松平右京大夫の屋敷なり。それを刑部卿殿へ進ぜられたり。その御普請の砌《みぎ》り、一ツ橋武者溜《むしやだまり》の上より、御書院御庭つづきしまり[やぶちゃん注:「締まり」。警備。]の為とて、栗丸太《くりまるた》出来《しゆつらい》の積り、未だ取かからず、栗丸太こゝかしこに運び置きたり。その節掛り小普請方手代中村作左衛門見廻るとて、件《くだん》の栗丸太を跨ぎしに、一本の丸太うごき、ざわざわと音せしに、あやしみ振り返り見たるに、一ツ橋枡形の上なる樅《もみ》の木へ、大なる蛇上《のぼ》るを見しより、しばし忙然[やぶちゃん注:ママ。]たる由。その頃相掛り手代岡田喜八・大平又兵衛もこの事知れりと、作左衛門物語りなり。その大蛇一尺二三寸廻り、長さ□間ばかりと覚えし由。 〔耳囊巻二〕廿年程以前の事なる。相州大山<別名雨降山《あふりやま》、神奈川県秦野市と厚木市の間にそびえる山>より、谷を余程隔てたる所に□□村有り。かの村方の山に年ふる古木ありて、朽ちたる穴ありしが、右の内に数年《すねん》住みけるうはばみ、折節は形をあらはし、眼精《がんせい》鏡の如く、里人驚き怖れ、或ひは煙を吹き、または鳥獣を取りて食ひ、人はおそれて用心なせども、時にふれて害をなしけるが、或夏の夜、ひとつの火の王、大山の方より飛び来ると見しが、右の大木の榎ヘ落ち、炎々と燃え上りしが、夜中すさまじき音して、震動する事ありしが、翌日見れば、右榎は片の如く焼けて、うはばみもともに焼けぬ。右の骨をば、所の者恐れて近辺の川原へ埋め捨てしを、医官山崎氏壮年の頃、彼地へ至りし時、骨をひとくるわ貯へ置きし、民の元に泊り、したしく見たりし由、右の委細あるじ山崎氏へ物語りせしと語りぬ。
[やぶちゃん注:前者「奇異珍事録」は幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(「三の卷」の掉尾)で視認出来る。普請用に運び込んだクリの丸太に紛れて運ばれたとはいえ、江戸城内に蟒出現というのは、まずまず特異点の奇談である。
後者「耳囊」「巻二」は私のものでは、「耳嚢 巻之九 猛蟲滅却の時ある事」である。
「相州大山」「別名雨降山」これは別名と言っても、山上に鎮座する大山阿夫利(あふり)神社の「あふり」にかく判り易く覚えやすい当て字をしたに過ぎない。だから、この「雨降山」も「あふりやま」と読むのである。
「□□村」リンク先で私は大山の後背部に広がる神奈川県愛甲郡清川村を候補地とした。
「ひとくるわ」「一包(くる)み」の意か。「くるわ」には「一つのものを纏めた一帯」の意があるから、そこから数詞として誤って使ったものかも知れない。]
〔続蓬窻夜話上〕紀州野上の庄《しやう》に孟子(もうこ)村〈現在の和歌山県海草郡野上町《のかみちょう》内か〉と云ふ処あり。その近き辺(あた)りに孟子の不動とて隠れなき不動あり。この地は魔処にて、申(さる)の時<午後四時>をさがれば人の往来なきよしを云ひ伝へり。この不動堂に住持する僧も一年半年、或ひは一年半はつとむれども、二年と住居する僧は古《いにしへ》より寡(すくな)し。いつとても住持の僧この堂に始めて至る時は、その日夜に射《いり》て何かは知らず、箕《み》の如くなる大手《おほて》を出《いだ》して、この僧を掌の上に載せて撈(すく)ひ上げ、右の手より左の手へ移し、左の手より右の手へ移し、かなたへ転ばし、こなたへころばし、様々に弄《もてあそ》ぶを、僧随分知らぬ顔して、死したる者の如くになり居《ゐ》て、終夜(よもすがら)翫(もてあそ)び物となり、少しも心を動かさずして居《を》れば、三四夜《さんしや》ほどすぐればなぶる事も止みて、遂に居住することなれども、怖ろしき事限りなし。
[やぶちゃん注:この前後二段落の引用元「続蓬窻夜話」は本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保十一年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。
「和歌山県海草郡野上町」現在は和歌山県海草郡紀美野町(きみのちょう)。野上町(のかみちょう)は二〇〇六年に同じ海草郡の美里町と合併し、紀美野町となったため、消滅した。
「孟子(もうこ)」宵曲先生、ちょっとだけ、上の現在地はハズれています。ここで、和歌山県海南市孟子です。紀美野町の東の直近ではありますが。
「孟子の不動」真言宗孟子不動山那賀寺(もうこふどうさんながでら)。弘仁六(八一五)年に弘法大師が開山したとされる山中の古刹。]
享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]に住持しける僧、或る時用事ありて孟子の村へ行けるが、行く先きを見れば日頃ありとも覚えざる松の大木横はれり。かの僧思ひけるは、怪しやこれほどの大木を切倒すならば、寺も程遠からねば聞ゆべき事なるに、させる物音も人声《ひとごへ》も聞かざりしが、いつのまに伐倒しぬるものならんと不思議に思ひながら歩み近づきて、既に大木を跨げるとき、この大木するすると這ひ動きければ、気も魂《たま》も消えて怖ろしく、跡をも顧みず北(に)げ走りて、漸《やうや》う孟子の村に到り著きければ、村の人この僧の顔色を見て、足下《そこ》には山にて何ぞを見付けられしにや、殊の外顔色あしし、何をか懼れ玉ひけると問ひけるに、いや何も見侍らずと、さりげもなく答へけれども、村のものなほ怪しみて、とかく何ぞ見玉ひたるらん、足下の顔色只事にあらず、是非に聞かんと云ひけるほどに、僧路にての有りし事を語り、ふるひわななき恐れける。元よりこの里には昔より大蟒《うはばみ》[やぶちゃん注:二字でそう読んでおく。]のありと云ひ伝へたれば、それに逢ひけるものならんとぞ村の人は云ひける。斯くてこの僧二三日は人心地もなくて村に有りけるが、程へて気色《きしよく》もよくなり、不動堂へ帰りける。この堂のあたりに滝あり。住僧は毎朝滝水にて身を清めて後、堂の勤めをする事なれば、例の如く滝にうたれんとて空を何心なく見上げたれば、滝の上にまた大木横たはりて、今度は朱の如くに赤く大なる口を開きて、只今我を呑まんとするふぜいなるを見て、身の毛竪(たち)て怖ろしく、気も消え魂も飛んで跡をも見ず、赤裸《あかはだか》にて孟子村に逃げ来り、その後は住職も遂(かな)はず、すぐ何地《いづち》ともなく逐電しけり。その以後も今に於て代る代る住持の僧来りけれども、皆かゝる事にや逢ひけん、二年と務むる者なし。〔甲子夜話巻四十七〕林話に、濃州岩村領恵那郡久須美村<現在の岐阜県恵那市久須美>に山中と字《あざな》する所、今は兀山《はげやま》のよし、昔は灌莽《くわんまう》茂生《しげりはえ》りたりしとなん。今の城主(能登守乗保)先代(能登守乗蘊《のりもり》)の時、この地にて蟒蛇《うはばみ》の骨を獲て、今も尚その頭骨を庫蔵《こざう》す。大きさ馬頭《うまのかしら》ほどにて、銃丸の中《あた》りたる痕いちじるしく残れり。これを打留めたりしは猟師一郎右衛門と云ふ者なり。或日一郎暁かけて山中に往き弁色《べんしよく》[やぶちゃん注:曙になって周囲のものの姿形が識別出来るようになることを言う。]の頃、例の如く鹿を寄せんとて鹿笛吹きしかば、蔚然《うつぜん》[やぶちゃん注:草木の生い茂っているさま。]たる中より大なる蟒蛇の首を擡《もた》げ出でける。折りしも纔かに旭光《きよくくわう》の昇れるに、両目烱々《けいけい》と照り合ひしかば、八寸ばかりの鏡を懸けたるほどなりしが、頓て首を卸《おろ》して見えず。その時一郎思ふやう、馳せ出せば鹿と思ひ一口に呑まるべしと、鉄砲に込めたる玉《たま》薬《やく》をぬき、常に守護なりとて持ちゐし鉄玉《てつだま》を出《いだ》し、強薬《きやうやく》にこの鉛子《たま》を込め替へ、また鹿笛を吹きしかば、この度は蟒《うはばみ》首《くび》間近く我上に擡げたりしを、鉄砲引よせて仰《あをむき》ざまに腮《あぎと》より打抜くと斉しく、万山《ばんざん》一同に響き渡り、大地震動して、覚えず鉄砲持ちながら、その身は谷底に落ちけるが、幸ひに水も無かりしかば、岩角を伝ひ攀ぢ上るに、さしもの晴天俄かに変じ、雲霧深く四方を弁じがたし。されどその地は熟路なれば、山径《やまみち》を一筋に跡をも見ず、息を切《きつ》て家に帰り、家人にこの鉄砲は守護なれば、屋の棟に結《ゆひ》つけよと云ひながら、昏仆《こんふ》[やぶちゃん注:漢方で一過性に意識障害を指す語。]して人事を省《せい》せず、日を経ても茫然として病むこと久し。後《のち》三年を過ぎて、採薪《たきぎとり》の者かの山中に往きしに、何とも知らぬ白骨ありければ、訝《いぶか》りて草を分けて見れば、山二つに亘《わた》りて、その末《すゑ》頭骨と覚しき者あり。驚き還り村長に噺しければ、さらばとて衆人往きて視るに違はざりしかば、終《つひ》に城下の郡職へ訟へ出でけり。その時に至りて、誰《たれ》云ひ出すともなく、この三年《みとせ》猟師一郎臥病《ぐわびやう》せるが、鉄砲達者の男なれば、定めて渠《かれ》が打《うち》たるべしとの沙汰頻りにて、郡職より一郎を呼出して尋ねたるに、その事を云はず。因《より》て強ひて問詰《とひつ》められ、やうやうにその始末を云ひて、戦慄して後ろをふり顧みければ、箇《か》ほどまでに懼《おそろ》しきやとて、郡職の者等《ものら》も咲(わら)ひしとなり。それより一郎が疾《やまひ》愈えしが、遂に猟師を止めて農夫となりけりとぞ。また話、城下一里余に木実村と云ふあり。小川ありてあめの魚を産す。人々夜網を打《うち》て取る。家老味岡杢之允が譜代若党に岡其右衛門《をかきゑもん》と云ふあり。今の其右衛門が祖父なりし者、その川にて夜網せしが、常に見ぬ所に小橋ありければ、よき幸ひに橋を蹈《ふ》んで向岸《むかふぎし》へ渡らんと、橋に蹈みかけたるに、蹈み心《ごこち》何となく柔かきやうに覚えしが、橋と思ひし物しづかに向う[やぶちゃん注:ママ。]へ進むゆゑ、その時始めて蛇背《へびのせ》なることを悟り、駭《おどろ》いて水に墜ち、泳いでもとの岸に登り、はうはう逃げ帰りしとかや。〔譚海巻九〕みのの国にある百姓年老いて、所帯を子供にゆづりて、夫婦山里に隠居し、山畑などひらき、牛一つ飼ひて住みけり。然るに山中にうはゞみありてこの牛を心がけ、よるよる来りければ、牛おそれをのゝき[やぶちゃん注:ママ。]て、さわがしき事限りなし。老人いかで此ものをとらんとて、鉄砲を用意し置《おき》けるに、ある夜また例のごとく牛おどろきさわげば、心がまへして待つところに、うはゞみ萱屋根《かややね》の軒口《のきぐち》より、かしら差出《さしいだ》したり。かの鉄砲に二つ玉こめて打ちたれば、あやまたずうはゞみの口へうちいれたる時、かしら引きたると見えしが、したゝかなる音して、谷のかたへまろび落つるやうに聞えけり。夜明けて行きてみれば、さも大なるうはゞみ谷底におちて、死んで有りけりとぞ。 〔同〕因幡の国にも山中の池にすめるうはゞみ有り。これは人をとる事をせず。ある人長雨の後、用ありて山越に里へ行きたるに、山あひの池あふれて、水をわたりて往来する事なるに、何やらん材木のごとき物、足にさはりたるをふみつけたれば、うはゞみにて有りければ、やがてその足をかみてけり。さのみ覚えざりしかば、里にて用事とゝのへ、さて足をみれば、紫のあざ付きて、ふくれあがりたり。少し心地あやしきやうなるが、夕暮より熱気出て、くるしき事たとへがたし。宿の主人、例の物にくはれ玉ふなり、これにはよき療治侍るとて、やがて何やらん草をとり来り、風呂にてせんじわかしてあみさせければ、やうやう心地さわやぎ、一両度入湯せしかば、熱気さめて本復せりとぞ。
[やぶちゃん注:「甲子夜話」「巻四十七」の二話は連続しているので、事前に「フライング単発 甲子夜話卷之四十七 36 濃州久須美山中の蟒蛇 / 37 同、木實村川の蛇橋」として正字化して、注もしておいた。
「譚海」「巻九」の二話も同じく連続して載るため、事前に「譚海 卷之九 濃州百姓山居うはゞみを討取たる事 因州うはゞみの事 (フライング公開)」として電子化しておいた。]
〔甲子夜話巻七十〕邸内の僕に越中国の少年ありて話せしを、小臣の物語れるは(原語鄙陋多し。たゞ聞く儘に録せり)、同国に白かい銀山[やぶちゃん注:不詳。]・駒ケ嶽<富山県魚津市と新川《にひかは》郡にそびえる山>並びにおすもん山[やぶちゃん注:不詳。]と云ふあり。この両山は大谷ありて渓谷多し。その麓に大白川、また平瀬といふ里あり。その里人は皆猟人にして、日々山中に入りて猪鹿を獲て生産とす。然るに時として山中に鹿猿の無きことありて生産に乏し。この時猟夫曰ふには、居中蟒来れりと。乃《すなは》ち谷間渓水の辺《あたり》岸石《きしいし》を窺ひ見るに果して巌穴《いはあな》の内に蟒の居《を》るべき処あり。(この猿鹿の居らざると云ふは、蟒来《きた》ればこれを捕り喰《くら》ひて無きか、またはこれを懼れて逃去りて居《をら》ざるかとぞ)これを覩《み》れば牽き往きし犬の食物を穴中《あななか》に投ずるに、犬即ち入りて食ふ。若し蟒の居る事あれば、犬敢《あへ》て入らず。就中牝犬は頻りに吠えて入らず。猟夫こゝを以て知り、巌前《いはのまへ》に集《あつま》り棚を構《かまふ》[やぶちゃん注:底本は「構」が「横」となっている。『ちくま文芸文庫』版もそれを踏襲して『横(よこた)ふる事』としているが、「棚」を「横ふる」というのはどうもピンと来ない。私は私の底本(平凡社の『東洋文庫』版「甲子夜話」)に従い、特異的に訂した。]る事高く、上に数人《すにん》登り、穴口に乱杭《らんぐひ》を樹《うゑ》て防《ふせぎ》とし、それより矩火《かがりび》を多く設け、蕃椒《たうがらし》を炬中《きよちゆう》に加へて穴中に擲入《なげいる》る。この烟《けむり》を数人《すにん》して扇《あふ》ぎ籠《こ》めば、蟒その毒烟《どくけむり》に咽《むせ》びて穴底より出でんとす。蟒動く時はその音風声《かぜのおと》の如し。然るとき棚上の猟夫、預(あらかじ)め設けたる槍、或ひは薙刀《なぎなた》を執りて待つ。瞬時に乱杭を破らんとするを、群槍蟒頭《うはばみがかしら》を刺す。蟒尚ひるまず、首已に杭を出でんとするとき、薙刀を持ちたるもの斬《きり》て頭を絶つ。若しこの如く為さずして、その全身を露(あら)はすに及べば、蟒尾《うはばみのを》人を払ひ倒して勢ひ震電《しんでん》の如く、人皆《ひとみな》これが為に害せらる。因《より》てこの備へをなすと云ふ。 〔塩尻巻六十〕この春<享保四年>丹波国千丈が原<現在の京都府福知山市内>と云ふ山家《やまが》にて、蟒蛇《うはばみ》[やぶちゃん注:同前。]出て人をなやませしを、狩人鉄砲にて打留めし。そこの地頭某《なにがし》へ見せ侍るとて、東都へ首ばかり持ち行く。三月中《やよいうち》に持帰《もちかへ》りしを、人々見しとて語る。大きさ炭斗《すみとり》ふくべの小さき物にして両《りやう》に耳あり。頭《かしら》に赤き毛むらむらと生《お》ひて見えしとかや。深山《しんざん》にはかゝるもの間々《まま》ありと。毎《こと》に人のいふもいつはりならず侍るにや。
[やぶちゃん注:前者は事前に「フライング単発 甲子夜話卷之七十 30 越中國の蟒話」を電子化注しておいた。最後の静山による「和漢三才図会」の引用の附記は、カットされている。
「富山県魚津市と新川郡」『ちくま学芸文庫』版では、この「新川郡」を「黒部市」と編者によって変更されてある。越中駒ヶ岳の頂上は魚津市であるが、頂上東北直近で黒部市と接している。しかも「新川郡」は行政区画として画定されたものではなく、富山の東半分の広域を示す古い通称呼称(当該ウィキ参照)だから、そもそもこの宵曲の言い方はおかしいのである。
「塩尻」「巻六十」「鼬の火柱」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(左ページ三行目から)で正字で視認出来る。
「炭斗ふくべ」「炭斗瓢」大型の瓢簞(ひょうたん)の底部分を、実の中を刳り抜いて乾燥させて作った茶道具。「瓢炭取」等とも書く。茶の湯で、亭主が、客の前で炉や風炉に炭を組み入れる炭点前(すみでまえ)で用いる、炭を組み入れ、香合・羽箒・釜敷・鐶・火箸を添えて席中に持ち出す器のこと。
「享保四年」一七一九年。
「丹波国千丈が原」現在の京都府福知山市大江町(おおえちょう)佛性寺(ぶつしょうじ)の「千丈ヶ原 子安地蔵」の附近か。]
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