柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大鳥人を摑む」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
大鳥人を摑む【おおとりひとをつかむ】 〔閑田次筆巻四〕四五年前に聞きし。加賀のあたりに遊びし浪士、大鳥に摑まれて、空中を行くこと二時《ふたとき》[やぶちゃん注:四時間。]ばかりを経て、いづことも知らぬ山中にして、大鳥この人を摑みながら下りて休みたり。この透キ間を見て、腰刀《こしがたな》を抜きてつかみたる手を切り、つひにさし殺し、片翼を切りてみれば、片々にて[やぶちゃん注:その片方の翼だけでも。]吾身隠るゝほどに余れり。辛うじてやゝ山を下りて人に会ひしに、その翼を見て大いに畏れしかば、その子細を語りて、さてこゝはいづこぞと問へば、箱根の湯本近くなりといふ。遙かなるほどを纔か二時ばかりに来しに、鳥の勢ひのはげしきをさらに驚きぬ。さてしばしその辺ンに逗留し、疲れを休めて後、江戸へ出たれば、その翼に付きてその所以(ゆゑ)を聞き伝へ、その勇壮をよろこび、かたがたの諸侯より召されしに、いづかたへか仕へて出身せりとかや。大かたの人ならば、空中にて正気なくなりぬべきを、堪ヘてかくまで振舞ひけるは、鳥のみならず、人も世にめづらなり。この鳥は大鷲なるべし。これ迄も箱根の辺にて、折々人の捉《と》られしことありしは、これが所為にてありしが、この後はこの禍ヒ止ミたりと、そのわたりにては喜びしとなん。
[やぶちゃん注:「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから四行目以降)で正規表現で視認出来る。直前に鷲に攫われて養育された人の話があり、それを受けて、冒頭に「鷲の因《ちなみ》に思ひ出たることあり」とあるのがカットされてある。]
〔甲子夜話続篇巻九十二〕印宗和尚語る。天保壬辰<三年>の夏のこととよ。薩摩領にて小給の士の子、年十四なるが、父の使として書通を持ちて、朝五つ<午前八時>頃と覚しきに、近辺に行きけるが、ある坂を越しゆくとき、大なる鷲空より飛下り、かの伜を摑みて飛去りぬ。伜は驚きたれど、はや空中のことなれば為ん方もなく、始めは遙かに村里も見えたるが、暫くして見えずなるまゝに、よく見れば渺海の上を行くなり。伜も恐ろしながら、為すべきことも無ければ、両手を懐に入れて、運命に任せ行くほどに、果しもなければ、片手をそと出して見るに自由なれば、鷲を刺さんと思ひしに、折ふし鷲は大なる木の梢に羽を休めたり。伜は指したる脇刀に手をかけ見しに、殊に高き木末なれば、鷲を殺せば己れは堕ちて微塵に成らんと思ひ、姑(しば)し猶予せし中、鷲復(また)飛び行く。やゝ有りて伜その下を臨むに、程近くして且つ平地なるを見て、頃よしと脇刀を抜《ぬき》て、胸と思ふ所を後ろざまに突きたれば、鷲よわるとおぼしきを、二刀《ふたがたな》三刀刺し通せば鷲死《しん》で地に落ちたり。この処《ところ》山中なれば、二町ばかりを下りたれど、方角弁ぜず。またふと思ひつきて立戻り、彼《か》の鷲の首と片翅《かたはね》とを切落し、打負(《うち》かつ)ぎて麓を志しつゝ下りしに、樵夫《きこり》に行逢ひたり。樵《きこり》何方《いづかた》の人ぞと云ふゆゑ、伜城下へ往く者なり、導(あんない)してくれよと頼めば、城下とは何《いづ》れのことぞと云ふゆゑ、城下を知らずやと云へば、曾て知らずと答ふるゆゑ、伜立腹して鹿子嶋《かごしま》のことよと云へば、鹿子嶋とは何れの所やと云ふゆゑ、伜心づきて、薩摩鹿子嶋なるが、汝居《をり》ながら弁ぜざるかと云へば、樵あきれて、薩摩とはこゝより何百里なるやと云ふゆゑ、さればこの処は何処かと問へば、こゝは木曾の山中なり、いかにしてかく分らざることを云ふゆゑ、我は薩摩の者なり、鷲に捕はれかくと言ひて、証《しるし》にかの首と翅とを出したれば、樵も疑はず。麓に連れ下り、庄屋にこの由を訴へたれば、陣屋へ達したるに、人々驚き、医者など呼びて見せたれど、少しも替《かは》ることも無かりければ、それより件《くだん》の遍歴を問ひたるに、薩州にて鷲に摑まれしは朝五つ<午前八時>過《すぎ》にて、木曾の山中にて鷲の手を離れしは、夕七つ過<午後四時>なりしと。されども暫時と覚えたれば、空腹とも知らず、云ふ体《てい》にて、帰さんに数百里の処なればまづ江都(えど)の薩摩屋舗(やしき)へ送りとどけたれば、老侯聴き給ひて、殊に賞感せられしと云ふ。計《はか》るに信濃より薩摩へは殆んど四百里なるべし。かゝる遼遠を僅か五時に到りしも、鷲の猛《たけ》きか、その人の暗勇か、奇事耳(のみ)。
又、先年のことにて、江州膳所《ぜぜ》にても、少年の馬に乗りゐしを、鷲摑みて空中に飛行きたり。少年捕はれながら下を見るに、湖上を飛行くゆゑ、為ん方もなくする中、両刀邪魔になるまゝ刀は脱《ぬぎ》て湖水に投じ、脇差は指してありしが、後は陸地の方へ飛行きて、鷲も羽や疲れけん、摑みし足をゆるめければ、少年は浜辺と覚しき所に堕ちたり。鷲はその辺の巌上《がんしやう》に飛下《とびくだ》り、翅を休むる体《てい》なり。少年も幸ひに恙なければ起揚《おきあが》り、鷲を切らんと思ひしが、斯《か》くせば忽ち鷲に害せらるべしと、臥したるまゝ動かず。食はんとするを、少年即ち脇差にて切《きり》つけたれば、鷲は切られて斃《たふ》れたり。少年も辛き命を助かり、あたりの人を尋ねて、こゝは何《いづ》れの所なりやと聞けば、若狭の海辺なりしと、これ等は近国のことなれど、何れ廿余里もや往きつらん。大鳥の人を捕へしは同一事なり。
[やぶちゃん注:後者は事前に、「フライング単発 甲子夜話續篇卷之九十二 10 薩摩領にて十四歲なる子、鷲に摑れし事 付」(つけたり)「膳所にて少年の馬上なるを摑し事」で電子化注しておいた。]
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