譚海 卷之九 常州外海ゐくちの魚の事 /(フライング公開)
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]
○常陸(ひたち)の外海(そとうみ)には、「ゐくち」と云(いふ)魚ありて、時々、舟に入(い)るなり。「ゐくち」入(いり)たる船は、沈む事故(ゆゑ)、船頭、はなはだ、恐(おそる)るなり。
此「ゐくち」、ふとさは、さのみもあらぬものなれども、長さ數百丈ありて、舟を、こなたより、あなたへ、こゆるなり。その、こゆる際、いくらも長く續きたるものにて、一二刻もありて、こえはつれば、水に落入(おちいり)たる音して、何のさはりも、なし。[やぶちゃん注:「數百丈」六掛けで一・八一八キロメートル。「一二刻」ウィキの「イクチ」の注釈「1」によれば、『原文は「一二刻」だが、』「一、二刻」と『読むべきであろう。目撃されるのは』「『常に夜陰の事にて』」『とあるので夜の一刻が該当する。平均を取って 』一・五刻『あれば、夏場の夜の』一『刻が』二『時間弱だから』、三『時間弱という概算にもなりうる。ただ』、『夏至だと』、『昼の一刻は最長となり』、二時間四十分であるのに対し、『夜の一刻は』一時間二十分『しかない』という緻密な考証を私は尊重することとした。]
只、こゆるあひだに、その内より、油をこぼす事、おびたゞしく、其儘におけば、あぶら、舟に、みちて、沈むゆゑに、『「ゐくち」、入りたり。』と見れば、船中の人、無言にて、只、此(この)こぼるゞ油を、器物へ、うけて、いくらともなく、海へ、こぼす事なり。
「ゐくち」の油、「ふのり」の如くねばりて、舟の中、はなはだ、滑らか成(なる)ゆゑ、進退成(なり)がたきまゝ、「ゐくち」の入りたる舟をば、いつも、跡にて、よく洗ふ事なり。
いつも、夜陰(やいん)の事にて、その形を、しかと見たる事なけれども、うなぎのごとく、總身(さうみ)、ぬめりて、油、おほく、ある物なりとぞ。
[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之三 海上にいくじといふものゝ事」を参照されたい。一応、古いが、私のモデル生物を注で述べてある。
「ふのり」紅色植物門真正紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis に属する海藻類。私はこれがなくては生きて行けないほどの好物で、常にストックがある。本邦では。古くから糊の原料とされ、漆喰・織物の糊つけ・工芸品の接着・整髪料、蕎麦のつなぎ(「へぎそば」)などに幅広く利用されてきた経緯がある、民俗社会では馴染みの海藻である。]
又、「いるか」といふは、「さめ」のごとき魚にて、鹿に似たるものなり。よく眠る事をこのむものにて、苫(とま)なき舟へは、いつとなく入(いり)て、いびきかき、寢るなり。夫故(それゆゑ)、獵師、いるかをとるには、夜陰、海上に出(いで)て、舟を、うかめ居(を)れば、「いるか」、おほかた、舟底に入(いり)て、寝る事なり。やがて、舟をこぎもどして、岸に着(つき)て、「もりは[やぶちゃん注:ママ。]」にて、突殺(つきころ)して、くひものにす。獵船の、江戶へ、魚、仕送(しおく)るに、時々、いるか入(いり)て、とものかたに、いびき、かきて、寢ている[やぶちゃん注:ママ。]事ありと、いへり。
[やぶちゃん注:「もりは」底本では編者による右傍注があって、『(もくわ)』とあるのだが、意味が判らない。私は単純に「銛」に「は」が衍字となったものと考えたのだが。]
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