柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大蚊柱」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
大蚊柱【おおかばしら】 〔塩尻巻五十〕同七月〈正徳三年[やぶちゃん注:一七一三年。]〉末、府城南門の左右(東は武平、西は御園御門)の堀の所々より、煙のごとく立のぼりたるもの有り。囲一丈ばかり、長四五丈もや有りなん。柱など立たるやうに薄曇りて、夕附日(ゆふぢくに)にうつろひ、色異様に見えし。人《ひと》立《たち》よりよく見れば、蚊幾百億ともなく集まりて、この形をなせし。蚊柱といふべきにや。いかさま希有の事とかたりしか。廿六日邦君<尾州藩主、徳川吉通>隠れさせたまへりとなん、廿九日に聞ゆ。さてはかゝ事の先兆にやといふ人多かりし。 〔煙霞綺談巻二〕元禄元庚戌六月、尾州名古屋広小路に出火ありとて、皆駈著《かけつ》けしに、出火なく只烟《けぶり》のみおびたゞしく立つ。よく見れば烟《けふり》にはあらで、蚊いかほどともなく集り、高サ三四丈あつて烟のごとく見えたるなり。これ蚊柱といふものなり。然れどもかやうの夥しき事は未曾有の事なり。暫く大いに忩動《そうどう》せしと云ふ。
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ下段後方)から正字で視認出来る。
「蚊柱」は水辺などで、双翅目糸角亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae の形成するものが有名(老婆心ながらユスリカは刺さない)であるが、広くカの仲間や他の双翅類(ガガンボダマシ科Trichoceridaeやヒメガガンボ科Limoniidae。やはり吸血はしない)が軒下などに群れて柱状に長く延び上がり、上下しながら飛ぶ生殖行動に伴う現象をいう。刺すカ科の仲間でも、アカイエカ・コガタアカイエカなどが顕著な蚊柱を作る。七~八月頃の夕方や朝、羽音をたてながら、二十~五十匹、時には数百匹の♂が群飛する(則ち、本来の蚊柱を形成するのは♂であるから蚊柱の蚊は刺さないのである)と、そこに♀が入ってきて、交尾が行われ、蚊柱は、凡そ四、五十分で消失する。♂は♀の入来を♀固有の羽音で感知するといわれている。蚊の産卵には水が必要で、蚊には低気圧が近づいて湿度が高まり、蒸し暑くなると、本能的に生殖活動を行うプログラムがなされているらしく、蚊柱が立つと、一日、二日のうちに雨の降ることが多いとも言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」の一部参考にさせて貰った)。
「府城南門」著者天野信景(さだかげ)は尾張藩士であるから、名古屋城のそれ。グーグル・マップ・データの門の跡はここ。堀川の東直近であるから、蚊柱は出来易い環境とは言える。但し、私は山の中腹の私の家の直近でしばしば巨大な蚊柱を見たから、必ずしも水辺とは限らぬようだ。
「徳川吉通」(よしみち 元禄二(一六八九)年~正徳三年七月二十六日(一七一三年九月十五日)は尾張藩第四代藩主。当該ウィキによれば、満二十三歳の若さで、『食後』、『急に吐血して悶死するという異常な死に方をしている』。『しかも医師が近侍していながら、まったく看病しなかったともいわれ、当時からその死因を不審がる者もいた』。『名古屋藩士朝日重章の日記』「鸚鵡籠中記」には、『その頃』、頻りに『和歌山藩の間者が名古屋藩邸をうかがっているという風聞を掲載している』。『なお、吉通の子の五郎太も正徳』三(一七一三)年十月に『死去したため、尾張徳川家の正統は将軍家に先立って絶えることとなった』とある。
「煙霞綺談」全四巻。遠州金谷(かなや)宿(現在の静岡県島田市金谷本町)の出身の俳人西村白烏(はくう)の主に三河附近の実話巷談を記した随筆。西村は京の儒者新井白蛾に易を学び、蕉門の中川乙由門の佐久間柳居に俳諧を学んだ。同郷の林自見が自分が書いた「市井雑談」の続篇を書くように勧められて執筆したものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。「けぶり」「けふり」はそれに従った。前者の濁点は汚損とも考えられるが、取り敢えず、打っておいた。
「元禄元庚戌六月」一六八八年六月二十八日から七月二十六日まで。
「尾州名古屋広小路」ここ(グーグル・マップ・データ)。戦前の地図を見ても、ここは水辺ではない。]
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