フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« フライング公開 畔田翠山「水族志」 ヤマベ (ヤマメ) | トップページ | 南方閑話 巨樹の翁の話(その「二」) »

2023/08/07

南方閑話 巨樹の翁の話(その「一」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

    巨 樹 の 翁 の 話

        

 紀州日高郡上山路《かみさんぢ》村大字丹生川《に(ゆ)うがは》の西面《さいめん/にしを》導[やぶちゃん注:「おさ」「みち」か。]氏より、大正九年に聞いたは、

「同郡龍神村小又川の二不思議なることあり。その地に『西のコウ』・『東のコウ』とて、谷。二つあり。『西のコウ』に、瀧あり。その下に、オエガウラ淵、あり。昔し、此淵に『コサメ小女郞《こぢよらう》』と云ふ怪、有り。何百年經しとも知れぬ、大きな『小サメ』あつて、美女に化け、ホタ(薪)山へ往く者、淵邊《ふちべ》へ來るを見れば、『オエゴウラ。』(「一所に泳ぐべし。」)と勸め、水中で、殺して、食ふ。或時、小四郞なる男に逢《あひ》て、運の盡きにや、『「七年通(とほ)スの鵜(う)」を、マキの手ダイを以て、入れたら、われも叶はぬ。』と泄《もら》した。小四郞、其通りして、淵を探るに、魚、大きな故、鵜の口で噉(くわ)ゆる能はず、嘴《くちばし》もて。その眼を抉(えぐ)る。翌日、大きなコサメが、死んで、浮上《うきあが》る。其腹を剖《さ》くと、キザミナタ七本有り。樵夫《きこり》が、腰に插した儘、呑《のま》れ、其身、溶けて、鉈のみ、殘つたと知れた。」

と。

[やぶちゃん注:「日高郡上山路村大字丹生川」現在の和歌山県田辺市龍神村丹生ノ川(にゅうのがわ:グーグル・マップ・データ)。田辺の山岳地帯の最深部で、南方熊楠は何度か、採集を行うためにこの周辺に行っている。

「小又川」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても判らないが、丹生川の少し下流から北方向に分岐している谷川が今もあり、その川は『三又川』(現行「三ツ又川」)である。この近くか。

「『西のコウ』・『東のコウ』」位置不詳。「コウ」の意味も不明。「向」・「荒」・「溝」・「曠」・「高」・㞍」等が想起はされる。]

 畔田伴存《くろだともあり》の「水族志」に、『紀州安宅《あたぎ》の方言「アメノ魚」を「コサメ」と云《いふ》。』と見ゆ。爰に言ふ所も「アメノ魚」であらう。「七年通スの鵜」とは「七年通しの鵜」で、凡て、此鳥、陽曆の六月初《はじめ》より九月末まで使ひ、已後は飼ひ餌《ゑ》、困難故、放ち飛ばす。されど、絕好の逸物は、放たず、飼ひ續く。併し、七年も續けて飼ふ例は、極めて、少なし。「マキの手ダイ」は、「マキの手炬《テダイマツ》」で、マキを炬《たいまつ》に用《もちゆ》れば、煙、少《すくな》く、甚だ、明るし。キザミナタは樵天が樹をハツルに用ゆる鉈である。

[やぶちゃん注:「畔田伴存」畔田翠山(寛政四(一七九二)年)~安政六(一八五九)年)は本名を源伴存(みなもとともあり)といい、紀州藩藩医であった。通称を十兵衛、別に畔田伴存とも名乗り、号は翠山・翠嶽・紫藤園など。「和州吉野郡群山記」「古名録」をはじめとする博物学の著作を遺した。以下、ウィキの「源伴存」より引く。『現在の和歌山市に下級藩士の畔田十兵衛の子として生まれた。若いときから学問に長じ、本居大平』(もとおりおおひら:本居宣長の弟子で養子。)『に国学と歌学、藩の本草家で小野蘭山の高弟であった小原桃洞に本草学を学んだ。父と同様、家禄』二十『石の身分であったが、時の』第十代藩主徳川治宝(はるとみ)に『学識を認められ、藩医や、紀の川河畔にあった藩の薬草園管理の任をつとめた』。『薬草園管理の任にあることで、研究のための余暇を得たとはいえ』、二十『石のわずかな禄では、書物の購入も研究のために旅に出ることも意のままにはならない。こうした伴存の境遇を経済面で支援したのが、和歌山の商人の雑賀屋』(さいかや)『長兵衛であった。長兵衛は、歌人としては安田長穂として知られる人物で、学者のパトロンをたびたびつとめた篤志家であった』。『また、伴存自身は地方の一学者でしかなかったが、蘭山没後の京都における本草家のひとりとして名声のあった山本沈三郎』(しんさぶろう)『との交流があった。沈三郎は、京都の本草名家である山本亡羊』(ぼうよう)『の子で、山本家には本草学の膨大な蔵書があった。沈三郎は』、弘化二(一八四五)年に『伴存の存命中に唯一刊行された著書』「紫藤園攷証」(しとうえんこうしょう)甲集(博物学書。国立国会図書館デジタルコレクションの原本へリンクさせた)に『ふれて感銘を受け、それ以来、伴存との交流があった』。『この交流を通じて、伴存は本草学の広範な文献に接することができた』。『このように、理解ある藩主に恵まれたことや』、『良きパトロンを得られたこと、さらに識見ある先達との交流を得られたことは、伴存の学問の大成に大きく影響した』。『伴存は、自らのフィールドワークと古今の文献渉猟を駆使して』、二十五部以上・約二百九十巻にも『及ぶ多数の著作を著した』『が、その業績の本質は本草学と言うよりも博物学である』。文政五(一八二二)年に『加賀国白山に赴き、その足で北越をめぐり、立山にも登って採集・調査を行った。山口藤次郎による評伝では、その他にも「東は甲信から西は防長」まで足を伸ばしたと述べられているが、その裏付けは確かではなく』、『伴存の足跡として確かなのは白山や立山を含む北越、自身の藩国である紀伊国の他は、大和国、河内国、和泉国といった畿内諸国のみである』。『その後の伴存は、自藩領を中心として紀伊半島での採集・調査を続け、多くの成果を挙げた。代表的著作である』「和州吉野郡群山記」も、『その中のひとつである』。安政六(一八五九)年、伴存は熊野地方での調査中に倒れて客死し、同地の本宮(田辺市本宮町)にて葬られた』。『伴存の著作の特徴となるのは、ある地域を限定し、その地域の地誌を明らかにしようとした点にある。その成果として』「白山草木志」・「北越卉牒」(ほくえつきちょう)・「紀南六郡志」・「熊野物産初志」・「野山草木通志」(やさんそうもくつうし:高野山の草木類についての本草書。巨大なツチノコではないかとも言い囃された「野槌」の図が載ることでも知られる「【イエティ】~永遠のロマン~ 未確認動物UMAまとめ その1【ツチノコ】」に図があるので参照されたい)、そして伴存の代表的著作』「和州吉野郡群山記」が『ある。特に紀伊国では広範囲に及ぶ調査を行い』、その中で、『日本で最初と見られる水産動物誌』である本「水族志」や、貝類図鑑である「三千介図」が生まれており、代表的著作とされる「熊野物産初誌」・「和州吉野郡群山記」も『そうした成果のひとつで』、「和州吉野郡群山記」は、『大峯山、大台ヶ原山、十津川や北山川流域の地理や民俗、自然を詳細に記述したもので、内容は正確かつ精密である。その他にも、本草学では』「綱目注疏」・「綱目外異名疏」、『名物学では全八十五巻からなる』「古名録」や「紫藤園攷証」があり、『伴存の学識』の博さを『知ることが出来る』。『前述のように、伴存は生涯にわたってフィールド』・『ワークを好んだだけでなく、広範な文献を渉猟した。ことに古今和漢の文献の駆使と』、『それにもとづく考証においては、蘭山はもとより、他の本草学者』とは比べものに『ならないほどの質量と専門性を示すことは特筆に価する。また、伴存の博物学的業績を特徴付けるのは、調査地域での記録として写生図だけでなく』、『標本を作成した分類学的手法』『である。その標本は、伴存の門人で大阪の堀田龍之介の手に渡り、後に堀田の子孫から大阪市立自然史博物館に寄贈された。これらの標本を現代の分類学から再検討することは行われていないが、紀伊山地の植物誌研究にとって重要な資料となりうるものである』。『伴存は以上のように大きな業績を残したが、生前に公刊した著作はわずか』一『冊のみであった。また、実子は父の志を継ぐことなく』、『廃藩置県後に零落』、明治三八(一九〇五)年に『不慮の死を遂げ、家系は途絶えた。伴存は堀田龍之介と栗山修太郎という』二『人の門人を持ったが、栗山の事跡は今日』、『ほとんど何も知られていない』。『堀田は、伴存と山本沈三郎との交流の仲立ちに功があった』『が、本草学者・博物学者としてはあくまでアマチュアの好事家の域にとどまった』。『こうしたこともあって、伴存は江戸末期から明治初期にかけて忘れさられただけでなく、第二次大戦後に至っても』、『本名と号とで』、『それぞれ別人であるかのように扱われることさえあった』。『伴存が再発見されたのは全くの偶然で』、明治一〇(一八七七)年、東京の愛書家・宍戸昌が』、古書店で「水族志」の『稿を入手したことに始まる。著者名は「紀藩源伴存」とあるだけで、何者とも知れなかったが、翌年に大阪で宍戸が堀田に見せたところ、その来歴が判明したのであった。後に田中芳男がこのことを知り、宍戸に勧めて』、明治一七(一八八四)年、本「水族志」が『刊行された。田中はまた』、「古名録」の『出版にもつとめ』、明治一八(一八八五)年から明治二三(一八九〇)年に刊行している。「古名録」の『刊行にあたっては』、本邦初の植物病理学者として知られる白井光太郎(みつたろう)が『和歌を寄せたほか、南方熊楠も伴存の学識を賞賛する一文を寄せている』とある。まさにその後輩とも言うべき博物学の巨人南方熊楠以上に、再評価されてよい人物と言えるのである。

「水族志」の当該部は、事前に私のカテゴリ『畔田翠山「水族志」』でフライングして、当該部を電子化注しておいたので、そちらを、まず、見られたい。

「紀州安宅」現在の和歌山県西牟婁郡白浜町安宅(グーグル・マップ・データ)。

「アメノ魚」条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou に比定してよい。本種は、サクラマスのうち、降海せず、一生を河川で過ごす陸封型個体を指す。北海道から九州までの河川の上流などの冷水域に棲息する。但し、南方熊楠が同種に限定して認識しているかどうかは、かなり怪しい。より詳しくは、先に示した電子化した私の注を参照されたい。

「鵜」ロケーションから、鳥綱カツオドリ目ウ科ウ属カワウ Phalacrocorax carbo である。詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸕鷀(しまつとり)〔ウ〕」を参照されたい。当該ウィキもリンクさせておく。

「マキ」裸子植物門マツ亜門マツ綱ヒノキ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus

「ハツル」「削(はつ)る」で、「少しずつけずる」或いは「木の皮を剝(は)ぐ」。]

 

 第二の不思議と云ふは、「東のコウ(谷)」のセキ(谷奧で行き盡《つく》る所)に「大ヂヤ」と云ふ地に、古え[やぶちゃん注:ママ。]數千年の大欅(《おほ》けやき)あり。性根のある木故、切られぬと云《いふ》たが、或時止むを得ず之を伐るに決し、一人の組親(くみをや[やぶちゃん注:ママ。])に命ずると、八人して伐る事に定めた。カシキ(炊夫[やぶちゃん注:底本は「炊事」。後文に徴して「選集」のものを採用した。])と合《あは》して九人、其邊に小屋掛けして伐ると、樹、終《つひ》に倒れんとする前に一同、忽ち、空腹で疲れ忍ぶ可からず。切り果《はた》さずに歸り、翌日、徃《ゆ》き、見れば、切疵、本の如く合ひあり。二日程、續いて、此の如し。夜、徃き、見ると、坊主一人、來り、木の切屑を、一々、拾ふて、「是は此處、其は其處。」と繼ぎ合《あは》す。因《よつ》て、夜通し伐らんと謀れど、事、協《かな》はず。一人、發議して、屑片(こつぱ)を燒き盡すに、坊主も、其上は、繼ぎ合わす事成らず、翌日、往き、見るに、樹は倒れ掛《かか》りて有り。遂に倒し了《をは》り、其夜、山小屋で、大酒宴の末、醉臥《ゑひふ》す。

 夜中に、炊夫、寤《さ》めて[やぶちゃん注:底本は「寤」は「寢」。「選集」で訂した。]見れば、坊主、一人、戶を開いて、入來《いりきた》り、臥したる人々の蒲團を、一々、まくり、「コイツは組親か。コイツは次の奴か。」と云《いひ》て、手を突出《つきいだ》す。「扨《さて》、コイツはカシキ(炊夫)か。置いてやれ。」と云て、失せ去る。翌朝、炊夫、朝飯を調へ呼《よべ》ど應ぜず。一同、死し居《をつ》たので、「彼(あ)の怪憎が捻(ねぢ)り殺したのだらう。」と云ふ。今に傳へて、「彼(か)の欅は、山の大神樣の『立て木』、又は、『遊び木』であらうといふ。(以上、西面氏直話)

[やぶちゃん注:以上の怪奇談の前半を読むに、私は『「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」』を直ちに想起した。南方熊楠は、短いが、「本邦に於ける動物崇拜(21:岩魚)」で、同話を紹介し、これを「荘子」(そうじ)の「外物篇」の第二十六の一節が原拠とするかとする(私は肯んじ得ない)。

「欅」バラ目ニレ(楡)科ケヤキ(欅)属ケヤキ Zelkova serrata 。]

« フライング公開 畔田翠山「水族志」 ヤマベ (ヤマメ) | トップページ | 南方閑話 巨樹の翁の話(その「二」) »