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2023/08/03

譚海 卷之五 肥前長崎唐人屋敷幽靈の事

[やぶちゃん注:句読点・記号を変更・追加した。]

○長崎に唐人屋敷(たうじんやしき)・阿蘭陀屋敷(おらんだやしき)とて、公儀より建置(たておか)れたる旅館、二ケ所あり。唐人屋敷へ出入(いでいる)ものは、おらんだかたへ入込(いりこむ)事、成(なり)がたく、おらんだ屋敷へ行馴(ゆきなれ)たるものは、また、唐人方(がた)へ出入事、成がたき制(せい)也。それに、唐人屋敷には、折々(をりをり)、幽靈、現ずる事あり。是は、年々、長崎へ、わたりきたる華人(くわじん)の内、かしこにて病死したるなどは、必(かならず)、其靈、現ずる也。此邦(このくに)の人の目には、見えねども、華人の目には見ゆるゆゑ、此靈、度々(たびたび)現ずるときは、在留の華人、大(おほい)に恐れをのゝき、私(ひそか)に金銀を捨て、「返魂(へんごん)の祭(まつり)」を修(しゆ)し、幽靈を本國へ返す法事(ほふじ)をする也。その法は、先(まづ)、小(ちさ)き唐船(たうせん)を拵(こしら)へ、其中に、長崎にて死(しし)たるものの、木像を、殘りなく、きざみ、かたどりて、並べすえ[やぶちゃん注:ママ。]、一々(いちいち)姓名を記(しる)し、米穀・金銀のたぐひまで、あらかじめ、船中(せんちゆう)に備へ、さて、日を、えらび、僧を招(せう)じ、法事をなして、此船を大洋へ押(おし)ながす也。必ず、つゝがなく福縣(ふつけん)の地へ着(つく)事にて、此船、着岸すれば、靈魂も共(とも)に、船に乘(じやう)じて本國へ歸るゆゑ、其後(そののち)は、はたして、唐人屋敷に幽靈出(いづ)る事、なし。此船をば、「彩舟(さいしう)」と號するよし。尤(もつとも)、南京人など、長崎へわたりきたる者、おほきゆゑ、長崎に、寺を建て、材木まで、取(とり)よせ、唐木(たうぼく)にて建(たて)たる寺、二ケ所まで、長崎に有(あり)、病死の唐人あれば、則、此寺に、はうむる事也。但(ただし)、おらんだ人も、昔より長崎にて死たるもの、いくらといふ數(かず)をしらねども、終(つひ)に、おらんだ人の幽靈、現(げん)じたる沙汰、なし。只、唐人にのみある事也。此をもて思へば、唐人は、此邦(このくに)の人情に、略(ほぼ)同じきものか。おらんだは、何となく、此邦の人情に異(こと)なる事は、幽靈のなき一事(いちじ)にても、しられたり。「實(げ)に、禽獸(きんじう)のたぐひに、ちかき物か。」と、人の語りし。

[やぶちゃん注:「唐人屋敷・阿蘭陀屋敷」後者は、言うまでもなく、厳重に隔離された出島に置かれたので(鎖国政策の一環として、寛永一一(一六三四)年から寛永十三年にかけて建設・設置された日本初の本格的な人工島。一六三六年から一六三九年まで対ポルトガル貿易に、寛永十八(一六四一)年から安政五(一八五八)年(日蘭通商条約成立)までオランダ東インド会社を通しての対オランダ貿易が行われた)、注するまでもないが、清との貿易の清側の関係者の滞在した「唐人屋敷」の方は、Annjuさんのサイト「Annju’s Chillaxing Life」の『【長崎市】唐人屋敷跡巡り!いつ誰が貿易していたのか歴史をわかりやすく解説」』が、写真・当時の絵・地図が満載で、お薦めである。

「返魂の祭」「反魂」(はんごん)と同義。死者の魂を呼び返す道教の呪術を指す。「反魂香」(はんごんこう)の話で本邦では専ら知られる。当該ウィキによれば、『もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の』「李夫人詩」に『よれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという』あれである。

「長崎へ、わたりきたる華人の内、かしこにて病死したるなどは、必、其靈、現ずる也」中国の道教的な古い民俗社会に於いては、本貫(出生地)以外の場所で客死し、その遺体が異郷に葬られた場合(中国では昔は通常は土葬であった)、その魂は安んずることが出来ず、亡霊として彷徨うとされた。李復言の「杜子春傳」(リンク先は私のサイト版。以下、サイト版の原文版はこちら。私の語注はこちらで、現代語訳はここである)の中で、仙道修行を決心した子春が、この世で、最後に成すべきことを行うシークエンスで、『子春は孤孀の多く淮南に寓するを以て、遂に資を揚州に轉じ、良田百頃買ひ、郭中の甲第(かふてい)を起(た)て、要路に邸の百餘閒なるを置き、悉く孤孀を召して、第中に分居せしむ。甥姪(せいてつ)を婚嫁せしめ、族親を遷祔し、恩ある者には之に煦(むく)い、讐(あだ)ある者には之に復(むく)ふ』とあり、この「遷祔族親」というのが、まさにそれで、これは「旅の途中で亡くなり、他郷に埋葬されている一族の者の遺骸を、郷里の先祖の墳墓に合葬すること」を言っているのである。

「法事(ほふじ)」歴史的仮名遣では、通常は「法」は「はふ」であるが、仏教用語では「ほふ」と書く。ここは中国人が行うそれは、仏教のそれとは、微妙に異なるニュアンスが根っこにはないとは言えぬが、少なくとも書いている津村は、本邦の仏教と習合した、神道より古い祖霊信仰としての「精霊流し」や、仏教の「水施餓鬼」と同義的に捉えており、その場合の「法事」とは、明らかに本邦の仏語としてのそれを用いているので、かく「ほふじ」と振ったことを、お断りしておく。

「福縣」現在の福建省、或いは、省都である福州市のこと(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「福建省」によれば、『海流の関係で日本に近く、近世には倭寇と結託して密貿易を行う福建人が多かった。近年』、『日本に渡った在住華僑の多くは』、『閩東』(びんとう:「閩」は福建省の古くからの略称)『の福清や福州を中心とした福建出身であ』るとある。

「彩舟」個人ブログ「長崎んことばかたらんば」の「唐人屋敷と中国文化14 彩舟流」(さいしゅうながし)によれば、『彩舟流し(さいしゅうながし)は、流れ勧請』(ブログ主の下方の注に、『仏教用語で、仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願すること』とある。「流れ灌頂(くわんじやう(かんじょう))」と同義である)『とも言われた唐人屋敷内での施餓鬼法要である』。『彩舟流には、「小流し」「大流し」の二つがあり、「小流し」は毎年行われ、長さ約』三・六メートル『程の模型の舟を作り、それに荷物や人形を作って乗せ、唐寺の僧侶を招いて法要をしたあと、唐人屋敷前の海岸にだして焼かれた』。『「大流し」は』三十年から四十年『ごとに行われた大掛かりなもので、唐人の死者が』百『人を超えて』、一『隻分の人数程度になると、舟も』七メートル『以上もある模型の唐船を作り、彩色して帆柱、船具などもすべて実物そっくりに作り、飾り付けをして唐人屋敷前の海に浮かべ、港口まで小船で曳かれて焼かれた。「彩舟流」は死者の霊を故郷の中国へ送る行事だったが、明治維新後』、『廃絶した』。『長崎の精霊流し(しょうろうながし)の起源にはいろんな説があるが、代表的なものが、この「彩舟流し」の風習が今日の長崎精霊流しにつながっていると考えられている』とあった。前注の私の見解を補強するもので、当時の在長崎の清人も施餓鬼として認識していたらしいことがはっきりと判るのである。

「長崎に、寺を建て、材木まで、取よせ、唐木にて建たる寺、二ケ所まで、長崎に有」「二ケ所」というのは正しくない。陳莉莉氏の論文「江戸初期における長崎唐三寺の建立と関帝信仰」(関西大学大学院東アジア文化研究科刊・『文化交渉:東アジア文化研究科院生論集』(巻十・二〇二〇年十一月発行・PDF)によれば(注記番号は略した)、寛永元(一六二四)年に、『南京などの江蘇省および浙江省出身の華僑たちの菩提寺として、興福寺が創建された。次いで』、寛永五(一六二八)年に、『福建省北部の泉州、漳州出身の華僑によって福済寺が創建され、ほぼ同じ時期』の、寛永六(一六二九)年には、『福建省南部の福州の華僑が崇福寺を建てた。その創建に携わった人々の出身地域にちなんでそれぞれ「南京寺」、「泉州寺(漳州寺)」、「福州寺」とも称された)。最後に』、延宝五(一六七七)年に、『広東省広州の華僑たちは』、『京都宇治の黄檗山万福寺の末寺として』、『聖福寺を創立した。唐寺が建立されるようになった背景は、キリスト教の禁教である』とあり、全部で四ヶ寺の唐寺(とうじ)があったのである。本書「譚海」は、寛政七(一七九五)年に、二十年に亙って筆録したものを取り纏めたものであるが、以上のデータから、既に総ての寺が建立されたずっと後のことである。「譚海」は実見は思ったより少なく、聴き書きが多くて、誤りも甚だ多いことが、以上からも、はっきり判る。]

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