南方閑話 巨樹の翁の話(その「二」)
[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。
これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。]
二
大正十年四月十八日、同郡中山路《なかさんぢ》村大字東の人、五味淸三郞氏より聞いたは。必定。同事異傳だらう。龍神村小又川の奧に「枕返しの壇」といふ、較(や)や大きな「壇」有り。「壇」とは、山中に樵夫《きこり》等が廬居《ろきよ》[やぶちゃん注:仮小屋して住むこと。]すべく、地を平らに小高く開いた處だ。そこに十八,九年前[やぶちゃん注:「選集」では『十四、五年前』とあるが、これは本篇「一」を含む「二」の雑誌初出(本章最後に示す)に拠ったもので、それは大正十一年六月であったことから、本「南方閑話」が大正十五年二月刊であることから、熊楠が加算したものと推定出来る。]迄古い檜の株の木は、失せて、心のみ、殘り居つた。昔、此壇へ、杣人《そまびと》、多く聚まり、此檜を伐る。其木一本で、上は七本に分《わか》る。每日、伐れど、夜の間に、疵、全く癒《いえ》て元の如し。因《より》て忍び伺ふに、夜中に、僧、七人、來り、木の屑片《かけら》を集め、「是は此處、其は其處。」と言《いひ》て繼合《つぎあは》す。「扨《さて》、人間は足らぬ者也。何度伐《きり》ても、かく繼合ふ也。此木片共を燒《やい》て了《しま》へば、繼合す事成らぬと、氣付かず。」と云ふ。其《そこ》で、氣付《きづい》て、翌日、木を伐り、悉く、其切屑を燒《やい》た。其夜、僧、七人、山小屋に入來《いりきた》り、悉く、杣人の鼻を捻(ねぢ)る。炊夫《かしき》一人、是も捻られたが、「是のみは、釋《ゆる》すべし。」といふ。翌朝、炊夫、起《おき》て見れば、一同、枕を顚(かへ)し外して、死んでゐた。因て、其處を「枕返しの壇」と呼ぶ、と。
[やぶちゃん注:「一」の話と酷似した別話を示したもの。
「同郡」(日高郡)「中山路村大字東」前話の龍神村丹生ノ川の丹生ノ川の下流にある、現在の和歌山県田辺市龍神村東(ひがし:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]
又、大正四年十一月三十日、大阪控訴院書記福田權八氏より聞いたは、ミソギ矢之助なる人、日高郡串本の大社、阿田木(あたぎ)神社の神木なる大樟《おほくす》を伐るに、幾日伐つても、夜中に、其創《きず》、合ふ。因て、屑片として、細分し、終《つひ》に伐り了《をは》つた。後ち、此人、罰せられ、斬罪に處せられた時、遺言して、「何卒、野山を自在に、人民に伐らせやられたい。」と願ふたので、爾來、其野山は、人民、自在に伐採を許された、と。此話。殊に史實らしいが、委細、詳悉《しやうしつ》ならず。詳悉ならぬ處が、反つて、俚說の眞を存する物として記し置き、なほ、彼《かの》邊の人々に聞いて見よう。
[やぶちゃん注:「日高郡串本の大社、阿田木(あたぎ)神社」和歌山県日高郡日高川町には、上阿田木神社と下阿田木神社(日高川の少し上流)の二つがあるが、小学三・四年生(思うに、日高川町立笠松小学校の児童)が作った周辺の案内記事「ようこそ笠松へ」(手書き・PDF)の「れき史がある上阿田木神社」の張り記事の中に「矢野助杉」の記載があることから、これは同小学校の南西直近の上阿田木神社のことであることが判明した。
「樟」クスノキ目クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora 。]
樹木の靈が、その樹を伐了《きりをは》るべき名案を洩聞《もれき》かれて、自滅を招いた譚は、支那にも有る。「淵鑑類函」四一五に「元中記」を引《ひき》て、秦の文公、長安宮を造つた時、終南山に、大きさ數百圍の梓樹《あづさのい》有りて、蔭が、宮中を暗くするを惡《にく》み、連日、伐れど、伐れず。輙《すなは》ち、大風雨を起こすので、手古摺つて居《をつ》た。或夜、鬼、有つて、梓樹と語る。樹神、誇つて、「誰《たれ》も、われを、平らげ得ぬ。」と言ふと、鬼が、「若し、三百人をして、披頭《ひとう》[やぶちゃん注:「無帽」の意。]して、絲《いと》で、樹を繞《めぐ》らさしめたら、どうだ。」と云ふと、樹神、「ギョッ」ト、詰《つま》つて、答へなんだ。それを忍び聞《きい》た人が、公に告げたので、その通りして、樹を伐ると、樹神、靑牛《せいぎう》[やぶちゃん注:黒毛の牛。]に化して澧水《れいすい》に逃入《にげいつ》たとある。馬琴の「三七全傳南柯夢《さんしちぜんでんなんかのゆめ》」の初めに、此譚を飜案し、出《いだ》し有つたと記臆する。(二月七日早朝稿)
[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」で補った。
『「淵鑑類函」四一五に「元中記」を引《ひき》て、……』同巻の「梓二」の一節。「漢籍リポジトリ」の[420-20b]の末尾から、次の[420-21a]で電子化されており、原文の影印本も視認出来る。宋の李沖元「元中記」の随筆らしい。
「三七全傳南柯夢」曲亭馬琴作の読本。全六巻。葛飾北斎画。文化五(一八〇八)年刊。「艷容女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)等で知られる三勝半七(さんかつ‐はんしち)の心中事件に題材を取り、中国白話小説「二度梅全伝」の構成を借りて、李公佐の唐代伝奇の「南柯記」、元末明初の高明(高則誠)に戯曲「琵琶記」等を取り入れつつ。趣向を構え、それを室町末期の武士の世界に移して、勧善懲悪を旨とする馬琴流の伝奇小説に仕立てたもの。「椿説弓張月」・「南総里見八犬伝八犬伝」と並ぶ馬琴読本の代表作の一つ。熊楠の言うように、冒頭の「深山路(みやまぢ)の楠(くすのき)」がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの「三七全伝南柯夢」巻之一(明15(一八八二)年東京稗史出版社刊)のここから視認出来る。但し、この翻案エピソードだけでも。かなり長い。]
又「淵鑑類函」四四〇に、「異苑」にいわく、孫權[やぶちゃん注:三国時代の武将で呉の初代皇帝。在位は二二九年~二五二年。]の時、永康の人、山中で大龜を捕へ。持ち歸る内、龜、「吾は、うつかり、遊んで、君に得られた。」と言つた。其人、怪《あやし》んで、吳王に獻ぜんとし、夜、越里に泊り、船を大桑樹《だいさうじゆ》につなぐ。樹の靈、龜の名を呼《よん》で、「元緖、何ごとぞ。」と問ふに、「我、捉はれて、烹らるゝ筈だが、南山の樵《きこり》を盡しても、煮爛(にただ)らし得ぬ。」と答ふ。樹の靈、「諸葛元遜《げんそん》は、博識故、必ず、名案を出すだろらう。われらを求めて、焚いたら、如何。」と云ふと、龜、「樹靈の名《な》を呼《よん》で、子明、多辭するな。汝も禍《わざはひ》に罹《かか》たう。」と言つたので、默つてしまつた。吳王、其龜を煮るに、柴を、萬車まで焚いても、煮え切らず。諸葛恪、字《あざな》は元遜、曰く、「老桑の木を燃せば、忽ち、熟すべし。」と。獻じた者も、龜と樹の話を述べたので、王、彼《か》の大桑《おほくは》を、伐つて、煮るに、立ち所に熟した.今も、龜を煮るに、桑の木を焚く、と。(二月七日夜)
[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」に拠った。「淵鑑類函」は同前の「漢籍リポジトリ」のこちらの、[445-11a] から[445-11b]で、原文に電子化と影印本画像が視認出来る。
「異苑」六朝時代の宋の劉敬叔の著になる志怪小説集。現在見られるものは全十巻。当時の人物についての超自然的な逸話や、幽霊・狐狸に纏わる民間の説話などを記したものであるが、現存テキストは明代に胡震亨によって編集し直されたもので、原著とは異なっていると考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「諸葛元遜」かの蜀漢の名高い丞相諸葛亮(孔明)の甥で、呉の秀才諸葛恪(元遜は字(あざな))。しかし叔父と異なり、驕慢で狭量で、最後は誅殺された。]
「高原舊事」に、「飛驒の石浦白山に三抱《みかかへ》計りの杉有り。延寶中[やぶちゃん注:一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・綱吉の治世。]、「舟津大橋に用木すべし。」とて、役人・番匠、檢分の折に、「此木、二つ割《ざき》きになり、用木にあらず。」とて、皆、歸りけるに、翌日、割目《さけめ》、癒えて、元のごとくなるといふ。」――とある。是は、伐られぬ前に、木が自《みづか》ら拆《さ》けて、「用に堪えず。」と示し、厄難を免れて、復た、自ら合《あひ》て生存したので、樹の靈としては、痛い目も見ず、人も殺さずに濟む、最も賢こい仕方と云ふべしだ。(二月十三曰朝)
[やぶちゃん注:最後のクレジットは「選集」で補った。
「高原舊事」国立国会図書館デジタルコレクションの桐山力所著「飛驒遺乘合府」(『飛驒叢書』第三編・大正三(一九一四)年住伊書院刊)の「第二類 地誌」に収録されてあり、その「解題」には、『○高原舊事 吉城郡高原鄕七十二ケ村の戶數石高より社寺古跡等の事を記せしものなり。著者は田中大秀門人なる船津町稻田元浩なりと異本に見ゆ』とある。地誌の体裁とっているが、短い霊験・奇談・民譚が随所に記されている。引用部はここの「倉柱村」の条にある(右ページ下段二行から)。
「飛驒の石浦白山」これは、まず、岐阜県高山市石浦町(いしうらまち)であろう。現行のこの地区には「白山」神社はない。しかし、石浦町の北西端のごく直近(直線で五百メートル強)の高山市千島町(ちしままち)に白山神社がある。ここではなかろうか。]
藤澤衞彥君の『日本傳說叢書』「下總の卷」にも、「椿新田濫觴記」を引いて、本文に似た譚を出してゐる。『神代三本の大木の一《ひとつ》たる栗の大樹、丹波大江山麓にあつて、鬼神、城廓の要害とす。源賴光、酒呑童子退治の時、太守より、百姓に命じて、此木を伐らするに、一夜の内に、肉、生《しやう》じ合ひ、伐り得ず。或時、 其親が、子に敎へて、「切屑《きりくづ》を火に焚《た》かしむ。」。其言に從ひ、終《つひ》に伐り滿つ。敎へし親、甚だ、悅び、木の元へ立寄《たちよ》ると、此木、忽ち、倒れ、親父、打《うた》れて、死す。依《より》て、諺に「丹波の爺打(てゝう)ち栗《うり》」といふ。』と有り。「本草圖譜」五九に、『栗、丹波より出ずるもの名產にて大也。』。「重訂本草啓蒙」二五[やぶちゃん注:「選集」も同じだが、これは「二一」の誤りである。]に、『栗の形、至つて大なるを、「丹波栗《たんばぐり》」と云ふ。一名「料理栗《れふりぐり》」・「大栗《おほぐり》」・「テヽウチ栗《グリ》」。「テヽウチ栗」に數說あり。一《いつ》は、「テンデにとる」と云ふ意と云ひ、一は、「握りて、手中に滿つる」の意にて「手内栗《ててうちぐり》」と云ふ。是は丹波の名產にて、柏原侯より献上有り。一は、時珍の說、其苞自裂而子隨〔其の苞、自(おのづ)から裂けて、子(み)、墮つ。〕の意を取つて、「出テ落チ栗」と名《なづ》くと云ふ。丹波栗は、形、大にして、料理に用ふるに、堪《たへ》たれども、味は劣れり。』と有る。此名より、如上《によじやう》の譚を生じたらしい。不孝の子、此栗を投げて、父を打ち傷《きずつ》けたともいふ(「廣益俗說辯」三〇)。(二月十四日)
[やぶちゃん注:最後の書誌とクレジットは「選集」で補った。
「『日本傳說叢書』「下總の卷」にも、「椿新田濫觴記」を引いて、……」国立国会図書館デジタルコレクションの当該『日本傳說叢書』「下總の卷」の原書で、ここの右ページ後ろから二行目から始まる。但し、この話、そこではかなり長い前振りが続き、熊楠の抄録は次のコマの左ページ終りから四行目以降である。
『「本草圖譜」五九に、『栗、丹波より出ずるもの名產にて大也。』』江戸後期の本草家岩崎常正(天明六(一七八六)年~天保一三(一八四二)年:号は灌園(かんえん)。幕府の徒士(かち)の子で江戸下谷三枚橋に生まれた。文化六(一八〇九)年に幕府に出仕した。本草学を、かの小野蘭山に学んだ)が文政一一(一八二八)年に完成させた一大図譜で全九十六巻九十二冊。天保元(一八三〇)年から没後の弘化(一八四四)年にかけて出版した。外国産も加えた実に約二千種もの植物を収載する江戸時代最大の彩色植物図鑑である。モノクロームであるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左丁の解説の三行下方。
『「重訂本草啓蒙」二五に、『栗の形、……』同書二十一巻の「果部」「果之一」の「栗」である。国立国会図書館デジタルコレクションの天保一五(一八四四)年板本でここから。以上で盛んに読みを振ったのは、蘭山は、原本ではカタカナやルビで記しており、「~栗」は、概ね「グリ」と濁っているところをはっきりさせたかったからである。
「廣益俗說辯」江戸前期の神道家・国学者の井沢長秀(寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年:肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子。号は蟠龍(子)。享保年間に活躍し山崎闇斎の門人に神道を学んだ。宝永三(一七〇六)年に、考証随筆「本朝俗説弁」を出版した後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記」(しんとうあめのぬほこのき)等の神道書や、「菊池佐々軍記」等の軍記物、「武士訓」等の教訓書、「本朝俚諺」等の辞書、「肥後地志略」といった地誌と、幅広く活躍した。「今昔物語」を出版しており、これは一方で、校訂の杜撰さをかなり非難されているが、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった同説話集を読書界に提供した功績は決して小さくない)の(一七一五)年から(一七二七)年にかけて板行された考証随筆「広益俗説弁」(全四十五巻)は、よく読まれ、後の読本の素材源にもなり、森鷗外の愛読書としても知られる(事績の主文は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。所持する『東洋文庫』版を見たところ、熊楠が参考にしたであろうものは、「正編第五」の「天子」の中の「景行天皇に栗樹(くりのき)たゝりをなす說」と思う。国立国会図書館デジタルコレクションの『續國民文庫』(大正元(一九一二)年版)の当該部をリンクさせておく。これはとびっきりの有名人が関わっていて、内容も面白いが、何故か、熊楠は、ここでは参考書として出すだけで、「四」で取り上げているが、恐ろしくあっけない抄録である。その理由は、井沢の最後の漢籍からの「妄作」と切り捨てた謂いに、気を悪くしたものと思う。南方熊楠は自分が考証した原拠は華々しく勝ち挙げするが、他者がそれを先にやっている場合には、至って冷淡で、そこに彼の性格的捩じれが見て取れるのである。]
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