柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「大入道」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
大入道【おおにゅうどう】 〔煙霞綺談巻四〕去ル正徳[やぶちゃん注:一七一一年から一七一六年まで。]のころ、三河吉田町<現在の愛知県豊橋市の旧名>に善右衛門と云ふ古手《ふるて》商売[やぶちゃん注:古物商。]の小商人《こあきんど》あり。この者武家方より幕を五張《はり》請負《うけお》ひしが、吉田にて三張調へ、余は岡崎町<現在の愛知県岡崎市内か>へ求めに行きしが、調はずして、名古屋へと志し、大浜茶《おほはまぢや》や[やぶちゃん注:現在の安城市浜屋町(はまやちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]に到れば日晡[やぶちゃん注:「につぽ」或いは「ひぐれ」。「晡」は狭義には「申の刻」、午後四時前後の二時間を指す。]に及び、しるべの茶屋に一宿しぬ。
折ふし中秋の長夜なれば、名古屋までの通《とほ》し馬を借り、夜半に大浜を出る時に馬奴《まご》がいふ。池鯉鮒(ちりう)[やぶちゃん注:東海道五十三次の三十九番目の宿場であった愛知県知立市にあった「池鯉鮒宿」(ちりゅうしゅく)。歴史的仮名遣は「ちりふ」が正しい。原書(後注参照)の読みは歴史的仮名遣を誤っている箇所が甚だ多い。]の近所より名古屋伝馬町《てんまちやう》<現在の愛知県名古屋市内>[やぶちゃん注:現在の愛知県名古屋市熱田区伝馬。]へ在郷《ざいがう》の捷径《ちかみち》あり、我等案内をよくしりたり、この道を参りたしといふ。それこそ幸ひなれとて、彼《か》の在道《ざいみち》へかゝり行きしに、烏頭(うどう)村[やぶちゃん注:位置関係から、恐らくは現在の愛知県岡崎市宇頭町(うとうちょう)と思われる。]といへるに、少し小松ありて、薄など生ひたるひろき野あり。其所に至れば、俄かに旋風《つぢかぜ》吹き来り、乗りける馬の足を折《をり》て地にうづくまる。その時善右衛門も馬奴(まご)も同じく気分あしく、蒙々虚々となりて覚えず地にふしぬ。時に小松の所より、その長(たけ)壱丈三四尺程の仁王のごとき大入道、眼のひかりは百煉《れん》[やぶちゃん注:何度も鍛えて作ったことを言う。]の鏡にひとしきが歩み来《きた》る。両人ともに腕肬(うろうろ)[やぶちゃん注:原本は「腕※」(「※」=「月」+「丸」。孰れにしても、この熟語で、この訓は不詳。]して、地に伏し居《ゐ》たれば、彼の化物程なく過ぎ行けり。程経て両人ともに本性《ほんしやう》となれば、馬も立《たち》て嘶《いなな》きたり。それより一里余も行きたれば、漸《やうや》く夜もあけて、民家へ立《たち》よりたばこなど吸ふ。そこの主に問ふ、このあたりに天狗または怪異の物ありやといへば、亭主の云ふ、この辺りは山中にあらざれば、天狗その余《よ》怪物なしといふ。烏頭村にて化物にあひたる事を語れば、それは不思議なり、天狗にもあるまじ、昔よりいふ山都(みこしにうどう[やぶちゃん注:ママ。])と云ふものならんと笑ふ。かくて名古屋の問屋に著き、馬奴をかへし幕を調へ、兎角するに食事一向すゝまず、発熱頭痛甚し。近所の医を招き見せしに、時疫《じえき》[やぶちゃん注:流行病。]の脈躰《みやくてい》なり、伏熱あればおぼつかなしといふ。途中にて化物に逢ひし事を語れば、薬を加減して用ゆれども験(しるし)なし。故に吉田まで通し駕《かご》を雇ひ、翌日たちかへる。しかれどもますます熱気つよく、医者を引《ひき》かへ服薬すれども快よからず。終《つひ》に十三日目に相果てたり。化物は疫病の神なるべしといふ。
[やぶちゃん注:「煙霞綺談」「池の満干」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。原本では、本篇は『卷之四』の冒頭で、その頭に、『世に怪力神を語る事を禁《きんず》うは、其事に附會する說を副言(ふげん)する故《ゆゑ》實(じつ)を失《うしなふ》を以《もつて》なり。正しくありし事語るまじきにもあらずかし』とあって、本話が語られ、以上の段落成形は、ない。また、以上の記載が終わった後に、改行して、同じ『吉田より四里北東上村といふところ』の『北六七町に本宮山より落《おつ》る大飛泉(《おほ》たき)』があり、昼も暗く、物凄い場所があるが、そこから『二間程下へ落』ちる『雌瀧(めだき)』という瀧で、東山六左衛門という者が、享保年中のある日、ここで鮎を捕えんとしたところ、流れが、『大に逆浪(げきらう)せし故、暫く見居たれば、淵の中より大なる黃牛(わうぎう)湧出(ゆしゆつ)し、角を』振り立てて、『吽々(うんうん)と吼(ほへ)て』彼を目がけて、向かってくる。六左衛門は剛強の者であったが、何も戦うべき物を持っていなかったことから、宿へ帰った。すると、忽ち、発熱して、譫言(うわごと)など口走って、三日目に死に果てた。深い淵から大蛇などにても出現するべきこともあろうが、牛が出たのは奇事である。この牛は淵の『主靈(しゆれい)なるべし』という話があり、そのまま続けて、また、この『東上村と新城《しんしろ》との間に、一鋤[やぶちゃん注:ママ。]田(ひとくはだ)村と』いう村があり、ここに『皆鞍(かいくら)が淵』といって、川筋の中で第一番の深い淵があり、土地の人々は、『龍宮城なり』と言い伝えているが、その六左衛門は、いつもこの淵に潜って漁をしていたとして、生前の彼のそこで感じた異常な、深さのことを附言してある。前半の部分との連関性は明確とは言えぬものの、既に別の禁断の場所を犯していたことが、彼の死に繋がったという示唆を示しているようである。そこで改行して、既出の允恭天皇の絡んだ、勇猛果敢の海士(あま)、男狹(おさし)による大鮑(おおあわび)の大真珠の話が附せらており、最後に、本書の校閲をした林自見の附記が、二条が附されて、終わっている。余裕のある方は、リンク先で読まれたい。但し、これらの後述の話は、最初の大入道の話との必然的連関性は、ロケーションと内陸の河川も龍宮城と通底しているらしいこと以外には、個々には、あまり感じられない(特に男狹の話は、最も連関性をかく)。著者西村白烏は、四巻の最初に、こうした怪奇談を羅列することで、読者の関心を引こうとしていたものであろう。特に、六左衛門の話は、冒頭の話の事実性をサイドからよく強める働きはしていると言える。
「山都」元来、「山都」は「木客」等と同じく、中国の奥地の異民族・少数民族を指していた語であるが、中華思想の中で、彼らが、皆、モンスターとして妖怪化されてしまったものと思しい。詳しくは、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山都」の項と、私の注を参照されたい。]
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