フライング単発(部分) 甲子夜話續篇卷之八十『寬政紀行』の内の寛政十二年十一月五日の姫路での記事
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。
この当該巻は、巻全体が『寬政紀行』で、長いため、とても今までのようなフライング単発で全部を電子化する余裕はない。されば、特異的に当該部分をのみを示す。なお、この紀行は、静山がこの寛政一二(一七九九)年、在国中に病気(足の痛みと浮腫が生じた旨の記載がある)になり、幕府に申請して、冬を江戸で養生することに決し、十月十三日に平戸を出立、この十一月末に江戸へ至る間のそれである。全体は、行く先々の出来事や珍奇な対象を語って、なかなかに面白いものではある。なお、以下の「(姬路城長壁神の事)」は、私が勝手に作った標題である。]
80―(姬路城長壁神の事)
五日、寅の半といふに、有年(うね)をたち、申の刻ばかりに姬路の城下にいたり、酒井侯の旅館に宿れり。
予が、少年のころ、聞きしは、
「此ところの長壁(をさかべ)といへる神は、時々、そのかたちを現(あらはす)。」
と聞(きき)しを、念出(おもひいで)て、
「聽(きき)てみよ。」
と左右(さう)に云ひたれば、
「時ふし、あき人[やぶちゃん注:「商人」。]の來りゐしに、このこと、問ひたるに候。」
といふ。
「いづれにある。」
と聞くに、
「此城中にあり。」
といふ。
「宮居(みやゐ)ありや。」
と聞けば、
「宮居は、天守櫓(やぐら)の上層(うへのだん)にあり。」
といふ。
又、いふ。
「此天守を、われ等の見候ことは、夏、城中の器物暴凉(ばくりやう)の候とき、其器の事にあづかる職人、此處に入(いる)ことあり。其時、職人に賴み、其處にいたれば、覽(み)ること候。
扨(さて)、天守は、下より上まで、五層(だん)にて、下のだんの廣さ、聞傳へは『千疊鋪(せんじやうじき)』といひ候。
其内、ことにひろく候得(さうらえ)ば、疊百枚づつばかりを、十處(とどころ)に積みあげたり。この疊、みな、『高麗緣(かうらいべり)』なるが、みな、蠹(むし)ばみ、腐(くされ)、用(もちふ)べからず候。
梯(はしご)は、櫓(やぐら)の隅よりかけ、陞(のぼ)ること、嶮(けん)にして高く、常に綱を下(くだ)し、これを引(ひき)てのぼる。
一層(だん)ごとに、かくして、上層(うへのだん)は五間方(はう)[やぶちゃん注:約九・一〇メートル四方。]も候はむが、長壁の宮は、此ところに候。
當處にては、『長壁大明神』と稱す。
宮は、赤く漆(ぬり)、金(かな)もの、うち、圍(まはり)には、幕を垂れてあり。
處の長源寺、眞言宗、此神のこと、うけたまはり、日々、卯の刻[やぶちゃん注:午前六時前後。]に供物をそなへ候。素木(しらき)の三方膳に、土器(かはらけ)を置(おき)、一ツには、小豆飯(あづきめし)、一ツには、油揚げ・豆腐をもる。
きゝ傳(つたへ)候に、此供物、明朝には、みな、うせさりて、無く、
『神の食(くひ)たまふ。』
と申候。長源寺、障(さは)ることあれば、不動院といへるが、供物を獻(けん)候。」
と、いふ。
予、問(とふ)。
「さらば、この神は、いかなる神や。」
答ふ。
「其ことは知らず候が、此神、まことの所在は、山上にありて、この山を『姬山』といひ、天守の側(そば)にあり。すべて、山、二つあり、一つは『男山』、一つは『姬山』とて、相(あひ)ならびて、ひくき山にも候はねども、天守は姬山の根より、つくりたてたれば、ひとしほ高く聳(そびえ)候。又、『男山』・『姬山』とも、城中にて候。『男山』には、
『過ぎにし領主榊原侯の居城にて候ひしとき、勸請ありし。』
とて、今、『八幡の宮』といふあり。姬山は、
『長壁明神、まします。』
とて、山下より高き磴(いしだん)ありて、上(うへ)には、穴あり、此中に神ありときゝ候。まことの御有(おんあり)かは、こゝにて候。」
と語る。
依(より)て再(ふたたび)、やどの奴僕(ぬぼく)に問(とは)しめしに、其言(げん)に異ならず。
かの長壁は、いかなる神にか、ますらむ。
かゝる天守の高き所に棲(すみ)たまひぬれど、いかばかりか、今の昇平を樂しく思(おもひ)たまふらむ。しかれば、此神も、東照權現の深仁(しんじん)に浴して、なを[やぶちゃん注:ママ。]、御代の護(まもり)を、なしたまふとぞ、覺ゆ。
■やぶちゃんの呟き
ここに出る「長壁姬」は当該ウィキを見られたい。なお、そこに出る諸怪談の殆んどは、私のブログ・カテゴリ「怪奇談集」その他で電子化してある。
「五日」旧暦十一月五日。この年は閏四月があったため、この日はグレゴリオ暦では一七九九年十二月二十日である。
「寅の半」午前四時頃。
「有年(うね)」現在の兵庫県赤穂市有年牟礼(うねむれ:グーグル・マップ・データ)に旧山陽道の宿の「牟礼本陣跡」がある(同前)。
「申の刻」午後四時前後。
「酒井侯」播磨姫路藩第三代藩主酒井忠道(さかいただひろ/ただみち)と思われる。
「榊原侯」姫路城城主が榊原氏であったのは、慶安二(一六四九)年から寛文七(一六六七)年、及び、元禄壱一七・宝永元(一七〇四)年から元文六・寛保元(一七四一)年。
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