柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「縊鬼」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
縊鬼【いつき】 〔反古のうらがき巻一〕これも叔氏《をぢ》酔雪翁が話に、元がしら某、屋敷麹町〈東京都千代田区内〉なり。組内同心某よく酒を飲み、落し咄身振りなどする者ありけり。春の日永き頃、同役より合《あひ》のことありて、夕刻より酒宴あり。かの同心は給事《きうじ》ながら来《きた》るべしと申し約せしに、その日来らず。家人もみなその伎《わざ》を見るを興として、待てども来らず。大いに不興なりし頃、怱々《そうそう》として来れり。やむを得ざるの用向にて、御門前に人を待たせたれば、御断りの趣申し入れ、直に立帰るといひて去《いぬ》らんとせしかども、家来ゆるさず。先づ主人及び一座の客人にその趣申し通ずる間、ひかへ候へといへば、甚だ難渋の趣なれども、先づその意に従ひけり。かくて主人に告げしに、何用なるかはしらねども、御頭衆《おかしらしゆう》より合《あひ》に、先程より相《あひ》待つこと久し。縱令(よし)さり難き用なりとても、聞きにも出《いで》ず去《いぬ》ることやあるとて無理に引出《ひきいだ》し、用の趣を尋ねさせしに、その事別事にあらず、くひ違ひ御門内にて首を縊《くく》る約束せし間、やむを得ずといひて、ひた物去らんことを請ひけり。主賓弥〻《いよいよ》あやしみて、思ふに乱心と見えたり、かゝらんには弥〻引出して酒を飲ますべしとて、座に引出し、先づ大盃《おほさかづき》にて続けざまに七八盃を飲ます。さてこれにて許し玉へといふを、また七八盃飲ませけり。主人声をかけ、例の声色(こわいろ)所望なりといヘば、拠(よんどころ)なく一つ二つ伎を奏し、また立出《たちいで》んとするを、賓主各々盃を与へ、余程酩酊の色見えしかば、賓主これを興として、かはるがはるに酒をすゝめ、動静を窺ひける。一時《いつとき》ばかりする内、先づ去《いぬ》るを請ふ事は忘れたる様にて、別に乱心とも見えずなりぬ。その時家来立出で、只今喰違ひ御門内に首縊《くびくく》りありと組合より申し通ず。人、差出《さしいだ》すべしやといひたり。賓主きゝて、さてさて先頃の縊鬼《いつき》、この者を殺すこと能はで、他人を取りたると見えたり。最早この縊鬼は離れたりとて、先の様子を尋ぬるに、夢の如く覚えてさだかならず、その頃喰違ひ迄来りしは夕刻前なり、一人ありて此所にて首を縊るべしといひしが、吾辞すること能はず、如何にも縊るべし、今日は御頭《おかしら》の元へ御給事に行く約束なれば、その断りをなして後《のち》、その意に従ふべしといヘば、その人さらばとて御門迄付き来り、早く断りをいひて来《きた》るべしといひけり、その言《げん》背《そむ》きがたき義理ある者の如く覚えて、その人の義そむきがたく思ひしは、何の故といふことをしらずといひけり。さて今は縊る心ありやと問ふに、自《おのづ》から首に環《わ》をかゝへる真似して、穴おそろしや穴そろしやといひけり。かく約を践《ふ》むを重んぜしと、酒を飲みたるとの徳にて、命を助かりしといひあへりき。かゝる事もまゝある事にや。
[やぶちゃん注:「反古のうらがき 卷之一 縊鬼」を参照されたい。どうも、そちらのものとは、底本が異なるようで、微妙に表記に違う箇所があるが、展開は全く同じである。]
« 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「異鳥の肉」 | トップページ | 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「飯綱の法」 »