百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)
[やぶちゃん注:『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「浮嶋」』で、必要となったので電子化する。
「笈埃隨筆」(きふあい(現代仮名遣:きゅうあい)ずいひつ)は江戸中期の俳人で旅行家の百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年)の紀行随筆。「塘雨」は雅号で、俳号は五井。実名は定雄。京都の豪商「万屋」(よろずや)の次男であった。しかし、塘雨と親交があった文人画家三熊花顛(みくまかてん)が彼を偲んで死後、自著「續近世畸人傳」に載せた彼の伝奇の冒頭に(国立国会図書館デジタルコレクションの「近世畸人傳・續近世畸人傳」(前者は伴蒿蹊著・三熊花顛画)の当該部を視認して起こした)、
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百井塘雨(ももゐたうう)は通名左右二(さうじ)、京師の人なり。其の兄は室川の豪富萬づ屋といへるが家長をして有りけるによりて、思へらく、「商家とならば、此の如く富むべし。然れども及ぶべからねば、及ばぬことを求めんより、我が欲する名山勝槩[やぶちゃん注:「しやうがい」は「勝景」に同じ。]を樂しむに及(し)くはなし」とて、金三十片を携へ、西は薩摩、日向、東は奧羽外(そと)が濱の果て迄を窮む。其の記事有りといへども稿を脫せず。[やぶちゃん注:以下、略。実際、写本は多く行われ、読まれたものの、江戸時代の刊本はない。]
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以下、当該ウィキを参考にすると、『笈を背負った六部(ろくぶ)の姿に身を窶』(やつ)『して日本回国の旅に出立した』という。『その旅は宝暦』八(一七五八)年に『東国巡遊に始まり』、『一旦』、『帰京の後、安永初年から天明末年にかけて』(一七七〇年代から一七八〇年代)『西国を巡遊』、『その旅は都合およそ』三十年にも亙る『ものであった』。その『足跡は』当時の日本六十六『箇国中』、『至らざるは僅か』に六、七『箇国であったという』。『途中、富士山の登頂を果たしたり』、『挫折はしたものの』、『高千穂』の『峰の登拝を』三『度試みたりし、また』、『日向の地には』実に八『年間も滞在した』。『帰京の後』、『心ならずも兄の歿後の万家の後見をする事となり』、『寛政』六『年の春に醍醐寺の花見に出掛けた夜、帰宅の後に』『頓死』している。友人の文人『伴蒿蹊によれば』、『その生涯は「一生風流をつくした」ものであったという』。『万家の後見時代には主人』『(甥か?)に『「よしなき器財」ではなく』、『書物を買い集めるよう説いたり、その女』(むすめ:又は姪か?))『の為に』「自在抄」『という著作をものしたりしており』、『また』、『巡遊の記録を』この「笈埃随筆」として『纏めている。生前には文人として伴蒿蹊や橘南谿・三熊花顚等との交友があり、蒿蹊は「おもしろき老人」と評し』、『南谿は紀行』「西遊記」と「東遊記」を『板行するに際して』は、「笈埃随筆」を『参考としている』。以下、同随筆の項。『塘雨は日本列島の南端から北端迄を巡遊した記録を』「笈埃随筆」として『纏め』たものの、『それは「稿を脱せ」ないままに終わったものの、遺稿』十二『巻が残されている。各地で見聞した奇談・珍説に満ち』、『旅程とは無関係に各記事を配している点は』、『旅日記的な一般の』時系列『紀行と異なって』、『画期的であるものの、各記事に文献からの引用等を施している』ため、『却って見聞の直接性を稀薄にしている点が惜しまれる』。『塘雨と同様の旅に出た橘南谿の著した「東遊記・「西遊記」『両書は世間に好評をもって迎えられ、何度も板行を重ねたが、その執筆には塘雨の旅と』「笈埃随筆」の『影響が大であったと指摘』することが『でき、両書の板本においては全く』「笈埃随筆」に『拠った章も存在する』。『一方で塘雨も』「笈埃随筆」中では、『南谿の両書からの引用を行っており、両者の交友の密であった事が窺える』とある。
以下、底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部を視認した。但し、加工データとして所持する吉川弘文館『随筆大成』版(第二期第十二巻所収)の新字データを用いた。
「大沼」の「浮島」の記載では、恐らく最も長いものである。ちょっとダラつくので、句読点の変更・追加、一部に読みを歴史的仮名遣で推定で挿入し(カタカナになっているそれは、底本のルビ)、記号等も加え、読み易さを考え、改行・段落も成形した。底本で『〔割註〕』と本文同ポイントであるものは、【 】に代えて、『〔割註〕』と最後にある『」』はカットした。
なお、私は既に、
を電子化注しているが、本篇は最も信頼出来る「大沼」の「浮島」の話である。今回を以って、この浮島は、現在の山形県西村山郡朝日町大沼にある「大沼」のそれ(グーグル・マップ・データ。サイド・パネルに五百四十六枚の画像がある)であることが確定した。]
○大沼山浮島
奧州より出羽へ越(こえ)て、彼(かの)實方朝臣(さねかたそん)の尋ね詫(わび)給ひしといふ、「アコヤの松」をみるに、今は「千歲山」といふ地に在(あり)て、出羽の山形の府より、坤(ひつじさる)[やぶちゃん注:西南。]の方(かた)と思しくて、凡およそ)二里計(ばかり)を隔てたり。常盤の陰、千歲の後も、昔の景色を見せて、誠に目出度(めでたき)木にてなん、ありける。
[やぶちゃん注:「實方朝臣」貴種流離譚的伝承の多い藤原実方(さねかた 天徳四(九六〇)年頃~長徳四(九九八)年)。左大臣師尹(もろただ)の孫で、歌人として知られ、中古三十六歌仙の一人。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか、叔父済時(なりとき)の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任した後、長徳元(九九五)年に陸奥守となって赴任したまま、任地で没した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首が入集。藤原公任・大江匡衡、また、恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、歌合せなどの晴れの場の歌は少ない。慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、優れた舞人(まいびと)としても活躍し、華やかな貴公子として清少納言など、多くの女性と恋愛関係を持った。奔放な性格と家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として一条天皇の怒りを買い、「歌枕、見て参れ!」と言われて陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くから様々に説話化された。松尾芭蕉も実方に惹かれており、「奥の細道」にも複数回登場する。例えば、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅24 笠島はいづこさ月のぬかり道』を参照されたい。
「アコヤの松」「阿古耶の松」で、現在の山形市東部にある標高四百七十一メートル。千歳山(ちとせやま:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にあったとされる阿古耶姫の伝説に出る松の名。「山形市観光協会」公式サイト内の「あこやの松(千歳山)」の解説によれば、『阿古耶姫は、信夫群司の中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契を結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので、姫は嘆き悲しみ、仏門に入り、山の頂上に松を植えて弔ったのが、後に阿古耶の松と称されたという』とある。また、別な比定地である宮城県柴田郡川崎町の公式観光ポータルサイト「かわさきあそびWEB」の「阿古耶の松」には、『藤原実方の娘・あこや姫の伝説を残す松』とあり(場所はここ)、「■あこや姫の伝説■」として、『むかし、陸奥の国司の娘に「あこや」という姫がいました』。『夜、あこや姫が笛を奏でると、若者が現れるようになり』、二『人はいつしか互いに慕うようになりました』。『しかし、若者は日々やせ細り弱っていき、ある夜、「私は松の精。もうすぐ切り倒される…」と打ち明け消えてしまいます』。『そして、あこや姫はもう若者に会えなくなってしまいました』。『姫は悲しみ、出羽の国へ旅に出ます』。『道中で、村人が橋にする松の木を動かせず困っていました』。『若者の言葉を思い出し、あこや姫が笛を吹くと、びくともしなかった松の木が簡単に動きました』。『「あの若者はこの松の精霊だ…」と姫は気付きます。最後の別れをするために待っていたのだと』。『あこや姫は』、二『人の思いを託して松の苗を植えました。そして笹谷峠を越え、出羽へとたどり着いたそうです』とあった。]
此日、寶曆中、五月朔日也。[やぶちゃん注:「寶曆」は十四年までで、一七五一年から一七六四年まで。塘雨の最初の東国巡遊の折りである。]
この城下の婦女、近所・隣家へ往(ゆき)通ふに、布の藍模樣あるものを、必ず、疊みてもちけり。怪しくおもひて、その故を問ふに、
「むかしは、皆、是を被(かぶ)りて往來しけるが、いつの頃よりか、洒落に成(なり)て、只(ただ)、手に持(もち)、疊みて、提(さげ)るばかりなり。是、則、「被(カツギ)」なり。されど、下女なるものは持(もつ)事なし。」
と。
「人の家童子(いへわらし)なるものゝみ。」
といふ。【奧州の國詞(くにことば)に、「童(わらは)」を「ワラシ」と云。爰(ここ)にいへる事、又、字、よく、叶(かな)へり。すべて、いにしへの詞は田舍に、のこれり。】
實(げ)に、昔繪(むかしゑ)に、女の物詣(ものまうで)する體(てい)に、必ず、市女笠(いちめがさ)に、單(ひとへ)の白衣の樣(やう)したるを着(ちやく)して、「吾妻(あづま)からげ」したるなりなど、おもひ合せぬ。
[やぶちゃん注:「吾妻からげ」着流しの衣裳をからげること。所謂、歌舞伎で知られる衣装仕草で、女方或いは実際の女性では「丸ばしょり」・「片ばしょり」・「搔取(かいどり)からげ」「左褄(ひだりづま)」等があった。]
かくて三日の朝、こゝを立(たち)て、大沼山に至る。
此大沼山といふは、羽州山形より、七、八里が程、奧深く入る山にして、其路、嶮しく、坂のみにて、所々、崩れ落(おち)て、甚だ、危し。
山深く、人跡稀(じんせきまれ)に、適(たまたま)、木伐(きこる)ものに逢(あひ)て、たどりたどり、七里計(ばかり)と覺へ[やぶちゃん注:ママ。]、その道路、一宇の人家も、なかりし。
漸(やうやう)に山王大行院(さんわうだいぎやうゐん)に至る。
[やぶちゃん注:現在の浮島稲荷神社社務所内にある旧別当寺跡が後身。地図上では、記されていないが、同神社社務所のサイド・パネルのこの写真で、冠木門の右手に「大行院」の名札が視認出来る。「朝日町エコミュージアム」の「大行院」に、『別当大行院は役の証覚の弟子覚道の直系であり、現当主の最上氏は』五十四『代目を数えます。浮島稲荷神社は、源家、徳川家、大江家、最上家など時の権力者の尊崇厚く祈願所として加護を受けてきたことから、多くの貴重な文書が所蔵されています』とあり、また、同サイトの「大沼絵図」には、『昔、刷って配った地図の原版があったから刷ってたけれど、あんまりきれいには刷れなかった』。『名前がところどころ見えなくなっているけれど、これは消したのではないか。ここは徳川幕府の配下になっていたのが、御維新なって国さ返上したものだから、あまり思わしくないというので隠したみたいだな』。『こっちの色が付いている原版は、文化年間に作ったものだな。二百年くらい前だ。三十三坊とか、家の配置が書かってあるべ。あと、関所も書いてあるな。八つ沼の部落と大暮山の部落とそれから勝生の部落に行くところにあったんだな。誰も彼も大沼に入ることはできなかったんだ。許可がいるんだ』。『お話:最上敬一郎さん(大行院)』五十一『代当主』と注記があり、大型のPDF画像で、その「羽州大沼山浮嶌神池之圖」も入手でき、それを見るに、実際にはこの別当時山王大行院は、浮島の「大沼」の南にある「浮島稲荷神社」の境内地内にあったことが判る。さら、同じく「浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表」でPDFの詳細年表も入手可能である! ]
是、本山の驗者(げんじや)にて、俳諧の好人(すきびと)評德(へうとく)[やぶちゃん注:雅号。]を「鷹牕(ようさう)」といヘば、四、五日、押留(おしとどめ)せられて、旅情を忘れて、たのしみぬ。
「そもそも、此山上に扶桑第一の靈驗地あり。かゝる邊土・遠境なれば、諸國の人、多くは參詣せず。故に其奇瑞をしらず。
「緣起」に曰(いはく)、『人皇四十代、天武天皇白鳳年中[やぶちゃん注:私年号。通説では「白雉」(六五〇年〜六五四年)の別称とされる。]、役行者開基、倉稻魂神(うかのみたまのかみ)、勸請の山なり。』。[やぶちゃん注:私の判断でここで引用を切った。]
社後に、『みたらしの大沼』有り。沼の形、『大』の字に類せるを以て、名とす。
池中に、樣々の小島、有り。時として、遊旋(いうせん)す。或は、風に隨ひ、或は、風に逆ふて、動き𢌞る。見るものは、感稱し、見ざる者は、疑ふ。その神妙不可思議なる事、見るもの、奇異のおもひをなさずといふ事、なし。
其島、六十六島、有り。すなはち、我邦、成就(じやうじゆ)の相形(さうぎやう)にて、行基菩薩も、おなじく祈願有(あり)しなり。
池邊に、老松、二株、有り。
そのかみ、中將實方朝臣、此地に遊び、『あこやの松』を尋(たづね)て、此島の浮遊(うきあそ)ぶふしぎを見て、和歌二首を詠ぜられし。一首は忘れたり。[やぶちゃん注:以下の一首は四字下げ一行であるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げて、上・下句に分け、前後を一行空けた。「廻」の字体はママ。]
よつの海浪しづかなるしるしにや
おのれと浮(うき)て廻る島かな
と詠(よみ)給ふ所を、「島見松」とて、一木(いちぼく)あり。
其時、
『水神、感應して沼水(ぬまみづ)を卷騰(まきあげ)たり。』
とて、一株を「浪上松(なみうへのまつ)」とて、ある。」
と、物語(ものがた)らる。
頓(やが)て、島を見ん事を乞(こひ)て、予、一人、彼(かの)大沼の土手に行(ゆき)て見渡せば、沼の深さ、いか程とも、しらざれども、周匝(しふさふ)[やぶちゃん注:沼の辺縁の長さ。]、六、七町[やぶちゃん注:六百五十五~七百六十四メートル。現在の沼の周縁を計測したところ、六百四十メートル程あった。]もやあらん。
水面、藍よりも靑く、水際には、蘆・萱(かや)等生茂り、さも物凄き氣色(けしき)也。
又、鷹牕の云へるは、
「沼の向(むかひ)の馬手(めて)の池上(ちしやう)に、何か、黑く、樹の株の如く浮たるものあり。是を『浮木(うきき)』と云(いひ)傳へて、天下泰平の相(さう)なり。昔より、『沈んで見えざるときは、天下の變ある事を示す。』となり。又、沼の中へ突出(つきいで)たる處、有り。此所を『蘆原島(あしはらじま)』と號して、此一所のみ、動き浮(うかば)ず。其餘、六十餘の島、皆、國々の名ありて、其國の形を備(そな)ふと云へども、今、定かならず。中に、大(おほき)なるを「奧州島(あうしうじま)」と云(いふ)こそ、まがふべくも、あらず。」
と、いへり。
かくて、初めて行(ゆき)たるとき、池上には、只、七、八尺計(ばかり)と、三、四尺計と見えし小島、二ツ有りし。
時、五月上旬なれど、此邊(このあたり)、大寒(たいかん)の土地なれば、藤・山吹・躑躅(つつじ)など、咲(さき)亂れて、景色ある頃なりければ、目を慰めて、
『今や、島の動き至るか。』
と見詰(みつめ)てある中(うち)、「浪騰の松」、ことに、麗はしく、面白かりしかば、興に乘じて、一句を吟ず。[やぶちゃん注:句は和歌同様、引き上げ、前後を一行空けた。]
松の名も折から高し藤の浪
などひとりごちて、猶、其時も、「かゝる景色か松の藤なみ」と、再び、案じ[やぶちゃん注:再案は確信犯で「松」を一句に二回読むことにあるが、いかがなものか?]、既に、日も西山(にしやま)に傾きけれども、
『夫(それ)ぞ。』
と、おもふ事もなくて、鷹牕子の許に歸るに、
「御島(おしま)も拜み給ふや。」
と、人々、問ふに、予、
「何も見ずして止(やみ)けり。」
と。鷹牕曰(いはく)、
「日によりて、浮出(うきいで)ざる事も、まゝ、有(あり)。」
と、いふにぞ、いよいよ疑しく、
『聞(きき)し事は、空事にや。又、世に云傳(いひつた)ふるほどの事にもあらじ。かうやうの事は、多く、虛說あるなめり。しかれども、見ずしては、止むべからず。』
と、翌日は、朝の認(したた)めするより、晝飯(ひるめし)の設(まうけ)を懷(ふところ)にして、
「終日、居《を》らん。」
と覺悟して、彼(かの)「島見松」の陰に、箕踞(ききよ)[やぶちゃん注:その恰好が農具の箕(み)の形に似ているところから、「両足を投げ出して座ること・足を伸ばし広げて座ること・箕坐(きざ)」の意を示す。]して待(まつ)に、池の面(おもて)を見れば、昨日ありし二ツの島、見えず。
「コハ怪しや。さるにても、動けばこそ、見留置(みとどけおき)し島の、無きを。」
と、
『少(すこし)は、實(まこと)も。』
と、おもふ計(ばかり)なり。
扨(さて)、其日は、殊に、天氣、晴やかに、水面(みなも)に微風(そよかぜ)の氣色もなく、快く、堤(つつみ)に匍匐(はらばひ)、松の下陰、凉みに睡(ねぶ)る心地(ここち)なるに、不圖(ふと)、此方(こなた)の水際(みづぎは)、動く樣(やう)に覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、能々(よくよく)、心を付(つけ)、見るに、實(まこと)に動くなり。
「扨は。」
と、目を留(と)め詠居(ながめを)るに、先(まづ)、池の片(かた)への地(ち)、おのづから、離れて、次第に、池の中央に出(いづ)るに、一島(いつたう)、靜(しづか)に、池中(いけなか)へ、浮(うか)み行(ゆく)さま怪(あやし)きに、また、向ふの際(きは)を離れて、此方(こなた)へ浮來(うききた)る。
斯(かく)てこそ、爰(ここ)より出來るは、物、有(あり)て、負廻(おひまは)るごとし。
既にして、七島(しちたう)、いづれも、つゝじ、花咲(はなさき)、芦・萱、茂れり。
爰に於て、疑心、忽ち、解けて、手の舞(まひ)、足の踏(ふむ)事を覺えず。[やぶちゃん注:有頂天に舞い上がった高揚を、かく言ったものであろう。]
中にも「奧州島」とかや云ふめる大島は、二、三丈もあらん松、生茂(おひしげ)り、藤の花、亂蔓[やぶちゃん注:底本にママ注記がある。「爛漫」か。]と咲(さき)かゝる、松下には、躑躅の花の、色を交(まぢへ)て、游ぎ出(いづ)る體(てい)、且(かつ)、恐れ、且、よろこび、いよいよ、脇目もふらず守り居《を》るに、其島、向ふの涯(はて)へ着(つく)にもあらず、中途に居《を》り、又は、四方へ遊び廻る。其欲する所に隨ふ。
奇異なる中に、奇異なる事は、跡より出來(いできた)る島、先(さき)にある島に游ぎ當(あた)る。尋常ならば、倶(とも)に押行(おしゆく)べきに、左(さ)は無くして、先にある島、自(おのづ)ら除(よけ)て、行(ゆく)べき島を通す也。
誠に、心ある物に似たり。
且、夜となく、晝となく、何れの岸も、斯(か)く、放れ、步行(ありき)く故に、沼の形狀、變りて、一樣ならず。
又、水中を行く物は、必ず、その跡に通りたる筋(すぢ)あるもの也。然るに、曾て、其事のなきも、奇妙なり。
心、彷彿(はうふつ)として、感に絕(たえ)ず。依(より)て、又、一句を口ずさむ。
出(いづ)る島へ引分(ひきわけ)て咲(さく)つゝじかな
と、漸(やうや)く[やぶちゃん注:底本も吉川弘文館『随筆大成』版も、たしかに「く」なのだが、不審がある。後注する。]、形狀(かたち)を述(のべ)て宿地(しゆくち)に歸り、其樣(そのさま)を語りければ、鷹牕子も、大(おほき)に悅び、申されけるは、
「此島の樣、芭蕉翁に見せざる事、無念なり。漸く[やぶちゃん注:この「く」は実は踊り字「〱」で、「やうやう」ではあるまいか。前もその方がいい気がする。]、伊勢の凉菟(りやうと)、加賀の千代女の、二人の句、あれども、みな、想像して送り越したる句也。子(し)は眼前の秀吟也。只に、やみなんや。」
と、頓(やが)て短册したる板に書(しよ)して、稻荷の社に、奉納せられぬ。
「此地、至(いたつ)て邊土なれば、風雅の人も、至て、見る事なきこそ、無念なれ。」
と吳々(くれぐれ)も語られき。
今は、はや、逗留せんも、無益なれば、暇(いとま)を乞(こひ)て、立出(たちいで)ぬ。
折から、江戶の同者(どうしや)、四、五人、湯毆山禪定(ぜんぢやう)[やぶちゃん注:修験道で霊山に登って修行することを言う。]の序(ついで)に此に來り、此夜、一宿して、今朝けさ)、立(たつ)なり。
宿主(やどのあるじ)、是を誘ひ、彼(かの)沼に行(ゆき)て、暫く、「浮島を見ん」と待(まつ)に、さらに出(いで)ず。
然れども、予が、昨日(きのふ)見たりし七島もなく、僅(わづか)に二島のみ、浮(うき)めぐりしかば、我は、ますます、これを信ずといへども、彼(かの)同者は、退屈して、
「此(ここ)に、𨻶(ひま)取(と)ては、道の積(つも)り、甚(はなはだ)、惡(あし)し。もはや、行(ゆく)べし。」
と云(いふ)に、
「實(げに)も。」
と、各(おのおの)出立(しゆつたつ)せんとするに、宿院(しゆくゐん)の人、長き棹(さを)を持來(もちきた)り、
「おのおの、現在、見給はざれば、生前の疑ひ、止(や)まじ。いでよ、證據を見せん。」
と、棹を取延(とりのべ)て水涯(みづぎは)を突出(つきいだ)せば、則ち、出離(いではな)る。
然るに、棹を納(をさめ)れば、又、もとの所に歸り着く。
「そこ爰(ここ)、みな、同じ自然(おのづ)と出(いづ)べき氣機(きき)あらざれば、如ㇾ斯也(かくのごときなり)。」
と、いへり。
同者も
「實(げに)。」
と思ふ體(てい)にて、立別(たちわか)れぬ。
世に、神佛の奇驗(きげん)は、其人の信不信による事なれど、此島計(ばかり)は、たとひ、五日、七日を滯留してなりとも、見ずんば、有(ある)べからずとぞ、思ふ。
[やぶちゃん注:このエンディング、『橘南谿「東遊記」卷之五の「浮島」の条』のそれと、有意に似ており、偶然とは思われない。橘南谿は、確かに大沼に行ったのであろうとは思いたいのだが、少なくともこのコーダ部分は、百井塘雨の本篇の最後を意図的にインスパイアしたものであることが判る。しかも……本文自体も――実は――そっくり!……ちょっと、これ、残念だなぁ!…………]
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