譚海 卷之九 備前國大すり鉢の事 久留米侯寬裕の事 (フライング公開)
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]
備前國へあそびたる人の物語せしは、其國の瀨戶物商賣する店に、二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]四方の摺鉢有(あり)。
「これは、何に用(もちふる)事にや。」
と尋ねしかば、
「これは、久留米侯より、註文にて、こしらへ進じたるとき、かけがへ[やぶちゃん注:予備。]に出來(しゆつら)したるなり。有馬の御在所の御別莊の、手水鉢(てうづばち)にせらるゝよしにて、代金百三十兩に請合(うけあひ)、こしらへさせ侍れど、かくのごとく大なる物ゆゑ、土にて拵(こしら)へたる間に、ふち、そり、くづれて、七つまでこしらへ、そんぜし故、百三十兩にて請合侍れど、大(おほい)に損毛(そんもう)に及びたり。是は其七つの内、餘計に燒(やき)たるが、殘りたるなり。かほど大成(なる)ものゆゑ、外(ほか)に望人(のぞむひと)、無ㇾ之(これなく)、こまり侍る。今は、鳥目(てうもく)三十貫にも、うり申度(まうしたき)。」
と申せしよし。
「大名の物數寄(ものずき)は無類成(なる)事なり。かの侯、寛裕を好まれ、俠者なるゆゑ、かゝる趣向も、ありし事にや。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「久留米侯」有馬頼貴。筑後久留米藩第八代藩主。有馬家の始まりは、播磨の名門、赤松家四代円心則村の三男播磨(兵庫県)守護職赤松則裕で、その子義裕が摂津の有馬郡を配され、有馬と名乗るようになったが、元和六(一六二〇)年に丹波国福知山藩八万石の大名であった有馬豊氏(とようじ)が、久留米二十一万石で入封して以来、幕末まで有馬氏が藩主を務めた(以上はウィキの「久留米藩」に拠った)。有馬頼貴については、昨日、ルーティンで公開した本話の後にある「譚海 卷之九 同侯江戶の邸及侯性行の事」を参照されたい。このデカ鉢もさることながら、かなりのトンデモ変人であることが判る。【以上は総て二〇二四年二月二十五日追記】
「寛裕」「心が広くてゆったりしていること」或いは「(生活・時間などが)裕福である・豊かである・ゆとりがある」の意で、それでいいと思うのだが、何故か、本文の最後の「寛裕」(「寬」となっていないのはママ)に「裕」の右手に編者の補正注があり、『俗』とある。しかし、「寛俗」という熟語は私は見たことがない。敢えて文字列から言えば、「俗人や民草の風俗に対して寛容であること」を言うか。しかし、「寛裕」の後者の意でよくはないか?]
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