譚海 卷之五 寬保元年彗星出る事 附熊野浦くじら船の事
[やぶちゃん注:句読点・記号を変更・追加した。標題「出る」は「いづる」。]
○寬保元年、はゝき星(ぼし)出(いで)けるに、有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗のこと。]、よるよる、御坊主壹人、召連(めしつれ)られ、吹上御庭(ふきあげごてい)へ出(いだ)させられ、望遠鏡にて、星のやうす、御覽有(あり)。そののち、水野監物殿(みづのけんもつどの)を召(めさ)れ、「前年、紀州にて見たりし鯨船三拾艘、早々、拵立(こしらへたて)候やう。」、仰付(おのせつけ)られけり。その頃は、專ら、御儉約の御沙汰ある頃なりしかば、監物殿、言上(ごんじやう)ありしは、「此節、御物入(おんものいり)省(はぶか)れ候事、專らに致(いたし)候時(さふらふとき)に、不急のもの、御こしらへの事はいかゞ可ㇾ有ㇾ之哉(これあるべきや)。」と申上げければ、上意に、「其方は、物事、鍛鍊なるもの成(なる)が、天文をば、心得ざるものと見えたり。此ごろの星は、其方、何と見候や。得(とく)と見定(みさだめ)たるに、是は『洪水の兆(きざし)』と覺えたり。決(けつし)て、近き内には、大水、有(ある)べければ、其時、流民(るみん)を救ふには、鯨舟ならでは、進退、自由成(なる)もの、なし。右(みぎ)洪水の心懸(こころがけ)のため、拵置(こしらへおく)べきやうに。」思召(おぼしめしの)由(よし)、上意、有(あり)ければ、監物殿、恐入畏(おそれいりかしこま)り、早々、工人(こうじん)へ催(もよほ)し、仰(おほせ)をうけ、舟、出來(しゆつたい)せり。然(しか)れども、其年も何事もなくて暮(くれ)ぬれば、諸人(しよにん)、下心(したごころ)には、『上樣程(ほど)、御聰明の御方(おかた)なれども、是は、少し、いかゞにや。』など、おもひわたりしに、翌年、秋、はたして、大洪水におよび、下總・猿ケ股、きれて、兩國橋をはじめ、橋々、不ㇾ殘(のこらず)、おち、本所すだ村の邊(あたり)、流亡(りふばう)、おびたゞ敷(しく)、諸民、騷動せしに、公方樣、櫓(やぐら)に成(なら)せられ、望遠鏡にて、御覽有(あり)、御自身、かけ引(ひき)あり、兩國橋・廣小路に、小屋、たてられ、流民を、つどへ、粥(かゆ)を賜(たま)はりなど、さまざま、御憐愍(おんれんびん)の事共(ことども)なりしも、すぐれて、明君なる事、諸人、感じ奉りし。此役に、くじら舟、御用に立(た)て、流亡のもの、一人も、怪我なかりしと、いヘり。
[やぶちゃん注:「寬保元年、はゝき星出ける」これは寛保三(一七四三)年の誤り。同年から翌年一月まで、「クリンケンベルグ彗星」(Comet Klinkenberg-Cheseaux)が観測されている。当該ウィキによれば、これは一七四三年から一七四四年にかけて出現した大彗星で、近日点に達した後に現れた扇状の六本の尾が扇状に広がったことで特に知られている。同『彗星』は『歴史上』、六『番目の明るさ』で、『この彗星』は『大彗星と呼ぶに相応しい明るさであった』とある。
「水野監物殿」水野忠之(みずのただゆき 寛文九(一六六九)年~享保一六(一七三一)年)は譜代大名で老中。三河岡崎藩第四代藩主。享保二(一七一七)年九月、老中となり、吉宗の「享保の改革」を支え、新田開発を促し、幕府領の年貢を四公六民から五公五民に引き上げ、これらの施策により、幕府の財政は好転したものの、米価の急落や、負担増による不満から批判され、当時、流行した落書に、「無理で人をこまらせる物、生酔(なまよひ)と水野和泉守」と詠まれている(以上は当該ウィキに拠った)。さて、吉宗は延享二(一七四五)年九月に将軍職を長男家重に譲ったものの、自分が死去するまで「大御所」として実権を握り続けた。この寛保三年から翌年は、吉宗将軍現役の最晩年(数えで六十から六十一)となるわけだが、ご覧の通り、水野監物忠之は既に没している。されば、これは、水野の倹約政策を元に作られた噓と考えてよい。但し、クリンケンベルグ彗星出現の前年の寛保二年には、関東から近畿にかけて大水害(「寛保の洪水・高潮」)が発生しており、特に千曲川流域や、江戸などで、深刻な被害(「戌の満水」・「寛保二年江戸洪水」)が生じていることから、その辺りを、すっかり事実とは齟齬する形で、パッチ・ワークの如くに作り話ししたものと推定される。本書の作者津村淙庵(つむらそうあん)自身、元文元(一七三六)年生まれであり、あたかも、見たように書いているこの話は、あらゆる点で、時制を弄った架空の話であることが、すっかりバレてしまうのである。どこの部分が本当なのか、調べる気がしなくなってしまうレベルのものであって、この辺り、私好みの地方地誌的な随想になって、少しよかったと思った矢先のことで、頗る残念ではある。]
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