フライング単発 甲子夜話卷之九 12 大坂御城中、深夜に殺氣ある事
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]
9―12
新庄駿河守直規(なほのり)と云(いひ)しは【常州麻生(あさふ)領主、一萬石。】予が緣家にして、活達直情なる人なりし。
寬政中、擢(ぬきんで)られて大番頭(おほばんがしら)となる。
其話に、
「大坂在番に往(ゆき)て、御城中に居(を)るに、深夜など、騷騷然(さうざうぜん)と音あり。
『松風か。』
と戶を開(ひらき)て聞けば、さにはあらで、正しく、人馬、喧噪、亂爭の聲を遠く聞(きく)如し。
暫(しばらく)にして止む。
時々、如ㇾ此(かくのごとき)ことあり。
相傳ふ。
『當時、戰沒の人、魂氣(こんき)、殘れるなり。』
とぞ。」
予、奇聞と思ひ、その後、在番せし人に問ヘば、
「其事、不ㇾ知(しらず)。」
と云。
駿州、虛誕を云(いふ)人に非ず。心無き輩は、何ごとも氣の付(つか)ぬにや。
■やぶちゃんの呟き
「新庄駿河守直規」(宝暦元(一七五一)年~文化五(一八〇八)年:静山より九つ年上)は常陸麻生藩第十一代藩主。当該ウィキによれば、第九代藩主『新庄直隆の長男として江戸で生まれる。父が宝暦』五(一七五五)年に『隠居したときには』、未だ五『歳の幼少だったため、家督は叔父の直侯』(なおよし)『が継いで』、『直規は』、『その養子となり、明和』九(一七七二)年に『直侯が死去すると』、『家督を継いだ。同年』十二月に『従五位下・駿河守に叙位・任官』した。『直規は積極的な藩政改革を推し進め、寛政元』(一七八九)年四『月には凶作による藩財政難により、家臣団に』三『ヵ年の倹約令を出した』。同十二月には、「享保の改革」を『模範として目安箱を設置している。寛政』二(一七九〇)年には、『藩人口減少に対処するため、困窮者の子供や』、『その妊婦などに対して養育米を支給したりしている。寛政』三(一七九一年)には『民政に関する』十八ヶ『条の条目を制定した』。寛政六(一七九四)年八月八日から寛政十一(一七九九)年十二月まで『大番頭』(江戸城警護及び江戸市中の警備にあたる大番十二組の各組の長が大番頭。老中支配。最初は譜代大名から任ぜられたが、後に上級の旗本から選ばれるようになった)『を務めた。また、大坂城・二条城・駿府城の勤番職も歴任した。享和三(一八〇三)年十月二十日、『病気を理由に家督を長男・直計に譲って隠居』した。文化五(一八〇八)年三月二十三日に死去し、享年五十八であった。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆を開始しているから、この時は既に白玉楼中の人であった。
「予が緣家」どのような縁戚なのかは不明。姻族であろう。
「大坂在番」大坂城を警護する江戸幕府の軍事組織である大坂在番の一つ。「大坂城番」「大坂定番」とも言った。元和七(一六二三)年に創設され、老中支配。職掌は大坂城の諸奉行を統括し、城内の維持管理に当たった。二〜三万石の譜代大名が任ぜられた。定数は京橋口定番・玉造(たまつくり)口定番各一名。月番制で、任期は不定であった。与力三十騎・同心百人が附属し、役料は三千俵で、役宅も支給された。なお、大坂在番には、ほかに大番・加番・目付があった。
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