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2023/09/30

フライング単発 甲子夜話卷之十二 25 博徒狐蠱を退くる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「狐蠱」は「ここ」と読み、この場合は「狐憑き」に同じ。]

 

12―25

 狐つきありて、醫藥は勿論、僧巫(そうふ)の祈禱にても、離れず、爲(せ)ん方(かた)なきおり[やぶちゃん注:ママ。]から、或る博徒ありて、

「これを、落さん。」

と云(いふ)。

 因(よつ)て、これに賴む。

 博徒、乃(すなはち)、鮪(まぐろ)の肉を、夥しく、すりみにして、狐つきの總身(そうみ)に塗り、屋柱(やばしら)に縛りつけ、畜犬(かひいぬ)を連れ來(きた)れば、犬、喜んで、滿身を舐(ねぶ)りけるに、狐つき、大いに恐怖し、震ひ叫びけるが、頓(やが)て狐おちたりとぞ。

■やぶちゃんの呟き

う~ん、この退治法、凄いぞ!

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐茶碗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐茶碗【きつねじゃわん】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕松平与次右衛門御使番勤めし頃、御代替りの巡検使として上方筋へ至りしに、深草へ至りしに、与次右衛門より家来何某と名乗りて、土器にて坪平(つぼひら)迄揃へし家具を廿人前あつらへしとて、焼立て差出しけるが、与次右衛門方にても一向覚えこれなく、家来の内にも申付けし者なし。不思議なる事なりと思へども、かの商人《あきんど》はあつらへものとて異約を歎きける故、詮方なく買ひ調へて、今に狐茶碗とて所持せし由。されど火事の節過半焼け失せけれど、未だ残りありと、かの与次右衛門子なる人語りぬ。

[やぶちゃん注:正規表現は私の「耳嚢 巻之五 狐茶碗の事」を見られたい。]

2023/09/29

フライング単発 甲子夜話卷之七十六 11 蛇、鮹に變じ、蟾蜍、魚となる

[やぶちゃん注:現在、改訂作業中であるサイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の注のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。漢文部は後に〔 〕で訓読文を添えたが、そこでは若干の補正を加えた。]

 

76―11

 蛇(へび)の鮹(たこ)に變ずるは、領内の者、往々、見ること、あり。

 蛇、海濱に到り、尾を以て、石に觸(ふる)れば、皮、分裂し、その皮、迺(すなはち)、脚(あし)となる。

【或(あるい)は云ふ。

「鮹の脚(あし)は、皆、八つあり。蛇の化せし者は、必ず、七つなり。」

と。未(いまだ)、孰(いづ)れか是(ぜ)なるかを知らず。

○又、世人(せじん)、總て、「鮹の頭」と思ふものは、「腹」にして、「頭」と云ふは「臀(しり)」なり。因て、「足」と呼ぶ者は、「手」なり。鮹は烏賊(いか)の屬(たぐ)ひなり。烏賊魚(いか)を以て見れば、彼(か)の「頭」・「足」の非(ひ)は知るべし。世俗、「鮹の入道」など稱(しやうす)る者は、その「臀」を、誤(あやまり)て、「頭」とするより、起る。下文、玆(ここ)を以て、讀むべし。】

 又、蛇、首より中身のあたりは、皮、翻(ひるがへ)り、鱗ある所、腹内(はらうち)となり、皮裡(かはのうち)、却(かへつ)て、身外(みのそと)となる。總じて、鮹は紅白色なるに、蛇化の者は、身、潔白、腹、長(なご)ふして、脚、短く、その形、尋常と殊なり。又、游泳せずして、たゞ、漂ふのみ。且(かつ)、「その變ぜしあたり、血色(けつしよく)、殷々(いんいん)[やぶちゃん注:盛んに。]、海水を染(そめ)て、方、五、六尺にも及ぶ。」と。人々、所ㇾ云(いふところ)、小異あれども、大率(おほよそ)、この如し。

 「和漢三才圖會」、「本綱」を引いて云(いはく)、『石距【俗云、「手長鮹」。】亦章魚之類。身小ニシテ而足長。入ㇾ鹽燒食メテ美也。按ルニ蛇入江海石距。人有タル其半ルヲ。故多食ヘバ則食傷。』。〔『石距(せききょ)も【俗に云ふ、「手長鮹(てながだこ)」。】、亦、章魚(たこ)の類(たぐ)ひ。身、小にして、足、長し。鹽を入(い)れて燒き食ふに、極めて美なり。又、曰はく、「按ずるに、蛇、江海に入り、『石距に變ず。人、其の半(なかば)は變はるを見たる者、有り。故に、多く食へば、則ち、食傷(しよくしやう)す。』と。」と。〕

 是等に據れば、領内の見る者とは、同じからず。「多く食へば、食傷す」と見ゆるが、

「蛇化(じやか)の者は、迚(とて)も、見分(みわけ)ん、食ふ可(べ)からざる體(てい)なり。」

と。

 又、「本草啓蒙」云(いは)く、『「くちなはだこ」【雲州の言(いひ)。】、形、章魚(たこ)に同じくして、足、最(もつとも)長し。食へば、必(かならず)、醉ひ、又、斑(まだら)を發す。是(これ)、「石距」なり。一名、「石拒」【「寧波府志」。】・「八帶魚」【「東毉寶鑑」・「漳州府志」。】・「八則魚【「山東通志」。】。雲州、及(および)、讃州にては、「石距」は蛇の化(けす)ところと云ふ。蛇化のこと、若州に、多し。筑前にては、「いゝだこ」の九足なる者は「蛇化」と云ふ。八足の正中に、一足あるを、云ふ。』。

 これも領内に云(ふ)所と、合はず。

 同書に曰(いはく)、『蛇婆、一名「海蛇」【「琉球國使畧」】。時珍は「水蛇」とす。藏器の說は、海中の蛇、とす。「うみくちなは」、數品(すひん)あり。蛇形(へびがた)にして、色、黑く、尾端(をのはし)、寸許(ばかり)、分かれて、流蘇(フサ)〔=房飾り〕[やぶちゃん注:「フサ」は珍しい静山のルビ。]の如くして、赤色なる者、又、白色なる者、あり。』

 これを見れば、蛇の化せんと、自ら、其尾を打(うち)て、分裂することは、天理の然ることあると覺ゆ。

 因(ちなみ)に云ふ。

 領海に「アラカブ」と呼ぶ魚あり。頭・口ともに、大にして、黑(くろき)鱗なり。此地にある藻魚、「メバル」の類にして、多く、海邊の石間(いしのあひだ)にゐる。蟾蜍(ひきがへる)、變じて、この魚となる。既に見し者、往々にあり。其言(そのげん)に曰く、

「蟾蜍の前(まへ)二足、魚の前鰭なり。後足、合(あひ)寄りて、魚尾(うをのを)となる。」

と。

 成ほど、蟾蜍は、頭(かしら)、大にして、巨(おほきな)口、黑色なる者なり。彼(かの)魚と化するも、由なきに非ず。

 一人、又、曰(いはく)、

「蟾蜍の化するは、『アラカブ』に似て、一種なり。皮、滑(なめらか)にして、黃色、黑斑あり。兩鰭、自ら、蟾蜍の手臂(てひぢ)の如し。」

と。又、一說なり。

 「和漢三才圖會」云(いはく)、蟾蜍入ㇾ海、成眼張魚(メハル)ト。多ルヲ。〔蟾蜍、海に入り、眼張魚(めばるうを)と成る。多く、半ばは、變るを見る、と。〕然れば、餘所にも有ることなり。

■やぶちゃんの呟き

前の「和漢三才圖會」の引用は、「卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(サイト一括版)で、最後の引用は、「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」(ブログ独立版)からのものである。

「アラカブ」とは、福岡県福岡市・長崎県雲仙市小浜(以上は静山の領地に近い)・鹿児島県種子島でスズキ目カサゴ亜目メバル科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus を指す(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに拠る)。静山の言う「メバル」はメバル科メバル属Sebastesである。「大和本草卷之十三 魚之下 目バル (メバル・シロメバル・クロメバル・ウスメバル)」の私の注を参照されたい(今世紀になって、メバル科が新設されたため、まだ、この科のタクソンにはフサカサゴ科の並置表示が今も多く残っている)。また、その後の「アラカブに似て一種」というものは何だろう? スズキ目イソギンポ科Blenniidaeには、ズバり、カエルウオIstiblennius enosimae なんていうのもいるけれど、これはおよそ、カサゴには似ていない。アンコウ目カエルアンコウ科カエルアンコウ Antennarius striatus  では、限定にし過ぎるが、しかし、その相似形象からは、イザリウオ科 Antennariidaeの一種と考えていいようにも思われる。私の電子テクスト、栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八「蛙変魚」を参考にされたい。そこで私は、丹洲の絵を、現在のベニカエルウオ(旧ベニイザリウオ) Antennarius nummifer の黄変型に同定した。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐浄瑠璃を聴く」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐浄瑠璃を聴く【きつねじょうるりをきく】 〔兎園小説第七集〕和泉国日根郡佐野村<現在の大阪府泉佐野市日根野か>といふ処に(世にしられたる食野《めしの》佐太郎といふもの、この村に住す。岸和田にて食野を佐野と称す)浦太夫とて義太夫節の浄瑠璃をよくせる者有り。五畿内にて十人のかたりての一なり。常にこの佐野村より大坂の座へかよひて業《なりはひ》とせしが(佐野村は、岸和田城をさる事五十丁、道弐里とぞ。大坂をさる事おなじ。道法《みちのり》九里ばかり)一日浪華よりの帰途、夜に入りて、同国泉郡布野といふ所を通りしに(布野は浪華より紀州への往還にして、高石といふ所の三昧寺《さんまいでら》の有るところなり。三昧といふは※1※2所をいふ[やぶちゃん注:「※1」=(上)「𠆢」+(下)「番」。「※2」=「土」+「毘」。通常、「三昧」とは「墓地」の意である。この熟語も、その意であろう。則ち、寺院があるわけではない埋葬場のことであろう。]。高石は古《いにしへ》たかしといふ。即ち高しの浜なり)ふと人と道づれに成りしに、一人のいふ、先刻より説話を承るに、音に聞きし浦太夫のよし、自分はこの布野の下在《したざい》なる(この辺にては、山の在方を上(うへ)と云ひ、浜の方を下(した)といふ)某の村の者なるが、此所《ここ》にて行き逢ひしは幸《さひはひ》のことなり。何卒今より我方に来りて、一曲をかたり聞かせ給はるべしといふ。浦太夫何ごころなくうけあひて、その家に伴ひ行きしに、大《おほい》なる農家にて、座しきへ通し休足させ置き、その内に大勢あたりの者寄り来りて座に満つ。主人盛に杯を持ちて酒肴を勧む。浦太夫いへるは、あまりに多く飲食をなせば、飽満して浄瑠璃をかたるに迷惑なり、先づ語りて後に給はらんとて、一二段かたりければ、座中ひつそりとして感に堪へし有りさまなり。また暫く飲食して大いに興に入りしに、座客又々かたらん事を望む。則ちその乞《こひ》に任せて数段《すだん》を語りしが、席上実《げ》に感服せしにや。息もせずひつそりとせしに、心をつけて見過《みすご》せば、人ひとり居《ゐ》ず。眸を定めて四方を見るに、夜少ししらみて、東の方《かた》明けかゝるに、今迄座敷なりとおもひし所は、あらぬ布野の三昧なりければ、仰天して帰らんとせしに、夜はほのぼのと明けはなれたり。草ばうばうたる墓所なりけるに、ぞつとして早々家に帰り、狐に魅《み》されしと心付くに、夢のごとくに飲食せしものは、さだめて世にいふ馬勃牛溲《ばぼつぎうし》にこそとおもはれて、何となく胸悪しく、心も心ならず。恍惚としてただしからず。数日《すじつ》わづらひて打ち臥したり。その頃、和泉国中にて佐野の浦太夫は、狐に化《ばか》されしか、狐に浄瑠璃を望まれしかと、一国の評判になる折しも、或人のいひけるは、その夜浦太夫に饗せしものは、あらぬ不潔の物にはあらず。その夜近村に婚姻の礼ありしに、その用意の酒肴膳部のこらず失せてあとかたなし。さだめて狐狸などの所為ならんとて、その家には別に飲食をとゝのヘしと聞く。されば布野の三昧に魚骨杯盤引散らして、さながら人の飲食せし如く狼籍たりしとぞ。これをきけば、浦太夫が食せしは実《まこと》の食品にて、野狐、その芸を感じ、酒食をもてなし、浄瑠璃を聞きしならんとの取り沙汰にて、浦太夫追日《ついじつ》[やぶちゃん注:「日ましに」の意。]平癒せしが、その後は太夫をやめ、外のなりはひして世を送り、程へては折にふれて、人の望に応じてかたりしこともあれど、たえて業とはせざりし。実に安永年中の事なりとぞ。(岸和田藩中茂大夫談、同藩三宅定昭が筆記)

[やぶちゃん注:正規表現(注附き)は私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 野狐魅人』を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐打善九郎」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐打善九郎【きつねうちぜんくろう】 〔甲子夜話巻十七〕蕉廬実家の老臣味岡杢岡之允と云ふが話なりと云ふ。濃州岩村<岐阜県恵那郡岩村町>城下荒市場組の足軽に善九郎と云ふものあり。鳥銃《てつぱう》は時に聞えたる打手なりしとぞ。大国寺村と云ふには、昔より首黒く形の白き老狐あり。常に人を化《ばか》すとて、人々甚だ怖るゝことなりき。善九郎一日その村に行きて処々捜しければ、石の陰より彼《か》の黒首の狐頭《かしら》を出せり。善九郎大言《だいげん》して、おのれ善九郎を知らずや、今《いま》一打にこそすべき者とて、玉薬込め一発するに、狐速かに石の陰に頭を匿し、砲声止むとまた頭を出だす。善九郎込め返して早打にするに、元の如く石に隠るゝこと都合三度にして当らず。その時善九郎云ふやう、明日の夕《ゆふべ》またこゝに来らん、必ず出《いで》よと狐に誓ひて去れり。翌日夕方善九郎至れば、昨日の如く石より頭を出す。善九郎一発すれば、また石に隠れて当らず。二発の時ねらひたるときの足を組みかへて打出しければ、丁ど一遍頭を隠してまた出す所の図になりて出る頭にその儘当りけり。これより永くその地狐患《こげん》を免れしとなり。また或時山より狐児《きつねのこ》を捕へて家に帰り、調理して喫《きつ》す。その親狐屋上に来りて悲啼《ひてい》す。善九郎またこれを打たんとて、鳥銃を持出《もちいづ》れば狐驚き去れり。それより善九郎が妻に狐憑《よ》りて、種々の怪状《くわいじやう》あり。医薬祈禱さらに験《しるし》なし。善九郎怒りてその妻を角場《かくば》[やぶちゃん注:坂などの崖下を削って作られた鉄砲の稽古所を指す語。]へつれ出し、的にして打たんとて、既に鳥銃を以てねらひよる。妻啼き叫んで、免し玉へ、今立ち去らんとて狂走しけるを、追かけて押し留めければ、只今落行くべし、但しこの後狐に返りて長く打つことを赦されよと云ふ。善九郎云ふには、何を以てするや。答ふるに、鳥銃にて向はるゝとき、必ず跡脚《あとあし》を揚ぐべし、そのときは赦さるべしと請ふ。善九郎然諾《ぜんだく》しければ狐すぐに落ちたり。程へて善九郎殺生に出て暮帰《ぼき》するとき、田疇《はたけ[やぶちゃん注:二字でかく読む。]》に一狐あり。鳥銃を以て追へば、狐は徐々《ゆるゆる》と歩みながら回顧して、跡脚を揚げて示す。善九郎合点ぢやと云ひながら打斃《うちたふ》しけり。その強性《がうしやう》なること如ㇾ此《かくのごとし》。また藩士雉子打《きじうち》に出ける野路《のぢ》にて善九郎に逢ひ、今日はいかなる日にや、一向に人を寄せざれば、一羽も打得ずと云ふ。善九郎曰ふ、ふせて打つときは必ず得べしと。同行して一所に到れば、田の中に雉子餌《ゑ》をはみて在りしを、程遠かりければ如何があらんと士の云ひしを、善九郎はふせて打つを見られよと云ひ、士を其所《そこ》に残し置き、我一人鳥銃に玉薬を込《こむ》るや否や、その雉子を注視して目ばたきもせずして進みよる。その雉子立たず。遂にづかづかと近寄りて一打留たりとなり。このふせて打つと云ふこと、何事かは知らねども、譬へば猫の鼠を捕る如く、始めより精神を凝らし、見つめて目を離さゞれば、鳥もその一念にて立つことならぬやうになる者なる可し。鍛錬の技になりては神妙のことあるものなり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之十七 9 岩村侯の足輕善九郞、强性の事」を正規表現注附きで公開しておいた。

「味岡杢岡之允」私の拠った東洋文庫版では、『味岡杢之允』である。これが普通であり、後の「岡」は宵曲の拠った本の衍字か、宵曲の誤記であろう。読みは「あぢをかもくのじやう」「あぢをかもくのすけ」辺りである。

「一打留たりとなり」ママ。「一打」と「留たり」の間に「に」が脱字か誤植したものであろう。正規表現版を参照。]

フライング単発 甲子夜話卷之十七 9 岩村侯の足輕善九郞、强性の事

フライング単発 甲子夜話卷之十七 9 岩村侯の足輕善九郞、强性の事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。三つの話から成っているので、間を一行空けておいた。「强性」は取り敢えず「がうしやう」と読んだが、別に「がうせい」でも「きやうせい」「きやうしやう」でも問題ない。]

 

17―9

 蕉廬(しやうろ)實家の老臣味岡杢之允と云ふが話なりと云ふ。

 濃州岩村城下、荒市場組(あらいちばぐみ)の足輕に善九郞と云ふものあり。鳥銃(てつぱう)は時に聞えたる打手(うちて)なりしとぞ。

 大圓寺村と云ふには、昔より、首、黑く、形の白き老狐あり。
「常に人を化(ばか)す。」

とて、人々、甚だ怖るゝことなりき。

善九郞、一日、その村に行きて、處々、搜しければ、石の陰より、彼(かの)黑首の狐、頭(かしら)を出(いだ)せり。

 善九郞、大言(だいげん)して、

「おのれ、善九郞を知らずや。今、一打(ひとうち)にこそすべき者。」

とて、玉藥(たまぐすり)込め、一發するに、狐、速(すみやか)に、石の陰に頭を匿(かく)し、砲聲、止むと、また、頭を出だす。善九郞込返(こめかへ)して早打(はやうち)にするに、元の如く、石に隱るゝこと、都合、三度にして、中(あた)らず。

 その時、善九郞云(いふ)やう、

「明日の夕(ゆふべ)又こゝに來らん。必(かならず)、出(いで)よ。」

と、狐に誓ひて、去れり。

 翌日、夕方、善九郞、至れば、昨日の如く、石より、頭を出す。

 善九郞、一發すれば、又、石に隱れて、中らず。

 二發のとき、ねらひたるときの足を、組みかへて、打出(うちだ)しければ、丁(ちやう)ど、一遍、頭を隱して、又、出(いだ)す所の圖になりて、出(いづ)る頭に、其儘、中りけり。

 これより、永く、その地、狐患(こげん)を免れしとなり。

 

 又、或時、山より、狐兒(きつねのこ)を捕へて、家に歸り、調理して喫(きつ)す。

 その親狐、屋上に來りて、悲啼(ひてい)す。

 善九郞、又、

「これを、打たん。」

とて、鳥銃を持出(もちいづ)れば、狐、驚き去れり。

 それより、善九郞が妻に、狐、憑(よ)りて、種々の怪狀(くわいじやう)あり。

 醫藥・祈禱、さらに驗(しるし)なし。

 善九郞、怒りて、その妻を、角場(かくば)へ、つれ出し、[やぶちゃん注:「角場」は坂などの崖下を削って作られた鐵砲の稽古所を指す語。]

「的(まと)にして、打たん。」

とて、既に鳥銃を以て、ねらひよる。

 妻、啼き叫んで、

「免し玉へ、今、立去(たちさら)ん。」

とて、狂走しけるを、追かけて、押(おさ)へ留(と)めければ、

「只今、落行(おちゆく)くべし。但し、この後、狐に返りて、長く打つことを、赦(ゆる)されよ。」

と云(いふ)。

 善九郞、云には、

「何を以て、證(しやう)するや。」

 答ふるに、

「鳥銃にて向はるゝとき、必ず、跡脚(あとあし)を揚ぐべし。そのときは、赦さるべし。」

と請ふ。

 善九郞、然諾(ぜんだく)しければ、狐、すぐに、落ちたり。

 程へて、善九郞、殺生に出(いで)て、暮歸(ぼき)するとき、田疇(はたけ[やぶちゃん注:二字でかく讀む。])に一狐あり。

 鳥銃を以て追へば、狐は、徐々(ゆるゆる)と步(あゆみ)ながら、囘顧して、跡脚を、揚げて、示す。

 善九郞、

「合點ぢや。」

と云ひながら、打斃(うちたふ)しけり。

 その强性(がうしやう)なること如ㇾ此(かくのごとし)。

 

 又、藩士、雉子打(きじうち)に出ける野路(のぢ)にて、善九郞に逢ひ、

「今日は、いかなる日にや、一向に人を寄(よせ)ざれば、一羽も、打得ず。」

と云ふ。

 善九郞、曰(いふ)、

「『ふせて打つ』ときは、必ず、得べし。」

と。

 同行して、一所に到れば、田の中に、雉子、餌(ゑ)をはみて在(あり)しを、

「程遠(ほどとほ)かりければ、何かゞあらん。」

と、士の云ひしを、善九郞は、

「『ふせて打(うつ)』を見られよ。」

と云ひ、士を其所(そこ)に殘し置き、我(われ)一人、鳥銃に玉藥を込(こむ)るや否や、その雉子を注視して、目(ま)ばたきもせずして、進みよる。

 その雉子、立たず。遂に、

「づかづか」

と、近寄りて一打に留(とめ)たりとなり。此(この)『ふせて打(うつ)』と云(いふ)こと、何ごとかは知らねども、譬へば、猫の鼠を捕る如く、始(はじめ)より精神を凝(こら)し、見つめて、目を離さざれば、鳥も、その一念にて、立つことならぬやうになる者なる當(べ)し。鍛鍊の技になりては、神妙のことあるものなり。

■やぶちゃんの呟き

「蕉廬」お馴染みの静山友人林述斎の号の一つであろう。標題の「岩村侯」や「實家」というのは、彼の父が美濃国岩村藩主松平乗薀であったからである。寛政五(一七九三)年、林錦峯の死去で途絶えた林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与した。号は述斎の他に、蕉軒・蕉隠などがある。

「味岡杢之允」の読みは「あぢをかもくのじやう」或いは「あぢをかもくのすけ」辺りである。

「濃州岩村城」美濃国岩村城は現在の岐阜県恵那市岩村町城山に岩村城址(グーグル・マップ・データ)が残る。北西の麓の盆地が、城下町で、現在の岐阜県恵那市岩村町の中心部に当たる。

「大圓寺村」「ひなたGPS」のこちらで、「大圓寺」の地名が前注の岩村町の中心部から北東の山間への入り口附近にある。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「貴重の陣太鼓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 貴重の陣太鼓【きちょうのじんだいこ】 〔耳嚢巻二〕これも越後の者にて、在所にて身上没落して、拠(よんどころ)なく江戸へ出けるが、生業《なりはひ》にさし支へ、持来る道具類も残らず売代(うりしろ)なし、残る者は先祖より持伝へし陣太鼓一つ、箱に入れありしが、これは買請(かひう)くべき相手なきゆゑや、持居たりしを、或時張替候て奇麗にもならば、望むものも有るべしと、太鼓張職人のもとへ持参《もちまゐり》、この太鼓を拵ヘ直し、売払ひ度《たし》と申しければ、彼《かの》亭主これを見て、これは一通りの道具にあらず、古《いにし》へれきれきの人の所持と見えたり、しかれども我目には及ばず、某の師匠の許へ参り給はり候様に申して同道致し、右師匠といへるその職の頭《かしら》なるや、立出て右太鼓一覧の処、これは世に二つ三つの古物なり、払ひ給ふや、持伝へ給ふならば、秘蔵なし給へといひしが、我等先祖より伝へぬれど、段々不身上《ふしんしやう》になり、持居《もちをり》たりとも、その光輝もあらじ、これに依り払ひ申度《たき》旨《むね》申しければ、然る上は暫く待ち給へとて、勝手に入り、金子弐百両台に乗せて、この太鼓の代り、不足ながら進上申す由申しければ、案外の事ゆゑ、これ程の謝礼に及ばざる旨、申し断りけれど、さな宣ひそ、古物にはかゝる事ありと、鋲を抜きて、この通り金《きん》を埋めて鋲を打ち候事なり、右金子にて不足なくば、貰ひ請くべきと答へし故、かの田舎人も右金子請取りて、身上をもかためけると、或人の咄しけるなり。

[やぶちゃん注:私の正規表現の電子化訳註「耳嚢 巻之九 陣太鼓の事」(私の底本は宵曲のものとは別親本のため、巻数が違う)を参照されたい。]

2023/09/27

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「喜多院鐸振るを禁ず」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 喜多院鐸振るを禁ず【きたいんすずふるをきんず】 〔甲子夜話巻五十二〕或人語る。仙波の喜多院は境内に十六坊あり。然るに寺内にて鐸(レイ)を振る間鋪《まじき》との制札建てあり。かゝれば寺内の者は皆々心得て有れど、回国の行者など知らずして、寺内に於て仏前の拝礼などに鐸を振へば、寺坊か、または門前の民家に必ず火《ひ》発して禍《わざはひ》を為す。これ故に寺内にこれを禁ずと云ふ。如何なるゆゑ有て然る乎《か》。 〔同巻五十三〕前に第五十二巻に喜多院にて鐸を振るを禁ずることを云ふ。然るにまた異聞あるは、天海僧正住持のとき、如何なる故にや、庭前に蛇出ること有れば、必ず食を与へらる。因《よつ》て鐸を振《ふり》て呼ぶときは蛇即ち来る。これより歳霜《さいさう》を歴《へ》て蛇漸々《やうやう》大きくなり、出《いづ》るときは即ち護摩壇の辺に及ぶ。然る故に加持修法等のとき、鐸を振ること能はず、因て禁と為すと云ふ。茲《ここ》を以て火の禍あると云ふもの不審にして、蛇の為に禁ずること然る歟《か》。

[やぶちゃん注:事前に、正字表現で注も附した「フライング単発 甲子夜話卷之五十二 13 仙波喜多院鐸を禁ず / 甲子夜話卷之五十三 2 喜多院禁鐸【再起】」を公開してあるので参照されたい。]

フライング単発 甲子夜話卷之五十二 13 仙波喜多院鐸を禁ず / 甲子夜話卷之五十三 2 喜多院禁鐸【再起】

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。これは別々な巻に載るものだが、第一話での疑問を受けて、第二話は、再度、自身でその疑問に答えようと、起筆・追加されたものである。されば、特異的にカップリングして示すこととした。]

 

52-13

 或(ある)人、語る。

「仙波(せんば)の喜多院は、境内に十六坊あり。然るに、寺内にて、鐸(レイ[やぶちゃん注:珍しい静山のルビ。])を振る間鋪(まじき)との制札、建てあり。かゝれば、寺内の者は、皆々、心得て有れども、囘國の行者など、知らずして、寺内に於て、佛前の拜禮などに鐸を振へば、寺坊か、又は、門前の民家に、必ず、火(ひ)、發(はつ)して、禍(わざはひ)を爲す。是故(これゆゑ)に、寺内に、これを禁ず。」

と云ふ。

 何(いか)なるゆゑ有(あり)て然(しか)る乎(か)。

■やぶちゃんの呟き

「仙波の喜多院」「川越大師」で知られる、現在の埼玉県川越市小仙波町(こせんばまち)にある天台宗の星野山(せいやさん)喜多院(グーグル・マップ・データ)

 

53―3

 前に、第五十二卷に、「喜多院にて鐸(レイ)を振るを禁ずること」を云ふ。

 然(しか)るに、又、異聞あるは、天海僧正、住持のとき、何(い)かなる故にや、庭前(ていぜん)に、蛇、出ること有れば、必ず、食を與へらる。

 因(よつ)て、鐸を振(ふり)て呼(よぶ)ときは、蛇、卽ち、來(きた)る。

 これより、歲霜(さいさう)を歷(へ)て、蛇、漸々(やうやう)大きくなり、出(いづ)るときは、卽(すなはち)、護摩壇の邊(へん)に及ぶ。

 然(しか)る故に、加持修法等のとき、鐸を振ること、能はず。因(よつ)て禁と爲すと云ふ。茲(ここ)を以て、火の禍あると云ふもの、不審にして、蛇の爲に禁ずること、然る歟(か)。

■やぶちゃんの呟き

「喜多院禁鐸」これは現在も、基本、生きている。サイト「川越水先案内板」の「徳川家ゆかりの地 喜多院と、伝説の七不思議めぐり」の第一に「山内禁鈴」が挙がっている(アラビア数字は漢字に代えた)。最初に写真があるが、「鰐口(わにぐち)」にも鳴らすために下に下がるはずの「鉦(かね)の緒(お)」がなく、鰐口の上部も、縄で括られているのが判る。

   《引用開始》

「喜多院の境内では、鈴を鳴らしてはいけない」という伝説です。

昔々、喜多院に現れた一人の美女が、和尚さんにこんなお願い事をしました。

「今日から百日間、お寺の鐘を撞かないと約束してください。もし約束を果たしてくれたら、この鐘をもっと立派な音色にしてさしあげます」

その様子があまりにも熱心だったため、和尚さんはお願いを承諾します。

鐘を撞かなくなってから九十九日目。

今度は物静かで麗しい女性が喜多院を訪れ、和尚さんにこう告げました。

「今夜一夜だけでも構いません。どうか寺の鐘をお撞きになって、私に音色を聞かせてください」

女性の気高い雰囲気に魅せられた和尚さんは申し出を断ることができず、言われるがまま鐘を撞いてしまいました。

すると、和尚の目の前にいた女性はみるみるうちに大きな竜へと姿を変え、雲を呼び、風を起こし、和尚さんを天高く吹き飛ばしてしまったのです。

和尚さんは嵐の中で独楽の様に九十九回も回された挙句、どうにか着地。

この事件が起きて以来、喜多院では鐘を撞くことが禁止されました。

現在は正安二年の銅鐘のみ、年に一度だけ除夜の鐘として撞かれています。

   《引用終了》

以上の話の中で、「竜」が出る。一般に、竜の昇天する以前の元は蛇類であるとされるから、親和性があるとは言える。また、龍のサイトとしては、最も信頼している「龍鱗」に、「山内禁鈴・怒った大蛇 埼玉県川越市」として、池原昭治氏の著「続・川越の伝説」(川越市教育委員会)より要約されたものが出る。

   《引用開始》

昔、喜多院の何代目かの住職で、たいそう蛇好きな人がいた。毎日鈴を鳴らして餌をやったので、蛇たちも鈴の音を楽しみにしていた。蛇たちは喜多院はもちろん人家にも決して迷惑はかけなかった。ところが、この住職さんが病に倒れ、帰らぬ人になってしまった。

そして、その後住職となった人は、蛇と聞くだけで寝込んでしまうほどの蛇嫌いで、寺のものは気を使って鈴を鳴らさなかった。そうするうちに蛇たちは飢えて死に、あるいは他に移り、長い年月が過ぎて、ただ一匹だけが残った。

そんなとき、喜多院に物売りがやって来て、鈴を鳴らして山内に入って来た。途端に一匹の大蛇が飛び出し、人々は腰を抜かさんばかりに驚き逃げ去った。大蛇は鈴の音に餌がもらえるものと喜び飛び出したのに、食べるものは何もなく、怒って大暴れをした。

それより、喜多院の山内では鈴を鳴らすことが固く禁じられ、寺にある鈴には、決して振り子をつけないようになったという。

   《引用終了》

「天海僧正、住持のとき」慶長四(一五九九)年、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第二十七世住職として入寺し、寺号を元の無量寿寺北院から喜多院と改めた。川越藩主となった老中酒井忠利は喜多院の再興に当たっている。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「奇石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 奇石【きせき】 〔九桂草堂随筆巻八〕先兄[やぶちゃん注:亡き兄。]棣園《ていゑん》、余<広瀬旭荘>と同じく江戸四日市にて、水晶中に水あると青草あるとを買へり。水は転倒に従うて上下し、草は藻の類《るゐ》にして、青色《あをいろ》真物《しんぶつ》よりも美なり。明の王延喆(《わう》えんてつ)なるもの豪士なり。或人《あるひと》琥珀の中に蜘蛛《くも》の形ちあるを持ち来りて、百金に売らんと云ふ。延喆蜘蛛生《い》けりやと云ふ。生けるに違《たが》ひなしと答ふ。乃《すなは》ち賭《かけ》にして砕《くだ》きしに、蜘蛛躍り出て、机上を遶《めぐ》ること数返《すへん》、風《かぜ》に逢ひて水と化《け》すと記に見えたり。洋人の説に、物は気をとづれば即ち死す、併し気の洩れざる処は千歳を経ても腐れずと云ふ。今思ふに水晶の中は気《き》通せざるなるべし。その生けるが如きは勿論なり。破りて後なほ生きたるは何の理《ことわり》ぞや。洋人は必ず詐《いつは》りならんと云ふべし。南唐の李後主《りこうしゆ》の硯《すずり》のさけて、中より小魚《こうを》躍り出て、而して死すとあり。また近江の人の蔵せし石《いし》中《なか》に二小魚あり。破りしに魚出で、暫く躍りて死し、常に異なることなしと聞けり。理の必ずなきところにして、事の或ひはあるもの、洋人は何と云はんや。

[やぶちゃん注:「九桂草堂随筆」広瀬旭荘(ぎょくそう 文化四(一八〇七)年~文久三(一八六三)年)の随筆。彼は儒学者で漢詩人。豊後国日田郡豆田町(現在の大分県日田市)の博多屋広瀬三郎右衛門桃秋の八男として生まれた(兄の淡窓も知られた儒学者で漢詩人である)。生来、記憶力が抜群に良く、師亀井昭陽に「活字典」と称えられ、交遊を好んで各地に旅をした。勤王の志士との交わりも知られ、蘭学者も多くその門を訪れている。詩作にすぐれ、詩文の指導には規範を強いず、個性を尊重した。清代末期の儒者兪曲園は旭荘のことを「東国詩人の冠」と評している。著述も多く、とくに二十七歳から始めて死の五日前まで書き続けた日記「日間瑣事備忘(にっかんさじびぼう)」は江戸後期の貴重な資料とされる(以上はウィキの「広瀬旭荘」に拠った)。「九桂草堂随筆」は安政二(一八五五)年~同四(一八五七)年成立で、大阪で書かれた。(安政二(一八五五)年~同四(一八五七)年成立)は大阪で書かれた。国立国会図書館デジタル化資料の国書刊行会大正七(一九一八)年刊「百家随筆」のここで、正規表現で視認出来る。

「先兄棣園」旭荘の長兄で、やはり儒学者・漢詩人として知られた広瀬淡窓(たんそう 天明二(一七八二)年~安政三(一八五六)年十一月二十八日)のこと。当該ウィキを見られたい。そこには「棣園」の号はないが、別なネット記事で字(あざな)を「棣芳」とあった。

「江戸四日市」兄の成年から、現在の中央区日本橋一丁目(グーグル・マップ・データ)にあった元四日市町(もとよっかいちちょう)であろう。しばしばお世話になるサイト「江戸町巡り」の「【日本橋①024】元四日市町」に町名の経緯が記されてある。そこには古くは、『毎年四の日に市が立ったという』。『古くからの市の面影は』その後も『残り、草物、野菜、乾魚等の市が立ち賑わった』。『日本橋川に面した河岸に四日市河岸の他に、木更津通いの舟の発着する「木更津河岸」、切花を陸揚げする「花河岸」等があった』とある。されば、この「四日市」は町名ではなく、その「市(いち)」を指していると言うべきであろう。

「王延喆」(一四八三年~一五四一年)は本貫は現在の江蘇省蘇州。明朝の政治家。大変な愛書家であったことで有名。

「洋人」長崎出島のオランダ人。

「南唐の李後主の硯のさけて、中より小魚躍り出て、而して死すとあり。また近江の人の蔵せし石中に二小魚あり。破りしに魚出で、暫く躍りて死し、常に異なることなしと聞けり」「李後主」は十国南唐(江南)の第三代にして最後の国主であった李煜(りいく 九六一年~九七六年)。これに似た話は、先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「魚石」』を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鱚釣の竿」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鱚釣の竿【きすつりのさお】 〔反古のうらがき巻一〕きす釣は工拙によりて獲物多少あれば、釣道具釣竿に至る迄、むつかしき物なり。近来は左程迄むつかしき事もなく、多く涌《わ》きたる年は、はぜ同様に釣ることもあれども、一体釣りにくき物なり。故に釣竿の好《よ》きを選みて、争ひて買ふに、価《あたひ》一竿金一歩も出るよし、これを持《も》て出《いづ》れば、衆にすぐれて獲物《えもの》ある事なり。されども此の如きは稀にて、皆三四匁位にて事を済す者多し。獲物はその日の日並によりて、大体には獲物あることぞかし。或士釣を好みて、道具も相応なるを用ひ、獲物も相応に有りて、一日快く楽しみ、酒など取出《とりいで》て数盃を傾け、気げん一倍して釣りけり。品川沖を東へと釣り行きけるに、手ごたへして引上げるに、釣ばりとおもりと一具かゝりたるにて、魚はなし。その儘に引上げて、段々と引くに、糸つきて竿出たり。またこれを引くに、余程よき竿にて、高金の道具も見ゆる。大事に引上げ、竿の元に至れば、堅く握り詰めたる片腕見えたり。その人も興醒めて見えしが、酒の力にか、胆《きも》太くもその腕をとらへ、余り好き竿なればおれがもらふと言ひざまに、腕を引離《ひきはな》ち突きやりて、船を早めて乗りかへしけり。よくよく見るに勝れし釣竿にて、つり合よし。思ふにこの人高金《たかがね》にて求めしが、如何してか過ちて溺死するといへども、この竿の借しさに、堅く握りて死けると思へば、吾も人も同じ物好きの余り、命を落すといへども、執著《しふじゃく》するならんとて回向《ゑかう》して、矢張この竿を用《もちひ》て釣りに出《いづ》るよし、語り伝へしを聞ける。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 きす釣」を参照されたい。かなり入れ込んで注をしてある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「奇子を産む」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 奇子を産む【きしをうむ】 〔耳囊巻一〕文化五辰の夏、原田翁語りけるは、麹町<東京都千代田区内>辺の由、町人の女房、血くわいを煩うて、暫くなやみけるが、或日頻りに腹痛いたし苦しみける。夥しく血を通し、右血は綿の如く玉の如くかたまりし。その数多《あまた》通しける内、何かうごきてはひ出るものありしを、夜伽《よとぎ》なる老女、その婦人の驚かんを恐れて、いそがしきに紛れ、服紗《ふくさ》やうのものに包みて、ふとんの下に押入《おしい》れて、さて婦人を介抱して、病気は快かりしに、医師の来りけるとき、別間にその容体を聞ける時、かの老女右怪物を産みしを語り、さてよく洗ひて見しに、僅かに二寸ばかりの物なりけるが、人体《じんたい》聊かかはる事なく、五体そなはらざる処なし。誠に奇なりとて、右の医師これをもらひて、人にも見せける。その人の名もしれけれど、隠してかたらざりしが、右の訳《わけ》森見隆の弟子某《なにがし》療治なし、徳田長伯も右出生の品《しな》見候由、見隆の語りしとなり。

[やぶちゃん注:私のものでは、「耳嚢 巻之八 奇子を産する事」で、正字表現である。注もそちらを参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「紀州屋敷怪談」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 紀州屋敷怪談【きしゅうやしきかいだん】 〔半日閑話巻十五〕文化十三子年七月下旬頃、咄しに承り候へば、喰違《くひちがひ》紀州御屋鋪内御門《うちごもん》にて、或時詰居候《つめをりさふらふ》門番、ふと咽《のど》をつき[やぶちゃん注:「咽喉の具合が悪くなり」の意か。]候ゆゑ、次の間へ出で湯をのみ候処、いづこよりか女出て、肩を喰ひ付き死す。この声に驚き、両人右の処へ出《いづ》れば、この者もその女の為に喰殺《くひころ》さるとぞ。その後また御長屋にて子供を枕蚊屋《まくらがや》の内へ休ませ置きし処、その行処《ゆくゑ》を不ㇾ知《しれず》失せたり。蚊屋はその儘にて少々も破れも不ㇾ見《みえず》、依《よつ》て夫婦驚き早々探しけれども不ㇾ知、翌日隣家縁の下より、右の子供死骸出《いづ》ると、隣家の者物語りしよし、秋田源八郎語ㇾ之《これをかたる》。

[やぶちゃん注:「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題はそのままで『○紀州屋敷怪談』である。

「喰違」塀が、一続きでなく、互い違いになるように作ってあることを言うが、ここはは、江戸城外郭城門の一つである四谷門と赤坂門との間にあった喰違門(くいちがいもん)。清水坂から紀州家中屋敷に行く喰違土手の前に当たることからの名であるとされる。

「紀州御屋鋪」紀伊和歌山藩徳川上家屋敷跡は現在の東京都千代田区紀尾井町にあった。千代田区観光協会のサイトのここで位置が確認出来る。

「内御門」屋敷内にも門があり、そこに番人を置いた長屋門であろう。

「枕蚊屋」子どもなどの枕元を覆う小さい蚊屋。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「義犬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

        

 

 義犬【ぎけん】 〔甲子夜話巻卅一〕筑前秋月の城下より一里程にして、松丸と云ふ処に十国峠と云ふ山あり。爰に古墳三あり。云ふ、一は猟夫、一はその婦、一は猟犬の墓と。そのゆゑは嘗て猟夫此処に休らひ居たるに、この犬猟夫に向ひ頻りに吠えて止まず。猟夫怒りを発し鳥銃を以て打ち殺す。そのあとにてふと頭上を見れば、蟒(うはばみ)樹上より臨みて猟夫を呑まんとす。犬はこれを告げたるなり。猟夫始めて犬を殺せるを悔い自尽せりとぞ。妻もまたこれを慕ひ遂に死す。その墓なりと云ふ。(秋月の士僧となり、大道と云ひしが談なり)またこれに似たることあり。吾領内相神浦中里村と云ふより東行道の傍に小堂あり。(吉岡村と云ふ処)これを犬堂と呼ぶ。その中には石を重ねたるのみにて他物なし。堂はこれが為に建てたるなり。その故は嘗て猟夫あり、夜鹿を打ちに山に往く。鹿の来るを待ちて睡を催したるに、率ゐ行きし犬は頻りに吠えて喧し。叱れども止まず。猟夫腹をたて、即ち犬の首を斬り落したれば、その首飛揚ると見えしが、乃ち仰ぎ見れば大なる蟒、樹上より垂れ下りたるその喉にくひつき、蟒これが為に死《しに》たりとなり。猟夫因てその怒りを悔い、且つ犬を憐み、埋《うづみ》てこの堂を建てしとなり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之三十一 12 獵犬の忠心二事」で正字表現で電子化注しておいた。後半に附した注も参照のこと。]

〔窓のすさみ〕ある士野行して暮れかゝる頃、労(つか)れければ樹下の石に腰かけて休み居けり。飼ひける犬跡につきて来りけるが、側にそひ居たりやゝ有りて睡《ねぶ》りければ、かの犬起きあがり、一声吠えて喰ひ付く気色なれば、士目さめて、この狗われを喰ふべきにやと心附きしかば、空眠《そらねぶ》りをしたるに、また起きあがる所を、抜打に切りければ、首飛びて梢に上りつ。不思議と思ひてふりあげ見れば、樹上にうはゞみの大なるが、下をのぞき居たる咽《のんど》に喰ひ付きて、共に死せりけり。これ士を喰はんとのぞきかゝる所を、狗《いぬ》の見附けて防がんとせしが、切られけれど、勢気《せいき》のあまり、思ひ込みたる所へ、直《ただち》に喰付きたるなりけりと、思ひ知りしかば、彼が心を感じ、足ずりをして悔みけれどもかひなく、泣く泣くこれを懇ろに埋めて、為に塚を築きしとぞ。主の急を見て救はんとせしを知らずして、かヘつて疑ひ殺したるは大なる誤りにや。君臣の間、兄弟の中、朋友の交りにも、このたぐひ多し。

深く思ふべき事こそ。<『江戸著聞集巻五』薄雲の猫の話も畧〻これに同じ>

[やぶちゃん注:実は、「柴田宵曲 妖異博物館 蟒と犬」で、前の話も含めて、宵曲が紹介しており、それらの原文その他も示してあるので、是非、そちらを見られたい。]

フライング単発 甲子夜話卷之三十一 12 獵犬の忠心二事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。二話構成なので、間を一行空けた。]

 

31-12

 筑前秋月の城下より、一里程にして、松丸と云(いふ)處に、十國峠と云(いふ)山あり。

 爰(ここ)に、古墳、三(みつつ)あり。

 云ふ、一(いつ)は、獵夫(れうふ)、一は、その婦、一は、獵犬の墓と。

 そのゆゑは、嘗(かつ)て、獵夫、此處に休らひ居《ゐ》たるに、この犬、獵夫に向ひ、頻(しきり)に、吠(ほえ)て、止まず。

 獵夫、怒(いかり)を發し、鳥銃(てつぱう)を以て、打殺(うちころ)す。

 そのあとにて、ふと、頭上を見れば、蟒(うはばみ)、樹上より臨みて、獵夫を、吞(のま)んとす。

 犬は、これを、告(つげ)たるなり。

 獵夫、始(はじめ)て、犬を殺せるを悔ひ[やぶちゃん注:ママ。]、自盡(じじん)せりとぞ。

 妻も亦、これを慕ひ、遂に死す。その墓なりと云【秋月の士、僧となり、大道と云(いひ)しが談なり。】。

 

 又、これに似たること、あり。

 吾領内、相神浦(あいこのうら)中里(なかざと)村と云(いふ)より、東、行(ゆく)道の傍(かたはら)に小堂あり【吉岡村と云(いふ)處】。

 これを「犬堂(いぬだう)」と呼ぶ。

 その中には、石を重ねたるのみにて、他物、なし。堂は、これが爲に、建(たて)たるなり。

 其故は、嘗(かつて)、獵夫あり、夜、鹿を打(うち)に山に往(ゆ)く。

 鹿の來(きたる)を待(まち)て、睡(ねぶり)を催(もよほし)たるに、率(ひき)ひ[やぶちゃん注:ママ。]往(ゆき)し犬は、頻りに吠(ほえ)て、喧(かまびす)し。

 叱れども、止まず。

 獵夫、腹をたち[やぶちゃん注:ママ。]、卽(すなはち)、犬の首を斬落(きりおとし)たれば、その首、飛揚(とびあが)ると見へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、乃(すなはち)、仰見(あふぎみ)れば、大なる蟒、樹上より、垂れ下(さが)りたる、その喉(のどぶえ)に、くひつき、蟒、これが爲に死(しに)たりとなり。

 獵夫、因(より)て、その怒りを悔ひ[やぶちゃん注:ママ。]、且(かつ)、犬を憐み、埋(うづみ)て、この堂を建(たて)しとなり。

■やぶちゃんの呟き

「筑前秋月の城」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「松丸と云處に、十國峠と云山あり」この「國峠と云山」は、現在の「十石山」である。「ひなたGPS」のこちらで、「松丸」と「十石山」を、戦前の地図と、現在の国土地理院図の両方で確認出来る。そして、サイト「邪馬台国大研究」の「青春の城下町 秋月氏時代」のページ二、「十石」の名の由来とともに、何んと! 現存するこの三基の石塔の写真が載る! 是非、見られたい。

「相神浦中里村」「吉岡」「ひなたGPS」のこちらで、「相浦」と「中里村」(現在は長崎県佐世保市中里町(なかざとちょう))と「吉岡」(現在は同市吉岡町(よしおかちょう))の地名を、戦前の地図と、現在の国土地理院図の両方で確認出来る。しかも! 山のしんたろう氏のブログ「させぼばってん」の「犬堂観音堂の六地蔵 吉岡町」で、この「犬堂観音堂」跡の記載があり、現在、二基の地蔵像の写真が見られる! これも、必見!

2023/09/26

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「神田社神霊」 / 「か」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「か」の部は終わっている。]

 

 眼病と猫【がんびょうとねこ】 〔真佐喜のかつら〕神田久右衛門町に大工某なる者、妻は世を去り、独り暮しにありつるが、男猫《をすねこ》を飼ひ置き愛し、日日稼ぎに出る時は、その一日の食物を手当し置き、夕刻戻りには途中より人に土産持帰るやうに、猫のくふべき物を求めて戻る。その者ふと眼病をわづらひ、いたみ堪へがたく、医にみすれば悉く難病にて治《ぢ》しがたきよしにて、日を追《おひ》て自《みづか》ら猫にあたふべき魚類も求め兼ねければ、或夜猫に向ひ、これ迄久しく飼ひ置き、我くふべき物も汝にあたへけれど、かく眼病にて苦しみ、とても治しがたき様子なり。されば汝に物あたふべき手当もなく、いたはしき事ながら、いかにすべきと、人に物いふごとくくどき、果《はて》は眠りけるか、猫頻りにその者の両眼を舌にてなめければ、ふと目覚めて驚ろきけるが、それより夜となく昼となく、猫両眼をなめければ、不思議や眼病次第に快方なし、終《つひ》に一眼は治したり。その頃よりかの猫の一眼つぶれ、後《のち》いづ方《かた》へ行きしや戻らず。されば彼《かの》者猫の出《いで》たる日を命日となし、経を唱へて香花《かうくわ》を手向《たむ》けなどせしと、近き辺《あたり》の者かたりぬ。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから、正規表現で視認出来る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「神田社神霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 神田社神霊【かんだしゃしんれい】 〔思出草紙巻一〕江戸の神田大明神<東京都千代田区内>は、人皇四拾五代聖武天皇天平二年庚午鎮座あり。往古《むかし》は神田とて、武蔵の一ケ国に、二ケ所三ケ所の御田《おた》有りて、天照大神へ初穂の神供を納む。当国は豊嶋郡芝崎村にあり。大己貴尊(おほなむちのみこと)は五こくの神なれば、其所に於てこの神を祭るなり。平親王将門が霊を祭る事は、人皇六十一代朱雀院天慶三庚子年二月十四日、平の貞盛が矢に当りて、藤原秀郷の子藤原千晴《ちはる》が、武蔵国多摩郡中野ケ原<現在の東京都中野区>に出張して戦ひ、千晴が為に死す。中野の古戦場に、その猛気《まうき》止《とどま》りて、人民を煩はしむる事数年《すねん》なり。延文の頃、一遍上人が二代の真教坊は、当所遊行の時に、村民、この事を思はるゝに依て、将門の霊を相殿《さうでん》に祭りて、神田大明神と二座にするよし、旧記に残れり。今は大己貴尊には地主《ぢしゆ》の神として、末社の諸神と同じく小社にして、これを知れる人も少《すくな》く、只神田といへば、将門が霊神のみ唱へて、世の人に思ひ寄らぬ霊験いちじるく、感応も世に類ひなし。今佐野家は田原秀郷が子孫にして、今は神田の社に参詣なす事を禁ず。既に御旗本の佐野右兵衛尉が御側勤仕《おそばごんし》の折からなどは、神田祭礼九月十五日は、佐野登城御門断《ことわり》て、明七ツ時<午前四時>出仕あつて、神輿(みこし)に行合はざるためにして、祭礼の上覧所の御供も御断り申上る程の事なり。そのとき、屋舗は小川町<東京都千代田区内>にして、祭礼通行の片はらなりしが、祭り渡れる日は、門戸を閉ぢて出入を禁じ、家来の男女《なんによ》、常々神田明神の社前をば決して通らず。若し通る時は忽ちその身に災ひを請《うく》る。譜代の家臣等は、神田の社はいかなる宮造りなるや一向知らず。一季居《いつきをり》の下人召抱へる節は、請状《うけじやう》に書入《かきい》れて、神田の社前通行させまじきとぞいましむるなり。これ往古《むかし》に、秀郷の為に討たれたる忿怒の霊のたゝりある事思ふべし。安永年中、小日向<東京都文京区内>に神田織部といへる御旗本の士ありしが、大御番勤仕なり。この神田氏は、相馬と同姓にして、則ち将門が末葉にて、紋所は繫ぎ馬なり。相番に佐野五右衛門とて、湯嶋辺に住居の人ありしが、或とき、佐野五右衛門所々勤めの戻り、織部が方に立よりぬるに、古番の事なれば、馳走いふばかりなく、酒宴となり酩酊して、佐野がいはく、兼々聞き及びぬる、これより程近き赤城明神の社地に、色売る家の余多(あまた)あるよし、案内し玉へ、斯(かか)る折ならでは立寄りがたし、よき序《ついで》にあらずや。神田織部大いに悦び、元より好むみち芝の、露いなむ色なく、酒興に乗じて申しけるは、これ甚だ妙なり、いざさらば案内し候はん。佐野も限りなく悦び、供に連れしものは残らず帰し、連立ち出づるなり。佐野がいはく、我既に肩衣のまゝにて羽織なし、何とぞかし玉へ。神田がいはく、いかにも羽織なくては叶ふまじとて、常々著しぬる黒ちりめんに、繫ぎ馬の紋付たる綿入羽織をかしければ、これを著して連立ち行きしが、黄昏《たそがれ》過《すぐ》る頃、赤城に至り、かねて知る柏屋といふ茶やの楼に上りて、遊女を呼び酒宴に興を催しつゝ暫く刻《とき》をうつしける折に、五右衛門俄かに総身発熱して、全身の汗の出る事滝の如く、顔色変じて気絶す。一座の各々(おのおの)大いに驚き、医師を呼び、薬服用なさしめけるが、その騒動いふばかりなく、看病保用するといヘども、更に以て快気の様子も見えねば、その興も尽きて、今は斯ても有るべき事ならねば、駕籠をやとひて佐野を助け乗らしめ、その夜半過、織部付きそひ湯嶋の宅に同道し、深夜の夢を破りて、音信ありし事どもを申述べしかば、家内大いに驚き周章さわぎ、早そく病床に佐野を誘ひ、俄かに医師を招きなど、さうどう大かたならず。神田織部もそこそこに暇《いとま》を乞ひ帰りしが、様子心元なく、その夜の明《あく》るを待ちて、早朝見舞ひけるに、佐野直ちに立出て、さり気もなき体《てい》にて対面せしまゝ神田その全快を賀したるに、佐野がいはく、さてさて驚き入《いり》たる事の有り、夜前の不快うつうつとして心気《しんき》絶するが如く、総身燃ゆるにひとし。前後忘却したるに、駕籠に乗りしまで更に覚えず、その後は夢の如くなりとて、子細は借用の羽織を取るとひとしく病気快然たり、思ふに貴公の定紋付《つき》たる羽織を我《われ》著せしに依て、先祖の霊神の咎《とが》を請けしと見えたり、恐しき事なり。神田織部、これを聞きて大いに驚きけるとなり。千歳の今に至つて、その霊斯《かく》のごとく敵の末孫にたゝりある事は、誠に神国のしるしありがたき事にこそ。

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○神田社神靈の事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから視認出来る。]

2023/09/24

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「棺上の白無垢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 観相奇談【かんそうきだん】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻一 〕或人語りけるは、浅草<巻一東京都台東区内>辺の町家に居る相人、甚だその術に妙を得たり。予<根岸鎮衛>が友人もその相を見せけるに、不思議に未前を言ひ当てけると咄しき。爰に椛町<東京都千代田区内>辺に有徳たる町家にて、幼年より召仕ひ、手代迄に取立て、店の事も呑み込みて実躰《じつてい》に勤めける故、相応に元手金をも渡し、遠からず別株にも致し遣はさんと心掛けしに、或日かの手代右相人《さうにん》の元へ来りて相を見せけるが、相人の曰く、御身は生涯の善悪など見る沙汰にあらず、気の毒には来る年の六月には果して死し給はんと言ひければ、彼者大いに驚きけるが、なほまた右相人委細に見届け、兎角死相ありと申しければ、強ひて実事とも思はねど、礼謝して帰りけるが、兎角心に掛りて鬱々として楽しまず、律儀なる心より一途に来《きた》る年は死なんとのみ観じて、親方へ暇《いとま》を願ひける。親方大いに驚き、如何なる訳有りてとせちに尋ねけれど、さしたる訳もなけれど、出家の志あればひらに暇を賜はるべしと望みし故、然らば心掛け置きし金子をも遣はすべしと言ひけれど、本より世を捨てる心なれば、若し入用《いりよう》あらば願ひ申すべしとて一銭をも請けず。貯へ置きし衣類など売払ひ小家を求め、或ひは托鉢し、また神杜仏閣に詣で、誠にその日限りの身と、明暮《あけくれ》命の終るを待ち暮しけるが、或日両国橋を朝とく渡りけるに、年頃廿ばかりの女、身を沈めんと欄干に上り手を合せ居《をり》しを、かの手代見付け引下《ひきおろ》し、如何なる訳にて死を極めしやと尋ねければ、我が身事は越後国高田在<現新潟県高田市>の百姓の娘にて、親も相応に暮し侍るが、近きあたりの者と密通し、在所を立退き江戸表へ出、五六年も夫婦暮しけるが、右男よからぬ生れにて身上《しんしやう》も持崩《もちくづ》し、かつかつの暮しの上、夫なる者煩ひて身まかりぬ、しかるに店賃《たなちん》其外借用多く、つぐのふべきたつきなけれど、我が身親元は相応なる者と聞きて、家主その外借金方より、負ひの分済《すま》し候様、日々にせめはたりぬ、若気の至りにて一旦国元を立退きたれば、今更親元へ顔も向けられず。死を極めしなり、見遁《みのが》して殺し給へと泣々語りければ、右新道心もかゝる哀《あはれ》を聞捨《っききす》てんも哀れなり。右店賃借用の訳も細かに聞きけるに、纔かの金子故、立帰り親方へ、ケ様ケ樣の事なり、兼ねて賜はるべき金子の内、我が身入用はこれなき故、彼《かの》女に貸し給はるべしと歎きければ、親方も哀れと思ひ、右金子の内五両程遣はしければ、右の金にて諸払ひ致させ、店を仕舞はせ、近所の者を頼みて委細の訳を認(したた)め、書状を添へて娘を在所へ送り遣はしければ、右親元越後なる百姓は身元厚く、近郷にて長《をさ》ともいへる者故、娘の再び帰り来りしを悦び、昔の勘気をゆるし、送りし人をも厚く礼謝し、右青道心の元へもかきくどきて礼をなしつるとなり。これはさて置き、来る年の春も過ぎ、夏もやゝ八月に至り、水無月<六月>祓ひすみけれども、青道心の身にいさゝか煩はしき事もなく、中々死期の来るべしとも思はれねば、さては相人のはとのかひ<鳩の飼>に欺《あざむ》かれける口借しさよと、親方へも一部始終有りの優に咄しければ、親方も大きに驚き、汝が律儀にて欺されしは是非もなし、かの相者の人の害をなせる憎さよ、我《われ》かの相者に逢ひて、せめては恥辱を与へ、以来外々《ほかほか》のため見懲《みごらし》にせんと、青道心を連れて相者《さうじや》の元へ至り、右道心をば門口格子の外に残し置き、さあらぬ体《てい》にて案内乞ひ、相人に対面し、相を見て貰はんため来りしと申しければ、相人得《とく》とその相を見て、御身の相何もかはる事なけれど、御身は相を見せに来り給ふにあらず、外に子細有りて来り給ふなるべしと、席を立ちて表の方《かた》を見、右青道心の格子の外に居しを見て、さてさて不思議なる事かな、こなたへ入り給へと、右道心の様子を微細《みさい》に見て、御身は去年《こぞ》の冬我が相しけるが、当夏迄には必ず死し給はんと言ひし人なり、命めでたく来り給ふ事、我が相学のたがひならん、内へ入り給へと、座敷へ伴ひ天眼鏡に写し、得と観相し、やゝ考へて、去年見しにさして違《たが》へる事なきが、御身は近き頃人の命か、または物の命を助け給へる事の有るべし、語り給へと言ひけるまゝ主従大きに驚き、両国にて女を助けし事、それよりの始終、くはしく語りければ、全く右の慈心より相を改めしなり、この上は命恙なしと横手を打ちて感心しける。主人も大いに飲び、右手代に還俗させて、越後へ送りし女子を呼下《よびくだ》し夫婦となり、今まのあたり栄え暮しけるとなり。

[やぶちゃん注:私の電子化(訳注附き)「耳嚢 相學奇談の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「棺上の白無垢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 棺上の白無垢【かんじょうのしろむく】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻三〕当時昇進して諸大夫席勤めたる人、その以前布衣なりし頃、上野へ至りて帰りに、下谷広小路<東京都台東区内>にて葬礼に行逢ひしに、大風にて棺上に掛けし白無垢、風に翻飛《ほんぴ》して彼人の乗輿の上へ落ちけるに、葬礼の輩は大いに驚き、一言の詞《ことば》にも及ばず、足を早めて逃去りぬ。駕龍脇の家来も大いに驚き、憎きもの哉と憤り、追駈けんとせしに、その主人これを制して、右白無垢を途中に捨帰らんやうもなければ、我宿に持帰りければ、家内の者、忌はしき由申し罵りけるを、これはさにあらず、我等当年は果して諸大夫の御役にもすゝみなんとて、殊の外悦び祝しけるが、はたしてその年白無垢を著て、諸大夫の御位にすゝけるとなり。物は吉瑞も有るものかや。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之三 吉兆前證の事」で正規表現・訳注附きを見られたい。但し、原本では、二話が語られており、以上は、その前半の話である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「元日の化物」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 元日の化物【がんじつのばけもの】 〔江戸塵拾〕浜町新庄家の屋敷にて、毎年正月元日未明に表門を開くに、その丈七尺ばかりの山伏、兜巾《ときん》・篠掛《すずかけ》・金剛杖《こんがうづゑ》を持ち、笈《おひ》をせおひて玄関の前に至ると姿は見えず。この事《こと》今も替らず、つねに出る事なしといへり。家中に凶事のあらん年は、はなはだ悦べる顔色にていり、吉事あらん年は怒れる顔色にて入る。世にさまざま化物の品《しな》多けれども、かやうに確かなる化物、外に聞き及ばず。

[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 大山伏」の注で、正規表現の原文を電子化してある。

「江戸塵拾」「小豆洗」で既出既注。

「浜町」現在の東京都中央区日本橋浜町(グーグル・マップ・データ)。

「新庄家」「江戸塵拾」の刊行(明和四(一七六七)年)から考えて、常陸麻生藩第八代藩主新庄直隆(寛政四(一七九二)年没)。彼は享保二〇(一七三五)年に家督を継いでいる。]

2023/09/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「関羽の像」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 関羽の像【かんうのぞう】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕寛政八年、番頭を勤仕《きんし》なしける坪内美濃守物故せしが、彼《か》家には御朱印の内へ御書加への同苗家来、無役にて知行美濃に住居せしが、美濃守物故跡式の儀に付き、右の内坪内善兵衛とかいへる者、江戸表へ出て、親族に小石川辺<東京都文京区内>の与力を勤めける者有りて、彼方へ滞留して日々番町鹿<東京都千代田区内>の主人家へ通ひけるが、或夜の夢に、一人唐冠著せし異国人と見ゆる者来りて、我は年久しく水難に苦しみて難儀なれば、明日御身に出合ふべき間、この愁ひを救ひ給はるべし、厚くその恩を報いんと言ひしと見て夢覚めぬ。不思議に思ひしかど、取用ふべきにもあらざれば、心にもとゞめず、主人家へ明日も至り、夕陽に至り帰路の折から、水道橋<東京都文京区内>の川端を通りしに、定浚《ぢやうさら》ひの者、土をあげて有りしが、右土埃の中に一尺余の人形様のもの有りしが、立寄り見れば唐人の像なり。夜前の夢といひ、心悪しく思ふ故、定浚ひの人足に右人形は仔細あれば我等貰ひ度候、酒手にても与へんと言ひしに、揚土の埃にて何か酒手に及ぶべしとて取合はざれば、則ち右木像を持帰り泥を洗ひしに、何れ殊勝なる細工なれば、池の端錦袋園《きんたいゑん》の隣なる仏師方へ持行きて、これは如何なる像ならんと尋ね問ひしに、仏師得と熟視して、これは日本の細工にあらず、異国の彫工なり。蜀の関羽義死の後、呉国にその霊を顕しける故、別して呉越の海浜にては海上を守る神と尊敬して、関帝と唱へける由、この像は関羽の像なりと甚だ賞美しける故、荘厳厨子等を拵へ、故郷へ持帰りしと、かの与力語りけるとなり。<『耳嚢巻二』に、これと同じ話が少し簡略に記されている>

[やぶちゃん注:以上の本文は「耳嚢 巻之五 關羽の像奇談の事」である。また、宵曲の後注のそれは、私の版では、「耳嚢 巻之九 夢に見て關羽の像を得事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛙石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蛙石【かわずいし】 〔諸国里人談巻二〕摂津国東生郡《ひがしなりのこほり》林寺村<現在の大阪市生野区林寺《はやしじ》町か>の民家の裏にあり。鳥蟲《とりむし》の類ひ、この石のうへにとまれば、石の頂き二ツに割れて、口を開くごとくにして、鳥蟲を堕《おと》し入れて、また元のごとし。たゞ蛙の物を呑むに似たり。よつてこの名あるなり。または殺生石ともいひ伝へたり。今に有り。<『摂陽落穂集巻四』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:「諸國里人談卷之二 蛙石」で既に電子化注してある。

「大阪市生野区林寺町」は現在は大阪市生野区林寺(グーグル・マップ・データ)である。

「摂陽落穂集」文化文政年間に作家・浮世絵師として活躍した浜松歌国(安永五(一七七六)年~文政一〇(一八二七)年)の著とされる、大坂の地誌・歴史、当時の行政などが随筆風に書かれたもの。全十巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『新燕石十種』第五 (大正二(一九一三)国書刊行会刊)のこちらで、正規表現で視認出来る。標題は「○林寺村蛭石の事」であるが、「蛙」と「蛭」の他は、ほぼ文章も相同に近いので、「蛙」と「蛭」は「諸國里人談」(作家菊岡沾涼(せんりょう)が寛保三(一七四三)年に刊行した怪奇談への傾きが有意に感ぜられる百七十余話から成る俗話集)の転写ミスかとも思われる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河獺の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 河獺の怪【かわうそのかい】 〔四不語録巻六〕加州金沢の城外惣構《そうがまへ》の堀のあたりに、柿畠と云ふ所あり。こゝに年経たる河獺居て、人を誑《たぶ》らかす事度々なり。その中ごろも人を誑らかし殺せしは、沢野何某と云ふ侍あり。柿畠の近辺に宅あり。何某が召仕ふ若党某は、用事有りて私宅へ行き、暮時に帰りしに、少し先立て女一人、奇麗なる衣裳を著し、菅笠深く蒙(かふ)りて行けり。かの若党は元来色に迷ひやすき心なれば、則ち言葉をかけて、今薄暮に及んで女性の御身として下女も召しつれず、何処《いづこ》へ御趣きさふらふ、一人御越しなさるゝ事、途中も御心もとなし、我々送りとどけ申さんといへば、女打笑ひて、わらはは蜑《あま》の子なれば宿りも侍らず、御送りにも及び申さずと答ふ。若党いよいよ心うかれ出て、さ候はゞ見苦しくは候へど、我等が宿る部屋へなりとも御立寄《おたちよ》りあらんかといざなへぱ、女はかヘりて身は浮草と打《うち》かこてば、若党さては仕済《しすま》したり、されども面体《めんてい》を見ずしてはいか々と、立寄りて笠の中を窺(のぞ)けば、何とやらんすさまじく思はるる故、こは例の僻物(くせもの)にたぶらかさるゝかと足ばやに行けば、女こは御情けなしと先に立て行く。弥々《いよいよ》怪しみてしばらく後(あと)に立《たち》どまれば、うらめしやとて後の方にあり。その前後する事のはやさ蝶鳥の如し。若党とかく迷ひ足ばやに行けば、主人の家に著く。門の戸少し開き居たり。そのまゝ走り入《いり》て戸を急に立つるに、彼女さてもさてもあだ人やと、若党より先に内に入り、とかくすべき術もなく、部屋に入りて傍輩どもに委細を語り、我は再び逢ふことはいたし難し、何れもよきやうに挨拶してたまはれと頼む。傍輩ども心得たりとて、代り代り出《いで》て挨拶す。彼《かの》女は部屋へ入ても笠も脱がず。笠取り給へと云へば、初め御供申しゝ御方に逢ひましてとらんと云ふ。なほ更《さら》逢はする事は心もとなけれども、夜更《よふく》るまで出さゞる事も仕悪(しにく)き故、何れも示談《じだん》して罷り出で申すやう、檀那用事申付けて、ひまのあく事はかり難し、先づ笠をもぬぎ心やすく休み給へと、再三いへども笠をとらず。何時迄にても相待ち候はん、御ひまになり候はゞ御目あるやうになさるべし[やぶちゃん注:「お目にかかって下さることもありましょう。」。]、御用にかゝりて[やぶちゃん注:「そのお目見えが叶いましたところで。」。]笠をとらんと云ふ。何れももてあつかひしうちに、夜も深更に及ぶ。また出てとかく今夜中には隙《すき》あき難し、暫くにても御休みあれと申せば、女打笑ひて、とく御ひまにはなり候へども、これへ御出あるまじきなれば是非に及ばず、我等御迎《おむかへ》に参るべしとて、笠をぬぎて手に持つ。その時面体《めんてい》を見るに、六七十ばかりの老女の両眼《りやうまなこ》は日月《じつげつ》のごとく光りて、凄《すさま》じさ二目とも見る事ならず。その儘立て戸口に出ると見えしが形は失せぬ。若党は別の間に寝させ、傍輩ども戸外に番をいたし居けるに、かの若党声を立てて呻《によ》ぶ[やぶちゃん注:「うめく」。]。何れも駭《おどろ》き立寄り見れば死したり。かの僻物《くせもの》喰ひ殺しけるにやと、死骸を改め見ければ、陰茎陰嚢ともに引抜《ひきぬき》て、かたはらにありけり。元禄十四年三月十七日の夜酉な[やぶちゃん注:ママ。「の」の誤字か。『ちくま学芸文庫』版もママ。]下刻<午後七時>の頃、寺西何某の若党、右の柿畠の明屋敷《あきやしき》を通りしに、道の先へ女一人歩み行く。夜に入りてはいかゞと思ふ所に、道の半《なかば》より五つ六つばかりなる小坊主ふと出でける。彼《か》女右の小坊主の手を引き、惣構の堀にかゝりし橋を越ゆる時、小坊主に申すやうは、汝がごとき役にたゝぬ者はじやまになると申候て、橋の下へ投げたれば、水の上ヘ落ちたる音聞こゆ。その時若党思ふやう、これは化生《けしやう》の者ならんと刀を引抜き、汝何者ぞ、のがさぬと切付ければ、飛びのきよりかへり、しゝと申して消え失せぬ。その面色《めんしよく》ことの外すさまじく見えしが、それより煩ひ付きて、三十日ばかりを経て本復したり。

[やぶちゃん注:「河獺」日本人が滅ぼしてしまった哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon は古くより、狐狸同様に怪異を起こす動物として信ぜられた。「太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事」の私の注の冒頭のそれを参照されたい。

「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「柿畠」現在の石川県金沢市柿木畠(かきのきばたけ:グーグル・マップ・データ)であろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蚊除の瓢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蚊除の瓢【かよけのひさご】 〔奇異珍事録〕享保年中、巣鴨に或る同心の隠居あり。この親に夏屋敷の内へ蚊の這入《はい》らざるまじなひとて、屋敷のぐるりを瓢簞に何やら入れて、夏の始め引《ひき》ありく。蚊一つも来らず。そのまじなひ人にゆるさず、古人になりたるよし、をしいかな。

[やぶちゃん注:「奇異珍事録」は幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(「三の卷」の第二話『呪瓢』(「まじなひのひさご」か?)で視認出来る。

「享保年中」一七一六年~一七三六年。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「亀報恩」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 亀報恩【かめほうおん】 〔秉穂録ノ下〕明和六年[やぶちゃん注:一七六九年。]丑八月、奥州津軽の浜辺を、百姓一人通りけるに、大なる亀、ひがたに仰向になりて、烏またはしらべといふ鳥、おびたゞしう集りて、つゝさ殺さんとす。亀、首を出して、百姓を見て、たのむ有さまなりしかば、脇指(わきざし)をぬきて鳥を追ひちらし、亀をたすけて海中に入りしかば、しばらくうきて礼をなす躰《てい》にて海に入る。その夜の夢に、童子来りて告げて曰く、たすけ給へる恩報じがたし。卜檀といふ薬の木あり。これを奉るべきまゝ重ねて彼浜に来り給へといふと見て覚めぬ。翌日、彼《かの》浜にいたるに、風吹き波たちて亀あらはれ、木の枝のごとき黄色なる物をくはへて、前に置きて海に入りぬ。すなはち取りて帰りしに、津軽の領主聞給ひて、これを見給ふに、重サ十八匁あり。五匁をわけて百姓につかはし、医に問はるゝに、卜檀、本草にありながら、いまだ見たる人なし。延年の薬なるよし、この事、近藤某の筆記に見えたり。

[やぶちゃん注:「秉穂録」現代仮名遣で「へいすいろく」と読む(「秉」はこれ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。雲霞堂老人、尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)による考証随筆で、寛政一一(一七九九)年に成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正規表現で視認出来る(右ページ六行目から)。

「しらべといふ鳥」不詳。「はしらべ」でも調べたが、不詳。

「卜檀」不詳。「漢籍リポジトリ」で検索してみたが、この「高峰三山來禪師年譜」と「蟻術詩選」の二書のみがヒットしたものの、これは本草書ではないし、それらしい仙薬の元となる樹木でもなさそうだ(このヒットしたものは、思うに、「檀」(香木の類)を以って「卜」(ぼく)すではなかろうか)。ともかくも「卜檀」という語は、私は本草書で見たことはない。]

2023/09/21

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「亀の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 亀の怪【かめのかい】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕越前福井の家中に、名字は何とかいひし、源蔵といへる剛勇不敵のをのこ有りしが、右不敵の志《こころざし》故、国詰(くにづめ)申付けありて福井へ至りしに、右福井にあすは川といヘるあり。九十九橋《つくもばし》とて大橋有りしが、右川に大きなる亀住みて、人を取る事もありし由。然るに源蔵或日かの九十九橋を渡りしに、誠に尋常にあらざる大亀、川の端に出居《いでゐ》たりしを、かの人を取る亀ならん、憎き事なりと刀を抜き持ちて、裸になりて右河中にひたり、難なく右亀を屠《ほふ》り殺して、その辺の民家を雇ひて引上げ、殼は領主へ捧げ、肉は我宿へ持帰りて酒の肴にせんと、召使ふ主人より附人(つけびと)の中間《ちゆうげん》へ、調味の儀申付け昼寝せしが、かの中間つくづく思ひけるは、かゝる大亀なれば毒も有るべき間、主人ヘ奉らんも如何なれば、川へ捨ててその訳を申さんと、則ち捨てて後《のち》主人へ語りければ、源蔵大きに憤りて、情なくも右中間を切り殺しぬ。然るに大守より附人なれば、源蔵取はからひ不埒なりとて、預けになりて一室に押込められ居たりしが、かゝる剛気の者ながら、大守の咎《とが》に恐れて少し心も弱りしにや、源蔵臥《ふせ》りし枕元へ深夜に来るもの有りて、一首の歌を詠みて

 暮毎にとひ来しものをあすは川

 あすの夜波のあだに寄すらん

 源蔵が頭《かしら》を敲く者あり。その痛(いたみ)堪へがたければ、起き上るに行方《ゆくへ》なし。かゝる事二夜程なれば、源蔵も心得て、歌を吟ずる折柄、頭をはづし枕を差出《さしいだ》せしに、右枕は微塵に砕けける故、大いに驚きけるが、右の趣《おもむき》大守へ聞えければ、大守聞き給ひて、それは不思議なる事なり、源蔵が殺せしは雄亀にて、雌亀の仇をなすなるべしとて、一首の返歌を詠じ給ひ、封じてあすは川へ流し給ひければ、その後は源蔵へも仇をなさゞりし由。源蔵もそれより節《せつ》を折りて実躰《じつてい》に帰りければ、巧《たく》める悪事にもあらずとて、大守よりも咎ゆりて、滞りなく勤仕《きんし》しけるとなり。

[やぶちゃん注:和歌は全体が一字下げベタで続くが、ブログ・ブラウザの不具合を考え、上・下句に分けた。正規表現版(語注・現代語訳あり)は、私の「耳嚢 巻之五 あすは川龜怪の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「神遊行」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 神遊行【かみゆぎょう】 〔甲子夜話巻十二〕或人の曰く、三十五六年前柳川侯(筑後の領主)の [やぶちゃん注:一字空けはママ。組版ミスか。]公族大夫に立花某と云ふあり。その領せる所を矢部と云ふ。この地古は八女県(やめのあがた)と云ひしなり。また八女国とも云ひしこと『日本紀』に見ゆ。その山は侯の居城の後まではびこりし高山と云ふ。或日大夫の臣某、山狩に鳥銃を持ち、払暁に往きしに、常に行馴れたる路、殊の外に異香薫じたれば、怪しみながら向うさして行くほどに、丈ばかりも生立ちたる茅原《かやはら》の人もなきに左右へ自ら分れ、何か推分けて山を下るさまなれば、傍へに寄りてこれを避くるに、人は無くて地を離るゝこと八九尺と覚しきに、端厳微妙、誠に絵がけるが如き天女の、袖ふき返しながら麓をさして来るなり。因て駭き鳥銃を僵《たふ》し平伏してありしが、やがて一町も過ぎたりと覚しき頃、人心地つきて山に入り狩りくらしたれど、一物をも獲ずして復もとの路に回るに、麓の方よりまた茅左右に偃《ふし》て今朝のさまなれば、路傍に片寄り避けてあるに、かの天女は奥山さして還り入りぬ。人々奇異の思ひをなしたりとなり。また彼《か》の藩の臼井省吾と云ひしは博覧の士なりしが、これを聞きて、それぞ『日本紀』に見ゆる、筑紫後国の八女県の山中に在《ま》すと云ふ八女津媛(やとめつひめ)ならんに、今に至りて尚その神霊あることなるベし、『景行紀』云ふ、「十八年秋七月辛卯朔甲午(四日也)到筑紫後国御木於高田行宮、丁酉(七日也)到八女縣、則越前山、以南望粟岬、詔ㇾ之曰、其山峰岫重畳、且美麗之甚、若神有其山乎、時水沼県主猿大海奏言、有女神、名曰八女津媛、常居山中、故八女国之[やぶちゃん注:ここにあるはずの「名」が誤記か誤植か判らぬが、脱字している。]由ㇾ此起也」 [やぶちゃん注:一字空けはママ。]これを証すべし。また八九十年にも過ぎん。予<松浦静山>が中に大館逸平と云ヘる豪気の士あり。常に殺生を好み、神崎と云ふ処の(平戸の地名)山谿《さんこく》に赴き、にた待ちとて鹿猿の澗泉に群飲するを、鳥銃を以て打たんとす。このわざはいつも深夜のことにして、時は十五日なるに、折しも風静月晴《かぜ、しづまり、つき、はれ》、天色清潔なりしが、夜半にも過ぎんと覚しきに、遙かに歌うたふ声きこえければ、かゝる山奥、且深夜怪しきことと思ふうちに、近く聞こゆるゆゑ、空を仰ぎ見たれば、天女なるべし、端麗なる婦人の空中を歩み来れり。その歌は「吹けや松風おろせや簾」とぞ聞えける。逸平即ち鳥銃にて打たんと思ひたるが、流石の剛強者も畏懼《ゐく》の心生じ、こむを[やぶちゃん注:「これを」の誤植。「これ」は「鳥銃」を指す。]僵《たふし》て居たれば、天女空中にて「善き了見々々」と言ひて行過ぎしとなり。これらも彼の八女津媛の肥の国まで遊行せらるゝものか。また前の逸平の相識れる猟夫も、平戸嶋志自岐神社の近地の野径《のみち》を深夜に往行せしに、折から月光も薄く、時は丑の時<午前二時>ばかりなるに、衣裳鮮明にして容貌正しき婦人に逢ひたり。猟夫乃ちこれを斬らんと思ひたるが、頻りに懼心《くしん》生じ、刀を抜き得ずして過《すご》したり。これより深夜に山谷《さんこく》をば行くまじと云ひしと語り伝ふ。またかの神遊行の類《たぐひ》か。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之十二 4 筑後の八女津媛の事幷神女の事」を正字で電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷之十二 4 筑後の八女津媛の事幷神女の事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「幷」の字配は正確には、「筑後の八女津媛(やとめつひめ)の事幷(ならびに)神女(しんによ/じんによ)の事」である。カタカナの読みは静山が附したもの(特異的に多い)。漢文脈は読みと送りがなを総てカタカナにしてあるので、読み相当と判断した箇所は( )で囲んだ。なお、後に〔 〕で訓読文(一部の読みは推定)を配した。]

 

12―4

 或(ある)人の曰(いはく)、

「三十五、六年前、柳川侯【筑後の領主。】の公族大夫(たいふ)に立花某と云ふあり。その領せる所を「矢部(ヤベ)」と云ふ。この地、古(いにしへ)は「八女縣(ヤメノあがた)」と云(いひ)しなり。又、八女國(ヤメノくに)とも云しこと、「日本紀」に見ゆ。其山は、侯の居城の後(うしろ)まで、はびこりし高山(たかやま)と云ふ。

 或日、大夫の臣某(なにがし)、山狩に鳥銃(てつぱう)を持(もち)、拂曉(ふつぎやう)に往(ゆき)しに、常に行馴(ゆきなれ)たる路、殊の外に、異香(いかう)、薰じたれば、怪しみながら、向(むかふ)さして行(ゆく)ほどに、丈(たけ)計(ばかり)も生立(おいたち)たる茅原(かやはら)の、人もなきに、左右へ、自(おのづか)ら分れ、何か、推分(おしわけ)て、山を下るさまなれば、傍(かた)へに寄りて、これを避(さく)るに、人は無くて、地を離るゝこと、八、九尺と覺しきに、端嚴微妙、誠に繪がけるが如き天女の、袖、ふき返しながら、麓をさして來(きた)るなり。

 因(よつ)て、駭(おどろ)き、鳥銃(てつぱう)を僵(たふ)し、平伏してありしが、やがて、

『一町も過(すぎ)たり。』

と覺しき頃、人心地(ひとごこち)つきて、山に入り、狩りくらしたれど、一物をも獲(え)ずして、復(また)、もとの路に囘るに、麓の方(かた)より、また、茅(かや)、左右に偃(ふし)て、今朝(けさ)のさまなれば、路傍に、片寄り、避(さけ)てあるに、かの天女は、奧山さして、還り入りぬ。

「人々、奇異の思ひをなしたり。」

となり。

 また、彼《かの》藩の臼井省吾と云(いひ)しは、博覽の士なりしが、是(これ)を聞きて、

「それぞ、「日本紀」に見ゆる、筑紫後(ノチノシリノ)國の八女縣(ヤメノあがた)の山中に在(ま)すと云《いふ》、「八女津媛(ヤトメツヒメ)」ならんに、今に至《いたり》て、尙、其神靈あることなるベし。「景行紀」〔「景行紀」に云はく〕、

『十八年秋七月辛卯朔甲午【四日也。】)、到筑紫(シリ)ノ國御木タマフ於高田行宮(カリノミヤ)ニ。丁酉【七日也。】到ル八女(ヤメ)ノ。則越前山以テ南望ミタマヒ[やぶちゃん注:最は底本(東洋文庫)では『ノ』とあるが、送りがなとして読めない。これは誤植と断じて「粟」の下に移した。](サキ)ヲ、詔シテㇾ之、其山峰岫重疊シテ、且美麗之(ノ)シキ。若クハ神有其山(カ)ト。時水沼(ミヌマ)ノ縣主猿大海(サルオホミ)。有女神、名八女津媛(ヤトメツヒメ)ト、常レリ山中。故八女(ヤメ)ノ國之(ノ)名由ㇾ此レリ也。』。〔十八年の秋七月辛卯(かのとう)朔(ついたち)甲午(かのえうま)【四日なり。】)、筑紫(つくし)の後國(しりのくに)の御木(みけ)に到り、高田の行宮(かりのみや)に居(まし)たまふ。丁酉(ひのととり)【七日なり。】八女(やめ)の縣(あがた)に到る。則ち、前山(まへやま)を越(こえ)て、以(もつ)て、南のかた、粟の岬(さき)を望みたまひ、之(これ)に詔(みことのり)して、曰く、「其(その)山、峰岫(みねくき)、重疊(ちようでふ)して、且つ、美麗の甚しき。若(もし)くは、神其(その)山に有るか。」と。時に水沼(みぬま)の縣主(あがたぬし)「猿大海(さるおほみ)」、奏(そうし)て言ふ。「女神、有り。名を『八女津媛(やとめつひめ)』と曰ふ。常に山中に居(を)れり。故に『八女(やめ)の國』の名、此(ここ)に由(よ)り起れり。」。〕

是を證すべし。」。

 又、八、九十年にも過(すぎ)ん。予が中(うち)に、大館逸平と云(いヘ)る豪氣の士あり。

 常に殺生を好み、神崎(かんざき)と云ふ處の【平戶の地名。】山谿(さんこく)に赴き、「にた待ち」とて、鹿猿の澗泉(かんせん)に群飮(ぐんいん)するを、鳥銃(てつぱう)を以て、打(うた)んとす。

 此わざは、いつも、深夜のことにして、時は、十五日なるに、折しも、風靜(しづまり)月晴(はれ)、天色、淸潔なりしが、

『夜半にも過ぎん。』

と覺しきに、遙(はるか)に、歌うたふ聲、きこへ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、

『かゝる山奧、且(かつ)、深夜、怪しきこと。』

と思ふうちに、近く聞こゆるゆゑ、空を仰ぎ見たれば、天女なるべし、端麗なる婦人の、空中を、步み、來れり。

 その歌は、

「吹けや松風 おろせや簾」

とぞ、聞えける。

 逸平、卽ち、

『鳥銃にて打(うた)ん。』

と思(おもひ)たるが、流石の剛强者も、畏懼(ゐく)の心、生じ、これを僵(たふし)て居たれば、天女、空中にて、

「善き了見々々。」[やぶちゃん注:繰り返し記号は前の全体「善き了見」を売り返すものと読む。]

と、言ひて、行過(ゆきすぎ)し、となり。

 是らも、彼(か)の八女津媛(ヤトノツひめ)の肥(ひ)の國まで遊行(ゆぎやう)せらるゝものか。

 又、前の逸平の、相識(あひしれ)る獵夫(れうふ)も、平戶嶋、志自岐(しじき)神社の近地(ちかきち)の野徑(のみち)を、深夜に往行(わうかう)せしに、折から、月光も薄く、時は丑の刻計(ばかり)なるに、衣裳、鮮明にして、容貌、正しき、婦人に、逢ひたり。

 獵夫、乃(すなは)ち、

『これを、斬(きら)ん。』

と思ひたるが、頻りに、懼心(くしん)、生じ、刀を拔(ぬき)得ずして過(すご)したり。

「是より、深夜に山谷(さんこく)をば、行くまじ。」

と云(いひ)しと、語(かたり)傳ふ。

 亦、かの神、遊行の類(たぐひ)か。

■やぶちゃんの呟き

「大夫(たいふ)」五位を受けた者。

「矢部(ヤベ)」現在の福岡県八女(やめ)市矢部村矢部附近か(グーグル・マップ・データ)。

「侯の居城」頭に「柳川侯」とあるので、柳川藩の柳川城跡。八女市からは、かなり隔たるが、グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、八女市の東の山塊の南西部が、この城の東近くにまで迫っているのが判る。

「一町」百九メートル。

「御木(みけ)」「高田の行宮(かりのみや)」現在の福岡県大牟田市三池のここに比定されている。

「粟の岬(さき)」福岡県大牟田市岬(みさき)のこの附近(グーグル・マップ・データ)に比定する説がある。

「神崎(かんざき)」佐賀県神埼(かんざき)市神埼町(かんざきまち:グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代より前は皇室領荘園であった。

「にた待ち」この「にた」は猪の泥浴びで知られる「ヌタ場」のことであろう。湿地や水溜まりで、獣が来て、体をこすり付ける場所。寄生虫やダニなどを除去したり、体温を下げるために行うものと考えられている。私は猪以外に熊がそれをするのを、ごく最近、TVで見たことがある。

 

2023/09/20

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「髪の中の火焰」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 髪の中の火焰【かみのなかのかえん】 〔醍醐随筆〕ある人のめしつかひける下女、日くれて閨《ねや》に入りて髪を梳《くしけず》りぬ。灯《ともし》なくて暗かりしに、けづる度《たび》に髪の中より火焰はらはらと落つる。驚ろきてとらんとすれば消えてなし。また梳ればまた出る。蛍などの多く集まりて飛び散るがごとし。件《くだん》の女はしりてあるじに訴たふ。一家ことごとく集まりて、ためしなきもののけなりとて彼《kの》女を追ひ失なふ。女泣く泣くまどひあるきけるが、如何はしたりけん、富家の妻となりて子孫栄えるとぞ。『代酔編』に王行甫がいひけん、家兄嘉甫が衣を解けば火星まろび出る、また頭を梳れば髪髻(かみたぶさ)の中より晶蛍《しやうけい》流落《りうらく》す。これは陽気茂熾《やうきもしき》の験《しるし》なり。貴徴にあらざれば寿徴なりとあり。件の女すこしもたがはず、貴徴にやとおぼゆ。また『博物志』に積油満万石自然生火といへり。むかし晋の武庫やけぬるを、張華油幕万匹を積める故なりといふ。これ等をもて見れば、女つねに髪に油をつけぬるが、湿熱にむされて髪髻より火星いでけるにや。しからば女ごとにしかあるべきに、いづれいぶかしき事なり。<『塩尻巻十九』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:「醍醐随筆」は大和国の医師・儒者中山三柳の随筆。初版は寛文一〇(一六七〇)年(徳川家綱の治世)。国立国会図書館デジタルコレクションの『杏林叢書』第三輯(富士川游等編・大正一三(一九三八)年吐鳳堂書店刊)のこちらで正字版の当該部を視認出来る(但し、この底本は文化年間(一八〇四年~一八一八年:徳川家斉の治世)の抄録写本底本である)。

「代酔編」「瑯邪代醉編」が正しい書名。明の学者で政治家の張鼎思(ちょうけんし 一五四三年~一六〇三年)が、官吏科都給事中であった際に彈劾され、地方官に貶謫された際、その憂悶を晴らすために、諸事の記事を抜粋して分類編次した随筆。万暦二五(一五九七)年序の刊本がある。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「一〇」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        一〇

 

 「攷證今昔物語集」に孫引きした「孫綽子」に、海邊と、山中の住民が、逢つて。各《おのおの》其地方の名物を誇る。海人は、「衡海に、魚、有り、頭《かしら》、華山の頂《いただき》の如く、萬頃《ばんけい》の波を一と吸ひにす。」と云ひ、山客は、「鄧林《とうりん》に、木、有《あり》て、圍み三萬尋、直上千里、旁《かたは》ら、數國を蔭《おほ》ふ。」と言つた、と有る。高木氏の「日本傳說集」四六頁に、長門國船木、昔し、一面の沼地で、中央に一本の大樟《おほぐす》あり。其枝、二里四方に擴がり、其下は、晝さへ暗く、此の村は、年中、日光を見ないので、「眞闇」と呼ばれ、西の村は、年中、朝日を拜まないので「朝蔭」と呼ばれた。「眞闇」、今は、「萬倉」と改む。神功皇后三韓征伐の折《をり》、この樟一本で、四十幾艘の船を作つたと云ふ。西澤一鳳の「皇都午睡《みやこのひるね》」初篇中卷に云《いは》く、『寬政六年の春、紀州熊野の深山より、三十里、奧山へ、御用木、見立てに行きて、榎《えのき》の大木を見出しぬ。是迄[やぶちゃん注:底本では「是近」。後掲する活字本を参考(原本では『是まで』)に補った。以下、にも、それで底本を修正した箇所があるが、一部は五月蠅いだけなので、注さない。原本自体の表記が、少しおかしく感じた箇所は、逆に底本に従った箇所もある。]、折《をり》に、來《きた》る者も有れど、唯、山とのみ思ひしが、此度《このたび》、大木、有る事を見出《みいだ》し、則ち、人夫の杣人《そまびと》等《ら》、その大きさを見積り、太守へ上覽に奉りぬ。[やぶちゃん注:以下の書上はベタで続いているが、条ごとに改行した。]

一、榎の木一株。百二十抱へ(六十丈也)、高さ、三百廿四、五間(百九十五丈餘也)、枝、三本に分れ、南方の枝、凡そ、八十二廻り、大にして(四十一丈なり)、宿り木。

一、杉。長さ、七間半。二本あり。

一、椎。長さ、五間二尺。七本あり。

一、檜、長さ、五間半。十二本あり。

一、黃楊《つげ》。長さ四間半。九本あり。

一、松、長さ四間半、七本あり。[やぶちゃん注:この条は底本には、ない。後掲する活字本で補った。]

一、柳。長さ四間半、六本あり。

一、竹。十八本あり。

一、南天、長さ二間半、七本あり。

右、紀州表より書狀にて申し來たる云々』[やぶちゃん注:最後の添書も一部カットされているので、活字本で補った。]とは、大きな噺《はなし》だ。

[やぶちゃん注:「攷證今昔物語集」「四」で出た、芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)の「本朝部」巻第三十一の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の附注の「◎法苑珠林卷二十八神異篇雜異部」の漢文引用。国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認出来る。

「衡海」不詳。本文次の次の注から見て、実在する海域名ではないと思われる。

「華山」陝西省華陰市にある山。「中国五名山」の一つとして「西岳」とも呼ばれる。最高峰は南峰で二千百五十四メートル。

「萬頃」「頃」は中国の地積の単位で、百畝。ここは水面が広々としていることを言う。

「鄧林」中国の伝説上の人物である夸父(こほ)の杖が変じて成ったとされる「柚(ゆず)の木の林」。「山海経」の「海外北経」に見える。

「孫綽子」不詳。六朝東晋の文学者孫綽(そんしゃく 三一四年~三七一年)の著作か。彼は太原中都(山西省)が本貫で、官は廷尉卿から著作郎に進んだ。文才を以って、当時、名が高く、特に「天台山賦」は、魏晋時代の代表的辞賦として名高い。また、好んで、老荘の気風を説く「玄言詩」を作った人物である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『高木氏の「日本傳說集」四六頁』「五」に出たものの前の「(イ)船木」。国立国会図書館デジタルコレクションの高木敏雄著「日本傳說集」第四版(一九二六年武藏野書院)のこちらの「樹木傳說第四」の冒頭で、視認出来る。

「長門國船木」現在の山口県宇部市船木(グーグル・マップ・データ)。東と北に接して二つの「万倉」を含む地区が接している。

「西澤一鳳」(にしざわいっぽう 享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五三)年)は歌舞伎狂言作家で考証家。当該ウィキによれば、浮世草子作者・浄瑠璃作者の西沢一風の曾孫で、大坂生まれ。家業の正本(歌舞伎脚本)屋と貸本屋を心斎橋南四丁目で営みながら、俳諧を好み、歌舞伎狂言を執筆、大坂劇壇での活動の後、江戸に移って活動を続けた。歌舞伎狂言の台本を数多く著したほか、人形浄瑠璃や歌舞伎の考証にも業績があり、さらに紀行文や随筆なども多く遺している。「皇都午睡」は 嘉永三(一八五〇)年に上梓された江戸見聞録で、江戸や道中諸国の文化風俗を京・大阪と比べて論じたものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類従』(明治三九(一三〇六)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が視認出来る。標題は「熊野の大樹」。]

 外國にも滅法界《めつぽふかい》な[やぶちゃん注:やたらと。]大木譚が少なくない。古カルヂア人は、「宇宙に、大樹、有《あつ》て、天を頂とし、地を足とす。」と信じ、インドのカーシア人は、「昔し、人が高樹を攀《よ》ぢ、昇天して、星と成つたと云ひ、パラガイ國のムボカビ人は、「死んだ人は、木を攀ぢて、登天す。」といひ、ニウジーランド人は、「太古、天地、連接せしを、神木、生えて、推し開いた。」と傳ふ(一八九九年巴里板、コンスタンタンの「熱帶景物編」二八五頁)

[やぶちゃん注:「カルデア人」カルデア人(Chardeans)は新バビロニア(カルデア)帝国を建設したセム系遊牧民の一つ。紀元前一一〇〇年頃、バビロニア南部に定着し、紀元前八世紀末に部族統一国家を形成、紀元前六二五年、ナボポラッサルがバビロンで独立し、メディアと連合して、アッシリアの首都ニネベを紀元前六一二年に陥落させ、新バビロニア帝国を建設した。その子ネブカドネザルⅡ世 (在位:紀元前六〇五年~紀元前五六二年)の時代には、国土も旧アッシリア領の大部分を占め、首都バビロンには、吊庭(空中庭園)で有名な大宮殿た、「バベルの塔」を持つ大神殿・凱旋道路・大城壁などが建設或いは再建され、政治・経済・文化も大いに栄えて、王国の全盛時代を迎えた。紀元前五八六年、エルサレムを破壊し、王以下を、バビロンに捕囚したのも、ネブカドネザルで、これは「哀歌」に歌われた「バビロニア捕囚」で広く知られている。しかし紀元前五三九年、ナボニドスが新興のアケメネス朝ペルシアの軍門に下り、帝国は一世紀足らずで滅亡した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「カーシア人」不詳。

「パラガイ國のムボカビ人」パラグアイのことか? 「ムボカビ人」は調べたが、不詳。]

 「山海經《せんがいきやう》」に、『西海の外、大荒《だいこう》の中に方山《はうざん》あり。その上に、靑樹、有《あつ》て、「柜格《くかく》の松」[やぶちゃん注:底本では「拒格の松」であるが、「中國哲學書電子化計劃」の当該書の影印本の当該部で訂した。]といふ。是れ、日月の出入する所也。』。「淮南子」の「地形訓」に、『建木は都廣(註に云《いは》く、『南方の山名。』。)にあり。衆帝の、自(まつ)て、上下する所、日中、影無く、呼んで、響き、なし。蓋し、天地の中也。若木は、建木の西に在り、末に、十日、在り。その華、下地を照らす(註に云く、『若木の瑞に、十日、有て、狀《かたち》、蓮華の如く光り、其下を照《てら》す也。』。)。』[やぶちゃん注:これは正確には「淮南子」の注解書である「淮南鴻烈解」を熊楠は元としている。「中國哲學書電子化計劃」の当該書の影印本の当該部を見られたい(後ろから四行目以降)。]。漢の王充の「論衡」「說日篇」に、儒者、論ずるは、『日《ひ》、旦《あし》たに、扶桑を出で、暮に細柳に入る』云々。『「桑柳」は天地の際、日月、常に出入する所の處ろ。』と。又、「禹貢」・「山海經」に言《いは》く、『日、十、有りて、海外に在り。東方に、湯谷《たうこく》、在り。上に、扶桑、在り。十日、水中に浴沐す。水中に、大木、有り、九日、下枝に居《を》り、一日、上枝に居る。』と。唐の敬括の賦に、『建木、大きさ、五千圍《めぐり》、高さ、八千尺。』。漢の東方朔作という「海内十洲記」には、『扶桑は、東方碧海の中に在り、地方萬里』云々。『椹樹《ちんじゆ》あり(「康煕字典」に『椹は桑實《くはのみ》なり』。)、長きもの、數千丈、大きさ、二千餘圍。樹、兩々、同根あり、偶生し、更(かはる)がはる、相依《あひよ》る、是を以て、「扶桑」と名づく。』とありて、『其葉、中國の桑の如く、其《それ》、椹、稀にして、色、赤く、九千歲に、唯、一度、生じ、仙人、之を食ふ時は、全體、金光色《こんかうしよく》となつて、空を飛翔《とびかけ》る。』と云ふ。因て考ふるに、「扶桑」は、桑に似た大木で、隨《したがつ》て、其が生ずる地をも、「扶桑」と呼び、每旦《まいあさ》、日が出る處としたので、古支那人は、日は、凡て、十、有り、交替して、一日、出勤する間に、九日は、扶桑の下枝に在《あつ》て、休む、としたのだ。

[やぶちゃん注:「禹貢」これは「選集」では括弧も何もつかず、あたかも「山海經」に禹貢なる人物の書いた別本があるように読めてしまうが、これは、「書經(別名「尚書」)の中の「禹貢」の部分を指している。]

 同樣の信念がアツシリアにも有《あつ》たは、コンスタンタンの「熱帶景物篇」一五五圖、古錢に印した大木の實が、悉く、日たる畫が證する。この世界を照《てら》す太陽は、一つしかなきは、誰も知り切《きつ》た事だが、昔しの人は、金錢や訴訟や廣告や虛榮に、惱殺されず、多閑の餘り、天文に留心する事、藝妓買ふ錢無い男が、女房の顏計《ばか》り、無料で見續けて樂しむ如く、隨つて、日の行路等が、日々、同じからぬを觀《み》たり、氣象の工合ひで、暈環《うんくわん》[やぶちゃん注:日・月に被るかのように見える暈(かさ)のこと。]に數個の日が現はるゝを視《み》たりして、十日交替說を生じたので、每日、一《ひとつ》の太陽が、扶桑樹の上枝から出動し、他の九つは、下枝に休むと云ふは、日を鳥蟲《てうちゆう》同然の生物と見たのだ。扨《さて》こそ、「山海經」に、帝俊の妻が十日を生んだとか、「准南子」に、堯の時、十日、並び出で、草木、焦《こげ》枯れたから、羿《げい》に、十日を射せしむると、九日中の烏《からす》が殺されて羽を落とした抔《など》、載せたのだ。「建木日中無影。」〔建木(けんぼく)、日中に、影、無し。〕というから、日よりも、木の方が高いのだ。

[やぶちゃん注:『コンスタンタンの「熱帶景物篇」』不詳。識者の御教授を乞う。

「羿」中国古代伝説上の弓の名人の名。このエピソードで、よく知られる人物。]

 「神異經」に、大木を多く載す。東南荒中の邪木は、高さ三千丈、南方大荒中の柤稼𣘗樹《さかじつじゆ》は、高さ百丈、或は、千丈、三千年に、花、さき、九千歲で、實る。如何《じよか》といふ木は、高さ五十丈、三百年に、花、さき、九百歲で、實る。其實を食へば、水・火・白刄に犯されず。南方荒中の涕竹は、長さ數百丈、圍み三丈六尺、厚さ八、九寸、船に出來る。晉の張華の「博物志」三に云く、『止些山《ししさん》に、竹、多く、長さ千仞、鳳、其實を食ふ。』と。仞は、四尺、又、八尺という(「康煕字典」。「和漢三才圖會」一五)。何れにしても、高い竹だ。和賀邦にも、津村正恭の「譚海」一に、『越中黑部、川原に沿《そひ》て、山中に入《いる》事、三里許りは、人跡、至る所也。兩岸みな桃の花也。其より奧へ、限りなく竹林ありて、人の至りがたき所也。自然に、川上より流れくる竹の筒の朽《くち》たる抔、徑《わた》り一尺四、五寸程なる有り。井戶の側《かは》[やぶちゃん注:井筒。]にしたる事有り。』と吹いて居《を》る。之に似たこと、「東海道名所圖會」に、參河《みかは》の鳳來寺山に、神代より在つた大木の桐は、高さ四十九丈、圍《めぐり》卅九尋、其西の枝に、長さ八咫《し》(「尋」は八尺、「咫」は八寸)で長さ一丈餘の尾あり、全身五色で、金光あり、美聲を出す鳥が住んだ。其を、聖德太子が、「鳳凰」と鑑定された由、記す。

 晉の王嘉の「拾遺記」一に、「窮桑」は西海の濱に生じた一本立ちの桑で、直上、千尋、葉、紅に、實、紫だ。萬歲に、一度、實る。之を食ふと、天に後《おく》れて老ゆ、とは中々の長生だ。卷の三に、周の靈王、崿谷陰生[やぶちゃん注:切り立った崖を持った谷に太陽光を避けて生えることか。]の樹、長さ千尋なるを得たり。此一樹を以て昆昭臺を建てた。卷五には、祈淪國《きりんこく》[やぶちゃん注:不詳。]に壽木の林有り、樹の高さ、千尋で、日月を陰蔽す。其下に憩へば、皆、死せず、病まず。他國から來て、其葉を懷中して歸る者は、終身老いず[やぶちゃん注:太字箇所は、底本では傍点「◦」。]、とは妙な言ひ樣だが、一生、衰弱の色なく、長生の後ち、卒中で死ぬか、朝日平吾[やぶちゃん注:底本では「朝日吾平」。「選集」その他により、訂した。]に刺殺さるゝのだらう。梁の任昉《にんばう》の「述異記」上に云く、『磅礑山《ばうたうざん》の地、甚だ、寒し。千圍《せんゐ》の桃の樹、有て、萬年に、一度、實る。』と。桃栗三年恥かき年を洒落《しやれ》て、日本には桃の老木は、とんと、見當らぬが、支那には有るのか知《し》ら。其下卷に云く、『東南に桃都山あり。上に、大樹、有て、「桃都」と名く。枝、相去ること、三千里。上に天鷄あり。日、初《はじめ》て出《いで》て此木を照《てら》せば、天鷄が鳴く。天下の鷄、皆、隨つて鳴く。』と。以前、七草の囃《はや》しに、トウトの鳥云々と云つたは、桃都の鷄が、渡り來つて、「日本の衆、鷄、隨ひ鳴かぬ内に、七草を、囃せ。」との意義と牽强し得べきか。鵜川政明の「華實年浪草《くわじつとしなみぐさ》」一上に、倭俗、七草を打つ唱へに、「唐土《もろこし》の鳥と日本の鳥の渡らぬ先に七草なずな」と云ふは、「歲時記」に、正月七日(原書には『正月夜』とあり)、鬼車鳥多く渡るを、禳《はら》ふため[やぶちゃん注:「禳」は底本では「穣」。誤植と断じ、「選集」を参考に訂した。]、家々、門を槌《つちう》ち、燈燭を滅す、とある支那俗を傳へたので、「鬼車」は惡鳥の名、と有るが、唐土の鳥と見ても、意味、十分に判らない。唐の李石作といふ「續博物志」五に、『海中に庭朔山あり、上に、桃木、有りて、三千里に蟠屈す。其東北に向ふた枝が、鬼門で、萬鬼の出入り所也、と云ふも、一事別傳でがな有らう[やぶちゃん注:この最後の「でがな」の「がな」は副助詞で、体言又はそれに「で」が付いたものに付き、「例示」の「~でも・~かなにか」或いは「不定」の「~か」である。ここは、「一つの事象の、ただの別伝、とでも言うべきものであろう」の意。]。「毘沙門の本地」[やぶちゃん注:この鍵括弧は底本にある。]に、金色太子《こんじきたいし》、黃金《こがね》の筒井を尋ねて、川を渡るに、高さ一由旬の鐵の木、三本、有り、下に長《たけ》十六丈の鬼、有つて、罪人の衣を剝ぐ。』と記す。アイテルの「梵漢語彙」に、『一由旬は卅三哩《マイル》半、又は、十哩、又は、五哩半。』と見ゆ。「拾遺記」十に、『岱輿山《たいよざん》に、長さ、千尋の、沙棠《しやたう》、豫章の木あり。細枝を、舟とするに、猶、長《たけ》十丈。』と云ふ。

[やぶちゃん注:「朝日平吾」(あさひへいご 明治二三(一八九〇)年~大正一〇(一九一一)年九月二十八日)は政治活動家にして、右翼のテロリスト。実業家安田善次郎を暗殺(刺殺)し、自身も、その場で剃刀で咽喉部を切って自殺した。詳しくは当該ウィキを見られたい。本篇のこの部分の初出は大正十一年十二月発行の『土の鈴』である。

『鵜川政明の「華實年浪草」』鵜川麁文(そぶん)政明の手になる天明三(一七八三)年刊の歳時記。国立国会図書館デジタルコレクションの原版本の「若草七草 薺」の条のここ(右丁後ろから三行目下方から)が当該部である。

「毘沙門の本地」室町時代の御伽草子の一つ。後に説経節になった。

「卅三哩半」約五十三キロメートル。

「十哩」約十六キロメートル。

「五哩半」約八キロ八百五十一メートル。

「拾遺記」後秦の王嘉(?~三九〇年頃)が撰した志怪小説集。全十巻。

「沙棠」現在、この樹木名は実海棠(みかいどう)の別名である。バラ科ミカイドウ Malus micromalus の落葉小高木。中国原産で、観賞用に庭に栽植される。カイドウに似ているが、枝は、細長く、紫色を帯び、花は上向きに咲き、果実は生食出来る。漢名は「海紅」「海棠利」。しかし、これは完全な栽培種で野生種はないから、掲載された書物から、それではない。不詳。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「九」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        

 

 「法苑珠林」八〇に云く、『漢の哀帝の建平三年、零陵に樹あり。量地(何のことか分からぬが先《まづ》は「根本の」てふ義か)、圍み一丈六尺、長《ながさ》十四丈七尺。民、其本《もと》、長さ九尺餘を斷つに、皆、枯《か》る。三月《みつき》の後ち、樹、本《もと》、自《おのづか》ら故處に立つ。』と。根本を切つて置《おい》たのが、元の處へ戾つて、自ら立《たつ》たのだ。

[やぶちゃん注:「法苑珠林」(ほうおんじゅりん)は唐の道世が著した仏教典籍の類書(百科事典)。全百巻。六六八年成立。引用する典籍は、仏教のみならず、儒家・道教・讖緯・雜著など、実に四百種を超え、また、現在は散逸してしまった「仏本行経」・「菩薩本行経」・「観仏三昧経」・「西域誌」・「中天竺行記」なども引用しており、インドの歴史地理研究上でも重要な史料となっている(以上はウィキの「法苑珠林」に拠った)。

「漢の哀帝の建平三年」紀元前四年。

「零陵」現在の湖南省南西部及び広西チワン族自治区北東部に跨る地域に置かれた旧郡名。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 一八七六年板、ギル師の「南太平洋之神誌及歌謠」八一頁已下に、「鐵木《てつのき》」の話あり。鐵木は、わが邦に、稀に栽える木麻黃《もくまわう》や常磐御柳《ときはぎよりう》の一類で、南太平洋では、其木の堅きを武器に利用する。

[やぶちゃん注:『ギル師の「南太平洋之神誌及歌謠」』今までの南方熊楠の電子化で、二度ほど出ているが、不詳。識者の御教授を乞う。

「木麻黃」ブナ目モクマオウ科 Casuarinaceaeの木。当該ウィキによれば、『熱帯の砂浜で「マツ」と間違われる植林は、モクマオウの場合がある』但し、『マツとは類縁は薄い』。『乾燥に適応し、海岸や乾燥地に多い。根にはフランキア属の放線菌が共生し』、『窒素固定している。葉は鱗片状で輪生し、トクサ類のようにも見える。花は単性。雌花は無花被で苞に囲まれ、花序は球果状になる。雄花も痕跡的な花被と雄蕊各』一『個しかなく、花序は尾状』を呈する。『オーストラリア、マレーシア、ニューカレドニア、フィジー、マスカレン諸島に分布する。日本には元来』は『自生しないが、南西諸島、小笠原諸島に導入されたものが野生化している』とある。

「常磐御柳」前注のモクマオウ科の常緑高木。オーストラリア原産で、熱帯地方では海岸の砂防林や街路樹として広く利用され、日本では、観賞用に栽植される。高さ十~三十メートル。枝は糸状で、六~八稜があり、節が多く、淡緑色を帯びる。葉は小さく、鋸片状で、節に輪生する。初夏、新枝の先に長さ一~一・五センチメートルの淡紅色の雄花穂をつける。雌花穂は、短かい柄を持ち、頭状で、雄花と同じ枝の基部につく。球果は径一~一・五センチメートルで木質化した苞に包まれる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 彼《か》の話は、昔し、トンガ島から始めて、鐵木を、マンガイヤ島に移植し、年を經て、大きく成つた時、オアランギなる者、四友と、之を伐つて、武器に作ろうと企て、ヴオテレ鬼、この木の精だから、よせ、と諫める人あるも、聞入《ききいれ》ず、夜、炬《たいまつ》を燃して、其四つの大根《おほね》を、四人して、切つて𢌞《まは》るに、殆ど斷えた根が、往《いつ》て見れば、復《ま》た、合ひ居《を》る。親分オアランギに告《つぐ》ると、「四人が、あちこち、切つて𢌞らず、毎人《ひとごと》[やぶちゃん注:当て訓した。]、一根を、斧で切つて了《しま》ふ迄、やり續けろ。」と言《いつ》た。其通り、實行して、切り倒し終り、明日、又、來る積りで、歸ろうとすると、四人共《とも》、血を吐き始め、其血、鐵木の内膚《うちはだ》の赤きに、異ならず。二人は、死んで了《しま》ふた。跡の二人と、親分と、昨夜、木を切《きつ》た所を望むと、木は切らぬ昔と變らず、聳え居《を》る。立歸《たちかへ》つて、吟味するに、斧の痕も無《なけ》れば、散在《ちりあつ》た屑も、見えず。只、前に異なつたは、幹も、枝も、葉も、赤く光りて、氣孔毎《ごと》に、血を流して、怒る者の如し。一同、驚いて、家に歸る中《うち》、生《いき》殘つた二人も、死んだ。オアランギ、今度は、「晝間、伐るべし。」迚《とて》、多くの友を伴つて、其木を尋ねたが、一向、見えず、空しく歸つて、直後、死んで了つた。斯《かか》る處に、此木の原產地より、オノといふ人が來た。此人、出立《しゆつたつ》に臨み、父より、鐵木作りの鍬一本、授かり、携へた。此人、其鍬を以て、鐵木の𢌞りを掘り𢌞るに、四《よつ》の大根《おほね》を傷つけず、他の細根を、詳しく尋ねて、悉く、切つた。そこで、樹が搖《うご》き出すに及び、終《つひ》に、殘つた親根を切ると、樹精ヴオテレ、怒りの面貌、恐ろしく、口を開き、齒を露はして、飛《おtび》懸るを、オノ、鍬を以て、其頭顱《とうろ》を打破《うちやぶつ》た。其より、四本の大根を切《きり》離す。是れ、實はヴォテレの肱《ひぢ》だつた。扨《さて》、ヴオテレの體を、三分して、長鎗《ながやり》と頭顱割りと、木劍とを、作つた。此鐵木の細根を切た時、飛び散つた屑片《くづ》が、諸處に飛《とび》落《おち》て、現在の多くの鐵木が生《はえ》たと云ふのだ。外國の話で、是が、尤もよく吾が巨樹の翁譚《おきなたん》に似て居《を》る。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷狩」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 雷狩【かみなりがり】 〔斉諧俗談巻一〕安房国に二山《ふたやま》といふ所あり。此所にて毎年の正月、里俗群集して雷狩といふ事をなす。鼬の如くなる獣を多く捕りて殺す。その年の夏は雷鳴する事稀なり。もし狩獲ざればその年雷鳴多しと云ふ。  〔甲子夜話続篇巻五十一〕肥前国神崎にて聞く。此処三四月の頃に雷狩と云ふこと有り。その雷と称する者は、その形白雲の如くにして、大きさ鞠の程なる円《まど》かなるものなり。空中を飛行す。時として人家の上に墜つることあり。然る時は忽ち火災となる。或ひは[やぶちゃん注:ママ。]原草の間に墜つること有れば、その火没して見えずと。故に里人これを畏れ、この物飛来《とびきた》ること有れば、即ち衆人家器をかたづけ、屋背に水桶を上げ、金鼓を鳴らしてこれを逐《お》ひ火災を避く。このこと四五年間には必ず有りと云ふ。

[やぶちゃん注:「斉諧俗談」は「一目連」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここで当該部を正字で視認出来る。標題は『○二山雷狩(ふたやまのかみなりかり)』(「かり」の清音はママ)。

「雷狩」よく判らないが、少なくとも、連関を認められない遠く離れた別な場所に、同じ呼称のものが存在し、前者では「鼬の如くなる獣を多く捕りて殺す」とあり、二話には、正体不明の怪物体が出現し、それが、時に火災を起こすという点からは、近世以前には妖獣として狐狸に次いで恐れられた鼬の怪異と関わる災除が推定される儀式のようである。イタチの妖怪性と、その引き起こす火災については、私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」にも既に記載されている。見られたい。

先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼬と蛇」・「鼬の怪」・「鼬の火柱」』

「二山」現在の千葉県鴨川市大山平塚にある「二ツ山」か。標高三七六メートル。

「甲子夜話続篇」の当該部(一項の三話の内の二番目の話柄)は、事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷之五十一 8 松浦和州、東覲の旅途聞說【三事】(の内、二つ目の肥前神崎の「雷狩」の部分)」で電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷之五十一 8 松浦和州、東覲の旅途聞說【三事】(の内、二つ目の肥前神崎の「雷狩」の部分)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「東覲」は「とうきん」で参勤交代のこと。]

 

51-8(部分)

 又、曰(いはく)、肥前國神崎(かんざき)にて聞く。此處、三、四月の頃に、「雷狩(カミナリカリ[やぶちゃん注:静山のルビ。])」と云ふこと有り。

 その「雷」と稱する者は、その形、白雲(しらくも)の如くにして、大きさ、鞠(まり)の程なる、圓(まど)かなるものなり。

 空中を飛行(ひぎやう)す。

 時として、人家の上に墜(おつ)ることあり。然(しか)るときは、忽(たちまち)、火災となる。

 或(あるい)は、原艸(はらくさ)の間(かん)に墜ること有れば、其火、沒して見へ[やぶちゃん注:ママ。]ずと。

 故に里人《さとびと》、これを畏れ、此物、飛來(とびきた)ること有れば、廼(すなはち)、衆人、家器(かき)をかたづけ、屋脊(をくはい)に水桶(みづをけ)を上げ、金鼓(きんこ)を鳴(なら)して、これを逐(お)ひ、火災を避(さ)く。

「此こと、四、五年間には、必ず、有り。」

と云(いふ)。

■やぶちゃんの呟き

「肥前國神崎」佐賀県神埼(かんざき)市神埼町(かんざきまち:グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代より前は皇室領荘園であった。

2023/09/19

南方閑話 巨樹の翁の話(その「八」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        

 

 木を伐《きつ》ても其創《きず》が本《もと》の如く合ふと云ふ例を、唐の段成式の「酉陽雜爼」から、後藤氏が見出だして、『土の鈴』一三輯八四頁に載せられたが、他の支那書にも、例、無きに非ず。「淵鑑類函」四一五に、「神異經」を引いて、東方に、豫章樹、有り、高さ千丈、工《たくみ》あり、斧を操《あやつ》り、旋《めぐ》り斫《き》れば、旋り合《あは》す。『增訂漢魏叢書』八八に收めた「神異經」の文は、之に同じからず。東方荒外に、豫章樹、有り、此樹、九州を主《つかさ》どる。其高さ千丈、圍《かこ》み百尺云々、枝ごとに一州を主どり、南北に並列し、面《おもて》、西南に向ふ。九力士有《あり》て、斧を操つて、之を伐り、以て、九州の吉凶を占ふ。之を折れば、復《また》生ず。生ずれば、其州、福有り、創つけば、州伯、病む有り、歲を積んで、復《ふく》せざる者は、其州、滅亡す、と有る。是は、東方未開の地に、大きな樟樹、有り、九つの枝、有《あつ》て、それぞれ、九州の一つを代表する。力士九人、斧で、此枝を斫つて、九州の吉凶を占ふに、斫られた枝が、復《また》生ずれば、其枝に當つた州に、福、有り、創つく時は、其州の領主が病む、斫取《きりと》られて、歲が立つても生ぜざれば、其枝に代表さるゝ州が亡びると云ふので、「五雜爼」十に、曲阜孔廟中の檜の盛衰は、天地の氣運・國家の安危を示す如く論じ、『大英百科全書』に、或る木が枯《かる》れば、或人が死すてふ迷信を列ねてゐる類《たぐひ》だ(十一板、廿七卷二三六頁)

[やぶちゃん注:以上の本文の数箇所は底本(ここから)に、「選集」に拠る追加を加えてある(「『土の鈴』一三輯八四頁に」の部分は底本にない書誌である)。一部の本文に不審があり、それも「選集」を参考に私が正しいと判断した修正を施した。

「後藤氏」「選集」に後藤捷一とする。後藤捷一(明治二五(一九八二)年~昭和五五(一九八〇)年)は徳島市に生まれの染織書誌学の研究家。徳島県立工業学校卒業後、直ちに大阪に出て、染料の研究を始めた。染織関係の業界誌を編集する一方、染織を主体にした文献を収集し、「日本染織譜」等、数多くの文献を残し、晩年には約七十年に亙って集めた資料や文献を整理し、室町から明治中期までの計六百七十一点からなる「日本染織文献総覧」を纏めている。また、藍の研究でも著名で、特に阿波藍の研究では第一人者であった(「独立行政法人国立文化財機構『東京文化財研究所』」公式サイト内の「物故者記事」のこちらに拠った)。彼が『「酉陽雜爼」から』『見出だし』たとする内容は、記事が判らないので、同定不能であるが、思うに、章末の同書の引用がそれか。

『「淵鑑類函」四一五に、「神異經」を引いて、……』「淵鑑類函」は南方熊楠御用達の清代に編纂された類書(百科事典)。康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成したもので、一七一〇年成立。当該部は「漢籍リポジトリ」のこちら[420-24b]及び[420-25a]で電子化されたものと、影印本画像を見ることが出来る。「神異經」は中国の古代神話に基づく「山海經」(せんがいきょう)に構成を倣った幻想地誌。著者は漢の武帝の側近東方朔とする説があるが、現在は後世の仮託とされている。

「豫章樹」今まで何度も出たクスノキの漢名の一つ。

「九州」中国全土を指す古称。夏禹の時代に、全域を九つに分けたことに由来する。「書経」の「禹貢」によれば、冀(き)・兗(えん)・青・徐・揚・荊・予・梁・雍を指す。]

 扨《さて》、馬琴が「燕石雜志」に言つて居《をつ》たと記臆する通り、古書の文を孫引きして、其現存の本を見ると、多少、違ひ居《おつ》たり、或は、全く見えぬ例が多い。右述、「神異經」の文も、現存のよりは、「類函」に引《ひい》た方が古いらしく、「神異經」、果たして東方朔の作なら、切れた木の疵が、復た、合うふ譚中、是が、最も古い者であらう。又、是も『增訂漢魏叢書』本に見えぬが、「類函」には、「高士傳」から、巢父《さうほ》、許由が、堯の徵辟を辭して、耳を河に洗ふを見て、由に語り、『豫章の木、高山に生ず。工、巧みなりと雖も、得る能はず。子、世を避くるに、何ぞ深く藏(かく)さざる。』と言つた、と有る。古支那で、樟の木は、至つて得がたい物だつたので、神怪の說も、特に多かつたと見える。件《くだん》の巢父は、年老いて、樹を以て巢《すみか》となし、其上に寢た故、時人、「巢父」と號《なづ》けたと云ふ。支那の上古、有巢民、有り、木を構へて、巢と爲し、住み、木實《このみ》を食ふた(「十八史略」一)。今も木の上に小屋を作り住む民族あり(一九〇六年板、スキート及ブラグデン「マレー半島野敎民種篇」一ノ一八一と、一八三頁に面する圖參照)。そんな人間は、殊に、大木を重んずる筈だ。

[やぶちゃん注:「燕石雜志」馬琴の考証随筆。本名の滝沢解名義で文化八(一八一一)年刊。私は吉川弘文館随筆大成版で所持する。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で原本が総て視認出来る

「巢父、許由が、堯の徵辟を辭して、耳を河に洗ふを見て」「莊子」の「逍遙遊」や「史記」「燕世家」等でよく知られた話。許由が、聖王帝堯から、その高徳を認められ、天子の位を譲ると言われたが、それを固辞し、逆に「汚い話を聞いた。」と、潁川(えいせん)の水で耳を洗った。すると、そこへ牛に水を与えるために通りかかり、許由の耳を洗う理由を聞くと、「汚れた水を、牛に飲ませるわけにはゆかぬ。」と言って、その場を去ったのが巣父であった。

『一九〇六年板、スキート及ブラグデン「マレー半島野敎民種篇」一ノ一八一と、一八三頁に面する圖參照』イングランドの人類学者ウォルター・ウィリアム・スキート(Walter William Skeat 一八六六年~一九五三年:主にマレー半島に於ける民族誌の先駆的調査に取り組んだことで知られる)と、同じくイングランドの東洋学者・言語学者であったチャールズ・オットー・ブラグデン(Charles Otto Blagden 一八六四 年~一九四九年:マレー語等、東南アジアの言語に精通し、特にビルマ語のモン文字とピュー文字の研究で知られる)が共同執筆した‘Pagan Races of the Malay Peninsula’(「マレー半島の異教の民族」)。「Internet archive」の原本のこちらで当該本文が、挿入された南方熊楠の指示する写真画像がここで見られる。

 以下の章末の段落(全漢文)は、底本では、ポイント落ちであるが、読み難くなるので、同ポイントで示した。その代り、一行空けた。「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合した。問題無し。]

 

 酉陽雜爼曰、舊言、月中有桂、有蟾蜍、故異書言、月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合、人姓吳、名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹、釋氏書言、須彌山南面、有閻扶樹、月過樹、影入月中、或言、月中蟾桂地影也、空處水影也、此語差近。〔「酉陽雜爼」に曰はく、『舊(ふる)くより言ふ。「月中に、桂、有り、蟾蜍(ひきがへる)有り。」と。故に、異書に言ふ。「月の桂は、高さ五百丈、下に、一人、有りて、常に、之れを斫(き)るに、樹の創(きず)は、隨(したが)ひて、合(がつ)す。人、姓は吳、名は剛、西河の人なり。仙を學びて、過ち有り、謫(たく)せられて、樹を伐らしめらる。」と。釋氏の書に言ふ。「須彌山の南面に『閻扶樹(えんぶじゆ)』あり。月の、樹を過(よぐ)るに、影は、月の中(うち)に入る。」と。或いは、言ふ。「月中の、蟾(ひきがへる)と、桂は、地の影なり。空(くう)なる處は、水の影なり。」と。この語(ことば)差(やや)近(あた)れり。』と。〕

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「髪切」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。
 

 髪切【かみきり】 〔諸国里人談巻三〕元禄のはじめ、夜中に往来《ゆきき》の人の髪を切る事あり。男女共に結ひたるまゝにて、元結際《もとゆひぎは》より切りて、結ひたる形にて土に落ちてありける。切られたる人、曾て覚えなく、いつ切られたるといふをしらず。この事、国々にありける中に伊勢の松坂<三重県松阪市>に多し。江戸にても切られたる人あり。予<菊岡沾凉>がしれるは、紺屋町<東京都千代田区神田紺屋町>金物屋の下女、夜物買ひに行きけるが、髪の切られたる事いさゝかしらず、宿に帰る。人々髪のなきよしをいふに、おどろき気を失なひたり。その道を求むるに、人のいふに違《たが》はず、結ひたるまゝにて落ちてありける。その時分の事なり。 〔耳囊巻四〕世上にて、女の髪を根より切る事あり。髪切りとて、代《かはり》に怪談の一つとなす。中には男を約して、父母一類の片付けなんといふをいなみて、右怪談にたくして、髪などを切るも多し。然れども実に狐狸のなすもあるとかや。松平京兆《けいちやう》の在所にて、右髪を切られし女、両三人ありしが、野狐をその頃捕へ殺して、その腹を断ちしに、腸内《わたうち》に女の髪ふたつまでありしと語り給ふ。一様には論ずべからざるか。〔半日閑話巻十〕文化七庚午年四月廿日の朝、下谷小嶋氏(富五郎)家の姉(小女なり)朝起きて玄関の戸を開かせんとせしに、頻りに頭重くなる様に覚えしが忽然として髪落ちたり。分々の髪切れたるは、ねばりけあり臭気有るものなれども、さにはあらずと云ふ。(去年小日向七軒屋敷間宮氏の姉切られしは、宵よりしきりにねむけ有りて切られしと云ふ)

[やぶちゃん注:第一話は、私の「諸國里人談卷之二 髮切」を見られたい。第二話も私の「耳嚢 巻之四 女の髮を喰ふ狐の事」で注と現代語訳も添えてある。「半日閑話」は「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は「○婢髮切」である。

「文化七庚午年四月廿日」グレゴリオ暦一八一〇年五月二十二日。

「開かせん」ママ。上記活字本では、『開ん』で、「あけん」と普通に読める。

「分々の髪切れたるは」同じく上記活字本では、『外々の髮切れたるは』で、これは「ほかほか」と読め、「普通、結った髪が切れた場合は」と意味と読める。則ち、結って程なく切られたそれは「ねばりけあり」、髪油がたっぷりし沁み固めてあるものだから、強い油の『臭氣』があるのに、それがなかった、と言っているのであろうことが判る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蝦蟇の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蝦墓の怪【がまのかい】 〔耳囊巻四〕営中にて同僚の語りけるは、狐狸の径は、昔より今に至りても、聞くも見るも多し。蟇も性をなすものなり。厩に住めば、その馬心気衰へ、終《つ》ひに枯骨となり、人間もまた床下にひき住みて、その家の人、うつうつと衰へ煩ふ事ありし。或る古き家にすめる人、何となく煩ひて、気血《きけつ》衰へしに、ある日、雀など縁ばなに来りしに、何ともなく縁下に飛び入りて、行衛知れず。或ひは猫・いたちの類、縁際に居しを、縁下へ己《おの》れと引入るゝやうに入りて、行へしれず。かゝる事、度々ありし故、あるじ不思議に思ひ、床を離し、縁下へ人を入れ、さがしけるに、大きなるひき、窪ある所に住み居たりしが、毛髪枯骨の類、夥しく傍にありしゆゑ、全くひきの業《わざ》なりと、彼《かの》物を打殺し捨て、床下を掃除なしければ、かの病人日にまし愈えけるとなり。予<根岸鎮衛>壮年の時、西の久保の牧野方にまかりて、黄昏の時庭面を詠(なが)め居しに、春の事なるが、通例より大きなる毛蟲、石のうへを這ひ居たりしに、縁下よりひき出《いで》て、右毛森蟲よりは、三尺余も隔りし場所へ這ひ来り、暫しありて、目をあくと見えしが、三尺程先の毛むしを吸ひ行くと見えて、右毛蟲は、ひきの口の内へ入りける。されば年経しひきの人気《じんき》を吸はんも、空言とは思はれず。また柳生氏の語りしは、上野寺院の庭にて、ひき鼬をとりし事有り。これも気を吹きかけしに、鼬たふれて死せしを、土をかけて、その上にひきの登り居《をり》し故、翌日右土を掘りて見しに、鼬はとけうせしと、右寺院の語りし由、咄しけるとなり。但し蟇の足手の指、前へ向きたるは通例なり。女の礼をなす如く、指先をうしろへ向けるひきは、必ず怪をなすと、老人の語りし由、坂部能州物語りなり。

[やぶちゃん注:「耳嚢 巻之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」を見られたい。注と現代語訳も附してある。]

〔寝ぬ夜のすさび巻三〕松岡氏語られしは、近ごろ柳橋庵連馬といふ俳諧の宗匠あり。この屋敷内にも連中ありて、度々往来せし男なり。きはめて蝦蟇の類を愛す。庭に小さき泉水ありて、夏月は外より蛙を取り来りて、池中に放してこれを愛す。また机上に文鎮卦算の類、ことごとく蛙・蝦蟇の類を、銅陶にて作りしものを貯ふる事、四五十もありて、人々見し事にて、奇なりとて評せし事なり。しかるにこの男、ある年行脚して会津に至り、こゝに留りて二三月もゐしなり。ある家にはなれ座敷あるが、そこの連中この座敷へ至りて、夜々ごとに集りて俳諧などせし事なり。しかるに給仕する女、ある日主人に告ぐるは、かの宗匠頃日《けいじつ》心付けて見るに、人々帰りしのち、皆人《みなひと》も寝しづまると、人と語る事毎夜なり、誰人かゐるとひそかに見るに、誰もゐるものなし、いかなる事にかといふ。主人いぶかしと試みるに言のごとし。連馬に問ヘばあらずと答ふ。いよいよ試みるに、いよいよしかり。いよいよいぶかしみて、怪異などに魅せらるゝにやと心付きて、後ある夜寝しづまりて後、蟇一疋廊下に居りしかば、主人これならんとて見る内に、障子の際まで這ひ行きて見えずなりぬ。かゝるほどに連馬はなしを始めたり。そのいふ事、何事か聞きわけがたし。主人こゝに決して、二三度試みるに前のごとし。よつてある日これを告げてなじり問ふに、連馬いふ。いと恥かしき事ながら、某《それがし》近来《ちかごろ》江戸にて、一枚絵の美人を画きたるを見るに、その美しき事いはんかたなし、余りよければ求めて、常にこれを見るに、いよくいよ目でたくて、世にかゝる女ありて、妻にもせばなど常におもひて、今に秘めもてり、しかるにこゝに来て後、その絵のごとくなる女、ある夜来りて過《すご》す、積年の情しのびがたくて、毎夜これを迎ふ、かれもまた捨てずして来る、先日公の問はれし時、これをしるといへども、云はざりしはこの故なり、今公が蟇の事といはるゝはうけがたしと答ふ。よつて主人詞《ことば》をつくして諫むれども用ひず。なほ連中とともに強ひて諫めたれば、表は諾したれども猶やまず。さて日数ふるまゝに顔色おとろへ、寝食も常ならずなりしかば、江戸におくり帰したりしに、日を経ずして歿したりとぞ。

[やぶちゃん注:「寝ぬ夜のすさび」雑司ヶ谷に住む幕府お鷹方を務めた片山賢の随筆。文政末年(一八三〇年)から弘化年中(一八四五年~一八四八年)に至る江戸市中の巷談街説及び名流の逸事などを、見聞に従って綴ったもので、全四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『新燕石十種』第五(大正二(一九一三)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。標題は「○柳橋菴連馬」。]

〔江戸塵拾巻二〕松平美濃守下屋敷本所にあり。方三町余[やぶちゃん注:凡そ三百二十八メートル四方。]の沼あり。この中に住む一年、故有《ゆえあり》てこの沼を埋《うづ》むべきよし申付けられ、近々掘り埋めんと云ふ時に、上屋敷の玄関に、けんぼう小紋の上下《かみしも》著たる老人一人来りて、取次の士にいふ様《やう》、私儀御下屋敷に住居《すまひ》仕る蟇にて御座候、この度私住居の沼を御埋めなされ候御沙汰有ㇾ之段、承知奉り候に付き参上仕候、何卒この儀御止《とど》め下され候様に願上げ奉り候旨を申述候。その段申聞くべく候とて、取次の士退座して怪しき事に思ひ、襖をへだてうかゞひ見るに、けんぼう小紋の上下と見えしは、蟇が背中のまだらふ[やぶちゃん注:「斑(ふ)」。]なり。大サは人の居(すわ)りたるが如く、両眼かゞみの如し。即刻美濃守へ申達しける所、口上のおもむき聞届け候よし挨拶あられ、沼をうづむる事を止められける。元文三年の事なり。

[やぶちゃん注:「江戸塵拾」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第三(岩本佐七編・明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のこちらで正字で確認出来る。標題は「大蟇」。

「松平美濃守下屋敷本所にあり」切絵図と対照したところ、東京都江東区清澄の「清澄公園」内の南部の西角から南東の附近(グーグル・マップ・データ)に相当する。]

 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕或人蟇は如何様《いかやう》なる箱の内に入れ置きても、形を失ふと語りしを、若きもの集りて、一疋の蟇を箱の内へ入りて、夜咄の床上に置きて、酒など飲みて折々かの箱に心を付け居たりしが、酒も長じて心付かざる内に抜け出《いで》しや、二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]程隔てし所に下女の声して驚ける様子故、いづれも彼《かの》所へ至り見れば、最前の蟇有りける故、別の蟇なるべしとて最初の箱を見しに、いつ抜け出しや、箱の中になかりければ、またまた右の箱の内へ入れて、この度は代る代る眼もはなさず守り居しに、夜の深更に及び何れも眠りを催す頃、箱の縁より何か泡出けるが、次第に泡も多くなりける故、如何なる故ならんと見るうち、一団の泡見るうちに動きて消えけるまゝ、何れも目覚めし者ども立寄り、箱の蓋を取りて見しに、蟇はいづち行きけん見えず。さては泡と化して去りしならんと、いづれも驚きしと予<根岸鎮衛>が許へ来る者の語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「釜鳴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 釜鳴【かまなり】 [奇異珍事録]御広鋪《おひろしき》御下男に弥四郎と云ふ者あり。渠《かれ》は御医師部屋附《づき》にて、大奥御医師の用を達す小遣(こづかひ)なり。この弥四郎家にて、或時飯焚釜《めしたきがま》鳴り出《いで》たり。はじめは𧉡などの鳴く様に有りしが、次第に音大きく発し、ひびゝき渡れり。そこに有合《ありあ》ふ薪など重ね積み、これを防げども中々止《や》まず。女の湯衣《ゆかた》打懸れば鳴り止む由なれども、それも有合さねば、如何せんとこまり居たる時、近隣の家にて先年釜鳴りし事あり。その家の主《ある》じ知る人なれば、行きて聞かんと、急ぎかしこに至り、先年釜の鳴りを止めしを聞く。その頃は早《はや》夜明けはらひたるとなり。爰へもかの釜鳴り渡る音、夥しく聞えけるよし。先の家の主じ云へるは、麻上下《あさがみしも》の肩衣《かたぎぬ》を懸くべし、鳴り止みぬとをしへけるまゝ早々に帰りける。かくと云ふに、女房急ぎ簞笥《たんす》より麻上下を取出《とりいだ》し、その肩衣を件《くだん》の釜へ懸《かく》る迄もあらず、かざすと忽ち鳴り止みけり。然も段々仕合《しあはせ》よく繁昌せりとなり。その事弥四郎直《ぢき》の咄なり。

[やぶちゃん注:「奇異珍事録」は既出既注だが、再掲すると、幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちらで視認出来る。

「御広鋪」「御廣敷番」のことか。江戸幕府の職名で、大奥の管理・警衛に当たる御広敷向きの役人の内、警衛を主とした役人。責任者は番頭で、留守居支配。二百石高、役料二百俵、人数は九名。交代制で昼夜詰切りで勤務した。

「𧉡」意味不明。小さな虫が鳴くことか?]

2023/09/18

寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」全面改訂始動

次いで、二〇〇七年の古いサイト版の、
の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂に入った。

南方閑話 巨樹の翁の話(その「七」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        

 

 此北歐の例に似たのが支那にも有《あつ》て、周の武王は樹神崇拜を禁絕せうとて大木を伐つた譚が、晉の干寶の「搜神記」三に出づ。

 昔、武王の時、雍州城南に、高さ十丈で、𢌞《まは》り一里の地を蔭にした大神樹、一本、有り。人民、悉く、奉崇し、四時八節に、羊を牽き、酒を負ひ、祭祀、絕えず。武王、之を見て、「此樹神、何ぞ我が百姓を、損ずべきや。」とて、兵を以て、圍んで、伐《きら》んとすると、神、砂を飛ばし、石を走らせ、大雷電と來た。兵士共、瓦解して逃去《にげさつ》た跡に、脚《あし》を損じた者、二人、樹から百步距《へだ》つた地に、臥して、去るを得ず。其夜、赤い衣、きて、乘馬した者、來つて、樹神に向ひ、「朝から、武王、汝を伐《きつ》たが、損傷を受《うけ》たか。」と問ふ。樹神曰く、「我れ、雷電を起《おこ》し、砂石を飛《とば》し、兵士を傷けたので、兵士、分散して、我に近づかなんだ。何と、我《わが》威力は、きついものだらう。」と。赤衣の人、怒つて、「我れ、若し、王に敎へて、兵士の面《つら》に、朱を塗り、披髮して、朱衣を着、赤繩で樹を縛り、灰を百度も、𢌞《まはり》に撒《まい》て、斧で伐らせたら、伐《きら》れぬものか。」と。問はれて、ギツクリ、樹神、答《こたへ》、無し。其れ見たかと言はぬ計《ばか》りに、赤衣《せきい》の人は、轡《くつわ》を縱《ゆるく》して去《さつ》た。翌日、其軍人、鄕中《がうちゆう》の父老《ふらう》に聞《きい》た儘を語り、王まで聞へる[やぶちゃん注:ママ。]。王、其言の通り、種々、用意して、斧で伐らしむると、何の變事も無く、樹から、血が出《いで》て、一《いつ》の牝牛が、飛び出して、豐水《ほうすい》中に走り入つた。故に、樹の精は、百年、立てば、靑牛に化けると、知つた。其より、大木を伐るには、赤い物と灰を用ひて、樹精を追出《おひだ》す事と成つたと云ふ事ぢや。前に引《ひい》た通り、秦の文公が、終南山の梓の大木の蔭が、宮中を暗くするを惡《にく》んで伐らしめた時も、樹精、靑牛に化《ばけ》て、澧水《ほうすい》に入《いつ》た、と有る。澧水は豐水と一所で、古くこんな話が有《あつ》たのを、武王・文公と、色々に傳へたらしい。

[やぶちゃん注:「搜神記」の当該話は、「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像で視認出来る。

「前に引た通り、秦の文公が、……」「二」を参照されたい。]

 木が傷ついて血を流すの、樹を伐れば、樹の精が遁げ去るの、などいうことは、支那の外にも、多い。エストニアやシルカツシアに、樹神が、牛を繁殖せしむという俗信、行なはれるより考へると、支那でも、斯《かか》る想像から、樹神が、牝牛に化《ばけ》るとした者か(フレザー「金椏篇《きんしへん》」一卷一章參照)。本邦にも丑の時詣りを大牛が道に橫たはつて遮ぎると云ふは、本《も》と、樹精は、牛形で、自分が宿る木幹《きのみき》に、釘を打《うた》るゝを防がん迚《とて》の行爲と云ふ意味かも知れんて。梁の任昉《にんばう》の「述異記」上に、『千年の樹の精は、靑牛と爲る。』と有るは、「搜神記」に百年と見ゆると違ふ。

[やぶちゃん注:「シルカツシア」不詳。

「金椏篇」「金枝篇」に同じ。私の愛読書である。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「六」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 予が現住宅地に大きな樟《くす》の樹あり、其下が快晴にも薄暗い斗り枝葉繁茂し居り、炎天にも熱からず、屋根も大風に損ぜず、急雨の節、書齋から本宅へ走り往くを掩護《えんご》する、其功拔群だ。日傘、雨傘、足駄、全く無用で、衣類もと云ふ所だが、予は、年中、多く、裸暮し故、皮膚も沾《ぬ》れず、こんな貧人に都合のよい事は又と無いから、樹が盛える樣《やう》、朝夕、成るべく、根本に小便を垂れて御禮を申し居る。物語や軍記を讀むと、樹下に憩ふて、勢いを盛り返したの、大木の本に雨宿りしたのと云ふ事、多く、何でも無い事の樣な物の、其《その》當人に取つては、實に再生の想ひが有つたので、爲めに、一生に新活路を開き、無上の幸運に向ふた例も少なくあるまい。

 去《され》ば、上に引いた、日本武尊が樟の大木を讃《たたへ》て、其國に名《なづ》け給ふたのも、幾分、此邊の理由もあつた事なるべく、サー・サミユール・ベイカーの「ゼ・アルバート・ニアンザ」十九章に、バーバーより、スワキムえ[やぶちゃん注:ママ。]行く途中で、著者の一行と、アラブ人の一行と、一樹の蔭を爭ふて、戰鬪した記事有り。いと大人氣ない事の樣だが、本人共《ども》に取つては、無水の沙漢に長途を取つた場合、一本の大樹を見て、其蔭に憩ふは、萬金よりも、渴望の餘り、焉《ここ》に及んだので、一樹の蔭、一河の流れに、宿り、飮むを、深い宿緣とした詞《ことば》も、其《その》理《ことわり》あり。印度の或《ある》民は、沙漠中、偶《たまた》ま見る孤樹の蔭を絕《たや》さぬ爲め、旅客、每《つね》に、其樹に布片《ぬのきれ》を懸けて、樹精マーモを祀る(エントホヴエン編「グジヤラツト民俗記」五六頁)。

[やぶちゃん注:「サー・サミユール・ベイカー」サー・サミュエル・ホワイト・ベイカー(Sir Samuel White Baker 一八二一年~一八九三年)はイギリスの探検家で士官、博物学者・狩猟家・エンジニア。彼はまた、オスマン帝国と、エジプトで、「パシャ」と「少将」の称号も保持していた。

「ゼ・アルバート・ニアンザ」は‘The Albert N'Yanza, Great Basin Of The Nile; And Exploration Of The Nile Sources.’(「アルバート・ニャンザ、ナイル川大盆地、そして、ナイル川源流の探査。」:一八六六年刊)。「十九章」は「Internet archive」の原本のここから。

「バーバー」不詳。

「スワキム」現在のスーダンの紅海に面した港町スアキンのことか(グーグル・マップ・データ)。

『エンドヴエン編「グジヤラツト民俗記」』「選集」では編者名は『エントホヴエン』とある。インド西部グジャラート州(アフリカからの移民が多い地域)の民俗誌で、恐らく、「Project Gutenberg」の‘Folk Lore Notes. Vol. I’ の“Gujarat, by A. M. T. Jackson”とする電子化物に、“Editor: R. E. Enthoven”とあるので、これと思われたが、見る限り、熊楠の言うような内容は発見出来なかった。]

 佛說に、世界諸洲に、大樹、有之《これあり》、各地民を、快樂慰安せしむる由を、述ぶ。北洲の安住樹は、高さ六抅盧舍《ろくくろしや》(一拘盧舍は五里)、其葉、密に重なり、次第に相《あひ》接して、草で屋根を葺《ふい》た樣《やう》で、雨、滴り洩らず、諸人、其下に安住す。劫波娑樹《こうはしやじゆ》は、高さ、六、乃至、五萬四千三百廿一拘盧舍で、其果より、自然に、衣服・瓔珞、出で、樹間に懸置《かけお》かる。又、人の欲する儘に、種々の、鬘や、器物や、樂器を、果實から出《いだ》す、鬘樹、器樹、樂樹、有り。諸佛、皆、大樹下に成道說法する。抅留孫佛《くるそんぶつ》は尸利沙樹《しりさじゆ》、倶那含牟尼佛《くなごんむにぶつ》は烏暫婆羅門樹《うざんばらもんじゆ》、迦葉佛《かせうふぶつ》は尼倶律樹《にくりつじゆ》、釋迦牟尼佛は菩提樹、彌勒佛は龍華樹だ(「起世因本經」一。「佛祖統紀」卅。「諸經要集」一)。大樹の蔭に、日熱雨露を避け、安坐默念して、漸く、悟道したのだ。

 斯《か》く、大木は、用材・柴・薪・果實から、其蔭迄も、人世に大必要であつたから、之を、神や神物として尊崇し、切らうなどとは思ひもつかぬ有樣だつた故、印度、其他に、樹神の話、多く、本邦にも上古、樹を神に崇めたらしいのも見え、支那でも「抱朴子」に、『山中の大樹、能く語るは、樹が語るので無く、樹の精が語るのだ、その精の名を「雲陽」と曰ふ。其名を以て、之を呼べば、則ち、吉。』と有る。是は、樹の精の名を知置《しりおい》て、之を呼べば、害を成し得ぬと云ふので、大法螺吹きも、素性を知つた人の前では、へこたれて了ふ如く、いかな樹神も名を知られたら、怪力を揮《ふる》ひ得ぬと云ふのだ(『鄕土硏究』第一卷第七號、拙文「呼名の靈」參照)。其が、追々、人間も殖え、生活上の必要から、家を建《たて》て、田畠を開くに、大木が必要となり、又は、邪魔になるより、之を伐らねば成らぬ場合に及んで、舊想を守る者は、樹神が祟りを爲すを恐るゝ處から、巨樹の翁の譚など、出來たのだ。北歐諸國へ耶蘇敎が入つた時などは、家を建つとか、田畠を開くの必要に迫られざるに、單に樹神崇拜を絕《たや》すために、大木を伐らせた事が多かつた。

[やぶちゃん注:名を知り得て、それを先に「言上(ことあ)げ」した方が、勝つ、或いは、対象を支配するという、汎世界的な民俗伝承の原理である。]

南方閑話 巨樹の翁の話(その「五」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 「古風土記逸文考證」に、「釋日本紀」より孫引された「筑後風土記」に、三毛郡《みげのこほり》云々、昔し、一つの楝木(クヌキ)あり。郡家の南に生じ、其高さ、九百七十丈。朝日の影、肥前の國藤津郡多良の峯を蔽ひ、暮日《ゆうひ》の影、肥後の國山鹿郡《やまがのこほり》荒爪の山を蔽ふ云々。因《ゆゑ》に御木《みき》の國といふ。後人、誤《あやまり》て、三毛《みけ》と曰ふ。今以て郡名となす、と有り。高木敏雄君の「日本傳說集」四七頁に、肥後國阿蘇郡高森町の上に、昔し、有つた木は、朝日には、其影が、俵山《たはらやま》を隱し、夕日には祖母山《そぼさん》を隱したが、風に折れて、其枝、地に埋《うも》れたのを、今に掘り出すことがある、と見えるは、似たことだ。「筑後風土記」に、昔し、有つた木を、「クヌギ」としたのは「日本紀」景行帝十八年の記と同じだが、「書紀」に「クヌキ」を「歷木」と書きあるに變り、「風土記」には「楝」と作り居《を》る。楝は和名「アフチ」、近俗、「センダン」といふ。「栴檀」にはあらず(「大和本草」卷十一)。楝の俗稱「センダン」に因《よつ》て、天竺の栴檀の種より、栗の大木が、近江に生えた、と云ひ出《だし》た者で、偶《たまた》ま以て、「三國傳記」の出來た時、既に「アフチ」を「センダン」とも呼んだと分る。又、其頃、何でもない物と侮つて、不意に、足を卷《まか》れて、人が仆《たふ》れるから、思ひ付いて、「侮る蔓に倒れする」てふ諺があつた事も知れる。其諺を釋《と》く爲に、葛の敎へで大木を倒した話を作つたと見える。「三國傳記」は、予、見た事無し。いつ誰が著《あらは》したのか敎へを竢《ま》つ。

[やぶちゃん注:『「古風土記逸文考證」に、「釋日本紀」より孫引された「筑後風土記」に、三毛郡云々……』国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本(栗田寛著・明治三六(一九〇三)年大日本図書刊)のここで当該部が視認出来る。但し、熊楠は、その訓読に必ずしも従っていない箇所があるので、必ず、比較されたい。

「楝木(クヌキ)」栗田氏の注があり、『棟[やぶちゃん注:ママ。]木は、書紀[やぶちゃん注:「景行紀」中。]に歷木とあり、棟木を歷木(クスキ)にあてゝ書るにや。又歷木とは異なる木か、未た[やぶちゃん注:ママ。]考へず、和名抄に、本草云、擧樹久奴岐(クヌキ)、日本紀私記云、歷木、』[やぶちゃん注:これは私が「和名類聚抄」を調べたところ、「久奴岐」ではなく、「久沼木」であった。恐らく下の「本草和名」のそれを誤ったものと思われる。]『また、本草和名之良久奴岐(シラクヌキ)、一云奈美久奴岐(ナミクヌキ)とあり』とあった。この「歷木(クスキ)」は楠(樟)で、クスノキ目クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora を連想させる。

「九百七十丈」二千九百三十九メートル。

「肥前の國藤津郡多良の峯」長崎県と佐賀県の県境に位置する標高九百九十六メートルの多良岳(たらだけ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「肥後の國山鹿郡荒爪の山」位置的に見て、熊本県熊本市西区ある荒尾山(標高四百四十五メートル)のような気がする。

『高木敏雄君の「日本傳說集」』国立国会図書館デジタルコレクションの高木敏雄著「日本傳說集」第四版(一九二六年武藏野書院)のこちらの「樹木傳說第四」の「(ロ)大木」がそれ。

「肥後國阿蘇郡高森町」ここ。阿蘇山の南東の山麓。

「俵山」ここ。阿蘇山の西南西。標高千九十五メートル。

「祖母山」ここ。標高千六百七十メートル。

「アフチ」オウチで、ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の別名。

『「栴檀」にはあらず』とは、香木として知られる「栴檀」とは違うという意。その栴檀とは、インドネシア原産のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album で、センダンとは縁も所縁もない。

『「大和本草」卷十一』国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原版本の当該部である「楝」「アフチ」の項を示す。

「三國傳記」は室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計三百六十話を収めるが、熊楠同様、私も読んだことがない。]

 高木君の「日本傳說集」四八頁に、丹波國何鹿郡志賀鄕村の滴《したた》り松は、雨ふる時、滴《しづく》が落ちず、晴天に限つて滴が落ちるので、近所の田は水に困らなかつたのを、光秀、築城に際し、伐《きつ》て棟木とする爲め、多くの人足をして伐らせたが、大木故、一日で事叶はず、次日《つぎのひ》、徃《いつ》て見ると、前日切つた木片、散亂したのが、一つ殘らず、元へ戾つて、樹、本《もと》の如く成り居る。斯《かく》て幾日掛るも、仕事、捗らず、光秀、人足を增し力《つよ》めて、一日に伐倒して、城の棟木にした由を載す。

[やぶちゃん注:『高木君の「日本傳說集」四八頁に、丹波國何鹿郡志賀鄕村の滴り松は、……』前に注した同じ個所の次の「(ハ)滴松」がそれ。

「載す」底本は『截す』。訂した。]

 「攷證今昔物語集」に、若干の大木の話を列ねてある。乃《すなは》ち「古事記」に、仁德帝の御世、兎寸河の西に一高樹有り。その樹の影、旦日《あさひ》に當つては、淡道島に逮《およ》び、夕日に當つては高安山を越ゆ。故に、是樹を切《きり》て船となす。其はいと[やぶちゃん注:「いと」は「選集」で補った。]捷《はや》く行く船也。時に其船を號《なづ》けて「枯野」といふ云々。是は、熊楠、思ふに、樹の蔭、日光を遮つて、其下に草木の生《はえ》るを妨げたので、野を枯らした木と云ふ意味で付けた名らしい。「播磨風土記」には、明石の驛家《うまや》、「駒手《こまで》の御井《みゐ》」[やぶちゃん注:湧き水の名称。]は、難波高津宮〔仁德〕天皇の御世、楠〔の木〕、井の口に生え、朝日には淡路島を蔽ひ、夕日には大和島根を覆ふ。仍《よつ》て、其楠を伐《きり》て、舟を造り、其迅き事、飛ぶが如し。一檝《ひとかぢ》去れば、七浪《しちなみ》を越ゆ。仍て「速鳥《はやとり》」と名《なづ》く云々。「肥前風土記」には、佐嘉郡《さがのこほり》に、昔し、樟《くす》の樹一株、此村に生え、幹枝《もとえ》、秀《ひい》で、高く、葉、繁茂す。朝日の影は、杵島郡《きしまのこほり》蒲川山《かまかはやま》を蔽ひ、暮日《ゆふひ》の影は、養父郡《やぶのこほり》草橫山《くさのよこやま》を蔽ふ。日本武尊、巡幸の時、楠の茂り榮えけるを御覽じて曰く、「この國は榮之國《さかのくに》と云《いふ》べし。」と。因《より》て榮郡と曰ひ、後、改めて、佐嘉郡と號く云々。

[やぶちゃん注:芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)のそれは、「本朝部」巻第三十七の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の付注内の一節を指す。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ後ろから三行目以降から)である。但し、この段落の多くの読みは、所持する一九三七年岩波文庫刊の武田祐吉編「風土記」に拠った。

「兎寸河」この巨木伝承、私の好きな話なのだが、その生えていた比定地は、論争が激しいが、現在のところは、今の大阪府泉南市兎田(うさいだ)とするのが有力らしい。影を落とすところからして、穏当であろう。

『明石の驛家、「駒手の御井」』「兵庫県学校厚生会・関係法人公式サイト SMILEPORT」の「郷土の民話」の「駒手〈こまで〉の御井〈みい〉と速鳥〈はやとり〉(明石市大蔵町)」によれば、『大蔵谷〈おおくらだに〉の太寺〈たいでら〉に駒手〈こまで〉の御井〈みい〉というたいへんよい清水があり、その上に大きなクスノキがありました』とある。この「大蔵谷」は現在の明石市の現在の兵庫県明石市大蔵町を含む、かなり大きな旧広域地区名で、前の地図の北西に配したが、「太寺」は現在の兵庫県明石市太寺で、その二丁目内に「太寺廃寺塔跡」(グーグル・マップの名称は「太」を「大」に誤っている)が残る。この寺は「明石市」公式サイト内の「明石の遺跡 」の「太寺廃寺」によれば、『太寺は白鳳期(7世紀後半~8世紀初)に造営された寺院の名ですが、早くより廃寺となりました。現在は江戸時代、明石城主小笠原忠政(のち忠真)によって再興された天台宗太寺山高家寺があります』。『境内の東南隅にある小高い土盛は、県の文化財に指定されている太寺廃寺の塔跡で』、『塔の基壇は高さ約1.5mで、円形つくりだしの柱座が設けられた礎石が3石、現位置に埋没して残存しています。うち北側の2石は中心間の距離が約8尺、残り1石の距離は2石を結ぶ線と直角に約16尺の位置にあり、1辺約7.3m24尺)の塔であったと推定されます』。『寺の境内からは白鳳時代~江戸時代の瓦が出土しており、白鳳時代以降、数度にわたる改修を受けていたことが分かります』とある。さても、「ひなたGPS」で戦前の地図を見て貰いたい。すると(横地名は総て右から左で書かれているので注意)、「明石市」の市名の右下にゴシック太字で「大藏谷」とあり、ここが、現在の大蔵町や太寺を含む広域地名であったことが確認出来るのである。面白いのは、巨大なクスノキの近くの古代寺院に、当時としては、基盤と柱座の礎石位置から見て、かなり高かったであろう仏塔が建っていた事実である。或いは、この仏塔はその巨木のよすがを偲ぶためでもあった可能性があるのではなかろうか?

「大和島根」我が国の本土(本州)のこと。

「佐嘉郡」ウィキの佐賀県の旧「佐賀郡」に、本大樹伝説による地名説が原文を引いて載る。その注によれば、以下の「杵島郡蒲川山」は、『肥前の国学者糸山貞幹は江北町』(こうほくまち)『佐留志』(さるし)『の堤尾山と比定したが、現在の場所は不明。井上通泰は杵島郡東部の山と推定した』とあり、「養父郡草橫山」は、『井上通泰の『肥前國風土記新考』では、四阿屋神社祠官三橋真国の話として九千部山』(くせんぶやま)『に比定する。また糸山貞幹の『肥前旧事』では、みやき町中原の綾部山』(綾部城附近であろう)『を草山ともいい、その傍を横山と呼ぶという』とあった(リンクは私がグーグル・マップ・データを勝手に張ったもの)。]

 外國にも古芬蘭《フィンランド》國のヴイナモイネンが蒔いた檞《かしは》の實より大木を生じ、其梢天に屆き、行く雲を妨げ、日光月光を遮つたのを、一寸法師、海中より出で、忽ち、巨人に化して、伐り倒したので、農作、始めて出來たといひ、エストニアの舊傳、亦、カレヴイデが到着した島の檞は日月を蔽ひ、其枝の蔭が全國を暗くしたのを、一寸法師が伐僵《きりたふ》したという(亡友ヰリアム・フオーセル・カービー氏英譯「カレヴラ」二段。同氏英譯「カレヴイポエグ」六段)

[やぶちゃん注:「ヴイナモイネン」当該ウィキによれば、『ワイナミョイネン(Väinämöinen)は、フィンランドの民間伝承と』、『国民的叙事詩『カレワラ』の主要な登場人物である。元々はフィンランドの神であった。年老いた賢者で、強力な魔力を秘めた声の持ち主として描かれている。フィンランドにおける国民的英雄』とある。

「檞」ここはフィンランドであるから、本邦のカシワ(ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ  Quercus dentata :同種は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にしか植生しない)ではない。ここは、ブナ目ブナ科 Fagaceaeの木の総称である。

「カレヴイデ」本来は、フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルトによる十九世紀の叙事詩の名で、エストニアの民族叙事詩と見なされているもので、Kalevipoegという名の巨大な英雄のエストニアの民間伝承が元。ここはその巨人英雄(ウィキのローカル版の「カレピポエグ」を参考にしたが、どうも機械翻訳らしく、ちょっと日本語がおかしいところがある)。

「亡友ヰリアム・フオーセル・カービー氏英譯「カレヴラ」二段。同氏英譯「カレヴイポエグ」六段」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の著作。「Internet archive」で見られるが、ちょっと探せなかった。なお、『「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8)』(最終回)の「Kirby, The Hero of Esthonia, 1895」で、英文ウィキの彼の「Kalevipoeg」の「Synopsis」の条を引用してあるので、見られたい。]

2023/09/17

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竈の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竈の怪【かまどのかい】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕余程以前の事なる由、改代町 <現在の新宿区牛込>[やぶちゃん注:前の一字空けは底本のママ。]に住みける日雇取、一つの竃を買得て、我が上り口に直し置きて煮焚きせしに、二日目の夜右竈の元を見やれば、きたなげなる法師、右竈の下より手を出《いだ》しけるに驚き、またの夜もためしけるに尚同じ事なり。右下には箱をしつらひ、割薪など入れ置けば、人の入るべき様なし。心憂き事に思ひて、かの売りける方へ至り、右竈は思はしからず、取替へ呉れ候様相頼み、最初の価にまして外の竃を取入れければ、その後怪もなし。然るに右竈を仲間の日雇取調へる故、その買得し所など尋ねしに違ひなければ、一両日過ぎて右仲間の元へ尋ね行きしに、不思議なる事は、かの竃の下より夜毎に怪しみありと語りける故、さらば我も語らん、かの竃一旦調へしが、怪しき事ありし故、返し取替へたり、御身も取替へ然るべしと教へける故、これも少々の添銀して、他の竃と取替へけるが、彼男余りに不思議に思ひて、かの商ひし古道具屋へ至り、右竈は如何なりしやと尋ねしに、外《ほか》へ売りしがまた帰りてありと語りける故、委細の訳を咄しければ、かゝる事の有るべき様なし、商ひものに疵付き候など少し憤りける故、然らば御身の台所に置きてためし給へと言うて別れしが、かの古道具屋、一ケ所ならず二ケ所より帰りしは訳もあらんと、勝手の間へ引入れて茶など煎じけるに、その夜《よ》心を付けて見しに、果してきたなげなる坊主、手を出して這ひ廻る様子故、夜明けて早々右竈を打こはしけるに、片隅より金子五両掘出《ほりいだ》しぬ。さては道心者など、聊《いささ》かの金子《きんす》を爰に貯へて死せしが、かの念残りしやと人の語りぬ。

[やぶちゃん注:正規表現版は私の「耳嚢 巻之五 怪竈の事」をどうぞ。そちらでしっかり、注も附してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蚊の智」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蚊の智【かのち】 〔甲子夜話巻十〕観世新九郎言ひしは、蚊は小蟲なれども伶俐なるものなり。夏夜に鼓を打つとき、しらべを握りたる方《かた》の手にとまらず、打手の方にとまりて血を吸ふ。握りたる手にとまりては、打手にてうたるゝ慮《おもんぱか》り有るかと思はるゝ。新九郎その業《わざ》の者にて、年来経験するに替らずと云ふ。

[やぶちゃん注:事前に正規表現版の「フライング単発 甲子夜話卷之十 31 蚊、打皷を妨る事」を電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷之十 31 蚊、打皷を妨る事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「妨る」は「さまたぐる」。]

 

10―31

 觀世新九郞、言(いひ)しは、

「蚊は、小蟲なれども、伶俐なるものなり。夏、夜に、皷(づづみ)を打(うつ)とき、しらべを握りたる方(かた)の手にとまらず、打手(うちて)の方にとまりて、血を吸ふ。握りたる手にとまりては、打手にて、うたるゝ慮(おもんぱか)り有るかと思はるゝ。」

 新九郞、その業(わざ)の者にて、

「年來(としごろ)、經驗するに、替らず。」

と云ふ。

■やぶちゃんの呟き

「皷」は底本では「鼓」であるが、江戸期の書を見ると、「皷」と書くケースがしばしば見られるため、敢えてこれに代えた。

「しらべ」「調べ」。邦楽用語。動詞「調ぶ」の名詞形で、日本の伝統音楽に於いて、「演奏する」・「調律する」・「試奏する」などの意味を持っている。小鼓は、左手で持って、右肩に置くが、左手は単に支えるだけではなく、緒(お)を絞めたり、緩めたりして、調子に変化を加えて、右手で打ち鳴らす。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鐘の岬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鐘の岬【かねのみさき】 〔笈埃随筆巻十二〕筑前に鐘の岬<福岡県内>といふに、古来より海底に鐘あり。この故にその辺を響《ひびき》の洋《なだ》といふなり。然るに前《さきの》大守この鐘を引揚ぐべしと、数艘《すさう》の船をもて漁人をして、かの鐘の竜頭《りゆうづ》に大綱を付けさせ引上げらる。漸《やうや》く水際近くなるとき、この鐘忽然と鳴り響きて、さしもの大綱ふつに切れたり。さては物有りて惜しむにやといひけれども、また後日船を増し人を倍して、船には多く石を積み、轆轤《ろくろ》を仕立て、海陸一同し、この度はいかにもして引上ぐべし、もしならずんば、大石を火に焼き、海底に沈めて鐘を焼き潰すべしなど仰せたりければ、皆々これを詮ど[やぶちゃん注:ママ。後注の原本活字本でも同じ。「せんど」で「先途」の当て字か。さすれば、「究極の大事な折りと」の意か。但し、であれば「詮(せん)どと」としないとおかしい。よく判らぬ。]繰上げけるに、怪しや大風起りて、大雨車軸を流し、浪高くうち上げて、数艘の船過半は埋没す。大守いよいよ怒らせ給ひ、たとひ海を干すとも引上ぐべしなど宣ふ所に、不思議や何国《いづこ》よりとも知らず、翁《おきな》の面《めん》浪に漂ひ岸によりけり。家臣頓(やが)てこれを太守に捧げて、これ竜神の送れるなるべし、実《げ》にも鐘を惜しむといふ事、妄言ならず、まげてこの面をその代《しろ》として召し置かれ候へと、御諫言申しければ、諸人の煩ひをも顧み給ひ、終《つひ》にその事止みぬ。則ち翁の面は神社に納め給ふとなん。長州侯の宝器にも面あり。これもいつの頃にや。翁の面を竜神の奉りしといふ。周防山口神事能に、必ずこの面にて頭取《とうどり》ありて、萩の城より役人携へ来り、頭取済むや直《ただち》に持ち帰るなり。この面出《いづ》る時は、雨かならず降る事なり。因に云ふ。越前敦賀<福井県敦賀市>にも、海中に鐘有り。此をも鐘《かね》の御崎《おさき》といふ。所の人云ふ。漁人は常に見る事なり。この鐘も引上げんとせし事有りしかども、恐ろしき事ありて止みぬと。右二鐘《にしよう》同日の談なり。またいふ。常に竜のごときもの有りて、これを守るといへり。実《げ》にさもあるべし。また近江湖水にて鐘を水底《みなそこ》に堕《おと》せし事あり。即日に引上げたり。東近江武嶋の顕当寺、三十年以前回禄の時の事なり。その綱を持ちて深さをはかりしに、七十五尋有りしとなり。

[やぶちゃん注:「笈埃随筆」の著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。以上の本文は、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は「鐘岬」。

「鐘の岬」現在の福岡県宗像(むなかた)市鐘崎(かねざき)にある「鐘の岬」(グーグル・マップ・データ航空写真)。その岬の直近にある地島(じのしま)が、宗像三女神三女神の一人市杵島姫(いちきしまひめ)所縁の島と伝わる。その神名が「慈しむ」の音と似ていることから「慈島」となったものが、後に誤って「地島」と表記されるようになったと「筑前国続風土記」は伝えている。実際に島の南端にある厳島神社の古い鳥居には「慈島宮」と彫られた文字が見えるという。

「頭取」現在のこの語は、元来は雅楽の音頭(おんどう:管楽器の主席奏者)・能楽の頭取(「翁」の小鼓方の統率者)を指す語であった。

「越前敦賀」「鐘の御崎」現在の福井県敦賀市金ケ崎町(かねがさきちょう)にある金ヶ崎。干拓が成されて地形がかなり変わっているので、「ひなたGPS」の戦前の図を示しておく。

「東近江武嶋の顕当寺」上記の原本活字本でもこうなっているが、これは、思うに、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)の、元は本業寺(ほんごうじ)と言った、宝厳寺(ほうごんじ:グーグル・マップ・データ)のことであろう。

「七十五尋」約百二メートル。現在の琵琶湖の最深部は百四メートル。]

寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」全面改訂終了

二〇〇八年の古いサイト版の、

寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」

の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂を完遂した。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「金霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 金霊【かねたま】 〔兎園小説第七集〕今茲《こんじ》乙酉<文政八年>春三月、房州朝夷郡大井村五反目の丈助といふ百姓、朝五時ころ苗代を見んとて立ち出でて、こゝかしこ見過し居たるをり、青天に雷の如く響きて、五六間後の方へ落ちたる様なれば、丈助驚きながらも、早くその処に至り見れば穴あり。手拭を出だしてその穴をふさぎ、おさへて廻りを掘りかゝり見れば、五寸程埋まりて光明赫奕《こうみやうかくやく》たる鶏卵の如き玉を得たり。これ所謂かね王なるべしとて、急ぎ我家へ持ち帰り、けふ測らずもかゝる名玉を得たりとて、人々に見せければ、これやまさしくかね玉ならん、追々富貴《ふうき》になられんとて、見る人これを羨みける。丈助も喜びて、いよいよ秘蔵しけるとぞ。この丈助は日ごろ正直なる故、かゝるめぐみもありしならんと、きのふ房州より来て、わが巷《ちまた》を訪《おとな》ひける堂村の喜兵衛といふ人の物がたりしまゝけふの兎園にしるし出だすになん。

[やぶちゃん注:私の二〇二一年九月に公開した『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 金靈幷鰹舟事』が正規表現の引用元で、その前半がそれ。なお、私は先んじて二〇一七年に、「柴田宵曲 妖異博物館 異玉」の電子化で、原拠の活字起こしをしており、注も附しているので、そちらを、まず、読んでからの方がよかろう。因みに、私はブログ・カテゴリ「兎園小説」で、昨年末に曲亭馬琴の「兎園小説」(本正篇)・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」・「兎園小説拾遺」全篇電子化注を完遂している。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「金が嶽の新左衛門」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 金が嶽の新左衛門【かねがたけのしんぜもん】 〔裏見寒話追加〕金が岳に新左衛門と云ふ異形あり。いつの頃よりか、この山中に棲《すん》で、全体鬼形《きぎやう》に化して風雨雷鳴を起す。里俗渠(かれ)が怒りを恐れて、この名を付けたりと云ふ。一説に、信州諏訪の温泉に甲斐より来りて入浴する者あり。他の浴客と睦《むつま》しく語る。その姓名を問へば、金が岳の新左衛門と笞ふ。問ふ人愕然大いに驚き、兼ねて聞く、金が岳新左衛門は山犬の類にして、人に交る事なし、客戯れにも名を知らるゝなかれと合言《あひごと》す[やぶちゃん注:応じて注意して言った。]。また云ふ、我《われ》数《す》百年金が岳に住み、天然自然の飛行《ひぎやう》、時としては風雪雷電を起し、平日天狗と交りて魔術に通ず、故に怒る時は鬼形に化し、和する時は平人となり、交り結ぶ。所謂荏草の孫右衛門が如きは、術未だ至らずして自然の変化を成す能はず、猛獣毒蛇をはじめ、我は恐るゝ者なしと。その詞《ことば》未だ終らざるに、忽然として火の玉来りて浴室の軒に止る。新左衛門笑うて云ふ、これ白猿と云ふものなり、良(やや)もすれば我と魔術を争ふ、白猿は猿、五百年を経て、狒(ひひ)となり、千年を経て白猿となる、また天狗と等しく猛悪無双にして、我と慢心を較べんと、斯《かく》の如きの怪異をなす、併し恐るゝに足らずと笑ふこと、常人に違《たが》ふ事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの「追加」の「怪談」の「○金ヶ嶽の新左衞門」がそれ。しかし、親本が異なるらしく、冒頭から『淺見筋』(旧街道名)がなく、宵曲の引用では普通に読める箇所が、そちらでは、カットされて躓く。また、他にも細部の表現に微妙な違いがあるので、親本の原写本が違うと考えられる。比較されたい。「金が岳」は『金ヶ岳』。現在の甲府市北後背にある標高千七百六十四メートルの山。山梨県北杜市と甲斐市にある「金ガ岳」(グーグル・マップ・データ)。

「荏草」現代仮名遣で「いぐさ」「いくさ」「えくさ」「えがや」(それが転じて「えがら」ともなった)の読みがある。異界の者の名は通常の読みからズラすのが普通であるから、私は古くから地名としてある「えがや」で読みたい。]

2023/09/16

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蟹鳥と化す」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蟹鳥と化す【かにとりとかす】 〔譚海巻八〕常州にて蟹の鳥に変じたるを見たりとて物語りせしは、その人水戸のある医師の宅に寓居せし折、その庭の池に大なる蟹ありしが、鳥になりかゝりたるを見付けて、人々毎日行きてうかゞひたるに、やうやう日数《ひかず》を重ぬるまゝ蟹のはさみの所、鳥のくちばしと変じ、左右の四足は羽根に変じ、二つに蟹の甲別れて、片々の四足、日ごとに二足はかたわれの方へ移りて、左右の羽根となりぬ。今一つの甲にある足の[やぶちゃん注:ママ。以下の正規表現版では「の」は『も』である。]かたの如し。うつり変じて、つひに二羽のかいつぶりとなりて飛びめぐり、池中に住む事数日《すじつ》なりしに、いつとびさりしもしらず、失せけるといへり。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷之八 蟹鳥に化したる事 (フライング公開)」を電子化注しておいた。]

譚海 卷之八 蟹鳥に化したる事 (フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 又、常州にて、蟹の鳥に變じたるを見たりとて、物語りせしは、その人、

「水戶の、ある醫師の宅に寓居せし折(をり)、その庭の池に大成(だいなる)蟹ありしが、鳥に成(なり)たるを見付(みつけて)て、人々、每日、行(ゆき)てうかゞひたるに、やうやう日數(ひかず)をかさぬるまゝ、蟹のはさみの所、鳥のくちばしと變じ、左右の四足は、はねに變じ、二つに、蟹の甲、別れて、片々(かたがた)の四足、日ごとに二足は、かたわれの方へうつりて、左右のはねと成(なり)ぬ。

 今一つの甲にある足も、かたの如し。

 うつり變じて、つひに、二羽の「かいつぶり」となりて、飛びめぐり、池中(いけなか)に住(すむ)事、數日(すじつ)なりしに、いつ、とびさりしもしらず、失せける。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:あり得ない化生(けしょう)説であるが、これは一個の巨大な蟹が、甲が縦に分離して、二羽の「かいつぶり」(鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei 。南大東島には固有亜種ダイトウカイツブリ Tachybaptus ruficollis kunikyonis が棲息する)となったというのは、作り話ではあるが、トランスフォーマーぽく、捻りが入っていて面白い。カイツブリは殆んど水上(通常は淡水の湖・池や河川をフィールドとする)で生活し、浮いた状態での泳ぎも上手い。通常の鳥よりも尻に近い所から後脚は生えており、泳ぐ際の後脚の動かし方は、カエルのそれに似ている。古来より「鳰の浮き巢」で知られるように、巣も水際に作る。水界で異種のカニとカイツブリは確かに接近しており、化生説を容易に語れるという親和性があるとも言える。蟹の同定はする気にならない。池だから、大蟹となると、ロケーションが海辺に近いのであるなら、モクズガニ・ベンケイガニなどが想起されるが、真面目に考証する気にはならない。

「又」この本篇は、「卷八」の第三話目であるが、冒頭が水戸を舞台としたもので、二番目が筑波山の話となっており、ロケーションに地域的親和性があるために、かく、枕したに過ぎない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蟹沢の長源寺」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蟹沢の長源寺【かにさわのちょうげんじ】 〔裏見寒話追加〕東郡《ひがしごほり》に蟹沢村と云ふあり。今以て淫流[やぶちゃん注:ママ。後注に示した原本活字本では『媱流』となっている。これなら、「美しい流れ」の意で腑に落ちる。]の田畑ヘ溢れ、碧水青みわたりて、物凄き景気なりける。昔この所長源寺の住職行衛知れずなりし事あり。或ひは首ばかり残りて、骸《むくろ》は影もなき事あり。また入院の夜直《ただち》に逃げて、再び帰らざるもあり。或ひは日暮れてこの辺を通るものは、沢辺《さはべ》に茂れる蘆間より希有なる形のもの顕れ出《いで》て、追ふ事度々《たびたび》あり。運よき人は坂を登り逃延《にげの》びぬれば追ふ事なし。さなきものは渠《かれ》が為に命を取らるゝ者間々あり。長源寺も無住なる事、星霜重りければ、破却して空地にせんと、村人相談に及ぶ所に、回国の僧来りて、願《ねがは》くばその寺に一宿して、奇怪を見届け、行徳《ぎやうとく》を以て妖怪を退治せんと乞ふ。人々無用のよし止《と》むれども聞入れず。是非なく彼《か》寺に一夜を明《あか》さしむ。僧は元より剛強の覚えあれば、枕元に大斧を置《おき》て止宿す。宵の程は不思議もなかりしが、深更に及んで本堂庫裡《くり》鳴動して凄く、軒端を洩るゝ月影より、しはかれた声にて、いかに旅僧四手八足と云ふ。僧眠りたる真似して答へず。妖怪そろそろ近よるを見るに、真黒なるもの、枕元へ這ひきたりて、また四手八足いかにといふを、旅僧かつぱと刎《は》ね起き、大喝一声、飛び掛り、件《くだん》の大斧を振かざしてしたゝかに切付《きりつく》る。妖怪たまらず逃行くに、寺内鳴動して、林木乱れ倒る。夜明けて村の者ども入り来り、いたはしや、彼僧の妖怪の餌食になりつらんと、寺の内へ入り安否を問ふに、僧は高鼾《たかいびき》にて眠入《ねぶりい》りたり。人々ゆすり起せば、欠伸《あくび》常の如く起上りて、しかしかのよし答ふ。枕元を見れば流血席《せき》に溜《たま》り、その血をしたひ大勢打寄りて尋ね行けば、嶺洞《みねほら》の中におめく声あり。偖《さて》こそとて洞中《ほらうち》へ入り伺ひ見るに、甲は二間[やぶちゃん注:三・六四メートル弱。]四面もありなん。川蟹《かはがに》の年経て惣身《そうみ》毛を生じたるが、背中を切られて半死半生の体《てい》なりしが、頓(やが)て洞外《ほらそと》へ引出し置くに、その日の暮方に死す。それより後《のち》希有なる事なく、彼僧を中興開山として寺を取立て、今以て相続す。その蟹の甲はこの寺にあり。依《よつ》てその村を蟹沢村といふ。坂を蟹追坂《かにおひざか》といふ。今もこの沢水増《ます》れば、六七寸程の蟹いくつも出る事あり。図蟹《ずがに》とて外治《がいち》[やぶちゃん注:外科治療。]の薬に用ひるとぞ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの「追加」の「怪談」の「○蟹澤村の長源寺」がそれ。

「東郡に蟹沢村と云ふあり」「長源寺」「東郡」は笛吹川より東側の地域を指す広域の旧呼称で、現在の山梨市・塩山市・東山梨郡・東八代郡が含まれる。まず、戦前の地図で遡っても「蟹沢村」は存在しない。「長源寺」は日蓮宗でここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)に同名の寺があるが、ここは甲府市街地の南直近で、ここは「東郡」には入らないから違う。さて、本篇とは異なる言い伝えを記した、サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVEの「蟹沢池の由来」(この池のある地区は古くは「がんぜき」と呼ばれた。恐らくは「蟹堰」の訛りであろう。但し、その大きな蟹沢池は現存しない)というのがあるが、そこに附された地図を見ると、甲州市塩山上井尻で「東郡」に入る。この中央附近である。航空写真に切り替えて見ると、嘗つては、本ロケーション通りの田園であったであろうことが判る。悲恋の伝承があるこの池の、一つの別の妖怪話として、親和性があるようにも思えるから、私は、ここを候補地としたい。

「四手八足」これは通常のカニ類の歩脚四対が「八足」で、「四手」は第一歩脚=鋏脚(きょうきゃく/はさみあし)の可動指と不動指を分離して数えているものと思う。生物学的には、裏面の口吻部に胸脚が変化した顎脚が一対或いは複数対あるが、歩脚に比して遙かに小さく、流石に、それを近代より前に大衆が「脚」と認識していた可能性はゼロである。

「図蟹」「ずがに」というのは、短尾下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica の異名である。「こんな内陸までモクズガニが遡上するか?」という眉に唾つける御仁のために、私の『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 濵蟹 / モクズガニ (附・驚くべき長野県犀川などの遡上個体について)』

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「加藤家断絶の前表」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 加藤家断絶の前表【かとうけだんぜつのぜんぴょう】  〔翁草巻九〕蒲生秀行に仕へて一万石を領せし神田清左衛門といふ士、後に加藤肥後守忠広に仕へ、五千石を領し、加藤家断絶の後は、阿州松平阿波守方へ抱へられ、三千石を賜ひ、子孫今に彼の家に在り。この清左衛門物語に、加藤家にて寛永八年に不思議なる事有ㇾ之、隈本城内に、桐の木に冬瓜の如くなる果物余多《あまた》生ひたり。諸人見て、こは珍しき事哉、末は如何成らん、その儘置て熟するを見よとて待居けるに、稍〻《やや》熟する頃に至り、内より鼠この菓《このみ》を喰ひ破《やぶり》て出《いで》る、人々弥〻《いよいよ》怪しみて、彼《かの》果を悉く取りて切割《きりわり》てみれば、内は皆々鼠有り。その鼠を悉く打殺して捨てしに、また菓の中に鉈《なた》一つ有り。不思議奇怪云ふばかりなし。然るにその翌寛永九年六月、肥後守忠広、同嫡子豊後守光正とも配流に被ㇾ処《しよせられ》、領国を除《じよ》せらる。さてはこの前表なりと各々咡合《ささやきあふ》なり。彼鉈は子細有りて某《なにがし》今に所持し居る由、清左衛門物語の由、阿州家中の士語りき。

[やぶちゃん注:「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂一(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は「加藤家斷絕前表の事」。

「蒲生秀行」当該ウィキを見られたい。

「神田清左衛門」不詳。三千石も禄を貰ったというのなら、判るかと思ったのだが。

「加藤肥後守忠広」肥後国熊本藩二代藩主。当該ウィキを見られたい。

「加藤家断絶」同ウィキによれば、忠広は、寛永九(一六三二)年五月二十二日、『江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり』、長男忠広(光正とも称した)は『出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった』とあり、長男光広は飛騨国高山藩主金森重頼にお預けとなった。改易理由はちょっと複雑なので、前の忠広のウィキや、光広のそれを見られたい。

「阿州松平阿波守」阿波徳島藩第二代藩主蜂須賀 忠英(ただてる)であろう。彼の書状には「松平阿波守」という自筆の署名が残されている、と当該ウィキにあった。

「隈本城」熊本城の別表記。]

寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」全面改訂始動

次いで、二〇〇八年の古いサイト版の、

寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」

の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂に、今朝より、入った。

2023/09/15

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河童の手」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 河童の手【かっぱのて】 〔甲子夜話続篇巻八十〕早岐の町魚問屋与次兵衛(名字は岩永といふ)のもとに河童の手とてありときく。とりよせ視るに全《まつた》からで、掌《てのひら》よりさきのみあり。皮は脱して骨のみなるが、その形は大なる猿ともいはむものにて、指四枝《しし》ありて長く、屈節三ツあり。爪もつきたるが、狗《いぬ》の爪ともいふべく、先尖り色赭《あか》し。年経たりと覚《おぼ》しく乾枯《かんこ》したるに、指のまた水かきと見えしもの残れり。予<松浦静山>が蔵し享保の頃江都に捕へし河童の図と想ひ比ぶるに、いかさまその物の手といふも真なるべし。何れにて獲《とり》て伝へしか、その由も知らず。たゞ祖父の時より有りといふのみ。 〔譚海巻二〕佐竹家の医者に神保荷月《じんぼかげつ》と云ふ外科あり。治方《ぢはう》神の如し。太守の寵愛し玉ふ鷹、鶴に脚ををられるをつぎ愈《いや》して、用をなす事もとの如し。江戸にて用人、馬より落ちて足をうちをり、骨の折《をら》れたる所、うちちがひに外へまがり出《いで》たりしを、在所へ下り荷月が療治を得てもとのごとく愈え、二度《ひたたび》江戸に登りて、馬上にて往来したるをみたり。大嶋佐仲《おほしますけなか》と云ふ用人なり。その外うちみくじきをなほす事、いえずといふ事なし。家に伝方の秘書一巻あり。川太郎伝へたるものとて、かなにて書きたるものなり。よめかぬる所もありと、みたる人のいへり。この神保氏先祖厠《かはや》へ行きたるに、尻をなづるものあり。その手をとらへて切りとりたるに、猿の手の如きものなり。その夜より手を取りに来りて愁ふる事やまず。子細を問ひければ川太郎なるよし。手を返して給はらば継ぎ侍らんといひしかば、その方《はう》をしへたらんには返しやるべしといひしかば、則ち伝受せし方書《はうしよ》なりとぞ。

[やぶちゃん注:前者は、事前に「フライング単発(部分) 甲子夜話續篇卷之八十『寬政紀行』の内の寛政十二年十月十四日の早岐での記事」として、日ごと丸ごと、正字で電子化注しておいた。後者は二〇一六年年末に「譚海 卷之二 佐竹家醫師神保荷月事」として電子化注してある。]

フライング単発(部分) 甲子夜話續篇卷之八十『寬政紀行』の内の寛政十二年十月十四日の早岐での記事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。

 この当該巻は、巻全体が『寬政紀行』で、長いため、とても今までのようなフライング単発で全部を電子化する余裕はない。されば、特異的に当該部分をのみを示す。なお、この紀行は、静山がこの寛政一二(一七九九)年、在国中に病気(足の痛みと浮腫が生じた旨の記載がある)になり、幕府に申請して、冬を江戸で養生することに決し、十月十三日に平戸を出立、この十一月末に江戸へ至る間のそれである。全体は、行く先々の出来事や珍奇な対象を語って、なかなかに面白いものではある。なお、以下の「(早岐の河童の手の事)」は、私が勝手に作った標題である。]

 

80―(早岐の河童の手の事)

 十四日、佐々(さざ)をうちたち、早岐(はいき)に赴(おもむく)とて半坂(はんざか)の嶺(たうげ)に息(やす)らひ、四方の景色をながめけるに、多くの嶋山の間、蒼海を連ねて、眼の際(きは)、みな、我領地にこそ、これわが賴み誇るべきことにあらず。

 祖先の舊邦とはいひながら、ひとへに、道可(だうか)公の功(いさほし)にてぞ坐(ましま)しける。

 されば、かかる御蹟を嗣(つぎ)奉りししるしに、この民を安んじ、患(わづらひ)なからしめんことぞ、わがせめての繼志の孝にやと思(おもふ)に、

乀日(ひ)午(うま)[やぶちゃん注:昼の十二時前後。]のほどに、佐世保に到り、庄屋に休(やすら)ひ、日宇(ひう)に赴く。

 其路の傍(かたはら)に、人、ふたり、跪(ひざまづき)ゐけるを見るに、年每に、予が輿(こし)を舁(かい)て吾妻(あづま)の往還する、やとい人、新次郞・源四郞といへる者なり。

「こはいかに。此旅は定(さだま)りし時にもあらず、且(かつ)、御允(ごいん)し、豪(ごう)たるたよりを聞(きき)て、不日(ふじつ)に途(と)に赴(おもむき)ぬれば、かくと告(つげ)やるべきならねば、言(げん)もおくらず、いかにして來りしや。」[やぶちゃん注:「御允」は君主が臣下の申し出を受けて許すことを言う。ここは、第十一代将軍徳川家斉と、静山の間のやり取り、ということになる。]

と聽(きく)に、

「其頃は、江都(かうと)[やぶちゃん注:江戸の雅称。]に候ひしが、去月(いぬるつき)の中(なかば)、其事のきこゑ候へしゆゑ、十七日に御第(ぎよだい)に參りて、御國(おんくに)たたせ給ふころを、尋(たづね)まいらせしに、此月半(このつきなかば)にやあらんと承りて、さらば、いそぎ御國にいたり、從ひ申さむと、其明日に江都を打立(うつたち)、夜を、日に、つぎて、はせ下りぬ。」

と、いひし。

 廿七日の間に、四百里のはるかなるを、來りにけり。

 是、利の爲ならば、かくも有べきに、我もとに來りしとて、彼等やとひぬる價(あたひ)は定(さだま)りぬるほどにて、餘多(あまた)の惠(めぐみ)あるにもあらず。これは、年每(としごと)のことなれば、彼等も知れる所なり。

 されば、利の爲ならず。

 又、必しも、人に從はむと思はば、我にかぎらず、東都には、いかほども隨行方(ずいかうがた)は有りて、其(その)口腹(くちはら)は養ふべし。

 しかるに、遼遠の路を志し來ぬるは、年頃(としごろ)の恩義によりて、かく、有(あり)けむと、卑き者なれど、我(わが)こころの中(うち)を省みぬれば、恥かしくこそ。

乀早岐の町、魚問屋與次兵衞(名字は岩永といふ)のもとに、河童の手とてありと、きく。

 とりよせ視るに、全(まつた)からで、掌(てのひら)よりさきのみ、あり。

 皮は、脫して、骨のみなるが、其形は、大(だい)なる猿の手とも、いはむものにて、指、四枝(しし)ありて、長く、屈節、三ツ、あり。

 爪も、つきたるが、狗(いぬ)の爪ともいふべく、先、尖り、色、赭(あか)し。

 年經たりと覺しく、乾枯(かんこ)したるに、指のまたに、水かきと見えしもの、殘れり。

 予が藏し、享保の頃[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。])、江都に捕えし河童の圖[やぶちゃん注:これは、先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河童」』の最初に掲げた挿絵のあるそれである。]、と想比(おもひくらぶ)るに、いかさま、其物の手といふも、眞(まこと)なるべし。

「何(いづ)れにて、獲(とり)て傳しか、其由も、知らず。ただ、祖父の時より、有り。」

といふのみ。

■やぶちゃんの呟き

「佐々」現在の長崎県北松浦(きたまつうら)郡佐々町(さざちょう:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「早岐」長崎県佐世保市早岐町(はいきちょう)。

「半坂の嶺(たうげ)」長崎県佐世保市八の久保町内に史跡「半坂峠駕籠立場」がある。

「道可公」静山の八代前の戦国大名で嵯峨源氏一流松浦氏二十五代当主であった松浦隆信の法名。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「日宇」長崎県佐世保市日宇町(ひうちょう)。

「予が藏し、享保の頃、江都に捕えし河童の圖と、想比(おもひくらぶ)るに、いかさま、其物の手といふも、眞(まこと)なるべし」この謂いから、静山は河童の実在を疑っていないことがはっきりする。彼は、一種、自由人としてロマンチストでもあったように思うのである。そこが、好き!

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河童と報復」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は長いので、五月蠅いが、文中に注を挿入した。

 

 河童と報復【かっぱとほうふく】 〔半日閑話巻六〕九州にては余国と違つて河童多し。これまた人の妨げをすといへり。その子細は賤しき漁夫などの妻と密通し、その外存外なるいやな事多しと云ふ。先年寛永の頃、肥前天草、嶋原、有馬[やぶちゃん注:現在の長崎県南島原市南有馬町(ありまちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]、この三ケ所の百姓一揆の時、悉く御退治、事終りて有馬左衛門佐《さゑもんのすけ》直純[やぶちゃん注:安土桃山から江戸前期にかけての大名有馬直純(天正一四(一五八六)年~寛永一八(一六四一)年)。肥前国日野江藩主・日向国延岡藩主。]の帰陣の時、かの八左衛門(失念苗字)と云ふ者、名に聞えし有馬の蓮池[やぶちゃん注:現在は「蓮池跡」が残るのみ。]を一見せしめて[やぶちゃん注:「せしめて」に後注する原本に活字本では「一見」の後の、その右部分に『して』の補正注がある。]その辺を歩行《ありきゆき》しければ、河童一疋前後も知らず昼寝して居《ゐ》ける処へ行きかゝり、八左衛門立寄りて抜打に致候得《いたしさふらえ》ば、手答へして刀にものり[やぶちゃん注:「血糊り」。]付く様に候へども、その形見えざりけり。暫くその辺を伺ひけれども、彼が死骸なかりしかば、暫く有りて何やらん池中へ踊入る音しけり。されど猶も死骸見えざる程に斜日《しやじつ》[やぶちゃん注:夕刻。]に及びければ、八左衛門は立帰り、またその翌日主人帰陣に付《つき》て供仕《ともつかまつ》り、日州県《あがた》の居城[やぶちゃん注:延岡城の古い名。]へ帰る。(有馬と県との行程四十八里)かくて寛永十五年[やぶちゃん注:一六三八年。]の二月より、同十七年の秋九月十四日未の下刻[やぶちゃん注:二時二十分から三時まで。]に、かの河童来りて八左衛門に向つて申す様は、三年以前に肥前の有馬にて疵《きず》漸《やうや》く頃日《けいじつ》平愈す。依《よつ》てその遺恨をとげん為、はるばると参りけり。急ぎ外へ出《いで》給へ、勝負を決せんと罵《ののし》る。かゝりければ八左衛門莞爾と笑ひ、遠波《ゑんぱ》を凌《しの》ぎよくこそ来りたりとて、刀を引提《ひつさ》げ庭上《ていしやう》に出立《いでた》ちて、その身壱人《ひとり》にて切《きつ》て懸り、請《う》けつ開きつなどする様子を見れば、疑ふ所もなき乱心なりと、母や女房心得て肝を冷し、八左衛門が裏合《うらあはせ》は百石小路と云ひて、小身の面々の屋敷どもにて有りければ、人を遣はし親類ども並(ならび)に傍輩を呼び寄せて、かの為体(ていたらく)を見せければ、誠に狂人に似たれども、さしてまたしとけなき事[やぶちゃん注:分別がない様子。]もなかりけり。それはかの河童が姿は八左衛門が目には見えけれども、余人の目には懸らずゆゑ、右の仕合《しあは》せなり。その故に助太刀と云ふ事もなかりしなり。相互に戦ひ疲れさらば今晩は相引(あひびき)にして、また明日の事とて、河童は立帰りぬ。八左衛門も刀を納めて内へ入りぬ。その後人々打寄りて唯今の子細を尋ねければ、三年以前有馬にてケ様ケ様の事ども有りつる由を語りければ、何《いづ》れも手を打《うつ》て、さてもさてもその義を今迄忘れず、是非とも報いをせんと、年月彼が思ひにせし細志《さいし》[やぶちゃん注:細やかな志しの意か。]こそやさしけれ、してまた彼が持ちたるその道具はいかなる物ぞと尋ねければ、かのものは梅のすあひ[やぶちゃん注:後注する活字本では『ずはひ』(後も同じ)。これは歴史的仮名遣「すはえ」「ずはえ」で「楚・楉・杪」で、現代仮名遣で「すわえ」「ずわえ」「すばえ」とも言い、「木の枝や幹から真っ直ぐに伸び出た若く細い小枝」を指す語である。]の様《やう》なる物の、三尺ばかりも有るべきを持《もつ》て戦ひけるが、そのすあひ人に当り、いか様《やう》なる痛みのあるやらんも更に計り難し、第一彼《か》かゝるわざをつまのきいたる事[やぶちゃん注:「斯かる技を端(つま)の利(き)いたる事」で、「その武器としての梅の枝を自由自在に手先で扱う妙味」の意。]、中々に言語に絶えたると語りけり。さて右の河童八つ頃<午後二時>に来りて、酉の刻<午後六時>迄続きて三時[やぶちゃん注:ママ。宵曲のそれでは数字が合わない。八左衛門の謂いは開始時点及び終了時間をそれぞれ、前と後ろに一時間延ばした謂いであるとしないと、おかしい。]ばかりはげみ合ひしかども、双方午角(ごかく)[やぶちゃん注:ママ。活字本も同じ。「互角」。]の手きゝにて勝負はなかりけり。その事を主人なりける馬左衛門佐直純聞き玉ひ、仰せには左様の義前代未聞なり、然らば八左衛門が所に行きて始終様子を見物せんと仰せ出され、則ち翌日彼が宅へ御来臨有りて、牀机《しやうぎ》に腰を掛けられ、召連れられたる諸士へ御申付には、その河童譬《たと》へ形は見えずとも、彼《かれ》来て八左衛門と相戦ふと見え候はゞ、その辺を幾重《いくへ》にも取巻《とりまき》て逃げ得ぬやうに仕《つかまつ》るべしと仰せ付けられ候へば、我も我もと心掛け、今かくと待ち居けれども、かゝる待まうけをや憚《はばか》りけん、その日は河童参らざりけり。依《よつ》て直純も少々御不興顔《ごふきやうがほ》にて御帰宅ありしとなり。かく有りてその夜計《ばか》り、かの河童八左衛門が枕上に立《たつ》て云ふ様《やう》は、年来《としごろ》の遺恨を是非晴《はら》さんと思ひ、遙々《やうやう》これ迄参りつれども、今《こん》昼程に其方《そなた》主君此処へ入らせられ、雌雄を御一覧あるべしとの義なれば、最早我が存分は遂げ難《がた》し、その故に明日は有馬へ帰るなり、この由を断《ことわ》らん為《ため》、唯今これ迄来りたりしと云ひ捨《すて》て立去りぬ。その義も後に八左衛門が語りけるとなん。この物語りは豊後の永石其孝の話しなり。誠に人間さへ意趣を含み、腰ぬけの振舞ならば寝首かく者有れ之《これあり》、まして河童は畜生なれども、その敵の閨《ねや》の中迄忍び入りけれども、三年以来念じける本望を遂げずして空しく立帰る。かれらが用ひる法令の有るにこそとおもへばおもへばいと恥かし。

[やぶちゃん注: 「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここから(左ページ後ろから七行目)、当該部が正字で視認出来る。標題は「○八左衞門河童と勝負を決したる事」である。その最後の部分に、『右十條玉滴隱見抄』とあって、引用であることが判る。この元の「玉滴隱見」 は永石其孝(きこう)の作で、天正(元年は一五七三年)の頃から延宝八(一六八〇)年に至る雑説を年代順に記したもの。 斎藤道三が土岐家を逐う出世話・「本能寺の変」・「関ヶ原の合戦」・「大坂の陣」・「島原の乱」・「慶安事件」・「承応事件」・「伊達騒動」・「浄瑠璃坂の敵討」・末次平蔵の密貿易事件などに加えて、多くの逸事・落書・落首を収めた近世期の貴重な生の史料である。その抄録版もあったのである。

 実は、この話、私は、一度、正規表現で公開している。誰もが判るように、五月蠅い注を附したのだが、それでも読み難いと言う向きには、その注を附した、「柴田宵曲 妖異博物館 河童の執念」の本文で宵曲がかなり丁寧に現代語訳で紹介してあるので、そちらを読まれたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河童銭」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 河童銭【かっぱせん】 〔一話一言巻三〕天明五年乙巳[やぶちゃん注:一七八五年。]□月の頃、麹町<東京都千代田区内>飴屋十兵衛なるもの、つねづね心正直なるものなりしが、夕方にある童子の来りてたはぶれ遊ぶをあはれみ飴をあたふ。それよりして夕つかたごとに来る。怪しみて跡をつけゆくに、御堀の内にいりぬ。さては河童なるべしと恐れ思ひけるに、ある日来りて一の銭《ぜに》を与ふ。その後来らず。その銭《ぜに》今《いま》番町<東京都千代田区内>能勢《のせ》又十郎殿家に蔵《をさ》む。その銭のかたをおしたるなりとて、浅草馬道<東京都台東区内>にすめる佐々木丹蔵《たんざう》篁墩《たかあつ》が贈れるを、こゝにおし置きぬ。

 

Kappasen

 

[やぶちゃん注:「□」は脱字でママ(以下のリンク先で判る通り、原本も欠字或いは判読不能であったのだろう)。図は『ちくま文芸文庫』版のそれをトリミング補正し、清拭した。

「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で図とともに視認出来る。そこでの標題は「○河童錢」である。

「能勢又十郎」ある論文によって、少なくとも、天明三年三月以降、寛政五(一七九三)年十月までは、「寛政の改革」期に小普請組組頭であったことが判った。

「佐々木丹蔵篁墩」吉田篁墩(延享二(一七四五)年~寛政一〇(一七九八)年)であろう。儒者で水戸藩医吉田家六代目。本邦に於ける考証学の提唱者、及び、漢籍書誌学の開拓者として知られる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「合羽神」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 合羽神【かっぱじん】 〔奥州波奈志〕在所中新田といふ所に合羽神とせうする社《やしろ》有り。みたらしめきて池の如くなるもの有り。いかなる晴天つゞきてもかるるとなし。それより用水の堀つゞきて有りし。この家人なる細産甚之丞と云ひしもの、十七八の時分、下町の若き者両人と同じく水をあみて、用水堀をくゞりくらして有りしに、三人同じくくゞりしが、いつのほどにや水無き所に出たりしに、きれいなる家居有りて、内にはた織る音の聞えしかば、いぶかり思ひて、爰はいづくぞとうちなる人に問ひしかば、爰は人の来る所ならず、早く帰れと答へし故、驚きさらんちせしかば、呼びとゞめて、こゝに来りしといふことを、三年過ぎぬうちは人に語るべからず、身に禍ひあらんと教へたり。いよいよ恐れて去りしが、またもとの用水堀に出たりき。この往来の間、いつもおぼえずなりて有りしとぞ。さるを町のもの壱人、その年の内に酒に酔ひて語り出たりしが、ほどなく死《しし》たりしかば、これにみごりやしたりけん、甚之丞は一生語らざりし。

[やぶちゃん注:私の只野真葛の「奥州ばなし かつは神」を見られたい。只野眞葛の「奥州ばなし」(附・曲亭馬琴註/私のオリジナル注附き・縦書(ルビ附)一括全篇PDF版)もサイトで公開してある。]

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」全面改訂終了

二〇〇七~二〇〇八年の古いサイト版の

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」

の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂を終了した。

2023/09/14

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河童薬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇には、まず、

「柴田宵曲 妖異博物館 河童の藥」

を挙げておくが、他にも、

『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」』(サイトPDF縦書版もこちらにある)

『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(3) 「河童家傳ノ金創藥」(1)』、及び、「その(2)」と、「その(3)」

も参照されたい。

 

 河童【かっぱぐすり】〔真佐喜のかつら〕伊豆国田方《たがた》郡雲が根村<静岡県田方郡内>に河童薬と云ふあり。打身くじきに用ひ甚だ妙なり。この来由《らいゆ》を問ふに、いつの頃にやありけむ、小児ども打寄り相撲とりて力をくらぶ。外より見馴れざる小児来りて交り遊ぶ。村中の小児、このものに勝つものひとりもなし。しかる処、一人の小児出で取組み、しばし揉合ひしが、見なれざる小児を投出しぬ。その時彼のもの云ふ。汝仏のめしを喧ひしかと問ふに、さなりと笞ふ。しからば翌日は喰はずに来《きた》れよ、我かならず勝つべしと云ふ。勝ちたる小児、子心《こごころ》に怪しくおもひ、親にこの事をかたる。父思ふ事やありけん、翌日子に随ひ行き、かの力強《ちからづよ》の小児を大勢にていましむ。その者の云ふ。我全く人間にあらず、田方川に住める者なりと云ふ。さらば河童なるべしと、大勢より殺さんとす。その時ひとりの老人来りて、銭壱貫文を以て河童を買ひとり、田方川へはなつ。その夜河童来りて助命の事を謝す。その時薬法を伝へしかば、製し試るに必ず験《するし》あれば、人皆《ひとみな》きゝ伝へて乞ふ。後は価《あたひ》をさだめ売りけるとなん。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから正規表現で視認出来る。「柴田宵曲 妖異博物館 河童の藥」でも、冒頭にこの話を訳して掲げており、そこの私の注で正規表現も電子化してある。

「伊豆国田方郡雲が根村」「静岡県田方郡内」現在は静岡県伊豆市雲金(くもがね)。

「田方川」これは恐らく、雲金の東を貫流し、田方平野に出て、駿河湾に至る狩野川(かのがわ)の別名であろう。]

〔裏見寒話追加〕 下条村に切疵の薬を売る農家あり。その父たる者は貧窮にて、日々疲馬に薪《たきぎ》を付けて府下に売る。ある年師走の末に、その日も薪を鬻《ひさ》ぎて、正月の営みなして帰る。釜無川の河原に来れば、霙(みぞれ)交りの風寒く、日さへ漸《やうやう》暮掛《くれかけ》れば、少しも早くと道を急ぐに、馬進まずして、騒上騒上て一歩も動かざれば、打叩きけれど、何分歩行《ありきゆく》けしきも非ざれば、けしからぬ事と思ひ、後へ回りて見るに、十一二なる子が馬の尾にすがりて居るを、危なし危なし、今に蹴られんと、早く退《の》け退けといへども、聞かずして尾筒(をづつ)を握《にぎり》て放さゞる故、馬士大いに怒り山刀《やまがたな》を以て、其処を退かずばこれなりと、切付る真似をせしかば、忽ちその子も見えずなり、そして馬を引くに常の如し。宿へ帰りて馬を洗はんとするに、猿の腕の如きが切れて、尾房《をふさ》を摑んで有りしかば、偖《さて》は先刻の小児は妖物にこそと、その腕を取らんとするに、曾て放れねば、この腕ありと馬の痛みになるべからずと、厩へ引込み、己れも休みぬ。然るに鶏鳴の頃、外に子供の声にて、頻りに主人を呼ぶ。斯く深更に及び、小児のくる様《やう》なしと思ひながら、戸を開けば、十一二の小児と見えて、人間とも見えざるが、愁然として立居《たちをり》しが、平伏して申しけるは、我は昨夕釜無河原にて御馬に邪魔せしものなり。その時に切られたる片腕を御返し玉はれかし、我かの河原に栖(す)む河童にて有りける、馬の尾を一筋(ひとすぢ)持つときは、色々の妖術を得る故に、御馬に付《つき》て候なりといひける。男笑うて云ふ、決してその腕を返す事叶ふまじ、己が妖をなさん為に、人の馬を悩まし不届至極なりといへば、河童怒りて云ふやう、御辺《ごへん》その腕を返さずんば忽ち祟りをなし、子々孫々を取殺《とりころ》さんと云ふ。男大いに怒り、いやしくも人間と生れ、畜類の祟りを恐れ、空しく存念を翻《ひるがへ》さんや、己れ殺して呉れんと、棒を以て追ふ。河童泣いていふ。我は水中の獣類、大丈夫の心を知らず、妄言を出して、君の怒りを発す、願くば人倫の仁慈を以て、獣類御助けと思召し、腕を御返し玉はれかし、その報恩には毎朝鮮魚を献じて、無比の厚恩を謝し奉らん。男聞入れず。水畜《すいちく》の音問(いんもん)を得て志をひるがへさんやと、已《すで》に戸さゝんとしける。その妻諫めていふ。大人《おとな》の志《こころざし》至極道理なりといへども、願くば彼《か》の腕を返し玉へ、かの腕、家にとどめて何の益もあるまじ、返せば一畜を助くるの仁恵《なさけ》に候と。男河童に云ふ。この腕を返すといふとも、切られたる腕、再度接《つ》げべき理《ことわり》なし、何の為に取返すや。河童云ふ。我腕を接ぐに妙薬あり、人間に於ても大いに益ありと。男云ふ。しからば腕を返さん、その薬方を伝へよと。河童悦んで薬方と腕と取替へて帰る。男此方《このはう》を考ふるに、その薬種、田地に生《はえ》る草なり。翌朝夫婦起きて見れば、水桶の中に色々の鮮魚夥しくあり。河童が謝礼と見えたり。男のいふ。薬方にて大いに足れり、実《げ》に獣類の食を分けて我《われ》食せんやと。かの魚を悉く河に放し、その後薬を調合して金瘡《かなきず》に用ひるに、即効ある事神の如し。今下条切疵薬と国中に名高し。青銅廿四文に売る。この売薬を以て程なく、この家富裕となれりとぞ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの「追加」(これは全体に小見出しで「怪談」とある)の「○下條の疵藥」がそれ。

これも「柴田宵曲 妖異博物館 河童の藥」で、二番目にこの話を訳して掲げている。]

2023/09/13

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河童」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、本項は十三篇の引用からなる、ちょっとした大物である。河童・河太郎は私の記事では枚挙に遑がない最多のものである。ここは、宵曲渾身の、

柴田宵曲 妖異博物館 河童の力」

「柴田宵曲 妖異博物館 河童の藥」

「柴田宵曲 妖異博物館 河童の執念」

「柴田宵曲 妖異博物館 海の河童」

を挙げておくのが、最も価値があろう。

 

 河童【かっぱ】 〔甲子夜話巻十〕御留守居室賀山城守は小川町<現在の東京都千代田区内><東京都江東区内>に住めり。その中間《ちゆうげん》九段弁慶堀の端を通りしに、折ふし深更小雨ふりて闇《くら》かりしが、水中よりその中間の名を呼ぶ。因て見るに小児水中にありて招くゆゑ、近辺の小児誤つて陥りたるならんと思ひ、救はんとて手をさし延べければ、即ちその手に取《とり》つくゆゑ、岡へ引上げんとしけるが、その力盤石の如くにして少しも動かず。却て中間次第に水中に引入れらるゝゆゑ、始めて恐れ力を極めて我手を引取り、直ちに屋敷に馳せ帰り、人心地なく忙然となりけり。衣服も沾湿《てんしつ》して、その上腥臭《せいしう》の気《かざ》たへがたき程なりければ、寄集りて水かけ洗ひそゝげども臭気去らず。その人翌朝にいたり漸々《やうやう》に人事を弁へるほどにはなりしが、疲憊甚しく、四五日にして、常に復せり。腥臭の気もやうやうにして脱けたりとなり。所謂河太郎なるべしと人々評せり。〔同巻卅二〕対州《たいしう》には河太郎あり、浪よけの石塘《いしども》に集り群をなす。亀の石上に出て甲を曝すが如し。その長二尺余にして人に似たり。老少ありて白髪もあり、髪を被りたるも、また逆に天を衝くも種々ありとぞ。人を見れば皆海に没す。常に人につくこと、狐の人につくと同じ。国人の患《わづらひ》をなすと云ふ。また予<松浦静山>若年の頃、東都にて捕へたりと云ふ図を見たり。右にしるす。これは享保中本所須奈村<東京都江東区内> の蘆葦《ろゐ/あし》の中沼田の間に子をそだてゐしを、村夫見つけて追出《おひいだ》し、その子を捕へたるの図なり。太田澄元《ちやうげん》と云へる本草家の父岩永玄浩《いはながげんこう》が鑑定せし所にして、水虎なりと云ふ。また本所御材木倉《おざいもくぐら》取建《とりたて》のとき、蘆藪《あしやぶ》を刈払《かりはら》ひしに狩出《かりいだ》して獲《とり》たりと云ふ。

 

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[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』版の図。]

 

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[やぶちゃん注:東洋文庫版「甲子夜話」の画像。]

 

[やぶちゃん注:以上の二本は、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」』(こちらはブログ版で、こちらはサイトのPDF縦書版)のために必要となり、昨年、「フライング単発 甲子夜話卷之十 19 室賀氏の中間、河童に引かれし事」、及び、「フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖」として電子化注をしておいた。後者には、図があり、宵曲が模写したものが載るが、これ、かなりショボいので、それと別に、「甲子夜話」版の静山の模写と思われる図(東洋文庫の原画像。素敵におどろおどろしい)を並べて置いた。

 〔蕉斎筆記〕徳山の連歌の宗匠飯田※之助範正[やぶちゃん注:「※」=(上)「罒」+(下)「免」。]と同道して厳嶋《いつくしま》へ遊び、船中色々咄しけるに、豊後・豊前辺にてはカハ太郎 (江戸にてはカッパ[やぶちゃん注:促音はママ。後に示す活字原本では正しく『カツパ』となっている。]と云ふ。俗に猿猴といへり)多くして、川々に栖み来れり。畠などへ揚り作物の妨げをし、茄子・きうり・さゝげ其外の作物にあたり、百姓にも難儀する事有り。これを祭るとて一ケ村づつ相撲の興行をし、また笠著連歌をするなり。相撲連歌を好みけるもをかし。<中略>カハ太郎牛馬を取る事多し。カハ太郎に見入られたるは、ふくれ腫れて死けるとかや。子供なども水中に引込む事有り。誠に尻の穴より臓俯を抜けるとかや。昔吉広<連歌宗匠忠内吉広>カハ太郎と相撲を取たる事有り。夜中ながら六尺余りの背になり、吉広と取りけるが骸内(からだうち)ぬめぬめとして至て気味わるきものなり。負けてやりければ甚だ悦び水中へ飛入りぬ。また人間勝ちぬれば大いに腹を立て、色々の返報しけるとなり。漁人の網の中に入りぬれば、至て難儀しぬ。後々迄家に祟りをなさず、守護いたすべしと、得(とく)と申含めて放しけるよし。形ち小さき猿のごとし。手の長きものにもあらず。一疋にても殺しぬれば、数千疋集りと段々と災ひをする故、諸人おそれけり。また川端なる村には申合せ、先の尖りたる棒を持て、何村は何町が間《けん》と間数(けんすう)を定め置き、その棒にて百姓ども打寄り、菅原菩提々々々々とはやして、千人突《せんにんづき》をするとかや。不思議なる事にて、それにて今年はあれぬ[やぶちゃん注:「荒れ(暴れ)なかった」、或いは「現(あらは)れなかった」か。]といふ事なり。いかなる故実や知らず。ものをいふ事ならざれども、人間の言語はよく通ずる事妙なりとなり。 〔一話一言 巻四十五〕享和<元年>辛酉(かのととり)六月朔日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八〇一年七月十一日。]、水戸浦より上り候河童、丈《たけ》三尺五寸余[やぶちゃん注:一メートル五センチ越え。]、重さ拾弐貫目[やぶちゃん注:四十五キログラム。]有ㇾ之候。殊の外形より重く御座候。海中にて赤子の鳴き声夥しくいたし候間、猟師ども船にて乗廻し候へば、海の底にて御座候故、網を下し申候へば、いろいろの声仕り候。それより刺し網を引廻し候へば、鰯網の内へ拾四五疋入り候て、おどり出《いで》おどり出逃げ申候、船頭ども棒かひ[やぶちゃん注:「櫂」。]などにて打ち候へば、ねばり付き一向にかひなどきゝ申さず候、そのうち壱匹船の上へ飛び込み候故、とま[やぶちゃん注:「苫」。菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだ莚(むしろ)。]など押《おし》かけその上よりたゝき打殺し申候。その節までやはり赤子の鳴声いたし申候。河童の鳴声は赤子の鳴声同様に御座候。打殺し候節屁をこき申候。誠に堪へがたきにほひにて、船頭など後に煩ひ申候。打候棒かひなど、青くさき匂ひいまだ去り申さず候。尻の穴三ツ有之候。惣体《そうたい》骨なき様に相見え申候。屁《へ》の音はいたさず、すつすつとばかり申候。打ち候へば首は胴の中ヘ八分[やぶちゃん注:二センチ半。]程入り申候。胸かた張出しせむしのごとくに御座候。死候て首引込み申さず候。当地にて度度《たびたび》捕候へども、この度《たび》上《あが》り候程大きなる重きは只今迄上り申さず候。珍しく候間進じ候以上。 六月五日   東浜権平次

  浦山金平様

 

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[やぶちゃん注:全体のバランスをとるため、末尾の署名と宛名の『東濱』『權平次』と『浦山金平樣』を含めておいた。キャプション時計回りで『正面』・『側面』・『背面』である。画像は宵曲のものではなく、「一話一言」のもの。ソースは後注を参照されたい。]

 

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」小林白山(詳細事績不詳)著の巷談随筆。元は二十巻であったが、波多野某が抄録して四巻としたもの。冒頭に『寬政五年癸丑年拔書』(一七九三年)とある。国立国会図書館デジタルコレクションで、『百家隨筆』第三(大正七(一九一八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部を視認出来る。中略部は地下連歌への脱線部分。

「徳山」信頼出来る論文資料から周防徳山毛利石見守で、周防国徳山藩七代藩主毛利就馴(なりよし)のことである。宝暦一四(一七六四)年四月に家督を継いだ。文政一一(一八二八)年没。

「連歌の宗匠飯田※之助範正」(「※」=(上)「罒」+(下)「免」)この人物は、同じく信頼出来る論文資料から、連歌師飯田範正之助なる人物である。

「一話一言」「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「河童圖說」である。図は次のコマの右ページ上段にある。本データは保護期間満了であるので、その画像を最大でダウン・ロードし、トリミング補正とかなり注意して汚れを清拭したものを掲げた。底本のものはやはり宵曲の写したもので(ここの右ページ最下段)、またしてもショボいから、今回は、示さないことにした。本文と本図を見るに、図は何らかの疾患にかかって弱って一部が炎症を起こして壊死したウミガメ(「青くさ」い臭気があったこと、「首は胴の中ヘ八分程入」ったという点)のようにも見えるものの、「総体骨なき様に見え」というのはウミガメではないように見え(ウミガメを水戸の漁師や関係者が誰も知らないというのは不自然)、「四五疋」で群泳しており、その中の一匹が「船の上に飛び込」んだというのは、海産のアザラシ・オットセイ・アシカなどの哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目鰭脚類 Pinnipediaの比較的若い個体(同じく疾患があった可能性が高い)のようにも見える。

〔怪談老の杖巻一〕小幡一学といふ浪人ありける。上総之介の末葉なりと聞きしが、さもあるべし。人柄よく小《すこし》学文《がくもん》などありて、武術も彼れ是れ流義極めし男なり。若きとき小川町<東京都千代田区内>辺に食客のやうにてありし頃、桜田へ用事ありて行きけるが、曰くれて麹町一丁目の御堀端を帰りぬ。雨つよく降りければ、傘をさし腕まくりして、小急《こいそ》ぎに急ぎをりけるが、これも十ばかりなりとみゆる小童《こわらは》の、笠もきず先へ立ちて行くを不便《ふびん》におもひて、わらはにこの傘の中へはひりて行くべしと呼びかけけれど、恥かしくや思ひけん、あいさつもせず、くしくし[やぶちゃん注:「しくしく」の別表現。]と泣く様《やう》にて行けば、いとゞふびんにて、後より傘さしかけ、我が脇の方へ引つけてあゆみながら、小僧はいづ方へ使《つかひ》にゆきしや、さぞ困るべし、いくつになるぞなど、懇ろにいひけれどいらへせず、やゝもすれば傘をはづれて濡るゝ様なるを、さてばかなる小僧なり、ぬるゝ程に傘の内へ入(はい)れ入れと云ひければまた入る。とかくして堀のはたへ行きぬると、おぽゆる様にてさしかけつゝ、この傘の柄をとらへて行くべし、さなくては濡るゝものぞなど、我子をいたはる様に云ひけるが、堀のはたにてかのわらは、よわ[やぶちゃん注:ママ。]腰を両手にてしかと取り、無二無三に堀の中へ引こまんとしけるにぞ、さては妖怪めござんなれ、おのれに引こまれてたまるものかと、金剛力にて引あひけれど、かのわつぱ力まさりしにや、どてを下りに引きゆくに、むかう下りにて足だまりなければ、すでに堀ぎはの石がけのきはまで引立てられしを、南無三宝、河童の食《ゑじき》になる事かと悲しくて、心中に氏神を念じて、力を出してつき倒しければ、傘ともに水の中へ沈みぬ。命からがらはひ上りてけれど、腰たさぬ程なりければ、一丁目の方へ戻り、駕籠にのりて屋敷へ帰りぬ。それよりこりはてて、その身は勿論人までも、かの御堀ばたを通る事なかれと制しける。これぞ世上にいふ水虎(かつぱ)なるべし。心得すべき事なりと聞けり。

[やぶちゃん注:「怪談老の杖」は二〇二一年に全電子化注を終えている。その「卷之一 水虎かしらぬ」の正規表現の電子化注はこちら。]

 〔望海毎談〕刀根川[やぶちゃん注:利根川。]にねここといへる河伯(かつぱ)有り。年々にその居《ゐ》る所替る。所の者どもその居替りて居る所を知る。その居《ゐる》所にては渦あり。 〔さへづり草松の落葉〕水無月やうか<弘化三年[やぶちゃん注:一八四六年。]>芝口橋のたもとなる一商家にて珍物を見る。その顔かたち、猿を陰乾(ほしかた[やぶちゃん注:二字へのルビ。])めたる物に似て、丈三尺ばかりもやあらむ。ことに珍奇といふべきは、その首《かうべ》二つ並びたり。そこの主人につきて聞《きき》けるに、こは細川侯の藩士内田某より預かり置けるものにて、水虎《かうぱ》を陰乾(かげぼし)にしたるなりといへり。見る人多く、ことに箱中銅鋼(かなあみ)の中に有りて、したしく見ることを得ざれば、その真偽はしるよしなけれど、このもの九州にはことに多くて、かつ坂本氏鑒定[やぶちゃん注:「鑑定」に同じ。]といへる水虎十二品の図説の中、寛永中豊後国肥田<現在の大分県日田市の事か>にて獲るといへるもの大いに同じ。また豊筑の産、人の形また猴《さる》に似たりといへるにもよくあひて、歯は上下四枚、奥歯左右に二枚ありといへるに違《たが》はず。さて両頭はいよいよめづらし。 〔同〕今《いま》俗《ぞく》胡瓜《きうり》をくらふのはじめ、姓名などかいつけて[やぶちゃん注:「書い附けて」。]川水に投ず。こは河伯(かつぱ)におもねるの意なり。実に水虎《かつぱ》は黄瓜《きうり》を好めるにや。さればまた世俗胡瓜にかれが名をおはして、またカツパとよべるもをかし。なほまた祗園の神に献《たてまつ》ることなどもありて、かつぱ天王などもいへり。たとき[やぶちゃん注:「尊き」。]御神にいやしきかれが名をおはしまゐらす。俗のうつりことば、今にはじめぬことにはあれど、かしこくもいと甚しといふべし。 〔甲子夜話巻六十五〕 総じて川童《かつぱ》の霊あることは、領邑《りやういふ》などには往々のことなり。予<松浦静山>も先年領邑の境村にて、この手と云ふ物を見たり。甚だ猿の掌に似て、指の節四つありしと覚ゆ。またこの物は亀の類にして猿を合せたるものなり。或ひは立《たち》て歩《あゆみ》することありと云ふ。また鴨《かも》を捕るを業《なりはひ》とする者の言を聞くに、水沢の辺に窺ひ居て見るに、水辺を歩して魚貝を取り食ふと。また時として水汀《みぎは》を見るに足跡あり、小児の如しと。また漁者の言《いふ》には稀に網に入ることあり、漁人はこの物網に入れば漁猟なしとて、殊に嫌ふことにて、入れば輙《すなは》ち放ち捨つ、網に入《いり》て挙ぐるときは、その形一円石の如し、これは蔵六[やぶちゃん注:カメのこと。]の体《てい》なればなり、因て即ち水に投ずれば、四足頭尾を出し水中を行き去ると。然れば全く亀類なり。

 

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[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』版の図。]

 

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[やぶちゃん注:東洋文庫版「甲子夜話」の画像。三種分割。]

[やぶちゃん注:「望海毎談」江戸中期(十八世紀半ば)に書かれた、江戸名所旧跡についての伝説と、江戸以外のことも記した随筆。全七十三条(但し、内六条は目録のみにあり、本文は残っていない)。作者未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第三(明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。標題は『利根川【河伯柳木】』。後半の無関係な大水の際に流された場所に根づく柳の木の話をカットしてある。

「さへづり草」幕末から明治(明治八(一八七五)年に八十一歳で没した)に生きた俳人加藤昶の随筆。号は雀庵など。天保(一八三一年~)から文久三(一八六三)年までの作者の見聞録。和漢の故事・地名人名の由来・俳諧俳人についての噂話・芝居の役者の伝記・動植物の名義・世間の風俗風評・地理などを書き綴ったもの。刊行は明治四三(一九一〇)年に室松岩雄編・雀庵長房著「さへづり草 むしの夢」として一致堂書店より刊行された。当該原本の当該部が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。標題は『○双頭(さうとう)の水虎(かつぱ)』。なお、これに続けて、『○水虎の名義』・本篇の後半の部分相当の『○胡瓜をカツパとよぶ』・『○ヒヤウスヘ』・『○水虎のいめるもの』・『○鼈(すつぽん)水虎と化(なる)』・『○水虎のぬれ衣』・『○紫磨家(しまや)の主管(ばんとう)』(商家にの店先河童がものを借りに来たところを番頭が驚いている当時流行った錦絵の話)と河童談義が続き、面白い。加藤は河童好きだったらしく、同書の後の方で、『水虎の追記』も記している。江戸時代の「河童」を民俗学的に記した好古のものである。是非、読まれたい。

「甲子夜話」の話は、先のものと同じく、南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、「フライング単発 甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖」で既に電子化注してある。宵曲は、当該話の終りの部分だけを引用したもので、図も、前半部に出る「水難除け」の護符に描かれた河童の図を省略している。また、図(これは静山ではない別な人物が描いたもの)も、宵曲の写した図は、またまた、ショボい(というか、宵曲の手に掛かると、俳画のような可愛らしいものになって、禍々しさが払拭されてしまうのである)ので、そちらの写真版(東洋文庫版)も添えた。底本の「一」・「二」・「三」は宵曲が添えたものか。東洋文庫には、ない。]

〔続蓬窻夜話〕六月廿三日は紀州弱山(わか《やま》)湊[やぶちゃん注:「和歌山湊」。]の蛭児(ゑびす)祭なり。昔しはこの日必ず牛の売買ありて、牛ども多く湊の浜辺に集りける故、世の人皆湊の牛祭とも云ひしが、近年はいつとなく牛も来らずなりたり。この祭の時節は酷暑の砌《みぎり》なれば、河辺にて水浴する者多くて、動(やや)もすればこの日の前後溺れて命を失ふ者多し。享保丙午<十一年>六月廿二日[やぶちゃん注:ごレゴリオ暦一七二六年七月二十一日。]の晩方、嶋田氏何某の子、年十八なるが、暑気を凌《しの》がんとて近所の子供四五人を引つれ、小野町の浜辺に出て、大船の掛りて在る辺の小船を、彼方此方《かなたこなた》と打渡りて涼み居けるが、何とかしけん、船より船へ移るとて、蹈《ふ》みはづして海へ落ちけり。所しも深かりければ、敢(あへ)なく沈み入りけるほどに、従ひ行きたる子共、やれやれといへども、何とすべきやうもなく居たる内に、父母の宿近ければ、人々追ひ追ひ蒐(かけ)来り、水練を入れて死骸を被《かづ》き上げ、先づ浜にて色々術(てだて)を尽しけれども、終《つひ》にその験(しるし)なし。力無くて戸板に載せて家に帰り猶医者を呼び聚《あつ》めて療治しけれども、その甲斐なく遂に空しくなれり。これより前に、この子の沈みたるあたりに有りける大船の船頭の語りけるは、頃日《このごろ》浜にて子共の水を浴び居けるを、何心なく見居たるに、その中に小坊主の一人有りけるをつくづくと見れば、疑ひもなく但馬にて見たりし小坊主なり、彼は人間には非ず、正《まさ》しく河童なるが、何としてかこの浦へは来りけん、これをば知らで同じやうに水浴する子共の、命を取られんこそ不便《ふびん》なれと思ひ、急ぎ湊の浜に上り、子共の水浴することを制し玉へ、我れ但馬の河童のこの浦へ来るを、たしかに見付けたりと云ひければ、子を持ちたる者ども大きに驚き、やがて浜辺に走り出て、子共を皆水より呼上げける。さて何とて但馬より来りし事を知れりやと問へば、船頭が云ひけるは、我れ但馬の浦に船を掛けて居《をり》し時、この小坊主切々(せつせつ)[やぶちゃん注:切羽詰まった感じで丁寧に。]船へ来りて物を乞ひけるが、その物言ひ人と違《たが》ひて、始めは聞ゆるやうにて跡はなし、たしかに河童と見たるゆゑ、兎角だましすかして日を経たり、彼はその心飽《あく》までかしこき者にて、人の心を先に覚《さと》り、譬ヘば今度来《きた》る時この橈(かい)にて打つべしと思ふに、早《はや》その心を知《しり》て傍《そば》へ寄らず、その方はその橈にて我れを打たんと思はるゝやと云ふ。明日は船を出すべしと心に思ひ居れば、早その心を知りて明日は定めて出船ならんと云ふ。とかく人の心を先きに知る事、鏡の如し。これを知りながら悪しくもてなせば、必ず仇(あた)をなしてその害多し、とかくだますには如かじと思ひ、色々とすかし置きたりしが、今またこの浦へ見え来れり、これを思へば河童は諸国を遊行《ゆぎやう》すると見えたり、昔しよりこの浦には河童はなしと思ひて必ず油断すべからずと語りける。その後間もなく嶋田氏の子、廿二日の晩溺れて死しけるが、親の家は小野町なるゆゑ、間もなく被き上げけれども、臓俯腸胃を悉く引出《ひきいだ》して、腹中空《から》になりて有りけるよし、偖《さて》はこの船頭が語りたる河童の業《しわざ》ならんかと、人々疑ひあやしみける。その後もこの年は処々にて溺死する者多かりければ、皆この河童の業ならんかと、あやしみ疑ふ人多かりし。

[やぶちゃん注:「続蓬窻夜話」「蟒」で既出既注だが、本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保十一年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。但し、今回、ネットで一件認めたサイト「座敷浪人の壺蔵」の「釣人怪死」の現代語訳を見ても、それも、先の「蟒」中の一篇も、而して、この話も、明らかに紀州藩藩士個人に係わる子細な話であることから、作者は同藩藩士と推定は出来る。

「小野町」現在の和歌山県和歌山市小野町(おのまち:グーグル・マップ・データ)。]

〔譚海巻二〕川太郎といふ水獣、婦人に淫する事を好む。九州にてその害を蒙る事時々絶えず。中川家の領地は豊後国岡といふ所なり。その地の川太郎、処女に淫する事時々なり。その家の娘いつとなく煩ひつゝ、健忘のやうになり臥牀につく。これは川太郎に付かれたり。力なしとて親族かへりみず。川太郎に付かるゝ時は誠に医療術なし。死に至る事なりといへり。川太郎時々女の所へ来る。人の目には見えざれども、病人言語嬉笑する体《てい》にてしらるゝなり。親子列席にては甚だ尾籠いふべからざるものなりといへり。かやうなる事、家ごとに有る時は、川太郎を駆《か》る事あり。その法蚯蚓《みみず》を日にほしかためて燈心になし、油をそゝぎ燈を点じ、その下に婦人を坐せしめ置けば、川太郎極めてかたちをあらはし出で来るなり。それを伺ひ数人あつまり、川太郎を打殺しかゝる。斯の如くしてその害少しと云ふ。川太郎など夜陰水辺にて相撲とる事は、常の事なりといへり。  〔同〕安永中江戸深川入船町<現在東京都江東区内>にて、ある男水をあびたるに、川太郎その人をとらんとせしを、この男剛力なるものにて、川太郎を取すくめ陸へ引上げ、三十三間堂の前にて打殺さんとせしを、人々詑言して川太郎証文を出し、ゆるしやりたり。已来この辺にて都(すべ)て河太郎人をとるまじき由、その証文は河太郎の手判を墨にておしたるものなりとぞ。

[やぶちゃん注:前半は「譚海 卷之二 豐後國川太郎の事」で、後半は「譚海 卷之二 江戸深川にて川太郎を捕へし事」。以上は連続せず、かなり離れた箇所に配されてある。]

〔卯花園漫録巻二〕河童は大なる猿のごとく、頭の上少し窪みて、水を越《こえ》て専ら力ありて、人と争ふ事を好み、また賤民の家に入りて、婦女と姦淫する事あり。多く西国九州にあり。唐土《もろこし》にも似たる事あり。『淮南子《えなんじ》』に載する所の魍魎(もうりやう)<水の神、木石の怪>の類ひ[やぶちゃん注:ママ。「たぐゐ」か「るい」。]、また『酉陽雑爼』に云ふ𤝈𤡓《とうおく》と云ふ者あり。形ち猴《さる》のごとく、長毛七尺ばかり、馬《うま》化《け》して成るといへり。人の妻を竊《ぬす》むとあり。また江鄰幾《かうりんき》が『雑志』に云ふ。宋の徐積廬《じよせきろ》川の辺にて取得たる小児も、この河童の類なるべし。また『本草』の山𤢖(さんさう)の条下に、旱母(かんぼ)といふものあり。その丈け二三尺ばかり、髁にて目は頭の上に有て、往走《ゆきはし》る事風のごとく速かなり。よく人の家に入りて婬乱を為し、火を放ちて物を盗み、人に害ある事甚し。旱母顕《あらは》るゝ時はかならず旱《ひでり》す。これ和俗に云ふ河童なるべし。

[やぶちゃん注:「卯花園漫録」読みは現代仮名遣で「うのはなぞのまんろく」或いは「ぼうかえんまんろく」。作者は江戸の故実家であった石上宣続(いそのかみのぶつぐ)で文化文政期の人(詳細事績不詳)。同書は史伝・故実・言語その他の起源・沿革を記した随筆で、『文政六年』(一八二三年)『夏日』と記す序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。御覧の通り、かなり知ったか振り満載の衒学的な文章であり(以下の私の注を見られたい)、ちょっと真面目に注するのが馬鹿々々しくなった。

「『酉陽雑爼』に云ふ𤝈𤡓と云ふ者あり」「中國哲學書電子化計劃」の影印本でここの六行目から原本が見られるが、所持する東洋文庫版の同書の今村与志雄訳注を見ると、石上宣続の訓読は誤っていることが判明する。「馬化して成る」は原文は『名𤝈𤡓一曰馬化』で、「馬化」は𤝈𤡓の異名である。今村氏の「𤝈𤡓」の注に、『未詳。𤝈は豭に同じ。牡豚のこと』とある。

「江鄰幾が『雑志』」これもおかしい。宋の江休復(一〇〇五年~一〇六〇年)の原著になる「江鄰幾雜誌」で、全体が書名である。著名人の逸話や前王朝の物語を中心としたもので、歴史的な解説の雰囲気をも持つ。「中國哲學書電子化計劃」で調べたが、当該箇所を見出せなかった。

「『本草』の山𤢖(さんさう)の条下に、旱母(かんぼ)といふものあり」李時珍の「本草綱目」の「卷五十一下」の「狒狒」の「猿猴」の中の、附録の「野女」の、「山𤢖」の条に出る。「漢籍リポジトリ」のここの、[120-43a]の影印本の本文の実際の行の三行目に出る。「山𤢖」は私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖(やまわろ)」を参照されたい。「旱母」は「旱」(ひでり)から判るように旱魃の神格化されたものである。しかし、水界の妖怪である河童が旱の神と同一と言い放って知らんふりの憚らない石上のパラドキシャルな非論理性には、呆れる他はない。この男、やっぱりだめだ。なお、ziro-irisa氏のブログ「胙豆」の「旱母其れ上帝の命を受け」に「旱母」の纏まったブログ主の見解が語られてある。

「髁」ここでの意味不明。この字は①大腿骨。②膝蓋骨。③尾骨。④正しくないさま。辻褄が合わないさま。⑤腰骨である。思うに、これ、河童の左右の腕の骨が体内で繋がっているとされること(漢語で「通臂(つうひ)」と称する)を、半可通でこんな漢字で言ったのではないか? 私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の掉尾にある、「川太郞(かはたらう)」を参照されたい。既にそこに、その特異体質の記載がある。最後の最後まで、石上御大、だめだわ。

2023/09/12

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「勝五郎転生」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

  

 勝五郎転生【かつごろうてんしょう】 〔巷街贅説巻二〕西丸御書院番佐藤美濃守組、多門伝八郎知行所、武蔵多摩郡柚木領、中野村百姓源蔵次男勝五郎、当未<文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]>九歳に相成候。右中野村近所程久保村百姓九兵衛、後に藤五郎といへる者の子に、藤蔵といへるあり。この子二歳の時藤五郎相果て、継父半四郎代になり、六歳にして死す。(文化十年[やぶちゃん注:一八一三年。]歟)さて藤蔵を葬送する時、藤蔵心に桶へ入れられしをせっくるしく覚え、桶の縁ヘ手をかけ行きしに、既に葬穴へ納めらるゝ時、白髪を長く振乱したる翁来りて、手を引いて連れ行きたり。それより薄暗き所に在りて、年月を経しとおぼろげに思ふのみ。外の事は覚えず。只草木の花のみ見たり。その花を手折らんとすれば、鳥の来りてさまたげて折らせざりしとなり。九年の前(文化十二年)正月、白髪の翁いへるは、最早三年になりぬ、人間へ行くべしとて、源蔵が家の前へ連れ来り、柿の木の下に置ていへるは、垣の穴より内へ入るべしと、教ヘ置きて翁は立去りぬ。それより稍〻《やや》暫く様子を伺ひ、漸くにして這入りて、竃《かまど》の前に三目程居れりと覚えし。その後の事はしらずといへり。さて源蔵は老母、男女の子供ありて貧に迫り、夫婦談合して、妻事《つまこと》当春奉公すべしとて、江戸のゆかりの方へ行けり。その時勝五郎胎内に有りて、さてさて困りたる事哉《かな》と思ひしとぞ。然る処懐胎なりしかば、奉公もなりがたく家に帰りて、十月十日に男子出生す。これ則ち勝五郎なり。当未年勝五郎九歳、正月七日ふと姉に向ひて、おまへは何方《いづから》よりこの家に来り給へる、兄さまもまた何方より来給へるぞと問ひし程に、姉は心をも得ねば、何事をいふぞと云ひつゝその方は何方より来りしやと問へば、わらはは程久保村の藤五郎が子なるが、死してまたこゝへ来れり、さればおまへは何方より来給へると問ひし程に、けしからぬ事をいふもの哉、親達へ云ふべしといへば、手をすりて、告げてたもるなと、口へ[やぶちゃん注:「手を」の脱字か。]当てて誤りぬ。さるに勝五郎いたづら盛りにて、不断兄弟いさかひせし故、姉余りにこまる時は、この間の事いふぞといへば、誤り又いたづらを止めしとなり。それ故度々《たびたび》その事をいひしかば、終《つひ》に母聞付けて、何をいふのぞと問ひしゆゑ、有りつる事ども語りしによりて、母また源蔵に告げしかど、取留めぬこととて捨て置きしかど、胎内にて奉公に出づべしといふを聞きしといへる事、いかにも怪しく思へりしとぞ。その後は勝五郎ひたすら程久保村へ連れ行きて、親達にあはせ給へと度々云ひしかど、先方にていかやうの挨拶をせんも計りがたくと打捨て置きしに、それより夜毎に寝もやらず泣きしゆゑ、左様に泣くと外へ捨てるなどとおどしたれども、夜になれば泣かぬ夜なく、叱りぬれば泣きし事を一向に知らずといふ故、いよいよ怪しみ思ふに、老母のいへるは、遠からぬ所なれば我等連れ行くべし、女の事なれば何様《いかやう》の挨拶したればとて苦しからじと、廿日に勝五郎を召連れて、程久保村へ行きぬ。その道々我等が内は三軒有る家の、山の方へよりたる家なりといひつゝ、其所に至りぬれば、前に立《たち》て半四郎が家に入りけるに、半四郎家内も、兼ねて聞き及び居りし由にて、今日来るか来るかと待ち居たりとて、種々もてなしけり。さてまた廿八日は高畑不動の縁日なれば、また来よとて廿七日に、半四郎迎へに来りて連れ行きしとぞ。勝五郎父源蔵にいふは、程久保と親類になりて給はれと、ひたすら乞へども、未ださもせず、半四郎方へも今にゆかずと源蔵いへり。右は今日<文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]四月二十五日>平田大角宅にて源蔵父子に逢ひて、そのいふ所を聞きたる趣なり。<『甲子夜話二七』にも同様の文章がある>

[やぶちゃん注:この「生まれ変わり奇譚」は、恐らく、最も知られているそれで、転生したと本人が述べている超弩級の近世末に学者まで巻き込んだ奇怪な実話である。主人公は小谷田勝五郎(こやたかつごろう 文化十二年十月十日(一八一五年十一月十日)~明治二年十二月四日(一八七〇年一月五日))で、幕末・明治初期の農民である。彼が自らを再生と告白したのは、数え七歳の文政五(一八二二)年のことで、翌文政六年四月には、国学を独特の神道体系に組み込んで変容させた幽界研究家とも言うべき奇体な学者平田篤胤が強い関心を持ち、勝五郎を自身の屋敷に招いて、長期に滞在させて聴き取りを行い、それを、翌文政六年、「勝五郎再生記聞」として刊行している。文政八年には、勝五郎は、湯島天神の男坂下にあった、彼を完全に信じ込んだ強力なパトロンと化した平田が経営する国学塾「気吹舎」に入門、平田の門人となっている。私はこれを若き日に、二度、通読したが、私は、彼は一種の先天的な以上性格者或いは精神疾患者で、自身の中だけで架空の強い妄想体系を緻密に構築し、その閉鎖系の中では、自身では矛盾を全く感じない完璧な論理を駆使出来る、作話症・虚言症、ちょっと昔の言い方でよければ、対話者(精神科医)に全くラポート(フランス語ではrapport(ラポール。心理療法・調査・検査・精神鑑定などで、通常は面接者と被面接者との関係に成立する親密な信頼関係)を起こさない(精神疾患としてはその場合は根治不可能であることを意味する)稀有の「偏執狂(パラノイア)」であったと考えており、その点で、彼の証言は、徹頭徹尾、虚言であると断ずるものである。平田篤胤は自身の幽界哲学にそれを組み込み、全く無批判に(実際に一抹の不審も抱いていないように見える)信じ込み、まさしく――虚数の作話体系の体系化――に知らず知らず、手を貸してしまったのである。今も昔も、私は「勝五郎再生記聞」は、読み物としては面白いものの、勝五郎の語りは一言たりとも事実として認めないし、電子化もするつもりはない。彼に就いては、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」(オリジナル詳細注有り)があり、さらに、宵曲が最後に掲げるところの、「甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册」も、八雲のそれに合わせて、二〇一九年に電子化注公開しているので、そちらを見られたい。注は以上のリンク先で尽きていると思うので、ここでは附さない。

「巷街贅説」既出だが、再掲すると、自序に「塵哉翁」とある以外、事績不詳。寛政から安政(一七八九年から一八六〇年まで)に至る七十一年に亙る江戸市中の巷談俚謡を見聞のままに記したとされる随筆。これが事実なら、この作者は相当な長寿であったことになるのだが……。国立国会図書館デジタルコレクションの『近世風俗見聞集』第四(大正二(一九一三)年国書刊行会刊)のここ(左ページ下段中央)から正字で視認出来る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「片輪車」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 片輪車【かたわぐるま】 〔諸国里人談巻二〕近江国甲賀《こうか》郡<現在の滋賀県甲賀郡>に、寛文のころ片輪車といふもの、深更に車の碾音(きしりおと)して行くあり。いづれよりいづれへ行くをしらず。適(たま)にこれに逢ふ人は、則ち絶入《ぜつじゆ》して前後を覚えず。故に夜更けては往来人なし。市町も門戸を閉ぢて静まる。この事を嘲哢《てうろう》などをすれば、外よりこれを詈《ののし》り、かさねてさあらば祟りあるべしなどといふに、怖ぢ恐れて一向に声も立てずしてけり。或家の女房、これを見まくほしくおもひ、かの音の聞ゆる時、潛《ひそ》かに戸のふしどより覗き見れば、牽人(ひくひと)もなき車の片輪なるに、美女一人乗たりけるが、この門《かど》にて車をとゞめ、我見るよりも我が子を見よと云ふにおどろき、閨《ねや》に入りて見れば、二歳ばかりの子、いづかたへ行きたるか見えず。歎き悲しめども為方なし。明けの夜、一首を書きて戸に張りて置けり。

 罪科は我にこそあれ小車の

    やるかたわかぬ子をばかくしそ

[やぶちゃん注:和歌は一行ベタであるが、ブラウザの不具合を考えて、下句を改行して下げた。]

 その夜片輪車、闇にて高らかによみて、やさしの者かな、さらば子を帰すなり、我人に見えては所にありがたしといひけるが、その後来らずとなり。<『譚海巻七』に信州某村の話として出ている>

[やぶちゃん注:本篇は怪奇談集でも、多出ランキングの最上位に出るメジャーなもので、私の記事でも枚挙に遑がない。まずは、本引用元は、「諸國里人談卷之二 片輪車」で電子化注してある。また、宵曲もこの話譚が好きで、そのルーツを「柴田宵曲 續妖異博物館 不思議な車」で追究している。而して、私は後者の注で、最後に附記する「譚海巻七」の「信州某村かたわ車の神の事」それも既に電子化している。また、挿絵が見たいのなら、恐らくは現存する片輪車の記載では、最も古層の一篇である「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」がよかろう。

「現在の滋賀県甲賀郡」『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」では、そちら編者によって『現在の滋賀県甲賀市・湖南市』に書き換えられてある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「片眼の蛇」

 

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 片眼の蛇【かためのへび】 〔閑田耕筆巻二〕洞家《曹洞宗》の一病憎、宇治に安居《あんご》して有りしが、一日《いちじつ》常に立入る芋売ル男行きたるに、門より片眼盲《かためまくら》ある蛇一筋来《きた》る。そのさま何となく恐ろしくおぼえて、我しらず芋の荷を打捨て、その近き家へ逃げ入りたるが、その時病僧は息絶えたり。その所由《いはれ》を聞くに、この僧、某国にて、衣類の洗濯を托したる女に相馴れけるが、その女醜きがうへに一眼眇《ひとめすがめ》なれば、僧のいつしかうたてくなりて、其所《そこ》をさりしに、跡を追《おひ》て尼になりて付《つき》まとひければ、いよいよわびしくて、また後《あと》の所を夜に紛れて宇治に来れるなりしとぞ。執(しう[やぶちゃん注:ママ。「しふ」が正しい])は懼るべきものなり。これは同宗の尼僧、よく知りて語れり。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。]

2023/09/11

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「片目魚」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 片目魚【かためうお】 〔諸国里人談巻五〕摂津国川辺郡昆陽池《こやのいけ》<兵庫県伊丹市内>の鯉鮒、その外小魚みな片目なり。この池の魚を祭りて行波明神《ぎやうはもやうじん》とす。相伝ふ、むかし行基上人、一男病みて山に倒れ伏したるを見給ひ、有馬<神戸市北区>の温泉に誘はんとあれども、気力疲れ身体叶はず。進む事あたはず。吾飲食を断つ事日あり、願はくば鮮魚《あたらしきうを》を以て飲食をすゝめ給へ、時に上人長洲浜に至りて魚を得て、これを烹てあたふ。先づ試みに上人召せといふ。則ち食して甚だ甘美なりと、これを進む。又曰く、吾黒瘍《かぶとがさ》ありて、これを患ふ。上人瘡瘍《さうじゆく》を舐めば痛みさるべきか、その体焦爛《ただれ》甚だ臭く、近付くべきにもあらず。上人いとやすしとこれを舐む。忽ちにその像金身となり、薬師如来と現ず。時に仏告げて曰く、吾は温泉山にあり、上人を試みんがため、今病体と現ず。言已て見えずとなり。件の魚の残余を昆陽池に放つ。化して一目の魚となると云ふ。出羽国鳥海山<山形県飽海郡吹浦村にあり>の川の黄顙魚《かじか》は、皆一眼眇なり。相伝ふ、鎌倉権五郎、鳥海弥三郎とのたゝかひに、右の眼を射らる。答《たふ》の矢を放ちて、またこれ射る。その鏃《やじり》をぬき、この川に至りて目を洗ふ。この縁によつて妙なりと云へり。

[やぶちゃん注:これは、引用に大きな問題がある。原本では、「諸國里人談卷之五 眇魚」の次に、「諸國里人談卷之五 片目魚」が独立項として続くのだが、それを、反転して、しかも、勝手に繋げているからである。書誌学的には許されることではない。それぞれ、リンク先で私が詳細に注しているので見られたい。

「山形県飽海郡吹浦村」は筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」では、『山形県・秋田県境にあり』と編者によって書き変えられている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「形なき妖」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 形なき妖【かたちなきよう】 〔譚海巻二〕鯉川と云ふ所に夫婦にて貧窮なる者あり。その家内にある日、いづくともなく声ありてものいふ。形は見えず。はじめは恐れけれども、後々はなれて物語りなどしけり。食物など夫婦のものの望みにまかせて、何にてもその家の内に出来《いでく》る。それに合せて近隣にて、餅あるひは食物等、不時に失する事あり。さては狐狸のたぐひのしわざにやといへり。その声に就て向来(かふらい)の事を問ふに、吉凶悉く答ふる事違はず。往々しるし有りければ、群集して銭穀をもち来り占をとふ。また人ありてその声につきてとりとめんとすれば、形ちは見えざれども、ねぢあひ角力とる体なり。この化もの甚だ力すぐれて、人に負る事なしとぞ。後いつとなくこの怪止みたり。これも宝暦七年の事なり。

[やぶちゃん注:「譚海 卷之二 同領地十二所の人家に錢をふらす事」の後半部。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「画像の祟」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 画像の祟【がぞうのたたり】 〔煙霞綺談巻四〕宅間証賀法印栂尾(とがのを)にゆきて、春日・住吉二神の像を、上人に請ひて拝し写さんといふ。明恵(みやうゑ)上人の曰く、この像を写せばかならずたゝりありといふ、無用たるべしと止めたまへども強ひて[やぶちゃん注:ママ。]模写す。帰洛に落馬して死したり。鳴滝(なるたき)に宅間が塚とて今も有り。かゝる怪しき圖像もある事にや。

[やぶちゃん注:「煙霞綺談」「池の満干」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここ(左ページ最終行)で正字で視認出来る。

「宅間証賀法印」宅磨勝賀(生没年不詳)は平安末期か鎌倉初期の絵仏師。俗名は宅磨為基(たくまのためもと)で、「宅間」は「託磨」「詫磨」などとも記され、また、法名は「証賀」「澄賀」ともある。真乗房と号した。平安時代から室町時代初頭まで存続した絵仏師の代表的流派である「宅磨派」の始祖とされる宅磨為遠(たくまのためとお)の息子。安元元(一一七五)年に出家し、後に法橋から法眼になっている。「神護寺略記」には法印の記載もある。建久二(一一九一)年十二月二十八日には「十二天屛風」を東寺に奉納しており、現存している唯一の作品とみられるが、その抑揚に富む描線は宋画の手法を採り入れたものとされる。元久二(一二〇五)年には、九条兼実の命により、法然の瘧病(おこりやまい)の御祈請のために善導大師の像を描いている(「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。

「栂尾」京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町(うめがはたとがのおちょう)にある高山寺(グーグル・マップ・データ)。明恵は高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされる。

「明恵上人」(承安(じょうあん)三(一一七三)年一月八日~寛喜四(一二三二)年一月十九日)は平安末から鎌倉初期の華厳僧で紀伊有田郡出身。父は平重国(伊勢平氏の家人で、伊勢国伊藤党の武士。本姓は藤原氏であったが、養父の平姓を名乗った。平七武者と号し、高倉上皇の武者所に伺候した)。母は湯浅宗重の娘。叔父の僧上覚に従い、京都神護寺の、かの文覚の弟子となる。建永元(一二〇六)年、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、高山寺を創建した。法然を批判した「摧邪輪」(さいじゃりん)や、自身の夢の記録「明恵上人夢記」が知られる。法名は高弁。私は既にブログ・カテゴリ「栂尾明恵上人伝記」の電子化注を完遂、同じくカテゴリ「明恵上人夢記」を進行中である。

「鳴滝」現在の京都市右京区鳴滝宅間町(なるたきたくまちょう)に「法眼宅間勝賀終焉地」の碑がある(グーグル・マップ・データ)。

「宅間が塚」サイト「日本伝承大鑑」の「宅間塚」で碑の写真が見られる。上のグーグル・マップ・データのサイド・パネルにも写真が複数ある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「果心居士」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 果心居士【かしんこじ】 〔遠碧軒記上の三〕果心居士《くわしんこじ》は大和の者にて、桑山丹後守在所のものなり。幼少にて高野に住す。天性術を得たり。形を徳利の内へ入れ、また大塔へ縄をうちかけて上る。これより山を追出、方々術をしてありくなり。

[やぶちゃん注:「果心居士」果心居士(生没年不詳)は室町末期に登場したとされる幻術師で「七宝行者」とも呼ばれる。織田信長・豊臣秀吉・明智光秀・松永久秀らの前で、不思議な幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある(当該ウィキに拠った)。私のブログでも十件の記載があるが、最も古いのが、「柴田宵曲 妖異博物館 果心居士」で、彼の記録を細かに俯瞰していて、手っ取り早い。秀吉の見せられたそれは、同じく「柴田宵曲 妖異博物館 鼠遁」がよい。また、「小泉八雲 果心居士  (田部隆次訳)」が、すこぶるお勧めである。

「遠碧軒記」(えんぺきけんき)は、医師で儒者であった黒川道祐 (どうゆう ?~元禄四(一六九一)年:安芸出身。名は玄逸。儒学を林羅山と、外祖父堀杏庵に学び、安芸広島藩医となった。地誌・医学史を研究し、「芸備国郡志」・「本朝医考」などを著はし、延宝元年以後は京で著述に専念した。知られた著作に山城国(現在の京都府南部)に関する初の総合的・体系的地誌「雍州府志」などがある)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの]『日本隨筆大成』巻五(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここで当該部が正規表現で視認出来る。]

〔醍醐随筆〕松永弾正久秀多門在城の時、果心居士とて幻術のものあり。閑暇の時はかたり慰む。ある夜弾正、われ戦場において白刃を交ゆるに至つては、終に恐懼《きようく》の心を動かすことなし。汝試みに幻術を行ひて我を恐懼せしめよと云ふ。果心、さらば近習の人を遠ざけて、寸刃をも持ちたまはず、灯も消したまへなどいへば、各〻立《たち》のきける。刀剣のたぐひをおくべからずといましめ、火うちけして弾正一人箕踞《ききよ》[やぶちゃん注:無作法に両足を投げ出して座ること。足を伸ばし広げて座ること。箕坐。その格好が農具の箕(み)の形に似ているところから。]して居れり。果心ついたちて広縁をあゆみ、前栽の間へ行くとて見えし。俄かに月くらく雨そぼ降りて、風声粛颯《しゆくさつ》たり。蓬窗《ほうさう》[やぶちゃん注:蓬(よもぎ)の生い茂った所に面した窓。転じて、「貧しい粗末な家」の意。]の裡にして瀟湘《せうしやう》[やぶちゃん注:湖南省の瀟水(しょうすい)と湘水が洞庭湖に注ぐ辺りの地方で、山水画の画題として「瀟湘八景」の名で知られる名勝。]にたゞよひ、荻花《をぎのはな》の下《もと》にして潯陽《じんやう》[やぶちゃん注:中国古代の、現在の江西省の揚子江南岸九江市附近に置かれた郡県の名。この付近で揚子江は潯陽江と呼ばれ、白居易の「琵琶行」に歌われたことで著名。]にさまよふらんもかくやと思ふばかり、物かなしく味気《あぢけ》なし。気弱く心細くしてたへがたくなむ。いかにしてかくなりぬるやと、はるかに外をみやりたるに、広縁にたゝずむ人あり。雲すきに見出しぬれば、細くやせたる女の髪長く振りさげたるが、間近くあゆみよりて弾正にむかひて坐せり。何人《なんぴと》ぞやといへば、大息ついて苦しげなる声して、今夜はいとつれづれにやおはすらん、人さへなくてといふをきけば、うたがふべくもあらず、五年以前病死してあかぬ別れを哀しみぬる妻女なりけり。弾正たへがたくすさまじければ、果心居士やめやめと呼ばはるに、件《くだん》の女たちまち居士が声となり、これに侍るなりと。見れば果心なり。いかゞしてこれほどまで人の心を惑はすらんと、弾正もあきれてけり。もとより雨も降らず、月の晴れわたりて、雲も去りけり。この居士が術は、奈良辺の老人のまのあたり見たりと云ふもの、山人が童稚《どうち》のころ語りぬる。元興寺《ぐわんこうじ》の塔へいづくよりかのぽりけん、九輪の頂上に立ち居て衣服ぬぎてふるひ、又うちきて帯しめて頂上に腰かけて、世上を眺望して下りたるとぞ。種々の神変も多かれど、怪事はしひてかたるべからず。今代も放下といひて、幻術目を驚かす事のみ多かり。これについて思ふに、仙家に奇妙を振舞ひて古今を惑はすたぐひ、論ずるにたる事なし。

[やぶちゃん注:「醍醐随筆」は大和国の医師・儒者中山三柳の随筆。初版は寛文一〇(一六七〇)年(徳川家綱の治世)。国立国会図書館デジタルコレクションの『杏林叢書』第三輯(富士川游等編・大正一三(一九三八)年吐鳳堂書店刊)のこちらで正字版の当該部を視認出来る(但し、この底本は文化年間(一八〇四年~一八一八年:徳川家斉の治世)の抄録写本底本である)。「柴田宵曲 妖異博物館 果心居士」の私の注で電子化した「玉箒木」の卷三」の「果心幻術」の後半が、同一内容の話となっているので、見られたい。

「元興寺」蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降、次第に衰退して、現在は三寺が分立し、往時の面影はない。グーグル・マップ・データの「元興寺塔跡」をリンクさせておく。]

2023/09/10

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火車」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 火車【かしゃ】 生前に悪事をした亡者を乗せて地獄へ運ぶ火を発する車 〔茅窻漫録下〕西国・雲州・薩州の辺、または東国にも間々ある事にて、葬送のとき、俄かに大風雨ありて、往来人を吹き倒す程の烈しき時、葬棺《さうくわん》を吹上げ吹飛ばす事あり。その時、守護の僧珠数(じゆず)を投げかくれば異事なし。若《も》しさなきときは、葬棺を吹飛ばし、その尸《かばね》を失ふ事あり。これを火車(かしや[やぶちゃん注:ママ。「くはしや」が正しい。])に捉(つかま)れたるとて、大いに恐れ恥《はづ》る事なり。愚俗の言伝へにその人生涯に悪事を多くせし罪により、地獄の火車が迎ひに来りしといふ。後にその尸を引裂き、山中の樹枝(きのえだ)または岩頭(いはかど)などに掛け置く事あり。火車と名付くるは、仏者よりいひ出したる事にて『法事讃』に「無量刀林当《まさし》クシテㇾ上《(うへ)ヨリシテ》而下。火車炉炭十八苦事。一時」といひ『因果経』に「今身《こんしん》作《なり》テ後母《ト》。諛《ゆこく》スル前母者。死シテ火車地獄《ノ》。」など、愚俗を驚畏せしむるなり。慈鎮の『拾玉集』に

 火の車今日は我門やりすぎて

    あはれいづ地に巡り行くらむ

[やぶちゃん注:和歌は一行だが、ブラウザの不具合を考えて、下句を改行して下げた。]

 その火車に捉《つかま》れたるといふは、和漢とも多くある事にて、これは魍魎(もうりよう[やぶちゃん注:ママ。])<木石の怪>といふ獣《けもの》の所為《しわざ》なり。罔両とも方良とも書く。『酉陽雑爼』に「周礼《しうらい》ニ方相氏《はうさうし》《たた》カル罔象《まうしやう》ニ[やぶちゃん注:「ヲ」の誤り。]。好《このみ》テ亡者《ノ》《(きも)》ヲ。畏《ト》一ㇾ《このてがしは》ヲ。墓上ㇾ栢。路ㇾ口スハ石虎《た》メナリㇾ此也」[やぶちゃん注:底本では「此」の後には右に「み」とあるが、「ガ」に訂した。]とあり。この獣葬送の時、間々《まま》出《いで》て災《わざはひ》をなす。故に漢土にては聖人の時より、方相氏といふものありて熊の皮をかぶり、目四ツある形ちに作り、大喪の時は、柩《ひつぎ》に先立《さきだて》て墓所に至り、壙(あな)に入りて戈(ほこ)を以て四隅をうち、この獣を殴(カル[やぶちゃん注:カタカナはママ。])事あり。これを険道神(けんたうしん[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館『随筆大成』版では『ケンダウシム』と振る。])といふ。『事物紀原』に見えたり。この邦にても、親王一品《しんわういつぽん》は方相《はうさうし》轜車《じしや》[やぶちゃん注:貴人の葬儀に際し、棺(ひつぎ)を載せて運ぶ車。進行の際、哀音を発するよう、車輪に特殊な構造が施されてある。「喪車」「きぐるま」とも呼ぶ。]を導く事、『喪葬令』に見ゆ。今の俗葬送に竜頭《りゆうとう》を先きに立つるも、その遺意なり。時珍の『綱目』に『述異記』を引《ひき》て、秦の時陳倉《ちんさう》の人、猟してこの獣を得たり。形は彘(いのこ)の若(ごと)く羊の若《ごと》しとあり。古より愚俗の誤りて火車《くはしや》と名付くるゆゑ、地獄の火車《ひのくるま》と思ふ、笑ふべし。

 

Kuhasiya

 

Kuhasiya2

 

[やぶちゃん注:掲げた挿絵の最初のものは、『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」のものをトリミング補正して挿入した。キャプションは「魍魎」で右に「クハシヤ」と振る。厳密には「魎」の字は「鬼」の八画目の右の「あし」は(つくり)の「兩」の下には及んでいない。後に掲げたものは、所持する日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成』第一期二十二巻(昭和五一(一九七六)年吉川弘文館刊)の同じ部分の挿絵なのであるが、明らかにキャプションの「魎」の字が異なり、位置も違うことから、別な版本(恐らく再版)と考えられる(そうか! だから吉川弘文館『随筆大成』版には異様にルビがついているのだ!)トリミングし、補正は加えずに、敢えて載せた。キャプションの位置違いは、恐らく「奇談異聞辞典」のレイアウト上、移動させたものであって、別な絵ではないと思う。絵とキャプションは作者茅原虚斎のものであろうが、にしても、調べてみたが、不思議なことに、この画像の原拠の出所が全く判らない。私はこのような「魍魎」或いは「火車」の図版を他で似たものを見たことがない。作者は博識であり、無知蒙昧の連中の誤謬を冷酷に批判しているが、では、何故、この描いたモデル原拠を示さないのか? 人をあざ笑う前に、お前の恣意的な正体不明の幻獣画像をこそ自ら問題にすべきではないかッツ?! もし、原拠画像があるとなら、識者の御教授を切に乞うものである。個人的には中国の本草書の「魍魎」関連の図を元にしたのであろうことは想像される。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」に「魍魎」が載るが、耳が上に長い小児のように描いてある。本文を引くと、『「淮南子」に云ふ、『罔兩は、狀(かたち)、三歳ばかりの小兒のごとく、赤黒色。赤き目、長き耳、美しき髮あり。「本綱」に云ふ、『罔兩は、好みて亡者の肝(きも)を食ふ。故に「周禮(しゆうらい)」に『方相氏は、戈(ほこ)を執り、壙(くわう)に入り、以つて、方艮を驅(か)る。』と云ふ、是れなり。其の性、虎と栢(このてがしは)とを畏る。曰〔ひて〕、此れ、「弗述(ふつじゆつ)」と名づく。地下に在り。死人の腦を食ふ。但し、柏[やぶちゃん注:ママ。]を以つて、其の首を挿せば、則ち、死す。此れ、卽ち、罔兩なり。』と』。『按ずるに、魍魎は、「左傳」の注疏に、『川澤の神』と爲し、「日本紀」にも亦、以つて、「水神」と爲し、魑魅を以つて「山神」と爲す』とある。そちらの二種の絵(版の違うもの)を見て貰うと、「和漢三才圖會」のそれは孰れも、どこか可愛らしい愛すべき姿をしている。本草家の茅原は「和漢三才圖會」を読んでいることは確実である。而して、このえげつない狐みたような図は、茅原がこれをデフォルメした可能性が浮んでくるように思う。全く以って俺は、この茅原、好かんわ!

 

(『淮南子』に載せたる罔両は『大和本草』に、俗にいふ河太郎《かはだらう》といふ獣なりと。これは『本草綱目』渓鬼蟲附録に出たる水虎にて、『通雅』に水虎、水蘆の名あり、形猴(さる)のごとく、円《まろ》く鼻長く赤毛を戴く、項(うなじ)に皿あり、全体亀(かめ)の種類にて、水に居て人を捕り食ふ者なり)

[やぶちゃん注:漢文部の訓点は底本では、あまりに不全で、杜撰極まりない。そこで所持する吉川弘文館『随筆大成』版の訓点を特異的に参考にし、全体の読みも、こちらは有意に多く附されてあるので、やはり参考にして、推定で添えた。それは《 》を添えておいたが、底本の当該部を、まずは見られたい。底本のこの項を正確に総て読みこなせる方は、私は極めて稀れな才能の持ち主と存ずる。

「茅窻漫録」(ぼうそうまんろく(現在仮名遣))は医師で本草家であった茅原虚斎(ちはらきょさい 安永三(一七七四)年~天保一一(一八四〇)年:長門出身。名は定(さだむ)。京で医者を開業した。動植物に通じ、「詩経名物集成」全六巻(文化五(一八〇八)年)がある)の随筆。文政一二(一八二九)年自序で、天保四(一八三三)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正規表現で挿絵附きのものが視認出来るが、こちらにはルビは殆んどない。

「火車」私の「怪奇談集」では、最も出場の多いメジャーな怪異である。個々の「火車」怪談を挙げるとキリがないので、ここでは、作者がその仕業の元凶として指示する「魍魎」について、『大和本草附錄巻之二 「魍魎」 (中国版水怪)』を挙げておく。本文は、ごく短いが、そこで私は「火車」も含めて、かなりの注を附してあるからである。というより、最後の附記で本篇でも、それに触れてもいるのである。

「法事讃」の引用は、ざっくり言うと、最大の悪事である五逆(父を殺すこと・母を殺すこと・ 阿羅漢を殺すこと、僧衆の和合を破ること。仏身を傷つけること)を犯した者の臨終に際して、瞬時に、そそり立つ無数の抜身の刀の林の中を上下させられ(衆合地獄の刀葉林のイメージ)、地獄の迎えの火車やら、大きな罪人を炒る炉やら、その燃え立つ炭火やらがやって来て速やかに地獄のあらゆる苦しみが現前するという意味であろう。

「因果経」の引用も、ざっくり訳すと、継子いじめで、「現世で、継母となって、前妻の子を機嫌を取るように装いつつ、その実、厳しくいじめた母親は、『火車地獄』に堕ちる。」という戒めである。

「慈鎮の『拾玉集』」平安末から鎌倉初期の天台僧慈円(久寿二(一一五五)年~嘉祿元(一二二五)年)の諡(おくりな)。関白藤原忠通の子で九条兼実の弟。天台座主を四度務めた。「愚管抄」を著わし、「拾玉集」は彼の私家集。「無常五首」の第一首目。

「方相氏」「周礼」の「夏官」に見える周代の官名。黄金の四目の仮面を被り、玄衣・朱裳を着用、手には戈と楯を持って、悪疫を追い払うことを司ったとされる。本邦では「追儺」(ついな)の行事の際、宮中の悪鬼を追い、また、葬送の際、棺を載せた車を先導する役をした。グーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

「罔象」所持する東洋文庫版の今村与志雄訳注「酉陽雑俎」(一九八〇年平凡社刊)の当該条の注に、『『周礼』「夏官司馬」によると、方相氏がたたく相手は方良である。方良は、罔両と同じである。蝄蜽(もうりょう)、魍魎(もうりょう)ともかく。水神という。あるいは山川の精物(妖怪)という。罔象は、『史記』「孔子世家」に、「木石の怪は、龍、罔象、土の怪は墳羊(ふんよう)」という、その罔象である。『集解』によると、三国時代のの呉のとき、「罔象は人を食う、一名『沐腫(もくしゅ)』という」説もあったらしい。方良と罔象、どちらも水中の怪物であるところから、段成式の時代には、同一視されていたのであろう』とあった。

「栢」本邦ではヒノキ科、或いは、イヌガヤ科カヤを指すが、中国では本来は、裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis を指した。

「事物紀原」中国の類書(百科事典)。宋の高丞撰。原本は二十巻。天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類して名称・縁起の由来を記す。

「喪葬令」(そうそうりょう:現代仮名遣)現在残るものでは「養老律令」(ようろうりつりょう:(天平宝字元(七五七)年)に施行されたそれが最も古いか。

「『本草綱目』渓鬼蟲附録に出たる水虎」同じく寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「水虎」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「菓子の中の小判」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 菓子の中の小判【かしのなかのこばん】 〔真佐喜のかつら〕大坂福有《ふくいう》の町人うち寄り、何事の願《ぐわん》ありしや、その筋より紀陽公<紀州家>の藩山中某へ頼み入り、時節来るを待ち居しが、或時彼《かの》者ども大きなる鯛の形を菓子にて拵へ、箱に入れ、若山[やぶちゃん注:和歌山。]表迄送りぬ。山中某、箱を開きみるに、その製いかにも妙手にて、鯛の形あだかも生ける魚の如くなりければ、幼君(この頃大守は御幼年の由)に進すべしと、箱を新たに成し、家士を以て江府へ送る。然る処、かの鯛腹中悉く小判なりければ、厳重の沙汰に及びけれど、その前山中某は世を去り、伊藤渥美とかいふ士を始め、おほく追放、大坂市中の騒ぎ、江府迄もまちまち[なりきやぶちゃん注:異なった内容で流言飛語されたことを言う。]。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから正規表現で視認出来る。条の頭に「一」がある。]

2023/09/09

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火事と天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 火事と天狗【かじとてんぐ】 〔甲子夜話続篇巻十二〕 [やぶちゃん注:一字上げは底本のママ。]或人の語りけるは、世に火災あるは天狗火焰の中を走り廻り、火勢を助くと。また近頃某《なにがし》の話せしは、去冬小石川<東京都文京区内>に火事ありしとき、人の鼻をつまむ者ありて、目には見えず。歩行の者は若しや傍人の為しも知らざれど、馬上の者も斯の如く、或ひは耳をひくことも有りしとぞ。これも天狗の所為ならんと言ヘり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話続篇卷之十二 7 天狗災火を走る」で正字で電子化しておいた。]

フライング単発 甲子夜話続篇卷之十二 7 天狗災火を走る

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

12-7

 或人の語りけるは、

「世に火災あるは、天狗、火焰の中を、走り𢌞(まは)りて、火勢を助(たす)く。」

と。

 また、近頃、某(なにがし)の話せしは、

「去(いんぬる)冬、小石川に火事ありしとき、人の鼻をつまむ者、ありて、目には見えず。步行(ありき)の者は、若(も)しや、傍人(かたはらのひと)の爲(なせ)しも知らざれど、馬上の者も、斯(かく)の如く、或ひは、耳をひくことも、有りし。」

とぞ。

「これも、天狗の所爲(しよゐ)ならん。」

と言ヘり。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「風穴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 風穴【かざあな】 〔譚海巻二〕飛驒と越中の界(さかひ)の山に風穴といふあり。広さ七間ほどの穴なり。石を穴中に投ぐれば風吹く。石の大小によりて風の吹く事も然り。風吹出れば日々やまず、国中にみちてあるゝゆゑ、姦奸の徒米価の利を競ひ、秋禾の最中、ひそかに彼山へ行き、石をなげ風吹かせ、収穫の妨げをなせし故、領主より秋禾の時に及べば吏卒を発し、おびたゞしく山下をかため守る事になりたり。それゆゑ、米価の低昇をなす姦事止みたりとぞ。

[やぶちゃん注:読みや注は私の電子化注「譚海 卷之二 越中風俗の事」を見られたい。]

〔寓意草〕美作の国津山<岡山県津山市>のかたら[やぶちゃん注:ママ。]に石山あり。山に風穴とてひとつの穴あり。石もて口ふたぎぬ。穴のあたりは常に風吹きぬ。ふたのひまより小さき石を投げ入れぬれば、激しく吹きいづ。ふたあけぬれば、くぬち[やぶちゃん注:「九日」であろう。]大いに風吹きて、木を折り屋をたふすといふ。みちのおくしのぶの山のうへに、はぐろ権現の堂あり。ゆかの下に小さき穴あり。この穴よりもつねに風吹きいづ。

[やぶちゃん注:「寓意草」「鼬の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのそちらで示したのと同じ活字本で、当該部(左下段四行目から)を視認出来る。

「はぐろ権現の堂」現在の福島県郡山市中田町高倉羽黒堂にある羽黒権現神社(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「影の病」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 影の病【かげのやまい】 〔奥州波奈志〕北勇治と云ひし人、外よりかへりて我居間の戸を開きてみれば、机におしかゝりて人有り。誰ならん、わが留守にしもかくたてこめて、なれがほに振舞ふはあやしきこととしばし見ゐたるに、髪の結ひやう、衣類帯にいたるまで、我常に著し物にて、わがうしろかげを見しことはなけれど、寸分たがはじと思はれたり。余り不思議に思はるゝ故、おもてをみばやとつかつかと歩みよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明きたる所より縁先にはしり出しが、追ひかけて障子を開きみしに、いづちか行きけん、形みえずなりたり。家内にそのよしを語りしかば、母は物をもいはずひそめるていなりしが、それより勇治病気つきて、その年の内に死たり。これ迄三代、その身の姿をみてより病《やみ》つきて死たり。これやいはゆる影の病なるべし。祖父、父のこの病にて死せしこと、母や家来はしるといへども、余り忌みしきこと故、主にはかたらで有りし故しらざりしなり。勇治妻もまた二歳の男子をいだきて後家となりたり。只野家遠き親類の娘なりし。

[やぶちゃん注:「奥州波奈志」優れた江戸時代の女流作家只野真葛のオリジナルな説話集。「奥州ばなし」とも表記する。ブログ版では「奥州ばなし 影の病」を見られたいが、別にサイト一括版『只野真葛「奥州ばなし」(附・曲亭馬琴註 附・藪野直史注)縦書(ルビ附)一括PDF版(3.24MB・118頁)』も用意してある。なお、このドッペルゲンガー譚は芥川龍之介も興味を持ち、彼の蒐集した怪奇談集「椒圖志異」(しょうずしい)の「呪詛及奇病」の「3 影の病」に引用している。因みに、芥川龍之介自身も自分のドッペルゲンガーを述べたことを対談で語っている。私のブログ版『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を読まれたい。世に出典も示さないで、「芥川龍之介はドッペルゲンガーを見たから自殺した」という、面白くも糞〱もない妄説を記して悦に入っている連中が多いので、特に附した。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「隠れ里」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 隠れ里【かくれざと】 〔黒甜瑣語二編ノ一〕五丹沢の農民が物語りに、中むかしの頃、田代山に爪木《つまぎ》こりし者、一老翁に誘引《いさなは》れ、嶺を伝ひて一里ほど行きしと思ひしが、木立幽蒼たる一村へ入りけり。雞犬桑麻《けいけんさうま》、民の竃《かまど》烟《けふり》立《たち》つゞき、栄え賑《にぎは》ふ事云ふも更なり。翁と共に或家へ招かれしが、一家老幼数多《あまた》に家醸《てづくり》心よく熟し、前渓簗《やな》に落ちし魚の鮮かなるを羹《あつもの》し、何ゆゑとはなくかはるがはる立ちつどひ饗され、昏黄《たそがれ》[やぶちゃん注:後注の原本では『黃昏』。]の頃いとま乞《ごひ》して立出でしが、遙か過ぎ来りしまで、この家の臼挽《うすひき》歌やこきすり[やぶちゃん注:擂り粉木。]の声など聞きながして、初め入りし嶺の口へ出《いで》て、翁に別るゝ時、かの至りし村はいづくなりや、己れも久しく爰に住めども、かゝる村ありし事を見ずと云へば、翁の云ひし。あれこそ世の人の知らざる隠れ里なれ、またもや逢見んとて別れけり。翌の日かの村と覚しき所へ立入りしが、山の住居《すみゐ》も別にして、いづくと問ふべき便(よすが)もなし。その後十余年を経て、またかの翁に遇ひけり。はじめ見し齢《よはひ》にかはらず。往年の物語りして又々かの村へ伴はる。むかしの家を訪ふに、一家みな見知りし人にて、童部《わらんべ》の類《たぐゐ》まで幼貌(おさながほ[やぶちゃん注:ママ。「をさながほ」が正しい。原本も「を」になっている。])覚えあり。これはこれはと手を打つ。挙家(そうち)[やぶちゃん注:文字通り、家を挙げてのそれ。]の款待《くわんたい》むかしにかはらず、この日も終日《ひねもす》興に入りて帰れり。翁の名所《などころ》を聞けども告げずして去れり。なほも訝《いぶか》しかりしは、この樵夫《きこり》身まかりし頃、南部鹿角《かつの》[やぶちゃん注:原本に従って清音で添えた。]の三本木とやらん、云ふ所の農民某《なにがし》より弔《とむら》ひの書状をおこせり[やぶちゃん注:原本『送越(おこ)せり』。]。日頃《かねて》識れる人にもなかりしゆゑ、いかなる事にやとその後聞きしに、その死せし事も老翁の物語りにて知れり。中頃此家の主《あるじ》奇病に染《そ》みしが、この翁来りて一種の異草《いさう》を服せしめければ、たちどころに平癒せり。さればこそ、いたれるごとにかく款待せしとなん。誘引《いさなは》れ行きしはかの郷《さと》なり。昔は奥羽の間にも仙翁ありと聞きしが、武陵桃源の物語りもかゝるものにや、いぶかし。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで正規表現で視認出来る。「目次」の標題は「田代山の樵夫(きこり)」。それにしても、かなり漢字の読みが難しい。一部はそちらの読みに従った。

「五丹沢」不詳。後で「鹿角」が出るが、これは、まず、現在の秋田県鹿角市(かづのし:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)と考えてよい。しかし、この「五丹沢」は見つからない。次の「田代森」「田代山」という候補地周辺を「ひなたGPS」の戦前の地図で調べたが、見当たらなかった。まあ、そこが特定されては、既にして、隠れ里ではなくなるから、いいっか……

「田代山」鹿角市の周縁では、「田代山」が二箇所、「田代岳」が一つ、鹿角市街に最も近い位置で「田代森」(東北では「~山」の代わりに、しばしば「~森」と名指す)があった。個人的には、秋田県鹿角市十和田大湯大湯の「田代森」か、旧南部藩領の岩手県二戸市浄法寺町にピークがある「田代山」を推したい気はする。

「爪木」「爪先で折りとった木」の意で、「薪にするための小枝・薪(たきぎ)」のこと。

「雞犬桑麻」鷄や飼い犬が賑やかに、鳴いたり、吠えたりする、桑と麻が豊かに植えられた長閑な農村風景を形容する成句であるが、これは直ちに、後に出る「武陵桃源」、陶淵明の「桃花源記」を想起させ、既にして、桃源郷=隠れ里へ立ち入っていることを暗示させる表現である。

「家醸《てづくり》心よく熟し」「招き入れられた家では、家人総てが心を込めて、饗応を成して、満足し」の意。

「前渓」家の前の溪谷。

「簗」そこに仕掛けられた、川魚をとるための簗(やな)。

「羹《あつもの》」あたたかなスープ。

「山の住居《すみゐ》も別にして」「山家の家はあるにはあったが、まるで昨日とは違った別なもので」、或いは、「その山には凡そ人の住むような家は全く無かった」の意。隠れ里としては、後者を採りたい。

「童部《わらんべ》の類《たぐゐ》まで幼貌(おさながほ)覚えあり」子どもたちは、嘗つて逢った際と同じ顔であったのである。則ち、殆んど歳をとっていないのである。

「三本木」不詳。]

〔譚海巻二〕元文年中、田中久五郎殿秩父領御代官の時、大雨の後、山中より古き碗《わん》の類《たぐゐ》多く流れ出しまゝこの奥に人家有りやと尋ねられしに、未だ存ぜす候由申せども、不審に思はれ、手代両人に申付け、猟師五人鉄炮を持たせ、鍋釜飯料等迄用意し出し候処、その夜は山中に寄宿し、明朝又々山ふかく分け入りたるに、豁然《かつぜん》たる[やぶちゃん注:ぱっと視界が開けて。]一大村に至り、所のものにこの村の主はいづくぞと尋ねければ、向ひの門有る家、当所の殿さまに御座候と申候まゝ即刻帰り右の次第申候まゝ、久五郎殿江戸へ御伺ひ申上られ候処、なほ又とくと穿鑿致候様に仰せ付けられ、久五郎人数《にんず》千人計《ばか》り召つれ罷り越し、例の如く山中に一宿し、翌朝右の村に至り、直《ただち》にさきの殿さまといへる家へ案内をこひ、主人に対面し、これまでいづかたへみつぎ物差上候や、この度《たび》上意にて御尋ねなされ候由申候時、只今迄一向何《いづ》かたへも貢物《みつぎもの》差出候事無ㇾ之候が、かねがね貢物差上度《たき》心願《しんぐはん》有之《これあり》候へども、今まで幸便《こうびん》なくもだし罷り在り候、有難き事なりとて御請け申しければ、則ち上より竿《さを》を御入れなされ、地面御吟味の所、大がい五千石程の地なり。書上《かきあげ》には千石と申上候事なり。武州といへども山中なれば、このころまではかくしれざる隠里もありけり。珍しき事なりとぞ。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之二 元文年中武州秩父領山中隱里發見の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「杜若長屋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 杜若長屋【かきつばたながや】 〔譚海巻十二〕駿河御城内に、杜若といふ御長屋あり。爰にて杜若の謡をうたへば、かならずあやしき事あり。よつて駿河従番の衆には、杜若の謡は御法度のよし、御条目の一つに仰せ渡さるゝことなり。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷之十二 駿河御城杜若長屋の事 (フライング公開)」を電子化注しておいた。]

譚海 卷之十二 駿河御城杜若長屋の事 (フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 駿河御城内に、「杜若(かきつばた)」といふ御長屋あり。

 爰(ここ)にて「杜若」の謠(うたひ)をうたへば、かならず、あやしき事あり。

 よつて、駿河御番の衆(しゆ)には、「杜若」の謠は御法度のよし、御條目の一つに仰渡(おほせわた)さるゝ事也。

[やぶちゃん注:「杜若長屋」現存しない。

『「杜若」の謠』能の曲目。三番目物。五流で現行曲。世阿弥作かとされる。出典は「伊勢物語」の在原業平の東下りの際、三河国八橋で詠んだ「からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ」を原拠とする。その「杜若の精」を美しい女人の姿で登場させ、業平を巡る女性像と重ね合わせた能。「伊勢物語」の情緒の濃さと、初夏の季節感の鮮やかさが、映り合って成功した作品。八橋の杜若に見入る旅僧(ワキ)に呼びかけた女(シテ)は、僧を、おのが庵(いおり)へと導く。高子(たかいこ)の后(きさき)の衣装をつけ、彼女の恋人である業平の形見の冠(かむり)を戴いた女は、「伊勢物語」の恋愛絵巻を舞い、歌に秀でた業平を、極楽の歌舞の菩薩と賛嘆し、「草木国土悉皆(しっかい)成仏」の仏力を得て、清澄な世界へと消えていく。草木の精をシテとする謡曲である「梅」・「藤」・「芭蕉」・「六浦」(むつら:紅葉の精)・「墨染桜」・「西行桜」・「遊行柳」(ゆぎょうやなぎ)のなかでも、とりわけ、華麗な幽玄味を持った作品として知られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。しかしこれが、この長屋でタブーであり、謠えば、怪異出来(しゅったい)する理由が全くのブラック・ボックスで、今一、食い足りない。

「駿河御番」主に駿府在番、及び、初期の大番役による駿府定番を指すと考えてよい。ウィキの「駿府城」によれば、『駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番が駿府城に派遣されていたが』、寛永一六(一六三九)年には『大番に代わって』、『将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後約』百五十『年間、駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて』、『駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる』。『しかし』、寛政二(一七九〇)年に、『書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた。この駿府勤番組頭・駿府勤番は駿府城代支配の役で、それぞれ御役高』五百』石・御役料』三百『俵と御役高』三百『俵であった』とある。本「譚海」の寛政七(一九七五)年に纏められている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「餓鬼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 餓鬼【がき】 〔雲萍雑志巻三〕伊勢より伊賀へ越ゆる道にて、予<伝柳里恭>がゆくあとより一人《いちにん》の男、いそぎ来りていふやう、われら大坂の者なり、過ぎこし道にて、餓鬼に附かれしにや、飢ゑて一足《ひとあし》も進み申さず、大いに難渋におよべり、何《なに》なりとも、食類《しよくるゐ》の御持合《おもちあは》せあらば、少しにても給はり候へかしといへり。予心得ぬ事を申《まを》すもの哉《かな》とはおもへど、旅中《りよちゆう》別に食類のたくはへもなければ、刻《きざみ》み昆布《こぶ》のありしを、これにてもよろしきにやととらせけるに、大いによろこびて、直《すぐ》に食したりき。予問ふ、餓鬼のつくとは、いかなるものにてあるぞといへば、こたへて云ふ、目には見えねど、このあたりに限らず、ところどころにて、乞食《こつじき》などの餓死したる怨念、そのところに残り侍るにや、その念、餓鬼となりて、通行《つうかう》の者にとり附き侍るなり、これにつかるゝ時は、腹中《ふくちゆう》しきりに飢ゑて、身に気力なく、歩行《ほかう》も出来がたき事、われら度々なりといへり。このもの薬種を商ひ、諸国に注文を取りに、つねづね旅行のみせしとぞ。世にはさやうの事あるものにや。他日《たじつ》、播州国分寺<兵庫県内>の僧に尋ねけるに、この僧申しけるは、われ若輩のころ、伊予にて餓鬼につかれたる事あり、よりて諸国行脚せしをりは、食事の時に、飯《めし》を少しづつ取りおき、それを紙などへつゝみて、袂に入れ置く、餓鬼につかれたる時、遣《つかは》すためなりといへり。心得がたき事にぞありける。

[やぶちゃん注:「雲萍雑志」「鬼の面」で既出既注。文雅人柳沢淇園(きえん:好んだ唐風名は柳里恭(りゅうりきょう))の随筆とされるも、作者に疑問があり、偽作の可能性が強い。そのために宵曲の割注の頭に「伝」と附されてあるのである。国立国会図書館デジタルコレクションの「名家漫筆集」 『帝國文庫』第二十三篇(長谷川天渓校訂・昭和四(一九二九)年博文館刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る(左ページ後ろから四行目)。読みは、主にそれに拠った。実は、この話、既に『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ひだる神のこと』の私の注で電子化しており、この擬似的怪奇現象に就いての私の考証も示してあるので、是非、読まれたい。但し、それは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の天保一四(一八四三)年版のこちらを元にしたものであったので、今回は別ソースの上記活字本を示して差別化しておいた。微妙に読み等に異同がある。但し、読み表記は私が正しい歴史的仮名遣に直した箇所がある。]

2023/09/08

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鏡の顔」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鏡の顔【かがみのかお】 〔譚海巻二〕八月十五夜明月に向ひて、水晶にて取りたる水を持て、鏡のおもてに怪物の顔を書き、鏡をとぎあげてをさめおく。うちみる時は常の鏡の如くなれども、向ふ時は人の顔、そのかける径物のかほになり、うつりてみゆると云ふ。<『同巻五』にも同様の文章がある>

[やぶちゃん注:本文は「譚海 卷之二 弓つるの音幷二またのおほばこ鏡面怪物の事」の後半部のこと。宵曲の最後の附記は「譚海 卷之五 八月十五夜月中の水を取て鏡面に鬼形の顏を書し二股の車前子を燈ずる事」の前半部のこと。孰れも、縦列公開で電子化注済みである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「案山子の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 案山子の怪【かかしのかい】 〔寓意草〕世の中に化物といふは、多くは狐・狸・貉(むじな)・猫などの、人を誑(たぶ)らかすなりけり。石仏(いしぼとけ)・朽木《くちぎ》<腐った木>などの化けていでたるを、切り倒《たふし》たるもかたり伝ふるなり。それらはものの化けたるにあらず、我心の化けたるなめり。昼はなきことなり。昼にさすらひては、いづちいぬるにも、大かたはたそがれ時にいでて、あけぼのまでありきぬ。丑<午前二時><午前四時>のころにもなりて、歩行《あり》きながらねぶたくなりぬるに、つちくれいしなども、昼間より大きくみえて、動くやうにみゆるは常のことなり。海べた山なかのはらも、たびたびいきかひけれども、つひに怪しきもの見たることもなし。春の頃、せりざはといふ所を通りけり。松のいみじく生ひ繁りて、たけばかりなる柴の、いと深かりける中をわけていきけり。丑三(うしみ)つ<午前三時~三時半>ばかり、すこしくぼらなる谷のやうなる所あり。月も西にかたぶきたれば、木だちにさへられて光りもなし。いと暗きに、左の山あひ三十間[やぶちゃん注:約五百四十五メートル半。]ばかりさりて、白きつらのいとながきが、まなこ大にしてえもいはぬなりして、柴の中にたちてまねきぬ。近づきぬるまゝに見れば、馬のどくろのかれたるを竹にさして、菰(こも)のくちたるをまとひて、丈高《たけたか》き人のなり作りてありけり。その下にせばき山田の有りければ、去年《こぞ》の秋しかおどしけんそうづ[やぶちゃん注:「僧都」であろう。]のくちたるにこそありける。化物は大かたかうやうのものなるべしとかたはらいたし。

[やぶちゃん注:「寓意草」「鼬の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「三十輻」の「第三」(大田覃編・大正六(一九一七)年国書刊行会刊)で活字に起こしたものがここで(右ページ下段後ろから六行目)視認出来る。但し、漢字は使用頻度が低く、ひらがな書きである。強力なプラグマティストであるが、一般的に、誰でもだが、こうはっきりと表明してしまうと、これ以降、怪奇談を記すことは、本来ならば無効化されるので、筆者自身に拘束を与える難がある。今まで、数えきれないほど、怪奇談を読んできたが、だいたいこういうことを言いながら、後出しで怪奇談を書く輩が、殆んどで、そのリアリズムは極端に減衰し、面白く感じなくなるのである。私は基本、如何なる怪奇談も、ほぼ九割以上、疑って読む。しかし、全否定はしない。怪異は幻想の誘いであり、それを無化すれば、人生は恐らく、途轍もなくつまらないに堕することがよく判っているからである。

「貉」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」の私の注で詳しく考証しているので、読まれたい。

「せりざは」不詳。一説に作者を大田南畝の比定した説があったようだが(信用し難い)、とすれば、江戸であるが、「芹澤」の地名は調べ得ない。深夜丑三つ時のおとろしけない彷徨と、その場所は、到底、江戸市中ではない。ますます、判らない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪力の武士」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 怪力の武士【かいりきのぶし】 〔真佐喜のかつら〕永代寺八幡宮社地に為朝明神の開帳ありし時、くさぐさの見世物あるが中に、力ある男等打寄りて、五十貫目[やぶちゃん注:百八十七・五キログラム。]、七十貫目[やぶちゃん注:二百六十二・五キログラム]、あるは百貫目[やぶちゃん注:三百七十五キログラム。]などの大石を手軽に持ち、牛を船に乗せ、あしにてさす[やぶちゃん注:牛を手で抱え上げておいて、櫓を足で棹さしたという意味であろう。]など、皆人《みなひと》目をおどろかしぬ。我いまだ若年の頃にて見物に行きしが、最早夕暮ちかくなり、みる者も散々《ちりぢり》なる頃、見物の中より廿四五歳ともみえ、色白く瘦《やせ》がたちの武士たち出で、さてさていづれも珍らしき大力哉、我も聊か力ありて、常にかゝる業《わざ》を好む、されど斯《かく》の如き大石をためしたる事なし、力様(《ちから》ため)しに持て見たく候なり、ゆるし給ふにやと言ふ。皆その人の弱々しきを見、一笑なして、こゝろに任せ給ヘと言ふ。武士悦び、両刀もとらず、羽織袴のまゝ八拾貫目[やぶちゃん注:三百キログラム。]といふ大石を、何の苦もなく三度までさし上げ、音もさせずに下へおろし、一礼述べて出で行きければ、うち寄居たる大力ども、一言発する者なく、見物はさだめて天狗にてもあるべしなど惘(あき)れ居たり。珍しき力もある物なり。後に聞けば四谷左門町<東京都新宿区内>組屋鋪の人のよし評しぬ。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから正規表現で視認出来る。

「永代寺八幡宮」「永代寺」は現在の東京都江東区富岡にある富岡八幡宮の旧別当寺で、高野山真言宗。跡が同八幡宮の西直近にある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。廃仏毀釈で廃寺となったが、明治二九(一八九六)年に旧永代寺の塔頭であった同じ地区(寺跡と八幡宮の間)にある吉祥院が、名称を引き継いで再興され、現在の永代寺として残る。

「為朝明神の開帳」魁偉にして強弓の名手源為朝明神の開帳となれば、怪力自慢が集まるのも、まさに相応しい。どこの「為朝明神」か。一番知られた古いものでは、武田信義が元暦元(一一八五)年に社殿を建立した源為朝を祀った為朝神社だが、この記載当時は衰退していた。逆に新しいが、神奈川県横須賀市西浦賀にある鎮西八郎為朝神社は、サイト「Enjoy三浦半島」のこちらの同神社の記載によれば、寛政一二(一八〇〇)『頃、浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置したのがはじまりだといわれます。そして功が多く、鎮西八郎為朝の像であったといいます』。『創建は文政期』(一八二〇年代)『であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていました』とある。引用元の「真佐喜のかつら」成立は、天保から嘉永(一八三〇年~一八五四年)頃の間で、時制的には齟齬はない。特に疱瘡除けは当時の庶民には欠かせないものであり、しかも剛力無双の為朝の像となれば、出開帳の儲けは、これ、間違いない。私はこの神社のそれに比定しておきたい。実は私は為朝ファンなのである。

「四谷左門町」現在も東京都新宿区四谷左門町として残る。]

「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」再改訂始動

次いで、二〇〇七~二〇〇八年の古いサイト版の、

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」

の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂に、昨日から、入った。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪刀」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 怪刀【かいとう】 〔耳嚢巻四〕松平右京亮、寺社奉行にて咄されけるは、同人家に二三代も箱に入れて、土蔵の棟木に上げ置く刀あり。右は右京亮先代の足軽、毎夜うなされ、甚だ苦しみけるゆゑ、仔細もありやと、色々療治などせしが、不断はさしたる事なし。不思議なる事とて、枕元の刀を外へ遣りて臥せしかば、いさヽかその愁ひなかりし故、全く刀の所為なるべしと、右刀を枕元に置て臥せば、また前の如くうなさるる故、その訳を申立て、主人へ差出しけるを、右の通り蔵の棟木へ上げ置く由申し伝へ、いかなる者にや改め見んと思へども、事を好むに似たりとて、家来も押へ止むる故、その通り打過ぎぬと、語りけるとなり。小田切土佐守は、その先甲州出の事なれば、武田晴信より先祖へ与ヘし長刀、今に所持して玄関の鑓懸に飾り置きし由。折節玄関に詰る侍、跡などにし臥せば、必ず枕返しする事度々の由、営中にてもの語りしを記し置きぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之四 怪刀の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海中の火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 海中の火【かいちゅうのひ】 〔一宵話巻二〕或年の六月廿九日、知多<愛知県知多郡>の浦より帰る船、海中にて火の玉のむらがるに行逢《ゆきあ》ひたり。その火の中に、鬼か人か、夥しう見えたりといふ。この火の中にあらはれし物を、平家の亡魂ならんと評すれども、何のゆかりもなきに、かゝる所へくべき由なし。おもふに肥後の不知火は、この火なるものならん。この不知火を『景行紀』に五月の下《した》にしるされたれど、月の誤りとおもはる。今は年々六月の末より、八月迄に出るなり。その中、七月廿九日八月朔日、この両日を極最中とす。これ海中の塩気、夏中の炎天にこがれ暗夜《あんや》にあらはるゝ事、こゝもかしこも同じ事なり。海水も本は淡水(さみづ)なるが、天日の陽気に焦げて、鹹水《かんすい》とはなれるなり。

[やぶちゃん注:「一宵話」秦鼎(はたかなえ 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年:江戸後期の漢学者。美濃出身で尾張藩藩校明倫堂の教授として活躍したが、驕慢で失脚したという)の三巻三冊から成る随筆。以上は同書の「卷之二」の「海中の火」の中の一節で、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十七巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)のこちらで視認出来る。実は、以上の後に、かなり長い「怪火」に就いての考証(海に限っていないので、宵曲はカットしたのであろう)が続くので、見られたい。

「知多」「愛知県知多郡」「の浦」現在は知多市。「知多の浦」と言った場合、恐らくは、現在の東海市及び知多市の伊勢湾沿岸(干拓が進んでいるため、「ひなたGPS」の戦前の地図との対照地図をリンクさせた)を指しているものと思われる。伊勢湾東北の湾奥に近く、海水が停滞し易い位置にある。

「海中にて火の玉のむらがるに行逢ひたり」渦鞭毛植物門ヤコウチュウ(夜光虫)綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans による夜間の発光現象であろう。前の項の「赤潮」の原因にもなるので、偶然だろうが、親和性があると言える。

「不知火を『景行紀』に五月の下にしるされたれ」「日本書紀」の景行天皇十八年の条。

   *

 五月壬辰(むづのえたつ)朔(ついたち)、葦北より發船(ふなだち)して火國(ひのくに)到る。是に於いて、日、沒(く)れぬ。夜、冥(くら)くして、著(つか)む岸(ところ)を知らず。遙かに、火の光り視ゆ。天皇(すめらみこと)、挾杪者(かぢとり)に詔して曰(のたま)はく、

「直(ぢき)に火の處(もと)を指せ。」

と。

 因りて、火を指して之れに往(ゆ)く。卽ち、岸に著くことを得たり。

 天皇、其の火の光りし處(ところ)を問ひて曰はく、

「何と謂ふ邑(むら)ぞ。」

と。

 國人、對(こた)へ曰はく、

「是れ、八代縣(やつしろのあがた)の豐村。」

と。

 亦、其の火を尋(と)ひたまはく、

「是れ誰人(たれびと)の火ぞ。」

 然(しか)るに、主(ぬし)を得ず。

 茲(ここ)に人の火に非ずといふことを知りぬ。

 故(かれ)、其の國を名づけて「火の國」と曰ふなり。

   *

訓読は、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫『「日本書紀 」訓讀』中巻(昭和六(一九三一)年黒板勝美編)のここを参考にした。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海水赤変」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 海水赤変【かいすいせきへん】 〔南畝莠言巻二〕正和壬子《みずのえね》の年四月十二日、相州の海水の色赤に変じ、西は豆州・駿州より、東は武州・総州にいたるまで、海浜三百余里の間、朱瀾丹濤、汪洋《わうやう》[やぶちゃん注:海水面いっぱいに広がること。]として漂へり。人民驚き径しみ嘆きあへりし時、虎関禅師、福山《ふくざん》に住せしが、海浜にゆきてみしに、紅《くれなゐ》の浪《なみ》浩渺(こうべう[やぶちゃん注:ママ。「かうべう」が正しい。遙か遠くまで遮る物もなく広々としているさま。])としてかぎりなく、平日みる所一滴の碧《みどり》なし。禅師もこれを怪しみ、手を以て波を掬《きく》し、熟(つらつ)らこれをみるに、なほ紅の粟《ぞく》[やぶちゃん注:粟(あわ)。]を漿水《しやうすい》[やぶちゃん注:どろりとした飲み物・重湯(おもゆ)などを指すが、ここは、まず、「米のとぎ汁」=「濃漿(こんず)」の意であろう。]にひたすがごとく、黏(ねば)り滑かに粒だちて、魚の子を羹《あつもの》にしたるが鼎底《なべのそこ》に残れるに似たり。禅師紙を割(さい)[やぶちゃん注:原本『サキ』。]て水をつつみしに、その紙湿《うるほ》ふといへども破れず。携へ帰りて諸友にしめす。或ひは曰く、滄溟(そうめい[やぶちゃん注:ママ。「さうめい」が正しい。但し、原本に従ったものであろう。後注で示した原本で『ソウメイ』とルビする。])<あおあおとした海>の大変、恐らくは国家の災《わざはひ》ならん歟。禅師云ふ『玄中記』に日く、東方《とうばう》に大魚《たいぎよ》あり。海をゆくもの一日《ひとひ》魚の頭《かしら》にあひ、七日《なぬか》めにその魚の尾をみる。その魚《うを》産するときは百里の水《みづ》血となると、恐らくはこれならん。何の災《わざはひ》かあらんとありしが、三日の後《のち》、もとの碧《みどり》にかへりて四海無事なりきと、僧虎関の『済北集《せいほくしふ》』にみえたり。そののちいく程なくて、元弘・建武の乱おこれり。四海事《こと》なしともいふべからず。 〔一話一言巻四十八〕同年<延宝七年>三月五日の朝、奥州宇多《うだ》郡のうち加佐古といふ浦、これ相馬ざかひなり。その浦の海《うみ》幅はやうやう一町[やぶちゃん注:百九メートル。]余、ながさ南へかぎりしらず。北へは津々志浜といふ、五郡をさかひてことごとぐ海水紅《くれなゐ》になり、その匂ひあしかりしとかや。その紅になり候所は、波もうたず平浪《ひらなみ》なり。これ常々はあら海なり。

[やぶちゃん注:孰れも典型的な大規模な赤潮現象である。前者・後者ともに、季節的に夏に相当し、発生し易い時期であるが、前者は稀な広域発生である。

「南畝莠言」は、大田南畝が「杏花園主人」名義で、弟子の文宝亭が筆録として刊行した随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で後刷(文化一四(一八一七)年序)で原本の当該部(単体画像で、ここと、ここ)が視認出来る。同書巻頭の「目錄」では、下巻の「㊄海水赤色(せきしよく)に變ず」である。

「正和壬子の年四月十二日」正和元年。この直前の一月余り前の応長二年三月二十日に改元している。ユリウス暦一三一二年五月十八日。グレゴリオ暦換算五月二十六日。

「虎関禅師」虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~正平元/貞和二(一三四六)は鎌倉から南北朝時代の臨済宗の僧で漢詩人。京都生まれ。十歳で比叡山で受戒し、南禅寺の規庵祖円、建仁寺の無隠法爾らに帰依するとともに、当時の名僧・碩学に内外の典籍を学び、その博学は天下に鳴り響いた。 二十二歳の徳治三(一三〇七)年、鎌倉に下向して、建長寺を再興した一山一寧(いっさんいちねい)に深く傾倒して侍者となり(本篇はその時の体験と考えてよい)、後、三聖寺・東福寺・南禅寺などの住持を務め、興国三/康永元 (一三四二) 年、後村上天皇より、国師号を賜わった。五山禅僧の内、最も博学な学者として知られ、本邦初の仏教史書「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ:元亨二(一三二二)年)や、分類韻書の模範ともいうべき「聚分韻略」、四六文の作法書「禅儀外文」などの著述がある名学僧である。

「福山」地名ではない。鎌倉の巨福山(こふくさん)建長寺のこと。

「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「○奥州の海紅になる事」である。南畝先生、赤潮がお好き!

「奥州宇多郡のうち加佐古といふ浦、これ相馬ざかひなり」「津々志浜」この浦名や浜名は確認出来なかったが、旧郡名からグーグル・マップ・データの、この相馬市及びその北の相馬郡新地町の海浜である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪人」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 怪人【かいじん】 〔甲子夜話巻二十一〕『市井雑談集』云ふ(三州吉田人、林自見著[やぶちゃん注:これは静山の二行割注。])[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]去る元文二巳年正月廿三日の夜七つ八九分の頃、予<松浦静山>[やぶちゃん注:この宵曲の附記注は誤り。当該書からの引用であるから、「林自見」としなくてはいけない。]が町内に乱髪裸形の者彷徨(さまよ)へり。番の者行き向ひて、何者なりやと問へど答へず。時に番人おもへらく、定めて入牢の者脱け出《いで》たるならんと、廼(すなは)ち近所の者を起す。その時予も立出でたるに、竜招寺門前へ適(ゆ)きたりと云ふ。因て五六人追掛けし後に、姿はちらと見えしが、その犇(はし)る事走狗《さうく》のごとくして、遂に逝方(ゆくゑ)を見うしなひ、それよりして町内へ還(かへ)れば、東方既に白みたり。その日新居より予が従弟来《きたり》て曰く、今朝橋本の西大倉戸にて、乱髪裸形のあやしき者を見たり、村人集りてその来る処を問ふに、一向言語通ぜず、また食を与ふるに何にても喰はず、其所の沼に薄の枯穂ありしを取て少し喰ひ、それより山の方へ逃る故、里人等追懸けしに、迅足《はやあし》恰《あたか》も飛鳥のごとくして追著き得ず、かくて跡をしたひ鷲津村<現在の静岡県浜名郡湖西町>に至れば、村中の者大勢海端《うみばた》にあり、その者どもに問へば語りて曰く、先刻あやしき者来り、村中大いに驚騒し捕へんとせしに、海に入《いり》て見えず、暫く過ぎまた海上に浮むを見れば、魚をとらへその儘喰ふ、村中の者船を出《いだ》し、其所へ乗り到れば、また海に入てそれより今に見えずと語れりとなり。但し吉田より大倉戸まで道法(みちのり)四里半あり。大倉戸に到りし刻限を聞くに、明け六つ<午前六時>少し過ぎなりと云ふ。また鷲津村に到りしは六つ半<午前七時>前たるべしと云ふ。鷲津まで吉田より五里半余の道なり。それをわづか半時ばかりに行きしと見えたり。実に無双の捷歩《はやみち》たり。その後この者の逝方語る者なし。何国《いづく》いかなる嶋人なりや(校書余録)

[やぶちゃん注:かなり読みが難しい語が見られるが、事前に「フライング単発 甲子夜話卷之二十一 26 三州吉田にて捷步の異人を見る事」で、原本に当たって読みを振っておいたので、見られたい。地名注もそちらをどうぞ。なお、宵曲の時間換算には、ちょっと納得出来ない。私の換算はそちらで、当時民間で最もよく使われた季節によって大きく変わる不定時法で換算した。この「元文二巳年正月廿三日」はグレゴリオ暦一七三七年二月二十七日で春分点の一ヶ月足らず前である。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪人」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 怪人【かいじん】 〔甲子夜話巻二十一〕『市井雑談集』云ふ(三州吉田人、林自見著[やぶちゃん注:これは静山の二行割注。])[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]去る元文二巳年正月廿三日の夜七つ八九分の頃、予<松浦静山>[やぶちゃん注:この宵曲の附記注は誤り。当該書からの引用であるから、「林自見」としなくてはいけない。]が町内に乱髪裸形の者彷徨(さまよ)へり。番の者行き向ひて、何者なりやと問へど答へず。時に番人おもへらく、定めて入牢の者脱け出《いで》たるならんと、廼(すなは)ち近所の者を起す。その時予も立出でたるに、竜招寺門前へ適(ゆ)きたりと云ふ。因て五六人追掛けし後に、姿はちらと見えしが、その犇(はし)る事走狗《さうく》のごとくして、遂に逝方(ゆくゑ)を見うしなひ、それよりして町内へ還(かへ)れば、東方既に白みたり。その日新居より予が従弟来《きたり》て曰く、今朝橋本の西大倉戸にて、乱髪裸形のあやしき者を見たり、村人集りてその来る処を問ふに、一向言語通ぜず、また食を与ふるに何にても喰はず、其所の沼に薄の枯穂ありしを取て少し喰ひ、それより山の方へ逃る故、里人等追懸けしに、迅足《はやあし》恰《あたか》も飛鳥のごとくして追著き得ず、かくて跡をしたひ鷲津村<現在の静岡県浜名郡湖西町>に至れば、村中の者大勢海端《うみばた》にあり、その者どもに問へば語りて曰く、先刻あやしき者来り、村中大いに驚騒し捕へんとせしに、海に入《いり》て見えず、暫く過ぎまた海上に浮むを見れば、魚をとらへその儘喰ふ、村中の者船を出《いだ》し、其所へ乗り到れば、また海に入てそれより今に見えずと語れりとなり。但し吉田より大倉戸まで道法(みちのり)四里半あり。大倉戸に到りし刻限を聞くに、明け六つ<午前六時>少し過ぎなりと云ふ。また鷲津村に到りしは六つ半<午前七時>前たるべしと云ふ。鷲津まで吉田より五里半余の道なり。それをわづか半時ばかりに行きしと見えたり。実に無双の捷歩《はやみち》たり。その後この者の逝方語る者なし。何国《いづく》いかなる嶋人なりや(校書余録)

[やぶちゃん注:かなり読みが難しい語が見られるが、事前に「フライング単発 甲子夜話卷之二十一 26 三州吉田にて捷步の異人を見る事」で、原本に当たって読みを振っておいたので、見られたい。地名注もそちらをどうぞ。なお、宵曲の時間換算には、ちょっと納得出来ない。私の換算はそちらで、当時民間で最もよく使われた季節によって大きく変わる不定時法で換算した。この「元文二巳年正月廿三日」はグレゴリオ暦一七三七年二月二十七日で春分点の一ヶ月足らず前である。

2023/09/07

フライング単発 甲子夜話卷之二十一 26 三州吉田にて捷步の異人を見る事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

21―26

「市井雜談集(しせゐざうたんしふ)」云(いはく)【三州吉田の人、林自見著。】、

『去る元文二巳年、正月廿三日の、夜七つ、八、九分の頃、予が町内に、亂髮裸形の者、彷徨(さまよへ)り。

 番の者、行き向ひて、

「何者なりや。」

と問へど、答(こたへ)ず。

 時に、番人、以爲(おもへらく)、

『定(さだめ)て、入牢の者、脫(ぬ)け出(いで)たるならん。』

と。

 廼(すなはち)、近所の者を起す。

 其時、予も立出(たちいで)たるに、

「龍招寺門前へ適(ゆ)きたり。」

と云ふ。

 因(より)て、五、六人、追掛(おひかけ)しに、後姿はちらと見えしが、その犇(はし)る事、走狗(さうく)のごとくして、遂に逝方(ゆくへ)を見うしなひ、それよりして、町内へ還(かへ)れば、東方、既に白(しらみ)たり。

 其日、新居《あらゐ》より、予が從弟(いとこ)、來(きたり)て曰く、

「今朝、橋本の西大倉戶にて、亂髮裸形のあやしき者を見たり。村人、集りて、その來(きた)る處を問ふに、一向、言語、不ㇾ通(つうぜず)、又、食を與ふるに、何にても、不ㇾ喰(くはず)。其所(そこ)の沼に、薄の枯穗ありしを取(とり)て、少し、喰ひ、それより、山の方へ逃(にぐ)る故、里人等(ら)、追懸(おひかけ)しに、迅足(はやあし)、恰(あたかも)飛鳥(ひてう)のごとくして、追著不ㇾ得(おひつきえず)。斯(かく)て、跡を、したひ、鷲津村に至れば、村中の者、大勢、海端《うみばた》にあり。其者共に問へば語(かたり)て曰く、

『先刻、あやしき者、來り、村中、大(おほい)に驚騷し、「捕(とらへ)ん」とせしに、海に入(いり)て見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。暫(しばらく)過(すぎ)、亦、海上に浮(うか)むを見れば、魚をとらへ、その儘、喰ふ。村中の者、船を出(いだ)し、其所(そこ)へ乘り到れば、亦、海に入て、それより、今に、見えず。』

と語れり。」

となり。

 但し、吉田より大倉戸まで、道法(みちのり)、四里半あり。大倉戸に到りし刻限を聞(きく)に、

「明六(あけむ)つ、少(すこし)過(すぎ)也。」

と云ふ。また、

「鷲津村に到りしは、六つ半前たるべし。」

と云(いふ)。

 

鷲津迄、吉田より、五里半餘の道なり。それを、わづか半時(はんとき)計(ばかり)に行きし、と見えたり。

 實(げ)に無双の捷步(はやみち)たり。その後、此者の逝方、語る者、なし。

 何國《いづく》いかなる嶋人《しまびと》なりや(校書餘錄)。

■やぶちゃんの呟き

「市井雜談集」「三州吉田の人、林自見著」「国文学研究資料館」の「国書データベース」のこちらで宝暦一四(一七六四)刊の原版本の当該部が視認出来る。読みの一部はそれに従った(但し、かなり読み難い)。林自見(元禄九(一六九六)年頃~天明七(一七八七)年)は三河国吉田呉服町(現在の豊橋市)の林弥次右衛門正封の長男に生まれた。名は正森、自見は号。二十五歳の時、吉田町年寄役、並びに、利(とぎ)町・世古町の庄屋を兼ねた。元文二(一七三七)年、吉田宿問屋役となり、宝暦五(一七五五)年まで務めた。この間、杉江常翁に師事し、和漢の学を修めた。著書に「三州吉田記」・「雑説彙話」・「三河刪補松」(みかわさくほまつ)・「世諺弁略」・「戯言胡蘆集」・「技術蠡海録」(ぎじゅつれいかいろく)・「雑戯栄」などがある。

「三州吉田」現在の愛知県豊橋市呉服町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「元文二巳年、正月廿三日」グレゴリオ暦一七三七年二月二十七日。

「夜七つ、八、九分の頃」「夜七つ」はないので、「夕七つ」を言い換えたものであろう。不定時法で、この時期なら、午後六時過ぎ頃か。

「龍招寺」これは恐らくは、字起こしの誤りである。上記原本では確かに「龍□寺(りうてうじ)」で、「□」の字は「招」にも見えるのだが、林の住んでいた呉服町のごく直近に、「龍拈寺」(りゅうねんじ)が現存するから、これは「拈」であろう。

「新居」静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居。浜名湖の海への開いた開口部の「今切口(いまきれぐち)」の西岸。

「鷲津村」現在の静岡県湖西(こさい)市鷲津。浜名湖の南西岸。

「橋本の西大倉戶」「橋本の西」はちょっと判らないが、「大倉戶」は現在の静岡県湖西市新居町浜名の大倉戸(おおくらど)であろう。

「明六つ、過」同前で、午前五時半過ぎ頃。

「六つ半前」同前で御前六時半頃前後。

「五里半餘」約二十一キロ六百メートル。自転車並みの速度相当。

「半時」現在の一時間。

「校書餘錄」静山の自著に「感恩斎校書余録」なるものがあるので、それであろう。則ち、そちらに既にメモしてあったものを、「甲子夜話」で再録したという意味であろう。

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪獣」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 怪獣【かいじゅう】 〔異説まちまち巻二〕延宝の末か、天和のはじめに、越後の国にて、山家《やまが》の老人、山へ薪《たきぎ》こりに行きて久しく帰らず。その妻いぶかりて、人を頼んで山へ遣りぬれば、老人と笠とわらじなど、山の奥へ散り散りに有り。いか様《さま》にもこれは怪しき事なりとて、かの山をひとむらの人集りて、かり立てけるに、その村に十八歳になりける大力《だいりき》の者有り。真先に立ちて山中をかり立てけるに、一物もなかりけり。さらば帰らんとて下山しけるに、彼の大力の若者、殿(しんが)りして下山しけるに、惣人数《そうにんず》は山の半ぷくまでも下りぬ。彼《か》の大力は、山を下らんとする程に成りける時、山中風の藪を吹くごとく鳴りける程に、あやしと振り返りたれば、頭に赤熊《しやぐま》を被りて、その中より眼《まなこ》の星のごとく光るもの出できたれり。彼の殿りしける大力ふりかへりて、とぎ立てたる鎌を以て、眉間《みけん》を切りさきたれば、彼獣《けだもの》、右の大力をとらへて、谷へ投打《なげう》ちける程にみぢんになりぬ。この躰《てい》を見て、残る者共は跡も見ず逃げかへりたり。それより越後公へ御訴へ申上けるに、軍者を江戸より遣はされて、山中をからせらる。一方口を明けて鉄炮をつるべおきて待ちけるに、山中をかられてかの一方口へ出《いで》ける所を、つるべうちにして打留めたり。かの鎌疵《かまきず》も眉間にありしとなり。その名を知りて名付くる人なかりし程に、これなん狒々(ひひ)なりといひしが、羆(ひぐま)なりとの評に定まりしといふ。間もなく越後公、小栗が事によりて滅家し玉ふ前表《ぜんぴやう》ならんとのことなり。母の話なり。母は庄内にて、右の獣の絵図を見たりとの事なり。

[やぶちゃん注:「異説まちまち」「牛鬼」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(「卷之三」の巻頭)で正規表現版が視認出来る。

「延宝の末か、天和のはじめ」延宝九年九月二十九日(グレゴリオ暦一六八一年十一月九日に天和に改元。天和は四年まで。

「つるべ」鉄砲の「連(つる)べ打ち・釣瓶(つるべ)打ち」のこと。鉄砲の撃ち手が背後に複数並んで、間髪入れず、立て続けに撃つことを言う。

「越後公、小栗が事によりて滅家し玉ふ」越後国高田藩で起こった「お家騒動」である「越後騒動」藩政を執っていた小栗正矩の一族と重臣たちが争い、将軍徳川綱吉の親裁によって厳しい処分が下され、高田藩が改易となった事件。詳しくは当該ウィキを読まれたい。同騒動の改易裁定は延宝九(一六八一)年六月二十二日であるから、天和改元まで四箇月ほどしかない。但し、改元の年は一月に遡って言うのが普通だから、延宝九年一月から改易までの閉区間の半年余りが、当該することとなる。]

〔裏見寒話追加〕或猟師、甲西地蔵岳<山梨県西南地蔵峠か>の半腹まで行くに、猪鹿の類を見ず。手を空しく帰らんとするに、一谷《ひとだに》隔《へだ》て向うの山に胡座して居るものあり。坐したる丈七尺ばかり、裸体にして赤き髪を被り、乱髪を握りて東西を見渡す有さま、何に譬《たと》ふべきものなし。猟師ちつとも驚かず。これ異形《いぎやう》打殺《うちころ》して呉れんと、頓(やが)て二ツ玉を籠《こ》め、打発《うちはな》つに、彼《か》の胴腹を貫く。しかれども痛むけしきもなく泰然として坐す。暫くありて側《かたはら》なる草を引抜き、かの血滴る疵口へ押込み、悠々と立て山上へ登る事いと静なり。猟師これを見て悶絶に及ばんとす。これこの獣は狒々(ひひ)の類(たぐゐ)なるか。〔北窻瑣談後編巻一〕安永年間の事なりし。城州八幡(やはた)の<京都府八幡町>辺の野外に、猫の死したるを食ふ獣《けもの》あり。甚だ大ならず。大抵猫程にして猫にあらず。犬にあらず。土人立寄り見るに、人を恐れず。猫を食ひ終りて、淀の方《かた》へ去りしに、道にて犬多く群り来て咬みかかりけるに、この獣の一咬(ひとかみ)にて犬皆立所に死せり。人の沙汰せしは、黒青[やぶちゃん注:ママ。『ちくま学芸文庫』も同じ。後注参照。](こくい)といふ獣にてもや有るべきといひし。余が家の僕貞助、八幡の産《さん》にてこの事を見しといふ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの左ページの後ろから五行目「○西山の怪異」がそれ。「追加」の「怪談」の内。但し、冒頭に『逸見』(へみ:街道名。この現在の山梨県甲斐市竜王新町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)から北西の長坂に至るルート)『筋の獵師を伴ひ、甲西地蔵が岳の半腹まで行しに、猪・鹿・狐・兎の類を見ず。手を空しく歸らんとするに、……』(以下でも有意な異同(カット)がある。或いは、写本の異なる版本を元にしたものかも知れぬ)とあって、筆者自身の体験のような形(或いは、筆者のごく親しい知人の体験談か)となってので、見られたい。

「甲西地蔵岳」「山梨県西南地蔵峠か」宵曲の推定が正しいとすれば、ここ

「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。当該部は八巻本の刊本のここ。「国文学研究資料館」の「国書データベース」版のそれをリンクさせた。

「安永年間」一七七二年から一七八一年まで・徳川家治の治世。

「城州八幡(やはた)」「京都府八幡町」「辺」現在の京都府八幡市

「黒青(こくい)といふ」これは宵曲の誤記で、「黒眚」が正しく、読みも、これで「しい」と読む。「国書データベース」版でもちゃんとそう書かれてあり、次の「塩尻」では読みは正しくなっているので、甚だ不審である。想像上の幻獣の名である。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」で独自に考証しているので、参照されたい。]

〔塩尻巻五十二〕『震沢長語《しんたくちやうご》』に明の成化年中、北京に物あり、狸のごとし。倐忽《しゆくこつ》として[やぶちゃん注:ごく時間が短いさま。たちまち現れ、たちまち消え。]風のごとし。人の顔面を傷《き》り手足を嚙む。一夜の中、数十発、その名を黒青[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。前注を必ず参照のこと。](シイとよむ)「皇明通記」に、黒青其疾如風、或戸牖《こゆう》[やぶちゃん注:家屋の戸口や窓。]より入る、密室といへども至らざる所なき故に、人家昏迷す。手足身面を傷れば黄水[やぶちゃん注:化膿した膿か。]を出す。数日遍城[やぶちゃん注:北京城下全体。]これが為に驚憂せり。暮夜《ぼや》に至れば戸々《ここ》刃《やいば》を持《じ》し燈《ともしび》を張《はり》てふせぐ。その黒気来《きた》るを見ては、金鼓《きんこ/こんぐ》[やぶちゃん注:僧侶が布教の際に首にかける鉦鼓(しょうこ)。平鉦(ひらがね)。]を打《うち》てこれを追ふ。その形黒くして小さく、金晴脩尾(きんせいしゆうび)[やぶちゃん注:金色の瞳と長い尾。]、犬狸に類するなんどいへり。我国にこの妖物なきにやといふ人あり。予<天野信景>曰く、先に聞きし、今周防及び筑紫あたり、所々この物あり、夜中牛馬を傷《そこな》ふ故、民人鉦太皷をならし狩出《かりいだ》して殺すといへり。京近き国々には聞えず。坂東の国かまいたちとて、黒気《こくき》疾風ありて人疵つく事ありといふ。この物にや。 〔斉諧俗談巻四〕元禄十四年、大和国吉野郡<奈良県吉野郡>の山中に獣あり。その形、狼に似て大きく、高さ四尺ばかりにして、長さ五尺ばかり、色は白黒赤白皂斑《まだら[やぶちゃん注:後に掲げた活字本で二字へルビ。厳密には「皂」(くろ)交りの「斑」(まだら)の意である。]》の数品《すひん》にして、尾は牛蒡の根のごとく、鋭き頭《かしら》、喙《くち》尖りて、上下の牙おのおの二ツ。鼠の牙のごとく、歯は牛の如し。眼は竪《たて》にして、脚(すね)ふとく水かきあり。走る事飛ぶごとく、これに触《ふる》るもの、面《おもて》・手足および咽《のど》を傷《きずつく》る。もしこれにあふ時は、弓鉄炮にてこれを留る事あたはず。そのまゝ倒れ伏せば喰はずして去る。故に落穴(おとしあな)を用ひて数十疋を捕る。その後この獣なし。これを俗に黒青といひ、また志於宇(しおう)と云ふ。

[やぶちゃん注:「塩尻」「鼬の火柱」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(左ページ下段末)から正字で視認出来る。

「震澤長語」明の王鏊(おうごう)撰。十三項目に分けて事物を考訂したもの。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」で当該箇所を「維基文庫」の同書を元にして、表記を、一部、変更して電子化してある。また、天野信景の本邦でのそれは、前のリンク先の渡しの考証と一致している。

「皇明通紀」は元末から洪武年間の四十年を記した「皇明啓運録」、及び、永楽より正徳年間百二十余年を記した「続編」を合本した編年体史書。明の歴史学者陳建が一五五五年に家刻本として刊行。明代の歴史を忠実に再現している初の明代通史であり、広く読まれたが、一五七一年に禁書の指定を受けている。後世に至って、諸大家に絶賛された。「中國哲學書電子化計劃」のここで影印本の当該部が視認出来る。

「斉諧俗談」「一目連」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページの『○應聲虫』)で当該部を正字で視認出来るが、例にって前掲の「和漢三才圖會」の丸写しでしかない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪児」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 怪児【かいじ】 〔甲子夜話続篇巻三〕伝話《つたへばなし》に京伏見海道五条下る<京都市内>問屋柏屋と云ふ大家有り。江戸にても本町筋に店有りて、京四条より下にては富豪なり。この主四十歳ばかり、本妻は三井の娘なり。然るにこの六月初旬妾腹に子出生せしが、顔は人の如くなれど、舌は三稜にて脊には鱗生じ、髪は白しとか。生れながら能く言ふ。因て生け置かば悪しからんと、穏婆これを殺さんと為れども、手に合はず。剰《あまつさ》へ曰ふ、若し我を見せ物にし、または命をとらば、この家は忽ち野原とすべしと。聞きて丈夫なる箱に入れ、鉄網を戸に張り、もとより乳は飲まざれば、焼飯二つ宛食はせ、庫《くら》の内に入れ置き、昼夜とも二人づつ番をしてありと。これは右の主人高台寺の萩見物に往きて、彼処《かしこ》にて白蛇を見つけ、酒興の上《うへ》殺したる抔《など》云ひふらす。また土御門の考《かんがへ》を頼みたれば、山神《やまのかみ》の祟りと云へり。この柏屋は豪家にして、白木屋の一族なり。柏を分けて白木となるなり。かゝる風聞にて勢《いきおひ》くじけ、これより下り坂にならんなどと、皆人《みなひと》のうはさなりとぞ。

[やぶちゃん注:事前に正規表現・注附きで「フライング単発 甲子夜話續篇卷之三 7 伏見道、柏屋の鬼子」を公開しておいた。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷之三 7 伏見道、柏屋の鬼子

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。なお、この巻、目録では二項に分けたものを、本文では一つに纏めてしまったため、「目録」上の順列番号と標題との間に致命的なズレが起こってしまっている。ここでのアラビア数字は本文の番号である。]

 

3-7

 傳話(つたへばなし)に、京伏見海道五條下る、問屋柏屋と云ふ、大家、有り。江戸にても、本町筋に、店、有りて、京四條より下にては、富豪なり。

 この主(あるじ)四十歲許り、本妻は、三井の娘なり。

 然(しかる)に、この六月初旬、妾腹(めかけばら)に、子、出生(しゆつしやう)せしが、顏は、人の如(ごとく)なれど、舌は三稜(さんりよう)にて、脊には、鱗(うろこ)、生(しやう)じ、髮は白し、とか。

 生れながら、能(よ)く言ふ。

 因(より)て、

「生け置かば、惡しからん。」

と、穩婆(かくしばば)、これを殺さんと爲れども、手に合はず。

 剩(あまつさ)へ曰(い)ふ。

「若(も)し、我を見せ物にし、又は、命をとらば、此家は、忽ち、野原とすべし。」

と。

 聞(きき)て、丈夫なる箱に入れ、鐵網(てつのあみ)を戸に張り、もとより、乳は飮まざれば、燒飯二つ宛(づつ)食はせ、庫(くら)の内に入れ置き、晝夜とも二人づゝ番をしてあり、と。

「これは、右の主人、高臺寺の萩見物に往(ゆき)て、彼處(かしこ)にて、白蛇(はくじや)を見つけ、酒興の上(うへ)、殺したる。」

抔(など)云(いひ)ふらす。

 また、

「土御門の考(かんがへ)を賴(たのみ)たれば、『山神(やまのかみ)の祟り。』と云へり。」

 この柏屋は、豪家にして、白木屋の一族なり。「柏」を分けて「白」「木」となるなり。

「かゝる風聞にて、勢(いきおひ)、くじけ、これより、下り坂にならん。」

などと、皆人(みなひと)のうはさなりとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「京伏見海道五條下る」この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「舌は三稜にて」舌が平たく柔らかでなく、舌の表面に三つの凸になった隆起筋がるということらしい。

「脊には、鱗、生じ」先天性魚鱗癬である。

「穩婆」読みは、あてずっぽ。妖怪の名にあるが、ここは思うに、堕胎などを請け負う半ば非合法な老婆の生業を指すのであろう。

「高臺寺」京都市東山区にある臨済宗建仁寺派鷲峰山(じゅぶさん)髙臺壽聖禪寺(こうだいじ)は。豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るために建立した寺院。その庭園は小堀遠州作とされ、石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園とされる。また、今もこの庭は、萩とシダレザクラの名所として知られている。

「土御門」平安時代以来、天文道・陰陽道を以って朝廷に仕えた家系。阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の子孫安倍晴明を祖とし、代々、その業を世襲した。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海虎の巾著」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 海虎の巾著【かいこのきんちゃく】 〔北国奇談巡杖記巻五〕同国<若狭>北方《きたがた》に能登野《のとの》といふ所あり。爰に山田玄立《やまだげんりふ》といへる外医《ぐわい》ありけるが、あるとき門前に立出で休らひけるに、南の方《かた》より鳶《とび》ひとつ来りて、何やらはたと落してさりにき。あやしくおもひてこれを窺ふに、大きさ七寸ばかりなる毛巾著《けぎんちやく》なりける。これをひらきてみるに、内に玉印《ぎよくいん》二ツと、金《きん》の釻《つく》ひとつあり。玉には、唐太子劉王武《たうたいしりうわうぶ》の文字《もんじ》を篆書にて彫りたり。ひとつは竜翼麟羽《りゆうよくりんう》の四字を刻む。その雅品なること、よのつねならず。きんちやくは海虎といへるものの革《かは》なるよし、古き物産家の目利《めきき》せり。いかなるゆゑありて、かゝる岐(ちまた)に落《おと》せしやいぶかしく、いづくよりひろひて来《きた》るぞや。何くれと訴へせしかども、知れざるゆゑ家蔵となしてけるよし、さる人のかたられける。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める(標題は「海虎の幐」(「幐」は「きんちやく」))が、お薦めは、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」の原版本のここからである。読みが添えられてあるからである。以上の読みも、一部は、それを参考に正しい歴史的仮名遣で振った。

「若狭」「北方」「能登野」福井県三方上中(みかたかみなか)郡若狭町(わかさちょう)能登野(グーグル・マップ・データ)。

「釻」国字で「つく」と読んで、「弓の両端の弦をかけるとの弭(はず/ゆはず)、或いは、その箇所に被せる金具で、ここは後者。

「唐太子劉王武」不詳。

「海虎」哺乳綱鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca を指すが、どうも、不審がある。それは「毛巾著」と記してあることで、シャチには体毛は、無論、ない。とすると、海産のアザラシ・オットセイ・アシカなどの哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目鰭脚類 Pinnipediaの皮革なのではないかという疑問である。そもそも、もとの起原生物の生体個体を見ていない「古き物産家の目利」などは信用におけない。]

2023/09/06

ブログ・アクセス2,000,000アクセス突破記念「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」再改訂版公開

二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」が、先ほど、遂に2,000,000アクセスを突破した記念として「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」再改訂版を公開した。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪光」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 怪光【かいこう】 〔寓意草〕享保のはじめ、東の都に住まひける家の、向ひなる山に寺あり、伝通院(でんづうゐん)<東京都文京区内>となんいひける。正月廿五日いぬのとき[やぶちゃん注:午後八時前後。]ばかり、庭にいでてみれば、寺のあたりより大なる燈《ともしび》のいでて、北南(きたみなみ)ありきける。ただに空にのぼりて、大なる星に成りて、芒《すすき》のやうに光りつ、よなよなかくなん有りける。弥生<旧暦三月>八日の巳の時[やぶちゃん注:午前十時前後。]ばかり、大いに風吹きて、牛込といふ所より火いでて、千住<東京都足立区内>のほとりまで焼けぬ。この寺の庭に、人おほく焼け死にたり。から[やぶちゃん注:「骸」。人の死骸。]の残りたるを集めたるが、五百八十ありけり。よとせへての正月のころ、赤城の山に夜な夜な火燃えけり。如月<旧暦二月>十四日、あを山よりいでけるひに、ふつふつに[やぶちゃん注:「湧き上がるように」だろうが、火災でこのような形容は、普通、しない。]やけたり。赤城あたりにて人死にけり。火気の集まりてはじめよりみえるにや。この年ふみづき<旧暦七月>かのつとめて[やぶちゃん注:早朝。]、かぞ[やぶちゃん注:「父」の古語。]のおき給ひて、にしにおよびさして、あれみやとの給ふめる。まどかなる月の山のはに残りてぞありける。三日のつとめて、満月の残り侍るこそあやしかる。 〔裏見寒話追加〕千塚の先に三ケ月原と云ふ所有り。夜陰原上《はらうへ》に火出づ。遠方より見れば挑灯《てうちん》の火の如しといへり。

[やぶちゃん注:「寓意草」「鼬の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「三十輻」の「第三」(大田覃編・大正六(一九一七)年国書刊行会刊)で活字に起こしたものがここで(左ページ下段後ろから六行目から)視認出来る。

「伝通院」現在の東京都文京区小石川(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にある。大脱線だが、この寺の名が出たら、言わずにはいられない。この南東直近の高台に「こゝろ」の「先生」の下宿家があったという設定であり、そのまさに作者の住む東の高台には、一時期、石川啄木が実際に下宿していたのである。そうさな、私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回」にリンクさせた日文研の古い地図を見られるがよろしかろう。

「赤城」現在の東京都新宿区赤城元町にある赤城神社か。

「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの左ページの後ろから四行目「○三日月原の火」がそれ。「追加」の「怪談」の内。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪魚万歳楽」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

     

 

 怪魚万歳楽【かいぎょまんざいらく】 〔月堂見聞集巻七〕去る正徳二年三月中旬、江戸深川<東京都江東区内>へ出る魚、長さ七尺、惣身鼠いろ、毛の長さ七寸、頭《かしら》鼠の如し。目赤し。惣身に毛あり、髭あり。尾は二岐《ふたまた》にして燕の如し。ひれもあり。右の魚は竹中主膳殿地下《ぢげ》の猟師が、四ツ手網にかゝり上る。則ち主膳殿の見参に備ふ。御城ヘ献上、この魚の名知れず。折節近衛太閤在江戸、御覧の後、万歳楽と名御付け遊ばされ候由。

[やぶちゃん注:「月堂見聞集」「蟻が池の蛇」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集 第二」(大正元(一九一二)年国書刊行会編刊)のこちらで当該部が視認出来る(右ページ下段中央)。

「正徳二年三月中旬」グレゴリオ暦一七一二年の四月十六日から四月二十五日相当。

「江戸深川」<東京都江東区内>へ出る魚、長さ七尺、惣身鼠いろ、毛の長さ七寸、頭《かしら》鼠の如し。目赤し。惣身に毛あり、髭あり。尾は二岐《ふたまた》にして燕の「竹中主膳」不詳。

「この魚の名知れず」アザラシ・オットセイ・アシカなどの哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目の鰭脚類 Pinnipediaであろうとは思われる。体色からみると、絶滅してしまったニホンアシカ Zalophus japonicus は、背は黒いが、それ以外は暗褐色で、ちょっと分が悪いものの、後脚を二つに綺麗に分けて屹立することが出来るので、外せない。逆にアザラシは後脚が不揃いで、でろんとしており、立つことはできない。耳介を語っていない点では、オットセイの分が悪い。個人的には、本邦に周辺に広い棲息域を持っていたニホアシカを比定したい欲求にかられる。体色が黒く、目が赤いというのは、皮膚の変質と充血で、当該生物の通常の特徴というよりも、既に弱っていた個体だった可能性があろう。

「近衛太閤」近衞基熙(慶安元(一六四八)年~享保七(一七二二)年)は摂家。関白近衛尚嗣(ひさつぐ)の子。承応二(一六五三)年に父が没したが、六歳の庶子でありながら、後水尾法皇の配慮により、無事に家督を相続、以後、法皇の影響を受けながら成長した。延宝五(一六七七)年に左大臣に昇進するが、霊元天皇と、悉く意見が合わなかった。元禄三(一六九〇)年、関白に就任し、やがて、東山天皇の信任を得て、朝廷第一の実力者となり、宝永六(一七〇九)年には、公家として江戸時代になって実に最初の太政大臣に任ぜられた。長女の煕子(ひろこ)は第六代将軍徳川家宣の御台所となり、この縁で家宣や間部詮房(まなべあきふさ)らと親交を深め、翌宝永七年から、二年間に亙って、江戸に滞在し、閑院宮創立にも寄与した。和歌や有職故実などへの造詣が深く、書画にも秀でた当代一流の文人でもあった。享保七年六月に出家し、同年九月に死去した(小学館「日本大百科全書」に拠った)。この時の江戸下向は、当該ウィキに、宝永七(一七一〇)年に、二度目の『江戸下向を強行し、再び』、『家宣・熈子夫妻と会見』し、『それから』二『年以上もの間』、『神田御殿に滞在し、将軍や幕閣から政治・有職などの諮問を受けた。これは新井白石が朝鮮通信使の問題や儀礼問題について基熈の意見を求めたからだとされているが、一方、東山上皇の余りにも突然の急死により』、『霊元上皇の院政再開が確実となったことで、基熈としても』、『朝幕関係の再構築と』、『東山上皇の生前の意向であった新宮家(後の閑院宮)創設問題の早期実現を願う立場から望んでいた江戸下向でもあった。こうした基熈の関東接近を憎んだ霊元上皇は、下御霊神社に呪詛の願文を自ら認め(霊元院宸筆御祈願文)』とあったのが、それである。

「万歳楽」ネットの小学館「日本国語大辞典」精選版のこちら(私は実物の正規の小学館「日本国語大辞典」を持ってはいるが、挿絵を見せるためにこちらを採った)に、『雅楽の曲名。唐楽、平調の曲。舞楽でも演奏される。左の平舞で舞人は四人、まれには六人で襲(かさね)装束を着けて舞う。祝賀の宴に用いられた。右舞の延喜楽と共に平舞の代表的なものである』とあって、その装束を画像で挙げている。私は当初、記紀の古代より、奇獣が献上された際には、それが如何なる奇体な生物や物体であっても、凶兆とはせず、一種の御霊信仰的に逆にそれを瑞兆として祀ったり、名指したりしたのと同じことを、近衛はしたのではないかと思っていたが、ご覧の通り、その装束が、その生物に似た形だからであろうと、思わず、膝を打ったのであった。見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怨霊による奇病」 /「お」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、これを以って、「お」の部は終わっている。]

 

 怨霊による奇病【おんりょうによるきびょう】 〔閑田次筆巻四〕門人某来話する奇事、鳥丸《からすま》四条街に、近江屋吉某といふ職人あり。その妹女《まいぢよ》、同街同職藤某ヘ嫁したり。まめやかなる女にて、姑の心には愜(かな)ひたれども、藤某美色のおもひ人あり、しひて難をつけてこれを離別す。女深く怨《ゑん》じ歎きしかど、色にも出《いだ》さず、親の家にひそみてありけり。藤某は心のまゝに、彼《かの》おもひ人を迎へて愛したり。さるにある時、吉某が妹、知る人のもとヘかりそめに来り、携へたる日傘、また頭にさしたる物を、母の隠居へ送り給はれ、吾はものヘ行きて参らんといふ。その家あやしみて、衣服なども改めず、他へ行き給はんはいかにや。まいてあつきに傘をも捨ておはすは、いかにといひしかども、唯このものら送りたまはれと、言少なにて出でさりしかば、いふがまゝに、とみに人をもて、しかじかと告げて、かの物どもをもたせやりしが、かしこにても怪しみて、かたがたへ人をやりて、もとむるに行へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]しれず。日ごろ重なりしかば、官へ訟(うた[やぶちゃん注:ママ。])へて、あまねく布令(ふれ)流し給ひしかども、その死骸だにもしられず。さるにそのころより、かの藤某の後妻、あやしき病を得たり。腹のうちより物いふものあり。応声蟲のごとしといへども、これは声に応ずるにはあらで、かなたよりいふなり。答へざれば胸せまりて苦しきが故に、他人とものいふ間(あひだ)にも、さし置《おき》て腹の裏(うち)の答へをす。彼《かの》の行へなき女の三年の仏事をせし時、藤某おもひがけず、吉某がかたへ商《あきなひ》の筋《すぢ》をいひて来り、後妻が病《やまひ》三年に及べりとかたる。この藤某もまた意《い》正しからず[やぶちゃん注:意味不明。「言っていることが、判らず、何か正常な様子でない」という意でとっておく。]、されば離れし妻の家へ、かくさしもなきことにて来り、三年の法事の時なりしもあやし。吉某に来りて、かのあきもの見たうべといひしに、こころよからねど、せんかたなく一両日を経ていたりしが、いかにも後妻は病《やまひ》に悩《なやまさ》れてありしとなり。医薬祈禱をつくせども験(しるし)なし。こゝにその辺《あたり》に何某といふ神道を行ふ人あり。奇特ありと聞きて、乞ひて彼《かの》病人をかしこへ通はしめ、一七箇日《ひとなぬかにち》祈禱を乞ふ。その時この話せる人も、この神道者に親しければ、行きて見たるに、香炉を携へ出て、何やらん香を炷《た》く。その煙を見るまゝ、あといひて病人仆《たふ》れ伏す。その煙に手を覆へば、起きてもとのごとし。さて口ばしりて、かく責めらるゝは苦しけれど、この体《からだ》は去らじといふ。かくて終《つひ》に験(しるし)見えねば、神道者も辞したり。その後いくほどなく死せるが、死体全く紫色になりて腐りたりとぞ。さて藤某も実《まこと》の狂乱になりて、せんかたなく檻(をり)を構へて入れ置き、家も大いに衰へたり。されども藤某は、今に死もせず、あさましきこと、いはんかたなしとなん。

[やぶちゃん注:「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから七行目以降)で正規表現で視認出来る。

「鳥丸四条街」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「女の幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 女の幽霊【おんなのゆうれい】 〔四不語録巻二〕能州飯山(いひやま)の谷入《たにいり》に神子(かみこ)ケ原(はら)と云ふ村有り。其所の百姓何某が妻、両腋に鱗これ有り。乳房も長く尺に余れり。子を背に負ひて、乳房を肩へ打かけて飲まするなり。力量これあり。壮夫の四五人が業《わざ》をも働きしなり。或時病死せしに、一七日《ひとなぬか》めに幽霊来りて夫を取殺《とりころ》すなり。その後もその霊時々現はれて、村中の女童ども恐るゝなり。同村に作蔵と云ふ者有り。死人《しびと》の墓に穴あれば、必ず幽霊現はるでものなりと聞き伝へたり。彼女《かのをんな》の墳(つか)にも若《も》し穴や有る、これを見んとて、送場坊主(そうばぼうず)何某と共に、彼女の墓を見れば案のごとく穴あり。埋《うづ》めよとて木を切込み埋めども、深くして埋まらず。さればとて打捨て置くも如何《いかが》とて、彼れ是れ集まりて土木を数多《あまた》打入れて穴を埋めけるに、其夜より彼女の幽霊、作蔵かたへ来りて、こそばかして難義に及ぶ故に、近隣のかくら田村に名作の刀《かたな》これ有るよし聞《きき》て、借り寄せ置きければ、それより来らず。三十日余りも過ぎてその刀を返しければ、また幽霊来るなり。或時山より柴を負ひ帰る所に、後《うしろ》より引くもの有り。例の曲者《くせもの》なるべしとかへりみれば、その儘作蔵をとらまへ、六七間あなたの谷底ヘ投げ込まれしに、作蔵は気を取失《とりうしな》ひ死入《しにいち》りにけり[やぶちゃん注:気絶・失神したの意。]。その後は幽霊来らずとなり。作蔵は死《しし》たると思ひし故なるべし。作蔵は正気付きて今に存命なり。延宝年中の事なり。作蔵物語りを聞きてこゝに記す。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。但し、この話、当該ウィキがある。標題は「力持ち幽霊」。

「能州飯山(いひやま)」現在の石川県羽咋(はくい)市飯山町(いのやままち読み注意。グーグル・マップ・データ)。

「神子(かみこ)ケ原(はら)と云ふ村」上記のリンクした地図の南東の山間に入ったところに、羽咋市神子原町(かみこはらまち)がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「両腋に鱗これ有り」思うに、魚鱗癬のような疾患ではなく、双方のわきの下にあることから、複乳の可能性が高いように思われる。

「送場坊主」初めて聴く名だが、恐らくは、寺院に附属し、専ら、遺体の搬送と埋葬に携わった僧形をした被差別民(死穢に触れるために彼らから選ばれた)であろうと思われる。

「かくら田村」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図も調べたが、それらしい地名は見当たらない。作者の聴き違いが疑わられる。

「六七間」十・九一~十二・七三メートル。

「延宝年中」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・徳川綱吉の治世。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「女の大力」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 女の大力【おんなのだいりき】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕阿部家の家来何某の妻、小さき女なりしが、容貌また良きにあらず、醜にもあらず。至つて力強く、或時夫は番留守(ばんるす)成るに、右留守といへる夜には、下女の方へ忍び男《をのこ》ありしを、ふと聞付て憎き奴《やつ》かなと、かの忍び入る所を捕へて膝の下に敷きて、何故夫の留守に忍び入りしや、不届なる仕方なりと、片手に女を捕へ引居(す)ゑ置きければ、大の男手を合せ詑びける故、以来右體《みぎてい》の猥《みだ》りなる事あらば、活《い》かしては置かじと折檻なして放しけるとぞ。また或日長屋へ呼ばれて行きしに、玄関は普請ありて勝手口より入らんとせしに、右勝手口に米を三俵積み置きて通りふさがりし故、主の妻出《いで》て下男を呼び、片付けさせんと申せしに、取片付けて通り申さんと、右米を双手に引提《ひつさ》げて中を通りしとなり。怪力もあるものなりと人の語り侍る。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之五 女力量の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「女の首」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 女の首【おんなのくび】 〔怪談老の杖巻三〕藤堂家の家士に、藤堂作兵衛といふ人あり。力強く武芸に達し、容貌も魁偉なる士なり。常に自ら材にほこりて、世にこはきものはなきと思へる慢心ありしに、江戸屋敷にて座敷にひとり書物など読みて居ければ、長押(なげし)の上に、女の首ばかりありて、からからと笑ひ居けり。作兵衛不敵の人なれば、白眼(にらみ)つけて何の妖怪ぞとはたとねめければ、消え失せけり。とかくして厠へ行きたくなりければ、ともしびを持ち行きけるに、雪隠の窓より外に、今の女の首ありて、けらけらと笑ひけり。その時は少しこはき心おこりしかど、目をふさぎて静かに用事を達し、立出でて手を洗ひ、座敷になほりしは覚えけれども、昏沈《こんじん》してその後の事を覚えず。傍につかふ者ども見付けて、いろいろ介抱して正気づきぬ。それより慢気する心をば持たざりけり。そののちはなにもあやしき事はなかりしといへり。作兵衛直の物語りなり。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之三 慢心怪を生ず」を参照されたい。注もある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「女と蛇」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 女と蛇【おんなとへび】 〔甲子夜話巻七〕一日久留里侯の別邸を訪ひしとき、その臣等打よりての話《はなせ》し中《うち》に、その領邑《りやういふ》の事なりとかや。藩士某野外を通行せしに、路傍の草むらある処に、一女子の立《たち》ては踞《うづくま》り、また立ては踞ること屢〻《しばしば》にして、ことに難儀の体《てい》なりしかば、いかにして斯《かく》の如きやと問へば、女答ふ。あれ見給へ、向うの土穴の中の蛇、我を見込みたりと覚えて、穴より首を出《いだ》し、我《われ》立たんとすれば、穴より出で追ひ来らんとするの勢ひあり。因《よつ》て踞ればまた穴に入る。故に逃げ去らんとすれども能はずと云ふ。士因て試みにその女を立たしむれば、その言《げん》の如し。士云ふ。憂ふること勿れ、我一計あり。女涕泣して脱《のが》れんことを求む。士乃《すなは》ち佩刀を抜き穴口に当て、女をして急に逃げ去らしむ。蛇忽ち穴を出て追はんとするに、首(かう)べ刀に触れて両段となり、女は遂に難を免《まぬ》れたりとなり。

[やぶちゃん注:現在、まさに「甲子夜話卷之七」の電子化注であるが、最後の方にあるので、「フライング単発 甲子夜話卷之七 25 蛇、女を見こみたる事」として事前に公開した。]

フライング単発 甲子夜話卷之七 25 蛇、女を見こみたる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

7―25

 一日(いちじつ)、久留里(くるり)侯の別邸を訪(おとなひ)しとき、その臣等、打よりての話(はなせ)し中(うち)に、その領邑《りやういふ》の事なりとかや。

 藩士某(なにがし)、野外を通行せしに、路傍の草むらある處に、一女子(いちぢよし)の立(たち)ては踞(うづくま)り、又、立(たち)ては踞ること、屢(しばしば)

にして、ことに難儀の體(てい)なりしかば、

「いかにして、如ㇾ斯(かくのごとき)や。」

と問へば、女、答ふ。

「あれ、見給へ。向ふの土穴(つちあな)の中の蛇、我を見込みたりと覺(おぼえ)て、穴より首を出(いだ)し、我立(たた)んと爲(す)れば、穴より出(いで)て、追來(おひきたら)んとするの勢(いきおひ)あり。因(よつ)て、踞れば、また、穴に入(い)る。故に逃去(にげさら)んとすれども、不ㇾ能(あたはず)。」
と云(いふ)。

 士、因(より)て、試(こころみ)に、其女を立(たた)しむれば、其言(げん)の如し。

 士、云ふ。

「憂(うれふ)ること、勿(なか)れ。我、一計あり。」

 女、涕泣して脫(のが)れんことを求む。

 士、乃(すなはち)、佩刀を拔き、穴口に當て、女を使(し)て、急に逃去らしむ。

 蛇、忽(たちまち)、穴を出(いで)て、追はんとするに、首(かう)べ、刀(かたな)に觸(ふれ)て、兩段となり、女は、遂に、難を免(まぬ)れたりとなり。

■やぶちゃんの呟き

 この手の話は中古以来、さわにある。

「久留里侯」上総国望陀(もうだ)郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)の久留里城を居城とした藩。ここ(グーグル・マップ・データ)。房総半島の、まさに臍に当たる。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「温泉宿の雪隠」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 温泉宿の雪隠【おんせんやどのせっちん】 〔真佐喜のかつら〕畑中西山は大岡雲峰の高弟にて、花鳥を画くに妙を得たり。舎兄は春嶽とて書をよくす。予<青葱堂冬圃>一とせ西山と倶に箱根の温泉に遊ぶ。まづ宮の下奈良やといふ家に宿りぬ。この家は所の長《をさ》なるよし。家居も立派にて、殊にもてなし丁寧なりき。座敷より見わたせる風景よろしく、暫く此所に浴す。或夜温泉に入りし戻り、雪隠へ行き、戸を明けんとするに、人のありとみえて中にて咳《しはぶき》す。その隣なる戸を開かんとすれば、また人ありと覚ゆ。よりてその次なる戸を明けんとするに、これまた同じ。かゝる内西山も用たしにきたる。我も待居《まちゐ》るうち、外の人外の人三四人来り立ちゐたれど、ひとりも出るものなく、余りに堪へかね、心はやき人、中なる戸を開くに人ある事なし。さればみないひ合せて左右を明け見るに、矢張人なし。をかしくもまた怪しく、そこそこに用足し、座敷ヘもどり、翌日家のあるじに其物語りするに、山中の事ゆゑ、折々かゝる事あるよしかたりぬ。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから(「八」の巻頭)正規表現で視認出来る。冒頭の以下がカットされている。条の頭に「一」がある。

「畑中西山」江戸後期の画家。江戸生まれ。名は好、字は子徳、通称は圭之介、竹酔・竹石と号する。天保二(一八三一)年没。参照した「美術人名辞典」では『書家西嶽の男』とある。

「大岡雲峰」(明和二(一七六五)年~嘉永元(一八四八)年)は旗本で文人画家。名は成寛。雲峰は号。江戸の生まれ。筑後柳河藩士牛田忠光の子であったが、後に旗本大岡助誥(「すけつぐ」か)の養子となり、天明八(一七八八)年二十四歳の時、家督を継ぐ。寛政三(一七九一)年には表右筆に任ぜられる。絵では鈴木芙蓉の高弟で、後に二つ年上の谷文晁の門人となった。山水画・花鳥画を得意とし、二宮尊徳と、その娘の画の師にもなった。四谷大番町に住み、画風を南蘋派に転じると、「四谷南蘋」と称され、文化年間には文晁や酒井抱一などと並称された。本草学にも興味を持ち、幾つかの本草書に弟子の関根雲停・石川碩峰とともに挿絵を描いている。江戸画壇の長老として敬われた。享年八十四。]

2023/09/05

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「面の夢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

面の夢【おもてのゆめ】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕予<根岸鎮衛>が許へ来れる某《なにがし》は相学《さうがく》を好み、家業の暇《いとま》、相を見る事をなせしが、寛政六寅の年、初午にいつも千社参りをなしける故、駒込大観音辺の稲荷などを札を張りて廻りしに、子共の捨てしにや、右観音境内の稲荷の椽側《えんぎは》に、いかにも古びたる瘦男《やせをとこ》ともいふべきおもてあり。子供の捨しにや、さるにても其面相《めんさう》も面白きと思ひしが、若《も》し拾ひ取りても主《ぬし》ありては如何《いかが》と、その儘神拝をなして帰りけるが、日数暫くたちて帰りけるが、日数暫くたちて某が女房、今朝をかしき夢を見たり、能のシテともいふべき面《おもて》、忽然と物言ひけるは、普請にて我等も居所《ゐどころ》差支《さしつか》へ候間、この辺《あたり》へ移して祭りをなせよかし、といふに驚きて夢覚めぬと語りし故、兼ねて女房に咄しける事もなければ、初午の事思ひ出《いで》て、早速大観音の近所に至り見れば、有りし社頭は普請と見えて、足代《あししろ》など懸け渡しある故、大きに驚き、ありつる椽下を見るに、その最寄りなる所に、初午に見し面、埃に埋れ有りし故、早速拾ひ取りて宿へ持帰り、清めて神棚へ上げ祭礼をなせしに、それより思はずも相学の門人日を追うて多く、世渡りも安く暮しぬと語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之五 相人木面を得て幸ひありし事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「お目出度座鋪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

お目出度座鋪【おめでたざしき】 〔真佐喜のかつら〕阿部伊勢守駒込下屋敷に、おめでた座鋪と唱ふる有り。何事によらず悦び事ある前には、見も馴れざる女﨟《ぢよらう》をその座敷にて見る事有り。その不思議あれば必ず慶事あり。これをお目出度女﨟といふ。またこの屋鋪宵の六時《むつどき》には拍子木を打たず。もし強ひて打つ時は、あやしき事ありといふ。これやおむつどのへ憚ると言ふなり。故ある事にて永ければ略す。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから(「八」の巻頭)正規表現で視認出来る。

「阿部伊勢守」備後国福山藩第七代藩主にして、老中首座を務め、幕末の動乱期にあって「安政の改革」を断行した阿部伊勢守正弘(文政二(一八一九)年~安政四(一八五七)年)。福山藩江戸下屋敷は、この東京大学前東の附近にあった(グーグル・マップ・データ)。

「宵の六時」暮れ六つ。不定時法で、夏至で午後八時前、春分・秋分で七時四十五分頃、冬至で五時四十五分頃。

「おむつどの」不詳。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「燐火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 燐火【おにび】 〔反古のうらがき巻一〕左門町〈現在の東京都新宿区四ツ谷〉の同心何某、いまだ公けに仕へざる時、近き在《ざい》にありけり。日永き頃は近き寺に行きて、僧と囲碁して楽しみける。夏の日の暑気にも、松檜など繁みたる軒のもとに二人さし向ひて暮すに、などか苦しと思ふことのあらん。身に差《さし》かゝる事もなき人は、囲碁程楽しきはなかるべし。或日昼の程は暑気甚しく、夕方より少し雲立《たち》て雨を催す様なれば、日の落つるを見て家に帰りけり。その路は十町[やぶちゃん注:約一・一キロメートル弱。]余りの野原にて、此所を過《すぐ》る頃は、一天墨の如く陰りて、物のあいろも分たず[やぶちゃん注:「あいろ」は「文色」で「あやいろ」の変化した語。「模様・物の様子」であるが、多く、下に感覚不能の否定を伴い、「対象の見分けがつかない」の意を示す。]。路のべの荻萩《おぎ・はぎ》・すゝきいろいろの草の葉に、涼風のさとおとしてそよぐ様《さま》、人の間近く来りたるかと怪しまれて、すさまじく聞えなどするに、只独り心細くも歩みけるが、あら怪しや、行手の路の真中に、紅き糸の細さなる火の長さ三尺ばかりなるが、ひらひらと燃え上りたり。おどろきながらもよくよく見るに、また此方にも彼方にも燃え上りて、忽ちに消え失せぬ。これぞ世にいふなる鬼火よと、身の毛いよ立ちて立たるに、一風烈しく落《おと》し来《きたつ》て、その風と共に吾《わが》立てる足元より燃え上る。その火影にてよくよく見れば、萩の露はらはらと落ちたる所より燃え上るなりけり。さては露の滴る所より燃え出るよと、あなたこなたの萩・荻の枝ふり動かして見てければ、果してその下より一つ二つ出でけり。その後は又さもなし。かゝる事、煙草二三服のむが内にして、最早見る事なし。但し炎天の陽気地下に伏し、夕方の陰気に覆はれて発散を得ず。その中に宇宙の気は皆陰気となりて凉しくなり行くのとき、地下の陽気一時に発散すれば火と見ゆるなり。自然としめりて散ずれば見ることなく、水露《みづつゆ》などそゝげば、一時に発して火と見ゆるなりけり。世にいふ石灰に水をそゝげば火を出すもといふもの、かの西洋のエレキテルといへる物の理《ことわり》も同じ事なりけり。この事しりやすき理なれども、初めて見ん人は、いとあやしと思ふべしとて語りはべり。

[やぶちゃん注:「反古のうらがき」複数回既出既注。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている。当該話は「反古のうらがき 卷之一 燐火」。未刊随筆集叢書の国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』(そはくじっしゅ)第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちらでも、正字の当該部が視認出来る。それにしても、最後にエレキテルまで言い出して、疑似科学を装っているが、少しも説得力がない。発光生物・発行物質や光学的な反射現象の可能性も考えたが、どうも説明不能だ。作者は儒者で昌平坂学問所教授鈴木桃野だが、少なくともこれは、同心の虚言にまんまと乗せられたものであろう。] 

2023/09/04

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鬼橋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鬼橋【おにはし】 〔諸国里人談巻一〕備後国帝釈山の谷川に橋あり。石を以て切りたてたる長さ廿間、幅三間の反橋なり。これを鬼橋と号(なづ)く。土俗の説に、神代の昔梵天帝釈天くだり給ひ、数万の眷属の鬼来つて、一夜の中に全く成るといひ伝へたり、むかしこの橋をわたり得れば浄土に至り、渡り得ざるものは地獄に堕つといふ。今はわたる人なし。故に草木茂りて山とひとしきなり。

[やぶちゃん注:正規表現は私の「諸國里人談卷之二 鬼橋」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鬼の面」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

鬼の面【おのにめん】 〔雲萍雑志巻一〕羯摩乗親《かつまのりちか》は、きはめて面打《めんうち》の上手なりけれども、ひとヽせに一つは打たず。性《せい》、酒を好みて、酔《えひ》て舞ふことを楽しむ。ある折《をり》から老母のいへりけるは、はや米の櫃《ひつ》には蜘《くも》の巣をかけたり、勤めて打つベきにやと責めければ、乗親おどろきて、さあらば今日《けふ》よりして、懈《おこた》らず打つべきなりとて籠りけるが、四五日を経て、面打ちてあつらへたるかたへ持《もち》行き、料《れう》を持ちかへりて、母にわたしければ、母よろこびていへるは、多くの金子を得しは、面いくつ持ちたるや[やぶちゃん注:後に示した活字本では、『打(うち)たるや』である。]と問ふに、八《や》おもて打ちたり、されども心にかなはざるが、その中《うち》に七面《しちめん》あれば、みな家に残せりとて、取り出し見せたり。鬼女《きぢよ》の仮面《めん》[やぶちゃん注:二字への読み。]なりければ、見るさへ恐ろしとて傍《かたはら》におきけり。その夜、盗人《ぬすびと》入りて、親子臥したるを伺ふを見て、母かの鬼面を顔におほひて、眼《め》の穴より見ながら、やよ盗人の入りたるぞ、乗親おきよといひけるを、盗人見て、あ[やぶちゃん注:驚愕のそれ。]とさけび驚き、いづくともなく逃失《にげうせ》せぬとぞ。

[やぶちゃん注:「雲萍雑志」

「雲萍雑志」江戸中期の和漢混交文の随筆。四巻四冊。天保一三(一八四二)年に江戸で板行された。文雅人柳沢淇園(きえん:好んだ唐風名は柳里恭(りゅうりきょう))の随筆とされ、明治以来、翻刻も多いが、作者については、なお、疑問が残る。内容は、作者が日常的に聞き及んだ志士・仁人の言行逸話、自家の経歴などを記して興趣に富むが、全体に道徳臭が強く、粋人淇園の面影は見い出せない。序文に、淇園の二十巻に及ぶ原稿を大坂の木村蒹葭堂(けんかどう)が珍蔵し、桃花園某がそれを抜粋、四巻に纏めて成ったことを記してあるが、桃花園及び出版に関係した江戸の雑学者山崎美成(よししげ)が、淇園の名声に付会した偽作であろうとされる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの「名家漫筆集」 『帝國文庫』第二十三篇(長谷川天渓校訂・昭和四(一九二九)年博文館刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る(巻之一の掉尾)。読みは、それに拠った。

「羯摩乗親」不詳。]

2023/09/03

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鬼が城・鬼が洞」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鬼が城・鬼が洞【おにがしろおにがほら】 〔譚海巻十〕大江山<現在の京都府福知山市・与謝郡・加佐郡境にある山>は三分は丹波へかゝり、七分は但馬と丹後へかゝりたれども、丹波の大江山といひ伝へたるなり。鬼が城は麓より凡そ五里ばかり、ふもとは福智山<京都府福知山市>の北おもてなり。福智山は朽木侯の領分、山の上り口は山の口村といふ。岩屋は常に雫落ちて入りがたし。殊に帯刀などにては、岩にさゝへて猶入りがたし。鬼の洞はまた別に出雲国院の荘<岡山県津山市内>といふに在り。丹波の見たて山まで三十六里なり。洞中岩かどつき鐘のいぼの如く、白く黒くみゆ。奥行三十六間ほど、前口八間ほど、地の高さ壱丈四尺ほどなり。はじめ入る処、たゝみ十二三畳ほど敷かるゝ所あり。その次は二十四畳くらゐ、その次は十二三畳位、その次に深き穴有り。長さ三間ほどの竹を入れてみれども、底へとゞかず。松平淡路守殿入部のとき、入りて見玉ひしに、付添ふ家来残らず白刃にて入りたり。案内者所の老翁、七十歳余りなるものしるべして、松明十六本ともし入りたり。蝙蝠夥しく驚き飛びまはりたると物がたりぬ。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷之十 丹後國大江山鬼の洞の事 (フライング公開)」を注を附して公開しておいた。しかし、後半の畳代替の数値が、かなり異なる。]

譚海 卷之十 丹後國大江山鬼の洞の事 (フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 大江山は三分は丹波へかゝり、七分は但馬と丹後へかゝりたれども、丹波の大江山といひつたへたるなり。

 「鬼が城」は、麓より、凡そ五里ばかり、ふもとは福智山の北おもてなり。ふくち山は朽木(くつき)侯の領分、山の上り口は山の口村といふ。岩屋は、常に、雫(しづく)落ちて、入(いり)がたし。殊に、帶刀(たいたう)などにては、岩にさゝへて、猶、入(いり)がたし。

「鬼の洞」は、又、別に、出雲國、「院(ゐん)の莊(しやう)」といふに在(あり)。丹波の「見たて山」まで三十六里なり。

 洞中、岩かど、つき、鐘のいぼの如く、白く、黑く、みゆ。

 奧行(おくゆき)三十六間ほど、前口(まへくち)八間ほど、地の高さ、壹丈四尺ほどなり。

 はじめ、入(いる)處、たゝみ三十二、三疊ほど、敷(しか)るゝ所あり。

 その次は、二十四疊くらひ[やぶちゃん注:ママ。]、其次は、十二疊位、其次に、深き穴、有(あり)。

 長さ三間ほどの竹を入れてみれども、底へ、とゞかず。

 松平淡路守殿、入部のとき、入(いり)て見玉ひしに、付添ふ家來、殘らず、白刄(はくじん)にて入(いり)たり。

 案内の者、所の老翁、七十歲餘りなるもの、しるべして、松明(たいまつ)十六本、ともし入(いり)たり。蝙蝠、夥しく、驚き、飛びまはりたると、物がたりぬ。

[やぶちゃん注:「大江山」京都府福知山市大江町(おおえちょう)のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「福智山」「福知山」が正しい。ここは広域地名。

「朽木侯」福知山藩藩主家。時に朽木藩とも呼ばれるが、交代寄合朽木家(元綱の長男に相続される宗家)の知行所であり、「藩」と呼ぶことには異議がある。

「山の口村」「Stanford Digital Repository」の戦前の「大江山」の地図を見ると、中央の最も下の、『鬼ヶ城』のピークの東方に、「佐賀村」があり、その北直近に「山野口」という地名が確認出来るので、ここであろう。現在もここにある。但し、ここは大江山からは南南東に有意に離れた位置で、由良川沿いの細い盆地を挟んでいて、大江山の尾根続きではない。

「岩にさゝへて」「岩に障(ささ)へられて」の誤りであろう。岩に遮られて。

『「鬼の洞」は、又、別に、出雲國、「院の莊」といふに在』この叙述はおかしい。この「院の莊」は現在の岡山県津山市院庄(いんのしょう)であり、出雲街道の途中ではあるが、旧出雲国ではなく、美作国だからである。しかも殆んどが平地で、洞がありそうなのは、東北の一画だけである(グーグル・マップ・データ航空写真)。後の松平淡路守に引かれて、誤認したものであろう。ともかくも、本篇の標題は、この後半部は地理的には全くの羊頭狗肉としか私には思えない。

『丹波の「見たて山」』不詳。

「三十六間」六十五メートル半。

「前口」洞の入り口。

「八間」十四メートル半。

「壹丈四尺」四・二四メートル。

「三間」五・四五メートル。

「松平淡路守殿」出雲国広瀬藩七代藩主松平淡路守直義(なおよし/ただよし 宝暦四(一七五四)年~享和三(一八〇三)年)か。

「白刄」抜き身の刀。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「女化原」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 女化原【おなばけはら】 茨城県稲敷郡辺《あたり》の話 〔一話一言巻二十七〕水戸海道若芝宿<現在の茨城県龍ケ崎市内か>の東、大なる原あり、号(なづ)けて女化原<茨城県牛久市内>と云ふ。その広大なる事、際《きは》も見え侍らず。その原中に僅かの松山あり。大木繁りたる中に小さき稲荷の社あり。その側に女化稲荷《をなばけいなり》の碑あり。往昔筑波郡栗山村<茨城県稲敷郡内>大徳覚右衛門といへる者、この原を通りしに、うるはしき女たゞ独《ひとり》来れるに、ふと行き逢ひ、その様《さま》いぶかしけれど、言葉がら優しければ、我家へ連れ帰り妻となし、家業もよの常ならずかせぎし故、夫婦中《ふうふなか》むつまじく暮しぬる中《うち》に子をまうけ、その子十二三歳の時、母の姿ふと狐の形に見えければ、驚き父の覚右衛門へ告げしらせ候に付《つき》、母は正体見顕はされ、恥かしきとてこの原に帰り、行衛《ゆくゑ》しれずなり候由、それ故に後年碑を建てけると云ふ。施主利左衛門利の字迄はよく分り候へども、跡は読み難く、利左衛門にて候や、また覚右衛門の名乗に候や、利左衛門に候はゞ、覚右衛門子にても有るべし、分りがたし。右覚右衛門は今に代々覚右衛門とて、顔永《かほなが》にて口とがりたり。狐の子孫故にや侍ると、村夫《そんぷ》の物語りいぶかしけれど、その辺の者共数人《すにん》の申口《まうしぐち》同じければ、正説《せいせつ》ならんか。殊更右の碑もあり。原名《はらな》も女化《をなばけ》と云ふ。狐の子孫もあれば慥《たしか》かなるべし。

[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「女化(ヲナバケ)原由來の荒增」である。最後に南畝の『右は關宿藩共より差越候由池田正樹より借得て寫之【庚午七月七日】』とあって、原ソースが明らかにされている。「庚午」(かのえうま)は文化七(一八一〇)年。

「筑波郡栗山村」「茨城県稲敷郡内」現在の、つくば市西栗山附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。こことは違うが、明白に同根(「葛の葉」型異類婚姻譚)の類似譚が、南西十四キロメートルほどの位置にある茨城県龍ケ崎市馴馬町(なれうままち)の女化(おなばけ)神社に伝わる。「朝日新聞デジタル」の「妻に化けた狐伝説息づく 茨城・龍ケ崎の女化神社」(二〇二〇年十月三日記事)に、『神社によると、創建は』永正二(一五〇五)『年とされているが、石像は神社にまつわる「女化の狐(きつね)伝説」に基づいている』。『《昔、忠五郎という男が野原を通りかかり、猟師に撃たれかけていたキツネを助けた。そのキツネは恩返しに忠五郎の妻となって』三『人の子どもまでもうけた。しかし、子どもたちに正体を知られ、野原に消えた》』。『この野原一帯が「女化原」と呼ばれ、野原にあった稲荷の祠(ほこら)は「女化稲荷」に。江戸時代に馴馬村(現・龍ケ崎市)の寺「来迎院」が管理していたことから』、『龍ケ崎市の飛び地になり、明治時代に「女化神社」に改称されて今に至るという』。『女化神社への信仰は、遠方に広がった。親子ギツネの石像はその表れだ』。明治二(一八六九)年に『東京・深川の関係者』二『人から寄進された』。『龍ケ崎市歴史民俗資料館にも、信仰のあつさを示す錦絵が保管されている。「常州 女化狐子別之場」』で、明治一八(一八八五)『年、「狐伝説」を題材に作られた歌舞伎の』一『場面で、当時人気絶頂の歌舞伎役者・尾上菊五郎が艶(つや)っぽく描かれている』(中略)。『拝殿の裏から』十『分ほど歩くと、こんもりした林の中にキツネが身を隠したという「奥の院」がある。通称「お穴さま」。こけむした石碑や小さな赤い鳥居、キツネの置物がずらりと並ぶ』。『神社の縁起によると、キツネは姿を消す際、歌を書き残したという。「みどり子の母はと問はば 女化の原に泣く泣く臥(ふ)すと答えよ」。ふと、林の中から悲しげな表情のキツネが現れそうな気にさせられた』とある。さらに、驚くべくは、「女化原」「茨城県牛久市内」というのは、寧ろ、この後者であることが判明するのである。この女化神社のある区画が竜ケ崎の飛地であることは、以上の記事に書かれてあるが、そこを囲む地区は、なんと! 茨城県牛久市女化町(おなばけちょう)なのだ! 現在もこの地区は田園であるが、「今昔マップ」の戦前の地図をみれば、『女化(ヲナバケ)』の付近は針葉樹と僅かな田圃が広がっており、そこに未だ懐かしく『女化稻荷』とある(北直近にも神社があるが、下方がそれ)。見ると、東に『稻敷』の地名、南に『稻荷新田』の地名が確認でき、神社の南西にはおどおどろしい『蛇沼』もある。思うに、「女化原」のルーツは、ここが本家本元のように思われてくるのである。

「右覚右衛門は今に代々覚右衛門とて、顔永《かほなが》にて口とがりたり。狐の子孫故にや侍ると、村夫《そんぷ》の物語りいぶかしけれど、その辺の者共数人《すにん》の申口《まうしぐち》同じければ、正説《せいせつ》ならんか」これ、なななかクルものがある。

「右の碑もあり」現存しないでしょうか?]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「尾長馬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

  尾長馬【おながうま】 〔譚海巻八〕酒井雅樂頭(うたのかみ)に尾の長き馬有り。長さ七間有りといふ。公儀にも壱疋あれど、この尾の長さに及ばず。雅楽頭至つて秘蔵ありて、五六日に一度づつ尾を洗ひ、毛の数を数へ置くほどの事なり。猥りに抜きとる事を禁ぜらる。厩別当尾の毛ぬくる事あれば、そのたび毎に申上候ほどの事なり。駿馬にて上手の人騎走(のり)らしむるときは飛ぶが如く、尾地につかずして駈け、馬場の隅に乗詰め、四角に馳せて隅より隅へ乗廻すとき、尾はなほこのかたすみに残りて有りといふ。尋常にも尾の長き馬はあるものなれども、五間までは見たる事あれども、七間といふにおよびたるは、いまだ見ざる事といへり。

[やぶちゃん注:事前に正規表現で注も附して「譚海 卷之八 酒井雅樂頭殿の馬の事 (フライング公開)」で公開しておいた。]

譚海 卷之八 酒井雅樂頭殿の馬の事 (フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 酒井雅樂頭(うたのかみ)に、尾の長き馬、有り。

 長さ、七間、有りといふ。公儀にも壹疋あれど、この尾の長さに及ばず。

 雅樂頭、至(いたつ)て祕藏ありて、五、六日に一度づつ、尾をあらひ、毛のかずを數へ置くほどの事なり。

 猥(みだり)に拔(ぬき)とる事を禁ぜらる。

 厩別當(うまやべつたう)、尾の毛、ぬくる事あれば、其度(そのたび)ごとに、申上(まうしあげ)候ほどの事なり。

 駿馬(しゆんめ)にて、上手(じやうず)の人、騎(のり)はしらしむるときは飛(とぶ)がごとく、尾、地につかずして、はしる。

「馬場の隅に乘詰(のりつめ)、四角に馳(はせ)て、隅より、隅へ、乘𢌞(のりまは)すとき、尾は、なほ、此かたすみに殘りて有(あり)。」

といふ。

「尋常にも、尾の長き馬は、あるものなれども、五間までは、見たる事なれども、七間といふにおよびたるは、いまだ見ざる事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:この尾長馬、見てみたかったなぁ……。

「酒井雅樂頭」本書の完成(跋文に寛政七(一七九五)年夏のクレジットがあり、過去二十年間の筆録を纏めたものとある)から考えて、雅楽頭酒井家で播磨姫路藩第二代藩主酒井忠以(さかいただざね 宝暦五(一七五六)年~寛政二(一七九〇)年)か、寛政二(一七九〇)年、十二歳の時に父の死により家督を継いだ、彼の長男で第三代藩主酒井忠道(ただひろ/ただみち 安永六(一七七七)年~天保八(一八三七)年)の孰れかであろう。

「七間」約十二・七三メートル。

「五間」九・〇九メートル。]

2023/09/02

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「お七の墓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 お七の墓【おしちのはか】 〔一話一言巻二〕瀬名貞雄云ふ。八百屋於七が墓、小石川円乗寺<東京都文京区内>にあり。上に梵字ありて、妙栄禅定尼とあり。この碑古き碑にて、先年火災の時中より折れたりしを、そのまゝ上にのせてあり。また右同様に、銘も切りて立像の弥陀を彫刻せし新らしき碑、その側にあり。これは近頃建ちたる碑なり。予この故を尋ねけれども、しれず候ひしに、ある人語つて曰く、円乗寺の住持答へて云ふ。駒込<文京区内>天沢山竜光寺は、京極佐渡守高矩の菩提所にて、かの家の足軽など、度々墓掃除に通ひたりし。何某とかいひける足軽、ある夜の夢に、かの墓掃除に参りける心地にて、小石川馬場の辺を夜深に通りけるに、雞《にはとり》一羽出たるをみれば、頭は少女の首にて形雞なり。かの足軽の裾を喰へて引きける故、その故を尋ねしに、小女のいふ。はづかしながら、吾は以前火罪に行はれし八百屋の七といふ者なり、今以て此《かく》の如く浮《うか》み申さず候故、跡弔ひ給はれと頼みけるを、夢の心地にてうけがひたり。夢さめて思はざる夢を見し事と思ひたりしに、この夢三夜うちつゞきてみしまゝに、今は忍びあへず、駒込吉祥寺<文京区本駒込>に行きて尋ねけるに、これは小石川円乗寺へ行きて尋ぬべしとあいさつありし故参りたりとて、円乗寺ヘ件《くだん》の足軽尋ね来し故、いかにも七が墓は在るといへども、火災の節折れたりしが、無縁のもの故、たれか再興すべきと空しき体《てい》に候と住持答へしに、右足軽墳墓を新たにたて、立像の弥陀を彫刻させ、お七が法名を切らせ、立てそへて、法事料を納めて法事を頼みけるよし。いかなる因縁にて彼が夢にみえ、法会《ほふゑ》行ひける事かしれず。その後はかの足軽も見えずと、円乗寺住職物語りの由。

[やぶちゃん注:「一話一言」(いちわいちげん)は大田南畝著の随筆。既出既注だが再掲すると、全五十六巻であったが、六巻は散佚して、現存しない。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いたもので、歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「お七墓」である。彼女については、当該ウィキを見られたい。話としてはよく知られているが、ここで問題になっている墓を含め、いろいろと疑義がある。一応、処刑されたのは、天和三年三月二十八日(一六八三年四月二十四日)とそこにはある。

「瀬名貞雄」(享保元(一七一六)年~寛政八(一七九六)年)は幕臣で故実家。寛延元(一七四八)年に大番組士となり、天明二(一七八二)年、番を辞して、小普請組に入った。その後、寛政元(一七八九)年に、抜擢されて奥右筆組頭格となり,「藩翰譜続編」の編纂を命じられたが、事業半ばにして没した。武家故実に詳しく、徳川幕政初期からの歴史や江戸の地理を考究した。大田南畝と親しく、天明五(一七八五)年から寛政二(一七九〇)年にかけて、南畝の質問に対し、瀬名が回答したやりとりを纏めた「瀬田問答」(らいでんもんどう)が残る。

「小石川円乗寺」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。お七が男を見初めた発端となる、火災で避難した寺。

「駒込吉祥寺」ここ。井原西鶴が「好色五人女」でお七が前記の避難した寺として設定した寺。

「天沢山竜光寺」ここ。前の吉祥寺の南南西直近である。

「京極佐渡守高矩」讃岐国丸亀藩第四代藩主で丸亀藩京極家第六代京極高矩(たかのり 享保三(一七一八)年~宝暦一三(一七六三)年)。前の竜光寺の地図に丸亀京極家墓所がある。]

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」改訂開始

次いで、二〇〇八年の古いサイト版の、

の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂に入った。

怒濤の魚類の再検証の始まりだ――

寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の全面改訂終了

二〇〇八年の古いサイト版の、寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の原文・訓読・私のオリジナル注の全面改訂を終わった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「御先狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 御先狐【おさきぎつね】 別名尾裂狐。飼馴らすと飼主の命令により種々の神変不思議なことをするという妖狐 〔梅翁随筆巻一〕上州におさきといふ獣、人に取付き居るなり。この家の血筋を引きたるものは、いかにすれども離るる事なし。この血筋を切屋ものといふ。縁組など殊に吟味するなり。この血筋にあらずとも、その家の道具を外の家へ入るれば、則ちおさき付添ひ来るなり。食を毎日与ふれば害なく、怠る時は差別なく喰ひ尽し、若《も》し怒りを発する時は、いろいろの仇をなし、果《はて》はその人の腹内に入りて、終《つひ》に喰ひ殺すといふ。されば伝へてその筋を嫌ひ恐るゝ事甚し。しかるにその血筋の者にても、江戸へ出れば忽ちおさき離れて、少しも付添ひしたがふ事能はず。関八州の司《つかさ》たる王子稲荷有る故なりとて、上野にてはいひ伝ふといへり。〔反古のうらがき巻二[やぶちゃん注:「巻一」の誤り。]〕鎗術師範伊能一雲斎は、予〈鈴木桃野〉が先婦の叔父なりけり。築土下《つくどした》に住す。門人もあまたもてり。そのあたりに御旗本の門人ありて、その若党も門人なり。劒術も相応に出来たるよし。一日忽然と狂気して大太刀引抜き、あたるを幸ひに切りまくる。主人も是非なく奥口を引締め、門を鎖して、狂人一人玄関より表座敷、中の口のあたりを狂はせて、出向ふ者もなし。主人より使を以て伊能へ申越すやうは、御存じの家来某狂気致し、白刃を振廻し手に余り候なり、主人より願ひ侍るとなり。伊能聞きて、これは存じもよらぬ御頼みなり、それがしこれ迄鎗術師範はいたせども、人を相手に無手取をせん心懸けなし、併《しか》しながら折角の御頼みなれば、それがし先づ切られに参り申すべし、各々方すかさず御取押へなさるべしと、常の衣服に一刀を帯びて、使の人とともに門より入り、玄關に案内を乞ふ。狂人、その声とともに走り出で、玄関にて、大言《だいげん》して、誰にてもこの内へ入らん者は真二つなるべしといひて、白刃を提げて玄関の敷台に腰かけたり。伊能は何気なき体《てい》にて玄関に通り、右の狂人と推し並べてむづと坐す。狂人思ひの外、取りもかゝらず、この刀の切れあぢ、今日こゝろむべしとて振廻し、スウチ[やぶちゃん注:「素打」。]などして狂ひけり。伊能斜目に見やりて、寸少々のびたれば[やぶちゃん注:「刀が、現在の自分が使うのに最も適した長さより、ごく僅かに長いと」。]、思ひの外用に立たぬ事あるものぞかし、心して遣ひねといひければ、いや吾には手頃なりといふ。見せ玉へといへば、いざとて出しけり。刀請取るとその儘遠く投げ捨て、取ておさへて組伏せたり。その時人々片影より一時に走り寄《よつ》て、終に取押へける。この事評判となりて、伊能は無手取の名人など言ひあへりしよし、伊能大いに憂ひ、狂人を相手に無手取をする不覚者やあるとて、いろいろと、無手取に非ず、頼まれたれば是非なく命を捨てに出で、すき間ありし故、手取にせし事なり、努々(ゆめゆめ)無手取などいふ事云ふべからずと制しけるよし。その後これも門人の宅に狐出で、妖怪やむ時なし。何卒先生の武威を以て鎮め給はれと申入る。伊能聞て、これは目に見えぬ鬼神との争ひ、鎗劒のほどこす所なし、修験にても頼み玉へといひて断われども、取用ひず、先づ兎角に一夕来りて見届けて玉はれかしとて、終に引連れてその家に往けり。(水道橋と聞えし)折節冬の事なり。夜も永ければ、先づ内に入《いり》て四方山《よもやま》の物語りして、一時余を経れども何もなし。主人大いに喜びて、さてこそ先生の御武威に恐れしか、一向に怪異なしとて皆一同に称しけり。伊能は心の内に、未だ勝負もせぬ相手に恐るゝといふ道理なし、今に出《いづ》るに疑ひなし、余りに左様のことはいふまじき事と制して、また四方山の話に時移り、四ツ<午後十時>過頃になる迄、何の事もなければ、今は家路におもむくべし、先づ今夜は径異なし、少しは吾来りし故にても有るやと思ふ心出《いづ》ると均しく、二貫目[やぶちゃん注:七・五キログラム。]ばかりの大石、伊能が鼻の先を掠めてどうと落つ。これはと人々驚く間に、茶椀火鉢飛び廻り、やゝ静まると思ふに、盆に盛りたる蜜柑一つづつにころげて、牀《とこ》の間の下に並ぶ。最後に盆ころげ出で、牀の間の上に上ると均しく、右の下に並びたる蜜柑十五六、次第々々に飛び上り、元の如く盆の上に山形に積上りたり。伊能面目なくて、吾は最初よりかくあらんと思ひつるに、果して夜の深るに随ひ怪異あり。宵の間《あひだ》の静かなりしは、あてにならぬ事と思ひけることよと申して立帰りけるとぞ、自から語りけるよし。されども一念の慢気に、百魔是れに乗ずるよしは、武人の常套語なれば、この話をかりて心の油断、慢心を戒しめし作り話かもしらず。但し尾崎狐の怪異は珍らしからず。〔同〕青梅《おうめ》海道[やぶちゃん注:ママ。]に阿佐ケ谷<現在の東京都杉並区阿佐ケ谷>といふ村あり。堀之内より二十町程あり。その名主にを喜兵衛といふ。叔氏酔雪翁の婦《つま》の姻家《さとつづき》なり。別家あり、同村にあり、虎甲[やぶちゃん注:「とらかつ」か。屋号か通称。]といふ。その家に妖怪出で、四月下旬より八月に至る迄止まず。七月下旬、酔雪翁が末子《ばつし》弟次行きて見しに、この日はさしたることなし。梁上より銭一文を抛《なげう》つ。暫くして縁の下より竹竿を出し振廻す。この外怪しきこともなかりしよし。その後八月に至つて消息を問ふに、猶怪しきこと言ひ尽すべからず。或人宝劒のよしにて一刀を持来《もちきた》るに、宝劒自《おのづか》ら抜け出で飛びあるく。人々驚き、箒を以て打落し、からくして室《へや》に収め、面目《めんぼく》なく逃げ帰る。また或人蟇目《ひきめ》の法を修《しゆ》したるよしにて来りしが、これも弓を射たるまゝ、棒しばりの如く、作り付けたる人形の如く、放つ事能はず。梢〻《やや》暫くして力尽きてゆるまりければ、また赤面して逃げ去るよし。その外単衣《ひとへ》を腰より切離ち、半てんとなし、別なる半てんの下に、右単衣の下を綴り付けたる様、人工と殊なることなし。また飯櫃に入れたる牡丹餅《ぼたもち》は蓋せし儘に失せ、茶釜の茶は水となり、又、沸湯となり、見る間にかはる。茶碗宙を飛び、煙草盆天井に付くなどの説、尽し難しといふ。予小野竹崖を訪ひて、談(ものがたり)これに及び、いふやう、子は射術の師範なれば、定めて蟇目を行ふこともあるべし、右の説虚説ならばよし、もし実《