南方閑話 巨樹の翁の話(その「九」)
[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。
これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。]
九
「法苑珠林」八〇に云く、『漢の哀帝の建平三年、零陵に樹あり。量地(何のことか分からぬが先《まづ》は「根本の」てふ義か)、圍み一丈六尺、長《ながさ》十四丈七尺。民、其本《もと》、長さ九尺餘を斷つに、皆、枯《か》る。三月《みつき》の後ち、樹、本《もと》、自《おのづか》ら故處に立つ。』と。根本を切つて置《おい》たのが、元の處へ戾つて、自ら立《たつ》たのだ。
[やぶちゃん注:「法苑珠林」(ほうおんじゅりん)は唐の道世が著した仏教典籍の類書(百科事典)。全百巻。六六八年成立。引用する典籍は、仏教のみならず、儒家・道教・讖緯・雜著など、実に四百種を超え、また、現在は散逸してしまった「仏本行経」・「菩薩本行経」・「観仏三昧経」・「西域誌」・「中天竺行記」なども引用しており、インドの歴史地理研究上でも重要な史料となっている(以上はウィキの「法苑珠林」に拠った)。
「漢の哀帝の建平三年」紀元前四年。
「零陵」現在の湖南省南西部及び広西チワン族自治区北東部に跨る地域に置かれた旧郡名。この附近(グーグル・マップ・データ)。]
一八七六年板、ギル師の「南太平洋之神誌及歌謠」八一頁已下に、「鐵木《てつのき》」の話あり。鐵木は、わが邦に、稀に栽える木麻黃《もくまわう》や常磐御柳《ときはぎよりう》の一類で、南太平洋では、其木の堅きを武器に利用する。
[やぶちゃん注:『ギル師の「南太平洋之神誌及歌謠」』今までの南方熊楠の電子化で、二度ほど出ているが、不詳。識者の御教授を乞う。
「木麻黃」ブナ目モクマオウ科 Casuarinaceaeの木。当該ウィキによれば、『熱帯の砂浜で「マツ」と間違われる植林は、モクマオウの場合がある』但し、『マツとは類縁は薄い』。『乾燥に適応し、海岸や乾燥地に多い。根にはフランキア属の放線菌が共生し』、『窒素固定している。葉は鱗片状で輪生し、トクサ類のようにも見える。花は単性。雌花は無花被で苞に囲まれ、花序は球果状になる。雄花も痕跡的な花被と雄蕊各』一『個しかなく、花序は尾状』を呈する。『オーストラリア、マレーシア、ニューカレドニア、フィジー、マスカレン諸島に分布する。日本には元来』は『自生しないが、南西諸島、小笠原諸島に導入されたものが野生化している』とある。
「常磐御柳」前注のモクマオウ科の常緑高木。オーストラリア原産で、熱帯地方では海岸の砂防林や街路樹として広く利用され、日本では、観賞用に栽植される。高さ十~三十メートル。枝は糸状で、六~八稜があり、節が多く、淡緑色を帯びる。葉は小さく、鋸片状で、節に輪生する。初夏、新枝の先に長さ一~一・五センチメートルの淡紅色の雄花穂をつける。雌花穂は、短かい柄を持ち、頭状で、雄花と同じ枝の基部につく。球果は径一~一・五センチメートルで木質化した苞に包まれる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]
彼《か》の話は、昔し、トンガ島から始めて、鐵木を、マンガイヤ島に移植し、年を經て、大きく成つた時、オアランギなる者、四友と、之を伐つて、武器に作ろうと企て、ヴオテレ鬼、この木の精だから、よせ、と諫める人あるも、聞入《ききいれ》ず、夜、炬《たいまつ》を燃して、其四つの大根《おほね》を、四人して、切つて𢌞《まは》るに、殆ど斷えた根が、往《いつ》て見れば、復《ま》た、合ひ居《を》る。親分オアランギに告《つぐ》ると、「四人が、あちこち、切つて𢌞らず、毎人《ひとごと》[やぶちゃん注:当て訓した。]、一根を、斧で切つて了《しま》ふ迄、やり續けろ。」と言《いつ》た。其通り、實行して、切り倒し終り、明日、又、來る積りで、歸ろうとすると、四人共《とも》、血を吐き始め、其血、鐵木の内膚《うちはだ》の赤きに、異ならず。二人は、死んで了《しま》ふた。跡の二人と、親分と、昨夜、木を切《きつ》た所を望むと、木は切らぬ昔と變らず、聳え居《を》る。立歸《たちかへ》つて、吟味するに、斧の痕も無《なけ》れば、散在《ちりあつ》た屑も、見えず。只、前に異なつたは、幹も、枝も、葉も、赤く光りて、氣孔毎《ごと》に、血を流して、怒る者の如し。一同、驚いて、家に歸る中《うち》、生《いき》殘つた二人も、死んだ。オアランギ、今度は、「晝間、伐るべし。」迚《とて》、多くの友を伴つて、其木を尋ねたが、一向、見えず、空しく歸つて、直後、死んで了つた。斯《かか》る處に、此木の原產地より、オノといふ人が來た。此人、出立《しゆつたつ》に臨み、父より、鐵木作りの鍬一本、授かり、携へた。此人、其鍬を以て、鐵木の𢌞りを掘り𢌞るに、四《よつ》の大根《おほね》を傷つけず、他の細根を、詳しく尋ねて、悉く、切つた。そこで、樹が搖《うご》き出すに及び、終《つひ》に、殘つた親根を切ると、樹精ヴオテレ、怒りの面貌、恐ろしく、口を開き、齒を露はして、飛《おtび》懸るを、オノ、鍬を以て、其頭顱《とうろ》を打破《うちやぶつ》た。其より、四本の大根を切《きり》離す。是れ、實はヴォテレの肱《ひぢ》だつた。扨《さて》、ヴオテレの體を、三分して、長鎗《ながやり》と頭顱割りと、木劍とを、作つた。此鐵木の細根を切た時、飛び散つた屑片《くづ》が、諸處に飛《とび》落《おち》て、現在の多くの鐵木が生《はえ》たと云ふのだ。外國の話で、是が、尤もよく吾が巨樹の翁譚《おきなたん》に似て居《を》る。