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2023/09/19

南方閑話 巨樹の翁の話(その「八」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        

 

 木を伐《きつ》ても其創《きず》が本《もと》の如く合ふと云ふ例を、唐の段成式の「酉陽雜爼」から、後藤氏が見出だして、『土の鈴』一三輯八四頁に載せられたが、他の支那書にも、例、無きに非ず。「淵鑑類函」四一五に、「神異經」を引いて、東方に、豫章樹、有り、高さ千丈、工《たくみ》あり、斧を操《あやつ》り、旋《めぐ》り斫《き》れば、旋り合《あは》す。『增訂漢魏叢書』八八に收めた「神異經」の文は、之に同じからず。東方荒外に、豫章樹、有り、此樹、九州を主《つかさ》どる。其高さ千丈、圍《かこ》み百尺云々、枝ごとに一州を主どり、南北に並列し、面《おもて》、西南に向ふ。九力士有《あり》て、斧を操つて、之を伐り、以て、九州の吉凶を占ふ。之を折れば、復《また》生ず。生ずれば、其州、福有り、創つけば、州伯、病む有り、歲を積んで、復《ふく》せざる者は、其州、滅亡す、と有る。是は、東方未開の地に、大きな樟樹、有り、九つの枝、有《あつ》て、それぞれ、九州の一つを代表する。力士九人、斧で、此枝を斫つて、九州の吉凶を占ふに、斫られた枝が、復《また》生ずれば、其枝に當つた州に、福、有り、創つく時は、其州の領主が病む、斫取《きりと》られて、歲が立つても生ぜざれば、其枝に代表さるゝ州が亡びると云ふので、「五雜爼」十に、曲阜孔廟中の檜の盛衰は、天地の氣運・國家の安危を示す如く論じ、『大英百科全書』に、或る木が枯《かる》れば、或人が死すてふ迷信を列ねてゐる類《たぐひ》だ(十一板、廿七卷二三六頁)

[やぶちゃん注:以上の本文の数箇所は底本(ここから)に、「選集」に拠る追加を加えてある(「『土の鈴』一三輯八四頁に」の部分は底本にない書誌である)。一部の本文に不審があり、それも「選集」を参考に私が正しいと判断した修正を施した。

「後藤氏」「選集」に後藤捷一とする。後藤捷一(明治二五(一九八二)年~昭和五五(一九八〇)年)は徳島市に生まれの染織書誌学の研究家。徳島県立工業学校卒業後、直ちに大阪に出て、染料の研究を始めた。染織関係の業界誌を編集する一方、染織を主体にした文献を収集し、「日本染織譜」等、数多くの文献を残し、晩年には約七十年に亙って集めた資料や文献を整理し、室町から明治中期までの計六百七十一点からなる「日本染織文献総覧」を纏めている。また、藍の研究でも著名で、特に阿波藍の研究では第一人者であった(「独立行政法人国立文化財機構『東京文化財研究所』」公式サイト内の「物故者記事」のこちらに拠った)。彼が『「酉陽雜爼」から』『見出だし』たとする内容は、記事が判らないので、同定不能であるが、思うに、章末の同書の引用がそれか。

『「淵鑑類函」四一五に、「神異經」を引いて、……』「淵鑑類函」は南方熊楠御用達の清代に編纂された類書(百科事典)。康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成したもので、一七一〇年成立。当該部は「漢籍リポジトリ」のこちら[420-24b]及び[420-25a]で電子化されたものと、影印本画像を見ることが出来る。「神異經」は中国の古代神話に基づく「山海經」(せんがいきょう)に構成を倣った幻想地誌。著者は漢の武帝の側近東方朔とする説があるが、現在は後世の仮託とされている。

「豫章樹」今まで何度も出たクスノキの漢名の一つ。

「九州」中国全土を指す古称。夏禹の時代に、全域を九つに分けたことに由来する。「書経」の「禹貢」によれば、冀(き)・兗(えん)・青・徐・揚・荊・予・梁・雍を指す。]

 扨《さて》、馬琴が「燕石雜志」に言つて居《をつ》たと記臆する通り、古書の文を孫引きして、其現存の本を見ると、多少、違ひ居《おつ》たり、或は、全く見えぬ例が多い。右述、「神異經」の文も、現存のよりは、「類函」に引《ひい》た方が古いらしく、「神異經」、果たして東方朔の作なら、切れた木の疵が、復た、合うふ譚中、是が、最も古い者であらう。又、是も『增訂漢魏叢書』本に見えぬが、「類函」には、「高士傳」から、巢父《さうほ》、許由が、堯の徵辟を辭して、耳を河に洗ふを見て、由に語り、『豫章の木、高山に生ず。工、巧みなりと雖も、得る能はず。子、世を避くるに、何ぞ深く藏(かく)さざる。』と言つた、と有る。古支那で、樟の木は、至つて得がたい物だつたので、神怪の說も、特に多かつたと見える。件《くだん》の巢父は、年老いて、樹を以て巢《すみか》となし、其上に寢た故、時人、「巢父」と號《なづ》けたと云ふ。支那の上古、有巢民、有り、木を構へて、巢と爲し、住み、木實《このみ》を食ふた(「十八史略」一)。今も木の上に小屋を作り住む民族あり(一九〇六年板、スキート及ブラグデン「マレー半島野敎民種篇」一ノ一八一と、一八三頁に面する圖參照)。そんな人間は、殊に、大木を重んずる筈だ。

[やぶちゃん注:「燕石雜志」馬琴の考証随筆。本名の滝沢解名義で文化八(一八一一)年刊。私は吉川弘文館随筆大成版で所持する。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で原本が総て視認出来る

「巢父、許由が、堯の徵辟を辭して、耳を河に洗ふを見て」「莊子」の「逍遙遊」や「史記」「燕世家」等でよく知られた話。許由が、聖王帝堯から、その高徳を認められ、天子の位を譲ると言われたが、それを固辞し、逆に「汚い話を聞いた。」と、潁川(えいせん)の水で耳を洗った。すると、そこへ牛に水を与えるために通りかかり、許由の耳を洗う理由を聞くと、「汚れた水を、牛に飲ませるわけにはゆかぬ。」と言って、その場を去ったのが巣父であった。

『一九〇六年板、スキート及ブラグデン「マレー半島野敎民種篇」一ノ一八一と、一八三頁に面する圖參照』イングランドの人類学者ウォルター・ウィリアム・スキート(Walter William Skeat 一八六六年~一九五三年:主にマレー半島に於ける民族誌の先駆的調査に取り組んだことで知られる)と、同じくイングランドの東洋学者・言語学者であったチャールズ・オットー・ブラグデン(Charles Otto Blagden 一八六四 年~一九四九年:マレー語等、東南アジアの言語に精通し、特にビルマ語のモン文字とピュー文字の研究で知られる)が共同執筆した‘Pagan Races of the Malay Peninsula’(「マレー半島の異教の民族」)。「Internet archive」の原本のこちらで当該本文が、挿入された南方熊楠の指示する写真画像がここで見られる。

 以下の章末の段落(全漢文)は、底本では、ポイント落ちであるが、読み難くなるので、同ポイントで示した。その代り、一行空けた。「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合した。問題無し。]

 

 酉陽雜爼曰、舊言、月中有桂、有蟾蜍、故異書言、月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創隨合、人姓吳、名剛、西河人、學仙有過、謫令伐樹、釋氏書言、須彌山南面、有閻扶樹、月過樹、影入月中、或言、月中蟾桂地影也、空處水影也、此語差近。〔「酉陽雜爼」に曰はく、『舊(ふる)くより言ふ。「月中に、桂、有り、蟾蜍(ひきがへる)有り。」と。故に、異書に言ふ。「月の桂は、高さ五百丈、下に、一人、有りて、常に、之れを斫(き)るに、樹の創(きず)は、隨(したが)ひて、合(がつ)す。人、姓は吳、名は剛、西河の人なり。仙を學びて、過ち有り、謫(たく)せられて、樹を伐らしめらる。」と。釋氏の書に言ふ。「須彌山の南面に『閻扶樹(えんぶじゆ)』あり。月の、樹を過(よぐ)るに、影は、月の中(うち)に入る。」と。或いは、言ふ。「月中の、蟾(ひきがへる)と、桂は、地の影なり。空(くう)なる處は、水の影なり。」と。この語(ことば)差(やや)近(あた)れり。』と。〕

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