柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪魚万歳楽」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
か
怪魚万歳楽【かいぎょまんざいらく】 〔月堂見聞集巻七〕去る正徳二年三月中旬、江戸深川<東京都江東区内>へ出る魚、長さ七尺、惣身鼠いろ、毛の長さ七寸、頭《かしら》鼠の如し。目赤し。惣身に毛あり、髭あり。尾は二岐《ふたまた》にして燕の如し。ひれもあり。右の魚は竹中主膳殿地下《ぢげ》の猟師が、四ツ手網にかゝり上る。則ち主膳殿の見参に備ふ。御城ヘ献上、この魚の名知れず。折節近衛太閤在江戸、御覧の後、万歳楽と名御付け遊ばされ候由。
[やぶちゃん注:「月堂見聞集」「蟻が池の蛇」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集 第一」(大正元(一九一二)年国書刊行会編刊)のこちらで当該部が視認出来る(右ページ下段中央)。
「正徳二年三月中旬」グレゴリオ暦一七一二年の四月十六日から四月二十五日相当。
「江戸深川」<東京都江東区内>へ出る魚、長さ七尺、惣身鼠いろ、毛の長さ七寸、頭《かしら》鼠の如し。目赤し。惣身に毛あり、髭あり。尾は二岐《ふたまた》にして燕の「竹中主膳」不詳。
「この魚の名知れず」アザラシ・オットセイ・アシカなどの哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目の鰭脚類 Pinnipediaであろうとは思われる。体色からみると、絶滅してしまったニホンアシカ Zalophus japonicus は、背は黒いが、それ以外は暗褐色で、ちょっと分が悪いものの、後脚を二つに綺麗に分けて屹立することが出来るので、外せない。逆にアザラシは後脚が不揃いで、でろんとしており、立つことはできない。耳介を語っていない点では、オットセイの分が悪い。個人的には、本邦に周辺に広い棲息域を持っていたニホアシカを比定したい欲求にかられる。体色が黒く、目が赤いというのは、皮膚の変質と充血で、当該生物の通常の特徴というよりも、既に弱っていた個体だった可能性があろう。
「近衛太閤」近衞基熙(慶安元(一六四八)年~享保七(一七二二)年)は摂家。関白近衛尚嗣(ひさつぐ)の子。承応二(一六五三)年に父が没したが、六歳の庶子でありながら、後水尾法皇の配慮により、無事に家督を相続、以後、法皇の影響を受けながら成長した。延宝五(一六七七)年に左大臣に昇進するが、霊元天皇と、悉く意見が合わなかった。元禄三(一六九〇)年、関白に就任し、やがて、東山天皇の信任を得て、朝廷第一の実力者となり、宝永六(一七〇九)年には、公家として江戸時代になって実に最初の太政大臣に任ぜられた。長女の煕子(ひろこ)は第六代将軍徳川家宣の御台所となり、この縁で家宣や間部詮房(まなべあきふさ)らと親交を深め、翌宝永七年から、二年間に亙って、江戸に滞在し、閑院宮創立にも寄与した。和歌や有職故実などへの造詣が深く、書画にも秀でた当代一流の文人でもあった。享保七年六月に出家し、同年九月に死去した(小学館「日本大百科全書」に拠った)。この時の江戸下向は、当該ウィキに、宝永七(一七一〇)年に、二度目の『江戸下向を強行し、再び』、『家宣・熈子夫妻と会見』し、『それから』二『年以上もの間』、『神田御殿に滞在し、将軍や幕閣から政治・有職などの諮問を受けた。これは新井白石が朝鮮通信使の問題や儀礼問題について基熈の意見を求めたからだとされているが、一方、東山上皇の余りにも突然の急死により』、『霊元上皇の院政再開が確実となったことで、基熈としても』、『朝幕関係の再構築と』、『東山上皇の生前の意向であった新宮家(後の閑院宮)創設問題の早期実現を願う立場から望んでいた江戸下向でもあった。こうした基熈の関東接近を憎んだ霊元上皇は、下御霊神社に呪詛の願文を自ら認め(霊元院宸筆御祈願文)』とあったのが、それである。
「万歳楽」ネットの小学館「日本国語大辞典」精選版のこちら(私は実物の正規の小学館「日本国語大辞典」を持ってはいるが、挿絵を見せるためにこちらを採った)に、『雅楽の曲名。唐楽、平調の曲。舞楽でも演奏される。左の平舞で舞人は四人、まれには六人で襲(かさね)装束を着けて舞う。祝賀の宴に用いられた。右舞の延喜楽と共に平舞の代表的なものである』とあって、その装束を画像で挙げている。私は当初、記紀の古代より、奇獣が献上された際には、それが如何なる奇体な生物や物体であっても、凶兆とはせず、一種の御霊信仰的に逆にそれを瑞兆として祀ったり、名指したりしたのと同じことを、近衛はしたのではないかと思っていたが、ご覧の通り、その装束が、その生物に似た形だからであろうと、思わず、膝を打ったのであった。見られたい。]
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