柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「神遊行」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
神遊行【かみゆぎょう】 〔甲子夜話巻十二〕或人の曰く、三十五六年前柳川侯(筑後の領主)の [やぶちゃん注:一字空けはママ。組版ミスか。]公族大夫に立花某と云ふあり。その領せる所を矢部と云ふ。この地古は八女県(やめのあがた)と云ひしなり。また八女国とも云ひしこと『日本紀』に見ゆ。その山は侯の居城の後まではびこりし高山と云ふ。或日大夫の臣某、山狩に鳥銃を持ち、払暁に往きしに、常に行馴れたる路、殊の外に異香薫じたれば、怪しみながら向うさして行くほどに、丈ばかりも生立ちたる茅原《かやはら》の人もなきに左右へ自ら分れ、何か推分けて山を下るさまなれば、傍へに寄りてこれを避くるに、人は無くて地を離るゝこと八九尺と覚しきに、端厳微妙、誠に絵がけるが如き天女の、袖ふき返しながら麓をさして来るなり。因て駭き鳥銃を僵《たふ》し平伏してありしが、やがて一町も過ぎたりと覚しき頃、人心地つきて山に入り狩りくらしたれど、一物をも獲ずして復もとの路に回るに、麓の方よりまた茅左右に偃《ふし》て今朝のさまなれば、路傍に片寄り避けてあるに、かの天女は奥山さして還り入りぬ。人々奇異の思ひをなしたりとなり。また彼《か》の藩の臼井省吾と云ひしは博覧の士なりしが、これを聞きて、それぞ『日本紀』に見ゆる、筑紫後国の八女県の山中に在《ま》すと云ふ八女津媛(やとめつひめ)ならんに、今に至りて尚その神霊あることなるベし、『景行紀』云ふ、「十八年秋七月辛卯朔甲午(四日也)到二筑紫後国御木一居二於高田行宮一、丁酉(七日也)到二八女縣一、則越二前山一、以南望二粟岬一、詔ㇾ之曰、其山峰岫重畳、且美麗之甚、若神有二其山一乎、時水沼県主猿大海奏言、有二女神一、名曰二八女津媛一、常居二山中一、故八女国之[やぶちゃん注:ここにあるはずの「名」が誤記か誤植か判らぬが、脱字している。]由ㇾ此起也」 [やぶちゃん注:一字空けはママ。]これを証すべし。また八九十年にも過ぎん。予<松浦静山>が中に大館逸平と云ヘる豪気の士あり。常に殺生を好み、神崎と云ふ処の(平戸の地名)山谿《さんこく》に赴き、にた待ちとて鹿猿の澗泉に群飲するを、鳥銃を以て打たんとす。このわざはいつも深夜のことにして、時は十五日なるに、折しも風静月晴《かぜ、しづまり、つき、はれ》、天色清潔なりしが、夜半にも過ぎんと覚しきに、遙かに歌うたふ声きこえければ、かゝる山奥、且深夜怪しきことと思ふうちに、近く聞こゆるゆゑ、空を仰ぎ見たれば、天女なるべし、端麗なる婦人の空中を歩み来れり。その歌は「吹けや松風おろせや簾」とぞ聞えける。逸平即ち鳥銃にて打たんと思ひたるが、流石の剛強者も畏懼《ゐく》の心生じ、こむを[やぶちゃん注:「これを」の誤植。「これ」は「鳥銃」を指す。]僵《たふし》て居たれば、天女空中にて「善き了見々々」と言ひて行過ぎしとなり。これらも彼の八女津媛の肥の国まで遊行せらるゝものか。また前の逸平の相識れる猟夫も、平戸嶋志自岐神社の近地の野径《のみち》を深夜に往行せしに、折から月光も薄く、時は丑の時<午前二時>ばかりなるに、衣裳鮮明にして容貌正しき婦人に逢ひたり。猟夫乃ちこれを斬らんと思ひたるが、頻りに懼心《くしん》生じ、刀を抜き得ずして過《すご》したり。これより深夜に山谷《さんこく》をば行くまじと云ひしと語り伝ふ。またかの神遊行の類《たぐひ》か。
[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之十二 4 筑後の八女津媛の事幷神女の事」を正字で電子化注しておいた。]
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