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2023/09/12

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「勝五郎転生」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

  

 勝五郎転生【かつごろうてんしょう】 〔巷街贅説巻二〕西丸御書院番佐藤美濃守組、多門伝八郎知行所、武蔵多摩郡柚木領、中野村百姓源蔵次男勝五郎、当未<文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]>九歳に相成候。右中野村近所程久保村百姓九兵衛、後に藤五郎といへる者の子に、藤蔵といへるあり。この子二歳の時藤五郎相果て、継父半四郎代になり、六歳にして死す。(文化十年[やぶちゃん注:一八一三年。]歟)さて藤蔵を葬送する時、藤蔵心に桶へ入れられしをせっくるしく覚え、桶の縁ヘ手をかけ行きしに、既に葬穴へ納めらるゝ時、白髪を長く振乱したる翁来りて、手を引いて連れ行きたり。それより薄暗き所に在りて、年月を経しとおぼろげに思ふのみ。外の事は覚えず。只草木の花のみ見たり。その花を手折らんとすれば、鳥の来りてさまたげて折らせざりしとなり。九年の前(文化十二年)正月、白髪の翁いへるは、最早三年になりぬ、人間へ行くべしとて、源蔵が家の前へ連れ来り、柿の木の下に置ていへるは、垣の穴より内へ入るべしと、教ヘ置きて翁は立去りぬ。それより稍〻《やや》暫く様子を伺ひ、漸くにして這入りて、竃《かまど》の前に三目程居れりと覚えし。その後の事はしらずといへり。さて源蔵は老母、男女の子供ありて貧に迫り、夫婦談合して、妻事《つまこと》当春奉公すべしとて、江戸のゆかりの方へ行けり。その時勝五郎胎内に有りて、さてさて困りたる事哉《かな》と思ひしとぞ。然る処懐胎なりしかば、奉公もなりがたく家に帰りて、十月十日に男子出生す。これ則ち勝五郎なり。当未年勝五郎九歳、正月七日ふと姉に向ひて、おまへは何方《いづから》よりこの家に来り給へる、兄さまもまた何方より来給へるぞと問ひし程に、姉は心をも得ねば、何事をいふぞと云ひつゝその方は何方より来りしやと問へば、わらはは程久保村の藤五郎が子なるが、死してまたこゝへ来れり、さればおまへは何方より来給へると問ひし程に、けしからぬ事をいふもの哉、親達へ云ふべしといへば、手をすりて、告げてたもるなと、口へ[やぶちゃん注:「手を」の脱字か。]当てて誤りぬ。さるに勝五郎いたづら盛りにて、不断兄弟いさかひせし故、姉余りにこまる時は、この間の事いふぞといへば、誤り又いたづらを止めしとなり。それ故度々《たびたび》その事をいひしかば、終《つひ》に母聞付けて、何をいふのぞと問ひしゆゑ、有りつる事ども語りしによりて、母また源蔵に告げしかど、取留めぬこととて捨て置きしかど、胎内にて奉公に出づべしといふを聞きしといへる事、いかにも怪しく思へりしとぞ。その後は勝五郎ひたすら程久保村へ連れ行きて、親達にあはせ給へと度々云ひしかど、先方にていかやうの挨拶をせんも計りがたくと打捨て置きしに、それより夜毎に寝もやらず泣きしゆゑ、左様に泣くと外へ捨てるなどとおどしたれども、夜になれば泣かぬ夜なく、叱りぬれば泣きし事を一向に知らずといふ故、いよいよ怪しみ思ふに、老母のいへるは、遠からぬ所なれば我等連れ行くべし、女の事なれば何様《いかやう》の挨拶したればとて苦しからじと、廿日に勝五郎を召連れて、程久保村へ行きぬ。その道々我等が内は三軒有る家の、山の方へよりたる家なりといひつゝ、其所に至りぬれば、前に立《たち》て半四郎が家に入りけるに、半四郎家内も、兼ねて聞き及び居りし由にて、今日来るか来るかと待ち居たりとて、種々もてなしけり。さてまた廿八日は高畑不動の縁日なれば、また来よとて廿七日に、半四郎迎へに来りて連れ行きしとぞ。勝五郎父源蔵にいふは、程久保と親類になりて給はれと、ひたすら乞へども、未ださもせず、半四郎方へも今にゆかずと源蔵いへり。右は今日<文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]四月二十五日>平田大角宅にて源蔵父子に逢ひて、そのいふ所を聞きたる趣なり。<『甲子夜話二七』にも同様の文章がある>

[やぶちゃん注:この「生まれ変わり奇譚」は、恐らく、最も知られているそれで、転生したと本人が述べている超弩級の近世末に学者まで巻き込んだ奇怪な実話である。主人公は小谷田勝五郎(こやたかつごろう 文化十二年十月十日(一八一五年十一月十日)~明治二年十二月四日(一八七〇年一月五日))で、幕末・明治初期の農民である。彼が自らを再生と告白したのは、数え七歳の文政五(一八二二)年のことで、翌文政六年四月には、国学を独特の神道体系に組み込んで変容させた幽界研究家とも言うべき奇体な学者平田篤胤が強い関心を持ち、勝五郎を自身の屋敷に招いて、長期に滞在させて聴き取りを行い、それを、翌文政六年、「勝五郎再生記聞」として刊行している。文政八年には、勝五郎は、湯島天神の男坂下にあった、彼を完全に信じ込んだ強力なパトロンと化した平田が経営する国学塾「気吹舎」に入門、平田の門人となっている。私はこれを若き日に、二度、通読したが、私は、彼は一種の先天的な以上性格者或いは精神疾患者で、自身の中だけで架空の強い妄想体系を緻密に構築し、その閉鎖系の中では、自身では矛盾を全く感じない完璧な論理を駆使出来る、作話症・虚言症、ちょっと昔の言い方でよければ、対話者(精神科医)に全くラポート(フランス語ではrapport(ラポール。心理療法・調査・検査・精神鑑定などで、通常は面接者と被面接者との関係に成立する親密な信頼関係)を起こさない(精神疾患としてはその場合は根治不可能であることを意味する)稀有の「偏執狂(パラノイア)」であったと考えており、その点で、彼の証言は、徹頭徹尾、虚言であると断ずるものである。平田篤胤は自身の幽界哲学にそれを組み込み、全く無批判に(実際に一抹の不審も抱いていないように見える)信じ込み、まさしく――虚数の作話体系の体系化――に知らず知らず、手を貸してしまったのである。今も昔も、私は「勝五郎再生記聞」は、読み物としては面白いものの、勝五郎の語りは一言たりとも事実として認めないし、電子化もするつもりはない。彼に就いては、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」(オリジナル詳細注有り)があり、さらに、宵曲が最後に掲げるところの、「甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册」も、八雲のそれに合わせて、二〇一九年に電子化注公開しているので、そちらを見られたい。注は以上のリンク先で尽きていると思うので、ここでは附さない。

「巷街贅説」既出だが、再掲すると、自序に「塵哉翁」とある以外、事績不詳。寛政から安政(一七八九年から一八六〇年まで)に至る七十一年に亙る江戸市中の巷談俚謡を見聞のままに記したとされる随筆。これが事実なら、この作者は相当な長寿であったことになるのだが……。国立国会図書館デジタルコレクションの『近世風俗見聞集』第四(大正二(一九一三)年国書刊行会刊)のここ(左ページ下段中央)から正字で視認出来る。]

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