柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「案山子の怪」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
案山子の怪【かかしのかい】 〔寓意草下〕世の中に化物といふは、多くは狐・狸・貉(むじな)・猫などの、人を誑(たぶ)らかすなりけり。石仏(いしぼとけ)・朽木《くちぎ》<腐った木>などの化けていでたるを、切り倒《たふし》たるもかたり伝ふるなり。それらはものの化けたるにあらず、我心の化けたるなめり。昼はなきことなり。昼にさすらひては、いづちいぬるにも、大かたはたそがれ時にいでて、あけぼのまでありきぬ。丑<午前二時>寅<午前四時>のころにもなりて、歩行《あり》きながらねぶたくなりぬるに、つちくれいしなども、昼間より大きくみえて、動くやうにみゆるは常のことなり。海べた山なかのはらも、たびたびいきかひけれども、つひに怪しきもの見たることもなし。春の頃、せりざはといふ所を通りけり。松のいみじく生ひ繁りて、たけばかりなる柴の、いと深かりける中をわけていきけり。丑三(うしみ)つ<午前三時~三時半>ばかり、すこしくぼらなる谷のやうなる所あり。月も西にかたぶきたれば、木だちにさへられて光りもなし。いと暗きに、左の山あひ三十間[やぶちゃん注:約五百四十五メートル半。]ばかりさりて、白きつらのいとながきが、まなこ大にしてえもいはぬなりして、柴の中にたちてまねきぬ。近づきぬるまゝに見れば、馬のどくろのかれたるを竹にさして、菰(こも)のくちたるをまとひて、丈高《たけたか》き人のなり作りてありけり。その下にせばき山田の有りければ、去年《こぞ》の秋しかおどしけんそうづ[やぶちゃん注:「僧都」であろう。]のくちたるにこそありける。化物は大かたかうやうのものなるべしとかたはらいたし。
[やぶちゃん注:「寓意草」「鼬の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「三十輻」の「第三」(大田覃編・大正六(一九一七)年国書刊行会刊)で活字に起こしたものがここで(右ページ下段後ろから六行目)視認出来る。但し、漢字は使用頻度が低く、ひらがな書きである。強力なプラグマティストであるが、一般的に、誰でもだが、こうはっきりと表明してしまうと、これ以降、怪奇談を記すことは、本来ならば無効化されるので、筆者自身に拘束を与える難がある。今まで、数えきれないほど、怪奇談を読んできたが、だいたいこういうことを言いながら、後出しで怪奇談を書く輩が、殆んどで、そのリアリズムは極端に減衰し、面白く感じなくなるのである。私は基本、如何なる怪奇談も、ほぼ九割以上、疑って読む。しかし、全否定はしない。怪異は幻想の誘いであり、それを無化すれば、人生は恐らく、途轍もなくつまらないに堕することがよく判っているからである。
「貉」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」の私の注で詳しく考証しているので、読まれたい。
「せりざは」不詳。一説に作者を大田南畝の比定した説があったようだが(信用し難い)、とすれば、江戸であるが、「芹澤」の地名は調べ得ない。深夜丑三つ時のおとろしけない彷徨と、その場所は、到底、江戸市中ではない。ますます、判らない。]
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