柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「海水赤変」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
海水赤変【かいすいせきへん】 〔南畝莠言巻二〕正和壬子《みずのえね》の年四月十二日、相州の海水の色赤に変じ、西は豆州・駿州より、東は武州・総州にいたるまで、海浜三百余里の間、朱瀾丹濤、汪洋《わうやう》[やぶちゃん注:海水面いっぱいに広がること。]として漂へり。人民驚き径しみ嘆きあへりし時、虎関禅師、福山《ふくざん》に住せしが、海浜にゆきてみしに、紅の浪浩渺(こうべう[やぶちゃん注:ママ。「かうべう」が正しい。遙か遠くまで遮る物もなく広々としているさま。])としてかぎりなく、平日みる所一滴の碧《みどり》なし。禅師もこれを怪しみ、手を以て波を掬《きく》し、熟(つらつ)らこれをみるに、なほ紅の粟《ぞく》[やぶちゃん注:粟(あわ)。]を漿水《しやうすい》[やぶちゃん注:どろりとした飲み物・重湯(おもゆ)などを指すが、ここは、まず、「米のとぎ汁」=「濃漿(こんず)」の意であろう。]にひたすがごとく、黏(ねば)り滑かに粒だちて、魚の子を羹《あつもの》にしたるが鼎底《なべのそこ》に残れるに似たり。禅師紙を割(さい)[やぶちゃん注:原本『サキ』。]て水をつつみしに、その紙湿《うるほ》ふといへども破れず。携へ帰りて諸友にしめす。或ひは曰く、滄溟(そうめい[やぶちゃん注:ママ。「さうめい」が正しい。但し、原本に従ったものであろう。後注で示した原本で『ソウメイ』とルビする。])<あおあおとした海>の大変、恐らくは国家の災《わざはひ》ならん歟。禅師云ふ『玄中記』に日く、東方《とうばう》に大魚《たいぎよ》あり。海をゆくもの一日《ひとひ》魚の頭《かしら》にあひ、七日《なぬか》めにその魚の尾をみる。その魚《うを》産するときは百里の水《みづ》血となると、恐らくはこれならん。何の災《わざはひ》かあらんとありしが、三日の後《のち》、もとの碧《みどり》にかへりて四海無事なりきと、僧虎関の『済北集《せいほくしふ》』にみえたり。そののちいく程なくて、元弘・建武の乱おこれり。四海事《こと》なしともいふべからず。 〔一話一言巻四十八〕同年<延宝七年>三月五日の朝、奥州宇多《うだ》郡のうち加佐古といふ浦、これ相馬ざかひなり。その浦の海《うみ》幅はやうやう一町[やぶちゃん注:百九メートル。]余、ながさ南へかぎりしらず。北へは津々志浜といふ、五郡をさかひてことごとぐ海水紅《くれなゐ》になり、その匂ひあしかりしとかや。その紅になり候所は、波もうたず平浪《ひらなみ》なり。これ常々はあら海なり。
[やぶちゃん注:孰れも典型的な大規模な赤潮現象である。前者・後者ともに、季節的に夏に相当し、発生し易い時期であるが、前者は稀な広域発生である。
「南畝莠言」は、大田南畝が「杏花園主人」名義で、弟子の文宝亭が筆録として刊行した随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で後刷(文化一四(一八一七)年序)で原本の当該部(単体画像で、ここと、ここ)が視認出来る。同書巻頭の「目錄」では、下巻の「㊄海水赤色(せきしよく)に變ず」である。
「正和壬子の年四月十二日」正和元年。この直前の一月余り前の応長二年三月二十日に改元している。ユリウス暦一三一二年五月十八日。グレゴリオ暦換算五月二十六日。
「虎関禅師」虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~正平元/貞和二(一三四六)は鎌倉から南北朝時代の臨済宗の僧で漢詩人。京都生まれ。十歳で比叡山で受戒し、南禅寺の規庵祖円、建仁寺の無隠法爾らに帰依するとともに、当時の名僧・碩学に内外の典籍を学び、その博学は天下に鳴り響いた。 二十二歳の徳治三(一三〇七)年、鎌倉に下向して、建長寺を再興した一山一寧(いっさんいちねい)に深く傾倒して侍者となり(本篇はその時の体験と考えてよい)、後、三聖寺・東福寺・南禅寺などの住持を務め、興国三/康永元 (一三四二) 年、後村上天皇より、国師号を賜わった。五山禅僧の内、最も博学な学者として知られ、本邦初の仏教史書「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ:元亨二(一三二二)年)や、分類韻書の模範ともいうべき「聚分韻略」、四六文の作法書「禅儀外文」などの著述がある名学僧である。
「福山」地名ではない。鎌倉の巨福山(こふくさん)建長寺のこと。
「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「○奥州の海紅になる事」である。南畝先生、赤潮がお好き!
「奥州宇多郡のうち加佐古といふ浦、これ相馬ざかひなり」「津々志浜」この浦名や浜名は確認出来なかったが、旧郡名からグーグル・マップ・データの、この相馬市及びその北の相馬郡新地町の海浜である。]
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