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2023/09/26

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「神田社神霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 神田社神霊【かんだしゃしんれい】 〔思出草紙巻一〕江戸の神田大明神<東京都千代田区内>は、人皇四拾五代聖武天皇天平二年庚午鎮座あり。往古《むかし》は神田とて、武蔵の一ケ国に、二ケ所三ケ所の御田《おた》有りて、天照大神へ初穂の神供を納む。当国は豊嶋郡芝崎村にあり。大己貴尊(おほなむちのみこと)は五こくの神なれば、其所に於てこの神を祭るなり。平親王将門が霊を祭る事は、人皇六十一代朱雀院天慶三庚子年二月十四日、平の貞盛が矢に当りて、藤原秀郷の子藤原千晴《ちはる》が、武蔵国多摩郡中野ケ原<現在の東京都中野区>に出張して戦ひ、千晴が為に死す。中野の古戦場に、その猛気《まうき》止《とどま》りて、人民を煩はしむる事数年《すねん》なり。延文の頃、一遍上人が二代の真教坊は、当所遊行の時に、村民、この事を思はるゝに依て、将門の霊を相殿《さうでん》に祭りて、神田大明神と二座にするよし、旧記に残れり。今は大己貴尊には地主《ぢしゆ》の神として、末社の諸神と同じく小社にして、これを知れる人も少《すくな》く、只神田といへば、将門が霊神のみ唱へて、世の人に思ひ寄らぬ霊験いちじるく、感応も世に類ひなし。今佐野家は田原秀郷が子孫にして、今は神田の社に参詣なす事を禁ず。既に御旗本の佐野右兵衛尉が御側勤仕《おそばごんし》の折からなどは、神田祭礼九月十五日は、佐野登城御門断《ことわり》て、明七ツ時<午前四時>出仕あつて、神輿(みこし)に行合はざるためにして、祭礼の上覧所の御供も御断り申上る程の事なり。そのとき、屋舗は小川町<東京都千代田区内>にして、祭礼通行の片はらなりしが、祭り渡れる日は、門戸を閉ぢて出入を禁じ、家来の男女《なんによ》、常々神田明神の社前をば決して通らず。若し通る時は忽ちその身に災ひを請《うく》る。譜代の家臣等は、神田の社はいかなる宮造りなるや一向知らず。一季居《いつきをり》の下人召抱へる節は、請状《うけじやう》に書入《かきい》れて、神田の社前通行させまじきとぞいましむるなり。これ往古《むかし》に、秀郷の為に討たれたる忿怒の霊のたゝりある事思ふべし。安永年中、小日向<東京都文京区内>に神田織部といへる御旗本の士ありしが、大御番勤仕なり。この神田氏は、相馬と同姓にして、則ち将門が末葉にて、紋所は繫ぎ馬なり。相番に佐野五右衛門とて、湯嶋辺に住居の人ありしが、或とき、佐野五右衛門所々勤めの戻り、織部が方に立よりぬるに、古番の事なれば、馳走いふばかりなく、酒宴となり酩酊して、佐野がいはく、兼々聞き及びぬる、これより程近き赤城明神の社地に、色売る家の余多(あまた)あるよし、案内し玉へ、斯(かか)る折ならでは立寄りがたし、よき序《ついで》にあらずや。神田織部大いに悦び、元より好むみち芝の、露いなむ色なく、酒興に乗じて申しけるは、これ甚だ妙なり、いざさらば案内し候はん。佐野も限りなく悦び、供に連れしものは残らず帰し、連立ち出づるなり。佐野がいはく、我既に肩衣のまゝにて羽織なし、何とぞかし玉へ。神田がいはく、いかにも羽織なくては叶ふまじとて、常々著しぬる黒ちりめんに、繫ぎ馬の紋付たる綿入羽織をかしければ、これを著して連立ち行きしが、黄昏《たそがれ》過《すぐ》る頃、赤城に至り、かねて知る柏屋といふ茶やの楼に上りて、遊女を呼び酒宴に興を催しつゝ暫く刻《とき》をうつしける折に、五右衛門俄かに総身発熱して、全身の汗の出る事滝の如く、顔色変じて気絶す。一座の各々(おのおの)大いに驚き、医師を呼び、薬服用なさしめけるが、その騒動いふばかりなく、看病保用するといヘども、更に以て快気の様子も見えねば、その興も尽きて、今は斯ても有るべき事ならねば、駕籠をやとひて佐野を助け乗らしめ、その夜半過、織部付きそひ湯嶋の宅に同道し、深夜の夢を破りて、音信ありし事どもを申述べしかば、家内大いに驚き周章さわぎ、早そく病床に佐野を誘ひ、俄かに医師を招きなど、さうどう大かたならず。神田織部もそこそこに暇《いとま》を乞ひ帰りしが、様子心元なく、その夜の明《あく》るを待ちて、早朝見舞ひけるに、佐野直ちに立出て、さり気もなき体《てい》にて対面せしまゝ神田その全快を賀したるに、佐野がいはく、さてさて驚き入《いり》たる事の有り、夜前の不快うつうつとして心気《しんき》絶するが如く、総身燃ゆるにひとし。前後忘却したるに、駕籠に乗りしまで更に覚えず、その後は夢の如くなりとて、子細は借用の羽織を取るとひとしく病気快然たり、思ふに貴公の定紋付《つき》たる羽織を我《われ》著せしに依て、先祖の霊神の咎《とが》を請けしと見えたり、恐しき事なり。神田織部、これを聞きて大いに驚きけるとなり。千歳の今に至つて、その霊斯《かく》のごとく敵の末孫にたゝりある事は、誠に神国のしるしありがたき事にこそ。

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○神田社神靈の事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから視認出来る。]

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