柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「河童」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。
なお、本項は十三篇の引用からなる、ちょっとした大物である。河童・河太郎は私の記事では枚挙に遑がない最多のものである。ここは、宵曲渾身の、
を挙げておくのが、最も価値があろう。]
河童【かっぱ】 〔甲子夜話巻十〕御留守居室賀山城守は小川町<現在の東京都千代田区内><東京都江東区内>に住めり。その中間《ちゆうげん》九段弁慶堀の端を通りしに、折ふし深更小雨ふりて闇《くら》かりしが、水中よりその中間の名を呼ぶ。因て見るに小児水中にありて招くゆゑ、近辺の小児誤つて陥りたるならんと思ひ、救はんとて手をさし延べければ、即ちその手に取《とり》つくゆゑ、岡へ引上げんとしけるが、その力盤石の如くにして少しも動かず。却て中間次第に水中に引入れらるゝゆゑ、始めて恐れ力を極めて我手を引取り、直ちに屋敷に馳せ帰り、人心地なく忙然となりけり。衣服も沾湿《てんしつ》して、その上腥臭《せいしう》の気《かざ》たへがたき程なりければ、寄集りて水かけ洗ひそゝげども臭気去らず。その人翌朝にいたり漸々《やうやう》に人事を弁へるほどにはなりしが、疲憊甚しく、四五日にして、常に復せり。腥臭の気もやうやうにして脱けたりとなり。所謂河太郎なるべしと人々評せり。〔同巻卅二〕対州《たいしう》には河太郎あり、浪よけの石塘《いしども》に集り群をなす。亀の石上に出て甲を曝すが如し。その長二尺余にして人に似たり。老少ありて白髪もあり、髪を被りたるも、また逆に天を衝くも種々ありとぞ。人を見れば皆海に没す。常に人につくこと、狐の人につくと同じ。国人の患《わづらひ》をなすと云ふ。また予<松浦静山>若年の頃、東都にて捕へたりと云ふ図を見たり。右にしるす。これは享保中本所須奈村<東京都江東区内> の蘆葦《ろゐ/あし》の中沼田の間に子をそだてゐしを、村夫見つけて追出《おひいだ》し、その子を捕へたるの図なり。太田澄元《ちやうげん》と云へる本草家の父岩永玄浩《いはながげんこう》が鑑定せし所にして、水虎なりと云ふ。また本所御材木倉《おざいもくぐら》取建《とりたて》のとき、蘆藪《あしやぶ》を刈払《かりはら》ひしに狩出《かりいだ》して獲《とり》たりと云ふ。
[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』版の図。]
[やぶちゃん注:東洋文庫版「甲子夜話」の画像。]
[やぶちゃん注:以上の二本は、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」』(こちらはブログ版で、こちらはサイトのPDF縦書版)のために必要となり、昨年、「フライング単発 甲子夜話卷之十 19 室賀氏の中間、河童に引かれし事」、及び、「フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖」として電子化注をしておいた。後者には、図があり、宵曲が模写したものが載るが、これ、かなりショボいので、それと別に、「甲子夜話」版の静山の模写と思われる図(東洋文庫の原画像。素敵におどろおどろしい)を並べて置いた。]
〔蕉斎筆記四〕徳山の連歌の宗匠飯田※之助範正[やぶちゃん注:「※」=(上)「罒」+(下)「免」。]と同道して厳嶋《いつくしま》へ遊び、船中色々咄しけるに、豊後・豊前辺にてはカハ太郎 (江戸にてはカッパ[やぶちゃん注:促音はママ。後に示す活字原本では正しく『カツパ』となっている。]と云ふ。俗に猿猴といへり)多くして、川々に栖み来れり。畠などへ揚り作物の妨げをし、茄子・きうり・さゝげ其外の作物にあたり、百姓にも難儀する事有り。これを祭るとて一ケ村づつ相撲の興行をし、また笠著連歌をするなり。相撲連歌を好みけるもをかし。<中略>カハ太郎牛馬を取る事多し。カハ太郎に見入られたるは、ふくれ腫れて死けるとかや。子供なども水中に引込む事有り。誠に尻の穴より臓俯を抜けるとかや。昔吉広<連歌宗匠忠内吉広>カハ太郎と相撲を取たる事有り。夜中ながら六尺余りの背になり、吉広と取りけるが骸内(からだうち)ぬめぬめとして至て気味わるきものなり。負けてやりければ甚だ悦び水中へ飛入りぬ。また人間勝ちぬれば大いに腹を立て、色々の返報しけるとなり。漁人の網の中に入りぬれば、至て難儀しぬ。後々迄家に祟りをなさず、守護いたすべしと、得(とく)と申含めて放しけるよし。形ち小さき猿のごとし。手の長きものにもあらず。一疋にても殺しぬれば、数千疋集りと段々と災ひをする故、諸人おそれけり。また川端なる村には申合せ、先の尖りたる棒を持て、何村は何町が間《けん》と間数(けんすう)を定め置き、その棒にて百姓ども打寄り、菅原菩提々々々々とはやして、千人突《せんにんづき》をするとかや。不思議なる事にて、それにて今年はあれぬ[やぶちゃん注:「荒れ(暴れ)なかった」、或いは「現(あらは)れなかった」か。]といふ事なり。いかなる故実や知らず。ものをいふ事ならざれども、人間の言語はよく通ずる事妙なりとなり。 〔一話一言 巻四十五〕享和<元年>辛酉(かのととり)六月朔日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八〇一年七月十一日。]、水戸浦より上り候河童、丈《たけ》三尺五寸余[やぶちゃん注:一メートル五センチ越え。]、重さ拾弐貫目[やぶちゃん注:四十五キログラム。]有ㇾ之候。殊の外形より重く御座候。海中にて赤子の鳴き声夥しくいたし候間、猟師ども船にて乗廻し候へば、海の底にて御座候故、網を下し申候へば、いろいろの声仕り候。それより刺し網を引廻し候へば、鰯網の内へ拾四五疋入り候て、おどり出《いで》おどり出逃げ申候、船頭ども棒かひ[やぶちゃん注:「櫂」。]などにて打ち候へば、ねばり付き一向にかひなどきゝ申さず候、そのうち壱匹船の上へ飛び込み候故、とま[やぶちゃん注:「苫」。菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだ莚(むしろ)。]など押《おし》かけその上よりたゝき打殺し申候。その節までやはり赤子の鳴声いたし申候。河童の鳴声は赤子の鳴声同様に御座候。打殺し候節屁をこき申候。誠に堪へがたきにほひにて、船頭など後に煩ひ申候。打候棒かひなど、青くさき匂ひいまだ去り申さず候。尻の穴三ツ有之候。惣体《そうたい》骨なき様に相見え申候。屁《へ》の音はいたさず、すつすつとばかり申候。打ち候へば首は胴の中ヘ八分[やぶちゃん注:二センチ半。]程入り申候。胸かた張出しせむしのごとくに御座候。死候て首引込み申さず候。当地にて度度《たびたび》捕候へども、この度《たび》上《あが》り候程大きなる重きは只今迄上り申さず候。珍しく候間進じ候以上。 六月五日 東浜権平次
浦山金平様
[やぶちゃん注:全体のバランスをとるため、末尾の署名と宛名の『東濱』『權平次』と『浦山金平樣』を含めておいた。キャプション時計回りで『正面』・『側面』・『背面』である。画像は宵曲のものではなく、「一話一言」のもの。ソースは後注を参照されたい。]
[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」小林白山(詳細事績不詳)著の巷談随筆。元は二十巻であったが、波多野某が抄録して四巻としたもの。冒頭に『寬政五年癸丑年拔書』(一七九三年)とある。国立国会図書館デジタルコレクションで、『百家隨筆』第三(大正七(一九一八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部を視認出来る。中略部は地下連歌への脱線部分。
「徳山」信頼出来る論文資料から周防徳山毛利石見守で、周防国徳山藩七代藩主毛利就馴(なりよし)のことである。宝暦一四(一七六四)年四月に家督を継いだ。文政一一(一八二八)年没。
「連歌の宗匠飯田※之助範正」(「※」=(上)「罒」+(下)「免」)この人物は、同じく信頼出来る論文資料から、連歌師飯田範正弁之助なる人物である。
「一話一言」「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「河童圖說」である。図は次のコマの右ページ上段にある。本データは保護期間満了であるので、その画像を最大でダウン・ロードし、トリミング補正とかなり注意して汚れを清拭したものを掲げた。底本のものはやはり宵曲の写したもので(ここの右ページ最下段)、またしてもショボいから、今回は、示さないことにした。本文と本図を見るに、図は何らかの疾患にかかって弱って一部が炎症を起こして壊死したウミガメ(「青くさ」い臭気があったこと、「首は胴の中ヘ八分程入」ったという点)のようにも見えるものの、「総体骨なき様に見え」というのはウミガメではないように見え(ウミガメを水戸の漁師や関係者が誰も知らないというのは不自然)、「四五疋」で群泳しており、その中の一匹が「船の上に飛び込」んだというのは、海産のアザラシ・オットセイ・アシカなどの哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目鰭脚類 Pinnipediaの比較的若い個体(同じく疾患があった可能性が高い)のようにも見える。]
〔怪談老の杖巻一〕小幡一学といふ浪人ありける。上総之介の末葉なりと聞きしが、さもあるべし。人柄よく小《すこし》学文《がくもん》などありて、武術も彼れ是れ流義極めし男なり。若きとき小川町<東京都千代田区内>辺に食客のやうにてありし頃、桜田へ用事ありて行きけるが、曰くれて麹町一丁目の御堀端を帰りぬ。雨つよく降りければ、傘をさし腕まくりして、小急《こいそ》ぎに急ぎをりけるが、これも十ばかりなりとみゆる小童《こわらは》の、笠もきず先へ立ちて行くを不便《ふびん》におもひて、わらはにこの傘の中へはひりて行くべしと呼びかけけれど、恥かしくや思ひけん、あいさつもせず、くしくし[やぶちゃん注:「しくしく」の別表現。]と泣く様《やう》にて行けば、いとゞふびんにて、後より傘さしかけ、我が脇の方へ引つけてあゆみながら、小僧はいづ方へ使《つかひ》にゆきしや、さぞ困るべし、いくつになるぞなど、懇ろにいひけれどいらへせず、やゝもすれば傘をはづれて濡るゝ様なるを、さてばかなる小僧なり、ぬるゝ程に傘の内へ入(はい)れ入れと云ひければまた入る。とかくして堀のはたへ行きぬると、おぽゆる様にてさしかけつゝ、この傘の柄をとらへて行くべし、さなくては濡るゝものぞなど、我子をいたはる様に云ひけるが、堀のはたにてかのわらは、よわ[やぶちゃん注:ママ。]腰を両手にてしかと取り、無二無三に堀の中へ引こまんとしけるにぞ、さては妖怪めござんなれ、おのれに引こまれてたまるものかと、金剛力にて引あひけれど、かのわつぱ力まさりしにや、どてを下りに引きゆくに、むかう下りにて足だまりなければ、すでに堀ぎはの石がけのきはまで引立てられしを、南無三宝、河童の食《ゑじき》になる事かと悲しくて、心中に氏神を念じて、力を出してつき倒しければ、傘ともに水の中へ沈みぬ。命からがらはひ上りてけれど、腰たさぬ程なりければ、一丁目の方へ戻り、駕籠にのりて屋敷へ帰りぬ。それよりこりはてて、その身は勿論人までも、かの御堀ばたを通る事なかれと制しける。これぞ世上にいふ水虎(かつぱ)なるべし。心得すべき事なりと聞けり。
[やぶちゃん注:「怪談老の杖」は二〇二一年に全電子化注を終えている。その「卷之一 水虎かしらぬ」の正規表現の電子化注はこちら。]
〔望海毎談〕刀根川[やぶちゃん注:利根川。]にねここといへる河伯(かつぱ)有り。年々にその居《ゐ》る所替る。所の者どもその居替りて居る所を知る。その居《ゐる》所にては渦あり。 〔さへづり草松の落葉〕水無月やうか<弘化三年[やぶちゃん注:一八四六年。]>芝口橋のたもとなる一商家にて珍物を見る。その顔かたち、猿を陰乾(ほしかた[やぶちゃん注:二字へのルビ。])めたる物に似て、丈三尺ばかりもやあらむ。ことに珍奇といふべきは、その首《かうべ》二つ並びたり。そこの主人につきて聞《きき》けるに、こは細川侯の藩士内田某より預かり置けるものにて、水虎《かうぱ》を陰乾(かげぼし)にしたるなりといへり。見る人多く、ことに箱中銅鋼(かなあみ)の中に有りて、したしく見ることを得ざれば、その真偽はしるよしなけれど、このもの九州にはことに多くて、かつ坂本氏鑒定[やぶちゃん注:「鑑定」に同じ。]といへる水虎十二品の図説の中、寛永中豊後国肥田<現在の大分県日田市の事か>にて獲るといへるもの大いに同じ。また豊筑の産、人の形また猴《さる》に似たりといへるにもよくあひて、歯は上下四枚、奥歯左右に二枚ありといへるに違《たが》はず。さて両頭はいよいよめづらし。 〔同〕今《いま》俗《ぞく》胡瓜《きうり》をくらふのはじめ、姓名などかいつけて[やぶちゃん注:「書い附けて」。]川水に投ず。こは河伯(かつぱ)におもねるの意なり。実に水虎《かつぱ》は黄瓜《きうり》を好めるにや。さればまた世俗胡瓜にかれが名をおはして、またカツパとよべるもをかし。なほまた祗園の神に献《たてまつ》ることなどもありて、かつぱ天王などもいへり。たとき[やぶちゃん注:「尊き」。]御神にいやしきかれが名をおはしまゐらす。俗のうつりことば、今にはじめぬことにはあれど、かしこくもいと甚しといふべし。 〔甲子夜話巻六十五〕 総じて川童《かつぱ》の霊あることは、領邑《りやういふ》などには往々のことなり。予<松浦静山>も先年領邑の境村にて、この手と云ふ物を見たり。甚だ猿の掌に似て、指の節四つありしと覚ゆ。またこの物は亀の類にして猿を合せたるものなり。或ひは立《たち》て歩《あゆみ》することありと云ふ。また鴨《かも》を捕るを業《なりはひ》とする者の言を聞くに、水沢の辺に窺ひ居て見るに、水辺を歩して魚貝を取り食ふと。また時として水汀《みぎは》を見るに足跡あり、小児の如しと。また漁者の言《いふ》には稀に網に入ることあり、漁人はこの物網に入れば漁猟なしとて、殊に嫌ふことにて、入れば輙《すなは》ち放ち捨つ、網に入《いり》て挙ぐるときは、その形一円石の如し、これは蔵六[やぶちゃん注:カメのこと。]の体《てい》なればなり、因て即ち水に投ずれば、四足頭尾を出し水中を行き去ると。然れば全く亀類なり。
[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』版の図。]
[やぶちゃん注:東洋文庫版「甲子夜話」の画像。三種分割。]
[やぶちゃん注:「望海毎談」江戸中期(十八世紀半ば)に書かれた、江戸名所旧跡についての伝説と、江戸以外のことも記した随筆。全七十三条(但し、内六条は目録のみにあり、本文は残っていない)。作者未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第三(明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。標題は『利根川【河伯柳木】』。後半の無関係な大水の際に流された場所に根づく柳の木の話をカットしてある。
「さへづり草」幕末から明治(明治八(一八七五)年に八十一歳で没した)に生きた俳人加藤昶の随筆。号は雀庵など。天保(一八三一年~)から文久三(一八六三)年までの作者の見聞録。和漢の故事・地名人名の由来・俳諧俳人についての噂話・芝居の役者の伝記・動植物の名義・世間の風俗風評・地理などを書き綴ったもの。刊行は明治四三(一九一〇)年に室松岩雄編・雀庵長房著「さへづり草 むしの夢」として一致堂書店より刊行された。当該原本の当該部が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。標題は『○双頭(さうとう)の水虎(かつぱ)』。なお、これに続けて、『○水虎の名義』・本篇の後半の部分相当の『○胡瓜をカツパとよぶ』・『○ヒヤウスヘ』・『○水虎のいめるもの』・『○鼈(すつぽん)水虎と化(なる)』・『○水虎のぬれ衣』・『○紫磨家(しまや)の主管(ばんとう)』(商家にの店先河童がものを借りに来たところを番頭が驚いている当時流行った錦絵の話)と河童談義が続き、面白い。加藤は河童好きだったらしく、同書の後の方で、『水虎の追記』も記している。江戸時代の「河童」を民俗学的に記した好古のものである。是非、読まれたい。
「甲子夜話」の話は、先のものと同じく、南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、「フライング単発 甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖」で既に電子化注してある。宵曲は、当該話の終りの部分だけを引用したもので、図も、前半部に出る「水難除け」の護符に描かれた河童の図を省略している。また、図(これは静山ではない別な人物が描いたもの)も、宵曲の写した図は、またまた、ショボい(というか、宵曲の手に掛かると、俳画のような可愛らしいものになって、禍々しさが払拭されてしまうのである)ので、そちらの写真版(東洋文庫版)も添えた。底本の「一」・「二」・「三」は宵曲が添えたものか。東洋文庫には、ない。]
〔続蓬窻夜話上〕六月廿三日は紀州弱山(わか《やま》)湊[やぶちゃん注:「和歌山湊」。]の蛭児(ゑびす)祭なり。昔しはこの日必ず牛の売買ありて、牛ども多く湊の浜辺に集りける故、世の人皆湊の牛祭とも云ひしが、近年はいつとなく牛も来らずなりたり。この祭の時節は酷暑の砌《みぎり》なれば、河辺にて水浴する者多くて、動(やや)もすればこの日の前後溺れて命を失ふ者多し。享保丙午<十一年>六月廿二日[やぶちゃん注:ごレゴリオ暦一七二六年七月二十一日。]の晩方、嶋田氏何某の子、年十八なるが、暑気を凌《しの》がんとて近所の子供四五人を引つれ、小野町の浜辺に出て、大船の掛りて在る辺の小船を、彼方此方《かなたこなた》と打渡りて涼み居けるが、何とかしけん、船より船へ移るとて、蹈《ふ》みはづして海へ落ちけり。所しも深かりければ、敢(あへ)なく沈み入りけるほどに、従ひ行きたる子共、やれやれといへども、何とすべきやうもなく居たる内に、父母の宿近ければ、人々追ひ追ひ蒐(かけ)来り、水練を入れて死骸を被《かづ》き上げ、先づ浜にて色々術(てだて)を尽しけれども、終《つひ》にその験(しるし)なし。力無くて戸板に載せて家に帰り猶医者を呼び聚《あつ》めて療治しけれども、その甲斐なく遂に空しくなれり。これより前に、この子の沈みたるあたりに有りける大船の船頭の語りけるは、頃日《このごろ》浜にて子共の水を浴び居けるを、何心なく見居たるに、その中に小坊主の一人有りけるをつくづくと見れば、疑ひもなく但馬にて見たりし小坊主なり、彼は人間には非ず、正《まさ》しく河童なるが、何としてかこの浦へは来りけん、これをば知らで同じやうに水浴する子共の、命を取られんこそ不便《ふびん》なれと思ひ、急ぎ湊の浜に上り、子共の水浴することを制し玉へ、我れ但馬の河童のこの浦へ来るを、たしかに見付けたりと云ひければ、子を持ちたる者ども大きに驚き、やがて浜辺に走り出て、子共を皆水より呼上げける。さて何とて但馬より来りし事を知れりやと問へば、船頭が云ひけるは、我れ但馬の浦に船を掛けて居《をり》し時、この小坊主切々(せつせつ)[やぶちゃん注:切羽詰まった感じで丁寧に。]船へ来りて物を乞ひけるが、その物言ひ人と違《たが》ひて、始めは聞ゆるやうにて跡はなし、たしかに河童と見たるゆゑ、兎角だましすかして日を経たり、彼はその心飽《あく》までかしこき者にて、人の心を先に覚《さと》り、譬ヘば今度来《きた》る時この橈(かい)にて打つべしと思ふに、早《はや》その心を知《しり》て傍《そば》へ寄らず、その方はその橈にて我れを打たんと思はるゝやと云ふ。明日は船を出すべしと心に思ひ居れば、早その心を知りて明日は定めて出船ならんと云ふ。とかく人の心を先きに知る事、鏡の如し。これを知りながら悪しくもてなせば、必ず仇(あた)をなしてその害多し、とかくだますには如かじと思ひ、色々とすかし置きたりしが、今またこの浦へ見え来れり、これを思へば河童は諸国を遊行《ゆぎやう》すると見えたり、昔しよりこの浦には河童はなしと思ひて必ず油断すべからずと語りける。その後間もなく嶋田氏の子、廿二日の晩溺れて死しけるが、親の家は小野町なるゆゑ、間もなく被き上げけれども、臓俯腸胃を悉く引出《ひきいだ》して、腹中空《から》になりて有りけるよし、偖《さて》はこの船頭が語りたる河童の業《しわざ》ならんかと、人々疑ひあやしみける。その後もこの年は処々にて溺死する者多かりければ、皆この河童の業ならんかと、あやしみ疑ふ人多かりし。
[やぶちゃん注:「続蓬窻夜話」「蟒」で既出既注だが、本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保十一年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。但し、今回、ネットで一件認めたサイト「座敷浪人の壺蔵」の「釣人怪死」の現代語訳を見ても、それも、先の「蟒」中の一篇も、而して、この話も、明らかに紀州藩藩士個人に係わる子細な話であることから、作者は同藩藩士と推定は出来る。
「小野町」現在の和歌山県和歌山市小野町(おのまち:グーグル・マップ・データ)。]
〔譚海巻二〕川太郎といふ水獣、婦人に淫する事を好む。九州にてその害を蒙る事時々絶えず。中川家の領地は豊後国岡といふ所なり。その地の川太郎、処女に淫する事時々なり。その家の娘いつとなく煩ひつゝ、健忘のやうになり臥牀につく。これは川太郎に付かれたり。力なしとて親族かへりみず。川太郎に付かるゝ時は誠に医療術なし。死に至る事なりといへり。川太郎時々女の所へ来る。人の目には見えざれども、病人言語嬉笑する体《てい》にてしらるゝなり。親子列席にては甚だ尾籠いふべからざるものなりといへり。かやうなる事、家ごとに有る時は、川太郎を駆《か》る事あり。その法蚯蚓《みみず》を日にほしかためて燈心になし、油をそゝぎ燈を点じ、その下に婦人を坐せしめ置けば、川太郎極めてかたちをあらはし出で来るなり。それを伺ひ数人あつまり、川太郎を打殺しかゝる。斯の如くしてその害少しと云ふ。川太郎など夜陰水辺にて相撲とる事は、常の事なりといへり。 〔同〕安永中江戸深川入船町<現在東京都江東区内>にて、ある男水をあびたるに、川太郎その人をとらんとせしを、この男剛力なるものにて、川太郎を取すくめ陸へ引上げ、三十三間堂の前にて打殺さんとせしを、人々詑言して川太郎証文を出し、ゆるしやりたり。已来この辺にて都(すべ)て河太郎人をとるまじき由、その証文は河太郎の手判を墨にておしたるものなりとぞ。
[やぶちゃん注:前半は「譚海 卷之二 豐後國川太郎の事」で、後半は「譚海 卷之二 江戸深川にて川太郎を捕へし事」。以上は連続せず、かなり離れた箇所に配されてある。]
〔卯花園漫録巻二〕河童は大なる猿のごとく、頭の上少し窪みて、水を越《こえ》て専ら力ありて、人と争ふ事を好み、また賤民の家に入りて、婦女と姦淫する事あり。多く西国九州にあり。唐土《もろこし》にも似たる事あり。『淮南子《えなんじ》』に載する所の魍魎(もうりやう)<水の神、木石の怪>の類ひ[やぶちゃん注:ママ。「たぐゐ」か「るい」。]、また『酉陽雑爼』に云ふ𤝈𤡓《とうおく》と云ふ者あり。形ち猴《さる》のごとく、長毛七尺ばかり、馬《うま》化《け》して成るといへり。人の妻を竊《ぬす》むとあり。また江鄰幾《かうりんき》が『雑志』に云ふ。宋の徐積廬《じよせきろ》川の辺にて取得たる小児も、この河童の類なるべし。また『本草』の山𤢖(さんさう)の条下に、旱母(かんぼ)といふものあり。その丈け二三尺ばかり、髁にて目は頭の上に有て、往走《ゆきはし》る事風のごとく速かなり。よく人の家に入りて婬乱を為し、火を放ちて物を盗み、人に害ある事甚し。旱母顕《あらは》るゝ時はかならず旱《ひでり》す。これ和俗に云ふ河童なるべし。
[やぶちゃん注:「卯花園漫録」読みは現代仮名遣で「うのはなぞのまんろく」或いは「ぼうかえんまんろく」。作者は江戸の故実家であった石上宣続(いそのかみのぶつぐ)で文化文政期の人(詳細事績不詳)。同書は史伝・故実・言語その他の起源・沿革を記した随筆で、『文政六年』(一八二三年)『夏日』と記す序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。御覧の通り、かなり知ったか振り満載の衒学的な文章であり(以下の私の注を見られたい)、ちょっと真面目に注するのが馬鹿々々しくなった。
「『酉陽雑爼』に云ふ𤝈𤡓と云ふ者あり」「中國哲學書電子化計劃」の影印本でここの六行目から原本が見られるが、所持する東洋文庫版の同書の今村与志雄訳注を見ると、石上宣続の訓読は誤っていることが判明する。「馬化して成る」は原文は『名𤝈𤡓一曰馬化』で、「馬化」は𤝈𤡓の異名である。今村氏の「𤝈𤡓」の注に、『未詳。𤝈は豭に同じ。牡豚のこと』とある。
「江鄰幾が『雑志』」これもおかしい。宋の江休復(一〇〇五年~一〇六〇年)の原著になる「江鄰幾雜誌」で、全体が書名である。著名人の逸話や前王朝の物語を中心としたもので、歴史的な解説の雰囲気をも持つ。「中國哲學書電子化計劃」で調べたが、当該箇所を見出せなかった。
「『本草』の山𤢖(さんさう)の条下に、旱母(かんぼ)といふものあり」李時珍の「本草綱目」の「卷五十一下」の「狒狒」の「猿猴」の中の、附録の「野女」の、「山𤢖」の条に出る。「漢籍リポジトリ」のここの、[120-43a]の影印本の本文の実際の行の三行目に出る。「山𤢖」は私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖(やまわろ)」を参照されたい。「旱母」は「旱」(ひでり)から判るように旱魃の神格化されたものである。しかし、水界の妖怪である河童が旱の神と同一と言い放って知らんふりの憚らない石上のパラドキシャルな非論理性には、呆れる他はない。この男、やっぱりだめだ。なお、ziro-irisa氏のブログ「胙豆」の「旱母其れ上帝の命を受け」に「旱母」の纏まったブログ主の見解が語られてある。
「髁」ここでの意味不明。この字は①大腿骨。②膝蓋骨。③尾骨。④正しくないさま。辻褄が合わないさま。⑤腰骨である。思うに、これ、河童の左右の腕の骨が体内で繋がっているとされること(漢語で「通臂(つうひ)」と称する)を、半可通でこんな漢字で言ったのではないか? 私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の掉尾にある、「川太郞(かはたらう)」を参照されたい。既にそこに、その特異体質の記載がある。最後の最後まで、石上御大、だめだわ。]
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