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2023/09/18

南方閑話 巨樹の翁の話(その「五」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       

 

 「古風土記逸文考證」に、「釋日本紀」より孫引された「筑後風土記」に、三毛郡《みげのこほり》云々、昔し、一つの楝木(クヌキ)あり。郡家の南に生じ、其高さ、九百七十丈。朝日の影、肥前の國藤津郡多良の峯を蔽ひ、暮日《ゆうひ》の影、肥後の國山鹿郡《やまがのこほり》荒爪の山を蔽ふ云々。因《ゆゑ》に御木《みき》の國といふ。後人、誤《あやまり》て、三毛《みけ》と曰ふ。今以て郡名となす、と有り。高木敏雄君の「日本傳說集」四七頁に、肥後國阿蘇郡高森町の上に、昔し、有つた木は、朝日には、其影が、俵山《たはらやま》を隱し、夕日には祖母山《そぼさん》を隱したが、風に折れて、其枝、地に埋《うも》れたのを、今に掘り出すことがある、と見えるは、似たことだ。「筑後風土記」に、昔し、有つた木を、「クヌギ」としたのは「日本紀」景行帝十八年の記と同じだが、「書紀」に「クヌキ」を「歷木」と書きあるに變り、「風土記」には「楝」と作り居《を》る。楝は和名「アフチ」、近俗、「センダン」といふ。「栴檀」にはあらず(「大和本草」卷十一)。楝の俗稱「センダン」に因《よつ》て、天竺の栴檀の種より、栗の大木が、近江に生えた、と云ひ出《だし》た者で、偶《たまた》ま以て、「三國傳記」の出來た時、既に「アフチ」を「センダン」とも呼んだと分る。又、其頃、何でもない物と侮つて、不意に、足を卷《まか》れて、人が仆《たふ》れるから、思ひ付いて、「侮る蔓に倒れする」てふ諺があつた事も知れる。其諺を釋《と》く爲に、葛の敎へで大木を倒した話を作つたと見える。「三國傳記」は、予、見た事無し。いつ誰が著《あらは》したのか敎へを竢《ま》つ。

[やぶちゃん注:『「古風土記逸文考證」に、「釋日本紀」より孫引された「筑後風土記」に、三毛郡云々……』国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本(栗田寛著・明治三六(一九〇三)年大日本図書刊)のここで当該部が視認出来る。但し、熊楠は、その訓読に必ずしも従っていない箇所があるので、必ず、比較されたい。

「楝木(クヌキ)」栗田氏の注があり、『棟[やぶちゃん注:ママ。]木は、書紀[やぶちゃん注:「景行紀」中。]に歷木とあり、棟木を歷木(クスキ)にあてゝ書るにや。又歷木とは異なる木か、未た[やぶちゃん注:ママ。]考へず、和名抄に、本草云、擧樹久奴岐(クヌキ)、日本紀私記云、歷木、』[やぶちゃん注:これは私が「和名類聚抄」を調べたところ、「久奴岐」ではなく、「久沼木」であった。恐らく下の「本草和名」のそれを誤ったものと思われる。]『また、本草和名之良久奴岐(シラクヌキ)、一云奈美久奴岐(ナミクヌキ)とあり』とあった。この「歷木(クスキ)」は楠(樟)で、クスノキ目クスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora を連想させる。

「九百七十丈」二千九百三十九メートル。

「肥前の國藤津郡多良の峯」長崎県と佐賀県の県境に位置する標高九百九十六メートルの多良岳(たらだけ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「肥後の國山鹿郡荒爪の山」位置的に見て、熊本県熊本市西区ある荒尾山(標高四百四十五メートル)のような気がする。

『高木敏雄君の「日本傳說集」』国立国会図書館デジタルコレクションの高木敏雄著「日本傳說集」第四版(一九二六年武藏野書院)のこちらの「樹木傳說第四」の「(ロ)大木」がそれ。

「肥後國阿蘇郡高森町」ここ。阿蘇山の南東の山麓。

「俵山」ここ。阿蘇山の西南西。標高千九十五メートル。

「祖母山」ここ。標高千六百七十メートル。

「アフチ」オウチで、ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の別名。

『「栴檀」にはあらず』とは、香木として知られる「栴檀」とは違うという意。その栴檀とは、インドネシア原産のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album で、センダンとは縁も所縁もない。

『「大和本草」卷十一』国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原版本の当該部である「楝」「アフチ」の項を示す。

「三國傳記」は室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計三百六十話を収めるが、熊楠同様、私も読んだことがない。]

 高木君の「日本傳說集」四八頁に、丹波國何鹿郡志賀鄕村の滴《したた》り松は、雨ふる時、滴《しづく》が落ちず、晴天に限つて滴が落ちるので、近所の田は水に困らなかつたのを、光秀、築城に際し、伐《きつ》て棟木とする爲め、多くの人足をして伐らせたが、大木故、一日で事叶はず、次日《つぎのひ》、徃《いつ》て見ると、前日切つた木片、散亂したのが、一つ殘らず、元へ戾つて、樹、本《もと》の如く成り居る。斯《かく》て幾日掛るも、仕事、捗らず、光秀、人足を增し力《つよ》めて、一日に伐倒して、城の棟木にした由を載す。

[やぶちゃん注:『高木君の「日本傳說集」四八頁に、丹波國何鹿郡志賀鄕村の滴り松は、……』前に注した同じ個所の次の「(ハ)滴松」がそれ。

「載す」底本は『截す』。訂した。]

 「攷證今昔物語集」に、若干の大木の話を列ねてある。乃《すなは》ち「古事記」に、仁德帝の御世、兎寸河の西に一高樹有り。その樹の影、旦日《あさひ》に當つては、淡道島に逮《およ》び、夕日に當つては高安山を越ゆ。故に、是樹を切《きり》て船となす。其はいと[やぶちゃん注:「いと」は「選集」で補った。]捷《はや》く行く船也。時に其船を號《なづ》けて「枯野」といふ云々。是は、熊楠、思ふに、樹の蔭、日光を遮つて、其下に草木の生《はえ》るを妨げたので、野を枯らした木と云ふ意味で付けた名らしい。「播磨風土記」には、明石の驛家《うまや》、「駒手《こまで》の御井《みゐ》」[やぶちゃん注:湧き水の名称。]は、難波高津宮〔仁德〕天皇の御世、楠〔の木〕、井の口に生え、朝日には淡路島を蔽ひ、夕日には大和島根を覆ふ。仍《よつ》て、其楠を伐《きり》て、舟を造り、其迅き事、飛ぶが如し。一檝《ひとかぢ》去れば、七浪《しちなみ》を越ゆ。仍て「速鳥《はやとり》」と名《なづ》く云々。「肥前風土記」には、佐嘉郡《さがのこほり》に、昔し、樟《くす》の樹一株、此村に生え、幹枝《もとえ》、秀《ひい》で、高く、葉、繁茂す。朝日の影は、杵島郡《きしまのこほり》蒲川山《かまかはやま》を蔽ひ、暮日《ゆふひ》の影は、養父郡《やぶのこほり》草橫山《くさのよこやま》を蔽ふ。日本武尊、巡幸の時、楠の茂り榮えけるを御覽じて曰く、「この國は榮之國《さかのくに》と云《いふ》べし。」と。因《より》て榮郡と曰ひ、後、改めて、佐嘉郡と號く云々。

[やぶちゃん注:芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)のそれは、「本朝部」巻第三十七の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の付注内の一節を指す。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ後ろから三行目以降から)である。但し、この段落の多くの読みは、所持する一九三七年岩波文庫刊の武田祐吉編「風土記」に拠った。

「兎寸河」この巨木伝承、私の好きな話なのだが、その生えていた比定地は、論争が激しいが、現在のところは、今の大阪府泉南市兎田(うさいだ)とするのが有力らしい。影を落とすところからして、穏当であろう。

『明石の驛家、「駒手の御井」』「兵庫県学校厚生会・関係法人公式サイト SMILEPORT」の「郷土の民話」の「駒手〈こまで〉の御井〈みい〉と速鳥〈はやとり〉(明石市大蔵町)」によれば、『大蔵谷〈おおくらだに〉の太寺〈たいでら〉に駒手〈こまで〉の御井〈みい〉というたいへんよい清水があり、その上に大きなクスノキがありました』とある。この「大蔵谷」は現在の明石市の現在の兵庫県明石市大蔵町を含む、かなり大きな旧広域地区名で、前の地図の北西に配したが、「太寺」は現在の兵庫県明石市太寺で、その二丁目内に「太寺廃寺塔跡」(グーグル・マップの名称は「太」を「大」に誤っている)が残る。この寺は「明石市」公式サイト内の「明石の遺跡 」の「太寺廃寺」によれば、『太寺は白鳳期(7世紀後半~8世紀初)に造営された寺院の名ですが、早くより廃寺となりました。現在は江戸時代、明石城主小笠原忠政(のち忠真)によって再興された天台宗太寺山高家寺があります』。『境内の東南隅にある小高い土盛は、県の文化財に指定されている太寺廃寺の塔跡で』、『塔の基壇は高さ約1.5mで、円形つくりだしの柱座が設けられた礎石が3石、現位置に埋没して残存しています。うち北側の2石は中心間の距離が約8尺、残り1石の距離は2石を結ぶ線と直角に約16尺の位置にあり、1辺約7.3m24尺)の塔であったと推定されます』。『寺の境内からは白鳳時代~江戸時代の瓦が出土しており、白鳳時代以降、数度にわたる改修を受けていたことが分かります』とある。さても、「ひなたGPS」で戦前の地図を見て貰いたい。すると(横地名は総て右から左で書かれているので注意)、「明石市」の市名の右下にゴシック太字で「大藏谷」とあり、ここが、現在の大蔵町や太寺を含む広域地名であったことが確認出来るのである。面白いのは、巨大なクスノキの近くの古代寺院に、当時としては、基盤と柱座の礎石位置から見て、かなり高かったであろう仏塔が建っていた事実である。或いは、この仏塔はその巨木のよすがを偲ぶためでもあった可能性があるのではなかろうか?

「大和島根」我が国の本土(本州)のこと。

「佐嘉郡」ウィキの佐賀県の旧「佐賀郡」に、本大樹伝説による地名説が原文を引いて載る。その注によれば、以下の「杵島郡蒲川山」は、『肥前の国学者糸山貞幹は江北町』(こうほくまち)『佐留志』(さるし)『の堤尾山と比定したが、現在の場所は不明。井上通泰は杵島郡東部の山と推定した』とあり、「養父郡草橫山」は、『井上通泰の『肥前國風土記新考』では、四阿屋神社祠官三橋真国の話として九千部山』(くせんぶやま)『に比定する。また糸山貞幹の『肥前旧事』では、みやき町中原の綾部山』(綾部城附近であろう)『を草山ともいい、その傍を横山と呼ぶという』とあった(リンクは私がグーグル・マップ・データを勝手に張ったもの)。]

 外國にも古芬蘭《フィンランド》國のヴイナモイネンが蒔いた檞《かしは》の實より大木を生じ、其梢天に屆き、行く雲を妨げ、日光月光を遮つたのを、一寸法師、海中より出で、忽ち、巨人に化して、伐り倒したので、農作、始めて出來たといひ、エストニアの舊傳、亦、カレヴイデが到着した島の檞は日月を蔽ひ、其枝の蔭が全國を暗くしたのを、一寸法師が伐僵《きりたふ》したという(亡友ヰリアム・フオーセル・カービー氏英譯「カレヴラ」二段。同氏英譯「カレヴイポエグ」六段)

[やぶちゃん注:「ヴイナモイネン」当該ウィキによれば、『ワイナミョイネン(Väinämöinen)は、フィンランドの民間伝承と』、『国民的叙事詩『カレワラ』の主要な登場人物である。元々はフィンランドの神であった。年老いた賢者で、強力な魔力を秘めた声の持ち主として描かれている。フィンランドにおける国民的英雄』とある。

「檞」ここはフィンランドであるから、本邦のカシワ(ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ  Quercus dentata :同種は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にしか植生しない)ではない。ここは、ブナ目ブナ科 Fagaceaeの木の総称である。

「カレヴイデ」本来は、フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルトによる十九世紀の叙事詩の名で、エストニアの民族叙事詩と見なされているもので、Kalevipoegという名の巨大な英雄のエストニアの民間伝承が元。ここはその巨人英雄(ウィキのローカル版の「カレピポエグ」を参考にしたが、どうも機械翻訳らしく、ちょっと日本語がおかしいところがある)。

「亡友ヰリアム・フオーセル・カービー氏英譯「カレヴラ」二段。同氏英譯「カレヴイポエグ」六段」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の著作。「Internet archive」で見られるが、ちょっと探せなかった。なお、『「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8)』(最終回)の「Kirby, The Hero of Esthonia, 1895」で、英文ウィキの彼の「Kalevipoeg」の「Synopsis」の条を引用してあるので、見られたい。]

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