柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「女化原」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
女化原【おなばけはら】 茨城県稲敷郡辺《あたり》の話 〔一話一言巻二十七〕水戸海道若芝宿<現在の茨城県龍ケ崎市内か>の東、大なる原あり、号(なづ)けて女化原<茨城県牛久市内>と云ふ。その広大なる事、際《きは》も見え侍らず。その原中に僅かの松山あり。大木繁りたる中に小さき稲荷の社あり。その側に女化稲荷《をなばけいなり》の碑あり。往昔筑波郡栗山村<茨城県稲敷郡内>大徳覚右衛門といへる者、この原を通りしに、うるはしき女たゞ独《ひとり》来れるに、ふと行き逢ひ、その様《さま》いぶかしけれど、言葉がら優しければ、我家へ連れ帰り妻となし、家業もよの常ならずかせぎし故、夫婦中《ふうふなか》むつまじく暮しぬる中《うち》に子をまうけ、その子十二三歳の時、母の姿ふと狐の形に見えければ、驚き父の覚右衛門へ告げしらせ候に付《つき》、母は正体見顕はされ、恥かしきとてこの原に帰り、行衛《ゆくゑ》しれずなり候由、それ故に後年碑を建てけると云ふ。施主利左衛門利の字迄はよく分り候へども、跡は読み難く、利左衛門にて候や、また覚右衛門の名乗に候や、利左衛門に候はゞ、覚右衛門子にても有るべし、分りがたし。右覚右衛門は今に代々覚右衛門とて、顔永《かほなが》にて口とがりたり。狐の子孫故にや侍ると、村夫《そんぷ》の物語りいぶかしけれど、その辺の者共数人《すにん》の申口《まうしぐち》同じければ、正説《せいせつ》ならんか。殊更右の碑もあり。原名《はらな》も女化《をなばけ》と云ふ。狐の子孫もあれば慥《たしか》かなるべし。
[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「女化(ヲナバケ)原由來の荒增」である。最後に南畝の『右は關宿藩共より差越候由池田正樹より借得て寫之【庚午七月七日】』とあって、原ソースが明らかにされている。「庚午」(かのえうま)は文化七(一八一〇)年。
「筑波郡栗山村」「茨城県稲敷郡内」現在の、つくば市西栗山附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。こことは違うが、明白に同根(「葛の葉」型異類婚姻譚)の類似譚が、南西十四キロメートルほどの位置にある茨城県龍ケ崎市馴馬町(なれうままち)の女化(おなばけ)神社に伝わる。「朝日新聞デジタル」の「妻に化けた狐伝説息づく 茨城・龍ケ崎の女化神社」(二〇二〇年十月三日記事)に、『神社によると、創建は』永正二(一五〇五)『年とされているが、石像は神社にまつわる「女化の狐(きつね)伝説」に基づいている』。『《昔、忠五郎という男が野原を通りかかり、猟師に撃たれかけていたキツネを助けた。そのキツネは恩返しに忠五郎の妻となって』三『人の子どもまでもうけた。しかし、子どもたちに正体を知られ、野原に消えた》』。『この野原一帯が「女化原」と呼ばれ、野原にあった稲荷の祠(ほこら)は「女化稲荷」に。江戸時代に馴馬村(現・龍ケ崎市)の寺「来迎院」が管理していたことから』、『龍ケ崎市の飛び地になり、明治時代に「女化神社」に改称されて今に至るという』。『女化神社への信仰は、遠方に広がった。親子ギツネの石像はその表れだ』。明治二(一八六九)年に『東京・深川の関係者』二『人から寄進された』。『龍ケ崎市歴史民俗資料館にも、信仰のあつさを示す錦絵が保管されている。「常州 女化狐子別之場」』で、明治一八(一八八五)『年、「狐伝説」を題材に作られた歌舞伎の』一『場面で、当時人気絶頂の歌舞伎役者・尾上菊五郎が艶(つや)っぽく描かれている』(中略)。『拝殿の裏から』十『分ほど歩くと、こんもりした林の中にキツネが身を隠したという「奥の院」がある。通称「お穴さま」。こけむした石碑や小さな赤い鳥居、キツネの置物がずらりと並ぶ』。『神社の縁起によると、キツネは姿を消す際、歌を書き残したという。「みどり子の母はと問はば 女化の原に泣く泣く臥(ふ)すと答えよ」。ふと、林の中から悲しげな表情のキツネが現れそうな気にさせられた』とある。さらに、驚くべくは、「女化原」「茨城県牛久市内」というのは、寧ろ、この後者であることが判明するのである。この女化神社のある区画が竜ケ崎の飛地であることは、以上の記事に書かれてあるが、そこを囲む地区は、なんと! 茨城県牛久市女化町(おなばけちょう)なのだ! 現在もこの地区は田園であるが、「今昔マップ」の戦前の地図をみれば、『女化(ヲナバケ)』の付近は針葉樹と僅かな田圃が広がっており、そこに未だ懐かしく『女化稻荷』とある(北直近にも神社があるが、下方がそれ)。見ると、東に『稻敷』の地名、南に『稻荷新田』の地名が確認でき、神社の南西にはおどおどろしい『蛇沼』もある。思うに、「女化原」のルーツは、ここが本家本元のように思われてくるのである。
「右覚右衛門は今に代々覚右衛門とて、顔永《かほなが》にて口とがりたり。狐の子孫故にや侍ると、村夫《そんぷ》の物語りいぶかしけれど、その辺の者共数人《すにん》の申口《まうしぐち》同じければ、正説《せいせつ》ならんか」これ、なななかクルものがある。
「右の碑もあり」現存しないでしょうか?]
« 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「尾長馬」 | トップページ | 譚海 卷之十 丹後國大江山鬼の洞の事 (フライング公開) »