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2023/09/20

南方閑話 巨樹の翁の話(その「一〇」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

        一〇

 

 「攷證今昔物語集」に孫引きした「孫綽子」に、海邊と、山中の住民が、逢つて。各《おのおの》其地方の名物を誇る。海人は、「衡海に、魚、有り、頭《かしら》、華山の頂《いただき》の如く、萬頃《ばんけい》の波を一と吸ひにす。」と云ひ、山客は、「鄧林《とうりん》に、木、有《あり》て、圍み三萬尋、直上千里、旁《かたは》ら、數國を蔭《おほ》ふ。」と言つた、と有る。高木氏の「日本傳說集」四六頁に、長門國船木、昔し、一面の沼地で、中央に一本の大樟《おほぐす》あり。其枝、二里四方に擴がり、其下は、晝さへ暗く、此の村は、年中、日光を見ないので、「眞闇」と呼ばれ、西の村は、年中、朝日を拜まないので「朝蔭」と呼ばれた。「眞闇」、今は、「萬倉」と改む。神功皇后三韓征伐の折《をり》、この樟一本で、四十幾艘の船を作つたと云ふ。西澤一鳳の「皇都午睡《みやこのひるね》」初篇中卷に云《いは》く、『寬政六年の春、紀州熊野の深山より、三十里、奧山へ、御用木、見立てに行きて、榎《えのき》の大木を見出しぬ。是迄[やぶちゃん注:底本では「是近」。後掲する活字本を参考(原本では『是まで』)に補った。以下、にも、それで底本を修正した箇所があるが、一部は五月蠅いだけなので、注さない。原本自体の表記が、少しおかしく感じた箇所は、逆に底本に従った箇所もある。]、折《をり》に、來《きた》る者も有れど、唯、山とのみ思ひしが、此度《このたび》、大木、有る事を見出《みいだ》し、則ち、人夫の杣人《そまびと》等《ら》、その大きさを見積り、太守へ上覽に奉りぬ。[やぶちゃん注:以下の書上はベタで続いているが、条ごとに改行した。]

一、榎の木一株。百二十抱へ(六十丈也)、高さ、三百廿四、五間(百九十五丈餘也)、枝、三本に分れ、南方の枝、凡そ、八十二廻り、大にして(四十一丈なり)、宿り木。

一、杉。長さ、七間半。二本あり。

一、椎。長さ、五間二尺。七本あり。

一、檜、長さ、五間半。十二本あり。

一、黃楊《つげ》。長さ四間半。九本あり。

一、松、長さ四間半、七本あり。[やぶちゃん注:この条は底本には、ない。後掲する活字本で補った。]

一、柳。長さ四間半、六本あり。

一、竹。十八本あり。

一、南天、長さ二間半、七本あり。

右、紀州表より書狀にて申し來たる云々』[やぶちゃん注:最後の添書も一部カットされているので、活字本で補った。]とは、大きな噺《はなし》だ。

[やぶちゃん注:「攷證今昔物語集」「四」で出た、芳賀矢一編「攷證今昔物語集 下」(大正一〇(一九二一)年冨山房刊)の「本朝部」巻第三十一の「近江國栗太郡大柞語 第卅七」の芳賀の附注の「◎法苑珠林卷二十八神異篇雜異部」の漢文引用。国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認出来る。

「衡海」不詳。本文次の次の注から見て、実在する海域名ではないと思われる。

「華山」陝西省華陰市にある山。「中国五名山」の一つとして「西岳」とも呼ばれる。最高峰は南峰で二千百五十四メートル。

「萬頃」「頃」は中国の地積の単位で、百畝。ここは水面が広々としていることを言う。

「鄧林」中国の伝説上の人物である夸父(こほ)の杖が変じて成ったとされる「柚(ゆず)の木の林」。「山海経」の「海外北経」に見える。

「孫綽子」不詳。六朝東晋の文学者孫綽(そんしゃく 三一四年~三七一年)の著作か。彼は太原中都(山西省)が本貫で、官は廷尉卿から著作郎に進んだ。文才を以って、当時、名が高く、特に「天台山賦」は、魏晋時代の代表的辞賦として名高い。また、好んで、老荘の気風を説く「玄言詩」を作った人物である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『高木氏の「日本傳說集」四六頁』「五」に出たものの前の「(イ)船木」。国立国会図書館デジタルコレクションの高木敏雄著「日本傳說集」第四版(一九二六年武藏野書院)のこちらの「樹木傳說第四」の冒頭で、視認出来る。

「長門國船木」現在の山口県宇部市船木(グーグル・マップ・データ)。東と北に接して二つの「万倉」を含む地区が接している。

「西澤一鳳」(にしざわいっぽう 享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五三)年)は歌舞伎狂言作家で考証家。当該ウィキによれば、浮世草子作者・浄瑠璃作者の西沢一風の曾孫で、大坂生まれ。家業の正本(歌舞伎脚本)屋と貸本屋を心斎橋南四丁目で営みながら、俳諧を好み、歌舞伎狂言を執筆、大坂劇壇での活動の後、江戸に移って活動を続けた。歌舞伎狂言の台本を数多く著したほか、人形浄瑠璃や歌舞伎の考証にも業績があり、さらに紀行文や随筆なども多く遺している。「皇都午睡」は 嘉永三(一八五〇)年に上梓された江戸見聞録で、江戸や道中諸国の文化風俗を京・大阪と比べて論じたものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類従』(明治三九(一三〇六)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が視認出来る。標題は「熊野の大樹」。]

 外國にも滅法界《めつぽふかい》な[やぶちゃん注:やたらと。]大木譚が少なくない。古カルヂア人は、「宇宙に、大樹、有《あつ》て、天を頂とし、地を足とす。」と信じ、インドのカーシア人は、「昔し、人が高樹を攀《よ》ぢ、昇天して、星と成つたと云ひ、パラガイ國のムボカビ人は、「死んだ人は、木を攀ぢて、登天す。」といひ、ニウジーランド人は、「太古、天地、連接せしを、神木、生えて、推し開いた。」と傳ふ(一八九九年巴里板、コンスタンタンの「熱帶景物編」二八五頁)

[やぶちゃん注:「カルデア人」カルデア人(Chardeans)は新バビロニア(カルデア)帝国を建設したセム系遊牧民の一つ。紀元前一一〇〇年頃、バビロニア南部に定着し、紀元前八世紀末に部族統一国家を形成、紀元前六二五年、ナボポラッサルがバビロンで独立し、メディアと連合して、アッシリアの首都ニネベを紀元前六一二年に陥落させ、新バビロニア帝国を建設した。その子ネブカドネザルⅡ世 (在位:紀元前六〇五年~紀元前五六二年)の時代には、国土も旧アッシリア領の大部分を占め、首都バビロンには、吊庭(空中庭園)で有名な大宮殿た、「バベルの塔」を持つ大神殿・凱旋道路・大城壁などが建設或いは再建され、政治・経済・文化も大いに栄えて、王国の全盛時代を迎えた。紀元前五八六年、エルサレムを破壊し、王以下を、バビロンに捕囚したのも、ネブカドネザルで、これは「哀歌」に歌われた「バビロニア捕囚」で広く知られている。しかし紀元前五三九年、ナボニドスが新興のアケメネス朝ペルシアの軍門に下り、帝国は一世紀足らずで滅亡した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「カーシア人」不詳。

「パラガイ國のムボカビ人」パラグアイのことか? 「ムボカビ人」は調べたが、不詳。]

 「山海經《せんがいきやう》」に、『西海の外、大荒《だいこう》の中に方山《はうざん》あり。その上に、靑樹、有《あつ》て、「柜格《くかく》の松」[やぶちゃん注:底本では「拒格の松」であるが、「中國哲學書電子化計劃」の当該書の影印本の当該部で訂した。]といふ。是れ、日月の出入する所也。』。「淮南子」の「地形訓」に、『建木は都廣(註に云《いは》く、『南方の山名。』。)にあり。衆帝の、自(まつ)て、上下する所、日中、影無く、呼んで、響き、なし。蓋し、天地の中也。若木は、建木の西に在り、末に、十日、在り。その華、下地を照らす(註に云く、『若木の瑞に、十日、有て、狀《かたち》、蓮華の如く光り、其下を照《てら》す也。』。)。』[やぶちゃん注:これは正確には「淮南子」の注解書である「淮南鴻烈解」を熊楠は元としている。「中國哲學書電子化計劃」の当該書の影印本の当該部を見られたい(後ろから四行目以降)。]。漢の王充の「論衡」「說日篇」に、儒者、論ずるは、『日《ひ》、旦《あし》たに、扶桑を出で、暮に細柳に入る』云々。『「桑柳」は天地の際、日月、常に出入する所の處ろ。』と。又、「禹貢」・「山海經」に言《いは》く、『日、十、有りて、海外に在り。東方に、湯谷《たうこく》、在り。上に、扶桑、在り。十日、水中に浴沐す。水中に、大木、有り、九日、下枝に居《を》り、一日、上枝に居る。』と。唐の敬括の賦に、『建木、大きさ、五千圍《めぐり》、高さ、八千尺。』。漢の東方朔作という「海内十洲記」には、『扶桑は、東方碧海の中に在り、地方萬里』云々。『椹樹《ちんじゆ》あり(「康煕字典」に『椹は桑實《くはのみ》なり』。)、長きもの、數千丈、大きさ、二千餘圍。樹、兩々、同根あり、偶生し、更(かはる)がはる、相依《あひよ》る、是を以て、「扶桑」と名づく。』とありて、『其葉、中國の桑の如く、其《それ》、椹、稀にして、色、赤く、九千歲に、唯、一度、生じ、仙人、之を食ふ時は、全體、金光色《こんかうしよく》となつて、空を飛翔《とびかけ》る。』と云ふ。因て考ふるに、「扶桑」は、桑に似た大木で、隨《したがつ》て、其が生ずる地をも、「扶桑」と呼び、每旦《まいあさ》、日が出る處としたので、古支那人は、日は、凡て、十、有り、交替して、一日、出勤する間に、九日は、扶桑の下枝に在《あつ》て、休む、としたのだ。

[やぶちゃん注:「禹貢」これは「選集」では括弧も何もつかず、あたかも「山海經」に禹貢なる人物の書いた別本があるように読めてしまうが、これは、「書經(別名「尚書」)の中の「禹貢」の部分を指している。]

 同樣の信念がアツシリアにも有《あつ》たは、コンスタンタンの「熱帶景物篇」一五五圖、古錢に印した大木の實が、悉く、日たる畫が證する。この世界を照《てら》す太陽は、一つしかなきは、誰も知り切《きつ》た事だが、昔しの人は、金錢や訴訟や廣告や虛榮に、惱殺されず、多閑の餘り、天文に留心する事、藝妓買ふ錢無い男が、女房の顏計《ばか》り、無料で見續けて樂しむ如く、隨つて、日の行路等が、日々、同じからぬを觀《み》たり、氣象の工合ひで、暈環《うんくわん》[やぶちゃん注:日・月に被るかのように見える暈(かさ)のこと。]に數個の日が現はるゝを視《み》たりして、十日交替說を生じたので、每日、一《ひとつ》の太陽が、扶桑樹の上枝から出動し、他の九つは、下枝に休むと云ふは、日を鳥蟲《てうちゆう》同然の生物と見たのだ。扨《さて》こそ、「山海經」に、帝俊の妻が十日を生んだとか、「准南子」に、堯の時、十日、並び出で、草木、焦《こげ》枯れたから、羿《げい》に、十日を射せしむると、九日中の烏《からす》が殺されて羽を落とした抔《など》、載せたのだ。「建木日中無影。」〔建木(けんぼく)、日中に、影、無し。〕というから、日よりも、木の方が高いのだ。

[やぶちゃん注:『コンスタンタンの「熱帶景物篇」』不詳。識者の御教授を乞う。

「羿」中国古代伝説上の弓の名人の名。このエピソードで、よく知られる人物。]

 「神異經」に、大木を多く載す。東南荒中の邪木は、高さ三千丈、南方大荒中の柤稼𣘗樹《さかじつじゆ》は、高さ百丈、或は、千丈、三千年に、花、さき、九千歲で、實る。如何《じよか》といふ木は、高さ五十丈、三百年に、花、さき、九百歲で、實る。其實を食へば、水・火・白刄に犯されず。南方荒中の涕竹は、長さ數百丈、圍み三丈六尺、厚さ八、九寸、船に出來る。晉の張華の「博物志」三に云く、『止些山《ししさん》に、竹、多く、長さ千仞、鳳、其實を食ふ。』と。仞は、四尺、又、八尺という(「康煕字典」。「和漢三才圖會」一五)。何れにしても、高い竹だ。和賀邦にも、津村正恭の「譚海」一に、『越中黑部、川原に沿《そひ》て、山中に入《いる》事、三里許りは、人跡、至る所也。兩岸みな桃の花也。其より奧へ、限りなく竹林ありて、人の至りがたき所也。自然に、川上より流れくる竹の筒の朽《くち》たる抔、徑《わた》り一尺四、五寸程なる有り。井戶の側《かは》[やぶちゃん注:井筒。]にしたる事有り。』と吹いて居《を》る。之に似たこと、「東海道名所圖會」に、參河《みかは》の鳳來寺山に、神代より在つた大木の桐は、高さ四十九丈、圍《めぐり》卅九尋、其西の枝に、長さ八咫《し》(「尋」は八尺、「咫」は八寸)で長さ一丈餘の尾あり、全身五色で、金光あり、美聲を出す鳥が住んだ。其を、聖德太子が、「鳳凰」と鑑定された由、記す。

 晉の王嘉の「拾遺記」一に、「窮桑」は西海の濱に生じた一本立ちの桑で、直上、千尋、葉、紅に、實、紫だ。萬歲に、一度、實る。之を食ふと、天に後《おく》れて老ゆ、とは中々の長生だ。卷の三に、周の靈王、崿谷陰生[やぶちゃん注:切り立った崖を持った谷に太陽光を避けて生えることか。]の樹、長さ千尋なるを得たり。此一樹を以て昆昭臺を建てた。卷五には、祈淪國《きりんこく》[やぶちゃん注:不詳。]に壽木の林有り、樹の高さ、千尋で、日月を陰蔽す。其下に憩へば、皆、死せず、病まず。他國から來て、其葉を懷中して歸る者は、終身老いず[やぶちゃん注:太字箇所は、底本では傍点「◦」。]、とは妙な言ひ樣だが、一生、衰弱の色なく、長生の後ち、卒中で死ぬか、朝日平吾[やぶちゃん注:底本では「朝日吾平」。「選集」その他により、訂した。]に刺殺さるゝのだらう。梁の任昉《にんばう》の「述異記」上に云く、『磅礑山《ばうたうざん》の地、甚だ、寒し。千圍《せんゐ》の桃の樹、有て、萬年に、一度、實る。』と。桃栗三年恥かき年を洒落《しやれ》て、日本には桃の老木は、とんと、見當らぬが、支那には有るのか知《し》ら。其下卷に云く、『東南に桃都山あり。上に、大樹、有て、「桃都」と名く。枝、相去ること、三千里。上に天鷄あり。日、初《はじめ》て出《いで》て此木を照《てら》せば、天鷄が鳴く。天下の鷄、皆、隨つて鳴く。』と。以前、七草の囃《はや》しに、トウトの鳥云々と云つたは、桃都の鷄が、渡り來つて、「日本の衆、鷄、隨ひ鳴かぬ内に、七草を、囃せ。」との意義と牽强し得べきか。鵜川政明の「華實年浪草《くわじつとしなみぐさ》」一上に、倭俗、七草を打つ唱へに、「唐土《もろこし》の鳥と日本の鳥の渡らぬ先に七草なずな」と云ふは、「歲時記」に、正月七日(原書には『正月夜』とあり)、鬼車鳥多く渡るを、禳《はら》ふため[やぶちゃん注:「禳」は底本では「穣」。誤植と断じ、「選集」を参考に訂した。]、家々、門を槌《つちう》ち、燈燭を滅す、とある支那俗を傳へたので、「鬼車」は惡鳥の名、と有るが、唐土の鳥と見ても、意味、十分に判らない。唐の李石作といふ「續博物志」五に、『海中に庭朔山あり、上に、桃木、有りて、三千里に蟠屈す。其東北に向ふた枝が、鬼門で、萬鬼の出入り所也、と云ふも、一事別傳でがな有らう[やぶちゃん注:この最後の「でがな」の「がな」は副助詞で、体言又はそれに「で」が付いたものに付き、「例示」の「~でも・~かなにか」或いは「不定」の「~か」である。ここは、「一つの事象の、ただの別伝、とでも言うべきものであろう」の意。]。「毘沙門の本地」[やぶちゃん注:この鍵括弧は底本にある。]に、金色太子《こんじきたいし》、黃金《こがね》の筒井を尋ねて、川を渡るに、高さ一由旬の鐵の木、三本、有り、下に長《たけ》十六丈の鬼、有つて、罪人の衣を剝ぐ。』と記す。アイテルの「梵漢語彙」に、『一由旬は卅三哩《マイル》半、又は、十哩、又は、五哩半。』と見ゆ。「拾遺記」十に、『岱輿山《たいよざん》に、長さ、千尋の、沙棠《しやたう》、豫章の木あり。細枝を、舟とするに、猶、長《たけ》十丈。』と云ふ。

[やぶちゃん注:「朝日平吾」(あさひへいご 明治二三(一八九〇)年~大正一〇(一九一一)年九月二十八日)は政治活動家にして、右翼のテロリスト。実業家安田善次郎を暗殺(刺殺)し、自身も、その場で剃刀で咽喉部を切って自殺した。詳しくは当該ウィキを見られたい。本篇のこの部分の初出は大正十一年十二月発行の『土の鈴』である。

『鵜川政明の「華實年浪草」』鵜川麁文(そぶん)政明の手になる天明三(一七八三)年刊の歳時記。国立国会図書館デジタルコレクションの原版本の「若草七草 薺」の条のここ(右丁後ろから三行目下方から)が当該部である。

「毘沙門の本地」室町時代の御伽草子の一つ。後に説経節になった。

「卅三哩半」約五十三キロメートル。

「十哩」約十六キロメートル。

「五哩半」約八キロ八百五十一メートル。

「拾遺記」後秦の王嘉(?~三九〇年頃)が撰した志怪小説集。全十巻。

「沙棠」現在、この樹木名は実海棠(みかいどう)の別名である。バラ科ミカイドウ Malus micromalus の落葉小高木。中国原産で、観賞用に庭に栽植される。カイドウに似ているが、枝は、細長く、紫色を帯び、花は上向きに咲き、果実は生食出来る。漢名は「海紅」「海棠利」。しかし、これは完全な栽培種で野生種はないから、掲載された書物から、それではない。不詳。]

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