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2023/09/29

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐浄瑠璃を聴く」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐浄瑠璃を聴く【きつねじょうるりをきく】 〔兎園小説第七集〕和泉国日根郡佐野村<現在の大阪府泉佐野市日根野か>といふ処に(世にしられたる食野《めしの》佐太郎といふもの、この村に住す。岸和田にて食野を佐野と称す)浦太夫とて義太夫節の浄瑠璃をよくせる者有り。五畿内にて十人のかたりての一なり。常にこの佐野村より大坂の座へかよひて業《なりはひ》とせしが(佐野村は、岸和田城をさる事五十丁、道弐里とぞ。大坂をさる事おなじ。道法《みちのり》九里ばかり)一日浪華よりの帰途、夜に入りて、同国泉郡布野といふ所を通りしに(布野は浪華より紀州への往還にして、高石といふ所の三昧寺《さんまいでら》の有るところなり。三昧といふは※1※2所をいふ[やぶちゃん注:「※1」=(上)「𠆢」+(下)「番」。「※2」=「土」+「毘」。通常、「三昧」とは「墓地」の意である。この熟語も、その意であろう。則ち、寺院があるわけではない埋葬場のことであろう。]。高石は古《いにしへ》たかしといふ。即ち高しの浜なり)ふと人と道づれに成りしに、一人のいふ、先刻より説話を承るに、音に聞きし浦太夫のよし、自分はこの布野の下在《したざい》なる(この辺にては、山の在方を上(うへ)と云ひ、浜の方を下(した)といふ)某の村の者なるが、此所《ここ》にて行き逢ひしは幸《さひはひ》のことなり。何卒今より我方に来りて、一曲をかたり聞かせ給はるべしといふ。浦太夫何ごころなくうけあひて、その家に伴ひ行きしに、大《おほい》なる農家にて、座しきへ通し休足させ置き、その内に大勢あたりの者寄り来りて座に満つ。主人盛に杯を持ちて酒肴を勧む。浦太夫いへるは、あまりに多く飲食をなせば、飽満して浄瑠璃をかたるに迷惑なり、先づ語りて後に給はらんとて、一二段かたりければ、座中ひつそりとして感に堪へし有りさまなり。また暫く飲食して大いに興に入りしに、座客又々かたらん事を望む。則ちその乞《こひ》に任せて数段《すだん》を語りしが、席上実《げ》に感服せしにや。息もせずひつそりとせしに、心をつけて見過《みすご》せば、人ひとり居《ゐ》ず。眸を定めて四方を見るに、夜少ししらみて、東の方《かた》明けかゝるに、今迄座敷なりとおもひし所は、あらぬ布野の三昧なりければ、仰天して帰らんとせしに、夜はほのぼのと明けはなれたり。草ばうばうたる墓所なりけるに、ぞつとして早々家に帰り、狐に魅《み》されしと心付くに、夢のごとくに飲食せしものは、さだめて世にいふ馬勃牛溲《ばぼつぎうし》にこそとおもはれて、何となく胸悪しく、心も心ならず。恍惚としてただしからず。数日《すじつ》わづらひて打ち臥したり。その頃、和泉国中にて佐野の浦太夫は、狐に化《ばか》されしか、狐に浄瑠璃を望まれしかと、一国の評判になる折しも、或人のいひけるは、その夜浦太夫に饗せしものは、あらぬ不潔の物にはあらず。その夜近村に婚姻の礼ありしに、その用意の酒肴膳部のこらず失せてあとかたなし。さだめて狐狸などの所為ならんとて、その家には別に飲食をとゝのヘしと聞く。されば布野の三昧に魚骨杯盤引散らして、さながら人の飲食せし如く狼籍たりしとぞ。これをきけば、浦太夫が食せしは実《まこと》の食品にて、野狐、その芸を感じ、酒食をもてなし、浄瑠璃を聞きしならんとの取り沙汰にて、浦太夫追日《ついじつ》[やぶちゃん注:「日ましに」の意。]平癒せしが、その後は太夫をやめ、外のなりはひして世を送り、程へては折にふれて、人の望に応じてかたりしこともあれど、たえて業とはせざりし。実に安永年中の事なりとぞ。(岸和田藩中茂大夫談、同藩三宅定昭が筆記)

[やぶちゃん注:正規表現(注附き)は私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 野狐魅人』を見られたい。]

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