柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火車」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
火車【かしゃ】 生前に悪事をした亡者を乗せて地獄へ運ぶ火を発する車 〔茅窻漫録下〕西国・雲州・薩州の辺、または東国にも間々ある事にて、葬送のとき、俄かに大風雨ありて、往来人を吹き倒す程の烈しき時、葬棺《さうくわん》を吹上げ吹飛ばす事あり。その時、守護の僧珠数(じゆず)を投げかくれば異事なし。若《も》しさなきときは、葬棺を吹飛ばし、その尸《かばね》を失ふ事あり。これを火車(かしや[やぶちゃん注:ママ。「くはしや」が正しい。])に捉(つかま)れたるとて、大いに恐れ恥《はづ》る事なり。愚俗の言伝へにその人生涯に悪事を多くせし罪により、地獄の火車が迎ひに来りしといふ。後にその尸を引裂き、山中の樹枝(きのえだ)または岩頭(いはかど)などに掛け置く事あり。火車と名付くるは、仏者よりいひ出したる事にて『法事讃』に「無量ノ刀林当《まさし》クシテㇾ上《(うへ)ヨリシテ》而下リ。火車炉炭十八苦ノ事。一時ニ来リ迎フ」といひ『因果経』に「今身《こんしん》作《なり》テ二後母《ト》一。諛二剋《ゆこく》スル前母ノ児ヲ一者。死シテ墜ツ二火車地獄《ノ》中ニ二。」など、愚俗を驚畏せしむるなり。慈鎮の『拾玉集』に
火の車今日は我門やりすぎて
あはれいづ地に巡り行くらむ
[やぶちゃん注:和歌は一行だが、ブラウザの不具合を考えて、下句を改行して下げた。]
その火車に捉《つかま》れたるといふは、和漢とも多くある事にて、これは魍魎(もうりよう[やぶちゃん注:ママ。])<木石の怪>といふ獣《けもの》の所為《しわざ》なり。罔両とも方良とも書く。『酉陽雑爼』に「周礼《しうらい》ニ方相氏《はうさうし》殴《たた》カル二罔象《まうしやう》ニ[やぶちゃん注:「ヲ」の誤り。]一。好《このみ》テ食フ二亡者《ノ》肝《(きも)》ヲ一。畏ル二虎《ト》与一ㇾ栢《このてがしは》ヲ。墓上ニ樹ヱㇾ栢ヲ。路ノㇾ口ニ致スハ二石虎ヲ一為《た》メナリㇾ此ガ也」[やぶちゃん注:底本では「此」の後には右に「み」とあるが、「ガ」に訂した。]とあり。この獣葬送の時、間々《まま》出《いで》て災《わざはひ》をなす。故に漢土にては聖人の時より、方相氏といふものありて熊の皮をかぶり、目四ツある形ちに作り、大喪の時は、柩《ひつぎ》に先立《さきだて》て墓所に至り、壙(あな)に入りて戈(ほこ)を以て四隅をうち、この獣を殴(カル[やぶちゃん注:カタカナはママ。])事あり。これを険道神(けんたうしん[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館『随筆大成』版では『ケンダウシム』と振る。])といふ。『事物紀原』に見えたり。この邦にても、親王一品《しんわういつぽん》は方相《はうさうし》轜車《じしや》[やぶちゃん注:貴人の葬儀に際し、棺(ひつぎ)を載せて運ぶ車。進行の際、哀音を発するよう、車輪に特殊な構造が施されてある。「喪車」「きぐるま」とも呼ぶ。]を導く事、『喪葬令』に見ゆ。今の俗葬送に竜頭《りゆうとう》を先きに立つるも、その遺意なり。時珍の『綱目』に『述異記』を引《ひき》て、秦の時陳倉《ちんさう》の人、猟してこの獣を得たり。形は彘(いのこ)の若(ごと)く羊の若《ごと》しとあり。古より愚俗の誤りて火車《くはしや》と名付くるゆゑ、地獄の火車《ひのくるま》と思ふ、笑ふべし。
[やぶちゃん注:掲げた挿絵の最初のものは、『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」のものをトリミング補正して挿入した。キャプションは「魍魎」で右に「クハシヤ」と振る。厳密には「魎」の字は「鬼」の八画目の右の「あし」は(つくり)の「兩」の下には及んでいない。後に掲げたものは、所持する日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成』第一期二十二巻(昭和五一(一九七六)年吉川弘文館刊)の同じ部分の挿絵なのであるが、明らかにキャプションの「魎」の字が異なり、位置も違うことから、別な版本(恐らく再版)と考えられる(そうか! だから吉川弘文館『随筆大成』版には異様にルビがついているのだ!)トリミングし、補正は加えずに、敢えて載せた。キャプションの位置違いは、恐らく「奇談異聞辞典」のレイアウト上、移動させたものであって、別な絵ではないと思う。絵とキャプションは作者茅原虚斎のものであろうが、にしても、調べてみたが、不思議なことに、この画像の原拠の出所が全く判らない。私はこのような「魍魎」或いは「火車」の図版を他で似たものを見たことがない。作者は博識であり、無知蒙昧の連中の誤謬を冷酷に批判しているが、では、何故、この描いたモデル原拠を示さないのか? 人をあざ笑う前に、お前の恣意的な正体不明の幻獣画像をこそ自ら問題にすべきではないかッツ?! もし、原拠画像があるとなら、識者の御教授を切に乞うものである。個人的には中国の本草書の「魍魎」関連の図を元にしたのであろうことは想像される。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」に「魍魎」が載るが、耳が上に長い小児のように描いてある。本文を引くと、『「淮南子」に云ふ、『罔兩は、狀(かたち)、三歳ばかりの小兒のごとく、赤黒色。赤き目、長き耳、美しき髮あり。「本綱」に云ふ、『罔兩は、好みて亡者の肝(きも)を食ふ。故に「周禮(しゆうらい)」に『方相氏は、戈(ほこ)を執り、壙(くわう)に入り、以つて、方艮を驅(か)る。』と云ふ、是れなり。其の性、虎と栢(このてがしは)とを畏る。曰〔ひて〕、此れ、「弗述(ふつじゆつ)」と名づく。地下に在り。死人の腦を食ふ。但し、柏[やぶちゃん注:ママ。]を以つて、其の首を挿せば、則ち、死す。此れ、卽ち、罔兩なり。』と』。『按ずるに、魍魎は、「左傳」の注疏に、『川澤の神』と爲し、「日本紀」にも亦、以つて、「水神」と爲し、魑魅を以つて「山神」と爲す』とある。そちらの二種の絵(版の違うもの)を見て貰うと、「和漢三才圖會」のそれは孰れも、どこか可愛らしい愛すべき姿をしている。本草家の茅原は「和漢三才圖會」を読んでいることは確実である。而して、このえげつない狐みたような図は、茅原がこれをデフォルメした可能性が浮んでくるように思う。全く以って俺は、この茅原、好かんわ!]
(『淮南子』に載せたる罔両は『大和本草』に、俗にいふ河太郎《かはだらう》といふ獣なりと。これは『本草綱目』渓鬼蟲附録に出たる水虎にて、『通雅』に水虎、水蘆の名あり、形猴(さる)のごとく、円《まろ》く鼻長く赤毛を戴く、項(うなじ)に皿あり、全体亀(かめ)の種類にて、水に居て人を捕り食ふ者なり)
[やぶちゃん注:漢文部の訓点は底本では、あまりに不全で、杜撰極まりない。そこで所持する吉川弘文館『随筆大成』版の訓点を特異的に参考にし、全体の読みも、こちらは有意に多く附されてあるので、やはり参考にして、推定で添えた。それは《 》を添えておいたが、底本の当該部を、まずは見られたい。底本のこの項を正確に総て読みこなせる方は、私は極めて稀れな才能の持ち主と存ずる。
「茅窻漫録」(ぼうそうまんろく(現在仮名遣))は医師で本草家であった茅原虚斎(ちはらきょさい 安永三(一七七四)年~天保一一(一八四〇)年:長門出身。名は定(さだむ)。京で医者を開業した。動植物に通じ、「詩経名物集成」全六巻(文化五(一八〇八)年)がある)の随筆。文政一二(一八二九)年自序で、天保四(一八三三)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正規表現で挿絵附きのものが視認出来るが、こちらにはルビは殆んどない。
「火車」私の「怪奇談集」では、最も出場の多いメジャーな怪異である。個々の「火車」怪談を挙げるとキリがないので、ここでは、作者がその仕業の元凶として指示する「魍魎」について、『大和本草附錄巻之二 「魍魎」 (中国版水怪)』を挙げておく。本文は、ごく短いが、そこで私は「火車」も含めて、かなりの注を附してあるからである。というより、最後の附記で本篇でも、それに触れてもいるのである。
「法事讃」の引用は、ざっくり言うと、最大の悪事である五逆(父を殺すこと・母を殺すこと・ 阿羅漢を殺すこと、僧衆の和合を破ること。仏身を傷つけること)を犯した者の臨終に際して、瞬時に、そそり立つ無数の抜身の刀の林の中を上下させられ(衆合地獄の刀葉林のイメージ)、地獄の迎えの火車やら、大きな罪人を炒る炉やら、その燃え立つ炭火やらがやって来て速やかに地獄のあらゆる苦しみが現前するという意味であろう。
「因果経」の引用も、ざっくり訳すと、継子いじめで、「現世で、継母となって、前妻の子を機嫌を取るように装いつつ、その実、厳しくいじめた母親は、『火車地獄』に堕ちる。」という戒めである。
「慈鎮の『拾玉集』」平安末から鎌倉初期の天台僧慈円(久寿二(一一五五)年~嘉祿元(一二二五)年)の諡(おくりな)。関白藤原忠通の子で九条兼実の弟。天台座主を四度務めた。「愚管抄」を著わし、「拾玉集」は彼の私家集。「無常五首」の第一首目。
「方相氏」「周礼」の「夏官」に見える周代の官名。黄金の四目の仮面を被り、玄衣・朱裳を着用、手には戈と楯を持って、悪疫を追い払うことを司ったとされる。本邦では「追儺」(ついな)の行事の際、宮中の悪鬼を追い、また、葬送の際、棺を載せた車を先導する役をした。グーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。
「罔象」所持する東洋文庫版の今村与志雄訳注「酉陽雑俎」(一九八〇年平凡社刊)の当該条の注に、『『周礼』「夏官司馬」によると、方相氏がたたく相手は方良である。方良は、罔両と同じである。蝄蜽(もうりょう)、魍魎(もうりょう)ともかく。水神という。あるいは山川の精物(妖怪)という。罔象は、『史記』「孔子世家」に、「木石の怪は、龍、罔象、土の怪は墳羊(ふんよう)」という、その罔象である。『集解』によると、三国時代のの呉のとき、「罔象は人を食う、一名『沐腫(もくしゅ)』という」説もあったらしい。方良と罔象、どちらも水中の怪物であるところから、段成式の時代には、同一視されていたのであろう』とあった。
「栢」本邦ではヒノキ科、或いは、イヌガヤ科カヤを指すが、中国では本来は、裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis を指した。
「事物紀原」中国の類書(百科事典)。宋の高丞撰。原本は二十巻。天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類して名称・縁起の由来を記す。
「喪葬令」(そうそうりょう:現代仮名遣)現在残るものでは「養老律令」(ようろうりつりょう:(天平宝字元(七五七)年)に施行されたそれが最も古いか。
「『本草綱目』渓鬼蟲附録に出たる水虎」同じく寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「水虎」を見られたい。]
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