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2023/10/31

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「酒飲む妙案」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 酒飲む妙案【さけのむみょうあん】 〔蕉斎筆記〕この已前浄瑠璃の作者、近松半二といふあり。実は大坂の儒者穂積伊助が弟なるよし。至つて貧乏にくらし、唯風塵の外に遊ぶものなり。或時仲間並木宗輔来り、一盃飲むべしといひけるに、何も貯へなし。爰に四十文程銭あり、これにてはのめぬといひければ、半二しばらく思按《しあん》して、急度(きつと)肴《さかな》にてのめる趣向有りと、家うちの神棚をさがし外へ出《いで》、暫くして帰り、追付《おつつけ》け飲めるなりと両人相待ちけるに、宗輔も待遠く覚え、度々催促しけるに、今しばらく待てよといひけるゆゑ待ちたるに、半二身拵へして、さらば今より参るべしと、両人連合ひ町内の中山文七所《ところ》へ行く。なにくはぬ顔にて、内方《うちかた》に居給ふやと尋ねければ、家内の者大に悦び、これは幸ひの所へ来玉《きたま》うたり、今日は有難き事なり、格子の内へ御祓《おはら》ひ様《さま》ふり込み給うたり、その祝ひをするなりとて、大勢寄合ひ美酒美肴を両人したゝか給(た)べ帰りたり。それはその年《とし》御かげ参りの年にて、大坂にても所々へ御祓ひ様ふり給ふといふ時節なれば、半二自分の所の御祓ひを持出て、格子の内へ投込み帰りて、しばらく見合せ飲みに行きたるなり。狂言の作者程ありて、よき趣向を付けたりとなん。

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(左ページ下段の『寬政七卯同八辰年』(グレゴリオ暦一七九五年二月十九日から一七九七年三月八日まで)の冒頭の条で正字で視認出来る。但し、問題があって、そこでは、ここの「御祓」が総て『御拔』『御拔』となっていることで、これはそちら(或いは原著者)の誤りである。そちらが誤った理由も判る。所謂伊勢神宮への「お蔭參り」は、以前は「拔け參り」と称したからである。しかし、そのリンク先の活字本で一箇所『御拔』とあるのは、まさに「御祓ひ」であることを示唆しているので、私はそちらの編者、又は、原本を書写した者が「祓」の崩し字を「拔」と誤ったのであろうことは明白である。なお、「お蔭参り」については、『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」』の私の注、及び、それに続く複数の記事を見られたい。この「御祓」とは、伊勢神宮の幣帛(へいはく)、御幣のこと。それが「お蔭参り」の流行中、各所で天からそれが降ったのである。実際には、「お蔭参り」の信者たちや、御師(おんし:伊勢神宮に附属する者の場合のみの読み。他では「おし」と差別化する)等が、流行に拍車を掛けるために確信犯で行ったものと推定出来る。

「近松半二」(享保一〇(一七二五)年~天明三(一七八三)年)は知られた江戸中期の浄瑠璃作者。大坂出身。本名は穂積成章。儒者穂積以貫(これつら)の子。二世竹田出雲の門。「奥州安達原」で認められ、立作者となる。雄大で技巧的な構想を持つ作品を書いた。「本朝二十四孝」・「傾城阿波の鳴門」・「妹背山婦女庭訓」など。

「儒者穂積伊助が弟なるよし」近松半二には兄がいるが、この場合、恐らく「弟」は「父」の誤りである。

「並木宗輔」(元祿八(一六九五)年~寛延四(一七五一)年)は半二と同時期の浄瑠璃・歌舞伎作者。通称は松屋宗介。僧であったが、三十歳の頃、還俗し、豊竹座の作者となった。師西沢一風らと合作した「北条時頼記」が評判となり、以来、立作者として活躍し、延享二(一七四五)年には竹本座に転じ、「並木千柳」と改名、竹田出雲父子・三好松洛らと浄瑠璃全盛期を齎した。作品は名作揃いで、「菅原伝授手習鑑」・「義経千本桜」・「仮名手本忠臣蔵」などがある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「桜が池」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 桜が池【さくらがいけ】 〔諸国里人談巻四〕備後《びんごの》阿闍梨皇円は源空上人<浄土宗の開祖>の師にて、比叡山にありて、その頃の明匠、一山の雄才なりける。皇円曰く、長寿は蛇身にしかず、吾蛇身となりて弥勒の出世を待つべし、遠州桜が池はその深き事をきく。これに住まんと。臨終の時、この池の水を掬《きく》す。その時池水大きに騒ぐ。皇円入寂と同時なりとぞ。今に至つて閑夜には鈴の音《ね》、池の辺に聞ゆると云へり。この池は遠江国笠原庄桜村<静岡県小笠郡笠原村内>に男池・女池とて、方五町ばかりの池二つあり。桜が池と云ふ。池の社は牛頭天王なり。毎年八月彼岸の中日午の刻<午前十二時>に、半切(はんぎり)桶に赤飯を盛りて、水錬(およぎ)の達者なるもの、これを押し行き、池の真中とおもふ所にて押しはなし、その身は向うの岸に游ぎつくなり。時に池水渦巻きて、その飯器、水底に沈むなり。この飯器はその数定《さだま》らず。願望にしたがひ三ツ七ツ、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]五ツ、年々に増減ありける。<『笈埃随筆巻九』『譚海巻六』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之四 桜が池」を見られたい。

「遠江国笠原庄桜村」「静岡県小笠郡笠原村内」『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」では、現在の『静岡県袋井市内』とするが、誤り。現在の静岡県御前崎市佐倉である(グーグル・マップ・データ)。

「笈埃随筆巻九」著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は「○櫻池奇驗」である。

「譚海巻六」同巻の「遠州櫻ケ池大蛇の事」を指す。リンク先に事前に電子化注しておいた。]

譚海 卷之六 遠州櫻ケ池大蛇の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

○遠州櫻が池は、東海道袋井宿の北海邊、近處に有(あり)。

 每年、秋の彼岸の中日に、祭禮とて、村民、赤飯を拵(こしら)へ、箱にをさめ、牢(かた)く封じて持行(もちゆき)、その所の山伏に賴(たのみ)て池の神に供(きやう)しもらふ。山伏、其箱を、あまた、船につみのせてこぎ出(いで)、池の中心にいたつて、棹をとゞめ、箱どもを、水底へ押入(おしいる)るに、すべて、浮ぶ事、なし。二、三日有(あり)て、其沈みたる箱、おのづから、浮上(うかびあが)るを見れば、皆、もとの如くにして、箱の内に納(をさめ)たる赤飯は、むなしくなく成(なり)てあり、人々、不思議とする事也。

「この池の神、大蛇なる。」

よしを云(いふ)。

 又、或說には、圓光大師の師の房、こゝに水定(すいぢやう)して、池の主(ぬし)と成(なり)たる事、大師の夢に告(つげ)ありければ、大師、こゝにくだりて、誦經(ずきやう)とぶらひありしかば、其房の靈、善果(ぜんくわ)をえられし事、と、いへり。

 よく、世にしりていふ事也。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之四 櫻が池」を参照されたい。

「圓光大師の師の房」「圓光大師」は浄土宗宗祖法然の諡(おくりな)。「師の房」前のリンク先の「阿闍梨皇圓」のこと。私の注を見られたい。

「水定」水界に身を投じて即身成仏すること。

「誦經」経文をそらで覚えて唱えること。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鷺の火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鷺の火【さぎのひ】 〔裏見寒話追加〕惣じて松杉の茂りたる中に、蹴鞠ほどの火見えて昇降する事有り。敢て人家へ触るべき火とも見えず。或人云ふ、蒼鷺、梢に泊す、風にゆられて動く毎に羽の光る事、火焰の如し。これを海辺にては鷺の火と云ふ。雄《を》按ずるに、闇の夜、猫の毛を逆に撫れば光るあり。これ火にあらで毛の末、互ひにすれ合て光ると。さすれば羽毛の光り、元よりあり。風に動き物にふれて光るものなり。闇の夜あらざれば光らず。

[やぶちゃん注:鷺が光る話は枚挙に遑がない。私の電子化にも、かなりの量、ある。二つ掲げておく。

「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」

「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事」

而して、私の見解は何らかの発行物質(例えば餌とした蛍由来)が附着したものか、何らかの遠くの光りがたまたま増幅して反射したものであろうと踏んできたが、筆者の見解、頗る科学的(摩擦による静電気による発光)で大いに支持出来るものである。

「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの『○鷺の火』がそれ。

「雄」は「男」で、筆者野田成方の自称代名詞であろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「逆沓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 逆沓言【さかぐつ】 〔譚海巻二〕丹後の由良の湊<京都福知山市の由良川口>にさか沓と云ふ故事有り。つし王丸といふ冠者《かじや》、三荘太夫《さんしやうだいふ》が許をにげて京へ登る時に、雪中に沓を跡になしはきてにげたる故、雪につける足跡、奥の方へつけるやうに見えしかば、追手の者奥のかたをとめて求めし故、逃れて京へ入る事をえたりといふ。

[やぶちゃん注:正規表現は私の「譚海 卷之二 丹後由良港さかさ沓の事」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「豺狼の義気」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 豺狼の義気【さいろうのぎき】 やまいぬとおおかみの義に富んだ心〔耳囊巻五〕尾州名古屋より、美濃へ肴荷《さかなに》を送りて生業《なりはひ》とする者ありしが、払暁(ふつげう)<あかつき>夜へかけて、山道を往返《わうへん》なしけるが、右道端へ狼出てありければ、与風(ふと)肴の内を、少々わけて与へければ、悦べる気色にて、聊か害もなさゞりしゆゑ、後々は往来毎に、右狼道の端に出ける節、絶えず肴を与へ通りしが、誠に馴れむつぶ気色にて、必ずその道の辺に出て、肴を乞ひ跡を送りなどせる様なり。かく月日ヘて、或時右の所、肴荷を負うて通り、かの狼に与ふべき分は、別に持ちて彼《かの》辺にいたりしに、与へし肴は曽《かつ》て喰はず。荷縄をくはへて山の方へいざなふ様子故、いかゞする事ぞ、その心に任せけるに、四五町も山の方へ引きいたりしに、狼の寝臥《ねふし》する所なるや、すゝき萱《かや》等蹈みしだきたる所あり。其所《そこ》に暫くたゝずみゐたりしに、何か近辺里方《さとがた》にて、大声をあげ、鉄炮などの音してさわぐ様子なりける故、暫く猶予して静まりける故、元の道へ立出しに、里人集まりて、御身は狼の難には逢はず哉《や》、渡り狼両三疋出て、海辺の方へ行きしが、人を破らん事を恐れて、大勢声をあげ、鉄炮など打《うち》て、追払ひしといひける故、我等はかくかくの事にて、常に往来之節、肴などあたへ馴染の狼、この山の奥の方ヘともなひし訳かたりければ、さてはかの狼、わたり狼の難を救ひしならんと、里人もともに感じけるとなり。

[やぶちゃん注:私のものでは、底本違いで、「耳嚢 巻之六 豺狼又義氣有事」である。十全に注を附してあるので、参照されたい。]

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鳩」

[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。

 また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。

 

 

   

 

 

 彼等は家の上で微かな太鼓のやうな音をたてるにしても――

 日蔭から出て、とんぼ返りをし、ぱつと陽に輝き、また日蔭に歸るにしても――

 彼らの落ち着きのない頸は、指に嵌めた猫眼石(オパール)のやうに、生きたり、死んだりするにしても――

 夕方、森のなかで、ぎつしりかたまつて眠り、槲(かしわ)の一番てつぺんの枝がその彩色した果實の重みで今にも折れさうになるにしても――

 そこの二羽が互に夢中になつて挨拶を交し、そして突然、互に絡み合ふやうに痙攣するにしても――

 こつちの一羽が、異鄕の空から、一通の手紙を持つて歸つて來て、さながら遠く離れた女の友の思ひのあyうに飛んで來るにしても(ああ、これこそ一つの證據(あかし)!)――

 そのさまざまの鳩も、初めは面白いが、しまひには退屈になつて來る。

 彼等はひとところにぢつとしてゐろと云はれても、どうしてもそれができないだろらう。そのくせ、いくら旅をして來ても、一向利口にならない。

 彼等は一生、いつまでたつてもちつとばかりお人好しである。

 彼等は、嘴の先で子供が作れるものと頑固に思ひ込んでゐる。

 それに、全くしまひにはやり切れなくなつて來る――しよつちゆう喉に何か詰つてゐるといふ、例の祖先傳來の妙な癖は。

 

Hato


 

[やぶちゃん注:新潮社刊の平成一三(二〇〇一)年四十六刷改版の新潮文庫版(新字新仮名)の前回のサイト版では、以上の後に、特殊な絵記号を挟んで(底本ではここに独特の飾り記号が入る。これが、「博物誌」の拠った原底本のフランスの版のものかどうかは、知らない。しかし、今回、この初期原型では無粋な「~」として置いていたのには、今の私は堪え得ない。されば、私の底本からOCRで読み込み、配することとした(以下、同じ)。仮に底本が特別に作ったデザイン記号であるとなら、新潮社から著作権侵害を申し込まれた時点で、何時でも無粋な「~」に戻す)、以下の附随条と岸田氏の補注(ポイント落ち)がある。

   *

        Hakubutusimark

 二羽の鳩が、ほら「さあ、こっちにきて、あんた(ビャン・モン・グルルロ)……さあ、

 こっちにきて、あんた(ビャン・モン・グルルロ)……さあ、こっちにきて、あんた(ビャン・モン・グルルロ)……」

 

  注 鳩の鳴き聲「モン・グルルロ」は、ここでは親しい者(雄鳩)
    に呼びかける「モン・グロ」と似せている。

    *

それぞれの「ビャン・モン・グルルロ」“Viens, mon grrros”(ハトの鳴き声の意図的なフランス語の諷刺的オノマトペイア)は、本文の「こっつちにきて、あんた」の部分のルビとなっている。なおルビは写植以前の御約束で拗音を小文字にしていないが、私の判断で「ビヤン」のみ小文字とした。なお、この「モン・グロ」は“mon gros”で、男性(時に女性にも)に親愛を込めて使うもので、原義は「私のおデブさん」である。なお、以下に示す原文では、『二羽の鳩が』に相当するのは、“LES DEUX PIGEONS.”で、「二羽の鳩」という標題であることが判る。因みに――つい最近まで腹が出ていた私のことを、連れ合いは客がいる時でも、躊躇なく「トドさん」と呼んでいた。最近、自分の腹部も出てきたので、彼女は、その呼称を使わなくなった。なお、以下の原文では、以上のパートも掲げておいた。

「鳩」ハト類は多種いるため、ここはまず、鳥綱ハト目ハト科 Columbidaeに留めるべきであろう。

「槲」これはフランスであるから、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata とすることは出来ない。本邦のお馴染みの「カシワ(柏・槲・檞)」は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にのみ植生するからである。原文では“chêne”で、これはカシ・カシワ・ナラなどのブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称である。則ち、「オーク」と訳すのが、最も無難であり、特にその代表種である模式種ヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク・イングリッシュオーク・コモンオーク・英名はcommon oakQuercus roburを挙げてもよいだろう。

「太鼓のやうな音をたてる」辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、ここ注を附され、『フランスでは、葬儀のときに打つ太鼓は、布でつつんで、音が鈍く出るようにする』とあり、また、一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』第五巻所収の佃裕文訳「博物誌」の後注には、

   《引用開始》

ボードレールも『悪の華』第九篇「悪運」の中で、

 俺の心は、こもった太鼓(ドラム)のように、

 葬送の行進曲を打ち鳴らして進む。

と歌っている。

   《引用終了》

と記しておられる。さすれば、ルナールはボードレールと同じく、ハトの鳴き声にポジティヴでブラッキーな死の香りを感じ取っており、底本では載らない末尾のそれの、“mon gros”の呼びかけもまた、冥界へと誘う死の女神のいまわしい慫慂をも示唆していると言うべきではあるまいか?

 

 

LES PIGEONS

 

Qu'ils fassent sur la maison un bruit de tambour voilé ; Qu'ils sortent de l'ombre, culbutent, éclatent au soleil et rentrent dans l'ombre ; Que leur col fugitif vive et meure comme l'opale au doigt ; Qu'ils s'endorment, le soir, dans la forêt, si pressés que la plus haute branche du chêne menace de rompre sous cette charge de fruits peints ; Que ces deux-là échangent des saluts frénétiques et brusquement, l'un à l'autre, se convulsent ; Que celui-ci revienne d'exil, avec une lettre, et vole comme la pensée de notre amie lointaine (Ah ! un gage !) ; Tous ces pigeons ; qui d'abord amusent, finissent par ennuyer.

Ils ne sauraient tenir en place et les voyages ne les forment point.

Ils restent toute la vie un peu niais. Ils s'obstinent à croire qu'on fait les enfants par le bec.

Et c'est insupportable à la longue, cette manie héréditaire d'avoir toujours dans la gorge quelque chose qui ne passe pas.

LES DEUX PIGEONS. - Viens, mon grrros... viens, mon grrros... viens, mon grrros...

 

2023/10/30

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「犀が淵の玉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 淵の玉【さいがふちのたま】 〔煙霞綺談巻二〕武州川越<埼玉県川越市>の商家西村半兵衛といふ者、炭薪《すみたきぎ》を手船《てぶね》二三嫂につみて江都(えど)に廻す時、千住<東京都足立区内>の大川より壱里ほど川上、犀が淵いふ所は、竜宮へ貫(ぬき)通りたる淵なるよしいひ伝ふ。その淵の辺りを右の船通りしに、明がたの事なるが、淵より壱町ほど下の水底《みなそこ》に、何やらん光り輝く。水主(かこ)見付けて、常にかゝる事はなき事なれば、水練の者一両輩飛入り、かの光る物を取あげ見れば、尺四方程の玉《たま》にて、その美しさ、伝へきく面向不背(めんかうふはい)の玉もかくやと思はれたり。石の色はうす白くして鳥の子色なり。取あげて後《のち》、我《われ》取らん、人取らんと争ふほどに、船は水にさそはれて三町ばかり流れけり。其所にて玉を手に持ちたる水主、所詮論じて不用なりと、また水の中へ捨てけり。この事を船主《ふなぬし》半兵衛聞きつけて、言語道断の者どもなりとて、水練を撰《えら》み、かの玉を捨てたる所へ行きて二たび取あげ、さて玉をば上乗《うはのり》[やぶちゃん注:江戸上り。]の者にあづけ、誰人《たれひと》にも見せまじと云ひ含め、二三日中に江都へ出《いで》ての事とて、河越へかへる。船ども江都へ著きて後、類船《るいせん》[やぶちゃん注:同様の運送船の業者。]の長兵衛いふもの、この玉を今一度見せよかしと余儀なくいへば、さのみいなとも云はれずして出し見せけるに、よくよく見る躰《てい》にて、そのまゝ何方《いづかた》やらん持ち見せたれば、二三日借(かし)たまへば頓(すべ)て返すべしといふに、是非なく置きて来《く》るといふに驚き、長兵衛は同道してかの所へ行く。この時に半兵衛も河越より来り、さんざん呵(しか)りてこの者共を同道し、何某《なにがし》殿へ参り、玉を早々御かへしあれといふに、何某殿の仰せには、我等番頭(ばんがしら)聞き及びて、下々の取扱ふものにあらず、大老中へ差上たり、二三日には返すべしとて証文を給はりぬ。ころは延宝五年[やぶちゃん注:一六七七年。徳川家綱の治世。]四月、約束にまかせ何某殿へ行きたるに、その玉只今は大老《たいらう》何がし殿にありて、取かへす事なりがたしと、事のよしを演説ありければ、半兵衛もあきれはてゝ河越へかへりけり。その後《のち》ふたあれ山《さん》<日光二荒山《ふたらさん》>への宝庫に納《をさま》りけるとぞ。

[やぶちゃん注:「煙霞綺談」「池の満干」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。以上では、丁寧にルビがあるので、それを参考に読みを補った。

「犀が淵」不詳。江戸時代と隅田川の流域は異なっているが、試みに千住大橋から「一里」上流となると、この中央附近とはなる(グーグル・マップ・データ)。

「大老何がし殿」この時の大老は上野厩橋藩第四代藩主酒井忠清。当該ウィキによれば、評判は概ねよろしくなく、『忠清は鎌倉時代に執権であった北条氏に模され、大老就任後は「左様せい様」と称される将軍・家綱のもとで権勢を振るった専制的人物と評される傾向にある。また、伊達騒動を扱った文芸作品など創作においては、作中では伊達宗勝と結託した極悪人として描かれてきた。酒井家は寛永』一三(一六三六)年、『江戸城大手門下馬札付近の牧野忠成の屋敷が与えられ、上屋敷となっていた。下馬札とは、内側へは徒歩で渡り』、『下馬の礼を取らなければならない幕府の権威を意識させる場所であり、大老時代の忠清の権勢と重ね合わせ、没後の綱吉期には下馬将軍と俗称されたことが』、「老子語録」・「見聞随筆」『などの史料に窺える。また』、『戸田茂睡の執筆した』「御当代記」にも、『忠清が下馬将軍と呼ばれていたという記述がある』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「金毘羅霊験」 / 「き」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「き」の部は終わっている。]

 

 金毘羅霊験【このぴられいげん】 〔筱舎漫筆巻六〕 昌平塾ナル一斎子ノ許ニ、金毘羅社ノ別当金光院ノ子入学ス。一斎アル日、世ニ金毘羅神ノ奇特種々承ハレリ。近来何ゾ不思議ナル事ハナキヤト、ソノ書生ニ問ヒタリシニ、答曰ク、近年ノコトナリ、淡路ノ国ノ材木屋金右衛門トテ黄金家アリ。材木沢山ニ積ミ、入用金若干所持シテ、商買ノ為、大船ヲ借リ乗出ス。此船頭共、彼用金ニ見込ミ、数人申合セ、阿波ノ海上ニテ金右衛門ヲ縛リ、碇《いかり》ニ結付ケ、千尋ノ海へ落シ込ミ、ソノ金ヲ配分ス。夜ノ五ツ時<午後八時>ナリ。然ルニソノ夜ノ五時ニ、淡路ナル宿本《やどもと》ノ庭先ニ物音ス。妻女驚キ見レバ、我夫、大ナル碇ニククリ付ケラレテ落チタリ。気絶シテ言語通ゼズ、水ヲフキナド介抱シテ、漸クニ生気ヲ得。妻、事ノ故ヲ問フ。金右衛門ハ只茫然タルノミ。暫クアリテイフヤウ、我ハシカジカノ事ニテ、阿波海ニ沈メラレタルガ、コハ我家ナリ。イカナル事ニカ、前後夢ノ如シ。因テ思フニ、兼テ金毘羅信仰ノ処、彼海ニ入ル時、只金毘羅ヲ祈誓シタルヨリ外ナシ。サスレバ海ニ入ラントスル処ヲ、空中ニ引上ゲラレテ、我家ニハ帰シ玉ヒシモノカトテ、アキレ居タリトゾ。ソレヨリ官へ訴ヘケレバ、彼ノ船頭共モ不ㇾ残シレ、取ラレシ金我手ニ返リタリケレバ、ソノ金不ㇾ残奉納シテ、一宇ノ金堂ヲ建立ストゾ。コノ譚ハ世間ニモ流布スベケレドモ、一斎子ノ物語リナレバ、別《べつし》テタシカナリ。世ニハ不思議モアルモノナリト、屋代翁ノ物語ナリ。

[やぶちゃん注:「筱舎漫筆」(ささのやまんぴつ)は「牛と女」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第二巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字で当該部が視認出来る。標題は『○金毘羅靈驗』である。

「一斎子佐藤一斎(明和九(一七七二)年~安政六(一八五九)年)は美濃国岩村藩出身の儒者。諱(いみな)は坦(たいら)。林述斎の門人で、儒学の大成者として公に認められ、天保一二(一八四一)年に述斎が没し、その後継者として昌平黌の儒官(総長)を命ぜられ、官学の総帥として重きをなした。詳しい事績は参照した当該ウィキを見られたい。

「屋代翁」恐らく御家人で右筆にして国学者であった屋代弘賢であろう。]

〔譚海巻十一〕金毘羅権現と申すは、釈迦如来いまだ王宮にすみ給ひし時、その庭に住み給ふ神なり。本朝にても利益あらたなる事数へがたし。水戸讃岐守殿に仕へし女房、讃州の者にて、江戸屋敷に久しくありて、母に対面せざる事を歎きて、常に権現を念じ祈りにけるに、ある夜此女房いづくとも行きがたなく失せて在所を知らず。大《おほい》に尋ね騒ぎたるに、三日をへて、住居《すみゐ》せし家の屋上《おくじやう》に立《たち》てゐたりしかば、大に人々怪しみ助けおろしたるに、正気なく其まゝにて寝入り、三日をへて起きあがり、手を開きたれば、手に梵字書きてあり。女房水を乞ひて、其水にて手の梵字を洗ひおとし、みづから飲みたれば、正気付《づき》て平生のごとくになり物語りけるは、あまり母に逢はざる事の恋しく、金毘羅権現へ、ひとへに起請《きしやう》し奉りししるしにや、夢中の様《やう》にて在所へ行きて、母にも逢ひて帰りたるといヘり。讃州より江戸へ詰め合《あは》する家元、在所を出立する時、この女房をまさしく見たるよし、後に語りたるとぞ。在所の便りにも、女房来りて母に逢ひて、しばらく物語りせしが、やがていづくともなく見失なひたるよし、後にくはしく聞えて、いよいよ不思議なる事にいひあひて、権現のみちびきて、なさせ給ふ事うたがひなき事を、有がたき事にいへり。

[やぶちゃん注:これは、事前に正字で「譚海 卷之十一 金毘羅權現の御事(フライング公開)」を公開しておいたので、参照されたい。]

譚海 卷之十一 金毘羅權現の御事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 金毘羅權現と申(まふす)は、釋迦如來いまだ王宮にすみ給ひし時、其庭に住み給ふ神也。本朝にても、利益あらたなる事、數へがたし。水戶讚岐守殿に仕へし女房、讚州の者にて、江戶屋敷に久しくありて、母に對面せざる事を歎(なげき)て、常に權現を念じ、祈りにけるに、ある夜、此女房いづくとも行きがたなく失せて在所をしらず。大(おほい)に尋ね騷ぎたるに、三日をへて、住居(すみゐ)せし家の屋上(おくじやう)に立(たち)てゐたりしかば、大に、人々、怪しみ、たすけおろしたるに、正氣なく、其まゝにて寢入(ねいり)、三日をへて起(おき)あがり、手をひらきたれば、手に、梵字、書(かき)てあり。女房、水を乞(こひ)て、其水にて、手の梵字を、洗ひおとし、みづから飮(のみ)たれば、正氣付(づき)て、平生のごとくになり、物語りけるは、「あまり、母に逢(あは)ざる事の戀しく、金毘羅權現へ、ひとへに起請《きしやう》し奉りししるしにや、夢中の樣(やう)にて、在所へ行(ゆき)て、母にも逢ひて、歸りたる。」と、いヘり。讚州より、江戶へ詰合(つめあは)する家元、在所を出立する時、此女房をまさしく見たるよし、後に語りたるとぞ。在所の便(たより)にも、「女房 來りて 母に逢ひて しばらく物語りせしが やがて いづくともなく見失なひたる」よし、後に、くはしく聞へて[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ、「不思議なる事。」に、いひあひて、「權現のみちびきて、なさせ給ふ事、うたがひなき事を、有がたき事。」に、いへり。

[やぶちゃん注:「水戶讚岐守」讃岐国高松藩初代藩主松平頼重(初代水戸藩主徳川頼房の嫡男。父頼房は長男の頼重の母が懐妊した際、兄の尾張、紀州に子が生まれていなかったことから、憚って堕胎を命じたが、家臣が頼房に内緒で頼重を産ませ、京の公家に預けたの。つまり、長男頼重は生まれていないはずの人間であったことから、頼房はこれを認めず、後に生まれた同母弟光圀を嫡男と決めている。光圀自身も、この経緯を知り、兄に申し訳なく思い、自分の実子を頼重の養子として高松藩主にし、兄の実子の綱条を自分の養子として水戸藩第三代藩主に就けている。ここは「Yahoo!JAPAN知恵袋」のこの質問のベスト・アンサーを参考にした)は分家して独立し、以後、高松藩主は「讃岐守」を称しているので、この話の時期を特定することは出来ない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「金毘羅の馬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 金毘羅の馬【このぴらのうま】 〔閑田次筆巻四〕謝肇淛《しやてうせい》好名利は丈夫の事、好鬼神は婦女子の事、丈夫にして信鬼神は、丈夫の気をうしなふといへり。凡そ理学家はいふに及ばず、少し文字をよみ書を手ならす人は、神仏の妙を嘲りて、婦女子の口実とすることめづらしからず。然るにまさに予<伴蒿蹊>が視るところ、二十余年前、讃岐金毘羅<香川三豊郡内>にまうでし時、つねの神馬の外に、駒一疋馬屋の外につなぎたり。いかにとおもひしに、折から詣でし人かたらく、この近き某の村(所を聞きしかど遺忘す)に、馬の難産にて苦しめるを、そのあろじこの御社へ祈請し、平らかに産しめたまはゞ、その駒は奉るべしと誓ひしが、やがてやすく生れし後、いとよき駒なれば、惜しむ意出来て猶予せし間、この駒みづから走りて、このごろこゝに来れり。とみに置くべき屋なければ、かくのごとしといへり。これは正に見しこと故に挙ぐ。この外此御社また他にもいちじろきことゝて、聞く所あれども、皆これを略(はぶ)く。

[やぶちゃん注:「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから四行目以降)で正規表現で視認出来る。直前に鷲に攫われて養育された人の話があり、それを受けて、冒頭に「鷲の因《ちなみ》に思ひ出たることあり」とあるのがカットされてある。

「謝肇淛」(しゃちょうせい 一五六四年?~?)は明末の文人。随筆家。福州長楽(福建省長楽県)の人。一五九二年に進士に及第し、湖州府推官・工部郎中となり、さらに雲南の地方官を経て、広西布政使に進んだ。地方官生活が長かったうえ、工部にあったときも治水のために現地に赴くことも多く、また、登山を好んだので、各地の地理に明るく、「滇略」(てんりゃく)・「北河紀」・「方巖志」などの地理書の著もある。詩・書・画にも長じていたが、特に有名なのは、随筆の「五雑俎」であり、その博聞をもととした歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。天・地・人・物・事の百般に亙って記録論述しており、日本でも広く読まれた。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。「好名利は丈夫の事、好鬼神は婦女子の事、丈夫にして信鬼神は、丈夫の気をうしなふ」は巻八の「人部四」の冒頭の以下。

   *

士人之好名利、與婦人女子之好鬼神、皆其天性使然、不能自克。故婦人而知好名者、女丈夫也。士人而信鬼神者、無丈夫氣者也。

   *

「理学者」宋代の性理学を信奉する儒者。性理学は、北宋の周敦頤(とんい)以来、程顥(ていこう)、その弟程頤、朱熹らが、天理と人性について論じた学問。偏った情によって変化する前の、人間の本然の性は、理そのものに合致するという立場から、人欲を去って天理に近づくことが人間の課題であると説くもの。

「讃岐金毘羅」「香川三豊郡内」金毘羅宮(グーグル・マップ・データ)は現在は香川県仲多度郡琴平町内である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「金色の鹿」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 金色の鹿【きんいろのしか】 〔裏見寒話追加〕塚原村に元武兵衛といへる猟師あり。頃は五月雨の末、□夜に及んで、八王子山の絶頂に登りて四方を望むに、その夜に限りて鳥獣にも逢はず。しかるに谷底に金色の光充満して白昼の如し。武兵衛不思議に思ひ、眼も放さずこれを見るに、金色の鹿静かに歩行(あるき)て山へ登らんとす。武兵衛天の与へと悦び、筒先を向けんとするに、何者とも知れず、武兵衛が髻《もとどり》を摑んで仰むけに引倒す。玉は虚空に翦(き)れて、武兵衛立《たつ》て茫然たり。蓋し山の神の霊《れい》顕れて此《かく》の如き歟といふ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの左ページ後ろから二行目以降の「○八王子の金鹿」がそれ。なお、上掲の底本の「□」は欠字であるが、リンク先では、「其」となっている。

「塚原村」現在の山梨県南アルプス市塚原(グーグル・マップ・データ)か。

「元武兵衛」「げんぶへえ(現代仮名遣)」と読むか。

「八王子山」いろいろな地図では遂に発見出来なかったが、「山梨県観光文化部観光資源課」公式サイトの「山梨県ハイキングコース100選」の「湯村山〜八王子山~天狗山」で発見した(地図あり)。甲府市街の北西の現在ある千代田湖の東南直近のピークが八王子山(白山)で、標高六百メートル。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「碁を打つ狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 碁を打つ狸【ごをうつたぬき】 〔甲子夜話巻四十四〕世に知れたる関取の緋威《ひをどし》と云ふは芸州の産なり。近頃年老いて予<松浦静山>が中の角力《すまふ》錦の方に寓せり。予も年来知る者ゆゑ、時々呼びて噺させし中に云ひしは、彼れが故邑《ふるさと》の在郷三里ばかりの村に老狸《らうり》あり、常に人と交語《かうご》す。容貌里俗と異ることなし。緋威も屢〻相対すと。狸碁を善くす。相手窮思すれば輙《すなは》ち、凡夫かなしや目は見えずなど云ひてこれを嫚《あなど》る。総じて人の如し。因て或ひは[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]これを困《くる》しめんとて、傍人戸を閉し障子を塞ぐに、その寸𨻶《すんげき》より出《いで》て去ること幻影の若(ごと)くにして、遂に留《とど》むること能はずと。また、或ひは戯れに陰囊を披《ひら》きて人に覆ふ、人驚て脱逃《ぬけにげ》せんとすれば、いよいよ包結《ふくろし》めこれを笑ふ、その状《かたち》また人と違《たが》はずと。また或人これに弟子ありやと問へば、弟子有りと雖どもこの辺にはなし、たゞ隣村なるちんば狐《きつね》のみ我が弟子なり、然れども未だ人に対して言語すること能はずなど話せり。予疑ひて信ぜずといへども、時に錦もまた傍《かたはら》に在り。嘗て共に芸州に往《ゆ》きてその人を知ると云へば、虚妄ともしがたし。またこの狸よく古昔《ふるむかし》のことを語る。大率(おほむね)茂林寺の守鶴老貉《しゆかくらうかく》の談に類す。然れば芸狸《げいり》も長寿の者か。また隣のちんば狐は里人時々これを視ることありと云ふ。

[やぶちゃん注:これは事前に「フライング単発 甲子夜話卷四十四 14 安藝の狸、人と交語す」を電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷四十四 14 安藝の狸、人と交語す

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

44―14

 世に知れたる關取の角力(すまふ)、「緋威(ひをどし)」と云(いふ)は、藝州の產なり。近頃、年老(おい)て、予が中(うち)の角力、「錦」の方に寓せり。予も、年來(としごろ)、知る者ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、時々、呼(よび)て、噺(はな)させし中(なか)に云(いひ)しは、

「彼れが故邑(ふるさと)の在鄕、三里ばかりの村に、老狸(らうり)あり。常に、人と交語(かうご)す。容貌、里俗と異(ことな)ることなし。緋威も、屢〻(しばしば)相對(あひたい)す。」

と。

「狸、碁を善(よく)す。相手、窮思(きゆうし)すれば、輙(すなはち)、

『凡夫、かなしや。目は見えず。』

抔、云ひて、これを嫚(あなど)る。

 總じて、人の如し。因(よつ)て、或(あるい)は、

『これを困(くる)しめん。』

とて、傍人(かたはらのひと)、戸を閉(とざ)し、障子を塞(ふさ)ぐに、その寸𨻶(すんげき)より出去(いでさ)ること、幻影の若(ごと)くにして、遂に留(とどむ)ること、能はず。」

と。

 また、或は、戲(たはむれ)に陰囊を披(ひら)きて、人に覆ふ。

 人、驚(おどろき)て、

『脫逃(ぬけにげ)せん。』

と、すれば、いよいよ、包結(ふくろじめ)して、これを笑ふ。

 其狀(かたち)、また、人と違(たが)はず。」

と。

 また、或人、これに、

「弟子、ありや。」

と問へば、

「弟子有りと雖ども、この邊には、なし。たゞ隣村なる『ちんば狐(きつね)』のみ、我が弟子なり。然(され)ども、未だ、人に對して言語すること、能はず。」

抔、話せり。

 予、疑(うたがひ)て、信ぜずといへども、時に、「錦」も亦、傍(かたはら)に在り、

「嘗(かつ)て、共に藝州に往(ゆき)て、その人を知る。」

と云へば、虛妄とも、しがたし。

 又、この狸、よく古昔(ふるむかし)のことを語る。大率(おほむね)、茂林寺の守鶴老貉(しゆかくらうかく)の談に類(るゐ)す。

 然れば、藝狸(げいり)も、長壽の者か。

 又、

「隣の『ちんば狐』は、里人(さとびと)、時々、これを視ること、あり。」

と云(いふ)。

■やぶちゃんの呟き

「世に知れたる關取の角力(すまふ)」「緋威(ひをどし)」「フライング単発 甲子夜話續篇卷之四十四 16 桑名の大鼠」に既出既注。

「錦」静山が迎えた子ども相撲から叩き上げた名力士。百合の若氏のブログ「甲子夜話のお稽古」の「巻之90 〔10〕 相撲力士、妹に衣を贈り、感謝の文に公、思いを馳せる」(私は未電子化)に現代語訳で、その経緯が記されてあり、彼が自分の妹に送った感謝の手紙が原文(新字正仮名)で載るので、是非、読まれたい。

「彼れが故邑(ふるさと)の在鄕」緋威の故郷は安芸国山県郡川戸(現在の広島県北広島町川戸)であるから、その「三里ばかりの村」というのは、この周辺域に当たる。村の名を記して欲しかった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐狸を伏せた歌」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐狸を伏せた歌【こりをふせたうた】 〔三養雑記巻三〕物を伏するには、そのものの名をきりて、歌によめるよしなり。北条氏康の城中にて夏のころ、狐の鳴きければ、氏康のよめる歌、

 夏はきつねになく蟬のから衣《ころも》

     おのれおのれが身のうへにきよ

かゝればそのあくる日、狐多く死してありとかや。この歌『狂歌咄《きやうかばなし》』に見えたり。近く横田袋翁《よこたたいおう》の、しる人の厩《うまや》に、狸の夜ごとに来りて、馬をおどろかしけるに、神仏の護符《まもり》をはり、祈禱、まじなひなど、さまざまのわざすれども、しるしなかりけるに、

 心せよ谷のやはらだぬきかはの

     みなれてこそは身も沈むなれ

と一首の和歌を詠じ、かの厩にはりおきけるに、狸のきたること止《やみ》けるといへり。この歌は、催馬楽《さいばら》の「貫河《ぬきかは》」に「ぬきかはの、せゝのやはらだ、まくらやはらかに」といへる詞《ことば》にてよめりとかや。

[やぶちゃん注:「三養雑記」山崎美成の随筆。天保一一(一八四〇)年刊。「三養」は彼の号の一つである「三養居」をとったもの。当該話の標題は『和歌にて狐狸(きつねたぬき)を伏(ふくす)』で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、後刷の画像で当該話を視認出来る。以上とは、やや表現に異同がある。

「名をきりて」表面上は「対象の名を切りて読み込み」の意であろうが、これは相手の名を見「切」って、それを歌の中に読み込んで「言上げ」することで、その対象を呪縛して勝つ、という本邦の古い民俗伝承に基づくものであろう。]

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「小紋鳥」

[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。

 また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。

 

 

   

 

 

 これは私の家の庭に住む佝僂(せむし)女である。彼女は自分が佝僂のせゐで、よくないことばかり考へてゐる。

 雌鷄たちの方では別になんにも云ひはしない。ところが、だしぬけに、彼女は跳びかかつて行つて、うるさく追ひ廻す。

 それから今度は頭を下げ、體(からだ)を前かがみにして、瘦せつぽちの脚に全速力を出して走つて行くと、一羽の七面鳥が圓く羽根を擴げてゐる恰度その眞ん中を狙つて、堅い嘴で突つかかる。

 この氣どりやが、ふだんから癪に障つてしやうないのだ。

 そんな風で、頭を靑く染め、ちよび髭をぴくぴくさせ、いかにも兵隊好きらしく、彼女は朝から晚まで獨りでぷりぷりしてゐる。さうしては理由もなく喧嘩を吹きかけるのだが、多分、しよつちゆうみんなが自分のからだつきや、禿げ上がつた頭や、へんに下の方についてゐる尻尾(しつぽ)などを笑ひものにしてゐるやうな氣がするのだろう。

 そして、彼女はひつきりなしに劍の切先のやうに空氣を劈(さ)く調子外れの鳴き聲をたててゐる。

 時々、彼女は庭を出て、何處かへ行つてしまふ。お蔭で、平和な家禽一同をいつときホツとさせる。ところが、彼女はまたやつて來る。前よりもいつさう喧しく、騷々しい。そして、無茶苦茶に地べたを轉げ廻る。

 いつたい、どうしたのだ?

 彼女は胸に一物あつて、芝居をしてゐるのである。

 彼女は野原へ行つて卵を產んで來たのだ。

 私は氣が向けば、そいつを搜しに行つてもいい。

 彼女は、佝僂のやうに、埃のなかを轉げ廻つてゐる。

 

Komonteu

 

[やぶちゃん注:現在、一般に日本で「小紋鳥」(こもんちょう(歴史的仮名遣「こもんてう」)と言った場合、愛鳥家の間では、旧世界、及び、オーストラリア区の熱帯に棲息するスズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科カエデチョウ科(と言っても一般人には馴染みがないが、誰もが知っている「文鳥」はカエデチョウ科ブンチョウ属ブンチョウ  Lonchura oryzivora が属する)に属するフィンチ類(finchこの語は現行では、一般に特定の種群を指さず、ヒワ類(鶸:スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinaeの内。アトリ類一属三種を除いた約二十属百二十二種を指す汎用総称通称。本書にも以下、盛んに「鶸」が出てくるが、「ヒワ」という種は存在しない)などの小鳥、或いは、外国産のベニスズメ(スズメ目カエデチョウ科ベニスズメ属ベニスズメ Amandava amandava・キンカチョウカエデチョウ科キンカチョウ属キンカチョウ Taeniopygia guttata)などを指すが、安易に小型の似たような鳥を漠然と、所謂、「フィンチっぽい」小鳥として指してしまっているケースも多く、有体に言ってしまうと、本邦産でない真正のフィンチに似た「小鳥類」の汎用的通称総称俗称化し、独り歩きしている感があるので注意が必要である。因みに、知られたダーウィンフィンチ類(「ビーグル号」の航海の途中、ガラパゴス諸島でチャールズ・ダーウィンに進化論の着想を与えたことで知られるスズメ目フウキンチョウ科 Thraupidaeに属する複数種(五属十五種の総称))が正統な「フィンチ」であるが、オーストラリアフィンチの中に、愛鳥家に人気があるらしい種の一つであるらしい、スズメ上科カエデチョウ科キンパラ亜科アサヒスズメ属コモンチョウ(小紋鳥Neochmia ruficauda という小鳥の標準和名があって、甚だ混乱をきたす。

 さて、迂遠であったが、この“「小紋鳥」= La Pintade ”というフランス語は、それらとは縁も所縁もない体長五十三センチメートルに及ぶ大型で、地上棲(但し、抱卵中のを除き、夜間は樹上で眠る)の、最近はすっかりフランス料理でお馴染みになった(私は、結構、好みである)「ホロホロチョウ」、アフリカ中南部原産のキジ目ホロホロチョウ科ホロホロチョウ属ホロホロチョウ Numida meleagris を指す(底本のボナールの插繪は正しく「ホロホロチョウ」で間違いない)。岸田訳以外の、所持する戦後の三種の「博物誌」では。一律に『ほろほろ鳥』と訳されてある。フランス料理に多く用いられる同属には一属一種九亜種がいる。当該ウィキによれば、『群れを形成して生活し』、二千『羽以上もの大規模な群れが確認されたこともある。横一列になって採食を行ったり、雛を囲んだり』、『天敵から遠ざけるような形態をとることもある。繁殖期になると』、『オスは縄張りを持ち、群れは離散する。危険を感じると』、『警戒音をあげたり走って逃げるが、短距離であれば』、『飛翔することもできる。和名は江戸時代にオランダ船により持ち込まれたときに使われていた名称である「ポルポラート」が由来と考えられている』。『食性は雑食で、昆虫類、節足動物、甲殻類、果実、種子等を食べる』。『繁殖形態は卵生で、地面を掘り落ち葉や草等を敷いた巣を作り卵を産む。繁殖期になると』、『オス同士が追いかけあったり争う。メスのみが抱卵を行い、オスはその間別のメスと交尾を行う。雛の世話は雌雄とも行う』とある。

「これは私の家の庭に住む佝僂(せむし)女である。彼女は自分が佝僂のせゐで、よくないことばかり考えてゐる。」辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、ここを、『これは私の家の庭に住む背中にこぶのある鳥だ。自分がこぶもちなので、いつも、けんかばかりしたがっている。』と訳す。この原文は、「彼女は、この佝僂(瘤)のために、常に、ただただ誰かを傷つける夢ばかり見ている。」といった意味である。辻氏はこの部分に注を附され、『「傷とこぶししか求めない」(けんかばかりしたがる)という表現がフランス語にある。これを「こぶつきでいじわるなので、けんかばかりしたがる」というふうにもじって使ったもの』とある。納得。

「私の家の庭」一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』第五巻所収の佃裕文訳「博物誌」の本文注によれば、この『「庭(クール)」』 “cour” 『という言葉には「宮廷(クール)」』“cour”『の意味を掛けている』とある。ルナールが自宅を自身のみの領地たる宮廷庭園とするのは、面白いし、よく判る。“pintade”は女性名詞で、別に俗語で『傲慢な女』の意味がある。而して、以下を読んでいくと、中間部の様子は帝政時代のデブって背の曲がった老皇后が宮廷庭園を闊歩してヒステリックに叫んでいるさまが髣髴してくるように感ずる。

『彼女は、佝僂のやうに、埃のなかを轉げ廻つてゐる。』ここを辻氏は、『あいかわらずコこの鳥は背中にこぶがある女みたいに、ほこりの中をころげまわって喜んでいる。』と訳され、注して、『「背中にこぶのある人のように笑う(腹をかかえて笑う)」という表現と、「地面をころげまわって笑う」という表現を組み合わせたもの』とある。]

 

 

LA PINTADE

 

C'est la bossue de ma cour. Elle ne rêve que plaies à cause de sa bosse.

Les poules ne lui disent rien : brusquement, elle se précipite et les harcèle.

Puis elle baisse sa tête, penche le corps, et, de toute la vitesse de ses pattes maigres, elle court frapper, de son bec dur, juste au centre de la roue d'une dinde.

Cette poseuse l'agaçait.

Ainsi, la tête bleuie, ses barbillons à vif, cocardière, elle rage du matin au soir. Elle se bat sans motif, peut être parce qu'elle s'imagine toujours qu'on se moque de sa taille, de son crâne chauve et de sa queue basse.

Et elle ne cesse de jeter un cri discordant qui perce l'air comme une pointe.

Parfois elle quitte la cour et disparaît. Elle laisse aux volailles pacifiques un moment de répit. Mais elle revient plus turbulente et plus criarde. Et, frénétique, elle se vautre par terre.

Qu'a-t-elle donc ?

La sournoise fait une farce.

Elle est allée pondre son oeuf à la campagne.

Je peux le chercher si ça m'amuse.

Elle se roule dans la poussière, comme une bossue.

 

2023/10/29

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐狸の落書」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐狸の落書【こりのらくがき】 〔反古のうらがき巻一〕植木玉厓が親戚に妖怪出る。大害なし。唯障子其外の処へ文字を書く。文理も大体通るよし。たわいも無き事ばかり書く。その内に折々滑稽ありて、人の心をよくしる。その主人の母戯場を好み、その頃の立役八百蔵贔屓にて、常々称誉せしに、その節狂言余り入りもなく、はづれなりしが、妖怪大書して、八百蔵大はたきといといふ。また常に一家親類の人を評することあり。誰こわく[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。原本もママ。狐狸なれば、歴史的仮名遣に拘束されぬか?]なし、誰少しこわしなど書す。大体こわくないといふ方多し。或時人来りて、野瀬の黒札よく狐狸を退くるとかたりければ、直に障子に大書して、黒札こわくなしと書す。これ等は大害なき事ながら、不思議なる狐狸なり。玉厓予に語りしは、狐狸の書至つて正直なる、よくよめる、山本流などの如し、よくもなき手なり、ひらがなの内に少しづつ近き文字交りて、平人の書く通りなりとぞ。

 これに見れば、狐狸人に化して山寺
 にて学問修業せしなどいふ事、よく
 言ひ伝ふる事なるが、文字などは学
 びなくて覚ゆることはなるまじけれ
 ば、人に化して学びたるも、必ず虚
 談とせず。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 狐狸字を知る」を見られたい。但し、宵曲は後半部の別話を完全にカットしている。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐狸の遊興」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐狸の遊興【こりのゆうきょう】 〔甲子夜話巻三十四〕寛政中長崎の買女屋《ばいぢよや》珍事あり。侍と見えし者三輩、買女をあげ遊興す。宴すみ閨に入り臥たりしに、女の膚に何か毛のさはる様に覚えければ、探りみるに客の身なり。驚きたれど知らぬ体にもてなし、急ぎ二階を下り、主人に斯と告げたれば、主人即ち老婆若い者と二階に上り、かの閨中にいたるに、枕衾のみにて客は居ず。いかにも逃去りたるさまなり。皆々不審に思ひ、何さま狐にて有らんと、さきに揚代とて与へられし金子を見るに別事なし。それより座席にて老婆若者に与へたる花の金を見れば、皆木葉にして金にあらず。因て主人女に客と交接せしやと問ひけれど、嘗て交らずと答へしが、何にも彼の毛の膚に触れたるばかりに非ずして、交合の時常に異りたるより心著きたることゝ皆人笑察せりとぞ。〔耳囊巻六〕文化十一年の春、都鄙専ら口説なしけるは、狸遊女を揚げて遊びしといふ事、くはしく尋ねしに、真はしらず。吉原江戸町弐丁目、佐野松屋といへる遊女屋に、佐野川といふ遊女を、二三回も来りて、揚げ遊びし者ありしが、右遊女に執心なりしやうすにて、遊女もにくからずもてなしけるが、或夜殊の外に酒を過し、右客朝寝して、前後もしらず有りしに、右客をおこすとて、禿など来りて、わつというて泣出しける故、みなみな驚きて、その様を聞きしに、右客は人間にあらずと、口々罵りしが、いづれへ至りしや、行衛なくなりしが、追て訊しければ、いか様にも、狸の化け来りしに違ひなしとや。さて佐野松や、狐狸の類ならば請取りし勤も、誠の金ならじと改め見しに、正金にまぎれなかりし故、亭主のいへるは、正金に候うへは、盗賊などの客になり来りしよりは、遙かに宜事といひて笑ひしとなり。

[やぶちゃん注:前者は、事前に「フライング単発 甲子夜話卷三十四 3 長崎の狐、買女をかふ」で電子化しておいた。後者は、私の底本では、「耳囊 巻之十 狸遊女を揚し奇談の事」である。そちらを見られたい。]

フライング単発 甲子夜話卷三十四 3 長崎の狐、買女をかふ

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

34―3

 寬政中、長崎の買女屋(ばいぢよや)に珍事あり。

 侍と見えし者、三輩、買女をあげ、遊興す。

 宴(うたげ)、すみ、閨(ねや)に入り臥(ふし)たりしに、女の膚(はだへ)に、何か、毛のさはる樣(やう)に覺(おぼえ)ければ、探(さぐり)みるに、客の身(み)なり。

 驚きたれど、知らぬ體(てい)にもてなし、急ぎ、二階を下り、主人に

「斯(かく)。」

と、告げたれば、主人、卽ち、老婆・若い者と、二階に上り、かの閨中(ねやうち)にいたるに、枕・衾(ふすま)のみにて、客は居(をら)ず。

 いかにも、逃去(にげさ)りたるさまなり。

 皆々、不審に思ひ、

「何さま、狐にて有(あら)ん。」

と、さきに揚代(あげだい)とて與へられし金子を見るに、別事なし。

 それより、座席にて、老婆・若者に與へたる「花」の金(かね)を見れば、皆、木葉にして、金にあらず。

 因(よつ)て、主人、女に、

「客と、交接せしや。」

と、問ひけれど、

「嘗(かつ)て交(まぢは)らず。」

と、答へしが、

「何にも彼(かの)毛の膚に觸れたるばかりに、非ずして、交合の時、常に異(ことな)りたるより、心著きたること。」

と、皆人、笑察(せうさつ)せりとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「寬政中」一七八九年から一八〇一年まで。徳川家斉の治世。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐狸の火傷」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐狸の火傷【こりのやけど】 〔甲子夜話巻二十二〕東叡の山外に伊呂波茶屋と云へる所あり。その家の中にて、或時来客の目前なる盞台、自然に空中にあがる。いづれも驚きさわぎたれば、行燈烟架の類皆あがる。人々不思議に思ひ、逃げ還りけるが、毎夜この如きゆゑ、後は驚く者もなく、却てこれを視んとて人多く来れり。然るに或夜火鉢にかけたる鉄薬鑵に、湯よくたぎりて有るもの、空中にあがりけるが、何にしてか忽ち落ちて、湯ばな四方に散りたり。これより怪一向に止みたりと云ふ。従来狐狸の人を欺きしなるが、やけどして己れ沸湯をあびしに驚き、懲りて止めたりしか。咲(わら)ふべし。

[やぶちゃん注:「甲子夜話巻二十二」とあるが(『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」も同じ)、これは「巻二十一」の誤りである。事前に、「フライング単発 甲子夜話卷二十一 9 伊呂波茶屋の妖怪」で電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷二十一 9 伊呂波茶屋の妖怪

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

21-9

 東叡の山外に「伊呂波茶屋」と云(いへ)る所あり。

 その家の中にて、或時、來客の目前なる盞臺(さかづきだい)、自然に空中にあがる。

 いづれも、驚き、さわぎたれば、行燈(あんどん)・烟架の類(たぐひ)、皆、あがる。

 人々、不思議に思ひ、逃還(にげかへ)りけるが、每夜、この如きゆゑ、後は驚く者もなく、却(かへつ)て、これを、

「視ん。」

とて、人、多く來れり。

 然るに、或夜、火鉢にかけたる鐵藥鑵(てつやかん)に、湯、よく、たぎりて有るもの、空中にあがりけるが、何(いか)にしてか、忽ち、落(おち)て、湯ばな、四方に散りたり。

 これより、怪、一向に止みたり、と云ふ。

 從來、狐狸の、人を欺きしなるが、やけどして、己れ、沸湯をあびしに、驚き、懲りて止めたりしか。

 咲(わらふ)べし。

■やぶちゃんの呟き

「東叡」東叡山寛永寺。

「盞臺」杯(さかづき)を据える台。尻皿(しりざら)。盃の下に置いて、余滴を受けるもの。「渡盞」(とさん)とも言う。

「烟架」不詳。「煙管台」(きせるだい)或いは「煙管掛け」のことか。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐妖」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐妖【こよう】 〔無何有郷《むかいうきやう》〕堀之内在《ざい》に化物出るといふ事。青梅街道に阿佐ケ谷といふ村<東京都杉並区内>あり。(堀之内より廿一町あり)その名主を喜兵衛といふ。予<鈴木桃野>が叔氏酔雪翁の婦の姻家なり。その弟を弁蔵といふ。千住に居る大家のよし。末子直□□深川にあり。また大家といふ。この二人は皆予が知れる所なり。喜兵衛が別家といふ、柳固村の内に在り。虎ノ□といふよし。その家に妖恠《やうくわい》出て、四月下旬より八月に至る。なほ止まず。七月下旬、酔雪が末子弟次行きて見しよし。この日さしたることなく、梁上より銭一文を抛《なげう》つ。暫くあつて椽《えん》の下より竹竿を出《いだ》し振廻《ふりまは》す。これのみ。外《ほか》恠しきこともなかりしよし。その後八月に至りて消息を問ふに、なほ恠しきこと枚挙に遑《いとま》あらざるよし。言ひ伝ふ。予竹崖子を拉《らつ》して、朝早く出て彼家に至る。途中に四谷伝馬町<東京都新宿区内>ドウミヤウといふ薬種屋の、息子か若者かを伴ふ。阿佐ケ谷の入口なる水茶屋にて弁当を喰ひ、またその消息を問ふに、なほ太甚(はなはだ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])しきよし。八朔などは江戸の人々来り、大言《だいげん》に恠の物語をすると、その儘土砂を抛ち、あるひは恠をのゝしる者は、必ずその祟りに遇ふよしをいふ。こゝに於て薬種や恐るゝ甚し。予もまた謹心《きんしん》にしてゆく。先《まづ》名主の宅に至り案内を頼みさて凶宅に至る。そのうち六七町なり。まづ寒温より歳《とし》の豊凶など語り、小半時《こはんとき》[やぶちゃん注:三十分相当。]程にして何事もなし。予黙禱して曰く、云々(祭文《さいもん》別にあり)何の事なし。また黙禱して曰く、云々。少しく責《せむ》るところあり。また子細なし。また黙禱して少しく罵る。終《つひ》に子細なし。予そのなすなきを知る。やうやくして主人との談、恠のことにおよび、委細を尋ぬるに、江戸にて聞きし中《うち》の一《ひとつ》もなし。たまたま有ㇾ之といへども、塼瓦《せんぐわ》を打擲し、食を竊《ぬす》む位のことにすぎず。こゝに於て予等いよいよ以てなすに足らざることを知り、終《つひ》に大言罵詈《だいげんばり》いたらざる所なし。四つ半<午後九時>頃より八ツ<午前二時>頃まで居《をり》しが、何事もなし。興《きやう》索然として退《しりぞ》く。それより名主かたに趣き、一礼してまた青梅街道を淀橋通りヘ来り、十二社《じゆうにそう》にて憩ひ、内藤新宿通《とほ》り帰家す。この日実《じつ》に八月七日、大風雨の一日隔《へだて》て後なれば、残暑も大いに退き、遊行には甚だ美日にて有りけり。→御先狐。

[やぶちゃん注:「無何有郷」既出既注の「反古のうらがき」の作者で儒者であった鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年:幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子で、天保一〇(一八三九)年に昌平坂学問所教授となった)の随筆。原本に当たれない。「新日本古典文学大系」版にあるが、所持しない。悪しからず。但し、以下の最後の注を参照! 「□」は欠字。

「堀之内」現在の東京都杉並区堀ノ内。「阿佐ケ谷」「東京都杉並区内」は「廿一町」(二・二九〇キロメートル)離れているとあって、その北西に「南阿佐ヶ谷駅」が確認でき、距離もよく合う。

「柳固村」不詳。読みも不明。

「八朔」(はっさく)旧暦八月一日(朔日)のこと。重要な節日で、「八朔節供」「田実(たのみ)の節供」などと称され、稲の収穫を目前にしての豊作祈願や予祝に関したこと、及び、各種の贈答(贈物)が行われる。「八朔盆」と言って、盆月の終了を意味する伝承もある。西日本各地には「タホメ」「サクダノミ」などと称して、田に出でて、作柄を褒めてまわる予祝儀礼があり、稲の初穂を神に献じる「穂掛け」の儀礼をする所が全国に点々とある。香川県などの瀬戸内地方には「馬節供」と称して、新粉細工や張子の馬を男児誕生の家へ贈ったり、関東地方では「生姜節供」と言い、ショウガを持たせて、嫁に里帰りさせる所がある。これら贈答の習俗は上流文化の影響とも言うが、室町時代に盛行した「たのみ」「たのも」などと称した進物を贈答し合う風は、農村に基盤をもつ武家の風が取り入れられたものといわれ、農作を助け合った間柄で、神供としての「田実」、則ち、「初穂」などを贈り合ったことに源があるのではないかとされている。豊作祈願と風祭(かざまつり)を兼ねて、宮籠りをする所や、嫁の里帰りの日とする所もある。八朔を「昼寝」の終期、「夜なべ」の初日とする所が多いのは、これ以後が本格的な収穫期に入るからであろう(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「塼瓦」土で出来た積み物(壁や塀等を作る)や屋根瓦。

「十二社」東京都新宿区西新宿四丁目(グーグル・マップ・データ)近辺の旧地名。

「御先狐」先行するそれの後半部、まさに同一の筆者の「反古のうらがき」巻一の内容と極めて酷似する(ほぼ相同と言ってよい)。しかも、この場所、池袋に近い。その注で私が述べた通り、この話、所謂、「天狗の石礫」に似た現象であり、家内で生じる怪事は、これ、家内の誰かが(多くは下女、それも未成年で未破瓜であるケースが多い。「池袋の女」「池尻の女」などの呼称で、近世末から近代まで流行った噂話・都市伝説で頓に有名である)人為的に起こしているもの、意識的詐欺と採れる。これに就いては、『柳田國男「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」』で詳細に注しておいたので、是非、読まれたい。

『鮎川信夫 「死んだ男」 附 藪野直史 授業ノート(追記附)』アクセス集中

恐らく、どこかの高校の現代文の授業で、鮎川信夫の「死んだ男」の授業を十月二十日頃にやったらしいな。たった九日で、私の

鮎川信夫 「死んだ男」 附 藪野直史 授業ノート(追記附)

283のアクセスがきた。宿題だったら、僕の見解を元にしつつ、独自の解釈をなされるがよかろうぞ。コピー・ペーストは見破られ、危険がアブナいヨ……

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鵞鳥」

[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。

 また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。

 

 

    

 


Sitimentyou1

 

     

 

 

 彼女は庭の眞ん中を氣取つて步き廻る。恰も帝政時代の暮しでもしてゐるやうだ。

 ほかの鳥たちは、暇さへあれば、めつたやたらに、喰つてばかりゐる。ところが、彼女はちやんと決まつた時間に食事をとるほかは、絕えず姿を立派に見せることに浮身をやつしてゐる。羽根には全部糊がつけてある。そして尖つた翼の先で地面に筋を引く、自分の通る道をちゃんと描(か)いておくやうだ。彼女は必ずその道を進み、決してわきへは行かない。

 彼女はあんまりいつも反(そ)り身になつてゐるので、自分の脚といふものを見たことがない。

 彼女は決して人を疑はない。で、私がそばに寄つて行くと、早速もう自分に敬意を表しに來てくれたつもりでゐる。

 もう、彼女は得意そうに喉をぐうぐう鳴らしてゐる。

 「畏れながら七面鳥の君」と私は彼女に云ふ。「君がもし鵞鳥か何かだつたら、僕もビュフォンがしたやうに君の讃辭を書くところさ、君のその羽根を一枚拜借してね。ところが、君はただの七面鳥にすぎないんだ。」

 きつと私の云ひ方が氣に障つたに違ひない。彼女の頭にはかつと血がのぼる。嘴のところに癇癪の皺が垂れさがる。彼女は今にも眞つ赤に怒り出しさうになる。で、その尾羽根の扇子をばさりと一つ鳴らすと、この氣むづかしやの婆さんは、くるりと向ふをむいてしまふ。

 

Sitimentyou2

 

      

 

 道の上に、またも七面鳥學校の寄宿生たち。

 每日、天氣がどうであらうと、彼女らは散步に出かける。

 彼女らは雨を恐れない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾はまくれまい。また、日光も恐れない。七面鳥は日傘を持たずに出かけるなんていふことはない。

 

[やぶちゃん注:鳥綱キジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウMeleagris gallopavoなお、一貫して「彼女」とあるが、ここでルナールの記す dinde は、特にシチメンチョウの♀を指す女性名詞である。しかし、所謂、我々が通常、想起する形象はシチメンチョウの♂であり、フランス語では別に“dindon”の語で表わす。標題の後に掲げた挿絵は、の絵であり、は最後に掲げたものがそれである。所謂、性的二型である。なお、本篇の「二」は、二年先行する『ジュウル・ルナアル「ぶどう畑のぶどう作り」附 やぶちゃん補注』の中に同じものがある。

「帝政時代」所謂、「アンシャン・レジーム」( Ancien régime :「古い体制」)。「フランス革命」以前のブルボン朝、特に十六~十八世紀のフランスの絶対王政期の社会・政治体制を指す。

「君がもし鵞鳥か何かだつたら、僕もビュフォンがしたやうに君の讃辭を書くところさ、君のその羽根を一枚拜借してね。」岩波文庫版の辻昶氏の注に、『昔はがちょう』(先行する「鵞鳥」である)『の羽の軸の先で「鵞(が)ペン」を作った』とある。

「ビュフォン」フランスの博物学者(数学者・植物学者)ビュフォン伯ジョルジュ=ルイ・ルクレール(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon 一七〇七年~一七八八年)。当該ウィキによれば、一七四九年から一七七八年までに三十六巻が『刊行され、ビュフォン没後にラセペードによって』八『巻が追加された』「一般と個別の博物誌」( Histoire naturelle, generale et particuliere )の『著者としても著名である。これはベストセラーとなり、博物学や科学思想の発展に影響を及ばした』とあるのを指すと考えてよい。

「君はただの七面鳥にすぎないんだ」同前で辻氏は、ここに注して、『七面鳥というフランス語「ダーンド」には、「ばかな女」という意味もある』とある。所持する日仏辞書で引くと、“ dinde ”には俗語で『間抜けな女』と、形容詞で『間の抜けた』とあり、また、“dindon”には同じく『間抜けな男』、成句で『だまされる』、『人の物笑いになる』という意があった。]

 

 

DINDES

 

I

Elle se pavane au milieu de la cour, comme si elle vivait sous l'Ancien Régime.

Les autres volailles ne font que manger toujours, n'importe quoi. Elle, entre ses repas réguliers, ne se préoccupe que d'avoir bel air. Toutes ses plumes sont empesées et les pointes de ses ailes raient le sol, comme pour tracer la route qu'elle suit : c'est là qu'elle s'avance et non ailleurs.

Elle se rengorge tant qu'elle ne voit jamais ses pattes.

Elle ne doute de personne, et, dès que je m'approche, elle s'imagine que je veux lui rendre mes hommages.

Déjà elle glougloute d'orgueil.

- Noble dinde, lui dis-je, si vous étiez une oie, j'écrirais votre éloge, comme le fit Buffon, avec une de vos plumes. Mais vous n'êtes qu'une dinde...

J'ai dû la vexer, car le sang monte à sa tête. Des grappes de colère lui pendent au bec. Elle a une crise de rouge. Elle fait claquer d'un coup sec l'éventail de sa queue et cette vieille chipie me tourne le dos.

 

 

II

Sur la route, voici encore le pensionnat des dindes.

Chaque jour, quelque temps qu'il fasse, elles se promènent.

Elles ne craignent ni la pluie, personne ne se retrousse mieux qu'une dinde, ni le soleil, une dinde ne sort jamais sans son ombrelle.

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「虚無憎の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 虚無憎の怪【こむそうのかい】 〔北窻瑣談巻四〕大坂の士山寺何某といふ人有りしが、安永甲午の年十月晦日、真田山の辺を過《よぎ》りしに、耳もとにて何か喧《かまびす》しく人の噺し声聞ゆる故、ふりかへり見れども、うしろに人無し。そのまゝ行くにまた人声《ひとごゑ》聞ゆ。またふりかへり見れども人なし。此《かく》の如くすること数度《あまたたび》に及び、あまりに不思議にてうしろを遙かに見るに、半丁ばかりも隔たりて、羽織著《き》たる町人と、天蓋を上にぬぎかけたる虚無憎と同道して物語りし来《きた》るあり。この虚無僧の顔を見るに、塵紙《ちりがみ》にて作りたる顔のごとし。不思議に思ひながら行くに、耳もとの噺し声頻りなり。山寺氏思ふに、この虚無僧、定めて妖怪なるべし、一太刀に切らんものと心に思ひ、しづかに歩み行き、うしろ間近く来るとおもふ時、きつとふりかへり見るに、わつとさけびて抱きつく。急に押へて見れば、かの町人なり。何者ぞと問ふに、さて恐ろしき事なり、只今まで同道いたし来りし虚無憎、そなた様のうしろを御覧なさるゝと、そのまゝ消失《きえう》せ候ひぬ、あまりの恐ろしさに取付きまゐらせしなりといふ。何事を語り合ひ来りしといふに、我は遠国の者なり、当地の案内をしらず、旅宿すべき町は何所《いづく》ぞと申し候ひし故、某答へて、幸ひ長町に住み候ひてその業《わざ》仕り候へば、今宵は御宿進(をゐ)らせ申すべしと、語り合て来りし折節なりといふ。山寺氏の気《き》、妖径に徹して逃去りしなるべし。

 

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[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ後ろから四行目以降)。ルビが多くあるので、それを一部で参照して附した。また、この話、挿絵がある。但し、リンク先のものは使用許可を必要とするので、所持する吉川弘文館『随筆大成』版のそれをOCRで読み込み、補正・清拭して添えておいた。なお、本篇は「柴田宵曲 妖異博物館 道連れ」でも紹介されてあり、そちらの私の注でも、挿絵入りで、原本を電子化注してある。

「安永甲午の年十月晦日」安永三年の年の当月は小の月で二十九日。グレゴリオ暦一七七四年十二月二日相当である。

「真田山」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「気」殺気。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐魅談」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狐魅談【こみだん】 〔甲子夜話続篇巻十〕豊前勾当例年の事にて、この冬もまた天祥寺に招て平家をかたらせける間、彼れ是れの話中に、過ぎし年用事ありて外出せし帰路に、和田倉御門を入り桜田の方へ行く心得にて、常の如く手引の者と行きしが、思はず草生ひ茂りたる広野に到りぬ。心中にこゝは御郭中なるに、かゝる曠原あるべくも非ずと、手引にいづくぞと聞けば、手引も思はず野原に行きかゝりたりと答ふ。勾当是れにて心づき、これは狐の所為ならん、されど畜生のいかでか人を迷はさんやと独り言云ひつゝ行くほどに撃柝して時廻りする音の甚だ近く聞えければ、さればよと暁(さと)り、手引にこゝは御郭内なるぞ、心を鎮めよと云へば、手引き始めて心づき、やはり馬場先内にて未だ外桜田をば出ざる所にて在りけり。僅かの間に狐の迷はしけるにやと。その時座中の人の話に、昔山里に住める樵(きこり)の夫婦して業《なりはひ》を為せしが、夫が片目にてぞありける。婦或時夫の山より薪を負ひて還るを見るに、右片目なるに今日は左片目なりければ怪しと思ひ、折節有合の酒を飲ませて強ひければ、遂に酔眠に及びしを、婦縄にて柱にくゝりしが、丁度夫も帰り来て、何さまこれは化物ならんと罵り責めければ、忽ち古狸となりしを、夫婦して打殺せしとぞ。畜類の悲しさに片目とのみ思ひて、左右の弁別なかりしは可レ咲《わらふべ》きことにぞ。<狐の片目を取違えた話『文化秘筆巻二』にもある〉

[やぶちゃん注:事前に正規表現で「フライング単発 甲子夜話卷續篇之卷十 7 狐惑話【二条】」を注附きで公開しておいてのでそちらを見られたい。

「豊前勾当」上記原本を見られれば、判る通り、これは誤りで、「豊川勾当」が正しい。

「文化秘筆」作者不詳。文化より文政(一八〇四年~一八三〇年)の内の十年ばかりの見聞を集録した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第八(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和2(一九二七)年米山堂刊)のここで正字表現で視認出来るのが、類似話である(左ページ以降)。

フライング単発 甲子夜話卷續篇之卷十 7 狐惑話【二条】

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは珍しい静山のルビである。]

 

10―7

 豐川勾當(こうたう)、例年の事にて、この冬も亦、天祥寺に招(まねき)て平家をかたらせける間、彼是(かれこれ)の話中に、

――過(すぎ)し年、用事ありて外出せし歸路に、和田倉御門を入り、櫻田の方へ行く心得にて、常の如く、手引の者と行(ゆき)しが、思はず、草生ひ茂りたる廣野に到りぬ。心中に、

『こゝは、御郭中なるに、かゝる曠原あるべくも非ず。』

と、手引に、

「いづくぞ。」

と聞けば、手引も思はず、

「野原に行きかゝりたり。」

と答ふ。

 勾當、是にて、心づき、

「これは、狐の所爲ならん。されど、畜生の、いかでか、人を迷はさんや。」

と獨言(ひとりごと)云ひつゝ行(ゆく)ほどに、擊柝して、時廻りする音の、甚だ、近く聞えければ、

『さればよ。』

と曉(さと)り、手引に、

「こゝは、御郭内なるぞ。心を鎭めよ。」

と云へば、手引き、始(はじめ)て、心づき、

「やはり、馬場先内にて、未だ、外櫻田をば、出ざる所にて在りけり。僅(わづか)の間に、狐の迷はしけるにや。」

と――[やぶちゃん注:ここで底本も改行している。]

 その時、座中の人の話に、

「昔、山里に住(すめ)る樵(きこり)の、夫婦して業(なりはひ)を爲せしが、夫(をつと)は片目にてぞ、ありける。婦(つま)、或時、夫の、山より、薪を負ひて還るを見るに、右、片目なるに、今日(ケフ)は、左、片目なりければ、

『怪し。』

と思ひ、折節、有合(ありあひ)の酒を飮(のま)せて强(しひ)ければ、遂に、醉眠に及(および)しを、婦、繩にて、柱にくゝりしが、丁度、夫も歸り來て、

「何さま、これは、化物ならん。」

と、罵り責めければ、忽ち、古狸となりしを、夫婦して、打殺(うちころ)せしとぞ。畜類の悲しさに、『片目』とのみ思(おもひ)て、左右の辯別、なかりしは、可レ咲(をかし)きことにぞ。

■やぶちゃんの呟き

「豐川勾當」調べたところ、先行する「甲子夜話卷之六十一」の4話(私は未電子化)の冒頭で、『豐川勾當は今都下「平家」の宗匠なり』とあり、「平曲」を語る『盲人』であることが判った。この当該篇は、百合の若氏のサイト「甲子夜話のお稽古」の「巻之61 〔4〕 目が見えない人が愛でる花の境地」で現代語訳を見ることが出来る。因みに、「勾當」はこの場合は、盲人の官名の一つで、検校・別当の下位、座頭の上位に当たる下位である。なお、鈴木まどか(平曲研究所)氏のブログ「平曲研究所のブログ」の「清川勾当に関する推測」にも、彼に就いての言及があるので、参照されたい。

「和田倉御門を入り、櫻田の方へ行く心得」グーグル・マップ・データで、右上に「江戸城和田倉門跡」をドットし、左下に「桜田門」を配しておいた。江戸時代の末の頃でも、かく、広義の江戸城郭内に於いて、かくも狐狸の妖があったことが面白い。

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鵞鳥」

[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。

 また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。

 

Gatyou1

 

 

   鵞 鳥

 

 

 チエンネットも村の娘とおんなじに、巴里に行きたいと思つてゐる。然し、その彼女が鵞鳥の番さへできるかどうかあやしいものだ。

 實をいふと、彼女は鵞鳥を追つて行くといふよりも、そのあとについてゆくのだ。編物をしながら、機械的に、その一團のあとを步いて行くだけで、あとは大人のやうに分別あるトゥウルウズの鵞鳥に委(まか)せきりにしてゐる。

 トゥウルウズの鵞鳥は、道順も、草のよしあしも、小屋へ歸る時刻もちやんと知つてゐる。

 勇敢なことにかけては雄の鵞鳥もかなわないくらいで、惡い犬などが來ても立派に姉妹(きやうだい)の鵞鳥たちをを庇つてやる。彼女の頸は激しく顫へ、地面とすれすれに蛇のやうにくねり、それからまた眞つ直に起き上る。その樣子に、チエンネットはおろおろするばかりで、これには顏色なしである。で、萬事うまく行つたと見ると、彼女は意氣揚々として、こんなに無事におさまつてゐるのは誰のお蔭だと云はんばかりに、鼻聲で歌ひ始める。

 彼女は、自分にはまだそれ以上のこともできると堅く信じてゐる。

 で、或る夕方、たうとう村を出て行く。

 彼女は嘴で風をきり、羽根をぺつたりくつつけて、道の上をぐんぐん步いて行く。女たちは、擦れ違つても、こいつを止(と)める勇氣がない。氣味の惡いほど速く步いてゐるからだ。

 そして一方でチエンネットが、向ふに取り殘されたまま、てんから人間の力を失つてしまひ、鵞鳥たちとおんなじに何の見分けもつかなくなつてゐるうちにトゥウルウズの鵞鳥はそのままパリへやつて來る。

 

[やぶちゃん注:鳥綱カモ目カモ科ガン亜科マガン属ハイイロガン Anser anser  とサカツラガン Anser cygnoides の系統に属する品種を基本とするものが、本来のガチョウである。当該ウィキによれば、『現在』、『飼養されているガチョウは』、『ハイイロガンを原種とするヨーロッパ系種』(☜本篇のものはこちら)『と、サカツラガンを原種とする中国系のシナガチョウ』『に大別される。シナガチョウは』、『上』の嘴の『付け根に瘤のような隆起が見られ、この特徴によりヨーロッパ系種と区別することができる』とある。

「トゥウルウズ」Toulouse。トゥールーズはフランス南西部にあるコミューンで、オクシタニー地域圏の首府であり、オート=ガロンヌ県の県庁所在地である。但し、ルナールはここに住んだことはない。ヴァカンスで訪れた際の嘱目か。因みに、この町は美食の街として知られ、特にフォアグラ(ガチョウやアヒルに沢山の餌を与えることにより、肝臓を肥大させたもの)が旨いことでことで知られるから、或いは、それを引っ掛けて、少し頭がゆるい田舎娘がフォアグラのように、パリの通人の餌食になってしまうだろうことを示唆しているように私には思われるの。

「チエンネットが、向ふに取り殘されたまま、てんから人間の力を失つてしまひ、鵞鳥たちとおんなじに何の見分けもつかなくなつてゐるうちに」この当該する箇所に、辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、注があり、『フランス語の「がちょう」という言葉には、「ばか者」の意味があり、「がちょうのようにばかだ」というと、「とてもばかだ」という意味になる』とあった。

 なお、本篇には、明石哲三氏の挿絵が挿入されている。ここ。]

 

 

L'OIE

 

Tiennette voudrait aller à Paris, comme les autres filles du village. Mais est-elle seulement capable de garder ses oies ?

A vrai dire, elle les suit plutôt qu'elle ne les mène.

Elle tricote, machinale, derrière leur troupe, et elle s'en rapporte à l'oie de Toulouse qui a la raison d'une grande personne.

L'oie de Toulouse connaît le chemin, les bonnes herbes, et l'heure où il faut rentrer.

Si brave que le jars l'est moins, elle protège ses soeurs contre le mauvais chien. Son col vibre et serpente à ras de terre, puis se redresse, et elle domine Tiennette effarée. Dès que tout va bien, elle triomphe et chante du nez qu'elle sait grâce à qui l'ordre règne.

Elle ne doute pas qu'elle ferait mieux encore.

Et, un soir, elle quitte le pays. Elle s'éloigne sur la route, bec au vent, plumes collées. Des femmes, qu'elle croise, n'osent l'arrêter. Elle marche vite à faire peur.

Et pendant que Tiennette, restée là-bas, finit de s'abêtir, et, toute pareille aux oies, ne s'en distingue plus, l'oie de Toulouse vient à Paris.

 

2023/10/28

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小町の事」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 小町の事【こまちのこと】 〔黒甜瑣語巻三〕隠れしものの世に出る事は、千載人を待つにて、必ずしもその時あるなり。禹王の水を治められし時佩びられし定水帯《ぢやうすいたい》、代々禁闕の秘物なりしを、いかゞしてか長安の市に棄《すてら》れて知りし者なかりしに、高麗の客これを知りて竊かに買ひとり去りし事、『虞初新志』に記せり。宮人小町が愛弄せし名筝《さう》、実は卑しき一盲人の手にありしを、需《もと》め得たる人ありしとなん。南部の北方に雄鼠(をそ)嶺と云ふ高山あり。麓に一宇の葊室(あんしつ)あり、狐狸の住み荒せし処にて、住する人もなかりしが、夜々筝の音の松風に聞えし。草刈る童部《わらべ》、妻木こる叟《おきな》などの帰るさ聞き伝へて往きて見るに、荒果てし庵の月さし入り物凄きに、盲人の仮居(かりゐ)して弾ずるにぞありける。郷人《さとびと》の云へる、爰は狐狸の宅なるに早く罷(まかで)よと云へば、盲人の云く、僕《しもべ》が往みぬる処にはさやうの放下(こころやり)はなしと云ひて、怖るゝさまもなし。この盲人郷へ出《いで》て湯食《ゆしよく》乞ふ事も見えざるに、いかゞしてか爰に年の半ば過ぐるほど住みけるに、ふと病《やまひ》に染《そ》みて死なんとする折から、行きかゝりし一農人ありて、懇ろに訪ひ語らひ、薬など与へしに、その謝礼とや、この筝を贈りて、これは宮人《みやびと》小野小町が弄《もてあそ》びし筝にて、清音に耳を澄す時は、不平を解き鬱結を開く妙あり。他日乞ふ人あらん時售(う)るべし、我も旦夕に死なん、その時は山の懐に寸土を仮《かり》して葬り給はるべしとてその座に死せり。今琴塚《ことづか》と云ふなんあるはこの盲人の墓なりとかや。農人懇ろに葬りしが、その後或商人この事を聞て、数金を出して贖《あがな》ひとり、これを己が主人に献ぜしが、功手に弾かしめ給ふに、実《げ》にも盲人が云へるごとく、その韵《いん》幽亮《いうりやう》にして鬼神も涙を随すべく、狐狸も跡を避くべく、鬱結も解けなんとぞ思ふ。今に伝へてその家の重宝小町筝《こまちごと》とよぶは、我国にも遠からぬ物がたりとて世にも伝へり。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田さきがけ叢書』の「人見蕉雨集」第一冊(一九六八年秋田魁新報社刊)のここで、新字旧仮名でならば、視認出来る。標題は『○小町貫之の事』であるが、後半の貫之の部分はカットされている。

「定水帯」仮にかく読んでおいたが、不詳。禹は治水で禅譲されているから、水を自在に操れるアイテムか。

「筝」琴。

「雄鼠(をそ)嶺」不詳。しかし、「南部の北方」とあれば、これは「恐山」のことであろう。

「幽亮」奥深くして、しかも明るくはっきりしているさま。]

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「家鴨」

[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。

 また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。

 

 

   家 鴨

 

Ahiru1

 

 まづ雌の家鴨が先に立つて、兩脚でびつこを引きながら、いつもの水溜りへ泥水を浴びに出かけて行く。

 雄の家鴨がそのあとを追ふ。翼(はね)の先を背中で組み合せたまま、これもやつぱり兩脚でびつこを引いてゐる。

 で、雌と雄の家鴨は、何か用件の場所へでも出かけて行くやうに、默々として步いて行く。

 最初まづ雌の方が、鳥の羽根や、鳥の糞(ふん)や、葡萄の葉や、藁屑などの浮んでゐる泥水の中へ、そのまま滑り込む。殆ど姿が見えなくなる。

 彼女は待つてゐる。もういつでもいい。

 そこで今度は雄が入つて行く。彼の豪奢な彩色は忽ち水の中に沈んでしまふ。もう綠色の頭と尻のところの可愛い卷毛が見えるだけだ。どちらもいい氣持でぢつとさうしてゐる。水でからだが溫まる。その水は誰も取り換へたりはしない。ただ暴風雨(あらし)の日にひとりでに新しくなるだけだ。

 雄はその平べつたい嘴で雌の頸を輕く嚙みながら締めつける。いつとき彼は頻りにからだを動かすが、水は重く澱んでゐて、殆ど漣も立たないくらゐだ。で、直ぐまた靜かになると、滑らかな水面には、澄み渡つた空の一隅が黑く映る。

 雌と雄の家鴨はもうちつとも動かない。太陽の下で茹(うだ)つて寢(ね)込んでしまふ。そばを通つても誰も氣がつかないくらゐだ。彼等が其處にゐることを知らせるのは何かと云へば、たまに水の泡(あぶく)が幾つか浮かび上がつて來て、澱んだ水面ではじけるだけである。

 

Ahiru2

 

[やぶちゃん注:鳥綱カモ目カモ科マガモ属品種アヒル Anas plathyrhynchos var. domestica 。]

 

 

CANARDS

 

C'est la cane qui va la première, boitant des deux pattes, barboter au trou qu'elle connaît.

Le canard la suit. Les pointes de ses ailes croisées sur le dos, il boite aussi des deux pattes.

Et cane et canard marchent taciturnes comme à un rendez-vous d'affaires.

La cane d'abord se laisse glisser dans l'eau boueuse où flottent des plumes, des fientes, une feuille de vigne, et de la paille. Elle a presque disparu.

Elle attend. Elle est prête.

Et le canard entre à son tour. Il noie ses riches couleurs. On ne voit que sa tête verte et l'accroche-coeur du derrière. Tous deux se trouvent bien là. L'eau chauffe. Jamais on ne la vide et elle ne se renouvelle que les jours d'orage.

Le canard, de son bec aplati, mordille et serre la nuque de la cane. Un instant il s'agite et l'eau est si épaisse qu'elle en frissonne à peine. Et vite calmée, plate, elle réfléchit, en noir, un coin de ciel pur.

La cane et le canard ne bougent plus. Le soleil les cuit et les endort. On passerait près d'eux sans les remarquer. Ils ne se dénoncent que par les rares bulles d'air qui viennent crever sur l'eau croupie.

 

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「雄鷄」雄鶏(おんどり)

[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。

 また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。

 

 

   雄  鷄 

 

 

     

 

 

 彼は一度も鳴いたことがない。一晩も鷄小屋で寝たことがなく、それこそ一羽の雌鷄さへ知らなかつた。

 彼のからだは木で出來てゐて、腹の眞ん中に鐵の脚が一本ついてゐる。そして、もう何年となく、今ではとても建てられさうもない天主堂の上で暮らしてゐる。それはちよつと納屋(なや)みたいな建物で、その棟瓦(むねがはら)の線はまづ牛の背中と同じくらゐ眞つ直である。

 ところで、今日、その天主堂の向ふの端に石屋の連中が姿を現した。

 木の雄鷄はぢつと彼等の方を眺めてゐると、そのとき急に風が吹いて來て、無理やり後ろを向かされてしまふ。

 で、それから振向いて見る度に、新しい石が積み上げられては、眼の前の地平線を少しづつ塞いで行つた。

 やがて、ぐつと首を持ち上げながら、よく見ると、やつとでき上つた鐘樓のてつぺんに、今朝のまではそんなところにゐなかつた若い雄鷄が一羽止まつてゐる。何處から舞ひ込んできたか、こやつは、尻尾(しつぽ)をはね上げ、いつぱし歌でも唱へさうに口をあけ、そして片方の翼(はね)を腰のところに當てたまま、何處から何處まで新しく、陽(ひ)の光をいつぱいに受け輝いてゐる。

 先づ、二羽の雄鶏はぐるぐる廻る競争をする。然し、古い木の雄鷄はすぐ力尽きて負けてしまふ。一本しかない足の下で、梁(はり)が今にも崩れ落ちさうになつてゐる。彼はあやふく倒れやうとして、體を突つ張りながら前へのめる。彼は軋(きし)み、そして停る。

 すると、今度は大工たちがやつて來る。

 彼らは天主堂のこの蟲のついた部分を取り壞し、その雄鷄を下ろして來ると、それを持つて村ぢゆうを練り步く。誰でも祝儀さへ出せば、そいつにさはつていい。

 或(あ)る連中は卵を一つ、或る連中は銅貨を一枚出す。ロリオの奧さんは銀貨を一枚出す。

 大工たちはたらふく酒を飮み、それからめいめいその雄鷄の奪ひ合ひをした揚句、たうとうそいつを燒いてしまふことに決める。

 彼らはまづ藁と薪束を積み上げて雄鷄の巢を作つてやり、それから、火をつける。

 木の雄鷄はぱちぱちと氣持ちよく燃え、その焰は空に昇つて、彼はちやんと天國に辿りつく。

 

 

Ondori1

 

 

      

 

 

 每朝、止り木から飛び降りると、雄鷄は相手がやつぱり彼處(あそこ)にゐるかどうか眺めてみる――相手はやつぱりそこにゐる。

 

Ondori2

 

 雄鷄は、自慢をゆるすなら、地上のあらゆる競爭者を負かしてしまつた――が、この相手、こいつは手の屆かないところにゐる、これこそ勝ち難き競爭者である。

 

 

 雄鷄は叫びに叫ぶ。呼びかけ、挑みかけ、脅しつける――然し相手は、決つた時間がこなければ應(こた)えない。それもだいいち答へるのではない。

 

 

 雄鷄は見得(みえ)をきり、羽を膨ます。その羽根はなかなか惡くなく、靑いところもあれば、銀色のところもある――然し、相手は、蒼空のただなかに、まばゆいばかりの金色である。

 

 

 雄鷄は自分の雌鷄をみんな呼び集め、そしてその先頭に立つて步く。見よ、彼女らは殘らず彼のもの。どれもこれも彼を愛し、彼を畏(おそ)れている――が、相手は燕(つばめ)どものあこがれの主である。

 

 

 雄鷄はすべてに浪費家である。處きらはず、戀の句點を打ちまはり、ほんのちよつとしたことに、金切聲をあげて凱歌を奏する――然し相手は、折も折、新妻を迎へる。そして空高く、村の婚禮を告げ知らす。

 雄鷄は妬ましげに蹴爪の上に伸び上つて、最後の決戰を試みようとする。その尾は、さながらマントの裾(すそ)を劍ではね上げてゐるやうだ。彼は鷄冠(とさか)に眞つ赤に血を注いで戰を挑み、空の雄鷄は殘らず來いと身構へる――然し、相手は、暴風(あらし)に面(おもて)を曝すことさへ恐れないのに、今はただ、微風に戲れながら、くるりと向ふをむいてしまふ。

 

 

 そこで、雄鷄は、日が暮れるまで躍起(やつき)となる。

 彼の雌鷄は一羽一羽歸つて行く。彼は聲を嗄(か)らし、へとへとになり、もう暗くなつてきた中庭に、たつた獨り殘つている――が、相手は、今もまだ太陽の最後の焰を浴びて輝きわたり、澄みきつた聲で、平和なゆふべのアンジェリュスを唱つてゐる。

 

[やぶちゃん注:鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ(野鶏)属セキショクヤケイ 亜種ニワトリ(庭鶏)ニワトリ Gallus gallus domesticus の♂。なお、本篇の「二」は、二年先行する『ジュウル・ルナアル「ぶどう畑のぶどう作り」附 やぶちゃん補注』の中に同題の同じものがある。但し、そこでは「一」から「八」までの番号が附された形で示されてある。

「ロリオの奧さん」所持する一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の後注によれば、『ロリオ夫人は『田園詩』』(本書刊行の二年後の一八九八年初版)『にも登場する人物で城館の料理女。「フィリップ一家」の九節参照』とあった。

「アンジェリュス」、Angélus(アンジェリュス)の鐘。一日の朝・昼・夕べの三度、打たれる教会の鐘。Otium氏のブログ「エスカルゴの国から」の「アンジェリュスの鐘」によれば、教会は一日に三度、『この鐘を響かせます』として、①『朝、起きる時間を告げる』 (午前六時頃)、②『昼、ご飯を食べに帰るのを促す』(正午頃)、③『夕方、仕事を終えるのを告げる』(午後六時頃)とあり、『なぜアンジェリュスと呼ぶのか?』の項に、『このときのミサのお祈りの言葉が「天使」で始まるからと聞いたことがあります。天使は、フランス語ではangeですが、ラテン語ではangelus』で、『お祈りの初めの文章は、天使がマリアに受胎を知らせる受胎告知の場面で、こんな文章だそうです』。『ラテン語: Angelus Domini nuntiavit Mariæ』、『フランス語訳: Lange du Seigneur apporta lannonce à Marie』とあって、『私が聞き慣れているアンジェリュスは、まず鐘が』三『つ鳴りだし、ほんの少し時間を置いて、また』三『つ鳴り、それから鐘が賑やかに鳴り響く、というもののように思います』とあって、鐘の音を動画で聴くことも出来る。]

 

Ondori3

 

 

COQS

 

 

I

Il n'a jamais chanté. Il n'a pas couché une nuit dans un poulailler, connu une seule poule.

Il est en bois, avec une patte en fer au milieu du ventre, et il vit, depuis des années et des années, sur une vieille église comme on n'ose plus en bâtir. Elle ressemble à une grange et le faîte de ses tuiles s'aligne aussi droit que le dos d'un boeuf.

Or, voici que des maçons paraissent à l'autre bout de l'église.

Le coq de bois les regarde, quand un brusque coup de vent le force à tourner le dos.

Et, chaque fois qu'il se retourne, de nouvelles pierres lui bouchent un peu plus de son horizon.

Bientôt, d'une saccade, levant la tête, il aperçoit, à la pointe du clocher qu'on vient de finir, un jeune coq qui n'était pas là ce matin. Cet étranger porte haut sa queue, ouvre le bec comme ceux qui chantent, et l'aile sur la hanche, tout battant neuf, il éclate en plein soleil.

D'abord les deux coqs luttent de mobilité. Mais le vieux coq de bois s'épuise vite et se rend. Sous son unique pied, la poutre menace ruine. Il penche, raidi, près de tomber. Il grince et s'arrête.

Et voilà les charpentiers.

Ils abattent ce coin vermoulu de l'église, descendent le coq et le promènent par le village. Chacun peut le toucher, moyennant cadeau.

Ceux-ci donnent un oeuf, ceux-là un sou, et Mme Loriot une pièce d'argent.

Les charpentiers boivent de bons coups, et, après s'être disputé le coq, ils décident de le brûler.

Lui ayant fait un nid de paille et de fagot, ils mettent le feu.

Le coq de bois pétille clair et sa flamme monte au ciel qu'il a bien gagné.

 

 

II

Chaque matin, au saut du perchoir, le coq regarde si l'autre est toujours là, - et l'autre y est toujours.

Le coq peut se vanter d'avoir battu tous ses rivaux de la terre, - mais l'autre, c'est le rival invincible, hors d'atteinte.

Le coq jette cris sur cris : il appelle, il provoque, il menace, - mais l'autre ne répond qu'à ses heures, et d'abord il ne répond pas.

Le coq fait le beau, gonfle ses plumes, qui ne sont pas mal, celles-ci bleues, et celles-là argentées, - mais l'autre, en plein azur, est éblouissant d'or.

Le coq rassemble ses poules, et marche à leur tête.

Voyez : elles sont à lui ; toutes l'aiment et toutes le craignent, - mais l'autre est adoré des hirondelles.

Le coq se prodigue. Il pose, ça et là, ses virgules d'amour, et triomphe, d'un ton aigu, de petits riens ; mais justement l'autre se marie et carillonne à toute volée ses noces de village.

Le coq jaloux monte sur ses ergots pour un combat suprême ; sa queue a l'air d'un pan de manteau que relève une épée. Il défie, le sang à la crête, tous les coqs du ciel, - mais l'autre, qui n'a pas peur de faire face aux vents d'orage, joue en ce moment avec la brise et tourne le dos.

Et le coq s'exaspère jusqu'à la fin du jour.

Ses poules rentrent, une à une. Il reste seul, enroué, vanné, dans la cour déjà sombre, - mais l'autre éclate encore aux derniers feux du soleil, et chante, de sa voix pure, le pacifique angélus du soir.

 

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「雌鷄」

[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。

 また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。

 

 

    雌 鷄

 

Meodori1

 

 戶をあけてやると、兩脚を揃へて、いきなり鷄小屋から飛び下りて來る。

 こいつは地味な粧ひをした普通の雌鷄で、金の卵などは決して產まない。

 外の明るさに眼が眩み、はつきりしない足どりで、二足三足庭の中を歩く。

 先づ眼につくのは灰の山である。彼女は每朝そこでいつとき気晴らしをやる習慣になつてゐる。

 彼女は灰の上を轉げ廻り、灰の中にもぐり込み、そして羽根をいつぱいに膨らましながら、激しく一羽搏きして、夜ついた蚤をを振ひおとす。

 それから今度は深い皿の置いてあるところへ行つて、この前の夕立でいつぱい溜つてゐる水を飮む。

 彼女の飮み物は水だけだ。

 彼女は皿の縁の上でうまくからだの調子をとりながら、一口飮んではぐつと首を伸ばす。

 それが濟むと、あたりに散らばつてゐる餌を拾ひにかかる。

 柔かい草は彼女のものである。それから、蟲も、こぼれ落ちた麥粒も。

 彼女は啄(ついば)み啄んで、疲れることを知らない。

 時々、ふつと立ち停る。

 赤いフリジヤ帽を頭に載せ、しやんとからだを伸ばし、眼つき銳く、胸飾りも引立ち、彼女は兩方の耳で代るがはる聽き耳を立てる。

 で、別に變つたこともないのを確めると、また餌を搜し始める。

 彼女は、神經痛にかかつた人間みたいに、硬直した脚を高くもち上げる。そして、指を擴げて、そのまま音のしないやうにそつと地べたへつける。

 まるで跣足(はだし)で步いてゐるとでも云ひたいやうだ。

 

Mendoi2

 

[やぶちゃん注:鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ(野鶏)属セキショクヤケイ 亜種ニワトリ(庭鶏)ニワトリ Gallus gallus domesticus の♀。

「金の卵」ウィキの「「ガチョウと黄金の卵」から引く。『(英:The goose and the golden egg)は、イソップ寓話のひとつ』。『ある日農夫は飼っているガチョウが黄金の卵を産んでいるのを見つけて驚く。それからもガチョウは1日に1個ずつ黄金の卵を産み、卵を売った農夫は金持ちになった。しかし農夫は1日1個しか卵を産まないガチョウに物足りなさを感じ、きっとガチョウの腹の中には金塊が詰まっているに違いないと考えるようになる。そして欲を出した農夫はガチョウの腹を切り裂いた。ところが腹の中に金塊などなく、その上ガチョウまで死なせてしまった』。『欲張り過ぎて一度に大きな利益を得ようとすると、その利益を生み出す資源まで失ってしまうことがある。利益を生み出す資源をも考慮に入れる事により、長期的に大きな利益を得ることができる』の教訓話である。『この話には様々な異本がある。同じギリシア語散文からの翻訳でも山本光雄訳の題は「金の卵を産む鶏」だが』、『中務哲郎訳では「金の卵を生む鵞鳥」であり、内容もヘルメス神への信仰のご利益として金の卵を生むガチョウを授かることになっている』。『バブリオスによる韻文寓話集の』百二十三『話』『でも卵を生むのが鶏になっている。日本の『伊曽保物語』でも「庭鳥金の卵を産む事」になっている(ただしシュタインヘーヴェル版ではガチョウ)。英語訳ではトマス・ジェームズ訳』『・ジョーゼフ・ジェイコブズ訳』『・ヴァーノン・ジョーンズ訳』『でガチョウであるのに対して、ファイラー・タウンゼンド訳』『では雌鶏とする』。十七『世紀のラ・フォンテーヌの寓話詩では第』五『巻の第』十三『話「金の卵を産む雌鶏」 』( La Poule aux œufs d'or  (La Fontaine)) 『として収録しているが、「poule」に』は、『雌鶏の意味と』、『賭博の賭け金の意味を掛けている』とあった。

「フリジヤ帽」♀の鶏冠(とさか:赤いが、♂よりも小さい)を単子葉植物綱 キジカクシ目アヤメ科フリージア属フリージア Freesia refracta の六弁花の内、紅色になるものに喩えたもの。また、所持する岩波文庫辻昶(とおる)訳「博物誌」(一九九八年岩波文庫刊)の注によれば、『フランス革命時代にフランス人が自由の象徴としてかぶった縁無し帽(ボネ)』とある。ウィキの「フリジア帽」を参照されたい。そこにも書いてあるが、かの知られた『ウジェーヌ・ドラクロワの描いた「民衆を導く自由の女神」では自由の女神はフリジア帽を被っている』のである。後のリンク先の画像のこちらを見られたい。

 

 

LA POULE

 

Pattes jointes, elle saute du poulailler, dès qu'on lui ouvre la porte.

C'est une poule commune, modestement parée et qui ne pond jamais d'oeufs d'or.

Éblouie de lumière, elle fait quelques pas, indécise, dans la cour.

Elle voit d'abord le tas de cendres où, chaque matin, elle a coutume de s'ébattre.

Elle s'y roule, s'y trempe, et, d'une vive agitation d'ailes, les plumes gonflées, elle secoue ses puces de la nuit.

Puis elle va boire au plat creux que la dernière averse a rempli. .

Elle ne boit que de l'eau.

Elle boit par petits coups et dresse le col, en équilibre sur le bord du plat.

Ensuite elle cherche sa nourriture éparse.

Les fines herbes sont à elle, et les insectes et les graines perdues.

Elle pique, elle pique, infatigable.

De temps en temps, elle s'arrête.

Droite sous son bonnet phrygien, l'oeil vif, le jabot avantageux, elle écoute de l'une et de l'autre oreille.

Et, sûre qu'il n'y a rien de neuf, elle se remet en quête.

Elle lève haut ses pattes raides, comme ceux qui ont la goutte. Elle écarte les doigts et les pose avec précaution, sans bruit.

On dirait qu'elle marche pieds nus.

 

「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)始動 / 箱表・本体表紙(推定カバー)・扉・扉二・目次・「影像の獵人」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)のアフォリズム的随想Histoires Naturelles ”は一八九六年に刊行された(ルナール三十三歳。フラマリオン版で、その時の挿絵は現代木版画発展期の重要な位置にあるスイスの画家フェリックス・ヴァロットン(Félix Edouard Vallotton  一八六五年~一九二五年)が担当した。彼の挿絵も素晴らしい。『ジュウル・ルナアル「にんじん」フェリックス・ヴァロトン挿絵 附やぶちゃん補注』を見られたい)。私は既に十六年前の二〇〇七年三月二十三日にサイトの「心朽窩新館」で、偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士』(くにお:歴史的仮名遣「くにを」)『訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している。そこでは初版昭和二九(一九五四)年新潮社刊の平成一三(二〇〇一)年四十六刷改版の新潮文庫版(新字新仮名)を用い、挿絵(「日本的なナビ派」(ナビ・ジャポナール:le nabi très japonard)と称された ピエール・ボナール(Pierre Bonnard 一八六七年~一九四七年)によるもので、これは一九〇四年のフラマリオン版新版で、カラー表紙と六十七枚の挿絵(テキスト添えの六十三枚を含む)を描いている。彼については、フランス語版の当該ウィキが恐ろしく詳しいので、是非、見られたい)は、基本、訳の項目名の後のフランス語項目名にブログのマイフォトの「Pierre Bonnard Histoires Naturelles」でリンクさせていたが(一部、複数の絵がある場合に限って本文中にリンクを組み込んで遊んだ)、これは、今の私としては、頗る不満である(そうした理由は、実は、当時、サイト版は無料タイプで、画像をどんどん入れると、容量がアップして一気に満杯になる虞れがあったという、専ら、実利的問題に発するに過ぎなかったことを暴露しておく)。更に、オリジナリティを出すために、 Jules Renard Histoires Naturelles ”の原文を、フランスのサイト“ In Libro Veritas ”版の該当部分をそのままコピー引用して添えた(現在は、このサイトは消失しているようである)。加えて、各文章中のおもな生物で、同定可能なものについては、その訳文の最後に分類学上のタクソン又は学名を注で附した(但し、それに就いては、当時、『これはちょっとした私の勝手な思い付きの洒落であって、それなりに調べはしたが、厳密な分類及び種同定ではない(というわけではないけれど、学名を正式な斜体字にしていないのもお許しあれ)。ただルナールの博物学者ビュフォンとの批判的な距離を考え合わせて、お楽しみ頂ければと思うのである』などと如何にも苦しい言い訳している(注に入れ込むと、中々、進まないからに過ぎなかった。なお、今回、前回の学名の斜体は順々に斜体に変える)。また、『その他、不識を承知の上で、訳文に疑義を抱いた部分について注を附してある』と言っているが、流石に注はリキが入っていないことに内心忸怩たる(と言うか、「ジュクジュク」した気持ちの悪さ)ものを感じてきたのである。

 そこで、今回、国立国会図書館デジタルコレクションの本登録(二〇二二年十二月二十六日登録完了)によって、正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとした。これは、芥川龍之介を除いて、このところ、古典籍ばかりの電子化注に、自身、やることの面白みに聊か不満を感じ始めていたからでもある。

 また、★ボナールの画像はこの底本にはないが、それに就いては、新潮文庫版にあるそれの配された箇所を参考に、適切と思われる位置に配した。また、その画像は十六年前のそれではなく(画像ソフトを使い切れていなかったため、汚損や「ぼやけ」、裏ページの透けが、そのままになっているため)、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。【二〇二三年十月二十八日 藪野直史】]

 

    ル ナ ア ル 作

    岸 田 國 士 譯

     白 水 社

 

Hakokaie

 

[やぶちゃん注:以上は函の表。底本では、無論、見ることは出来ない。そこで、古書店「古本よみた屋 おじいさんの本、買います。」のこちらにある同原本の箱の表画像と思われるものを視認して、似せて文字を配置した。新潮社刊の新潮文庫版の11ページ相当にある同じ絵を仮に配した。実際には御覧の通り、人物の向こうの低い丘陵背景と雲と空は除去されており、そこに上部の標題その他が配されてあるのだが、明らかにボナールの原画のそれらを抹消し、そこに以上の標題を入れ込んだ加工ものであるので、敢えてそのまま配した。]

 

 ル ナ ア ル  岸 田 國 士 訳

 

    博  物  誌

 

   HISTOIRES

 

Hyousikabakari

 

   NATURELLES

 

       白 水 社

 

[やぶちゃん注:本体表紙カバーと思われるもの。底本では、経年劣化のために表紙が再製本されていて見ることが出来ない。底本のものではないが、まず、これと同じであろうかと勝手に踏んで、大阪の古書店「ナカオ書店」のこちらの、戦後の一九五一年白水社刊のそれの画像を視認して、文字は同前の仕儀とした。新潮社刊の新潮文庫版の1ページ相当にある同じ絵を仮に配した。但し、リンク先をご覧頂くと判る通り、原画像の挿絵は三色ほどの色で彩色されてある。また、「HISTOIRES」の下には、葉を持った木の枝の絵(二羽の雀のような小鳥が左端と「O」の部分にとまっている)が印刷されてあるが、これは調べたところ、全体がフランス語版(フラマリオン版新版)の表紙に使用されたものであることが判った。以下は、加入している「Pinterest」で入手した画像を加工せずに拝借したものである。

 

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また、一部、画像では、最上部の原作者が『ルナール』となっているが、底本の扉二に合わせ、「ルナアル」とした。画像が小さいので、よく判らないが、恐らくは「譯」も「訳」っぽく、最下段の「白水社」の「社」も「社」っぽく見えるが、敢えて、かく、しておいた。]

 

 

[やぶちゃん注:扉一の訳書名標題。]

 

 

博  物  誌

 

ジュウル・ルナアル

 

 岸 田 國 士 譯

 

 

1939

 

 

白 水 社

 

[やぶちゃん注:扉二の標題ページ。訳者と刊行年の間には、手前に垣根と、奥に小さな池塘を持った庭があり、左上には雀を大きくしたような鳥が飛んでいる(?)か。この絵は、タッチがボナールっぽくないので、本書のイラストとして「目次」の最後に載る明石哲三によって描かれたものであろう。明石氏(詳しい事績はサイト「HMV & BOOKS online」のこちらに詳しい)は一九七三年に逝去されており、著作権は継続しているので、掲げることはもともと出来ない。

 以下、「目次」となるが、リーダとノンブルはカットした。]

 

  博 物 誌  目 次

 

 

 影像(すがた)の狩人(かりうど)

 雌鷄

 雄鷄

 家鴨

 鵞鳥

 七面鳥

 小紋鳥

 鳩

 孔雀

 白鳥

 猫

 犬

 牝牛

 ブリュネットの死

 牛

 水の虻(あぶ)

 牡牛

 馬

 驢馬

 豚

 羊

 山羊

 兎

 鼠

 蜥蜴(とかげ)

 鼬(いたち)

 蚯蚓(みみず)

 やまかがし

 蛇

 蝸牛(かたつむり)

 蛙

 蟇

 蜘蛛

 毛蟲

 蝶

 小蜂

 蜻蛉(とんぼ)

 蟋蟀(きりぎりす)

 ばつた

 螢

 蟻(あり)

 蟻と鷓鴣(しやこ)の子

 あぶら蟲(むし)

 蚤

 栗鼠(りす)

 猿

 鹿

 かは沙魚(はぜ)

 鯨

 庭のなか

 ひなげし

 葡萄畑

 鶸(ひわ)の巢

 鳥のゐない鳥籠

 カナリヤ

 燕

 蝙蝠

 鵲(かささぎ)

 鶺鴒(せきれい)

 くろ鶫(つぐみ)!

 雲雀(ひばり)

 こま鶯(うぐひす)

 かはせみ

 隼(はやぶさ)

 鴉

 鷓鴣(しやこ)

 鴫(しぎ)

 猟期終る

 樹々の一家

挿繪 明 石 哲 三   

 

[やぶちゃん注:先に電子化した戦後のサイト版とは、配列に違いがあり、一部の標題も異なる。岸田は明らかに、この初版での訳を後の改訂版を採り、後に改訳していることが目次だけも判る。項目配列の違いは、煩瑣になるばかりで、特に指示する気はない。サイト版と読者の方々が比較されたい。

 以下、本文に入る。]

  

 

    影像(すがた)の狩人(かりうど)

 

 

 朝早くとび起きて、頭はすがすがしく、氣持は澄み、からだも夏の衣裝のやうに輕やかな時にだけ、彼は出かける。別に食ひ物などは持つて行かない。みちみち、新鮮な空氣を飮み、健康な香(かほり)を鼻いつぱいに吸い込む。獵具(えもの)も家へ置いて行く。彼はただしつかり眼をあけてゐさへすればいいのだ。その眼が網の代わりになり、そいつにいろいろなものの影像(すがた)がひとりでに引つかかって來る。

 最初に網にかかる影像(すがた)は、道のそれである。野梅と桑の實の豐かにみのつた二つの生垣に挾まれて、すべすべした砂利が骨のやうに露出し、破れた血管のやうに轍の跡がついてゐる。

 それから今度は小川の影像(すがた)をつかまへる。それは曲り角ごとに白く泡だちながら、柳の愛撫の下で眠つてゐる。魚が一匹腹を返すと、銀貨を投げこんだやうにきらきら光り、細かい雨が降りだすと、小川は忽ち鳥肌をたてる。

 彼は動く麥畑の影像(すがた)を捕へる。食慾をそそる苜蓿(うまごやし)や、小川に緣どられた牧場の影像(すがた)を捕へる。通りすがりに、一羽の雲雀が、或は鶸(ひわ)が飛び立つのをつかまへる。

 それから、彼は林のなかへはいる。すると、われながらこんな纖細な感覺があつたのかと思ふやうだ。好い香(にほひ)がもう全身にしみわたり、どんな鈍いざわめきも聞き逃さない。そしてすべての樹木と相通じるために、彼の神經は木の葉の葉脈に結びつく。

 やがて、昂奮の餘り氣持がへんになつてくる。何もかもはつきりしすぎる。からだのなかが醱酵したやうになる。どうも氣分がわるい。そこで林を出て、鑄型作りの職人たちが村へ歸つて行く、その後ろを遠くからつける。

 林の外へ出ると、恰度いま沈まうとする太陽が、その燦然たる雲の衣裳を地平線のうへに脫ぎすて、それが入り交り折り重なつてひろがつてゐるのを、いつとき、眼がつぶれるほど見つめてゐる。

 さて、頭のなかをいつぱいにして家へ歸つて來ると、部屋のランプを消しておいて、眠る前に永い間、それらの影像(すがた)を一つ一つ數へ擧げるのが樂しみだ。

 影像(すがた)は、素直に、思ひ出のまにまに蘇つて來る。その一つ一つがまた別の一つを呼び覺し、そしてその燐光の群は、ひつきりなしに新手が加はつてふえて行く――地恰も、一日ぢゆう追ひ囘廻され、散り散りになつてゐた鷓鴣のむれが、夕方、もう危險も去つて、鳴きながら畦(あぜ)の窪みに互に呼び交してゐるやうに。

 

[やぶちゃん注:本篇は底本のここから。

「狩人」主人公 Jules Renard は動物界脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱正獣(サル)下綱霊長(サル)目真猿(サル)亜目狭鼻(サル)下目ヒト上科ヒト科ヒト属ヒト Homo sapiens

「野梅」植物界被子植物門双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属 Cerasus 或いはスモモ属 Prunus スピノサスモモ Prunus spinosa 。本邦には植生しない。

「桑の實」バラ目クワ科クワ属 Morus 。フランスで見られる種はフランス語の同種のウィキの“Noms français et noms scientifiques correspondant”(フランス語の俗語のそれぞれに対応する学名)には八種が挙がっている。所謂、甘いけれど、舌が不気味に青黒くなり、実の間の毛が舌に刺さってエラエラする(私の少年期の忘れらない記憶)「野桑の実」である。

「柳」双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属 Salix。日本と同様、フランスでは中国原産のシダレヤナギ Salix babylonica が公園などに多く植えられているが、ヤナギは種が多く、判別も難しいので、属で留めておく。

「魚」脊椎動物亜門顎口上綱 Gnathostomata に属する魚類。現在は軟骨魚綱 Chondrichthyes と硬骨魚綱 Osteichthyes に分かれるが、まあ、この条では、ロケーションから後者の「川魚」、淡水魚類としてよい。なお、次の注に示した本篇の原風景の体験を記したと思われる一八八九年の日記には、『ギンヒラウオ』・『すずき(パーチ)[やぶちゃん注:ルビ。]』・『コイ科の淡水魚』(佃裕文訳)と具体な魚が記されている。『ギンヒラウオ』硬骨魚綱条鰭亜綱コイ目コイ科ウグイ亜科アルブルヌス族アルブルヌス属 Alburnus alburnus (フランス語でアブレッテ(Ablette)。英語でブリーク(bleak))のことであろう(当該ウィキあり。「ギンヒラウオ」は和名として認定されたものではないようである)。『すずき(パーチ)』条鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus で、『コイ科の淡水魚』は条鰭亜綱コイ目コイ科 Cyprinidae となる。

「魚が一匹腹を返すと、銀貨を投げこんだやうにきらきら光り」所持する臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』第五巻(一九九四年刊)所収の「博物誌」の注によれば、ここに注して、「日記」の一文を指示してある。同全集第十一巻「日記Ⅰ」(一九九六年刊・佃裕文訳)の当該部は、二十四最歳の一八八九年七月二十二日のもので、日記全文が、川辺を散策した際の耳目したものを描写しているが、その描写の最後に、『一匹の魚が身を返し、どろりとした水面に銀板のような影を見せる』とある。

「麥」通常に指すところの単子葉植物綱イネ目イネ科イチゴツナギ亜科コムギ連コムギ属パンコムギ Triticum aestivum としておく。

「苜蓿(うまごやし)」被子植物門双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha 若しくは、ウマゴヤシ属 Medicago の種。ヨーロッパ(地中海周辺)原産の牧草。江戸時代頃、国外の荷物に挟み込む緩衝材として本邦に渡来した帰化植物である。葉の形はシロツメクサ(クローバー:マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens )に似ている。『ジュウル・ルナアル「にんじん」フェリックス・ヴァロトン挿絵 附やぶちゃん補注』や、『ジュウル・ルナアル「ぶどう畑のぶどう作り」附 やぶちゃん補注』でもお馴染みのアイテムである。

「雲雀」脊椎動物亜門鳥綱スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis

「鶸」同スズメ上科ヒワ亜科ヒワ族ヒワ属ゴシキヒワ Carduelis carduelis 

「鷓鴣」鳥綱キジ目キジ亜目キジ科キジ亜科Phasianinaeの内、「シャコ」と名を持つ属種群を指す。特にフランス料理のジビエ料理でマガモと並んで知られる、イワシャコ属アカアシイワシャコ Alectoris rufa に同定しても構わないだろう。]

 

 

LE CHASSEUR D'IMAGES

 

II saute du lit de bon matin, et ne part que si son esprit est net, son coeur pur, son corps léger comme un vêtement d'été. Il n'emporte point de provisions. Il boira l'air frais en route et reniflera les odeurs salubres.

Il laisse ses armes à la maison et se contente d'ouvrir les yeux. Les yeux servent de filets où les images s'emprisonnent d'elles-mêmes.

La première qu'il fait captive est celle du chemin qui montre ses os, cailloux polis, et ses ornières, veines crevées, entre deux haies riches de prunelles et de mûres.

Il prend ensuite l'image de la rivière. Elle blanchit aux coudes et dort sous la caresse des saules. Elle miroite quand un poisson tourne le ventre, comme si on jetait une pièce d'argent, et, dès que tombe une pluie fine, la rivière a la chair de poule.

Il lève l'image des blés mobiles, des luzernes appétissantes et des prairies ourlées de ruisseaux. Il saisit au passage le vol d'une alouette ou d'un chardonneret.

Puis il entre au bois. Il ne se savait pas doué de sens si délicats. Vite imprégné de parfums, il ne perd aucune sourde rumeur, et, pour qu'il communique avec les arbres, ses nerfs se lient aux nervures des feuilles.

Bientôt, vibrant jusqu'au malaise, il perçoit trop, il fermente, il a peur, quitte le bois et suit de loin les paysans mouleurs regagnant le village.

Dehors, il fixe un moment, au point que son oeil éclate, le soleil qui se couche et dévêt sur l'horizon ses lumineux habits, ses nuages répandus pêle-mêle.

Enfin, rentré chez lui, la tête pleine, il éteint sa lampe et longuement, avant de s'endormir, il se plaît à compter ses images.

Dociles, elles renaissent au gré du souvenir. Chacune d'elles en éveille une autre, et sans cesse leur troupe phosphorescente s'accroît de nouvelles venues, comme des perdrix poursuivies et divisées tout le jour chantent le soir, à l'abri du danger, et se rappellent aux creux des sillons.

 

2023/10/27

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小堀家稲荷」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 小堀家稲荷【こぼとけいなり】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻二〕京都に住居せる上方御郡代、小堀数馬祖父の時とかや。或日玄関へ三千石以上ともいふべき供廻りにて来る者有り。取次敷台へ下りければ、久々御世話に罷り成り、数年の懇意厚情に預り候処、此度結構に出世して他国へ罷り越し候、これに依つて御暇乞《おいとまごひ》に参りたりとて申置き帰りぬ。取次の者も不思議に思ひけるは、洛中は勿論、兼ねて数馬方へ立入る人にかゝる人覚えず、怪しく思ひながら、その訳を数馬へ申しければ、数馬も色々考へけれど、公家武家その外家司宮仕の者にも、かゝる名前の者承り及ばず、不審して打過ぎけるが、或夜の夢に、屋敷鎮守の白狐なり、年久しく屋敷内に居たりしが、この度藤の森の差図にて、他国へ昇進せし故、疑はしくも思さんが、この程暇乞に来れり、なほ疑はしく思はゞ明早朝座敷の椽《えん》を清め置くべし、来りまみえんとなり、余りの事に不思議に思ひて、翌朝座敷の椽を塩水にて清め、数馬も右座敷に居たりければ、一ツの白狐来りて椽の上にあがり、暫くうづくまり居しが、程なく立去りけるにぞ、さては稲荷に住みつる白狐の立身しけるよと、神酒《おみき》赤飯などそなへて祝しけるとなり。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之二 小堀家稻荷の事」のことを参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小仏峠怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 小仏峠怪異【こぼとけとうげかいい】 〔梅翁随筆巻四〕肥前国嶋原領堂津村<長崎県南高来郡内か>の百姓与右衛門といふもの、所用ありて江戸へ出けるが、甲州巨摩郡竜王村<山梨県甲斐市竜王>の名主伝右衛門に相談すべき事出来《いでき》て、江戸を旅立ちて武州小仏峠を越えて、昼過のころなりしが、一里あまり行きつらんとおもひし時、俄かに日暮れて道も見えず。前後樹木生ひ茂りて家なければ、是非なく夜の道を行くに、神さびたる社ありける。爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。次第に夜も更け、森々として物凄き折から、年のころ二十四五にもあらんと思ふ女の、賤しからぬが歩行(あるき)来り、与右衛門が側ちかく立廻る事数度なり。かゝる山中に女の只壱人来るべき処にあらず。必定化生《けしやう》のものの我を取喰《とりくら》はんとするなるべしと思ひける故、ちかくよりし時に一打ちにせんとするに、五体すくみて動き得ず。こは口惜しき事かなと色々すれども、足もとも動かず、詮(せん)かたなく居《を》るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。また近よる時は初めのごとく動きがたし。かくする内に猶近々と寄り来る故、万《よろづ》は我身喰はるゝなるべし。あまり口をしき事に思ひければ、女の帯を口にて確(しか)とくはへければ、この女忽ちおそろしき顔となりて喰はんとする時、身体自由になりて、脇ざしを抜て切《きり》はらへば、かの姿はきえていづち行きけん、知れずなりにける。さて思ひけるは、この神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、それより此所を出て夜の道を急ぎぬ。その後は怪しきものにも出合はずして、甲斐へいたりぬとなり。

[やぶちゃん注:著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現の当該部が視認出来る。標題は『小佛峠怪異の事』。

「肥前国嶋原領堂津村」「長崎県南高来郡内か」現在の長崎県有明町その他の内(「ひなたGPS」)かと思われるが、「堂津」は戦前の地図でも見出せなかった。

「甲州巨摩郡竜王村」山梨県甲斐市竜王(グーグル・マップ・データ)。

「武州小仏峠」東京都八王子市裏高尾町(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「瘤取り」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 瘤取り【こぶとり】 〔甲子夜話巻四〕著聞集に鬼に瘤を取られたると云ふこと見ゆ。これは寓言かと思ふに、予<松浦静山>が領内に正しく斯事あり。肥前国彼杵郡佐世保<長崎県佐世保市>と云ふ処に、八弥と云ふ農夫あり。左の腕に瘤あり、大きさ橘実《たちばなのみ》の如し。また名切谷《なぎりだに》と云へる山半《やまなかば》に小堂あり、観音の像を置く。坐体にして長一尺ばかり、土人夏夜には必ず相誘うてこの堂に納涼す。一夕八弥彼処《かしこ》にいたる。余人来らず。八弥独り仮睡す。少くしてその像を視るに、その長(たけ)稍〻《やや》のびて、遂に人の立つが如し。起て趺坐《ふざ》を離《はな》る。八弥が前に来りて曰く、我汝が病患を消せんとて、八弥が手を執りてかの瘤をひく。八弥その痛みに堪へず。忽ち驚きさむ。夢なるを知りて見るに瘤なし。人疑ふ、八弥常に大士を信ずるにあらず、亦患を除く願ありしに非ず、然るにこの霊験あること不可思議なり。かかれば昔鬼に瘤を取られしこと、寓言とも言ひがたし。

[やぶちゃん注:原話「甲子夜話卷之四 11 農夫八彌、夢中に瘤を取らるゝ事」は既に二〇一七年にルーティン電子化注を終わっている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「五百羅漢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 五百羅漢【ごひゃくらかん】 〔甲子夜話巻八十〕印宗和尚行脚の時のことどもを聞きし中に、豊前国に五百羅漢と云ふ所あり。中津の城下より四里程もあり。筑後への路にして、その間多く山路なり。羅漢より一里ほど前に縦横三町ばかりもあらん、一巌山あり。この下は舟をも通ずべき川なり。山は川に臨みて往来するに嶮路なりしを、未だ年久しきことにもあらず、関東より来れる六部僧発願《ほつぐわん》して、往来の人に銭施を乞ひ、これを積みて工夫《こうふ》に与へ、彼の巌壁の川に添ひたる石中三町ばかりの間を、山肉を割穿ち通路とし、その平坦高濶、馬牛に至ても往還自由なりとぞ。されども穴中なれば暗黒物を弁ぜざるを、巌下の川の方へ窓の如く擊《うち》ぬき、所々より明《あかり》を引く。故に人その光に因て行路を易《やす》うすと。この石窟五百羅漢へ往く道なれば、如何にも羅漢の来降《らいかう》あるべき所なり。かの羅漢と云ふは寺にて曹洞宗なりと。この寺の山中巌石崎嶇、その形勢天然にして、実に絶世の勝地なり。唐の天台山もかくあらんと想はるゝとぞ。羅漢は石像にて大きさ人の如く、石橋も自《おのづか》ら山間に在りと。また寺の堂も小ならず。然るに屋脊半は外に在て常の如く、半は巌を鑿《うがち》て窟中に在り。余は玆《これ》を以て計り知るべしと。

[やぶちゃん注:事前に正規表現で「フライング単発 甲子夜話卷之八十 14 豐前、五百羅漢」を公開しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷之八十 14 豐前、五百羅漢

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

80-14

 印宗和尙、行脚の時のことどもを聞(きき)し中に、

「豐前國に五百羅漢と云(いふ)所あり。中津の城下より、四里程もあり。筑後への路にして、その間、多く、山路なり。羅漢より一里ほど前に、縱橫三町許(ばかり)も有らん、一巖山(いはやま)、あり。この下は、舟をも、通(つう)ずべき川なり。山は、川に臨みて、往來するに、嶮路(けんろ)なりしを、未だ年久しきことにもあらず、關東より來(きた)れる六部僧(ろくぶそう)、發願(ほつぐわん)して、往來の人に錢施(せんせ)を乞ひ、これを積みて、工夫(こうふ)に與へ、彼(か)の巖壁(いはかべ)の、川に添ひたる石中(いはうち)、三町ばかりの間を、山肉(さんにく)を、割穿(わりうがち)、通路とし、その平坦高濶、馬・牛に至(いたり)ても、往還、自由なりとぞ。されども、穴中(あななか)なれば、暗黑、物を辨(べん)ぜざるを、巖下(いはした)の川の方(かた)へ牖(まど)の如く鑿(きり)ぬき、所々より、明(あかり)を引く。故に、人、その光に因(よつ)て行路を易(やす)うす。」

と。

「此石窟(せきくつ)、五百羅漢へ往く道なれば、何(い)かにも、羅漢の來降(らいかう)あるべき所なり。彼(かの)羅漢と云(いふ)は、寺にて、曹洞宗なり。」

と。

 この寺の山中、巖石、崎崖(きがい)、その形勢、天然にして、實(まこと)に絕世の勝地なり。『唐の天台山も、かくあらん。』と想はるゝ。」

とぞ。

「羅漢は、石像にて、大(おほき)さ、人の如く、石橋(しやくきやう)も自(おのづか)ら山間に在り。」

と。また、

「寺の堂も小ならず。然るに、屋脊(をくせき)、半(なかば)は、外に在(あり)て、常の如く、半は、巖を鑿(うがち)て、窟中(くつちゆう)に在り。餘(よ)は、玆(これ)を以て計り知るべし。」

と。

■やぶちゃんの呟き

「印宗和尙」静山と馴染みの禅僧であるが、不詳。「甲子夜話」には、しばしば登場する。例えば、私の「柴田宵曲 妖異博物館 天狗の夜宴」を見られたい。

「豐前國に五百羅漢と云所あり」大分県宇佐市大字江須賀にある東光寺の五百羅漢(グーグル・マップ・データ)。「宇佐市公式観光サイト」内のこちらを見られたが、そこに『宇佐市江須賀にある東光寺には、喜怒哀楽の表情をした五百羅漢があります』。『東光寺は貞治元』(一三六二)年に『臨済宗として開山し、戦国の世を経て寺跡だけになっていたのを』十七『世紀半ばに再興されたと伝えられており、その後、曹洞宗に改宗し』、『現在に至っている寺院です』。『  五百羅漢は安政』六(一八五九)年、十五『代住職道琳が干害に苦しむ農民を救いたいと、当時著名だった日出の石工に制作を依頼したことが始まりで、明治』十五(一八八三)年までの二十四『年間に渡って』五百二十一『体もの羅漢像を彫り上げました』。『 石仏の一つ一つを見ていると、身近な人々や懐かしい人の顔を思い浮かべたり、自分にそっくりな顔をした羅漢像に会えるかもしれませんよ』。『 また、本堂の裏には十六羅漢と珍しい仏足石もあり、五百羅漢と共に宇佐市の有形民俗文化財に指定されています』とある。ドローンによる動画もある。

「羅漢より一里ほど前」同定が、中々に厳しい。条件を考えて、それらしく私が思ったのは、大分県宇佐市猿渡糸口山(いとぐちやま:グーグル・マップ・データ航空写真)の台地久々姥(くうば)附近であった(久々姥古墳あり)。地名が如何にもそれらしく、川に面しているからである。郷土史研究家の御教授を乞うものである。「ひなたGPS」の戦前の地図対比も添えておく。

「三町」三百二十七メートル。

「天台山」浙江省東部の天台県の北方二キロメートルにある霊山。最高峰は華頂峰で標高千百三十八メートル。旧字表記でも「天台山」である。当該ウィキによれば、『桐柏峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する。中国三大霊山の一つ。仏教との関係では、天台智顗』(ちぎ 五三八年~五九七年)が太建七(五七五)年から『この天台山に登って天台教学を確立した』ことで知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小日向辺怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 小日向辺怪異【こびなたへんかいい】 〔半日閑話巻十五〕この頃弓の稽古場の咄しにて承り候処、去年十二月(文化十一戌年)の事とよ。小日向辺<東京都文京区内>の御旗本、その頃小普請なり。一両年已前養子に来り、当時家督なり。或日ふと近所へ夜話に罷越候処、一体彼仁《かのじん》少々は酒を飲候処、この頃は禁酒同様に有ㇾ之、その夜は殊の外酒を飲みて深更に及び、帰る道にて跡よりその名を呼掛け候者有ㇾ之、依て振返り見候得ば、縞の衣服を著したる色青ざめたる坊主にて、おそろしき様体《やうてい》なり。依て当人は顔をにらめ早足に歩む処、この度はまた先へ廻り、跡ずさり来るゆゑ、甚だ恐怖の思ひをなし、早々に帰り入口へ入らんと思ひしに、その者も俱に入る様子なり。それよりふと当人狂乱と相成、養父の前へ出て、養父の已前の悪を速かにしやべるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、家内も肝を消し、これは乱心にやとて、早々に休ませ、夜著をかけ、男共押へ居候得共、それをはねのけ高らかに色々の事をしやべりしゆゑ、叱り叱りに漸々《やうやう》押付候処、暁過より追々鎮まりすやすや休みけり。その翌日は平生の体《てい》にて何も替り候事も無ㇾ之、依ㇾ之て養父余りの不審に、遠くより物を申かくるに、何の替りし事も無ㇾ之、昨夜の始末を尋ねしに、不ㇾ存《ぞんぜざる》由答へけり。然るに彼《か》の実母実家よりこの頃泊りに参り候ゆゑ相尋ねければ、その時当人答には、誰へも咄し申すまじく候得共、右様御尋ねなれば無ㇾ拠《よんどころなし》とて咄しけるは、昨夜の途中の奇事、それより門を入るに一向騒ぎ悪口の始末不ㇾ覚、すやすや休みし頃、また彼《か》の坊主枕元へ参り申聞け候は、今夜家内中をその方《はう》に切らせたく思ひしが、力に不ㇾ及、斯く成る上は我《わが》命日十二月二日なり、依ㇾ之一向問ひ弔ひ今になさゞるゆゑ、品々この事を取行ひくれ候へ、また我名げんじんといふとて、かき消すやうに失せける由申すゆゑ、実母この事を養父に話す処、一々承知之《これ、しようち》、已前其父をむごく取計らひ、遂に出奔に及びしなり、彼の出奔の日を命日と致すといへども、一向尋ねも不ㇾ致、石碑も不ㇾ立、勿論法事不ㇾ致、それなりに捨置きしゆゑ、右の人やと養父おどろきける。殊にその名乗をうち返し見れば、申聞ける名なりとて、早々法事致し弔ひけり。この近年毎歳十二月の月に至れば、兎角奇事止む事なき所、当年より其事止む。その年に至り当人大御番へ御番入致すと云々。咄す人甚《はなはだ》密《ひそか》して名を不ㇾ語とかや。さりながら此説実説にて、同人もこの由語《かたり》浮《うかつ》にも名乗らず。

[やぶちゃん注:「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○小日向邊の怪異』である。

「去年十二月(文化十一戌年)」同十二月一日は既にグレゴリオ暦一八一五年一月十日。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小幡小平次」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 小幡小平次【こはたこへいじ】 〔耳嚢巻二〕こはた小平次といふ事、読本にも綴り、浄瑠璃に取組み、または俳諧の附合などにもなして、人□に膾炙すれど、歌舞妓役者なりとはきゝしが、その実を知らず。或人その事跡を語りけるは、右小平次は山城国小幡村京都府綴喜(つづき)郡近辺か>出生にて、幼年にて父母におくれ、たよるべきものなければ、その村長など世話をなし養ひけるが、一向両親の追福のため、出家せよと言ひしに随ひ、小幡村浄土宗光明寺の弟子になり、出家して、名は真州と申しけるが、怜悧発明いふばかりなく、和尚もこれを愛し、暫く随身しけるが、学問もよろしく、何卒この上諸国を遍歴して、出家の行ひもなしたきと願ひければ、金五両をあたへ、その願ひにまかせけるに、江戸表へ出で、深川辺に在所者ありければ、これへたよりて暫くありけるに、ふと睨ひ祈禱など甚だ奇瑞ありて、こゝかしこより招きて、後には別段に店《たな》もちて、信仰の者多く、金子なども貯ふる程になりしが、深川茶屋の女子《をなご》に花野といへる妓女、真州が美僧なるを、病《わづら》ふの時加持致し貰ひ、深く執心して、或時口説《くど》きけれど、真州は出家の身、かゝる事思ひよらずといなみけるが、或夜真州が庵《いほり》へ花野来りて、この願ひ叶へ給はずば、死するより外なし、殺し給ふやいかにと、切になげきし上、一つの香合《かうがふ》を出し、志を見給へと渡しける故、右香合をひらき見すれば、指ををしげなく切りて入れ置きたり。真州大きに驚き、出家の身、いかにいひ給ふとも、飽くまで落入る心なし、さりながら左程にの給ふ事なれば、翌夜来り給へ、得《とく》と考へていづれとか答ふべしとて、立別れけるが、かくては叶はじと、その夜手元の調度など取集め、路用の支度して深川を立退き、神奈川迄至りしが、或る家に寄りて一宿なしけるに、亭主は見覚えたるやうにて、御身いかなれば、ここへ来り給ふやと尋ねけるゆゑ、しかじかの事なりと、あらましを語りければ、先づ逗留なし給へとて止め置きて、世話なしけるが、右香合は汚らはしとて、途中にてとり捨てしが、不思議に猟師の網にかゝりて、神奈川宿にて、子細ありて真州が手へ戻りしを、亭主聞て、かく執念の残りし香合なれば、焼捨てて厚く弔ひ給へといふに随ひ、読経供養して一塚の内に埋《うづ》め、心がかりなしと思ひけるに、或日大山へ参詣の者、彼《かの》家に泊り真州を見て、御身はいかにして爰に居給ふや、かの花野は乱心して、親方の元を立出で、今はいづくへ行きけん、行方しらず、最早江戸表へ立帰り給へとて、口々進めて、ともなひ帰り、境町《さかひちやう》<元東京都中央区日本橋にあった>辺の半六といふ者、世話をなし、浪人にて渡世なくても済むまじとて、茶屋の手伝ひ、また楽屋の働きなどなしける。出家にても如何とて、げんぞくなさしめけるに、役者など、御身も役者になり給へとて終に役者になり、初代海老蔵といひし市川柏莚の弟子になり、小幡を名乗るもいかがとて、小和田《こわた》小平次といひしが、男振りはよし、芸も相応にして、中よりは上の役者になりしが、楽屋にて博奕致し候儀有ㇾ之、柏莚破門なしける間、詮方なく田舎芝居へ、半六同道にて下りしに、雨天続きて渡世を休みし日、右半六并《ならび》に見世物師を渡世とせし穴熊三平、連れ立ちて猟に出《いで》しに、計らず小平次は海へ落ちて水死なせしよし。(実は花野、境町に小平次有る事を聞いて尋ね来り、夫婦となりて有りしが、三平儀深川の時より執心して、半六申し合せて小平次を海へつきこみ殺しけるが、此事追つて顕《あらは》れ、吟味有りて、三平・半六ともに御仕置になりしとなり)かくて三平・半六は江戸帰り、小平次留守へ来りしに、花野出《いで》て、なぜ遅く帰り給ふ、小平次は夜前帰りしといふ故、両人甚だ不審して、実は小平次は海へ落ち相果てしゆゑ、申訳もなき仕合せゆゑ、申出しかねしと語りければ、妻は誠ともせず。両人も驚き一間を覗きしに、落物などはありて形なし。その後も小平次に付きては、怪しき事度々有りしとなり。その余は聞かざるゆゑ、こゝにしるさず。享保初めよりなかば迄の事に候由。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之九 小はた小平次事實の事」を見られたい。その注では、多く認められる「こはだ小平次」譚の型に就いての私の考証も記してある。

「山城国小幡村」「京都府綴喜郡近辺」この現在地に就いて、『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」では現在の『京都府八幡市』に書き換えているが、誤り。正しくは、京都府宇治市木幡(こわた)である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「境町」現在の中央区日本橋人形町三丁目。慶長以来の古い町。]

〔海録巻三〕閏六月二日、廻向院(ゑかういん[やぶちゃん注:ママ。])<東京都墨田区両国町内>にて、歌舞妓役者尾上松之助施主にて、直幽指玄信士、俗名こはだ小平次のために施餓鬼をなす。役者ども参詣すときゝて人々群集す。小はだ小平次が伝未ㇾ詳、旅芝居をありきし役者なりと云ふ。吉田雨岡《うかう》云ふ。(雨岡は元与力吉田忠蔵、桃樹、御暇《おいとま》になりし後、根岸時雨岡《しぐれをか》に隠居せり)「こはだ小平次といへる旅役者、伊豆国に行きて芝居せしが、はかばしきあたりもなく、江戸へかへりて面目なしとて自滅す。友なるものにいふは、わが妻ふるさとにあり、われかく死すときかば、かなしみにたへざるべし、必ず我死せし事かたり給ふなといひ置きて死せり。その友ふるさとにかへりしに、その妻小平次が事を問ひしかば、程なく帰へるべしとすかし置きしが、月日へて帰へらねば、その妻いぶかしく思ひて、その事をせめ問ひし時、まことは死したりといふことをいはんとせし時、屋のむねに声ありて、それをいひ聞かしては悪しゝといひしとなん。それより小平次の話をすれば必ず怪事ありとて、芝居もののことわざに、はなしにもいひ出す事なし」といへり。 [やぶちゃん注:一字空けはママ。]また一説に小平次旅芝居にて金を貯はへしを、友達しりて、窃かに殺して金を奪ひしが、その人も知れざれば、江戸にかへりて、泣く泣くその妻にその事を語りしに、小平次はまさしく昨夜家にかへりて蚊屋のうちにふせり居《を》れりといふ。怪しみて蚊屋の中をみれば、その形をみずといふ」(耕書堂の説)また一説に「小平次は下総国印旛沼」<千葉県印旛郡>にて、市川家三郎といふ者に殺され、沼の中に埋みしといふ。もと密婦の故なりとぞ」未ㇾ詳、按ずるに、京伝丙寅のとしの合巻に、浅香沼《あさかのぬま》後編お六ぐしといふに、こはだ小平次を書きしは、この沼の縁によれるにや。

[やぶちゃん注:「海録」近世後期の江戸の町人(江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子)で随筆家・雑学者山崎美成が研究・執筆活動の傍ら、文政三(一八二〇)年六月から天保八(一八三七)年二月までの十八年間に亙って書き続けた、考証随筆。難解な語句や俚諺について、古典籍を援用し、解釈を下し、また、当時の街談・巷説・奇聞・異観を書き留め、詳しい考証を加え、その項目は千七百余条に及ぶ。彼は優れた考証家であり、「兎園会」の一人でもあったが、物言いが倨傲で、遂に年上の曲亭馬琴から絶交されたことでも知られる。国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本(大正四(一九一五)年刊)のここの「四九こはだ小平次」がそれ。

「耕書堂」版元蔦屋重三郎(寛延三(一七五〇)年~寛政九(一七九七)年)。書肆の名も同じ。目利きのある人物で、写楽・曲亭馬琴・十返舎一九などの世話された著名な作家は数多い。

「浅香沼」「安積沼」が正しい。読本。角書(つのがき)は「復讐奇談」。山東京伝著。北尾重政画。享和三(一八〇三)年刊。半紙本五冊。別名「小幡小平次(こはだこへいじ)死霊物語」。京伝の二作目の長編読本で、歌舞伎俳優玉川歌仙、実は里見浪人安西喜内の息子喜次郎(後に山井波門と改名)の敵討の苦心、そして大和の郷士穂積家の娘鬘児(かつらこ)との恋を物語の主軸とし、近世初期に実在した俠客・俳優・名僧などの挿話を交えつつ、「安積山伝説」・「絵姿女房民話」・「絞纈(こうけつ)城伝説」等によって構成されている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「木葉天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 木葉天狗【このはてんぐ】 〔諸国里人談巻二〕駿遠の境大井川に天狗を見る事あり。闇なる夜、深更におよんで、潜かに封疆塘(どてつつみ)の陰にしのびてうかゞふに、鳶のごとくなるに翅《はね》の径(わた)り六尺ばかりある大鳥《おほとり》のやうなるもの、川面《かはづら》にあまた飛び来り、上りくだりして魚をとるのけしきなり。人音すれば忽ちに去れり。これは俗に云ふ術《じゆつ》なき木の葉天狗などいふ類ならん。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之二 木葉天狗」を見られたい。また、宵曲は「妖異博物館」の「秋葉山三尺坊」でもこれを紹介している。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小僧蛇」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 小僧蛇【こぞうへび】 〔譚海巻二〕奥州岩城に専称寺と云ふ有り。浄家西山派の檀林の中なり。その寺は山上に有り、その山間の二階に年来住める大蛇有り。人を害する事なし。長さ五間ばかりの蛇なり。近来今一つ三間ばかりのものと二帯相《あひ》すむといふ。寺の人は小憎へびと号す。その来歴は昔この寺に悪行の小僧ありて、偸盗姦悪にもてあまし、その時の住持、領所の百姓憑《たの》みて竊《ひそ》かに殺害に及びたり。その霊この蛇となりて今にありといひ伝ふ。依《よつ》て領所の百姓の子孫に時々祟りをなすといへり。山門の萱《かや》ふきかへ、片々《かたがた》づつ屋根をふくなり。一時にふきかへをす時は、蛇現じて人おそるゝゆゑ然(しか)す。ふきかへの時に見れば、天井に蛇のくそ雀のふんの如く、おびたゞしくありといへり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之二 奧州岩城專稱寺大蛇の事」を参照されたい。]

2023/10/26

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「古銭掘出し」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 古銭掘出し【こせんほりだし】 〔一話一言巻二〕天明元年十月廿日過ぎの頃、青山隠田(おんでん)の名主佐平次といへるもの、鉢植の桂木を蔵めんとて、人夫に命じて大きな窖(むろ)をつくらしむ。人夫庭をうがちて、一ツの茶釜と数十貫文(百貫に近しといふ)をほり出せり。その銭多く開元・洪武・永楽の類にて、唐宋以後の銭なり。主人田舎のものなれば、古銭の貴きをしらず。則ち人夫の雇銭にあたへしを持ち来りて、青山善光寺前の酒屋にて酒をのむ。酒屋の主人これを怪しみて問へば、しかしかのよしをいふ。そのうち三十貫文は駒場道玄坂<東京都目黒区内>の酒家亀屋源四郎といへるものにうり、弐拾貫文は青山善光寺門前の酒家にうりしといふ。終にその風説甚しければ、公(おほや)けに訴へしといふ。予<大田南畝>もつてを求めて一二文もらひ置けり。ある人のいふ。去々年《おととし》もこの庭より二椀の朱をほり出せしを、あへてとらず川水に流せしに、川の水二三日これがために赤かりしとかや。惜しむべき事なり。思ふにいにしへ渋谷長者の家の跡なりかし。

[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は「靑山隱田掘得錢の事」である。

「天明元年十月廿日過ぎの頃」十月二十日はグレゴリオ暦では一七八一年十二月五日。

「青山隠田」恐らくはこの中央附近のどこかであろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「駒場道玄坂」この中央附近

「青山善光寺」ここ

「渋谷長者」「白金長者」のことか、或いは、その縁族か。ウィキの「白金長者屋敷」によれば、東京都港区白金台の「国立科学博物館附属自然教育園」内に所在する中世の城館跡とされる遺跡に通称「白金長者屋敷」があり、『城館跡は、渋谷区から港区に向けて東流する古川(渋谷川)』『南岸に面した標高』三十二『メートルの武蔵野台地上に位置する』とある。ここ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「古銭と蛇」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 古銭と蛇【こせんとへび】 〔道聴塗説十編〕松山[やぶちゃん注:「松前」の誤字か誤植。]領江指《えさし》の近郷アヒノマといふ村の百姓三之助が母、質朴慈善の人にて、綽名してオカツテ婆々といふ。この母オカツテ村より嫁し来れる故なり。また三之助が妻ヨスといふも、また朴素寡慾のものなり。文政六年六月、件《くだん》のヨス畑を打たんとて、独り田野に出たるに、土手の下にて古銭を掘出したり。いくらも出づべかりしを、無慾なれば、我今日この銭の為に来るにあらず、𨻶(ひま)取りて畑の稼ぎを疎(おろそ)かにすべきやとて、三貰文ばかり簣《もつこ/あじか》[やぶちゃん注:前者は土砂を運ぶための籠。後者は竹などで編んだ籠や笊。]に打入れて宿へ帰り来るに、小さき蛇跡より附き来《きた》る。見かへり見かへり家に入りたれば、はや蛇は見えずなりぬ。かくて黄昏に、三之助外より帰りてこの事を聞て、その銭いかにせしやと問ふ。桶に入れて蓋して置きたりといふ。いでや見んとてそこに行きて見るに、桶の上に小さき蛇蟠《わだかま》りて居たり。三之助これを打殺し背門(せど)ヘ捨てけり。さて翌日三之助その妻を引具し、いくらも出づべき銭あらんに、その限り掘るべしとて、力を尽し掘りけれども一銭もなく、手を空しくして帰りぬ。件の三貫は得がたき古銭なりとて、江指の人価《あたひ》よく買取りたりといふ。村民の評に、三貫の古銭は、ヨスが貞実と婆々が慈善との陽報なるべし。若しヨスにのみ任せ置きなば、銭はなほ日々に出づべきを、三之肋が貪慾の心にて、霊蛇を打殺し、出づべき銭も出ずなりぬ。惜しむべしと申合ひぬ。

[やぶちゃん注:「道聴塗説」(だいちやう(別に「だいてい」とも読む)とせつ)一般名詞では「道聴途説」とも書く。「論語」の「陽貨」篇の「子曰、道聽而塗說、德之棄也。」(子曰はく、「道に聽きて塗(みち)に說(と)くは、德を之れ棄つるなり。」と。)による語で、路上で他人から聞いたことを、すぐにその道でまた第三者に話す意で、「他人からよい話を聞いても、それを心にとどめて、しっかりと自分のものとせぬままに、すぐ、他に受けうりすること」で、転じて、「いいかげんな世間のうわさばなし・ききかじりの話」を指す。この書は、越前鯖江藩士で儒者であった大郷信斎(おおごうしんさい 明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年:当初は芥川思堂に、後、昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に創った学問所「城南読書楼」の教授となった。文化一〇(一八一三)年には、藩が江戸に創設した「稽古所」(後に「惜陰堂」と名のった)でも教えた。名は良則。著作に「心学臆見論」などがある。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第二(大正五(一九一六)年国書刊行会)のこちらで正規表現で視認出来る。標題は『松前領掘ㇾ錢』。

「松」前「領江指の近郷アヒノマといふ村」現在の北海道江差町はここ(グーグル・マップ・データ)だが、「アヒノマ」は不詳。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「梢の経帷子」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 梢の経帷子【こずえのきょうかたびら】 〔奇異珍事録〕六番町角《かど》中根権六は、享保の末、元文の頃は新御番たり。時は元文の始めなる哉《や》、正月元日に、後《うしろ》の高井兵部少輔殿屋敷より密かに告げ来るは、権六屋敷塀の内なる樅の木に、あやしき物掛り有りと、用人より用人へ知らせ有るまゝ急ぎおろさせ見るに経帷子なり。その手跡も権六菩提所の前の住持の手なりとなり。樅の木今も有りて、甚だ喬木なれば、その梢にこれを掛けん事、人々の業《わざ》にも軽々しくはなりがたし。その年何事もなかりし由。その頃は我等いまだ御厩谷《おんまやだに》<麹町一番町西>に居たれば、近所の事ゆゑ委しく聞けり。もつともいぶかしき事なり。

[やぶちゃん注:「奇異珍事録」は既出既注だが、再掲すると、幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(「三の卷」の第五話『經帷』)で視認出来る。

「六番町」現在の東京都千代田区六番町(グーグル・マップ・データ)。

「享保の末、元文の頃」享保は二一(一七三六)年までで、享保二十一年四月二十八日に元文に改元、元文は六年まで。

「新御番」江戸幕府の職名。寛永二〇(一六四三)年創置。若年寄支配。「土圭(とけい)の間」近くに詰め、将軍の外出時に先駆を務めた。「新番」「近習番」とも言う。

「御厩谷」「麹町一番町西」現在の千代田区三番町(一番町ではない)。「御厩谷坂」の名が残る(グーグル・マップ・データ)。]

2,020,000ブログ・アクセス突破記念 南方熊楠「平家蟹の話」(正字正仮名版・非決定トンデモ版――恣意的な致命的大改竄(多量の削除を含む)による捏造あること、及び、挿絵がないことに拠る――)

[やぶちゃん注:本論考は大正二(一九一三)年九月二十日から二十八日に新聞『日刊不二』の一二四号~一三一号、及び同年十一月十五日雑誌『不二』(四)に掲載された。

 私は既にサイト版で一九九一年河出書房新社刊の中沢新一編「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」(河出文庫)を底本としてサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」で電子化し、オリジナルに注して十七年前の二〇〇六年九月六日に公開している(そちらの底本は末尾に「(平凡社版『南方熊楠全集』第六卷 47~60頁)」の親本提示がある)。今回、決定版として正字正仮名版を作成しようと考えた。

 ところが、私が正字正仮名正規表現として底本に決めた国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷Ⅲ 文集第三」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊)の当該論考をよく見ると、まず、

――あるべき二図を配した挿絵一枚がない。

しかも、それに対応しているはずの、本文の記載も

――弄られて図指示箇所が消えている

のである。私はサイト版の底本の親本である平凡社版『南方熊楠全集』を所持せず、判らないが、まず、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」に配した挿絵があることは間違いない。何故、こんなにひどく違うのか、その理由は判らぬが、ざっと見るに、

――乾元社版全集は図を総ては載せてないように思われ、前者は、それに触れる文章の箇所を編者が改竄している可能性が高い

のである。また、

――本文中にしばしば現われ、最終段落にもある和歌山県官吏を罵倒し尽したケツ捲りも、何故か、丸々、カットされている

のである。それどころか、

――本文中にも有意なかなりの量の同様のブイブイ部分の恣意的省略(改竄)部分がある

(概ね注で示した)。

――殺菌消毒して、無菌状態になって、やせ細ってしまった老臣の感をさえ与えるトンデモ捏造が行われている

のである。

 以上によって、本篇は正規表現版ではあるが――決定版――とは逆立ちしても言えないのである。

 しかし、この挿絵はあってこそ本文の内容を問題なく認知し得るものであるからして、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」で掲げたものを当該箇所に配して、注を附すこととした。また、カットされた怒りの言い切りの最終段落だけは、最後に「参考」として、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」のものを、新字新仮名のものをそのまま、掲げておいた。

 今回は底本を忠実に再現し、普段、私がやる、読みの挿入(難読語や振れると判断したものは割注で入れた)や記号・句読点の追加・変更は一切、行わない。それでも読みに迷られた方は、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を見られたい。踊り字「く」は正字化した。

 注は、前回のものを大々的にブラッシュ・アップし、本文内及び各段落の後に附した。併せて、前回の注も少し改訂増補した

 なお、この底本は呆れた大杜撰だが(誤字・誤植が有意にある)、今回、比較して見ると、「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」にも明らかな編集者(親本の平凡社版「南方熊楠全集」の誤りであるならば、これはまた別な意味で致命的である)の恣意的な改変に明白なレベルの低い誤りを、多数、見出したことを言い添えておく。それをいちいち挙げるほど、精神的に余裕は今の私には、ない。ただ、比較して対照されれば、一目瞭然である。

 なお、これは、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」が、昨日二〇二三年十月二十五日午後七時半頃に、2,020,000アクセスを突破した記念として公開することとした。【二〇二三年十月二十六日午前八時二十四分 藪野直史】]

 

     平家蟹の話

 

 七月十二日の本紙三面、堺大濱水族館の記に平家蟹の話が有た。此平家蟹と云ふ物、所に隨て名が異る。

[やぶちゃん注:「七月十二日」大正二(一九一三)年。

「堺大濱水族館」現在の大阪府堺市大浜公園(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にあった水族館。「堺水族館」の前身は明治三六(一九〇三)年に「第五回内国勧業博覧会」の堺会場(現在の大浜公園)に建設された博覧会付属水族館で、日本最初の本格的水族館で、当時、東洋一の水族館といわれた。博覧会終了後、堺市に払い下げられ、堺水族館となり、さらに明治四四(一九一一)年十二月、阪堺電気軌道株式会社に大浜公園及び水族館の運営が委託された。その後、集客数減少により昭和三六(一九六一)年九月に閉鎖された(当該ウィキに拠った)。]

 本草啓蒙に、「一名島村蟹(攝州)、武文蟹(同上)、淸經蟹(豐前長門)、治部少輔蟹(勢州)、長田蟹(加州)、鬼蟹、夷蟹(備前)。攝州四國九州に皆有り小蟹也、甲大さ一寸に近し。東國には大なる者有りと云ふ。足は細くして長と短と雜りて常蟹に異也。甲に眉目口鼻の狀宛然として怨惡の態に似たり。後奈良帝享祿四年攝州尼崎合戰の時、嶋村彈正左右衞門貴則の靈此蟹に化すと言傳ふ。然れども唐土にも有て、蟹譜に、背殼の若鬼狀者、眉目口鼻分布明白、常翫之と云ひ、野記に鬼面蟹の名有り」と見ゆ。

[やぶちゃん注:「本草啓蒙」小野蘭山口述のそれの当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの天保一五(一八四四)年刊本のこちらの右丁の六行目以降で当該部が視認出来る。以下、私のめぼしい記事を掲げておくので、参照されたい。

『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』(優れた図あり)

「諸國里人談卷之五 武文蟹【島村蟹・平家蟹】」

「三州奇談續編卷之五 今濱の陰石」

「大和本草附錄巻之二 介類 島村蟹 (ヘイケガニ(類))」

「狗張子卷之一 島村蟹」

最初の記事が異名(但し、同科別種を含む)が列挙され、その同科別種群は「大和本草」のそれで私が掲げてある。]

 平家蟹の學名ドリッべ・ヤポニクス、是はシーボルトが日本で初めて見て附けた名だが、種こそ違へ、同樣な鬼面の蟹は外國にも多い。例せば英國の假面蟹ドリッペ屬で無くコリステス屬の者で、容體餘程平家蟹と違ふが、矢張り甲に鬼面相が有る。但し平家蟹程嚴しく無い。凡て蟹類は内臟の位置、容量に隨ひ甲上に隆低の線窪[やぶちゃん注:「すぢくぼみ」。]が種々有り、此方の想像次第多少人の面に見へるが、平家蟹や假面蟹は殊に著しく怒り顏を現し居る。西洋で甘蕉實(バナナ)を橫に切ると十字架を現すと言ひ、日本で胡瓜を橫に切ると織田氏の紋が見えるなど云ふ。海鰕の胴を橫截せば婦人の上半身を顯[やぶちゃん注:「げん」。]ずと歐州の古書に見えるが、日本で其樣な事を言ぬと同時に、鰕の眼を頭に見立て雛人形を作るなど、東西の見立て樣が差ふのぢや。然るに、物の似樣が酷い[やぶちゃん注:「えらい」。]と隨處[やぶちゃん注:「どこでん」。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」に従った。]同樣に見立てる。貫之の土佐日記にも羅馬の古書にも、海鼠樣の動物を陽物に見立て、和漢洋印度俱に貝子(たからがひ)を女陰に見立て、又只今も述た通り或蟹の甲を和漢洋何れも人面に見立たなど適當の例だ。古希臘で酒の神ヂヲニススの信徒が持て踊る棒の尖に松實[やぶちゃん注:「まつのみ」。「松ぼっくり」のこと。]を附たは陽物に象(かたど)た[やぶちゃん注:ママ。「かたどつ」の「つ」の脱字。]相だが、本邦にも松實を松陰囊(ふぐ)[やぶちゃん注:「松」の読みは外してある。しかしこれ、「ふぐり」の「り」の脱字であろう。]と稱へ、寬永[やぶちゃん注:「寛文」の誤記か誤植。]十二年板行風撰後撰夷曲集九に「唐崎の松の陰囊は古の愛護の若[やぶちゃん注:「わか」。]の物か有ぬか」と、名所の松實[やぶちゃん注:ここは「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では『ちちりん』と振る。「ちちりん」は「松毬」で「松ぼっくり」の俗称。]を美童の陰囊に稱えた[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では『比(たと)えた』とある。]狂歌も有る。

[やぶちゃん注:「ヘイケガニの學名」現在、十脚目短尾下目真短尾群ヘテロトレマータ亜群Heterotremata ヘイケガニ上科ヘイケガニ科ヘイケガニの学名は Nobilum japonicum japonicum で、「ドリッペ」はヘイケガニ科 Dorippidae の科名である。種としてのこのヘイケガニは、北海道南部・相模湾から紀伊半島・瀬戸内海・有明海の他、朝鮮半島・中国北部・ベトナムまで、東アジア沿岸域に広く棲息している。

「英國の假面蟹ドリッペ屬で無くコリステス屬の者」当時の分類学とは異なっており、現行では、「コリステス屬」は属レベルの異種ではなく(ヘイケガニ上科 Dorippoideaヘイケガニ科 Dorippidaeではなく)、ヘテロトレマータ亜群ヒゲガニ上科 Corystoidea ヒゲガニ科 Corystidae Corystes 属 Corystes cassivelaunus で一属一種、後で参考図に出る通り、甲殻が口刎部が♂では前方に著しく尖った種で、英文ウィキの「 Corystes に拠れば、英名ではmasked crabhelmet crabsand crabと呼ばれ、ポルトガルからノルウェーに至る北大西洋及び北海・地中海に棲息する砂に潜っている穴掘り型の種である。最大甲長四センチメートル、「マスクガニ」(人面蟹)という名は、本邦のヘイケガニと同様、甲羅の模様が人の顔に似ていることに由来する。砂質の基質に埋もれて生活し、そこでゴカイなどの多毛類や、二枚貝などのベントスの無脊椎動物を食餌とする。二本の触角は呼吸管の役割を持っており、酸素を含んだ水を基質に送り込む、とあった。ネットでさんざん探してみたが、複数の学術的記載で学名で確認は出来たものの、和名はない。とすれば、熊楠の挿絵の「假面蟹」が和名の初出であろうからして、これは「カメンガニ」を標準和名とするべきだと考える。

「貫之の土佐日記にも羅馬の古書にも、海鼠樣の動物を陽物に見立て、和漢洋印度俱に貝子(たからがひ)を女陰に見立て、又只今も述た通り或蟹の甲を和漢洋何れも人面に見立た」南方熊楠がそう思ったであろう「土左日記」中の該当箇所を以下に引用する(底本は岩波文庫版(一九七九年刊)他二種を参考に漢字を正字化した)。

   *

十三日(とをかあまりみか)の暁に、いさゝかに、雨、降る。しばしありて、止みぬ。

 女、これかれ、

「沐浴(ゆあみ)などせむ。」

とて、あたりのよろしき所に下(お)りて行く。

 海を見やれば、

  雲もみな浪とぞ見ゆる海人(あま)もがないづれか海と問ひて知るべく

となむ、歌、詠める。

 さて、十日あまりなれば、月、おもしろし。舟に乘り始めし日より、舟には紅(くれなゐ)濃く、よき衣(きぬ)、着(き)ず。それは、

「海の神に怖(を)ぢて。」

と、言ひて、何(なに)の葦蔭(あしかげ)にことづけて、老海鼠(ほや)の交(つま)の貽貝鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)に上げて、見せける。

   *

これに就いて、熊楠は、後の大正七(一九一八)年に書く「十二支考 馬に關する民俗と傳說」の「八 民俗(2)」の中で、次のように述べている(引用は底本同全集の第一巻(一九五一年刊)に拠った)。

   *

 國文の典型たる土佐日記に、筆者紀貫之朝臣の一行が土佐を出てより海上の齋忌(タブー)嚴しく愼み居りしに、日數經て漸(やつ)と室津(むろのつ)に着き、「女是彼浴み抔せん迚、あたりの宜しき所に下りて往く云々、なにの葦影に託(ことづ)けて、ほやのつま[やぶちゃん注:底本は「いま」。誤植と断じて訂した。]のいずし、すしあはびをぞ、心にも有ぬ脛(はぎ)にあげて見せける」。此文を從前難解としたが、谷川士淸[やぶちゃん注:「たにがはことすが」。]の鋸屑譚に始て之を釋(とい)た。ホヤは仙臺等の海に多く、科學上魚類に近い物乍ら、外見海參(なまこ)に酷似す。イズシは胎貝(いかい[やぶちゃん注:ママ。「いかひ」「いがひ」とすべきところ。])の鮓で、南部の方言ヒメガヒ(松屋筆記百五卷)、又ニタガヒ(本草啓蒙四二)、漢名東海夫人、皆な其形に因た名で、鰒(あわび[やぶちゃん注:ママ。])を同樣に見立つる事、喜多村信節の筠庭雜錄にも見える。次に岸本由豆流が件の「何の葦影に託けて」の何は河の誤寫と判明[やぶちゃん注:底本は「發明」。所持する平凡社「選集」で訂した。]したので、彌よ意味が明かに成た。全く貫之朝臣が男もすなる日記てふ物を女もして見せる迚、始終女の心に成りて可笑味(をかしみ)を述べた者故、此所も水涉る爲脛高く揭しかば、心にも有らで、ホヤの妻ともいうべき貽貝や鰒樣の姿を、葦の影の間に映し見せたてふ、女相應の滑稽と判つた(しりうこと第五)。

   *

則ち、これは〔老海鼠(男性生殖器のミミクリー=男)の夫(「つま」=妻)であるところの、貽貝(女性生殖器のミミクリー)〕=〔鮑(女性生殖器のミミクリー)〕ということである。

 生物としてのホヤに関心を持っていた私は、高校時代にこの部分を読み、そこに表記されていた「老海鼠の褄の貽鮓」なる食物が如何にも不可解であった。ホヤの体制に「ツマ」に相当するものがあるか? 更に、その「ホヤのツマ」なる秘やかな(?)部分と、すでにその頃、ニタリガイの異名の意味を知っていた「イガイ」(斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイMytilus coruscus )を生で合わせて発酵させたなれ鮨……それは想像するだにおぞましいものであった。早速に尊敬していた中年の国語教師蟹谷徹先生に質問したのだが、先生は、私の純情を慮ったものか、ニヤニヤするだけで答えてくれなかった。大学生になって、土佐日記講読の講義で、満を持して、ここを微細に分析する論文を書き、担当教授に美事に敬遠された(それでも「優」をくれたのだが)。私のアカデミズムへの訣別はホヤに始まったと言っても過言ではない。

 ちなみにホヤは、無脊椎動物と脊椎動物の狭間に位置する、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱 Ascidiacea に属する分類学上、高等な生物である。この場合は食用にするホヤであるから、海鞘綱壁性(側性ホヤ・マボヤ)目褶鰓(しゅうさい/マボヤ)亜目ピウラ(マボヤ)科 Pyuridae マボヤ属マボヤHalocynthia roretzi 及び同属アカボヤ Halocynthia Aurantium を挙げておけばよかろう。その生態や最近の新知見(高濃度の血球中のバナジウムなど)について語ることは、私が最も歓喜雀躍するところであるが、南方的大脱線はこれくらいにしておくのが身の為であろう。私は関連記事だけで二十ほど書いている。中でも、博物画としては、

『毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠』

『武蔵石寿「目八譜」 「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」 ――真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)――』

が群を抜いて素晴らしいので、是非、見られたい。特に後者は文句なく南方熊楠がニヤつくこと、間違いなしの絵である。――それにしても、居酒屋の店員が、ホヤをナマコの一種などとほざくのは仕方がないとしても、料理人や魚屋は、ゆめ、「ホヤガイ」などと呼称すべきではないと私は切に思う。

「鰕の眼を頭に見立て雛人形を作る」私の『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 海老上﨟』を参照。熊楠手書きの図もある。

「酒の神ヂヲニスス」Dionysos。ディオニュソス。ギリシア神話の豊穰と酒の神。その祭儀は神との合一を求める陶酔状態を伴うもので、ギリシア演劇の起源とされる。ローマ神話のバッカスに相当する。

「信徒が持て踊る棒の尖に松實を附た」どのようなものか、ギリシャ語・英語等も用いて画像を探したが、遂に見当たらなかった。

「行風撰」「後撰夷曲集」(ごせんいきょくしゅう)は江戸前期の狂歌集。十巻六冊。生白堂行風(せいはくどうこうふう)編。寛文一二(一六七二)年刊。編者が前に刊行した「古今夷曲集」の後を継いで、作者三百九十一人、一六七〇余首を、四季・恋・雑など十部に分類、収録する(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「唐崎の松の陰囊は古の愛護の若の物か有ぬか」。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類從』第十のここで視認出来る。前書があり、

   *

  名所松縮輪

唐崎の松のふぐりはいにしへのあいごの若(わか)の物かあらぬか 正盛

   *

この「松縮輪」というのは開いていない「松ぼっくり」のことであろう。愛着した若衆の陰嚢に喩えた若衆道の艷歌。]

 

 東西共松實を陽物又は陰嚢に見立たのだが、此見立て樣が拙いのか、產れ付が不出來故か、熟(とく)と視ても僕のは一向似て居らぬ。右樣の人間勝手の思付で此蟹の甲紋を、西海に全滅した平家の怨に擬て[やぶちゃん注:「よそへて」。]平家蟹と名けたが、地方に因て種々の人の怨靈に托けて[やぶちゃん注:「かこつけて」。]命名され居るは、上に本草啓蒙から引いた通りだ。

[やぶちゃん注:「僕」南方熊楠が論考や書簡でも、一人称を「僕」とするのは極めて異例である。後の方では、盛んに使用している。驚くべきこの特異点は、一体、何だ!?!]

 長田忠致は、窮鳥と成て其懷に入つた源義朝と自分の婿鎌田とを殺し、首を平家へ獻じた處、不道を惡んで賞を吳れず、「命斗りは壹岐守實濃尾張をば今ぞ賜る」と嘲弄中に磔にされたのを不足で、長田蟹に成たらしい。平淸經は内大臣重盛の三男左中將たり、一族沒落の砌、女房を都に寘て[やぶちゃん注:「おいて」。]難に紛れて絕信三年、女房、今は淸經樣に心變りの有ば社(こそ)、偖は形見も由無し迚、「見るからに心盡しの神なれば、宇佐にぞ返す本の社に」と、歌を副て夫の形見に殘した髮を宇佐近傍迄送還したのを受取見て、都をば源氏に落されぬ、鎭西をば惟義に追れぬ、細君からは手切と來る、米代は昂る、悲しさの極、月晴渡れる夜閑かに[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では『のどか』と振るが、念仏だぜ? 「しづかに」だろ!]念佛申しつゝ、波の底に社(こそ)沈みけれ、是ぞ平家の憂事[やぶちゃん注:「うきこと」。]の始めなると盛衰記に有る。平家入水の先陣、先は藤村操の前身でがな有う。して見ると淸經蟹は怨める上に愁歎顏で有う。

[やぶちゃん注:「長田忠致」義朝を騙し討ちにした長田忠致(おさだただむね ?~建久元(一一九〇)年?)。ウィキの「長田忠致」によれば、『長田氏は桓武平氏良兼流で』、「尊卑分脈」によれば、『忠致は道長四天王の』一『人とされた平致頼の』五『世孫にあたる。尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていたという。平治元年』(一一五九年)、「平治の乱」に『敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せる。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出した。この際、政清も同時に殺害されたため、嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。また、兄の親致は相談を持ちかけられた際、その不義を説いていたが、前述のような事件が起きてしまい、乳母の生まれ故郷である大浜郷棚尾に移り住んだという』。『義朝を討った功により』、『忠致は壱岐守に任ぜられるが、この行賞に対してあからさまな不満を示し「左馬頭、そうでなくともせめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきであるのに」などと申し立てたため、かえって清盛らの怒りを買い』、『処罰されそうになり、慌てて引き下がったという。そのあさましい有様を』、「平治物語」は終始』、『批判的に叙述している』。『後に源頼朝が兵を挙げると』、『その列に加わる。忠致は頼朝の実父殺しという重罪を負う身であったが、頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば』、『美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り』、『懸命に働いたという。しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると、その父の仇として追われる身となり、最後は頼朝の命によって処刑されたという。その折には「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたと伝えられている。処刑の年代や場所、最期の様子については諸説があって判然としないが』、「保暦間記」によると、建久元(一一九〇)年十月の『頼朝の上洛の際に、美濃で斬首されたことになっている。また』、治承四(一一八〇)年十月に、「鉢田(はちた)の戦い」(武田信義・北条時政と駿河国目代橘遠茂・長田入道との間に起こった戦い)で『橘遠茂とともに武田信義に討たれたとする説』『がある。また』、『処刑方法も打ち首ではなく』、『「土磔(つちはりつけ)」と言って』、『地面の敷いた戸板に大の字に寝かせ、足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし』、『顔の皮を剥ぎ、肉を切り』、『数日かけて殺したという。刑場の高札には「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守』(かみ)『身の終わり(美濃・尾張)をぞ今は賜わる」という歌が書かれていた』という。『その後、子孫は武田氏を頼って甲斐国へ逃げたという説もあり、山梨県に今でも長田家は存在する。また、徳川氏譜代家臣の永井氏や長田氏は忠致の兄・親致の後裔を称している』とある。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちら(「長田蟹・長田貝」)に愛知県知多郡美浜町採取として、『甲羅の模様が人の顔に似ている蟹が野間の海岸で取れる。「長田蟹」と呼ばれており、頼朝に殺された長田父子の恨みが蟹に宿ったものだという。また、長田父子の死体を埋めた長田山から出る貝の化石も、長田父子の化身と言われ「長田貝」という』とある。

「平淸經」能の「淸経」で知られる、平家一門の武将で、笛の名手であった平清経(長寛元(一一六三)年~寿永二(一一八三)年四月四日)は、寿永二(一一八三)年に平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに憑りつかれ(強度の鬱病と考えられる)、大宰府を元家人(けにん)である緒方惟義に追い落とされたことを契機として、豊前国柳浦(現在の大分県宇佐市江須賀の沖合とされる。この附近)で入水自殺した。享年二十一。「平家物語」の「六道之沙汰」の段の建礼門院による述懐によれば、この清経の死が、平家一門の『心憂きことのはじめ』として語られてある。大分の宇佐地方でのヘイケガニ類の別名。

「藤村操」私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回」の私の『■「Kの遺書」を考えるに当たって――藤村操の影』を参照されたい。彼の自死を、夏目漱石は、自身の藤村への叱責が、彼を自殺に導いたスプリング・ボードではないか、と悩んだ事実があるのである。]

 和漢三才圖會に、元弘の亂に秦武文(はたのたけぶみ)兵庫で死んで蟹と成たのが、兵庫や明石に在り、俗に武文蟹と云ふ、大さ尺に近く螯赤く白紋有りと見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會に……」私の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類  寺島良安」(最近、大々的に改訂した)の、「たけぶんがに しまむらがに 鬼鱟」を参照されたい。

 「武文蟹」『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』の私の注の「武文蟹(たけぶんがに)」で、かなり詳しく注を附してあるので、見られたい。

「大さ尺に近く螯赤く白紋有りと見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい」所持する荒俣宏「世界大博物図鑑Ⅰ 蟲類」の「カニ」の項の「平家蟹」によれば、人見必大の「本朝食鑑」では、これは平家蟹ではなくカブトガニ(鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ Tachypleus tridentatus )のこととして載せ、『土地の人は武文を憐れんでこれを捕らない』と記している、とある。確かに「和漢三才圖會」の項目漢字「鬼鱟」の「鱟」はカブトガニを指す語ではある。しかし、「螯赤く白紋有り」というのは、全く合わない。私は、ヘイケガニより大型の、

ヘイケガニ科サメハダヘイケガニ属サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata

或いは、それより大型の、

ヘイケガニ科キメンガニ属キメンガニ Dorippe sinica

ではないかと考えている。]

  秦武文が事は太平記十八に見ゆ。後醍醐帝の長子尊良親王、今出川右大臣の娘を見初め、千束[やぶちゃん注:「ちつか」。]ばかりの御文を送り[やぶちゃん注:底本は「途り」。この字では「おくる」とは読めないので、誤字・誤植と断じ、「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」で訂した。]玉ふと、女も稻船[やぶちゃん注:「いなふね」。]の否には非ずと見えたが、此親王は後に、金崎落城の節新田義顯に面(まのあたり)切腹の作法を習ひ、武士同前に自刄して亡(ほろび)玉ふた。氣象尤傑れた[やぶちゃん注:「すぐれた」。]方だつた。件(くだん)の女既に德大寺左大將と約婚したと聞召し[やぶちゃん注:「きこしめし」。]、昔し唐の太宗、鄭仁基の女[やぶちゃん注:「むすめ」。]を元和殿に册(かしづ)き納(いれ)んとした時、魏徵此女已に陸氏に約せりと諫めたので、便ち宮中に召るゝことを休(やめ)たと儒臣が講ずるを聽て、文を送るを止めても中々思切れず、德大寺又中々の粹人で、此次第を氣の毒に存じ、故(わざ)と他の女に通ひ始めたので、宮も今は御憚り無く、和歌の贈答で心の下紐を解き、生ては借老の契深く、死しては同じ苔の下にもと思し召し通はして、十月餘りに元弘の亂出來て、親王は土佐の畑[やぶちゃん注:「はた」。]へ流され玉ふ。御警固を勤めた有井庄司情深き男で、御息所を密に畑へ迎へ下し玉へと勸め、親王大に悅で只一人召し仕はれた右衞門府生[やぶちゃん注:「ふしやう」。]秦武文てふ隨身に御文を賜はり、都へ登り御息所に差上げ、輿に乘て尼崎迄下し進(まひ)らせ、渡海の順風を待つ内、同じく風待して居た筑紫の松浦[やぶちゃん注:「まつら」。]五郞と云ふ武士、御息所の御貌を垣間見て邪念を起し、此頃如何なる官にても御座せよ[やぶちゃん注:「おはせよ」。]、謀叛人にて流され給へる人の許へ忍びて下し給はんずる女房を奪捕たりとも、差て[やぶちゃん注:「さして」。]の罪科で無からうと思ひ定め、郞等卅餘人物具[やぶちゃん注:「もののぐ」。]固めて彼宿所へ夜討し、火を附た。武文心は武しと雖も、煙に目暮て何とも成らぬから、先づ御息所を負進せ[やぶちゃん注:「おひまひらせ」。]向ふ敵を打拂ひて、沖なる船を招くと、船しも多きに松浦が迎ひに來た船が一番に漕寄て、御息所を乘せ奉つた。松浦我船に此女房の乘給ひたる事然るべき契の程哉と限無く悅で、今は皆船に乘[やぶちゃん注:「のれ」。]とて一同打乘り漕出す、武文、渚に歸り來[やぶちゃん注:「きて」。]喚ど[やぶちゃん注:「よべど」。]叫べど歸りやせぬから、手繰(たぐり)する海士の小船に乘て追付んとすれど順風を得た大船に追着べきに非ず、反て笑聲をどつと仕掛られて、今の程に海底の龍神と成りて其船を遣るまいぞと怒つて、腹十文字に搔切て、蒼海の底に沈んだと有るから、龍神には成たらうが蟹になる氣遣ひは無い。此後は平家蟹の話に用が無いから短く云て仕舞ふと、松浦、御息所を執えて[やぶちゃん注:ママ。]兎角慰め申せども聽入ず、消入せ給ぬべき樣子で、鳴戶(なると)を通る處に、俄に風替り渦と共に船の廻る事茶白を推すよりも速か[やぶちゃん注:「すみやか」。]と來た。三日三夜船進まぬから梶取の勸めに任せ御息所を龍神に進じて難を遁るべし迚、海に沈めんとするを乘合せた僧が諫止め[やぶちゃん注:「いさめとどめ」。]、一同觀音の名號を唱へると武文の幽靈が出る。因て御息所と水主[やぶちゃん注:「かこ」。]一人を小船に乘せて放つと、風俄に吹分て松浦の船は西へ去る内波靜まり、御息所の御船に乘た水主懸命に船を漕ぎ、淡路の武島[やぶちゃん注:「むしま」。]に着き、海人の子供の介抱で活出[やぶちゃん注:「いきいだ」。]させ給ふ。其から土佐の畑へ送れと御賴み有ると、海士共皆同じ心に、是程美しく御渡り候ふ上﨟を我等が船で土佐迄送らんに、何處の泊にてか人の奪ひ取り進らせぬ[やぶちゃん注:「まゐらせぬ」]ことの候ふべきと辭し申すから、無據[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]武島に留り[やぶちゃん注:「とどまり」。]、翌年北條氏滅びて親王都へ歸り入せ玉ふて後、武島より都へ迎え上らせ[やぶちゃん注:「のぼらせ」。]られたが、程無く尊氏の亂起り、親王、義貞、義助と俱に北國に下り玉ひし時、又御息所を都に留められたが、親王金崎で御自害、御中陰の日數終ざる先に果敢無く[やぶちゃん注:「はかなく」。]成せ給ひければ、聞く人每におしなべて類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]少なき哀さに皆袂をぞ濡しけると有る。

[やぶちゃん注:「秦武文」のことは、熊楠にしては、「短く云て仕舞ふ」と言いながら、かなり子細に紹介しているので、特に注する必要は私は感じない。参考に、この後半に関わる私の「諸國里人談卷之一 龍王祭」をリンクさせておくに留める。なお、以上の「太平記」の本文は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文學大系』校註第十七巻(大正一四(一九二五)年国民図書刊)の「太平記」上巻分「第十八卷」中の『春宮(とうぐう)還御の事一宮御息所(みやすどころ)の事』が相当するが、特に武文の関わる部分は、ここの右ページ中央部ぐらいから以下になる。

 なお、以下の二段落は、以上の話の後半に刺激された熊楠先生大脱線(教員時代の私には鏡返しだが)で平家蟹から離れるので、注意されたい。

 西曆千五百年頃、伊太利トラヘッタ女公兼フヲンジー女伯ジュリア・デ・ゴンツアガ若後家と成て、愛の花てふアマラント草、と不死てふ二語と組み合せて紋章とし、死んだ夫と初て會た愛情は永劫滅せぬという意[やぶちゃん注:「こころ」。]を標したまゝ、一生兩夫に見えなんだは結構だが、土耳古帝スライマン二世、美無双と聞き、見ぬ戀に憧れてアルゼリアの海賊大將軍バーバロサをして夜襲[やぶちゃん注:「ようち」。]して女公を奪はせたが、忠臣有て此事を告げたので、女公、襦袢裸で騎馬し、その忠臣と俱に逃了せた[やぶちゃん注:「にげおほせた」。]が、裸姿を見たと泄らさるゝを慮り、後日、其忠臣を暗殺したと云ふ。

[やぶちゃん注:以上の段落の後には、「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では、『この行為(おこない)についての論は、今月の『民俗』に出る予の「話俗随筆」で見られよ。』と続いて終わっている。ここに指示された論考は、私の『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話』で読める。注も附けてある。]

 一說には、此時、女公幸ひに海賊に辱らるゝを免れたが、自國の山賊の手に落ちた。但し辱[やぶちゃん注:「はぢ」。]は見無つたと一派に信けらるゝ[やぶちゃん注:「うけらるる」。]が、ブラントム評に斯る暴戾無慙[やぶちゃん注:「ばうれいむざん」。]の惡徒が餓たるに、斯る美鮮肉を喫はず[やぶちゃん注:「くらはず」。]に置べきや、斯る場合に高位德望も美女を暴人の毒手より救護するに足らずと有るが、其は其樣な風の歐州で言ふべき事で、吾邦では昔し人民一派、いかな惡黨迄も齋忌[やぶちゃん注:「さいき」。祭儀の前の物忌み。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では、『タブー』と振る。]と云ふ事を非常に愼み畏れた。去ば社(こそ)、御息所と同乘した一人の水主、武島の海士は素より、松浦如き兇漢迄も、無理に其身を犯す樣な事は無かつたんだ。聽(ゆる)し無くて高貴の身體に觸るるを大毒物に觸る樣に畏れたのだ。此齋忌の制が不成文乍ら吾邦には甚だ嚴に行れたので、日本國民は讀書せぬ者迄、恭謙溫厚の風、淸潔を尙ぶ[やぶちゃん注:「たつとぶ」。]俗が萬國に優れたのだと云ふ譯を、明治三十年ブリストル開催、大英國科學奬勵會人類學部で、開會の辭に次で熊楠が讀んだ。其後大英博物館の博物部長レイ・ランケスターは、人のみならず畜生の別種族獨立にも、此齋忌が大必要だと論ぜられた。

[やぶちゃん注:「ブラントム」ピエール・ド・ブールデイユ(Pierre de Bourdeille 一五四〇年頃~一六一四年)。「サン=ピエール・ド・ブラントーム修道院」院長(Abbaye Saint-Pierre de Brantôme)で、後半生は作家として過ごした。当該ウィキ、及び、フランス語の同ウィキによれば、『名門の貴族の出で、ナバラ王国の宮廷で成人し、パリ、ポワティエで法律を学んだ。生涯の大半をフランス各地、ヨーロッパ諸国の漫遊と戦争への参加に費やした』「ユグノー戦争」では、『カトリック側に参加したが』一五八四年、『落馬して重傷を負い』、『公的生活から引退。自身の豊富な体験や見聞を記した』「高名貴女列伝」( Vies des dames illustres )や「貴紳武人列伝」『などを書』き、「回想録」( Memoires )が『死後に出版』(一六六五年~一六六六年)されている。『今日も読まれているのは』、「著名貴婦人伝」( Les vies des Dames illustres de France de son temps )の第二部「好色女傑伝(艶婦伝)」(les Dames galantes)で、『性的に奔放であったルネサンス末期の貴婦人たちにまつわる生々しい逸話を描いた作品である』。『日本では永井荷風と同居していた小西茂也などが翻訳した』とある。

「聽(ゆる)し無くて高貴の身體に觸るるを大毒物に觸る樣に畏れたのだ。此齋忌の制が不成文乍ら吾邦には甚だ嚴に行れた」この叙述には私は留保したい。あからさまな蔑視の中で、「何糞日本精神」の花火を派手に打ち上げることに巧みであった熊楠の勇み振りが伝わってくるが、私はまさに、この平安末期、源平の擾乱以降(末法思想蔓延と同期)にあって、正直、このようなタブーは、たいして守られていなかったと私は思うからである。

「明治三十年」一八九七年。

「ブリストル」Bristol。イギリス西部の港湾都市。

「大英國科學奬勵會」British Association for the Advancement of Science。英国科学振興協会。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」の長谷川興蔵氏の注に、『一八九八年』(熊楠の年表記と異なる)『九月プリストルで開かれた同会第六八回大会の人類学部会に、南方熊楠は出席していないが、同会の紀要によれば、九月八日に代読されたリポートの中に、On Tabu in Japan in Ancient, Mediaeval and Modern Times’ By K. Minakata とある』とある。英文論文標題は『古代・中世・近世の日本のタブーに就いて』である。当時、熊楠はロンドンにいた。

「レイ・ランケスター」イギリスの動物学者エドウィン・レイ・ランケスター(E. Ray Lankester 一八四七年~一九二九年)。ロンドン生まれ。当該ウィキによれば、『彼はファーストネームのエドウィンを常にEと略して書いた』とある。一八九八年から一九〇七年まで「大英博物館自然史館」(現在のロンドン自然史博物館)の館長を務めている。詳しい履歴は参照した当該ウィキを見られたい。

 以下、有意に長い本邦の「齋忌」に就いての段落がある。長いからよりも、脱線が激しいので、ここでは転写しないので、私のサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を見られたい。流石に、私も底本の編者の一人であったら、ちょっと躊躇する気はする。]

 平家蟹は異形の者だが、之に關する古話里傳は割に少い樣だ。紀州の海濱の家に之を戶口に掛けて邪鬼を避るのは、毒を以て病を去ると同意だ。喜多村信節の嬉遊笑覽に、「江戶町屋(まちや)に、門戶の上に蟹の殼を掛け、又蒜[やぶちゃん注:「にんにく」。]を釣置く事有り、是れ、上總の俗の轉(うつ)れる也、房總志料に、上總穗田吉濱の漁家、門戶に奇狀の蟹殼を掛出し、俗に云惡鬼を避る禁厭[やぶちゃん注:「まじなひ」。]也云々、「夢溪筆談」に、關中には蟹無し、秦州の人蟹の殼を得たり、土人其形を怖れて怪物とし、瘧[やぶちゃん注:「おこり」。マラリア。]を病者有れば此を借用て門戶の上に掛くれば病(やまひ)差(いゆ)[やぶちゃん注:底本は二字に「やまひちがひ」とあるが、おかしい。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」の読みを参考にした。]と云り、但人の之を識ざるのみならず鬼も亦識ざるにやと云へり」と見ゆ。古へ朝家に支那の禮に據り、除夜驅灘(おにやらひ)を行はるゝに、方相氏[やぶちゃん注:「はうさうし」。]迚玄衣朱裳熊皮を蒙り金の眼四つ有る、怖しい鬼の大親分を作り、一切の疫鬼を追ふた。其如く平家蟹の顏は鬼も怖るゝと見立て門に懸けるのだ。新井白石の說に平家を世人が惡く言ふは其事記が多く源氏の代に成つたからだ。實は一族皆西海で一度に亡びた所が、源氏の骨肉相害し二代で跡絕へ[やぶちゃん注:ママ。]たよりも餘程見事だと有る。其に平家蟹などと惡名を付くるは遺憾だ。

[やぶちゃん注:『喜多村信節の嬉遊笑覽に、「江戶町屋(まちや)に、門戶の上に蟹の殼を掛け、……』「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、巻八の「方術」パートの『門戶に蟹殼又蒜を掛くる事』にあり、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(熊楠の所持しているものは恐らくこちらが、その親本)の左ページ二行目から出るのが、それ。

「夢溪筆談」北宋の沈括(しんかつ)による随筆集。特に科学技術関連の記事が多いことで知られる。当該部は「中國哲學書電子化計劃」の「卷二十五 雜志二」ここに出、影印本で視認出来る。

「方相氏」元は中国周代の官名であるが、本邦に移されて、宮中に於いて年末の追儺(ついな)の儀式の際に悪鬼を追い払う役を担う神霊の名。黄金の四ツ目の仮面をかぶり、黒い衣に朱の裳を着用して矛と盾を持ち、内裏の四門を回っては鬼を追い出した。見たことがない人のためにグーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

  実は、この段落の最後は「遺憾」以下、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を見て戴くと判る通り、しかも、「遺憾だ。」の「新井白石の說に平家を世人が惡く言ふは其事記が多く源氏の代に成つたからだ。實は一族皆西海で一度に亡びた所が、源氏の骨肉相害し二代で跡絕へたよりも餘程見事だと有る。其に平家蟹などと惡名を付くるは遺憾」の後もにも、またしても、地歩官吏批判部分がカットされている。最後に『倩(つらつ)らその顔貌(かおつき)を察するに、盛んな時は空威張りで怒り散らすこと島村蟹に異ならず、零落(おちぶ)れた時は糊口に由なく愁欺眉を寄せて清経蟹そのままだ』と、平家蟹をおちゃらかしに使っている始末である。短いが、やはり、ここには示さない。私のサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を見られたい。「遺憾」の後にも、

   *

ゆえ、今後は俗吏蟹と名づけたら好かろう。もっとも日本中の地方吏ことごとく悪人にもあらざるべければ、「和歌山県の或る俗吏蟹」と名づけたら至当だ。岡村金太郎博士の説に、房州とかで大葉藻(あまも)を「龍宮の乙姫の元結(もとゆい)の切解(きりほど)き」と呼ぶが、本邦で最も長い植物の名だとあった。動物にこれに対する長名なきは残念だから、ちょうど平家蟹をかく改号したら好かろう。

   *

と続いて終わる文章が底本にはない。これによって、編者は官吏批判の箇所を恣意的にテツテ的に抹消改変してしまっていることが明白となったのである。敗戦後の出版物である底本で、何故、ここまで所謂、最近の悪い言い方としての「政治的忖度」がなされている意味が、私にはよく判らない。神社合祀反対運動での官吏の横暴への鬱憤による脱線であるが、フラットには読めないものであり、「平家蟹にいつ戻るんだい!」と叫びたくなる気持ちは、底本編者のカットに同情する気になってはくるのだが……。而して、以下の『このことはロンドン大學前總長ジキンス男の勸めにより、……』以下のサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」の『俗吏に對する怨念で僕の顔も平家蟹のようになって書くのだ。』までの部分も、ない。無いない尽くしのこの論考、最早、南方熊楠のものでは、ない。クマグスも、怒り狂う反則行為と言わざるを得ない。

 建部綾足の折々草に、赤間關にて平家蟹を賣る「最赤き者は必ず眦[やぶちゃん注:「まなじり」。]逆上り怒れる面相[やぶちゃん注:「おもざし」。]したり。また白きものは面相もまた甚[やぶちゃん注:「はなはだ」。別本「いと」。]溫柔[やぶちゃん注:「おだやか」。別本「なだやか」。]也云々。扨其蟹の面のさまを見分て白くもし赤くもす。赤き者は酒もて煮たる也と云ふ、又面の怒れると和[やぶちゃん注:「なだや」。]ぎたるとは此蟹の雌雄[やぶちゃん注:「めを」。]なりと言し、去るは白き方をば公達蟹[やぶちゃん注:「きんだちがに」。]と名付て旅人には賣る也と語りき」と有るが、白いのは波で曝(さらされ)たのだ。此蟹の面相は長(としと)ると段々薄らぎ判然せぬ。其を綾足は和ぎたる顏と云た者歟。又、西澤一鳳の皇都午睡[やぶちゃん注:「みやこのひるね」。]に、伊勢の團友讃岐の浦にて、「海鼠とも成で[やぶちゃん注:「ならで」。]果鳧(はてけり)平家蟹」と句を作り、夢に蟹共に責られ「海鼠ともならで流石に平家也」と再案した。これ「景淸」の謠曲にも叶ひたる、手に波(は)[やぶちゃん注:「てにをは」に同じ。]自然と備はり句振も格ぢやと有る。是は「景淸」の謠曲に「流石に我も平家也」と云ふ詞有るを云たんだ。動物の形體は無茶に出來た物で無く、其々生活相應に構成され居る。已に琴責[やぶちゃん注:「ことぜめ」。]の戲曲[やぶちゃん注:「じやうるり」。]にも、莊子から、鶴の脚長しと雖も之を斷たば患ひ[やぶちゃん注:「うれひ」。]なん、南方先生は片陰囊[やぶちゃん注:「かたきん」]だが之を整へる[やぶちゃん注:「そろへる」。]と股が擦切ると引たで無い歟。

[やぶちゃん注:「建部綾足の折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師でもあった建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年)は陸奥国弘前藩家老喜多村政方の次男として江戸に生まれ、弘前で育った。「折々草」は紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持った随筆。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期・第十一巻(昭和四(一九二九)年刊)のこちらで視認出来る。標題は『赤間の關の阿彌陀寺幷に平家蟹をいふ條』である。漢字の読みは、リンク先のものと、所持する「新日本古典文学大系」版とを、共に参考にした。

「西澤一鳳の皇都午睡」西澤一鳳(にしざわいっぽう 享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五三)年)は歌舞伎狂言作者で考証家。「皇都午睡」は江戸見聞録。江戸や道中諸国の文化風俗を京・大阪と比べて論じたもので嘉永三(一八五〇)年に上梓されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類從』第一のこちらで視認出来る。標題は『此木戶の錠』。

「國友」「くにとも」で俳号であろう。

「其々生活相應に構成され居る。已に琴責の戲曲にも、」「其々生活相應に構成され居る。」の後に、またまた俗吏批判があるが、見事に消毒抹消さえている。サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を参照。

「琴責」浄瑠璃「壇浦兜軍記」(だんのうらかぶとぐんき)の三段目初めの部分の通称。「阿古屋の琴責」。畠山重忠が阿古屋(あこや)に琴を弾かせ、その音色が乱れていないことから、阿古屋が景清の行方を知らないことを知るというシークエンス。私の好きな作品である。

「片陰囊」陰嚢の一方が下がっていること。普通、ヒトの場合は殆んど微妙にそうなっているので異常ではない。

「引たで無い歟」引用対象の論考は不詳。

 以下の冒頭箇所は、冒頭で述べた通り、実際には南方熊楠自筆の挿絵を以って説明しているため、編者が文を弄っている。サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を参照されたい。図はそちらにあるものを以下に掲げておく。図のキャプションは第一図の「ロ」の左上部に「仮面蟹」、第二図の右手下方に「南方写生」とある。キャプションも手書きである。

 

Heike

 

 發端に一寸述た英國の假面蟹は、何故斯樣な形を具ふるかと問ふと、此奴は常に泥沙に身を埋め、喙[やぶちゃん注:「くちばし」。]と眼だけ出て[やぶちゃん注:「だして」。]近處を見廻し、又長き角二つで聞廻し、さて食へ相な小動物が有ると見ると長い手を出して挾み食ふ。食訖て[やぶちゃん注:「くひをはつて」。]忽ち又深く身を埋めるに疾捷い樣[やぶちゃん注:「すばやいやう」。]身が長くて狹く、螯と角が可成[やぶちゃん注:「なるべく」。]遠方へも屆く爲に、細長いのだ。扨亦、平家蟹は[やぶちゃん注:ここは図解以外に官吏を揶揄った文句があるが、やはり総て抹消されている。]上に引た本草啓蒙に見えた通り、四脚は長て[やぶちゃん注:「ながくて」。]橫に付き、今四脚は短くて脊に付き四脚と四脚の屈み樣が違て、橫の奴は這ふばかりだが脊の奴は自在に物に釣(ひつか)かり得る動作如意[やぶちゃん注:「によい」。これは「如意」と「に良い」の掛詞であろう。]と出來居る。僕は歸朝以來十三年熊野に僑居[やぶちゃん注:「けうきよ」。仮住まい。寓居。]し、一向近頃の書籍雜誌を見ぬから斬新な學說に疎遠だが、僕が歐米に居た時、此蟹の脚に關する學說と云たら、ステッビングの介甲蟲篇に槪述された通り、ヘルブストは、此蟹は大小の脚を二列に具へて軀の前の方でも後の方でも走り得るのだと言ひ、或學者は小き脚もて殼背に物を持上るのだと云ひ、又、或は他の動物が其背を犯すを逐除(おひのけ)る爲だと說た[やぶちゃん注:「といた」。]。何れも篤と[やぶちゃん注:「とくと」。]生きた蟹に就て實驗し無(なかっつ)た推測論だ。

[やぶちゃん注:「ヘルブスト」ドイツの博物学者・昆虫学者ヨハン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハーブスト(Johann Friedrich Wilhelm Herbst 一七四三年~一八〇七年)であろう。英文の当該ウィキによれば、彼は最初の甲殻類に関する最初の完全な調査報告を共同で行ってもいる。]

 然るに和歌山に卅年ばかり前、僕の亡父の持た地面に、丸之内の千草庵迚(とて)名高い風雅な花屋敷が有て、鳥尾得庵なども每々來寓された。主人も至て雅人だ[やぶちゃん注:底本は清音だが、誤植と断じた。]つたが、其子に、今は亡き數に入た鳥崎靜太郞、此人は維新後、東京で物產會を再興した本草家織田信德氏に學び、夥しく蟹類を集めたが、每度平家蟹を生捕て海水に飼養し慰みとした。或日僕に語られたは、[やぶちゃん注:前の句点と、ここの読点は実は逆。誤植と断じて訂した。]此蟹を箸で仰けに仆すと背に附た小き脚で身を柱起(つつぱり)し、造作も無く本位に復る[やぶちゃん注:「かへる」。]と。僕其時十七八だつたが、扨は此蟹風波烈き淺海に住み、仰けに仆されるが每々故、其時忽ち起得る爲に橫と背とに大小二樣の脚を具ふるんだと考へ、日記へ書して現存する。十九の時、米國に渡り卅四で英國から歸り、今度本紙で平家蟹の事を讀む迄別に念に留めなんだ。

[やぶちゃん注:「僕」の一人称がここで解けた気がする。この論考を書いているうちに、以上のことを思い出し、昔の日記を披いて、その未成年の頃の自分を熊楠は、同時に懐かしんでいたのに違いない。

「鳥尾得庵」元長州藩士で、陸軍軍人・政治家の鳥尾小弥太(弘化四(一八四八)年~明治三八(一九〇五)年)。詳しい事績は当該ウィキを見られたい。]

 當田邊町に今川林吉と云人、夥しく蟹類を集め居ると聞いたから、七月十二日の本紙堺の水族館の記に、「滑稽なのは平家蟹で、何か背負て居無(ゐない)と納(おさま)らない性だから嬶が死だら其亡體[やぶちゃん注:「なきがら」。]を死迄(しぬまで)背負て居る。誰も死(しな)ない時は石を背負ふ相な」と有るを見て疑を起し、判斷を問はんが爲め今川林吉氏を訪ふと、唯見る三間半ばかりの表屋を二つに區り、一方は牛肉小賣、一方は斬髮床で、主人林公眉目淸秀音吐嚠喨、晝は剃刀と庖丁を把て雜客の髭髮を剃除し[やぶちゃん注:「そりおとし」。]、夜は早仕舞で風流俳諧を事とする執心の餘り、事に觸れ物に興じて猫洗顏[やぶちゃん注:「ちやうず」。]使ひ犬情[やぶちゃん注:「なさけ」。]を起すも忽ち句を吐ざる無ければ、四隣他(かれ)を開口諧床林[やぶちゃん注:「かいこうかいどこりん」。]と喚び倣(な)す。現に肉を吊げた[やぶちゃん注:「ぶらさげた」。]傍にも一軸を嚴然と懸たるを見ると、賞花庵ぬしの初音を祝ふと題して、「曇りさすまとひも無て和淸天、素雄、藪鶯の老い初めし朝、醉夢」。是は前年初老の時の吟で、素雄は當時の宗匠、主人の號が醉夢だ相な。其他、「海にさす影和らかき茂り哉、醉夢」などと、流行る稻荷祠の手拭の樣に手洗鉢邊は自吟の短册だらけだ。ダーヰンは巴西[やぶちゃん注:「ブラジル」。]の林中に印甸[やぶちゃん注:「インジアン」。]土蕃がヴアーギルやタシツスの古文を玩味し樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]とするを見たとか言が、燈臺本(もと)闇しで御膝元の此樣な所に是程の畸人が居るとは氣が附なんだ。名を聞は面を見るに如ず、面を見るは名を聞くに勝れり、挨拶濟で、平家蟹の一件を持出すと、當地に少なからぬ物故每度畜て見た相で、其經驗談を聞いて大に得る所有た。氏の話に據ると、平家蟹は底が砂で小石が散在する海に棲む、潮水を取替て飼ば幾日でも生居る。仰けに仆せば背の小脚で忽ち身を柱(ささ)え[やぶちゃん注:ママ。]起すは如何にも鳥崎氏の說の如し。だが外に、まだまだ面黑(おもくろ)い事が有る、乃ち彼を飼た水盆中に石片を多く入れ置くと必ず小脚で一石片を負ふ、其から思付て盆の一半を板で蓋ひ薄闇くすると、幾度も幾度も石を背負て陰に運び置廻りて、程無く畑中の糞壺の雨防ぎに被せた藁小屋樣の圓廬を作り、一方に口を開て中に棲む、幾度崩さるゝも倦ず撓まず立直す、此蟹の背に忿怒の面相有るは誰も知るが、腹も熟と[やぶちゃん注:「とくと」。]視ると朧げ乍ら鬼面の相が有る、して見ると甲の内の臟腑の配置が外に露れて偶然異相を示すのだらうと。今迄書物でも見ず氣も付なんだことを敎えられ、大に天狗の鼻も折れ、仕方が無いから、三國志諸葛武侯司馬懿に巾脾幗[やぶちゃん注:「きんかく」。]を贈て戰を挑む、巾幗は婦人の飾り也、懿怒て決戰を請ふ上表の文に、豈知んや乃夫にも功者有りとは貴公などを指たんぢや、陳勝は出世したら相忘れじと言た、立身したら用いて上るから忘れずに居るが可い、然し昔から床屋から立身した人を聞ぬから、此樣な約束は先廢(まづよそ)うと惡まれ口を吐て逃て來た。是は當縣の役人等、人民に對して冷淡無情、物を敎えて[やぶちゃん注:ママ。]貰つて恩を仇で返す事萬づ此通だから、吾輩如き素性の良い者にすら惡風が徙(うつ)つたのぢや[やぶちゃん注:「徏」の最終画右払うがある字体であるが、この字には「移る」の意はないので、「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」の表記字に従った。]。扨學問は活物[やぶちゃん注:「いきもの」。]で書籍は糟粕[やぶちゃん注:私は二字で「かす」と読む。]だ、書に見當たらぬ事も間違た事も多く、大家碩學の作述には至極の臆說も有るは、上述平家蟹に關する西人の諸說でも解る。

[やぶちゃん注:「書に見當たらぬ事も間違た事も多く、大家碩學の作述には至極の臆說も有るは、上述平家蟹に關する西人の諸說でも解る」この敍述には疑問がある。先行する記述では、西歐の「あ或學者は小き脚もて殼背に物を持上るのだ」と言う各説の一つを挙げており、それが否定される形になるからである。実際に、同じカニ類でも、オオホモラやカイカムリなどで、貝殼・石・スポンジ・カップの蓋などの廢棄物、ヒトデ・ホヤ・ウミサボテンなど、いろいろなものを日常的に背負うことが知られている。ヘイケガニの場合も、第三脚及び第五脚を用いて、同様な行動が観察されている(私も映像で実見している)。これは、本文にあるような巣もしくはアジールを作るための過程行動と解するよりは、カモフラージュのための擬態行動と考えてよいと思われるのである。]

 科學の、學理のと大層に言へど、矢張り過去無數劫來無學の者が經驗を積で來た結果に外ならぬ。指南針、火藥の發明は申すに及ばず、海潮の原理、地震の觀測、彈性護謨の應用、色摺の板行、其他東洋人が西洋人に先鞭を著て成功した者も多く有る。[やぶちゃん注:この間に二千字を越える文章が、カットされている。しかも、それは今までのような官吏批判ではない。文化科学史への南方熊楠の捉え方が書かれている。平家蟹から離れた内容とは言えるが、だからと言ってカットすべき内容ではない。そもそも熊楠の大脱線大作戦は他の論考でもよく生ずることである。何だか、沢山カットしたから、ここも本筋を離れてしまっているから、エイ! と乱暴にカットした感じさえする。オゾマシイ!]假令世に知れずに終るとしても、床林君が二十年前まで(恐くは今日迄も)歐米の學者が確言し得ざりし平家蟹の足に大小有る理由を、誰に敎え[やぶちゃん注:ママ。]られずに氣が付いて實驗確證したのは[やぶちゃん注:ここにもカットがある。サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を参照。]偉功ぢや。

    (大正二年九、二十日―二八日不二(新聞)一二四―一三一號及び大正二、一一、一五不二(雜誌)四)  

[やぶちゃん注:最後の段落のカットをしたものをサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」からそのまま「参考」として転写する。

  参考

   *

 これを和歌山県の俗吏が、東京辺で聞き嚙った筆記を米櫃の材料に町村を押し廻り、実際西洋の大学者よりも近海のことに明るい漁夫を駆り催し、微※浮溝生物(プランクトン)は[注:※=「公」の右上の一画を取り除いたもの。但し、「廣漢和辞典」に所収せず、意味不明。]魚に必要だからそう心得ろなどと、心得たところで何の益もなく、実は欧米ですら何たる定説もないので研究者手最中のむつかしいことを鵜呑みに講じ、それで漁民の膏血から月俸を搾り上げおるなどは、人のために官を設くで顚倒もはなはだし。実は欧米人が調べに来ぬうちに、わが国水産物に関する古伝、俗信、里諺、児謡までも網羅して聴き取り、綜合して発見発明の大材料となし置くべく、それについては一童一嫗の説をも善思(ぜんし)念之(ねんし)すること、上に述ベたゲスネルが生物学中興に尽力奔走、日もまた足らざりしがごとくなるべきだ。右床林君の独立観察の大益ありしに感じ、平家蟹の話を述べた中ほどで俗吏蟹と改称して見たが、「衣(ころも)新しきに如(し)かず、友旧(ふる)きに如かず」で、かかる慣れ来たったことは容易に改め得ぬもの、また改めて何の益なきことと悟った。官人が日傭根性で神社合祀とか講習開催とか入りもせぬことに人騒がしをやり、手間賃を取るもその時ばかりで跡を留めず元の木阿弥に復(もど)るもこの例に同じ。

   *]

2023/10/25

ブログ・アクセス2,020,000突破記念現在進行中

先ほど、ブログ・アクセスが2,020,000を突破した。本未明より、記念作品を作成開始したが、結局、三分の二のところまでしか、出来なかった。明日早くには、恐らく完成公開出来ると考えている。暫く、お待ちあれ。

2023/10/24

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「湖水の火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 湖水の火【こすいのひ】 〔黒甜瑣語三編ノ二〕三十年ばかり以前、この湖水<八郎潟>に初夜[やぶちゃん注:午後八時頃。]過ぐる頃、寒火一点燃え出だせしが、浮むほどに荏苒(しだい)にふえて、湖上一面にゆられ流る。此火いづくより出ると思へば、西岸の辺《ほとり》に穴ありて、それより燃ゆるなり。これや筑紫のしらぬ火《ひ》か、赤井の流火とも云ふべき。暁方まで燃えて段々きえしが、その後かかる事なし。その穴は今にのこりて、温泉の口にして、湧き出づる湯にさはりし魚は爛れ死し、または畸魚(かたわうを)となりて網にかゝるもあり。この事天王村の農民親しく見て予<人見寧>に語りし。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。

「八郎潟」は直前の記事では『八龍潟』とある。八郎潟を、かく古く、かく呼んだという記載はないものの、例えば、当該ウィキには、『八郎潟の名称の由来としては、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説が語り伝えられている』但し、『伝説においても、八郎太郎は後に田沢湖へ移り住み、今や八郎潟には滅多に戻らないとされている』とある。また、以上の直前にも配されたウィキの「三湖伝説」(青森県・岩手県・秋田県に跨ってある伝説。主に秋田県を中心として語り継がれており、民俗学で言うところの「異類婚姻譚」・「変身譚」・「『見るな』のタブー」の類型の一つである。各地に、この物語が残されているが、それぞれに細部は異なっている)のリンク先も読まれたい。

「荏苒」(音「ジンゼン」)は、本邦では、「なすことのないまま歳月が過ぎること・ものごとが延び延びになるさま」であるが、漢語の文言では、「時間が次第に移る」の意がある。

「筑紫のしらぬ火」九州の八代海や有明海に、夜半、点々と見られる怪火。参考にした小学館「日本国語大辞典」の「語誌」によれば、「日本書紀」の景行天皇十八年五月の条に、景行天皇が九州巡幸の際、航行中に日が暮れたが、火影に導かれて岸に着くことが出来た。しかし、火の主は、わからず、人の火ではないと考え、この地を「火國(ひのくに)」と呼ぶようになったとある(国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編・昭和六(一九三一)年岩波文庫刊「日本書紀 訓讀 中卷」の当該部をリンクさせておく。右ページ四行目以降)。なお、「肥の国」の地名伝説としては、肥前・肥後の「風土記」に「火が天から山に降った」とする地名由来譚もあるとし、『この不審火を「しらぬ火」と呼ぶようになった時期は明確ではないが、中世には一般化していたかと思われる』とある。

「赤井の流火」これは、福島県いわき市赤井字赤井獄にある東北地方の古刹である真言宗水晶山玉蔵院常福寺=閼伽井嶽薬師(あかいだけやくし:「赤井」とも書く。グーグル・マップ・データ)の龍燈のことであろう。サイト「電話占いリノア」の『【福島県のパワースポット】閼伽井嶽薬師 常福寺|いわき市』に、『江戸時代、閼伽井薬師は龍燈が現れるスポットして、多くの人が足を運んだ記録が残っています』。『龍燈とは龍神の住処といわれる海や河川に現れる怪火で、古くから神聖なものとされてきました』。『閼伽井薬師の龍燈は、麓の村の娘を娶った龍神が、閼伽井薬師の薬師如来へ捧げたものと伝わっています』。『駐車場から少し降りると』、『竹林があり、かつては』、『そのさらに奥、龍燈杉と呼ばれる杉の傍に龍燈が現れては、本堂まで登る様子が見られたそうです』とある。なお、「龍燈」に就いては、私の南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB51頁)を見られたい。

「温泉」現在の八郎潟には、ここに複数あるが、当時の「西岸」となると、現在の干拓地内にある「ポルダー潟の湯」(「ポルダー」は「干拓地」の意)が近いか。この現在の温泉は八郎潟から湧き出ると明記されてあるから、第一候補とした。或いは、北の西岸に「砂丘温泉ゆめろん」もあり、これも有力候補となろうか。但し、本篇の後で、「湧き出づる湯にさはりし魚は爛れ死し、または畸魚(かたわうを)となりて網にかゝるもあり」というのは、解せない。現在の温泉は孰れも、魚を爛れさせ、奇形を生じさせるものではないからである。火山帯の由来の硫黄泉ではなく、前者は公式サイトによれば、五百『年前の海水と腐植質からなるモール温泉で』、『「モール(Moor)」とは、ドイツ語で「腐植質」。地下深くに堆積した植物の有機物を多く含む泉質を言』うとあり、後者は「八竜砂丘温泉」で、ナトリウム塩化物強塩泉である。

「天王村」現在の八郎潟南端の秋田県天王市の旧天王村。「ひなたGPS」のここで、八郎潟の南端砂州に「天王村」を確認でき、おぞましい大干拓が行われる前の戦前の八郎潟も視認出来る。

「人見寧」作者人見蕉雨の本名。別に藤寧とも。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「古樹の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 古樹の怪【こじゅのかい】 〔耳嚢巻二〕牛込と大久保の境、若松町<東京都新宿区内>といへるあり。右組屋鋪の辺に、何年ともなく年古き杏樹あり。或年、枝葉繁りて、近辺の者日の当る事なきと愁ひける故、杣《そま》を入れ候而《て》、枝をきらせけるに、中端《なかはし》に至りけると、如何せしや。事馴れし杣なるが、真逆さまに落ちて、大きに怪我をなしける由、枝によりては血を出す事も有り。或は烟《けむり》の立登るなど有りて、近辺にて化杏樹《ばいえきてう》ととなへ、恐れあへる由、右組屋鋪に住める与力の語りける。

[やぶちゃん注:私のものは、底本違いで、「耳嚢 巻之九 若松町化杏樹の事」である。参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「穀物降る」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 穀物降る【こくもつふる】 〔塩尻巻十〕乙酉<宝永二年>季夏《きか》勢・尾・三・遠の諸国、大豆ふりしとて人多く拾ふ。これ楠樹《くすのき》の実にして、奇異の物にしもあらねど、人心怪を好むよりふと云ひ伝へて、霊威のやうにいふもまたあやし。府下有司評定の館庭に古楠樹あり。かの降りたりしといふ実多くむすびて、風に随ひ落ち侍る。その他所々この木多き故、かなたこなたにて拾ひ侍る。あるは鳥なんどの喰《くらひ》て、その糞にやありけん、思ひの外なる所にもあり。また麦も降りしといふ。打見れば麰《おほむぎ》のごとくにして、少し大きめなり。これも木実《このみ》なり。米といへるは桜の実の類にして、いづれも常に有るものなれども、人々心をとゞめてみざる故、ことし始めてある様にはいひのゝしり侍る。七月四日市井の吏、妖怪の言を禁(いま)しめ侍る、いとよし。天五穀を降《ふら》せし事、『天文大成』にのせしもかかる類なるべし。我国明暦三年に、信州木曾赤小豆降りしとて所の者みせけるよし、老人語られし。これも如何なる木実にてか侍らん。また七月三四日の頃、毛降りしとて、白き毛いと長きを拾ふ事あり。これはむかしより大雷の後は有る事にや。天豈《あに》百穀異物を降さんや。地気のぼりて雲となり、雲和して雨雪となりて降る。この外何をか雨ふらさん。あなかしこ俗に流るゝ事なかれ。

[やぶちゃん注:「塩尻」「鼬の火柱」で既出既注国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」上巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(左ページ下段後方)で正字で視認出来る。

「乙酉」「宝永二年」一七〇五年。

「季夏」陰暦六月。

「天文大成」黄鼎著。一六五二年刊。天文曆算書。

「明暦三年」一六五七年。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「古鏡」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 古鏡【こきょう】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕小日向<東京都文京区内>に天野勘左衛門といへる御旗本の家に古き丸鏡ありしが、唐の玄宗皇帝の鏡なる由申伝ヘけるが、予<根岸鎮衛>が許へ来《きた》れる人も右鏡を見し由。いかにも古鏡と見えて鉄色《かないろ》など常ならざれど、形は通途の丸鏡にて、革の家に入れて服紗に包み、いかにも大切に秘蔵する由。右に付き勘左衛門語りけるは、右鏡玄宗の所持といふも慥《たし》かならず、然れども古き品には相違なく、祖父とやらん曽祖父とやらんの世に、鏡面曇りふる故、懐にして下町辺・江戸表あらゆる鏡屋へ持行きて研ぎを申付けしに、これは古き鏡故、金味《かなあぢ》も知れざれば研ぎ難しとて断りける故、せんかたなく持帰りて、門前を通る鏡研ぎなどを呼びて研ぎを求むれど、いづれも断りて研がざりしが、或時一人の老鏡研ぎを呼入れて、右の鏡を見せしに、暫く詠(なが)めて先づ元の如く入れ置き給へとて、手洗ひ口嗽《すす》ぎて、さて右の鏡を得(とく)と見て、これは古き鏡なり、我等六十年来かゝる鏡を、この鏡ともに見る事二度なり、定めてこの鏡を研がんといふ者あらじ、我等が親は江戸にて鄽(みせ)をも出し、相応に暮しけるが、不仕合せにて今落魂せしが、いとけなき時かゝる鏡を、親なる者研ぎし由咄しける事あれば、某は研ぎ得べし、されども家宝を我宿に持帰らんも如何なり、また渡し返し給ふべき様もなければ、一七日潔斎して、爰に来りて研ぎ申すべく、朝夕の食事は与へ給へと言ひし故、その約をなせしに、七日過ぎて斎すみしとて来りて、主人の古き麻上下を借りて、さて一室に入りて、かの鏡を都合三日にて研ぎ上げしに、実にも清明光潔にして、誠に貴むべき様なる故、主も怡(よろこ)びて価《あたひ》謝礼をなさんと言ひしが、曾てこれを求めず。我等幸ひにかゝる古物を研ぎ得しは職分の誉れなり、謝礼を請けては却つて恐れあれば、右細工中の古上下を給はるべし、子孫の光輝になさんと言ふ故、その乞ひに任せけるとなり。その時の儘にて今に研ぎし事なしと語りけるとなり。

[やぶちゃん注:「耳袋」はママ。今までは概ね正字の「耳囊」であった。私の電子化注「耳嚢 巻之五 天野勘左衞門方古鏡の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「黄金の鶏」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 黄金の鶏【こがねのにわとり】 〔我衣十九巻本巻十三〕仙台の御城下遠からぬ村里に、庭鳥坂と云ふ所有り。夜更《よふけ》往来の人、折々鶏の声を聞く故、この名ありとて、それは人里放れし所なるに、鶏の居《をる》ベくもあらぬに、この声を聞く人はよからぬさが[やぶちゃん注:ここは「よくないこと」の意。]ありとて、聞けばつゝしみ、人にも語らずとなん。今年用水の為に、その坂を掘りわり、田畠に水を引く仰せごとありて、人歩《にんぷ》いくらともなくつどひて、かの坂を半ばほりたるに、大なる石のひつぎ出《いで》たり。頭人《とうにん》等に訴へてひらき見るに、その中に大なる鶏の、いふべくもなきよきこがねにて作れるが二羽あり。その腹に一つは山といふ文字楷書、一つは神といふ文字草書をほり入れたり。そのこがねはいんすとなんいヘるにて有りしとかや。何たる故はしらね、昔仙台国記のふるき文等くりてあきらめたらん様にも、とも評義せしとぞ。小川町の師君、仙台の殿にまのあたり対面の時、家老何某かたらはらより、何くれのあいさつのついでにその物語せられし。ちかきにその鶴も江戸の屋敷に来れるよしを語り給ふ儘、これに記しつ。(雄百目、雌六十目、屋代弘賢殿跋ある物、追而《おつて》借用の積り)

[やぶちゃん注:「我衣」先の「紅毛人幻術」の注で述べた通りで、原本に当たる気にならない。悪しからず。

「庭鳥坂」宮城県栗原市金成(きんなり)に「炭焼藤太夫婦の墓」(グーグル・マップ・データ)というのがあるが、これに就いては、サイト「みちのく悠々漂雲の記/宮城県」の「宮城県栗原市金成」に以下の記載がある。金の鶏の実物写真もある。必見。

   《引用開始》

現在の栗原市金成には、炭焼藤太とその子の金売り吉次の伝説が多く伝えられている。この鶏坂もその内の一つである。

平泉藤原氏隆盛の頃、金成の畑村に炭焼きをしている藤太という朴直な男が住んでいた。この炭焼藤太のもとへ、ある日京都の三条右大臣道高の娘の於幸弥姫(おこや、あるいは某宮家の姫で古耶姫ともいう)と名のる娘が遠く金成にやって来た。清水の観音様のお告げで、夫たるべき人が奥州金成にいると聞き、炭焼藤太の嫁になるため、はるばる陸奥に下って来たのだという。

二人は夫婦になり仲むつまじく暮らした。藤太はその妻から、砂金の価値を教えられ、この地に多く産した砂金を持って京へ上り、金売りをして長者になったと云う。

いつしか藤太の村は金生と呼ばれるようになり、そして藤太が炭を焼いた山は金山沢と呼ばれるようになった。長者になった藤太は、黄金の鶏をこの地に埋め祀り、この地は鶏坂と呼ばれるようになった。以降、この地からは時折暁の闇を破って鶏の鳴き声が聞こえてきたと伝えられる。

この伝説は長く伝えられ、天明6年(1786)に金成村を訪れた菅江真澄も同じことを書きとめている。この金鶏が、文化15年(1818)、鶏坂の道路普請をしているときに土中から炭にくるまって出てきたと云う。

雄は長さ7.5cm、高さ3cm、雌は長さ6,3cm、高さ3cmあり、雌に「山」、雄には「神」の文字が刻んであり、現在も大事に保存されている。

   《引用終了》

とあった。而して、先の地図のサイド・パネルを見たところ、周辺の解説板があり、ここの東北直近に「鷄坂」があることが判った。そこに載る現地画像を見るに、右手奥の木の群がりと、その背後の嶺の形から、恐らくストリートビューのここと考えられる。

「百目」三百七十五グラム。

「六十目」二百二十五グラム。

「屋代弘賢」筆者の文人・医師・俳諧宗匠であった加藤曳尾庵は彼(御家人(右筆)・国学者)と交流があった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「小右衛門火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 小右衛門火【こえもんび】 〔兎園小説第八集〕大和国葛下郡松塚村<奈良県御所市内か>は東西に川あり。西を大山川といふ。この堤に陰火出づ。(出でし初めは、いつ頃よりといふを知らず)土俗は小右衛門火といふ。百済の奥壺といふ墓所より、新堂村の小山の墓といふへ通ふ火なり。雨のそぼふる夜は分けて出づ。大きさ提燈程にて、地をはなる事二尺ばかりといふ。奥壺より小山迄は四十町ばかりにて、松塚の面の端はその屋敷なり。同村に小右衛門といへる百姓、この火を見とゞけんとて、彼所に至りけるに、火は北より南をさして飛び行く。小右衛門は南より北に向ひて歩みよりたれば、この火、小右衛門が前に来るとひとしく、急に高くあがり、小右衛門が頭の上を飛び越ゆるに、流星の如き音きこえたり。頭を越ゆると、また以前の如く、地を去る事三尺ばかりにて行き過ぎぬ。一説に、この時小右衛門、杖にて打ちければ、数《す》百の火となりて、小右衛門を取り巻きけるを、漸《やうや》う杖にて打ち払ひ帰りたりといふ。その夜より小右衛門病を発して死す。因りて小右衛門火と名づく。この事凡そ百年ばかり以前にもなるべし。この火、年をふるにしたがひて、火の大きさもやゝ減じ、出づる事も次第に稀になりたり。小右衛門死してより、人恐れて近く寄らざる故にや。今は遠望にては見るものなし。若したまたま見ゆる時は、蛍火ばかりの大きさにて、それかあらぬかといはん程なりといへり。

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 小右衞門火』を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「強力の僧」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 強力の僧【ごうりきのそう】 〔梅の月〕妙覚寺四五代目の住僧強力の人なりしとぞ。若き時関東へ学問に登りし頃、紙衣《かみこ》を著し、袈裟衣は頭陀袋に入れて襟へ掛け畦道通りしに、向うより一つの牛走り来れり。人の申しけるは、この牛人つき牛なれば逃げよ逃げよと申しけれど、道一筋なれば逃るべき処なきゆゑに、是非なく牛の両角を握りて押合ひけるが、牛強くおしからけるをひねりければ、深田へ仰のけに入てあがきけるうちに遁去りぬとぞ。その後この牛紙衣著たる僧を見ては怯《おそ》れしとぞ。後に妙覚寺住職せられしに、仏殿の次の間に小僧共手習して居たる処へ、仏殿へ乱心の男入りて刀を抜き、次の間の方ヘ来《きた》るを、和尚茶の間より見、小憎共を危く思ひて走り来り、左の腕へ小僧をかい込み、右の手に机を持て彼男の刀を打落しければ、衆徒走り寄りて彼を取り押へぬ。偖(さて)脇挟みたる小憎を見れば息絶えてけり。右の方へ力を入れしゆゑ、覚えずも息絶えたるべし。

[やぶちゃん注:「梅の月」底本の「引用書目一覧」によれば、平本梅隣著で寛延三(一七五〇)年刊とし、引用書は『俳諧奇書珍書』とする。同書の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの同書(安藤和風(信順)編・明四四(一九一一)年春陽堂刊)のここで視認出来る。

「紙衣」和紙(多くは手紙)を貼り合わせて作られた衣類。「紙子」とも書く。古くから寺院や武士の防寒用などに用いられ、また、貧しくて布の着物をきられない人にとって欠かせない代替品であった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「高野山笛を禁ず」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 高野山笛を禁ず【こうやさんふえをきんず】 〔諸国里人談巻一〕太閤秀吉公、高野山に参詣あり。しばらく逗留の折から、観世太夫を供せられしが、つれづれの慰み、または一山の衆徒にも見せんとて、能を興行ありける時、僧侶申しけるは、御能はさる事なれども、当山は開山大師の制法にて笛の音を禁(いまし)むなり。秀吉公、ふしぎの事をきくものかな、さまざま調(しらべ)の中に、笛にかぎりて制する事いかん。さん候、その謂(いはれ)あり、蛇柳のあなたに空劫以前より大蛇すめり。大師かれに向ひ、我この山を仏法の霊地となさん、汝玆にありては凡人の恐れあり。急ぎ所をかゆべしとなり。大竜曰く、この山に住む所星霜無量なり、なんぞこの処を去らんや。時に大師、秘法を以て竜の鱗の間に毒蟲を生じさせて体をやぶらしむ。大竜これをかなしみ、降《こう》して地を去らんとなれば、毒蟲忽ちに滅せり。それより半里がほど後の山の中に竄(かく)る。笛は竜の吟ずる声なれば、おのれが友と心得、はたして大竜うごき出《いづ》るにより、その音を禁むるなり。太閤かさねて、よし笛はなくともくるしからじと能をはじめ、三番過ぎて仰せあるは、山法にまかせ三番は慎みぬ。これより笛を大師に詑ぶべしとて吹かせけるに、晴天俄かに曇り、黒雲地に覆ひ、大風古木を折り、大雨軒を崩し、雷八方に満ちて、山谷鳴動せり。さしもの太閤、居とゞまらず、二十町あまりふもと桜本といふまで立退き、賤《しづ》が家に入《いり》て鎮まるを待ち給ふに、二時ばかりありてやうやうと晴れけるとなり。それより太閤、大師の制法をいよいよ信じ給ふとなり。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之一 高野山ニ禁ㇾ笛」を見られたい。しかし、これって、寺の僧がスタッフとなって事前に用意して行った「羅生門」の黒沢組みたいなSE(サウンド・エフェクト)だったんでないの? 「猿」なれば、マンマと騙されたと考える方が面白い。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「高野山の幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 高野山の幽霊【こうやさんのゆうれい】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕紀州高野山<和歌山県伊都郡内>は清浄不怠の霊場とて、女人堂よりは女を禁じ、蛇柳《じややなぎ》の霊は人口に膾炙する事なれど、後世無慙の悪僧ありて、始祖の教戒を犯しけるもあるや、寛政八年の頃、営士花村何某の許に抱へし女、至つて色青く、関東の者にあらざれば、傍輩の女子など出生を尋ねしに、高野にて幽霊奉公を勤めし由。幽霊になりて凡俗を欺き、悪僧の渡世となしけるとや。虚談にもあるべけれど、またあるまじき事とも思はれず。爰に記しぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之五 幽靈奉公の事」を参照されたい。]

2023/10/23

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「紅毛人幻術」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 紅毛人幻術【こうもうじんげんじゅつ】 〔譚海巻二〕紅毛通事に西長十郎と云ふ者あり。野州栃木領の者なりしが、放蕩にて産を破り、長崎まで浪牢せしが、生質器用なるものにて、阿蘭陀の言語をよくし、後々おらんだ通事西某といふものの弟子となりて、その氏を名乗るほどの者になり、通詞役の末席にも欠ざるほどの者にて有り。毎年おらんだ人江戸へ御礼に来る時は、長十郎も度々同行し、おらんだ人逗留の内に栃木へも立越え、妻子にも年々対面せしとなり。或年おらんだ人長崎の御暇相済み出立のせつ、いつも通詞の人ばかりは船中まで送り行きて、酒宴を催し別れを叙する事なれば、例の如く諸通詞の者送り行き、三里ばかり沖に有るおらんだ船まで行きて、酒を酌みかはしたるに、おらんだ人殊の外悦び、年々各〻方の御引廻しにて御用滞りなく相勤め忝《かたじけな》し、この御礼には何にても御望みの物、本国より仕送り達すべき由を申しけるに、みなみな種々の物を頼み遣はしける中、この長十郎戯れに申しけるは、われら外に願ひはなけれども、御存じの如く、二三年に一度づつは江戸へ御同道し、逗留の内に在所へも罷り越し候て、妻子の安否をも聞き侍りしが、我ら事近年間違ひ候て、六年ほど江戸へ参らず、在所の安否もしれかね候、これのみ心にかゝり候、これを知りたき外願ひはなく候と申しける時、おらんだ人聞て、その安否をしられん事はいと安き事なれども、構へて他言ありてはならぬ事也といひければ、長十郎此安否しれ申す事ならば、如何様の誓言にても立て申すべしとて、申にまかせてちらかひをたてける時、和蘭人さらばこゝは各々方のみにて、隔心なき事なれば苦しからずとて、やがて大きなる瀬戸物の鉢をとりよせ、その内へ水をたゝへ、長十郎に申しけるは、この内を目《ま》たゝきせず、よく見すまし居らるべし、在所の安否おのづからしられ侍るべしといひければ、長十郎不思議ながら鉢の内をみつめ居たれば、水中に栃木道中の景色出来、再々その道を行くに、村舎林木まで悉く見えければ、余念なく面白く見入りたるに、終《つひ》に道中をへて我在所の門に至りぬ。門普請有りて入りがたき様子なれば、我家の垣の外に木のありたるに上りて、家の内を見入りたれば、女房縫針に精を入れてうつむき居たり。我方をみむくかと見とれて居たるに、漸(やゝ)半時ばかり過ぎてぬひものを止め、ふと我顔を見合せたれば、うれしくものいはんとするに、女房も驚き詞を出さんとする時、この阿蘭陀人そのまゝ手を鉢の内ヘ入れ、くるくると水をかきまはしたれば、在所の景もうせ、長十郎も正気付きたるやうにて首をあげ、さてもく今少し残念なる事なり、妻に逢ひてものをいはんとせしに、水をかき廻し失はれし事、千万残り多き事也と申せしかば、その事なり、今そこにて詞をかはさるれば、両人の内に壱人命をたもつ事あたはず、さるによりて詞をかはさんとせらるゝを見てとり、うしなひ進じたるなりといへり。これ紅毛人いかなる術をもちて、此の如き事をなすや、今に怪しみにたへざる事なり。後年長十郎江戸へ来りし序《ついで》、在所へ越し右物語りをせしかば、女房申しけるは、成程某の月日在所へおはして、垣の外に居給ふをみて、詞をかけんとせしが、俄かに夕立降り出て見うしなひ侍りしといひけるよし。不思議なる物語りなり。<『我衣十九巻本巻八』文化十年の条に類話あり>

[やぶちゃん注:これは、古くに、「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」に紹介されたものに、注で本文を示したが、その後、「譚海 卷之二 阿蘭陀通事西長十郞事」まで達し、そちらで独立して公開もしてある。

「我衣」(わがころも)は文人・医師で俳諧宗匠でもあった加藤曳尾庵(えびあん/えいびあん 宝暦一三(一七六三)年~?)の風俗図絵・随筆。幾つかの写本を管見したが、それらしいものを見出せなかった。悪しからず。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鴻池の皿」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鴻池の皿【こうのいけのさら】 〔譚海巻一〕大坂鴻池なるものの家に、名物の青磁の皿壱枚あり。同人ある日二三輩同道して、生玉《いくたま》の酒屋に遊びたるに、料理に出《いだ》せし皿の内に、この名物の皿と同様の物あり、少しもたがはず。一座嘆美せしに、鴻池なるものこの皿を亭主に懇望し、金三拾両遣はしもらひうけ、即座に金子相渡せし所にて、皿をば打砕き捨てたり。同伴のもの怪しみて子細をとひければ、この皿我等家に所持と毫末違《たが》ふ事なし。我等所持の皿は世上に人のしる所なれば、同様の物二つ有ては、われら所持の名を減ずる故、くだきすてたりと云へり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之一 大坂鴻池磁器の事」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鸛と錨草」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鸛と錨草【こうのとりいかりぐさ】 〔甲子夜話巻十七〕青山新長谷寺(曹洞宗)の屋上に、鸛《こふのとり》巣を構へて雌雄常に居《を》る。住持これを憐みて、日々餌を与ヘて馴れたり。後鸛卵を生ぜしが、或時雌雄とも何れへか往き、住持も他行せし折から、奴僕かの屋脊《をくせき》に上り卵を取り、煮て食せんとする中に住持帰りたれば、二羽とも庭中に立ちて哀訴すりる体《てい》なり。住持異《あや》しみて、彼是と思惟し、遂にその僕を糺して卵を取るの状《じやう》を聞得《ききえ》たり。乃《すなは》ちその煮たる卵を見るに、はや熟したり。住持曰く、この如くなれども、かの鳥の心を慰むるには足らんとて、卵を元の如く巣に入れたるに、鸛喜びたる体にて、またこれを暖め居《をり》しが、これより後三四日も一羽見えず。人疑ひゐたるにまた帰り来る。然るに一草を啣《ふく》み来れり。而してその後卵遂に雛となる。人以て不思議とす。その草実《くさのみ》、屋上より落ちて庭中に生ぜしを見るに、いかり草(漢名淫羊藿《いんやうかく》)にてありしと云ふ。人評す、煮卵の雛となりしはこの草の功能にはあらじ、彼《か》の鳥の至誠ならんと。(淫羊藿は『本草綱目』主治を云へるに、丈夫久服令人有一ㇾ子と見え、その余丈夫絶ㇾ陽無ㇾ子、女人絶ㇾ陰無ㇾ子に功あると見ゆ。鸛蓋しこれを用てする乎)

[やぶちゃん注:これは幸いなことに、『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鴻の巢』の注に必要となったため、「フライング単発 甲子夜話卷之十七 19 新長谷寺鸛の事幷いかり草の功能」として正字で電子化注してある。なお、宵曲は「いかりぐさ」と訓じているが、現行、ネット上では、その読みは見当たらない。「カンザシクサ」の異名はある。気持ちとしては、訓で読みたいというのは、俳諧に詳しい宵曲なれば、判らぬでもない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「紅雪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 紅雪【こうせつ】 〔中陵漫録巻十四〕文化六年の冬、越後の高田の辺に紅色の雪降る。春に至ても往々降る事あり。昔もこの降雪降る事ありと、この土の老翁云ひ伝へたり。按ずるに建武九年正月紅雨降とあり。この非常を聞く者大いに驚き、天変の如く恐れを為す。しかれどもこの故を窮する所、何ぞ恐るべきにあらず。予<佐藤成裕>先年羽州に在《あり》て吾妻山の絶頂に登り見るに、山上半里許りの間皆赤土にして、大いに崩《くづれ》て往々に水溜り、皆沼池の如くその水皆赤し。導夫《だうふ》、これを名付けて、神田竜池の名号多し。時あつて竜この水に下り、汲んで百里の外に降す。その雨皆淡赤なり。若し空中に凝《こり》て雪となる時は、その雪皆淡赤なり。この雪即ち紅色の異を為すと雖も、何ぞ径しむに足らん。固《もと》より山上の赤土の中の水なる故なり。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。サイト「Ewig Leere」の「記録に残る赤雪(紅雪)とまつわる伝説と虹と市場の神について」で、本篇が取り上げられてあり、以下の附説がある(一部を除き、行空けと注番号は省略した)。

   《引用開始》

赤い雪の原因を同様に赤い土だとするものは江戸時代の石川如見著『怪異弁断 巻八』にも見られる。

 

すべて雨水は元、地より昇れるものなり。空際に至って湿熱に蒸煉して、その色赤く変じて降れるなり。又、地中より昇上の暴気、水を捲き、泥土を挟んで登るに、その泥土、丹土の地なる時は、即ち丹土を挟んでのぼらんこと、疑いなし。その丹土、雲雨に融じて地に降る時は、これ血雨なり。雪に色あるの義も、また雨血の弁をもって知るべし。

 

これらはいずれも大気中の水分に先に赤土の粒子が混ざり、赤みを帯びた雪として降り積もる、という説明をしている。

また、『日本民俗文化資料集成 第十二巻』ではトキ(ダオ)の羽毛の色になぞらえて「ダオ雪」とよばれる例を記している。本書では大陸の砂塵が風で運ばれ、日本海を越えて雪の上に降ると雪が赤くなる、と記している。これは既に雪が降り積もった後に後天的要因で赤くなる、というものである。

こちらのケースでは石英・正長石・角閃石・黒雲母・燐灰石・風信子石・緑泥石・陶土等の鉱物の欠片に含有する酸化鉄のために黄褐色になる、とする。

ただし、こうした赤い雪の原因は今日では既に降り積もった雪に後天的要因で色が付くと考えられており、その要因も土ではなく紅雪藻(Sphaerella nivalis)のような藻の類が雪の上で繁殖して着色されるものと考えられている。

なお、純粋に赤い雪そのものの記録としては他には『倭年代記』では滅多にはないものの、十回程度が記録されている。

このような赤い雪は日本だけではなく、中国においても次のように記された例がある。

 

武帝太康七年十月、河陰に赤雪二頃あり、後四歳にして帝崩ずる(晋書)

(我烏)管山霜、紫に染むべし。天下の為に冠す。人、知る者なきを恨む(湘譚記)

 

これらの例から、異変と関連付ける考えがあったことが窺える。

   《引用終了》

私も、この記事を見た際、塩田に発生する赤い藻類による赤化を考えた。以上の引用出る「紅雪藻」は、緑藻植物門緑藻綱 Chlorophyceae に属する雪上藻の一種であるドナリエラ目 Dunaliellalesドナリエラ科ドナリエラ(シオヒゲムシ)属シオヒゲムシSphaerella nivalis であるが、現在は、専門論文を管見したところ、学名は Chlamydomonas nivalis として扱われているようである。但し、学術論文を見たが、属名は未だ確定的でないようだ。

「文化六年」一〇八九年。

「建武九年」不審。北朝方は、建武の元号を使い続けたが、それも建武五(一三三八)年に暦応に改元している。]

ポリープ切除無事終了

今日は八時二十分から、まさかの三時半文字通りの半日丸々掛かりった。憩室が多い私は、なかなか腸内が綺麗にならず、OKが出るのに、六時間近くも掛かってしまった。術式は一時間も要しなかったのだが、下剤(水薬剤)を通常の人の倍近く飲まねばならず、二十回を超える排泄で、流石にお尻の穴が痛くなった。これから一週間は酒も禁止で、久しぶりの禁酒となる。まあ、それもまた、よし、としよう。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「洪水と怪女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

     

 

 洪水と怪女【こうずいとかいじょ】 〔笈埃随筆巻二〕]安永七年七月三日、京都に未曾有の洪水あり。山々水溢れ谷崩れ、洛中堀川小川はいふに及ばず。また西陣大宮通の上なる水門吹き出し、町々の地下にも水湧き出し、橋倒れ家流れ、溺死する者多し。上世は鴨川洪水の防禦使有りしと聞ゆれど、かくの如く市中の人家漂流はなかりき。然るに七月朔日昼頃、一乗寺村天王社の拝殿に、百姓六七人昼の休息に暑を避けんとて行き見れば、見馴れざる女の年頃二十四五歳ばかり、容儀も賤しからず。されど木綿の単(ひとへ)を著し、手拭を以て髪を包みたり。若き者どもたはむれに何方の人と問へば、この辺の者なりとこたへて拝殿の絵馬を見廻り、独り言にいふやう、病苦平意の所願に絵馬奉るは有るべき事ならんに、諸願成就の為と書きたるは、拙き人欲のいたりなり、愚なるかなといひつゝ笑ひ笑ひ出行くにぞ、若者どもまた問うて云ふ。若き女中只独り、連れにても待てるにや、また何処へ行く人かなとなぶりて、おのおの口々に問ふ。女答へて連れとてはなし、これより上の村へ行くなりと答へて、出《いで》さまに頭の手拭をとり振返りたるを見れば、さもあてやかなる艶顔にも似ず、頭の髪すべて真白にして束ねたり。その美しき顔いよいよ物凄し。おのおのこれはと驚きける中に、村はづれへ走り、余り怪しきに行先見届けんと、二三人跡より走り行き見れども、かいくれ行方見えず、みなみな不審ながら野働きに行きぬ。然るにこの女、上の村の庄屋喜内といふ人の家に行き、切戸口より座敷に通り、床の間に坐し居たり。勝手にはかくともしらず、折ふし喜内は留守にて女ばかり有りしが、不図《ふと》座敷へ行きてこれを見つけ、狂女の様子なるものありと、家内立騒ぎ一同に行き見るに、彼女少しも騒がぬ体《てい》なれば、いかなる者ぞと問ふに、只この辺の者なり、亭主は留守なりやといふ。成《なる》ほど用有りて京に出《いで》られたり、さるにても案内もなく見馴れぬ者の人の座敷へ上り、亭主に何用有りやとなじり問ふに、答へずして、さらば留守ならば帰るべし、用は一言申置かん、今日中この処を立退かれよ、さあらざらんに於ては大難あるべし、我もこの辺に住みがたければ、外へ立退くなりとて、頓《やが》て立《たち》て猶も上《かみ》の方へ走り行けり。家内のもの怪しむあり。また気違ひ女なりと嘲るもありけり。夜に及ぶころ喜内も帰り、この事を聞きながら心決せず、たゞ不審におもひ居《をり》けるに、暮過ぎより雨頻りにして止まず。次第に大雨車軸を流すがごとく、山より地より水涌き出て家々をたゞよはす。先づ喜内の家一番にうち崩れぬ。その外隣村家々数多《あまた》破壊す。さてはと後日思ひ合せたる計りにて詮なし。いかなる者とおもふに知れざりけり。一説には、年来住みける大蛇の、この変を察して住居を替へたるなるべしと云ひけり。誠にこの年の水はいかなる事にや。町々の地下より夥しく涌き出たり。予も所々にて見たり。実《げ》にや狐死するに丘に枕すとは、その本《もと》を忘れざるなり。この怪女も久しく当辺に住みければ、その急難を避けしめて、俱(とも)に立退かすべきにや。恩に報ずと云ふべし。この後叡峰の東方横川《よかは》の方に、弁財天を祭れる社有り。その社前自然に水吹き出て、その跡淵となりて底も知れずといへり。旁〻《かたがた》附会ながら牽合ともいふべし。

[やぶちゃん注:「笈埃随筆」の著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。以上の本文は、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は「○洪水怪」である。

「安永七年七月三日」グレゴリオ暦一七七八年七月二十六日。

「京都に未曾有の洪水あり」信頼出来る水害史の論文中に、同年七月一日と二日、大雷雨が続き、内裏をはじめとして多くの建物が壊れ、山、崩れ、家、潰れて、人馬の溺死は六百件に及んだとある。

「一乗寺村天王社」サイト 「フィールドミュージアム京都」の「八大天王社宮跡」であろう(地図あり)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「源五郎狐」 / 「け」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。 

 なお、本篇を以って「け」の部は終わっている。]

 

 源内狸【げんないだぬき】 〔嗚呼矣草巻四〕野狐《やこ》百里に満たざる処には穴居せずとかや。佐度[やぶちゃん注:ママ。]の国<新潟県佐渡>に狐の居《をら》ざること、普《あまね》く人の知る所なり。然るに奇怪なる狸の首領有りて、民俗これを源内狸と云ふ。数丈の大石ありて、これに己(おの)が精を詫《たく》し、吉凶悔吝(くわいりん)を予《あらかじ》めに人に告ぐ。大いに験(しるし)有る故、愚民欲すること有るときは、右の大石に向ひ欲する事を祈るに、もつともしるし有りとかや。一奇事なり。同国川原田と云ふ処の眼科某、及び相川と云ふ府の商賈《しやうこ》に聞けり。

[やぶちゃん注:「嗚呼矣草」(おこたりぐさ)は戯作者田宮仲宣(ちゅうせん 宝暦三(一七五三)年?~文化一二(一八一五)年:京の呉服商に生まれたが、放蕩のため、放浪生活を送る。天明五(一七八五)年、大坂に来て、洒落本「粋宇瑠璃」(くろうるり)・「郭中掃除」など多数の作品を書いて生計を立てた。大田南畝・曲亭馬琴と親交を結んでいる)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『隨筆文學選集』第二(楠瀬恂編・一九二七年書斎社刊)のここで正規表現の当該部(「八十七」話)を視認出来る。

「源内狸」通常は佐渡の佐渡の化け狸の首魁で「團三郞狸」と呼ばれる。私の偏愛する話で、現地の本拠地「二ツ岩大明神」も訪れてもいる(荒廃甚だしかった)。古くは、「耳嚢 巻之二 國によりて其風俗かわる事」で、佐渡に狐が居ない(実際にいない)伝承を私の注で解説している。同じく「耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事」もある。また、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』にも言及がある。私が、本格的に興味を持ったのは、「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」の電子化注辺りか。

「吉凶悔吝」「易経」に基づく語。「Facebook」の「易経を学ぶ」のこちらから引用する。「易経」に『悔吝(かいりん)を憂(うれ)うるものは介(かい)に存(そん)し、震(うご)きて咎(とが)なきものは悔(かい)に存(そん)す。(繋辞上伝)』とあり、『「吉凶悔吝(きっきょうかいりん)」の』「吉」は「得る」、「凶」は「失う」、「悔」は「後悔する」、「吝(りん)」は「吝嗇(りんしょく)・けちる・厭(いや)がる」の意で、『「吉凶悔吝」は人の心と行動の巡り合わせを表す。つまり、人は過ちを後悔して吉になり、吉になると油断して奢りや慢心が起こって吝嗇になり、過ちを改めることをぐずぐずと厭がり、凶になる。凶になって、そこでまた後悔するのである』。『吉凶の分かれ目は「悔・吝」にある。恐れ震えて咎めがないのが「悔」である。また、凶になる兆しが「吝」であり、凶が吉になる兆しが「悔」である』とあった。

「商賈」商人。あきんど。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「源五郎狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 源五郎狐【げんごろうぎつね】 〔諸国里人談巻五〕延宝のころ、大和宇多《うた》に源五郎狐といふあり。常に百姓の家に雇はれて農業をするに、二人三人のわざを勤む。よつて民屋これをしたひて招きける。何国《いづち》より来り、いづれへ帰るといふをしらず。或時関東の飛脚に頼まれ、片道十余日の所を往来七八日に帰るより、そのゝち度々往来しけるが、小夜中山にて犬のために死せり。首にかけたる文箱《ふばこ》を、その所より大和へ届けけるによりてこの事を知れり。また同じ頃、伊賀国上野の広禅寺といふ曹洞宗の寺に、小女郎狐《こじぢよらうきつね》といふあり。源五郎狐が妻なるよし、誰《たれ》いふとなくいひあへり。常に十二三ばかりの小女の貌《かたち》にして、庫裡にあつて世事《せじ》を手伝ひ、ある時は野菜を求めに門前に来る。町の者どもこの小女郎狐なる事をかねて知る所なり。昼中《はくちゆう》に豆腐などとゝのへ帰るに、童どもあつまりて、こぢよろこぢよろとはやしけるに、ふり向て莞爾《ほほゑみ》、あへてとりあヘず。かくある事四五年を経たり。その後行方《ゆくかた》しらず。

[やぶちゃん注:「諸国里人談」は私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている。「諸國里人談卷之五 源五郞狐【小女郞狐】」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幻影の官人」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 幻影の官人【げんえいのかんじん】 〔反古のうらがき巻一〕予<鈴木桃野>祖父向凌翁若かりし時、書斎に独り居りしに、忽然として一人の衣冠の人、桜の枝より降り乗る。よくよく見るに、盗賊とも見えず。但し衣冠の官人、このあたりに居るべき理なし。況んや天より降るべき理更になし。おもふに心の迷ひよりかかるものの目に遮ぎるなりと、眼を閉ぢて見ず。しばしありて眼を開けば、漸々に降り来る。また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、また漸々近づき来る。此の如きこと三四度にして、終に縁頬迄来り、縁ばなに手を懸くる。こは一大事と思ひて、眼を開きたるまゝにて家人を呼びて、気分悪し、夜具を持ち来れと命じ、その儘打ふして少々まどろみけり。心気しづまりて後、起出で見るに何物もなし。果して妖怪にはあらざりけりと、書弟子石川乗渓に語りしとて、後乗渓予に語りき。この話曲淵甲斐守といふ人も、この事ありしよし聞けり。これは曲淵心しづまりて驚かざれば、妖気隣家に移りて、即時に隣主人腰元を手打にして狂気せしより、語り伝へたりとなり。

[やぶちゃん注:「反古のうらがき」複数回既出既注。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている。当該話は「反古のうらがき 卷之一 官人天より降る」。未刊随筆集叢書の国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』(そはくじっしゅ)第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちらでも、正字の当該部が視認出来る。]

2023/10/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「毛降る」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 毛降る【けふる】 〔甲子夜話巻五十二〕八月十四日には風雨烈しく、処々に出水《でみづ》したり。後に聞けば毛を降らせしと云ふ。その状三四寸なるも有り、また短かきも有りしと人々語れり。予<松浦静山>〉怪かと問ひたれば、林氏云ふ、陰気の形を為したる者にて、獣毛には非ざるべしと。また後に『怪異辨断』(西川如見著)を披閲すれば、中華日本の南方に当りて無量の大国あり。その鳥空中を往来す。不ㇾ知豈《あに》妖ならんやと。然れば鳥毛の降れるなり。(前書を按ずるに、伝へ聞く、西南の蛮夷に大国甚だ多し。その国大鳥の羽毛畜獣の毛に似たる者多く有ㇾ之、未だ日本中華に於て無ㇾ之処の者也。その鳥数《す》千百群れ飛んで遠く山海を往来するに、如何なる故にや、その翼下の毳毛《ぜいまう》[やぶちゃん注:細かく柔らかい毛。]を落すことあり。その毛風気《ふうき》に乗じて遠く降《ふ》れるを雨毛《けをあめふらす》[やぶちゃん注:細かな雨を降らす。]と云へり)

[やぶちゃん注:事前に正規表現で「フライング単発 甲子夜話卷之五十二 15 毛を雨(あめふら)す」を電子化しておいた。必ず、そちらの私の注を見られたい。

 この後、底本では一行空けがある。]

 

 〔遊芸園随筆〕六月十九日夜、一頻り雨ふりたりしは深夜如ㇾ夢に覚えたり。同廿日退出より新家栄之助、飯田町<東京都新宿区内>もちの木坂へ転宅の賀として参りしに、所々に昨夜か暁かはしらず、毛ふりたりとて拾ひ得たるもの数根《すこん》をみする。長さ五六寸より六七寸にて、白くして黄を帯びたり。夫より帰り懸《がけ》、牛込北おかち丁<東京都新宿区内>へ参り候間、みちすがら家来に拾はせ候に、又数根を得たり。

[やぶちゃん注:「遊芸園随筆」川路聖謨(かわじとしあきら 享和元(一八〇一)年~慶応四(一八六八)年)の随筆。川路は幕末の勘定奉行。豊後の人。江戸小普請組川路光房の養子となり、後、幕府の勘定吟味役・佐渡奉行・普請奉行・大坂町奉行・勘定奉行・外国奉行などを歴任した。嘉永六(一八五三)年ロシア使節プチャーチンと交渉し、翌年、「日露和親条約」を結んだ。江戸開城の直前に自殺した。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻五(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正規表現で読める。但し、末尾の『よつてここに記し[やぶちゃん注:ママ。編者による『(すカ)』とする傍注がある。]。右の毛は則是也。』がカットされている

「六月十九日」前の記事が天保七(一八三六)年七月の記事であるから、同年であることが判る。旧暦六月十九日はグレゴリオ暦八月一日。

「もちの木坂」冬青木坂(もちのきざか)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「牛込北おかち丁」北御徒町。現在の新宿区北町(きたまち)。]

〔塩尻拾遺巻廿二〕頃日また伊勢路の地に毛生ずと云ふ説あり。我熱田あたりにも馬の毛のごとき毛二三寸なるが生えけると、三月廿日宮なる漁人来りて語りし。毛降りしといふ事、唐《もろこそ》の書にあれども、地より生じけると云ふ事、いまだ見あたり侍らざるにや。愚按ずるに、去る十三日の午の刻<午前十二時>ばかり、暴風俄然として起り、大雨石を流し、雲乱れ飛ぶ事、秋の如し。その間《かん》雷のごとく閃きてやがて静かになり侍りし。光り物通りしなど云ひさわぎし。例の一目連などいふ暴気にや。いつとても光り物流れ飛びし頃は、毛ある事めづらしからず。散気《さんき》変じてこの物を為し侍るにこそ。もろこし毛降りしといふはこれならん。今度《このたび》も散り落ちし上へ、雨砂古(いさご)<すな>を流しかけしを後《のち》見て、地より生ぜしといふかと覚ゆ。我家庭にも尋ね見しかば、毛の数《す》寸なるが多くありし。 [やぶちゃん注:字空けはママ。](元亀元年二月十日、大雨の後白毛地にあり、長さ四五寸なりし由、或る記にしるせり)

[やぶちゃん注:「塩尻拾遺」「鼬の火柱」で既出既注この正字版は見当たらない。仕方がないので、国立国会図書館デジタルコレクションの『名古屋叢書』第十八巻の新字旧仮名版の当該部をリンクさせておく。

「宮」「宮の渡し」のこと。

「元亀元年二月十日」ユリウス暦一五七一年三月七日。グレゴリオ暦換算で三月十五日。]

〔北窻瑣談巻二〕寛政丑年<八年>七月十五日、江戸小雨降りて、その中に毛を降らせり。丸の内<東京都千代田区内>辺《へん》は別して多かりしとぞ。多くは色白く長サ五六寸、殊に長きは一尺二三寸もあり。色赤きもたまたま有りしとぞ。京ヘも親しき人より、拾ひとりし毛を送り越《こ》せしが、馬の毛のふとさの毛なり。江戸中にあまねく降りし事、何獣の毛にて幾万疋の毛なりや。いと不審の事なりき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ)。

「寛政丑年」「八年」「七月十五日」宵曲は換算を間違ってしまっている。「寛政の丑年」寛政五年である。グレゴリオ暦一七九三年八月二十一日。

「馬の毛のふとさの毛なり」上記原文では『馬の尾のふとさの毛なり』である。宵曲の誤字か、或いは誤植であろう。]

フライング単発 甲子夜話卷之五十二 15 毛を雨(あめふら)す

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。目録の標題にはㇾ点はないが、上記ブログ標題では、かく、読んでおいた。]

 

52―15 雨

 八月十四日には、風雨、烈しく、處々に出水(でみづ)したり。

 後に聞けば、

「毛を、降らせし。」

と云ふ。

「その狀(かたち)、三、四寸なるも有り。」

亦、

「短かきも、有りし。」

と、人々、語れり。予、

「怪か。」

と問ひたれば、林氏、云ふ。

「陰氣の形を爲(な)したる者にて、獸毛(じうまう)には非ざるべし。」

と。

 また、後に、「怪異辨斷」【西川如見著。】を披閱すれば、『中華・日本の南方に當りて、無量の大國あり。その鳥、空中を往來す。不可知(しるべからず)。豈(あに)、妖ならんや。』と。

 然れば、鳥毛(うまう)の降れるなり【前書を按ずるに、『傳(つたえ)聞く、西南の蠻夷に、大國、甚だ、多し。其國、大鳥(おほとり)の羽毛、畜獸(ちくじう)の毛に似たる者、多く、有ㇾ之(これあり)。未(いまだ)、日本・中華に於て、無ㇾ之(これなき)處(ところ)の者也。その鳥、數(す)千百、群れ飛んで、遠く、山海(さんかい)を往來するに、如何なる故にや、其翼下(よくか)の毳毛(ぜいまう)[やぶちゃん注:細かく柔らかい毛。以下の活字本では『セイマウ』と振っている。]を落す事あり。其毛、風氣《ふうき》に乘じて、遠く降(くだ)れるを「雨毛(けをあめふらす))[やぶちゃん注:細かな雨を降らす。]」と云(いへ)り』。】。

■やぶちゃんの呟き

 これって、一頃、UFO地球外生命体の乗物と肯定する者(私も高校時代まではその一人であった。研究会も作った)の間で流行った、「エンゼル・ヘア」(Angel Hair)かいな? 一九五二年、天使の髪が空から漂い、フランスの町オロロン(私は十代の前半に読んだUFO研究書では、この地名の方をよく覚えている)とガイヤックに落ちたとされる。サイト「WordsSideKick.com」の「フランス、オロロンのエンジェルヘアufo」を読まれたい。一方、それより前のポルトガルの「ファティマの奇跡」の際にもこれが降ったとも言われる。また、ブログ「珍奇ノート」の「エンゼル・ヘア ― UFOとともに現れる繊維状の謎の物体 ―」もよいが、何より、「Yahoo! Japan 知恵袋」のこちらの「エンゼル・ヘア」への質問で「ベストアンサー」とされた「笑われ男さん」の記事がコンパクトながら、よくフラットなデータとしてよく纏まっていると思う。なお、英文ウィキの当該記事もよく書けている。

「八月十四日」本篇の前後では、年を特定出来ない。

「怪異辨斷」「西川如見著」西川如見(にしかわじょけん 慶安元(一六四八)年~享保九(一七二四)年)はの天文暦算(れきさん)家。肥前国の人。本名は忠英。天文・地理・暦学・博物学など、広く研究した。儒教的自然観と実証主義的立場を調和させ、漢洋知識の折衷をはかった。著に「華夷通商考」などがある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『西川如見遺書』第五編「怪異断弁」(全八巻)・西川忠亮明治三二(一八九九)年出版)のここの左丁から、次のコマにかけて、書かれてある。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「解毒酒」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 解毒酒【げどくしゅ】 〔梅の月拾遺〕伊勢竹軒言(三安)語りしは、我《われ》京学の折、撲元(平元小助匿名)金蘭斎(こんのらんさい)など同伴して、秋の頃野遊せしに、菌《きのこ》沢山に生じあるを取《とり》て、宿元へ携へ来りて煮て酒を飲みしに、宿の女房他《ほか》より帰りて、煮て喰ひし鍋を見て、煮汁色替りことりて[やぶちゃん注:「色、替はり、異(こと)りて」であろう。]ありしを見て、驚《おどろき》て如何なる物を煮て喰し給ふやと尋るゆゑ、様子を語りしに、それは月夜茸《つきよたけ》とて甚だ毒なり、偖々(さてさて)苦々しき事なりやと、女房涙ぐみて歎きしかば、何となく何れも気味悪しきゆゑ、毒を解すに酒に若《し》くべからずと、それより酒を浴《あび》て三人快《こころよ》く呑《のみ》て酔臥《すいぐわ》しけり。朝に目を覚せしに恙なかりしかば、外両人はいかゞと心ならず、夜著《やぎ》の内より覗き見しに、撲元は早や起きて煙管を磨き居《をり》しゆゑ、安堵して起きければ、蘭斎も忽ち起きて恙なかりしとなん。

[やぶちゃん注:「梅の月拾遺」底本の「引用書目一覧」によれば、平本梅隣著で寛延三(一七五〇)年刊とし、引用書は『俳諧奇書珍書』とする。同書の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの同書(安藤和風(信順)編・明四四(一九一一)年春陽堂刊)のここで視認出来る。

「月夜茸」菌界ディカリア亜界 Dikarya 担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus のこと。当該ウィキによれば、『日本を中心として極東ロシアや中国東北部にも分布し、晩夏から秋にかけて主にブナの枯れ木に群生する。子実体には主要な毒成分としてイルジンSを含有し、そのひだには発光成分を有する。シイタケやムキタケ、ヒラタケなどと誤認されやすく、誤食した場合には下痢や嘔吐といった中毒症状から、死亡例も報告されている』。『摂食後』三十『分から』三『時間で発症し、下痢と嘔吐が中心となり』、『あるいは腹痛をも併発する』。『景色が青白く見えるなどの幻覚症状がおこる場合もあり、重篤な場合は、痙攣・脱水・』アシドーシス・ショック(acidosis shock:急性細胞機能障害)『などをきたす。死亡例』『も少数報告されているが、キノコの毒成分自体によるものではなく、激しい下痢による脱水症状の』二『次的なものであると考えられる』。『医療機関による処置が必要で、消化器系の症状に対しては、催吐・胃洗浄、あるいは吸着剤(活性炭など)の投与が行われる。また、嘔吐や下痢による水分喪失の改善を目的とした補液も重要視される。重症例では血液吸着 DHPDirect Hemoperfusion:直接血液灌流法)により、血中の毒素の吸着除去が行われることもある』。『ツキヨタケから得られた毒成分は』、『イルジン(Illudin)と』『明らかにされ』ている。『全体に地味な色調を持ち、少しも毒々しくみえないこと・縦によく裂けること・不快な臭いや味がないこと・しばしば』一『か所で大量に採取されることなどから、日本におけるきのこ中毒(原因となったきのこが確定されたケース)には、ツキヨタケによるものがもっとも多い』、『比較的幼い子実体はシイタケに、成熟したものはムキタケやヒラタケに類似している。特に、シイタケやムキタケとは』一『本の枯れ木上に混じり合って発生することがあり、誤食の危険が大きい。日本では』二〇一四『年に滋賀県高島市の道の駅で食用のヒラタケと間違えてツキヨタケをパック詰めし、それを食べた』七『人が食中毒の症状を訴えた』とある。この場合、三人が三人ともに何らの中毒症状を発症していないことから、ツキヨタケではない、引用の頭の方にあった食用キノコであった可能性が高い。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「月華・日華」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 月華・日華【げつかにつか】 〔きゝのまにまに〕七月半《なかば》頃<文化六年>と覚ゆ。予<喜多村信節>が隣家にいまだ家作なく、夜は空地に出て涼みける。或夜予は書を見て有しに、下女と家内の者と門涼(かどすずみ)して、月影常に異なるに驚きて、予に告《つぐ》る故、出《いで》て見るに、いかにも澄渡《すみわた》れる月影、いく重《へ》ともなく暈気《うんき》旋《めぐ》りて、五彩の目鏡《めがね》を伺ふが如し。これ月華なるべし。ことなる詠(ながめ)なり。また日華をも見し事あり。これは先年春八日の夕日の時、彩暈現じたるが、空中花など飛揚するがごとし。日輝《につき》常の如く目を眩《くらま》せず。

[やぶちゃん注:「きゝのまにまに」「嬉遊笑覽」の筆者として知られる国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十一(三田村鳶魚・校/山田清作・編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここで当該部が正規表現で視認出来る。この現象は、まず、所謂、「暈」(かさ:英語halo [ˈheɪloʊ]、ドイツ語Halo [ˈhaːlo])が挙げられる。当該ウィキによれば、『太陽や月に薄い雲がかかった際に』、『その周囲に光の輪が現れる大気光学現象のことである。ハロー現象とも呼ばれる。太陽の周りに現れたものは日暈(ひがさ、にちうん)、月の周りに現れたものは月暈(つきがさ、げつうん)という。虹のようにも見えることから白虹(はっこう、しろにじ)ともいう』。『暈は雲を形成する氷晶がプリズムとしてはたらき、太陽や月からの光が氷晶の中を通り抜ける際に屈折されることで発生する』。『氷晶の屈折率は光の波長によって異なるため、暈も虹のように色に分かれて見える。内暈、外暈ともに内側が赤色、外側が紫色となっている。しかし実際には、氷晶の向きがランダムであるため、散乱などによって分光された色が混じり合ってしまい、白っぽく見えるだけのことが多い。色分れした色帯のうち、外側の赤色は他の色と重なり合わないため、内側の赤や黄色系のところだけが色付いて見えることが多い』とあるから、喜多村が見たそれは、珍しい多色の虹のような見え方をした点で、確かに、珍しい。或いは、前者は、夜間に月の光により生じる虹「月虹」(げっこう/英語moonbow)であった可能性も高いか。ウィキの「月虹」も参照されたい。

「文化六年」「七月半頃」旧暦七月十五日は、グレゴリオ暦一八〇九年八月二十五日。

「先年春八日」文化五年春八日を一月八日ととると、グレゴリオ暦一九〇八年二月四日となる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「怪鳥」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 怪鳥【かいちょう】 〔閑窻自語〕安永三年卯月なかばばかり、まだ宵のことなりしに、夜の御殿のうへに、手車をひく音して、いとおどろくしく、後桃園のみかどきこしめし、あやしみおどろかせ給ふ。女房殿上人なども、あともわきまへず。いかなる故ならんと恐れあひぬ。御めのとのこゝろきゝたるが、御庭にいでて、御殿のうヘを見やりたるに、鳩ほどの鳥、夜のおとゞの棟《むね》かはらのうへにゐたり。月のころなればよく見ゆ。(毛の色はわかずとぞ)しばし見ゐたるに、南をさしてとびければ、あやしきひゞきたちまちにやみけるにぞ、かの鳥の声とはしられけるとなむ。後日御前にまゐりけるに、くはしく勅語あり。程へて或人かたりしは、東山若王寺(にやくわうじ)の深林に、うめきどりとなづけて、たまたまなく事ありとぞ。いづれあやしき事なれば、内々上園局忠子朝臣(姉ぎみ)をもて、内々御祈りあるべきよし申し入れしも、うちおかれず、御沙汰ありしなり。〔同上〕天明いつゝのとし弥生ばかり、かれこれとなびくわらびを折りに、如意がたけにのぼり、いざやこの山のあなたなる湖《うみ》をながめんとて、峯いつゝむつばかりもよぢけるとおもふに、比巴(びは)のうみひろくみゆ。人と興じて、しばしやすらはんとするに、あはひ六十間ばかりへだてて、山のかたはらに、むろの木ひきくしげりひろごりたるうへに、いと大きなる黒きとりすまゐぬ。からすによくにて、よついつつばかりあはせたらんほど大きにみゆ。ともなるもののうちに、見わけてこんとて、三十間ばかりちかよるうちに、とびさりぬ。つばさひろげしさまなど、いかなる鳥ともわきまへがたし。『吉野拾遺物語』中、くろき怪鳥いでしことしるせり。いかさまよのつねの鳥にあらじといふに、皆人《みなひと》おそれていそぎかへりぬ。

[やぶちゃん注:「閑窻自語」(かんさうじご)は公卿柳原紀光(やなぎわらもとみつ 延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆。権大納言光綱の子。初名は光房、出家して「暁寂」と号した。宝暦六(一七五六)年元服し、累進して安永四(一七七五)年、権大納言。順調な昇進を遂げたが、安永七年六月、事により、解官勅勘を被った。翌々月には許されたが、自ら官途を絶って、出仕することなく、亡父の遺志を継いで国史の編纂に力を尽くし、寛政一〇(一七九八)年まで前後二十二年間を要して「続史愚抄」禅全八十一冊を著した。国立国会図書館デジタルコレクションの『隨筆三十種』第五集(今泉定介・畠山健校訂編纂/明三〇(一八九七)年青山堂刊)で、前者(標題は『怪鳥啼宮中事』)はここ、後者はここで視認出来る。

「安永三年卯月なかば」四月十五日は、グレゴリオ暦一七七四年五月二十五日。

「後桃園のみかど」後桃園天皇(在位:明和七(一七七一)年一月~安永八(一七七九)年十月二十二歳で病気により崩御)。

「御めのと」乳母役。

「夜のおとゞ」清涼殿にある天皇の御寝所。

「東山若王寺」正東山若王寺。明治四(一八七一)年の「神仏分離令」により、「京都三熊野」の一つである熊野若王子(にゃくおうじ)神社(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)のみが残った。「若一王子(にゃくいちおうじ)」とも呼ぶ。

「うめきどり」ペリカン目サギ科ミゾゴイ属ミゾゴイ  Gorsachius goisagi の異名。サイト「東京ズーネット」のこちらで、♂の鳴き声が聴ける。夜、聴きたくない鳴き声である。

「天明いつゝのとし弥生」グレゴリオ暦一七八五年四月九日から五月八日。

「如意がたけ」琵琶湖の南西にある如意ヶ嶽。標高四百七十八メートル。

「六十間」百九メートル。

「むろの木」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ビャクシン属ネズ  Juniperus rigida 。漢字表記「杜松」。別名「ネズミサシ」・「ムロ」・「モロノキ」・「トショウ」。当該ウィキによれば、『和名はネズの硬い針葉をネズミ除けに使っていたこと』『から、「ネズミを刺す」という意で「ネズミサシ」となり、それが縮まったことに由来する』とある。

「吉野拾遺物語」「吉野拾遺」。南北朝時代から室町時代の説話集。二巻、或いは三、四巻。作者未詳。奥書によると、正平一三(一三五八)年の成立であるが、元中元(一三八四)年以降の成立の説もある。二巻本は三十五話、三、四巻本は六十四話。三巻以後のものは室町後期に加えられたと推定される。延元元(一三三六)年から正平十三年に至る、二、三年間の吉野朝廷を中心とした説話・逸話・天皇の歌・戦いの話などが集められてある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文學大系』校註第十八巻(大正一四(一九二五)年国民図書刊)に所収する「吉野拾遺」のここの、右ページの五行目以降の段落を指すようである。出現場所は『皇居のうへなる山の茂み』で、『夜な夜な出でて、からすの聲似て、内裏にひゞきわたりて鳴くを、怪しき鳥ならんと、武士に仰せて射させ給ひけれども、所さだめざりければ、かれもこれもかなはでやにけり』とあって、鷹狩をしたところ、鷹は目の前に按配した雉子には目もかけず、『山のかたへそり行くを、いかにせんとて、まもり居けるほどに、つるの大きさなるくろき鳥をおひ出して、空にてくみあひ、ともに落ちけるを、人々よりてころしてけり。かたちはからすのごとくにて、まもり居けるほどに、かたちはからすのごとくにて、右左のつばさをひきのばして見れば、七尺あまり有りけり。鷹も胸のほどを喰(く)はれて、暫しのほどありて死にけり。夜な夜な鳴きつるは、この鳥にてや有りけん。其の後は音もせざりけり。いづれにたゞごとたゞごとにてはあらじとて、二つの鳥を塚にこめて、その上にちひさき社をたてて、鳥塚(とりつか)といひて當(まさ)にありける。怪しきことにこそありつれ。』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「毛玉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 毛玉【けだま】 〔甲子夜話巻六十一〕林子(りんし)話す。頃日営中にて本多豊州(田中侯、寺社奉行)に邂逅せしときの言に、某邸の(数寄屋橋内)稲荷祠を当初午《はつうま》の間に合ふやうにとて、正一位を勧請し、口宣到来して社壇へ納めし翌朝、壇上に狐の玉ありしとて持参、その日営中に伺候する面々へ示しけるを見しが、形はこれまで見し毛玉に替らず。たゞ珍しきは毛色黒白斑なりき。いかさま其時の偶中せしも、頗る奇と謂ふべし。その座に大河内肥後守(御普請奉行)在りて話せしは、高井山城守(大坂町奉行)嘗て御目付を勤めしとき、肥州同僚なりしが、その節山州の話に、一日椽先《えんさき》に雀の群集するを、何意なく見居たりしに、一雀立ちながら片翅を少し開き、嘴にて羽虫をとるかと見しに、小玉はらりと落ちたり。因て山州座を起てば、雀は驚きて皆飛ぶ。その跡に毳玉《けだま》あり。指の腹ほどにして、色は雀の腹毛《はらげ》と同じかりしとぞ。これまた未聞の奇事のみ。

[やぶちゃん注:事前に正規表現で「フライング単発 甲子夜話卷之六十一 20 狐玉、雀玉」を公開した。]

フライング単発 甲子夜話卷之六十一 20 狐玉、雀玉

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

61-20

 林子話す。

「頃日(けいじつ)、營中にて、本多(ほんだ)豐州【田中侯。寺社奉行。】に邂逅せしときの言(げん)に、

『某邸の【數寄屋橋内。】稻荷祠を、當(とう)初午(はつうま)の間(あひだ)に合ふやうに迚(とて)、正一位を勸請し、口宣(こうせん)到來して、社壇へ納めし翌朝、

「壇上に、狐の玉ありし。」

とて持參、其日、營中に伺候する面々へ、示(しめし)けるを見しが、形は、これまで見し毛玉に替(かは)らず。たゞ、珍しきは、毛色、黑白斑(こくびやくのまだら)なりき。いかさま、其時の偶中(ぐうちゆう)せしも、頗る奇と謂ふべし。

 その座に、大河内肥後守(御普請奉行)在りて話せしは、

「高井山城守(大坂町奉行)嘗て御目付を勤めしとき、肥州、同僚なりしが、其節、山州の話に、

『一日(いちじつ)、椽先(えんさき)に、雀の群集するを、何意(なにごころ)なく見居(みをり)たりしに、一雀(いちじやく)、立(たち)ながら、片翅(かたはね)を、少し、開き、嘴(くちばし)にて、『羽蟲(はむし)を、とるか。』と見しに、小玉、「はらり」と、落ちたり。因(よつ)て、山州、座を起てば、雀は驚(おどろき)て、皆、飛ぶ。その跡に「毳玉(けだま)」あり。指の腹ほどにして、色は、雀の腹毛(はらげ)と同じかりし。』

とぞ。」

 これまた、未聞の奇事のみ。

■やぶちゃんの呟き

「狐玉」「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 狐の玉」を参照されたい。私はそこで、ケサランパサラン説を支持した。ウィキの「ケサランパサラン」も見られたい。但し、これ、猫が猫が吐いた毛玉じゃあないかなぁ?

「雀玉」これも雀の羽の生え替わりのそれでないの?

「林子」松浦清(静山:宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)の友人で、お馴染みの儒者で林家中興の祖である林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。

「頃日」近頃。

「本多豐州」「田中侯」「寺社奉行」駿河田中藩第五代藩主本多豊前守正意(まさおき 天明四(一七八四)年~文政一二(一八二九)年)。文政五(一八二二)年七月十二日に寺社奉行に任じられ、文政八(一八二五)年四月二十八日に若年寄に任命されるまでの閉区間が時制となる(当該ウィキに拠った)。

「口宣」口で天皇の命を伝えること。「くぜん」とも読む。

「偶中」本来は「偶然に的中すること・まぐれ当たり」のことだが、ここは単にそうした晴れの折りに、たまたま壇上にあったことを言う。

「何意(なにごころ)なく」は私の勝手読み。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「下女の幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

     

 

 下女の幽霊【げじょのゆうれい】 〔耳囊巻四〕鵜殿式部といへる人の奥にて召使ひ、数年奉公して目を懸け使ひしに、右女久々煩ひて暇を乞ひし故、養生の暇を遣はし、暫く過ぎけるに、右女来りて、式部母隠居の宅へ至り、久々厚恩にて養生いたし、有難き由を述べければ、老母も其病気快よきを悦び賀して、未だ色もあしき間、よく養生致し、帰参して勤めよと申しければ、最早奉公相成候よし、手前で拵へし品とて、団子を一重持参せしまゝ、さもあらば、まづ養生がてら勤めよかしとて、挨拶なしければ、右女は座を立て次へ行きしに、老母も程なく勝手へ出で、誰こそ病気快しとてかへりしが、未だ色もあしけ

れば、傍輩も助け合ひて遣はすべしといひしに、家内のものども、右下女の帰りし事、誰もしらずとこたへて、所々尋ねしに行方なし。さるにても土産の重箱ありしとて重を見しに、重箱はかたのごとくありて、内には団子の白きを詰めて有りし故、宿へ人をやりて聞きしに、右女は二三日前に相果てしが、知らせ延引せしとて、右宿のもの来り届けし由、不思議の事なりと、鵜殿が一族、語りけるなり。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 巻之四 女の幽靈主家へ來りし事」を見られたい。また、『志賀理斎「耳囊副言」附やぶちゃん訳注 ()』でも理斎はこの話を称揚している。さらに、宵曲は『柴田宵曲 續妖異博物館 「死者の影」 附 小泉八雲 “A DEAD SECRET”+同戸川明三譯(正字正仮名)+原拠「新選百物語/紫雲たな引密夫の玉章」原文』でも取り上げているので、是非、読まれたい。そこで、本話の出元は漢籍にあることを明らかにしている。八雲のそれは私の偏愛する一篇である。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「群猿舞を望む」 / 「く」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「く」の部は終わっている。]

 

群猿舞を望む【ぐんえんまいをのぞむ】 〔蒹葭堂雑録巻五〕浪花(おほさか)の俳優先代竹中綱八(自明和寛政役者)の幕内に、忠信の喜助と異名をつけし囃子方あり。旅芝居に西国へ下り、難船して衣裳道具は言ふに及ばず、一統に衣類まで失ひ、怪我《けが》なく帰りしを悦ぶほどの事なりしに、この喜助一人鼓《つづみ》を放さずかへりし故、斯(かく)は号(なづけ)しとぞ。この者度々《たびたび》西国に下りて難船にあひしよし、一年(あるとし)長州へ芝居に下る折から、澳(おき)にて丑寅の暴風にあたり、一天墨を流せし如くにかき曇り、波濤頭上に踊り、船は数十丈も上り下りて、船中の人恰も米俵をもてあそぶごとく、右にころび左にまろび、今やこの船海底に沈みなんと思ふばかりなり。原来(もとより)雨は車軸を流したり。船頭水主(かこ)は帆をおろし、命かぎりに働らきて、何方(いづかた)にも漕付けんとす。時に一統祈誓をかけし神仏の加護にや、少し風やみ波おだやかになりけるうち、松風の音しきりに聞えければ、船頭是れを考へ、こは嶋か山かに近づきたりとて、風の音を的(あて)となし、めいめいに櫓をもつて、腕をも折れよと漕ぐほどに、次第次第に諸木の葉音近づけば、皆々是れに力を得て、嶋はいづくと尋ぬるうち、風大《おほい》にやみ浪しづかになりて、闇夜のごとき空さへも、見るうちに晴れわたり、日の光かゞやきたり。船中一統蘇生のこゝち、何に譬へんかたなし。時に近づきし山を見れば、何国(いづく)ともしらぬ嶋山にて、更に人家の有りとも見えず。されども命助かりしこと、ひとへに神仏の加護なりと悦びつゝ船に入りたる淦(あか)をかへ出《いだ》し、船の破損を修理するうち、嶋山の松の枝に猿一疋顔を出し、この船を見つけ驚きたるにや、忽ち枝をわたりて奥山へかけ行きけるが、暫くするうち追々に数多の猿出来り、次第次第に群(むらが)りて、その数あげてかぞふべからず。猿は磯辺にならび、木の枝に上りて船中を指さし、キヤツキヤツとかしましく啼《さけび》立てけるが、また暫く有りてのこらず山奥へかけ入りたり。皆々これを見て、何事にやあらんと不審(いぶかしく)おもふ処に、また数多《あまた》の猿出来りしを見るに、今度は人よりも少し大きく覚ゆる猿の、毛はところ斑《まだら》にはえ、口に牙長く生ひ出で、いかさま老猿と思(おぼ)しきを、十四五疋の猿手がきにして連れ来り、さてまた以前のごとく磯ばたに列び、この度は声を立て辞義《じぎ》をする形勢(ありさま)にて、かの大猿ををしへ拝みては、また辞義をすること数回(あまたたび)なり。皆々大いにあやしみ、言語通ぜざればその趣意わからず。一人の云ふ。かの親猿を教ゆる体《てい》は、全く食物を乞ふものならん乎、然れどもかゝる辺土に漂ひ、幾日を経て人里に出んやはかり難きに、聊かにても食物を減さんこと思ひもよらずと、船中評義区(まちまち)々なりしが、向うを見るに栗柿などの果樹ありて、ことごとく実生(みのり)たれば、食を乞ふにもあらざるかと、めいめいたゆたひけるが、先づ試みに握飯を投(ほつ)て遣はすべしとて、直(ぢき)に握飯をこしらへ、二箇三箇ほど遣はしければ、これを取《とり》て岩の上に置《おき》て、またもとの如く物たのむ形勢なれば、何とも一ゑん合点ゆかず。時にこの中に吉蔵といへる衣裳元、才智あるものなりしが、不図《ふと》こゝろつきていふやう、猿は人の心をよくさとるものゆゑ、何さまこの船を芝居の船と見つけ、我々に狂言を好むにてや有らんと。皆々大いに笑ひ、何とて猿のかゝる事を知るべきやといふに、吉蔵重ねて、さにあらず、斯《かく》のごとく道具などあるを見つけ、且《かつ》よくその気をはかるものなれば、そのいはれ無きにしもあらず、さればとて猿の為に狂言もなるまじけれど、思ふにかやうの畜類は、よくその恩を知るものなれば、所望をかなへなば、我々故郷へ帰る便(たより)ともなるまじきとも言ひがたしといふに、一統横手を打《うつ》て、実《げに》もつともなる事なりとて同じければ、吉蔵の思ひ付にて、三番叟の衣裳を出し、鳥帽子鈴など取そろへ扇をもてば、めいめい笛太鼓を出し、囃子にかゝるに、互ひに顔を見合せ、こはいかなる事にや、前は已に海中に沈み、魚の腹中に葬られんとせし身の、不図(はからず)も命助かり、今又猿の為に打はやしをなすこそ可笑(をかし)けれといへば、また一人はこれぞ命を助かりし悦びの舞にてこそあれと、おのおの思はず笑ひを催し、興に乗じて囃し立つれば、吉蔵は三番叟《さんばさう》をむやみに、只おんはおんはと鳥とびやら、鳶のまねやら、拍子にかゝつて舞ひければ、猿はこれを見て、大猿を向うへ又々かき出《い》で、岩上《いはのうへ》にのせ、めいめい声を立てて歓ぶありさま、かの老猿も手を上げて、おうおうとうめくが如く悦ぶていに、船中の者ども、さればこそとて囃子ををかしくなせば、水主船頭も浮れ出《いで》て、鉢《はち》をならし、舟板をたゝきて合《あは》すれば、吉蔵は益〻浮《うか》れ、鈴と扇を打捨てて、花笠を両手にもち、三番叟なりの鐘が岬、めいめい腹をかゝへて可笑《をか》しがり、是れにあはせて囃し立て、漸《やうや》う舞《まひ》終りければ、猿は以前のごとく、頭を下げて辞義する如くなし、またかの大猿をかきて山奥へはひりぬ。一統顔を見合せ、どつと一同に笑ひつゝ、汗を拭ひけるぞ可笑しけれ。かゝる処に又むらむらと猿出で来り、めいめい何かは手に手に携へ来り、岩の上に搔上《かけあが》りて、舟の艗(へさき)を見かけて打《うち》こみ打こみ礼する如くして、また山に入りぬ。おのおのこれを見るに、則ち章魚(たこ)にて何の用捨もなく乾したるものなり。曾て聞き及ぶ、猿は海辺にて蛸をとり、木の枝などにかけて乾食物《ほしきふもの》とするよし符合せり。正しくこれを礼に持来りしならんと、その志を感賞し、思はず落涙しける。畜類さへ吉蔵が無法の三番叟の価《あたひ》とて、許多(あまた)の干章魚(ひだこ)を恵みたり。それに引きかへ浪華《おほさか》かにて無銭(あをた)の多き事はと、また笑ひを催しける。時にまた壱疋の猿出で来り、今度は高き松の枝に上り、遠方ををしゆる形勢、いかさまこれは湊のある方を教ゆるならんと、磁石を取てふり見れば、則ち東の方を教ゆるゆゑ、めいめい承知のていに点頭(うなづき)つゝ、それより東をさして行きけるが、折しも西風吹出でて、三日にして山を見つけ、爾後(しかうして)長門国(ながとのくに)に著きけるとぞ。

[やぶちゃん注:「蒹葭堂雑録」江戸後期の雑学者木村蒹葭堂(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:名は孔恭。通称は坪井屋吉右衛門。大坂の人で、酒造業を営む傍ら、学芸を好み、大家小野蘭山に本草学を、片山北海に漢詩文を、大岡春卜(しゅうぼく)に絵を学ぶなどした。書画骨董や珍品奇物の収集と考証につとめ、博学多識をもって聞こえた)の考証随筆。安政六(一八五九)年刊。全五巻。各地の社寺に蔵する書画器物や、見聞した珍しい動植物についての考証、人から聞いた珍談奇説などを書き留めた原稿を、著者の没後、子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理・抜粋して刊行したもの。池大雅の印譜、下鴨神社蔵の三十六歌仙絵巻などの珍品が、雑然と紹介されており、松川半山筆の多くの挿画が興を添える(書誌は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第五巻(国民図書昭和三(一九二八)年)のここから正規表現で視認出来る。三番叟を猿たちに披露するシーンの挿絵も見られる。

「竹中綱八」安永九(一七八〇 )年一月に大坂での芝居で既に立役(番付は「二」)であったか。芝居座摩の座本か。こちらのデータに拠った。

「自明和寛政」明和は一七六四年から一七七二年で、安永・天明を挟んで、寛政は一七八九年から一八〇一年まで。

「忠信の喜助」浄瑠璃「義経千本桜」の狐忠信(きつねただのぶ)役で知られた役者か。子狐の化身で、鼓の皮になった親を慕い、佐藤忠信の姿になって現われ、その鼓を持つ静御前を守る。

「手がき」不詳。「手を垣根のように繋いで」の意か。

「親猿を教ゆる体」不詳。「親猿に事情を伝えるような動作」をしているということか。

「無銭(あをた)」「青太」。有料興行物に、料金を支払わずに入場すること。稲は、十、十一月の頃、黄金色になつて値打ちは出るが、八、九月の青い田では、金にならぬところからの隠語。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「桑原井」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 桑原井【くわばらい】 〔穂録二ノ下〕和泉国和泉郡に、桑原井あり。土人曰く、昔、この井へ雷落ちけり。井より上らんとする処を、人《ひと》寄集り、井の上に蓋を覆うて、雷を責《せむ》る事ややゝ久し。雷、大いに苦しんで曰く、永くこの地へ落《おつ》る事なしといひければ、蓋をとりてゆるしやりぬ。それよりこの地に雷落ることなし。雷鳴の時、桑原々々といふも、これによるとぞ。

[やぶちゃん注:「秉穂録」複数回既出。現代仮名遣で「へいすいろく」と読む(「秉」はこれ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。雲霞堂老人、尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)による考証随筆で、寛政一一(一七九九)年に成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正規表現で視認出来る(左ページ最終行)。

「桑原井」現在の大阪府和泉市桑原町にある真言宗無量山西福寺(さいふくじ)の境内にある(グーグル・マップ・データ。但し、現在は井戸の上は封じられてある。しかしリンク先のサイド・パネルの画像を見ると、どうも二つあるようである。これと、これで、後者の大きな石で封じられてある方が、古そうである)。同寺の公式サイトのこちらに、『かつてこの桑原の地にあった仏性寺(西福寺の前身)において、沙弥道行という僧侶が、度々起こる落雷による被害を無くすために「大般若経」を写経し、熱心に落雷防止を祈願したという記述が残っております』。『三重県の常楽寺に現存する国重要文化財『大般若経』「天平宝字』二『年(七五六年)」にその記述があることから、この地が雷封じの所縁の場所であることが伺えます。その「雷封じ」が、今の西福寺に繋がっているのです』。『現在、西福寺では雷除けの故事から、電力会社などの電気関係者の雷除け祈願を行な』い、『雷は天神さんとご縁があることから、合格祈願(受験に落ちない祈願)も行なっています』とある。また、「雷井戸・重源上人」(ちょうげんしょうにん)のページにも、『雷井戸の伝説』として、『西福寺は、鎌倉時代初期に東大寺再建に尽力し、この地で生まれたという伝説がある俊乗房重源上人が中興の開基と伝えられています』。『その重源上人がこの地で雨乞いの儀式をしていた時に、本堂の隣にあった井戸でお婆さんが洗濯をしていました。雨乞いの効果がてきめんとなり、にわかに黒い雷雲が空を覆い、夕立となりました』。『ゴロゴロという雷鳴と共にその井戸に雷が落ちたのですが、落ち着いていたおばあさんは、すかさず』、『洗濯中のたらいで井戸に蓋をして雷を閉じ込めてしまいました。おばあさんは、井戸に落ちた雷に説諭し、雷を逃がすかわりに二度とこの地に落ちないという約束をその雷から取り付けました』。『その時の約束とは、ゴロゴロと雷の音がした時に「クワバラ、クワバラ」と村人たちに唱えてもらえれば、この地が桑原であることが分かるので、雷が間違って落ちることがないというものです。この約束を交わしたのちに雷は解放され、天に戻ることができました』。『の逸話がもとで、「クワバラ、クワバラ」と唱えることが雷封じの呪文となりました。今ではこの風習が全国に広まり、雷が鳴れば「クワバラ、クワバラ」と言えば雷が落ちないと、日本人なら誰もが知っているはずです』とある。

「桑原」岡山県立図書館の作成になる「電子図書館システム」の「デジタル岡山大百科」の『雷が鳴るときにとなえる「桑原桑原」の由来』には五つの由来説が挙げられてあるので、見られたい。]

この頃の感懐

私は先月下旬、大腸に七つのポリープが見つかった。幸い、悪性腫瘍ではなかったが、次の月曜日に二センチメートルたらずのポリープを電気メスで除去する術式をすることになった。父も先月末より、歩行困難となったので、大いに、成すべきことが繁多となった。

しかし、私は、ただ粛々と、電子化注を続けるのみである。

当該箇所はS字結腸部で、私の大腸は憩室(へこみ)が異常に多いのだが、ここはまあ、綺麗だ。キノコ状のそれが、そ奴である。

因みに、私は自己疾患の画像データは、レントゲン写真も含め、概ね、総て自己のデータとして保存している。

 

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但し、レントゲン写真原本はコピー代が掛かる。例えば、私の右腕の遠位端粉砕骨折のイリザノフ固定写真(これは医師の失敗で半月後に通常のギブスに変更された)。

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 八年前の転倒して後頭部を打った反側外傷の前頭葉一部挫滅の画像もこちらにある。そもそも、これらのデータは、皆、患者自身が支払ったものであり、患者に所有権がある。従って、自身が、当然、所有する権利を持っているものなのである。
 因みに、二十代前半、私の親友は、何故か、私に「大腸ポリープのプロタゴラス」という綽名をつけた。今それが、真理命題となったのであった。 

2023/10/21

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「黒ん坊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 黒ん坊【くろんぼう】 〔享和雑記巻二〕美濃国大垣より北へ行く事十里、外山《とやま》と云ふ処あり。次第に山中に入れども、これ迄は牛馬通ふなり。これよりは弥々(いよいよ)山道嶮岨にして、登り下り三里の難所を越えて根尾に至る。山中に廿七村あり。泉除(いづのき)川といふあり。昔この辺一面に水溢れ、流れたりしを岩を切り、山を崩して水道を付けしより、水落ち平地となりし故、其所を泉除川といふとぞ。<中略>此所に善兵衛といふ杣人(そまびと)あり。奥山へ入りて木を伐出《きりいだ》す事数《す》十年なり。[やぶちゃん注:文章が不自然。以下の異物は、善兵衛ではないので、注意!]然るにその形猴《さる》の如くして、大きく、色黒く毛長し。能く立《たち》て行く事人の如し。またよく人言をなして、あらかじめ人の意を察する事神の如し。もし人有りてこれを殺さんと欲すれば、先づその意を知りて速かに遁れ去る故、捕る事能はず。これを黒ん坊と名付く。いつとなく善兵衛に馴れて、善兵衛山へ入る時は、黒坊来り手伝ふ。大いに助けとなりて害をなす事なく、後には善兵衛が宅へも伴ひ来て、人の如く働き居る事度々《たびたび》なり。然るにこの辺に三十歳ばかりの後家あり。容貌うるはしかりければ、人々再縁をすゝみけれども、十歳ばかりの男子有りければ、これに家を継がせてその身《み》後見せんとて、更に得心せず、独身にて暮しける。然るに頃日《けいじつ》[やぶちゃん注:近頃。]夜更け人静まりぬれば、夢の如くに人来りて契りをこめんと欲する者あり。夢かと思へば現(うつゝ)なりしかば、後家甚だ怖ろしく、また怪しき事に思ひ咄しける故、村の人々是れを見顕《みあらは》さんと、物陰に忍びて様子を伺ひぬれば、その夜は来らず。かくて二三日も夜毎《よごと》に待ちけれども、それぞと思ふ事もなければ、人々もあきれて止みぬ。人待たざれば彼《かの》者来る事例の如し。後家甚だ難儀に思ひけるが、この家に由縁《ゆかり》ありて昔より伝はりし観世音あり。代々大切に致し、また日頃信心せし事なれば、この節の災難救はせたまへと一心に祈りける。その夜の夢にこの事、人頼《ひとだの》みにては去り難し、汝心を定めて決断すべしと、あらたなる霊夢を蒙りし程に、後家も覚悟を極《きは》め居《をり》たる所へ、その夜も彼者来りて怒り怨(ゑんず)る事頻りにて、我《わが》申す事に背《そむ》く上は、汝が日頃大切にする観音を打破り捨てんと、已に仏壇より引出したり。この時後家も聢(しか)と目覚(めざめ)ける故、隠し置きたる鎌にて彼者を切りければ、思ひ寄らずや有りけん、大いに狼狽して逃去りたり。倅《せがれ》は近所を馳せ廻りて、かくと告げたりしかば、人々早速集りてその血をしたひ尋ね行くに、善兵衛が住居の椽(えん)の下へ入り、それよりまた山の方へ逃げ行きし様子なり。これより後、彼黒ん坊来る事無し。彼が仕業《しわざ》なるべし。これ𤣓(やまこ)といふ物の類なるべし。𤣓の事は『本草綱目』に見えたり。純牡にして牝なし。能く婦女に接して倡《あそび》をなし、子を生むといふ。美濃・飛驒には深山多ければ、これ等の者も住むなるべし。

[やぶちゃん注:「享和雑記」柳川亭(りゅうせんてい)なる人物(詳細事績不詳)になる世間話集。三田村鳶魚校訂・随筆同好会編になる国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第三巻(昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで正字で全文が視認出来る。

「外山」大垣からの位置から見て、現在の岐阜県本巣市外山(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)であろう。

「根尾」外山の北に非常に多く「根尾」を含む地区が現存する。この附近全体である。「山中に廿七村あり」というのが、大袈裟でないことが判る。

「泉除(いづのき)川」不詳。唯一、検索で掛かったのは、YoukaiTama氏のブログ「妖怪部妖堂日記帳」の「とりあえず、やまこ」に、『岐阜県本巣郡根尾村』『――現在の本巣市の泉除川に善兵衛という樵が居り、その小屋に黒ん坊というものが出入りしていた』とあるのだけであった。

「𤣓(やまこ)」は私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「やまこ 玃」を見られたい。漢字が違うが、異体字であるので同一である。筆者は、恐らくちゃんと「本草綱目」を見ていないような気がする。「漢籍リポジトリ」のこちらの「獼猴」(ビコウ/さる/ましら:実在するサルのこと)の「附録」にちゃんと「玃」とある(「𤣓」の字は載らない)からである(ガイド・ナンバー[120-37a]で影印本画像も見られる)。時珍は冒頭で、『附録 玃音「却」。時珍曰、『玃老猴也。生蜀西徼外山中。似猴而大、色、蒼黒、能人行善攫持人物、又、善顧盻故、謂之「玃」。純牡、無牝。故、又、名「玃父」、亦、曰、「猳玃」。善攝人婦女為偶生子。』とあって、「玃」は「老いた猴である」としつつ、「牡のみで牝はいない。」とし、「婦女につるんで、子を生ます。」とある妖猿である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「黒手切り」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 黒手切り【くろてぎり】 〔四不語録巻六〕慶長年中[やぶちゃん注:一五九六年から一六一五年まで。]の事かとよ。能登国の郡主長如庵(ちやうじよあん)の臣に、笠松甚五兵衛と云ふ者、当国戸板村に住しけるに、或夜妻女厠へ行きしに、毛のある手にて尻を撫づる。この女驚き走り帰る。その顔色草の葉の如くにして、以ての外悩ましける故、甚五兵衛いかなるゆゑぞと問ひければ、妻そのありさまを語る。甚五兵衛曰く、定めて狐狸の仕業ならむ、悪(にく)き次第なり、我これを切殺さんと、即ち吾妻の衣服を著し、懐中に小脇刺(こわきざし)を帯し厠に居る時、また手を以て尻を撫づる。その手をしかと捉へて引寄せむとするに大磐石《だいばんじやく》の如し。甚五兵衛力及ばず、脇刺を抜てその手を切るに、いさゝかも手ごたへなく切取り、厠を出てこれをみるに、人の手の如く指も五つ、その色黒くして黒き毛生ひたり。爪も色黒く細長く延びたり。これ奇怪なる物なりとて、箱に深く籠(とりこめ)せり。而るに四五日過ぎて行脚の僧三人来り、門に入《いり》て云ふやうは、この家の気運なるほど宜しきが、少し恠《あや》しく穢《けが》らはしき所あるこそ不思議なれと云ふ。甚五兵衛是れを聞てそのまゝ立出で、何方《いづかた》より御通りの御僧に候、先づ内へ御入り御休みあれと、座敷へ呼び入る。かの僧、これは過分至極に候、我々は出羽羽黒山の僧にて候、北国筋を行脚いたし京都へ上り候と答ふ。甚五兵衛ありし奇恠《きくわい》心にかゝりし故に、委しく物語りしければ、三僧共に手を打て、さてさて珍しき事にて候、先ほども申す如く、この御家の御気運なる程宜しく相見え候に、何とやらん穢らはしき気が相雑《あひまぢ》り見え候故に、不審に存じ候ひしが、さてはかゝる奇怪なる事これあるゆゑならむ、大きなる御つつしみなるべし、深く御ものいみなされて然るべからむと、眉を顰《ひそ》めて立たんとす。甚五兵衛いよいよ心もとなく思ひ、御僧達しばらくと相とゞめ、この妖怪をいかゞして遁れ申さん、御僧の御祈禱を頼むといへば、僧答へて、最(いと)易き御事なり、さらばその手を御見せあれかし、宜しく御祈禱仕らんといへば、甚五兵衛箱より取出し、よく御加持あれかしと、先づ上座の僧に相渡す。かの僧これを見て、黒手と云ふ物に候、この物必ず厠に住居《すまひ》いたし、人の目に見ゆる事まれなり、若《も》し一度人の身にふるれば忽ち命を殞(おと)すなり、然るに御内儀の勇気なる故にこの害に遇ひ給はず、貴公の御武運強きゆゑにこの手を切取り給ふ、されども重き御つつしみなりとて次の僧に渡す。これもよく打返しく見て次へ渡す。三人目の僧つくづくとみて云ふやうは、これ我手なり、口惜しき事をして汝がために切られしと、その儘立上ると見れば、その長(たけ)九尺ばかりなる悪鬼となりて、窓を蹴破りて出づ。残りの二僧も忽然と失せぬ。甚五兵衛かの手を見すまじきものをと後悔すれども力なし。さてかの小脇指を主人如庵へ出し、右の趣を相ことわる故に、如庵より瑞竜院殿(前田肥前守利長卿御事)指上げらるゝ処に、奇特なる事を仕り候、この脇剌はその身の守護なれば、その者に持たせ置くべきよし仰せ出さるゝによつて、甚五兵衛に相渡し、なるほど秘蔵仕り置き申すべき旨云ひ渡さるによつて、甚五兵衛も箱に入れ秘して置くべきと思ひしが、且つは身の守りにもなるべければ、常に身を放さぬやしかるべからんと、平生これを帯し居《を》れり。その後一両月過ぎて、当番のため如庵の屋敷へまかり出で、夕暮に帰る途中にて、空より裳《も》のやうなる物舞ひ下り、甚五兵衛を搔包(かいつゝ)み、六七尺も引のぼり下へ落し、地に仆《たふ》れ臥し不審に思ひ腰廻りを見るに、かの小脇刺をとられてこれなし。さてさて口惜しき事かなと、歯齧(はがみ)をなせども形も見えねば、是非に及ばず帰り、そのありさまを如庵へ申しことわれば、兼ねてかくあるべきとおもひしゆゑ、秘蔵いたし持つべき由申渡す所に、さてさて麁抹(そまつ)に仕《つかまつ》り取られたる事、不覚悟者なりとて、大きに叱られけり。その後故あつて長《ちやう》の家を立退きしとなり。この物語り人々よく知りたる事なり。黒手切とて彼《かの》家中に今以て申し伝ふるなり。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。但し、この話、当該のウィキの「黒手」がある(別話の挿絵あり)。

「長如庵」長連龍(ちょうつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)の戒名。当該ウィキによれば、『織田家の家臣、後に前田家の家臣』となった。『主家・畠山家の滅亡の後に、長家も一族のほぼ全員が謀殺されて滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たした。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯』四十一『回の合戦に参加し』、『勇名を馳せた』とある。私は、よく知っている人物である。

「戸板村」現在の石川県金沢市戸板(グーグル・マップ・データ)か。

「吾妻の衣服」不詳。識者の御教授を乞う。

「瑞竜院殿」「前田肥前守利長」永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年)は加賀藩初代藩主。加賀前田家二代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。当該ウィキによれば、『若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉の死後は政治的判断をした上で徳川家康に帰順し、江戸幕府成立後に加賀藩の礎を築いた』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「九輪の掛直し」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 九輪の掛直し【くりんのかけなおし】 〔譚海巻十二〕京八坂の塔の九輪はづれたるを直さんとて入札《いれふだ》を取りたるに、足代《あししろ》に大分物入りかゝる事ゆゑ、何れも高金の積りなりしに、ある者甚だ下直(げぢき)に札を落したり。いかなるわざにてかく高き所の九輪を、心やすく直す事にやと、人々不審せしに、やがて麒麟といふ軽業師をやとひて、塔の頂上にのぼらしめ、竹より伝ひ行きて、九輪のはづれたるを掛け直し、事もなく仕おほせたりとぞ。河村随軒[やぶちゃん注:底本・親本ともにママ。「瑞軒」が正しい。]増上寺の鐘を、鐘楼へ引あぐるに、米俵を足代にして引上げたるよりは、末代の人利発になりたり。

[やぶちゃん注:事前に正規表現で「譚海 卷之十二 京八坂の塔の九輪のはづれたる直したる事(フライング公開)」を挙げておいた。]

譚海 卷之十二 京八坂の塔の九輪のはづれたる直したる事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 京八坂の塔の九輪、はづれたるを、

「直(なほ)さん。」

とて、入札(いれふだ)を取(とり)たるに、足代(あししろ)に、大分、物入(ものいり)かゝる事ゆゑ、何(いづ)れも、高金(たかがね)の積りなりしに、ある者、甚(はなはだ)、下直(げぢき)に札を落したり。

「いかなるわざにて、かく高き所の九りんを、心やすく直す事にや。」

と、人々、不審せしに、やがて、「麒麟(きりん)」といふかるわざ師を、やとひて、塔の頂上に、のぼらしめ、竹より、傳ひ行きて、九輪のはづれたるを、掛直(かけなほ)し、事もなく、仕(し)をふせたりとぞ。河村隨軒[やぶちゃん注:「瑞軒」の誤字。河村瑞賢。]、增上寺の鐘を、鐘樓へ引あぐるに、米俵を足代にして引上げたるよりは、末代の人、利發になりたり。

[やぶちゃん注:「京八坂の塔」京都市東山区八坂上町(やさかかみまち)にある臨済宗建仁寺派霊応山法観寺(ほうかんじ)の五重の塔。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、同寺は飛鳥時代に創建された京で最も古い寺院の一つであり、境内は京都市指定史跡。古代には八坂寺(やさかでら)と称された。『東山西裾の台地上に立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、東山周辺のランドマークとなっている。現在の寺域は狭小で』、十五『世紀に再建された五重塔以外に目立った建築物はないものの、法灯は脈々と続いている。八坂神社~清水寺間(約』一キロメートル『)のほぼ中間に位置する』とある。

「竹より、傳ひ行きて」の部分、説明不足で映像が浮ばない。生えている高い竹を伝って、「麒麟」に渡したという意か。

「河村瑞賢」(元和四(一六一八)年~元禄一二(一六九九)年)は江戸前期の商人。「瑞軒」「随軒」とも記す。伊勢の貧農の生まれであったが、江戸に出て、車力・人夫頭・材木商などとなり、「明暦の大火」の際、木曾山林の木材の買占めを行い、巨富をなしたされる。寛文一〇(一六七〇)年以降は、幕命により、「東廻り」及び「西廻り」の「廻米航路」を開拓し、淀川治水のため、「新安治川」を開いたりした。後に旗本となった。

 なお、底本では最後に編者割注があって、『別本缺』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蜘蛛の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蜘蛛の怪【くものかい】。〔耳囊巻二〕水野の若州、大坂勤めの内、御役宅火の見の櫓下に、夜々光りものありと、近習の者など、代る代る心を附て見しに、昼はさもなし。夜に入りて、兎角に光りありといひしが、日数へて、或時一束ネの丸き光りもの、右場所を放れて、四五軒余飛びて、馬場へ落ちしを、近習の輩追駈て見しに、馬場成る石の上へ落ちてくだけ散りしが、その辺は不レ残蜘なりし由、大小数千疋ともいふべき。何故光りあるや。飛ぶも又怪しと語りぬ。 〔同巻五〕文化元子年、吟味方改役西村鉄四郎、御用有ㇾ之、駿州原宿の本陣に止宿せしが、人少《ひとすくな》にて広き家に泊り、夜中ふと目覚めて、床の間の方《かた》を見やれば、鏡の小さきごとき光あるもの見えける故、驚きて、次の間に臥しける若党へ声懸けぬれども、かれも起出《おきいで》しが、本間次の間とも燈火消えて、彼《か》の若徒《わかきと》も右の光ものを見て大いに驚き、燈火など附けんと周章せし。右のもの音に、亭主も燈火を持出て、彼の光ものを見しに、一尺にあまれる蜘にてぞありける。打寄りて打殺し、早々外へ掃出しけるに、程なく湯どのの方にて、恐しきもの音せし故、かの処に至りて見れば、戸を打倒して、外へ出しやうの様子にて、弐寸四方程の蜘のからびたるありける。臥所《ふしど》へ出しも湯殿へ残りしも同物ならん。いかなる訳にやと語りぬ。

[やぶちゃん注:私のものでは、二篇ともに巻数が異なる。前者は「耳嚢 巻之九 蜘蛛の怪の事」で、後者は「耳嚢 巻之六 蜘蛛怪の事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「熊本城の狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 熊本城の狸【くまもとじょうのたぬき】 〔耳嚢巻二〕細川越中守在所にて、鑓剱の上手を召抱へけるが、相応の長屋等を給ふべき処、折節屋敷無ㇾ之、見立相願ひ候様、当人並びに役人へも中渡し有ㇾ之ゆゑ、相礼し候処、家作も相応にて、屋敷も格式より広き所、明き居候ゆゑ、右を拝領致し度段申立候処、右屋敷は前々より怪異あり。殊に右に住居候もの、異変ある間、無用の旨、老職其外差留めけれど、某は外の事にて、召抱へられ候にも無ㇾ之、武術の申立にて御抱へに相成、右様の儀承り御免を願ひ候ては、我身ばかりにも無ㇾ之、主君の不吟味の一つなれば、是非右屋鋪拝領を願ひけるに任せ、主人も許容ありければ、日限に至り、家内引連れ、従者共も一同引移り、家作の手入れなして、立派に普請できあがりけるに、何の怪異も更になし。日数余程たちて、夜深更に及び、一人の男来りて、燈のもとに坐しける。何者なれば深夜に閨中《ねやうち》まで来りしと尋ねければ、我等はこの屋鋪に年久しく住むものなり、御身引移りて、我等甚だ難儀の由を申しけるゆゑ、汝何ものなれば、かゝる事は申すや、定めて狐狸の類ひなるべし、我は拝領の屋鋪なれば、今更明渡すことなりがたし、汝も年久しく住む事なれば、我等並に家内等迄も、目にかゝらざるやう住居の儀は、勝手次第なり、若し女子供などおどし、或ひは人をたぶらかす事などあらば、我取はからふ旨ありと申しければ、畏《かしこま》り候由にて帰りぬ。その後折節出《いで》て機嫌など聞くゆゑ、家内などは恐れけれど、恐るべき筋なしと相応の挨拶なし置きぬ。半年も立ちて、かの者来りて申しけるは、段々懇命に預り忝《かたじけな》し、一つの御願ひありて罷り越し候由にて、麻上下など著して例の男まかりぬ。いかなる事やと申しければ、何卒御屋敷のはしに拾間四方の地面を給はり候へと申しける故、心得たる間、縄張りいたし置き候様申付け、右の場所に勝手に普請致すべき旨申しければ、忝き由申し立帰りぬ。その翌日屋敷の片隅に拾間四方程の縄張り致し、その夜きやりの声などして、普請にても致す体《てい》なれば、不思議の事なりと、皆々恐れけれど、主人は全く狐狸なるべしと、聊かも心に懸けず、打捨て置きぬ。然るに或夜最前の男、この度は駕《かご》にのり、家来その外ゆゝしく出立ち、麻上下著用、美々しく玄関迄来り、この間の御礼に罷り越しぬ、御目通り相願ふ旨申しける故、座敷へ通し、面会なしければ、誠に年来の志願、御影にて相調ひ難有く、右に付き、何卒私方へも入らせられ下され候様致し度《たく》、勿論御気遣ひの儀は聊か無ㇾ之、麁末の料理差上度旨にて、念頃に申し述べ、菓子折持参なしけるゆゑ、念入り候儀忝し、いつ幾日には罷り越すべしと約束して帰しぬ。家内下々までも、右折は定めて穢《けが》らはしきものなど詰め置きしならんと、忌み恐れけれど、開き見るに、城下の菓子や何某の製にて、聊か疑はしき事なし、給《た》べ見候に、かはる事もなければ、家内の者など、某の日渠《かれ》が元に行かん事を禁じけれども、心だにすわりあらば、何ぞ害をなすべきとて更に用ひず、屋敷の隅かれに与へし所へ至りけるに、玄関様の所ありて、数手桶(かずてをけ)などならべ、立派なる取次の侍両三人出て、座敷へ案内せしに、随分綺麗に立てし普請にて、左迄広きといふにもあらず。その所にて酒・吸物など出し、亭主殊の外歓び候体《てい》にて、これより勝手へ入らせられ候様いたし度旨申しけるゆゑ、案内にまかせ通りけるが、これよりは化されたるなりと、後に語りける由、段々庭内など通りて一つの座敷へ至りしに、広厦金殿遖(あつぱ)れの住居にて、種々の料理、手を尽し馳走なし、土産の菓子など、折詰結構を尽し、帰しけるとなり。さて宿元ヘ帰りて、右の荒増(あらまし)をかたりしに、土産の折詰は、弥〻《いよいよ》婦女子など恐れ合ひしが、給(たべ)候に替る事なければ、不審ながら人に語るべきにもあらざれば打過ぎぬ。四五日過ぎて、例の男供廻り美々しく、麻上下を著し来りて、この間の御礼に罷り出で候由ゆゑ、家来にも供廻り等心附け、異変あらばかくせよと密かに申付けけるが、彼男麻上下を著して、この間は忝き段厚く申述べ、誠に海山の厚恩謝するに所なし、何ぞ御礼申上ぐべくと心附け、持伝へし一刀これある間、これを献上致し度と申しけるゆゑ、忝くは存じ候へども、持伝へと有れば、その許《もと》の宝なり、無益の心遣ひと断りけれど、折角の志《こころざし》なりとて、則ち箱を取寄せ、緞子(どんす)の袋入りの刀を取出し差出す間、請取り、先づ一覧致すべしと、かの刀を抜き改め見るに、誠にその刃氷玉ちるが如く、こうの義広なるべしと、賞美なすふりに、彼男を一刀両断に切付けぬれば、わつと云ひて倒れけるが、この物音を聞きて、供せしものどもは逃げ去らんとせしを、家来ども立出で、捕へんとせしが、とりどり狸の姿をあらはし、逃げ去りける。かくして役人へも申立てければ、最速打寄り見分なせしに、やはり最前の男、切殺されぬれど、形を変へず。しかれども家中にて知れる人にあらず、奴僕《ぬぼく》の怪しき形ちを顕し逃げ去るうへは、老狸の類ひ、急には本性あらはさぬものなりとて、さらし置きしに、後は狂の形を顕はしける。さて段々糺《ただ》しけるに、右料理と申すは、主人の台所へ申付け、渠が住居と思ひしは、二の丸にてありし由。刀は主人宝蔵に籠《こ》め置く品にて、土用干《どようぼし》などのせつ、取隠し置くものならん。かく妖怪を切殺さゞれば、追《おつ》ては不念になりて、その身の果てともなるべきと、皆々恐れ合ひぬとなり。

[やぶちゃん注:私のものでは底本が異なるので、「卷九」にある。「耳嚢 巻之九 熊本城内狸の事」がそれである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「熊野牛王の神威」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 この原本には挿絵があるので、吉川弘文館『随筆大成』版のそれをOCRで読み込み、トリミングしたものを添えた。

 

 熊野牛王の神威【くまのごおうのしんい】 〔閑窻瑣談後編〕享保元年六月の事とかや。(天保十二より百二十六年になる実説なり)武州崎王郡船越村の百姓に佐五右衛門とて、家内五人活業(ぐらし)の者あり。夫婦と男子《なんし》二人あり。男子ははや十五六歳と十二三歳にて、末は女子(をなご)の児にて当年二歳なりしが、この頃毎夜(よごと)に異(あや)しき事ありて、かの児女《をなご》の泣《なき》叫ぶ事甚だし。毎時(いつ)も泣出《なきいだ》すはじまりに、窓の方《かた》に火の光り明るくなりて、物すごく覚え、何やら窓より家内(うち)へ飛入るやうに見ゆる節(とき)、家内《うち》の奥の方《かた》よりも、また光り輝くもの飛来り、窓の元にて光り争ふ時にいたり、程なく小児《せうに》も泣止む事、夜毎《よごと》に同じ。佐五右衛門夫婦も当惑、種々《いろいろ》の[やぶちゃん注:原本は「と」。]心を悩まし、その化物を除《のき》き貰はんと、加持祈躊を頼み、他人《ひと》にも語らひ相談しけれど詮方(せんすべ)なく、何れにしても家内の奥より光り物が飛出るを思へば、納戸《なんど》にこそ怪しきものの隠れあらんか。家内をよくよく祓ひ清めなばよかるべしとて、煤払ひをする如く掃除しけれど、これぞと思ふ物もなし。その時奥の間なる三尺の壁に、何とやら黒くふすぼりたるものの張付けてあるを、塵芥《ちりあくた》と共に捨てたり。偖《さて》その夜《よ》は奈何(いか)にと思ひ居《ゐ》たるに、例の如く深更に及びて小児の泣出《なきいだ》す声に、両親は目を覚し看れば、窓の光りはいと烈しく、竹格子《たけかうし》をめりめりと音して引破り、忽ち家内《うち》へ飛入るものあり。今宵《こよひ》は奥よりして飛出《とびいづ》る怪物は出でやらず、只外面《そと》より飛入りし光りものなりしが、佐五右衛門が起上らんとする折から、はやくも飛びかゝり、小児を掻《かき》さらひ走り去るやうなりしかば、佐五右衛門は手近に有りし鎌をもつて飛びかゝり、怪物を切りかけしが、手ごたへしながら取逃したり。この故に妻も子供も起上り、燈火《ともしび》を照してさわぎしが、小児は奪ひさられて行衛《ゆくゑ》なし。翌日窓の元を見れば、血しほの跡ありて、軒下より背戸の方へつゞき、裏の山へしたゝりあるやうに見えしかば、村の人々を頼みて、大勢にて彼(かの)山へ分け登り探し見れば、山の横合《よこあひ》に三尺ばかりの洞《ほら》ありて、その奥に猿の如くにして、少し異《こと》なる毛物《けもの》[やぶちゃん注:獣(けもの)。]の大《おほ》いなるが、眼を光らして号(をめ)く声すさまじくありければ、心強き人々一同に走(はせ)かゝりて、頓(やが)てこれを打殺《うちころ》したり。これなん狒々(ひひ)になりかゝりたるものにて、猿の年経《としふ》りし怪物《ばけもの》なりとぞ。小児《せうに》をばこれがために取られしものと思はる。その後《のち》、庄屋村長《むらをさ》人々立合ひて、このよしを地頭の御役所《おんやくしよ》へ訴へけるが、なほ奥の方より飛出《とびいで》し光りものを糺《ただ》さるゝに、それよりは何事もなし。或人心付きて言ふやう、この程家内の掃除せる以前は、奥の間より光物出て、窓の際《きは》に光り争ひ、夜毎々々なれども小児を奪はず、掃除をなしゝ夜《よ》に家内《かない》の光りもの出《いで》ずして、小児を取られしは、全く家内に尊き守(まもり)の御札《おんふだ》か、神霊のましまして化《ばけ》ものを防ぎたまはりしものならずや、何ぞ掃除の節《とき》に、神仏の像か、表具《へうぐ》、または御札《おんふだ》なんどの類《たぐひ》を、麁忽《そこつに》に祓《はら》ひ捨てし事はなきかと言ひ出しければ、佐五右衛門も村人も、げにげにと心付きて詮穿《せんさく》するに、佐五右衛門の妻が云ふやう、納戸の壁に煤《すす》び黒《くろ》みし御札《おんふだ》の如きものが張りありしをば、引《ひき》はがして裏の泥溝(どぶ)へ捨てたりと答へしかば、さればとて人々走りゆき探し求めけるに、捨てたる塵芥の中《うち》に交りて、黒く煤びて不分明(わかりがたき)紙札あり。採上《とりあ》げてよくよく看れば、これなん年久しく佐五右衛門が家の壁に張《はり》て在りしものにて、則ち熊野牛王の御守り札にて有りしとぞ。この外には家に尊《たふと》きもの一ツもなし。佐五右衛門も昔を考へ出でて、祖父《ぢい》の代《よ》より尊信せし事を何日《いつ》となく忘れて、礼拝《れいはい》せざりしを後悔し、全くこの御札の家内に在りし中《うち》は、神威に依《よつ》て怪物を退《しりぞ》け玉ひしものならんを、勿体なくも穢《けが》れし所へ捨てて、神力《しんりき》を折(くじ)きまゐらせし事の恐ろしとて、これよりこの御札《おんふだ》を尊《たふと》み祭りて、村の人々も敬《うやま》ひ拝礼《はいれい》し、その後怪事《あやしきこと》も絶えてなかりしとぞ。

 

Hunakosimuranokikuwai

 

[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらから、挿絵入りで正字で視認出来る。但し、冒頭部分の「熊野牛王」の解説がカットされている。そこには「牛王」は「生土」(うぶすな)の書き損じ説が紹介されてあり、私は興味深く読んだ。文末にも割注があって、この郡村が三宅某と金田何某という武士の領地の入り込んだ地であり、その二人に訴え出たというのが『正說(しやうせつ)なり』という附記もある。産土神は糞「古事記」以前に本邦に存在した土地神であり、大いに支持したい。また、ルビも総てに丁寧に附されてあるので、本文では大いにそれで補った。]

2023/10/20

甲子夜話卷之七 28 綿甲の直話 / 甲子夜話卷之七~了

[やぶちゃん注:標題は静山のルビで「ワタヨロヒ」とある。漢文部は後に推定訓読文を〔 〕で添えた。なお、これまでの、フライング単発で、読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、それをルーティンにも採用することとする。

 なお、本篇を以って「卷之七」は終わっている。]

 

7―28

 「洴澼百金方」と云(いふ)書に【これは兵書にして、淸乾隆六十年頃の書なり。五册ほどありて、無版寫行(しやかう)のものと云。】、「綿甲(ワタヨロヒ)の制」を出(いだ)すと聞く。曰(いはく)、

『以綿花七斤、用ㇾ布クシ夾襖、相線逐ㇾ行、橫直縫緊、入ㇾ水浸透、取ㇾ地、用ㇾ脚。寔以ㇾ不ルヲ※脹ㇾ度[やぶちゃん注:「※」=「月」+「半」。]、晒乾シテ收用。見ㇾ雨ㇾ重カラ。黴黰シテㇾ爛。鳥銃ㇾ能クコト。』〔綿花七斤を以つて、布を用ひて盛り、夾襖(はさみぶすま)のごとくし、相線(あひせん)、行くを逐(お)ひ、橫(よこ)、直(ただ)ちに縫緊(はうきん)し、水に入れて、浸透し、取りて地に鋪(し)き、脚(あし)を用ひて踹(ふ)む。寔(まこと)に、※脹(はんちやう?)せざるを以つて[やぶちゃん注:「※」=「月」+「半」。]、度(たびたび)と爲(な)し、晒乾(さらしほ)して收用す。雨を見て(も)重からず。黴黰(ばいしん)して[やぶちゃん注:黒ずんで。]、爛(ただ)れず。鳥銃(てつぱう)(に)も、大(おほき)に傷(きずつ)くこと能(あた)はず。〕

 これ、便利のものなり。

 今、都下にて、町火消の着せるもの、此類なり。

 又、古へ、「蒙古襲來」の事を畫(ゑがき)し古畫にも、彼(かの)國の甲(よろひ)は、この注文の如きもの、見えたり。

 是につき、思出(おもひいだ)せしこと、あり。

 五、六年前か、この邊(あたり)を出行(しゆつかう)せしに、半途にして、人の群(むれ)、走(さう)して、小梅村の方に行(ゆく)を見る。

 其中(そのなか)、手に棒を持(もち)、或(あるい)は、鳶口(とびぐち)を執(とり)たる、あり。又、頭(かしら)に、紙を重(かさね)て戴(のせ)たる者、あり。六、七人もありき。各(おのおの)、水に浸(ひた)したると察す。

 因(よつ)て、從行(したがひゆく)に命じて、其ゆゑを問(とは)しむるに、

「先にて、口論して、爭鬪(そうたう)に及びしを、援(たすけん)として、往(ゆく)。」

と云ひ、又、頭冒(かしらばう)の紙は、水を用(もちひ)て濡(ぬらし)て、事に赴(おもむ)くときは、挺刄(ていじん)[やぶちゃん注:引き抜いた刃(やいば)]も、傷づくこと、無し。」

と云。

 然(さ)れば、これも「綿甲」の、又、便略(びんりやく)にして、自然、發用の、兵具のみ。

■やぶちゃんの呟き

「洴澼百金方」現代仮名遣で「へいへきひゃっきんほう」と読む。静山のいうように、兵書である。

「淸乾隆六十年頃」一七九五年。元号乾隆の最後の年。一世一元の制。

「無版寫行」版本として印刷されず、写本のみが行われていることを言う。

「綿甲(ワタヨロヒ)」当該ウィキを、全部、引く(一部でリンクを入れた)。『綿襖甲(めんおうこう、満州語:yohan uksin)とは、中国を中心とする東アジアにおいて、最も広く使われた鎧の形式の一つ。綿襖冑、綿甲、綿甲冑、綿冑とも呼ばれる。枚の布の間に綿などを挟み込んだ鎧で、世界中で使用されているキルティング』・『アーマーの一種と言える。また、形状や役割が近いものとしては西洋で使用されたコート・オブ・プレートやブリガンダインなどがある。特徴的なのは、形状を外套状にしている事と、外側から金属製の鋲を打って内側に鉄や革製の小札(こざね)を止めている事である。単に鎧としてのみではなく防寒の機能もあるため、北東アジアの寒い地方では特に好まれた。生産が比較的容易であるため』、『主に下級兵士の鎧として使用されたが、モンゴル帝国の元から明代以降は上級者も含めて最も広く使用された。明に続く女真族の清でも同様である。朝鮮半島でも元の支配下にあった高麗後期から採用され、李氏朝鮮では全時代で上級者用として使用され続けた。こうした後期の綿襖甲は、表側に甲がない事を生かして、美麗な刺繍などの装飾が施されている物が多い』。『日本では古墳時代以来の挂甲短甲が奈良時代まで生産されていたが、生産数は少なく諸国で年に各数領しか生産されていなかった』。天平宝字三(七五九)年、第十三次『遣唐使が綿襖甲を持ち帰り、それを参考にして「唐国新様」として』、天平宝字六年『正月に、東海道、西海道、南海道、各節度使の使料として各』二万二百五十『領を生産する事を大宰府に命じた。更に同年』二『月には』千『領を作って』、『鎮国衛府に貯蔵する事を命じている』。『また、宝亀』一一(七八〇)年三月に『勃発した宝亀の乱の際には征東軍に対して』、五『月に甲』六百『領が支給され』、七『月に要請に応じて甲』千『領と襖』四千『領が支給された』。『この場合の甲とは鉄甲(挂甲や短甲)を指し、襖は綿襖甲を指すと思われる』。『その直後の』八『月には、「今後諸国で製造する甲冑は鉄ではなく革で作るように」という勅』『があり、この時点で綿襖甲の生産も停止された可能性があるが、延暦』六(七八七)年の『記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述』『もあり、綿襖甲が日本で作られなくなった時期は判明していない』とある。

「小梅村」東京都墨田区、旧本所区地区小梅村。現在の墨田区向島一~四丁目・業平一~二丁目・押上一~二丁目・横川(よこかわ)一~三丁目・江東区大島(おおじま)一丁目・亀戸一丁目などの附近。

甲子夜話卷之七 27 上總人足、天狗にとられ歸後の直話

[やぶちゃん注:標題は「かづさにんそく、てんぐにとられ、かえるのちのぢきわ」と読んでおく。]

 

7―27

 予が厩(うまや)に使ふ卑僕(ひぼく)あり。下總の產なり。此男、嘗(かつて)天狗にとられたると聞(きけ)ば、或日、自(みづか)ら、其ことを問(とふ)に、奴(やつこ)云ふ。

「今年五十六歲、さきに四十一の春、三月五日の巳刻(みのこく)[やぶちゃん注:午前十時前後。]頃、兩國橋のあたりにて、心地あしく覺(おぼえ)たる計(ばかり)にて、何なる者より誘れたるも曾て不ㇾ知(しれず)。然して、十月廿八日のことにて、信濃國善光寺の門前に不圖(ふと)立居(たちゐ)たり。それまでのことは、一向、覺(おぼえ)ず。衣類は、三月に着たるまゝ故、ばらばらに破(やぶれ)さけてあり。月代(さかやき)は、のびて、禿(かむろ)の如(ごとく)なりし。其時、幸(さいはひ)に、故鄕にて嘗て知(しり)し人に遭(あひ)たる故、それと伴(ともなひ)て江戶に出(いで)たり。其(その)本心(ほんしん)になりたる後(のち)も、食(しよく)せんとすれば、胸、惡(あし)く、五穀の類(たぐひ)は、一向、食(くは)れず。たゞ、薩摩芋のみ、食したり。夫(それ)より、糞(くそ)する每(たび)に、木實(きのみ)の如きもの、出(いで)て、此(この)便(べん)止(やみ)、常の如くなりてよりは、腹中、快(こころよ)く覺(おぼえ)て、穀食に返(かへ)し。」

となり。

 然(しか)れば、天地間には、人類に非(あらざ)るものも、有るか。

甲子夜話卷之七 24 猫の踊り

7―24

 「猫のをどり」のこと、前に云へり。又、聞く、

「光照夫人の【予が伯母。稻垣候の奥方。】、角筈(つのはず)村に住(すみ)玉ひしとき、仕(つかへ)し婦の、今は、鳥越邸に仕ふるが語(かたり)しは、

「夫人の飼(かひ)給ひし黑毛の老猫(らうびやう)、或夜、かの婦の枕頭(ちんとう)に於て、をどるまゝ、衾(ふすま)引(ひき)かつぎて臥(ふし)たるに、後足(うしろあし)にて、立(たち)てをどる足音、よく、聞へし。」

となり。

「又、この猫、常に障子のたぐひは、自(みづか)ら、能(よく)、開きぬ。是、諸人(しよにん)の所ㇾ知なれども、如何(いか)にして開きしと云(いふ)こと、知(しる)もの、なし。」

と也。

[やぶちゃん注:『「猫のをどり」のこと、前に云へり』「甲子夜話卷之二 34 猫の踊の話」を指す。

「光照夫人」「予が伯母」「稻垣候の奥方」志摩国鳥羽藩二代藩主稲垣昭央(てるなか 享保一六(一七三一)年~寛政二(一七九〇)年)の正妻。彼女は静山の実の父松浦政信の娘であるから、実の姉である。但し、静山は祖父誠信の養嗣子になっているため、かく言ったものであろう。

「角筈村」現在の新宿区西新宿と歌舞伎町及び新宿の一部地域に相当。一部を除き、幕府直轄領であった。ウィキの「角筈」によれば、地名の由来は、この『角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、角にも矢筈』(矢の末端の弓の弦 (つる)を受けるY字型の部分。矢柄を直接筈形に削ったものと、竹・木・金属などで作って差したものとがある)『にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、これが転じて角筈となった』とする説を新宿区教育委員会は有力としている、とある。]

甲子夜話卷之七 23 南部、津輕の正邪の事

7――23

 南部、津輕の兩氏は、年久しき義絕の家なり。頃(このごろ)聞く、

「兩家の吉凶に當(あたり)ては、津輕氏よりは、必ず、告(つげ)、必ず、賀す。然(しかる)に、南部に於ては、拒(こばみ)て、受けず。使者、有れば、言(げん)を納(をさめ)ずして、返すと云(いふ)。實(じつ)なりや否(いなや)。もし、實ならば、津輕氏の所爲は有ㇾ佞(ねいある)歟(か)。

■やぶちゃんの呟き

「佞」邪(よこし)まな心。

甲子夜話卷之七 22 御天守臺石垣の事

7-22

 予が邸に來る石工(いしく)、或日、藝樹のことに與(くみ)して、大城に入(いり)たること、あり。

 還(かへり)て人に語(かたり)しを聞く。

「大城、御天守臺の石垣は、殊に、大(おほき)なる石なるにて、就ㇾ中(なかんづく)、四隅(よすみ)の石は、石一つの大さ、九尺餘なる有(あり)。」

と云ふ。

 大城の壯觀、おもふべし。

■やぶちゃんの呟き

「藝樹」園芸用の樹木の探索か。

「大城」これは当初、現在の福岡県大野城(おおのじょう)市大城(おおき)にあった、上古の砦であった大野城跡(グーグル・マップ・データ)のことかと思ったが、古くに消滅しているので、ここは江戸城のことであろう。

甲子夜話卷之七 21 弘道館、時習館の學生、佳對事

[やぶちゃん注:「佳對」「よきつい」か。]

 

7-21

 佐嘉[やぶちゃん注:ママ。](さが)【肥前。】弘道館の學生(がくしやう)【松平肥前守の學館。】、隈本[やぶちゃん注:ママ。](くまもと)【肥後。】時習館に往(ゆき)たるとき【細川越中守の學館。】、弘道館の學生、曰(い)ふには、

「貴邦にては、『越中ふんどし』は『寡君褌』と云(いふ)や。」

と問(とひ)ければ、時習館の學生、卽(すなはち)、答ふ。

「汝の邦(くに)には、定(さだめ)て『ひぜんがさ』を『弊邑瘡』と云(いふ)なるべし。」

と。

 いかにも敏捷なる佳對なり。

■やぶちゃんの呟き

「寡君褌」「かくんこん」或いは「かくんふんどし」か。「寡君」は、「徳の寡(すく)ない主君」の意から、他国の人に対して、自分の主君を遜って言う語である。

「ひぜんがさ」皮癬瘡。「疥癬(かいせん)」に同じ。伝染性皮膚病の一つ。指の間・手足の関節の内側・大腿部の内側・乳房の下・下腹部・陰部などに生ずる淡紅色又は肌色の小さな丘疥(きゅうかい)を指す。先端に小さな水疱や膿をもつこともあり、夜間、激しい痒みが起こり、不眠の原因となる。ヒゼンダニの寄生によって生ずる疾患である。

「弊邑瘡」「へいいふさう」或いは「へいいふがさ」か。「弊邑」は本来は「貧しい村・荒廃した村里」を指す語であるが、転じて「自分の国や村を遜って言う語。前の「寡君」と同義。

甲子夜話卷之七 20 玉胡蝶とあだ名せし或侯の事

7-20

 予、嘗(かつて)勤仕(ごんし)のとき、姬路候邸の明樂(みんらく)を觀(み)に往(ゆき)たるに、坐客、多かりける。

 其中(そのうち)、今の福山閣老も、いまだ、世子にて、あり。亡友、市橋氏も、大番頭(おほばんがしら)にて、ありし。此餘は忘れたり。

 皆、一時、文才の人なりし。

 其上客は、葵章(あふひのしるし)の貴族にて有(あり)しが、席上に、「樂舞番づけ」の有しを見られ、

「『玉胡蝶』とあるは、『たまこてふ』なるや。」

と、予に問はるれば、予、乃(すなはち)、

「然り。」

と答(こたへ)たり。

『餘りに、文盲なることにて、音と訓の差別も、無きや。』

と思ひし。

 是よりして、かの候を竊(ひそか)に目(もく)して、

「たまこてふ」

と呼(よび)ける。

 或人、曰(いはく)、

「此候、ある日、中屋敷(なかやしき)に行(ゆか)るゝ途次にて、藍輿中(あゐこしうち)の烟架(たばこかけ)を、花やかに飾りたてたるにて、喫烟(きつえん)せらるゝを、行人の中より、ずかずかと輿窓(こしまど)へ、己(おのれ)の烟管(きせる)を入(いれ)て、

『火を借り候はん。』

と云し。」

と、なり。

 輿邊(こしあたり)には、多くの從者もあるに、いかゞして留(とむ)ることもせざりしや。

 定めて、風狂人なるべけれども、其人が其人なれば、かゝる珍事も、あるものかと、思はるれ。

■やぶちゃんの呟き

「明樂」明から渡来した楽焼のことであろう。

「福山閣老」備後国福山藩第五代藩主で老中であった阿部正精(まさきよ)か。静山より十五年下で、。享和三(一八〇三)年に三十歳で家督を相続している。

「烟架(たばこかけ)」意味不明で、勝手に訓じた。

甲子夜話卷之七 19 禁裡炎上のとき内侍所神異の事

7-19

 天明の末、京師大火せしとき、延燒して禁闕(きんけつ)に及(およば)んとす。

 乃(すなはち)、遷幸(せんかう)あらんとして、姑(しばら)く、鳳輦(ほうれん)を見あわせ[やぶちゃん注:ママ。]られしに、四面の火燼(くわじん)、湧(わく)が如く、其中、大(おほい)さ、毬(まり)如(ごとき)の火、何方(いづかた)よりか、飛來(とびきた)る。公卿、皆、危ぶみ看る中(うち)に、其燼、内侍所(ないしどころ)の屋上(をくじやう)に墜(おち)んとして、屋上、いまだ、三、四尺なる程にて、碎(くだけ)て、四方に雲散せり。

 諸卿、これを見て、卽(すなはち)、宸輿(しんよ)を促(うながし)て、宮廷を出(いで)させ玉ひし、となり。

 時に、皆、曰(いはく)、

「これ、内侍所の神靈の所爲(しよゐ)なるべし。」

と。嘗て目擊せし人より、所聞(きくところ)を記す。

■やぶちゃんの呟き

「鳳輦」「輦」は、多くの担ぎ手が肩に舁(か)くもので、屋形の屋根も切妻ではなく、四つの棟を中央の頂に集めた方形造(ほうぎょうづくり)。頂きに金銅製の鳳凰の作り物を乗せたものを「鳳輦」(ほうれん)、宝珠を乗せたものを「葱花輦」(そうかれん)と呼ぶ。なお、担ぎ手は「駕輿丁」(かよちょう)と呼ぶ。

「宸輿」天子乗用の輿(こし)の尊称。

甲子夜話卷之七 18 安藤家門松の事

7-18

 前に、安藤候の門松は、故事あつて、官より、立(たて)らるゝことを云へり。

 後、此ことを聞くに、或年の除夕(ぢよせき)[やぶちゃん注:大晦日。]に、神君、安藤の先某(さきのなにがし)と棊(ご)を對し、屢々(しばしば)、負(まけ)たまひ、又、一局を命ぜらる。

 某、曰(いはく)、

「今宵は歲盡(さいじん)なり。小臣、明旦(みやうたん)の門松を設(まう)けんとす。冀(こひねがは)くは、暇(いとま)を給はらん。」

と。

 神君、曰(のたまはく)、

「門松は、吏(り)を遣(やり)て立(たつ)べし。掛念(けねん)すること、勿れ。」

 因て、又、一局を對せられて、神君、遂に、勝を得玉し、と。

 自ㇾ是(これより)して依ㇾ例(れいにより)、官吏、來(きたり)て門松を立つ、となり。

 又、

「今、安藤候の門松を立るとき、御徒士目附(おかいめつけ)其餘(そのよ)の小吏(しやうり)、來(きた)るに、其勞を謝するに、古例のまゝなり。」

とて、銅の間鍋(かんなべ)にて酒を出し、肴は燒味噌、一種なり。これ、當年、質素の風、想ひ料(はか)るべし。

■やぶちゃんの呟き

「前に、安藤候の門松は、故事あつて、官より、立(たて)らるゝことを云へり」「甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事」を指す。

「間鍋」燗鍋。酒の燗をするための鍋。多くは銅製で、「つる」と、注ぎ口があるもの。

甲子夜話卷之七 17 松平越州、箱根關所に於て番頭を賞する事

7-17

 松平樂翁、顯職(けんしよく)のとき、公用にて、上京のこと、あり。

 其道中、箱根山を越すときは、步行(かち)にて、笠を著(つけ)ながら、御關所を通られけるが、御關所の番士は、何れも白洲に平伏せしに、番頭(ばんがしら)、一人、頭を擧げ、聲をかけて、

「御定法(ごぢやうはふ)に候。御笠、とらせらるべし。」

と云。

 樂翁、卽(すなはち)、笠を、ぬがれ、通行して、小休(しやうきう)の處より、人を返して、彼(かの)番頭に申遣(まふしや)るゝは、

「先刻、笠を着(ちやく)しは、我ら、不念なり。御定法を守りたること、感入(かんにいり)候。」

との挨拶なり。

 此事、道中、所々に言傳へて、其貴權に誇らず、御定法に背(そむ)かれざりしを以て、增す增す、感仰(かんぎやう)せりと云。

■やぶちゃんの呟き

「松平樂翁」「白洲」陸奥国白河藩第三代藩主にして老中首座、徳川吉宗の孫であった松平定信。

甲子夜話卷之七 16 優曇華の事

7-16

 或日、僧俗、集會せしとき、予、或僧に、

「優曇華(うどんげ)は、何ものぞ。」

と問(とひ)たれば、

「こは、『海底の蓮(はちす)』なり。」

と答たり。

 尙、其ことを聞くに、

「元祿中、志摩國の船頭、臺灣に吹流(ふきなが)されしが、其洋中(なだなか)に、『蓮葉(はちすば)、海面に浮みたる處ありて、葉、各(おのおの)二尺計(ばかり)もあり、其頃は、花は、なかりし。』と云(いひ)し。」

となり。

 又、魯西亞(ロシア)に往(ゆき)たる幸大夫が、洋中にて見たると云は、

「蓮の、殊に大なるもの、大抵、帆柱の高さもありて、葉も繁く、日を蔽ふ計にして、其間(そのあひだ)を、船行せし。花も咲(さき)てありし。」

抔、語れり。

 然れば、海中にも、蓮、あるか。何(いづ)れも、一場の說話なれば、實否いかにと云(いふ)を知らず。

■やぶちゃんの呟き

「優曇華」「優曇波羅華(うどんはらげ)」の略。サンスクリット語の漢音写。仏教では、花が人の目に触れないため、咲いた時を、瑞兆と見、経典には、「三千年に一度咲く」と伝える。咲く時は、転輪聖王(てんりんじょうおう)が出現するという花。「霊瑞華」・「空起花」・「希有花」(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。ウィキの「うどんげ」には、『日本国内では熊本県山鹿市と長崎県佐世保市のみに自生するアイラトビカズラ』(マメ目マメ科トビカズラ属アイラトビカズラ Mucuna sempervirens )或いは、『南アジア原産のクワ科イチジク属の落葉高木』である『フサナリイチジク』『( Ficus racemosa syn. Ficus glomerata )をウドンゲにあてる場合がある』とあり、また、『バショウ』(単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo )『の花をウドンゲと呼ぶことがある』ともあった。

「幸大夫」大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう 宝暦元(一七五一)年~文政一一(一八二八)年)。ロシアから帰国した江戸後期の漂流民。伊勢国河曲(かわわ)郡南若松村(現現在の三重県鈴鹿市)の商家に生まれた。「幸太夫」とも書き、同村の亀屋の養子となり、「兵蔵」を名乗ったともいう。天明二(一七八二)年十二月、伊勢白子(しろこ)浦の彦兵衛持ちの船「神昌丸」の船頭として、同浦を出船し、江戸に向かったが、途中、暴風に遭遇して、翌年、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。ロシア人に救助され、アムチトカ島・カムチャツカ・イルクーツクで暮らし、一七九一年、ペテルブルグで、エカチェリーナⅡ世に拝謁し、帰国を嘆願した。翌年(寛政四年)、遣日使節アダム・ラクスマンに伴われて、帰国の途につき、九月三日、蝦夷地の根室に入港した。翌年、江戸に送られ、取調べや審問を受けた後、江戸城内吹上御苑に召し出され、将軍家斉や、老中松平定信以下の諸臣列座のもと、ロシア事情について質問された。光太夫の話を纏めたものとしては、篠本廉の筆録にかかる「北槎異聞」(ほくさいぶん)や、将軍の侍医桂川甫周(かつらがわほしゅう)が纏めた「北槎聞略」・「漂民御覧之記」が著名。光太夫は幕府の番町薬園内で後半生を送った(小学館「日本大百科全書」に主に拠った)。

甲子夜話卷之七 15 神祖御終焉のとき藤堂高虎改宗幷その葬地の事

[やぶちゃん注:目録では「神祖御終焉のとき藤堂高虎改宗その葬地の事」。「幷」は「ならびに」と読む。]

 

7-15

 上野神祖御宮の處は寒松院と隣れり。この院は、卽(すなはち)、藤堂高虎の【「寒松院」は高虎の法號。】〕葬地なり。この故は神祖御在世の中、高虎、忠勤あり。後神祖、御病、重らせ給ふとき、高虎、御床の下に候ず。時に神祖の曰(のたまは)く、

「はや、今生(このじやう)に別れば、再び、逢(あふ)こと、無(なか)らん。」

 高虎、答(こたへ)奉るは、

「臣、又、地下に於て、謁し奉らんこと不ㇾ難(かたからず)。」

と。

 神祖、再、曰く、

「然り。但(ただし)、汝と、宗旨、違(ちが)へり。恐(おそら)くは、同所に往生せじ。」

と。

 高虎、曰(いは)く、

「尊慮を、煩(わづらは)し給ふべからず。」

 卽、御次(おつぎ)に退(しりぞ)き、改宗して、天海僧正の弟子となり、復(また)、御前に出(いで)て、そのことを、言上(ごんじやう)す。

 神祖、殊に喜び玉ひし、となり。

 高虎、卒(そつす)るに逮(および)て、遺命して、上野に葬らしむ。

 これ、地下に於て、永く御側に侍するの御約を奉ぜし所なり、と。

 及ㇾ聞(ききおよん)で、人を使して[やぶちゃん注:ママ。]淚を催さしむ。

■やぶちゃんの呟き

「上野神祖御宮」徳川家康(元和二年四月十七日(一六一六年六月一日没)を祀る上野東照宮(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。「東照宮」公式サイトのこちらによれば、元和二年二月四日、『天海僧正と藤堂高虎は』、『危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました』。『天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山』し、『境内には多くの伽藍が建立されました』。寛永四(一六二七)年、『その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりで』、正保三(一六四六)年には、『朝廷より正式に宮号を授けられ』、『「東照宮」となりました』とある。少々、この話とは違う。

「寒松院」上野東照宮造営の際、東照宮の法要を行うために、伊予今治藩主、後に伊勢津藩初代藩主で、外様でありながら、家康の信頼が高かった藤堂高虎(弘治二(一五五六)年~寛永七年十月五日(一六三〇年十一月九日)が、下屋敷の地所を明け渡し、寒松院を別当寺として建立した。元は東照宮の隣りにあったが、後に現在の東北のここに移った。

甲子夜話卷之七 14 町入御能拜見のとき雨天になりし有樣

7―14

 近年のことなりしが、何の時か忘れたり。

 大城、御祝儀、御能、町入りのとき、中ばより、雨、つよく降出(ふりいだし)たることあり。

 此日、兒(こ)、肥州も、御能見物に出居(いでをり)たり。

 町人どもへ、おのおの、傘を與へらる。中々、群集のことゆゑ、雨を防ぐこと、能はず。又、退き避(さく)べき蔭もなければ、半(なかば)は頭(かしら)に雨そゝぐもの、多し。

 やがて、衆人の頭より、氣、たちて、殆ど㸑煙(さんえん)の如くなりしと。大勢の有さま、想ふべし。予は退隱の後ゆゑ、聞(きき)及ぶのみ。

■やぶちゃんの呟き

「兒、肥州」静山の三男松浦肥前守熈(ひろむ 寛政三(一七九一)年~慶応三(一八六七)年)。彼は当該ウィキによれば、寛政七(一七九五)年、『父・清の嫡子となる。長兄・章の廃嫡、次兄・武の死去に伴う措置であった』とあり、文化三(一八〇六)年十一月、『父清の隠居により』、『家督を相続』している。また、『能楽に通じていた熈は、独特な形態を持つ謡曲「平戸三興囃子」を興し、隠居した後には古謡をもとに平戸囃子の様式に護国の願いを加えた神能「平壺」などを完成させた』とある。

「㸑煙」炊飯の煙。東洋文庫版では『きんえん』とルビするが、「㸑」に「キン」の音はない。

甲子夜話卷之七 13 飛驒一揆のとき、岩村侯の物頭兩人の事

[やぶちゃん注:ルーティンに戻るが、今までは、読みを総て後の注で示したが、あまりに煩瑣なので、今回以降は、底本の東洋文庫にあるものはそれを参考にし、必要と思われるものの、そちらにない読みは、推定で歴史的仮名遣で入れ込み読みを入れることとし(原本にごくたまにある静山の読みはカタカナである)、句読点・記号・段落も変更したり、挿入したりした。

 

7-13

 述齋云(いふ)。

『明・安の頃、聚斂(しゆうれん)の新法起り、國々の代官等、掊克(ほうこく)の所爲、多かりき。飛驒の國民、その郡代大原某が苛政に苦しみ、遂に徒黨して、一揆を企(くはだて)、その官廳を取圍(とりかこ)む。某、大に恐れ、近國の大名へ、檄(げき)を飛(とば)せて、人數(にんず)を出(いだ)さしむ。その中の一は美濃の岩村なり。彼(かの)實父能州乘薀のときなりしが、折ふし、在府なりければ、家老より達して、物頭(ものがしら)二組を、速(すみやか)に出勢(しゆつせい)せしむ。前日の黃昏(たそがれ)に飛檄(ひげき)到來せしに、翌朝の五時(いつつどき)頃、人數は岩村を發しけり。物頭は三好源大夫・岩松藤市の二人なり。前夜、家老、そのことを傳(つたふ)れば、畏(かしこま)り申(まふし)て、歸宅し、源大夫は、日頃、貧寠(ひんる)極りしものなりしが、兼て貯置(たくはへおき)しと見へて、具足櫃(ぐそくびつ)より、金、とり出(いだ)し、組の足輕どもに分ち與へ、妻子の手當とせしむ。扨、夜中、會所【城下にあり。】にて、家老初(はじめ)、集議し、夜もやゝ明(あけ)んとする程、源大夫、人を市に馳(はせ)て酒樽を取寄せ、

「いざ、出陣の盃せん。」

とて、自身、持鑓(もちやり)の石突(いしづき)を以て、樽の鏡を打破(うちやぶ)き、柄杓にて、互に、酒、酌(くみ)かはし、組の者ども迄に飮せ、高らかに、

「强者(つはもの)の交り、賴(たのみ)ある中の酒宴哉。」

と謠ひしかば、一同、これがために、氣勢を添(そへ)し。』

となり。

『既に飛州に至れば、隣境、二、三候の人數も、追々、到着す。

 その内、某侯、人數の隊長、輕卒にて、百姓ども、鋤・鍬を擁して陣取しを見るより、鳥砲(てつぱう)を放(はなち)て數人を打殺しければ、ますます激して、騷擾し、却(かへつ)て鬪戰に及ばんとす。

 源大夫は、獨り、一揆の村がりたる中へ入り、聲色(せいしよく)從容(しやうよう)として、說くに、大義を以てせしかば、悉皆(しつかい)、感服して、各(おのおの)、その營所に來り就(つき)て、縛(ばく)を受く。又、處々に散在せる一揆等も、

「岩村候の下知をこそ、受(うく)べきものよ。」

とて、陸續、相到(あひいた)る。源大夫、その罪の首從(しゆじゆう)を糺(ただ)して、魁首(かいしゆ)數人(すにん)を面縛(めんばく)し、脅從(けふしよう)の者は放還して、立所(たちどころ)に靜謐(せいひつ)す。

 それより、二、三候の頭役(かしらやく)に會議し、

「各(おのおの)、手を空しくして、人數を收めば、面目(めんぼく)あるべからず。」

とて、縛せる所を、それぞれに分ちて、互に功を均(ひとし)くし、官吏に引渡して歸りけり。

 此行(おこなひ)、源大夫が幹事の才、もとより采(と)るべくして、藤市も、源大夫が材略を盡させ、よく、和協して、偏(ひとへに)私を挾まず。これ亦、棄(すつ)べからず。此事、世上の美談となり、浪華(なには)にて、演劇に作り、一時(いつとき)、流行(はやり)に至りしと云(いふ)。

■やぶちゃんの呟き

本話の現代語訳が、「百合の若」氏のブログ「甲子夜話のお稽古」の「巻之7 〔13〕 飛騨一揆のときのこと」で読める。

「述齋」お馴染みの親友林述斎。

「明・安」「・」は底本にない。明和(一七六四年~一七七二年)と、それに続く安永(一七七二年~一七八一年)のことであろう。

「掊克」漢語の文語。「重税を課して民から搾り取ること・重税を課して民から搾り取る人」を指す。

「聚斂」支配階級に属する者が、人民に対して、苛酷な取り立てを行なうこと。

「彼實父能州乘薀」美濃国岩村藩主(同藩は美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した)。乗政流大給松平家四代の能登守松平乗薀(のりもり 享保元(一七一六)年~天明三(一七八三)年)。「彼」の三男松平乗衡(のりひら)は、林信敬の没後、林家の養子に入り、林述斎として第八代当主を継いだのである。

「五時」不定時法で、季節が判らぬので、夏至で午前七時頃、春分・秋分で午前八時少し前頃、冬至で八時半頃となる。

「貧寠」非常に貧乏なこと。

「脅從」脅迫されて強制的に従った者。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「熊の窟」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 熊の窟【くまのいわや】 〔窓のすさみ追加の上〕薩摩の猟師にや有りけむ、山路を通るとて、崖道《がけみち》を蹈みはづし、谷底へ陥り、幸《さひはひ》にあやまちはせざりけれど、絶倒しけるを、大なる熊出でて、掌を口に当ててすりければ、おのづから嘗《な》めけるが、甘き事限りなし。さて有りて、熊先に立ち行きけるに、付きて往くほどに、窟の中に入りぬ。草を置きて、その上に居らしめ、いたはる体《てい》に見え、時々掌を出して舐《なぶ》らするに、飢うる事なかりけり。明日帰るべきと思ひ、人に暇《いとま》乞ふ如くして出でけるに、熊は名残《なごり》惜しげに見えて、登るべき路まで案内して別れ去りけり。この者、不仁なる者にや、そののち鉄砲を持ちつゝかの道より伝ひ下りて、かの窟に行き、熊の臥し居たるを打ち殺し、胆を取りて奉行所に捧げしに、その次第を尋ねられて、獣さへ人の難儀を救ひ労(いたは)りしに、その恩を知らざるのみならず、これを害せしこと、人にして獣に劣れり、かゝる者は世のみせしめなりとて、その窟の前に磔(はりつけ)に行はれけり。宋景溓《そうけいれん》の筆記にも、猩々に助けられて、却りてこれを殺さんと謀りし事あり。昔より善人のする事必ず符合し、悪人の仕業《しわざ》また同じく合ひぬる事、一二にあらず。自然に斯くの如くなると見ゆ。

[やぶちゃん注:「窓のすさみ」松崎尭臣(ぎょうしん 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:江戸中期の儒者。丹波篠山(ささやま)藩家老。中野撝謙(ぎけん)・伊藤東涯に学び、荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。別号に白圭(はっけい)・観瀾)の随筆(伝本によって巻冊数は異なる)。国立国会図書館デジタルコレクションの「有朋堂文庫」(昭和二年刊)の当該本文で正規表現で視認出来る。なお、この話、『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 熊が惡人を救ひし話』で引用され、考証もされているので、是非、見られたい。

「宋景溓」明代の文人で詩人のようであるが、原本に当たれない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「熊と猪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。
 

 熊と猪【くまとしし】 〔醍醐随筆〕丹波の土民山に入りて栗をとりけるに、下は深き谷にて水細く流れたる。奥山の方より熊一つ子をつれて出で来り、谷川のそばなる石をいだきあぐれば、子その石の下に入りて蟹を取て食ふぞと見えし。栗取の男は梢の上にて音せずまもり居るに、いかにして取り落しけむ、栗四ツ五ツはらはらと落ちかゝりぬるに驚きて、抱たる石をすてたれば、下なる子おされて死けり。熊かぎりなく悲鳴して、おのれがしわざとは思はず、たれかころしぬるとかなたこなたさけびありくに、十段ばかりかたはらに大なる猪ふし居たるを、これなん子の仇とや思ひけん、たけりかゝりぬ。猪おきあがり、牙かみならして待ちかけたり。いみじき物見かなと見居たるに、互に人ちがひ半時ばかりたゝかふ。猪は前足一ツうち折られ、後の跨間より横腹胸のあたりまでさんざんに引きさかれて死ぬ。熊も前後かずかずかけられて腸《はらわた》出《いで》て死けり。無智は天性なればいかゞはせん。熊は子の仇を報ずるに身をわすれ、猪は敵に逢ひていやしくもまぬかれず。彼をさへに義ある事、いみじき振舞ひに侍らずや。

[やぶちゃん注:「醍醐随筆」は大和国の医師・儒者中山三柳の随筆。初版は寛文一〇(一六七〇)年(徳川家綱の治世)。国立国会図書館デジタルコレクションの『杏林叢書』第三輯(富士川游等編・大正一三(一九三八)年吐鳳堂書店刊)のこちらで正字版の当該部を視認出来る(但し、この底本は文化年間(一八〇四年~一八一八年:徳川家斉の治世)の抄録写本底本である)。

「跨間」ママ。原本も同じ。「胯間」の誤字であろう。「跨」は「またぐ」という動詞である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「首縊り狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 首縊り狸【くびくくりだぬき】 〔耳嚢巻一〕狐狸といへど、狸は人を欺き迷はす事など、狐には遥かに劣りて、その性魯鈍なる事多し。近き頃の事なりとや。本郷桜馬場<東京都文京区内>のあたりに、酒屋とかまたは材木屋とかありしが、久しく召仕ふ丁稚上りの若き者あり。また田舎より出て同じく仕へし小女ありしが、いつの程にか、わりなく契りを結び、始終夫婦に成るべしとかたく約しけるに、不ㇾ計《はからず》も彼の女の在所より、聟とるとて暇乞願ひけるを聞きて、二人とも大きに驚き、かくては兼ての契約も事遂げずと、互に死を極めて、俱に未来の事など約し、夜々桜の馬場へ忍びて相談せしが、無ㇾ程主人よりも暇可ㇾ遣《いとまつかはすべき》期日など申渡しける故、最早延々に難ㇾ成、あすの夜こそ桜の馬場にて首縊《くく》らんと約し、男は外へ使に行きし間、何時《なんどき》ころ右馬場にて待合《まちあへ》よと申合せて、男は主《あるじ》用の使《つかひ》に出《いで》、その事とゝのひて、暮過《くれすぎ》に馬場へ来りしに、はや女は来り居て、弥《いよいよ》と約を極め、男女支度の紐を桜に結び付け、二人とも首へまとひ、木より飛びけるに、女はなんの事なく縊《くび》れ死し、男も首しめけれど、地へ足とゞきけるゆゑ、誠に死に不ㇾ至。然るにかの約せし女また壱人来り、男のくるしむ体《てい》、且つ我にひとしき女首縊り居《をり》候ゆゑ、驚き入り、声たてければ、あたりより人集りて見るに、男は死にやらず居ければ、薬など与へ息出《いづ》るに付、いさいの様子を尋ねければ、いまは隠すに所なく、男女とも有りのまゝに語りけるゆゑ、さるにも縊死せし女は、いかなる者と尋ねしに、惣身《さうみ》毛生出《おひいで》て狸にぞありける故、早々驚きて主人へも告《つげ》けるに、男女とも数年《すねん》実体《じつてい》に相勤め、死をまで決するとは、能《よ》く能くの事、何か死するに及ぶべしとて、主人より親元へも申含め、夫婦に成しける由。しかるに彼の狸はいかなる故にて縊死せるや、その分(わけ)は不ㇾ知《しらざれ》ども、彼の男女度々桜の馬場にて密契《むつけい》死《し》を約せしを聞きて、慰む心ならん。我死すべきとは思はざれど、誤りて己れ死して、却而《かへつて》男女の媒《なかだち》せしと一笑して、或人語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之八 狸縊死の事」を見られたいが、酷似した話で、尾張の熱田を舞台としたものが、「想山著聞奇集 卷の五 狸の人と化て相對死をなしたる事」があり、これは思うに、「耳囊」の話を書き変えた嘘っぱちと判る。「想山著聞奇集」は私の偏愛するオリジナリティに富んだ怪奇談集なのだが、ちょっとがっかりした。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「九人橋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 九人橋【くにんばし】 〔北国奇談巡杖記巻一〕おなじ城下<加州金沢>に、味噌倉町《みそくらてう》<現在の石川県金沢市兼六元町辺>といへる武士町《ぶしまち》あり。こゝに九人橋とて小橋ありけるが、昼夜をいはず、この橋を十人並びてわたるに、一人の影見えず。残り九人の影のみうつれり。いかにも怪しと思ふ人々、さまざまとわたり直してみれども、その数不足せり。なほも不審に思ひ、何の人影のうつらざるやと、銘々に並びあひてかよふに、右の端左の端、あるひは中《なか》に居る人影のうつらざるもあり。一度《いちど》々々に違《たが》ひけるぞ、いやまさりて恐ろしうおぽゆ。故に九人橋と称すと。またひとりひとり渡るときは、何のわづらひもなし。ただ十人打《うち》そろひて、手に手をとりあひ渡るときのことなり。いかなる妖怪のなせることにや。またこの所、人家二三軒《げん》ありて、その向ひ一方《いつはう》は竹藪にして、残りは皆武士屋敷なり。少し広みたるところなれば、地気《ちき》陰《いん》なるゆゑに、度《ど》の欠けたる故にや。考ふるにいまだ不審はれず。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める(標題は「九人橋の奇事」)が、お薦めは、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」の原版本のここからである。読みが添えられてあるからである。以上の読みも、一部は、それを参考に正しい歴史的仮名遣で振った。

「味噌倉町」「現在の石川県金沢市兼六元町」(けんろくもとまち)「辺」金沢城直近北東の一画である金沢市兼六元町(グーグル・マップ・データ)。

「九人橋」現在同地区を流れる川に「九人橋川」(上流・下流とも暗渠となっている)はあるが、橋自体は確認出来ない。サイト「TABIZINE」の『【金沢ミステリー】10人で渡ると9人の影しか水面に映らない、不思議な「九人橋」』に周辺の写真や、詳しい解説があり、必見! それによれば、『その中でも、九人橋が架かっていた場所は、城から見て東側、しかも内側にあった東内惣構の一角でした。東内惣構は、現状でほとんどが埋められて道路になっています。しかし、わずかに水路として残っている部分もあって、この水路を九人橋川と呼びます。九人橋はすでに消滅していますが、川の名前にその呼び名が残っているのです』とあり、さらに『九人橋が架かっていた場所をさらに詳しく言えば、現在の地方裁判所の近くになります』。『兼六園からひがし茶屋街に向けて、国道159号線が走っています。兼六園からスタートして、裁判所の前で大きく右折すると、進行方向右手に金沢中央消防署味曽蔵出張所が見えてきたところで、あらためて道が直角に左折しています。その交差点(味曽蔵町交差点)付近に、かつて橋がありました』。『幕末から明治にかけて活躍した森田柿園が編さんした郷土資料『金澤古蹟志』によると、九人橋という小さな橋は、10人で並んで渡ると、昼夜に関係なく影が9つしか水面に映らなかったといいます。通るたびに、先頭の人の影が消えたり、最後の人の影が消えたり、真ん中の人の影が消えたりと、消える位置もさまざまだったそうです』。『この怪奇現象を当時の人々は』、『一度々々に違ひけるぞ、いやまさりておそろしう覚ゆ』『(『金澤古蹟志』より引用)』『と騒いでいたといいます。毎回、消える人が違うので、当時の人たちもいよいよ恐ろしく思って、堀に架かった小さな橋を九人橋と呼ぶようになったのですね』。『この怪談話は、いつから存在するのでしょうか?』『そもそも橋の歴史は、一部の資料に1648年(慶安元年)の時点で存在していたと記録されています。そうなると、1610年(慶長15年)に堀ができてから、1648年になるまでの間につくられたと考えられます』。『『金澤古蹟志』には橋が何年にできて、できた当初から何と呼ばれていたか記されていませんが、もしかすると九人橋という名前が先にあって、その名前から怪談話が後につくられた可能性もあるといいます』。『確かに、人影が映らない怪談スポットは、全国にも珍しくありません。例えば、同じ加賀藩の前田家がつくった富山県高岡市にも、無影御池(無影の井戸)があります。その井戸は江戸時代の当時、水面に人影が奇麗に映るので、評判の井戸だったそうです。しかし、影が映らなかった人が死んでしまったため、多くの人が怖いもの見たさで自分の影を確かめに来るスポットになったとか』。『類似の話は、北陸のみならず、例えば四国の香川県にもあります。井戸寺(いどじ)という寺の境内には「おもかげの井戸」があり、この井戸に自分の影が映らなかった人間は、3年以内に死ぬともいわれているのだとか』。『現代でも、写真に姿が映らなかった人は死ぬだとか、被写体の一部が消えて映ると事故でその部位を失うだとか、似たような「怖い話」を聞きます。人の姿を映す水面や鏡、写真には、何か想像力をかきたてる部分があります。そう考えると、人の想像力と九人橋という橋の名前が、怪談話を生んだという考えが、有力なのかもしれませんね』。『いずれにせよ、金沢には東内惣構の名残があります。その水面に自分を映し込んで、自分の影の有無を確かめてみてください。「絶対に映る」と理性でわかっていても、この話を聞いた後では、ちょっと怖くなるはず。得体のしれない世界に対する恐れをどこかで感じながら金沢を歩くと、金沢の近世の空気感がまち角から伝わってきて、まち歩きに違った味わいが生まれるはずです』とある。この記者は相当な民俗学知識に精通している! なお、この記事に従うなら、ここは現在の兼六元町の西の丸の内地区の「金沢地方裁判所」(グーグル・マップ・データ)附近に存在したことが判る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「国玉の大橋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 国玉の大橋【くにたまのおおはし】 〔裏見寒話追加〕国玉《くだま》村に小《ちさ》き橋あり。大橋と名付く。この橋上にて猿橋の事を云へば怪異あり。猿橋にて大橋の事をいへばまた怪異ありと。その謂(いはれ)を尋ぬるに、昔東武より甲州へくるあり、猿橋を通る時、この大橋の噂を云ふ。一婦人あり、出《いで》ていふ。甲府へ行かばこの文《ふみ》一通、国玉の大橋へ届け玉はれと。彼《かの》人諾してこの文を受取るといへども、怪しく思ひ、途中にて密かに披き見れば、この人を殺すべしとの文なり。旅人大いに驚き、この人殺すべからずと書直して持参せしに、一婦人出て憤怒の気色《けしき》凄《すご》しく、則ちこの文を見るに、殺すべからずとあるによつて、欣然としてその文を届けたる謝礼をいうて恙なしとぞ。実に信じ難き説なれども、国俗専ら伝説する所なり。また国玉の大橋にて葵上の謡《うたひ》を唱へば道を失ひ、三輪《みわ》を唄へば道明らかに知るに。また附会の説あり。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの「追加」左ページの四行目「○國玉村の大橋」がそれ。この話、八カ月前に電子化注した『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 己が命の早使ひ』に出、既に考証したので、そちらを見られたい。

「国玉村」現在の甲府市国玉町(くだまちょう)・里吉(さとよし)二丁目相当。濁(にごり)川を挟んで、里吉村の東にある。北を十郎(じゆうろう)川が西流して同川に注ぐ。対岸は坂折(さかおり)村。若彦(わかひこ)路が村内を東進し、国玉明神(現在の玉諸(たまもろ)神社)の前で南に折れる。村名は村内に鎮座する甲斐国三宮国玉明神が国御魂神を祀ることに由来し、当地は甲斐国山梨・巨摩・八代の三郡の境界に相当するとされる。(平凡社「日本歴史地名大系」他に拠った)。]

2023/10/19

畔田翠山「水族志」 カゲキヨ (ホウセキキントキ・キントキダイ・チカメキントキ・クルマダイ・キンメダイ・イットウダイ・アカマツカサ)

(三一)

カゲキヨ【紀州若山】 一名ヘイケイヲ【紀州日高郡網代浦】サケナヒ【紀州在田郡湯淺浦】セウゼウ【同上】メジロダヒ【伊豫西條】メイチ【熊野】アカコ【讚州高松領津田浦】ジウイヲ【紀州田邊】ムマヌスト【筑前姪ノ浜】カ子ヒラ【土佐浦戶勢州阿曾浦熊野大島】ベンケイ【勢州慥柄浦】ウミゴ【尾州常滑】アカメバチ【熊野天口浦】メヒカリ【同上】 紅沙

形狀棘鬣ニ似タリ鱗細也下頗赤色ニ乄端尖テ口ヨリ出テ上ニ向フ

唇赤色頰ニ白刺一ツアリ眼大ニ乄赤色瞳黑脇翅淡黃色身ハ頭ヨリ

尾ニ至リ背色深紅色腹淡紅色背鬣紅色ニ乄黃色ノ星㸃相並ブ尾赤

色岐アサシ腹下翅淡紅色ニ乄黃星㸃アリ刺赤色腰下鰭赤色其大者

二尺許身濶ニ乄紅色淺ク眼大ニ乄光アリ臺灣縣志曰紅沙皮紅如塗

硃鱗細

○やぶちゃんの書き下し文

かげきよ【紀州若山。】 一名「へいけいを」【紀州日高郡網代浦。】・「さけなひ」【紀州在田(ありだ)郡湯淺浦。】・「せうぜう」【同上。】・「めじろだひ」【伊豫西條。】・「めいち」【熊野。】・「あかこ」【讚州高松領津田浦。】・「じういを」【紀州田邊。】・。「むまぬすと」【筑前姪ノ浜。】・「かねひら」【土佐浦戶。勢州阿曾浦。熊野大島。】・「べんけい」【勢州慥柄(たしから)浦。】・「うみご」【尾州常滑。】・「あかめばち」【熊野天口浦。】・「めひかり」【同上。】 「紅沙」

形狀、棘鬣(まだひ)に似たり。鱗、細なり。下頗、赤色にして、端、尖りて、口より出でて、上に向ふ。唇、赤色。頰に、白き刺(はり)、一つあり。眼(まなこ)、大にして、赤色。瞳、黑。脇翅(わきひれ)、淡黃色。身は、頭より、尾に至り、背の色、深紅色。腹、淡紅色。背鬣、紅色にして、黃色の星㸃、相(あひ)並ぶ。尾、赤色。岐(また)、あさし。腹の下翅(したびれ)、淡紅色にして、黃の星㸃あり。刺、赤色。腰の下鰭、赤色。其の大なる者、二尺許(ばかり)。身、濶(かつ)にして、紅色、淺く、眼、大にして、光、あり。「臺灣縣志」に曰はく、『紅沙。皮、紅なり。塗硃(としゆ)のごとく、鱗、細なり。』と。

[やぶちゃん注:底本のここ。さて、種同定であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵氏の「紀州魚譜」(第三版・昭和七(一九三二)年刊)のこちらの記載に従って、各地で複数種が「カゲキヨ」の名で呼ばれるので、

顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ亜目キントキダイ科キントキダイ属ホウセキキントキ Priacanthus hamrur

キントキダイ属キントキダイ Priacanthus macracanthus

キントキダイ科チカメキントキ属チカメキントキ Cookeolus japonicus

キントキダイ科クルマダイ属クルマダイ Pristigenys niphonia

の四種を、まず、挙げることとする。さらに、前回の「カネヒラ」が、以上の異名に出現することから、

硬骨魚綱条鰭亜綱棘鰭上目キンメダイ目イットウダイ科アカマツカサ亜科エビスダイ属エビスダイ Ostichthys japonicus

も入れる。これらは「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の異名「カゲキヨ」でも、総てが載る。同ページでは他に、

キンメダイ目イットウダイ科イットウダイ亜科イットウダイ属イットウダイ Sargocentron spinosissimum

キンメダイ目イットウダイ科アカマツカサ亜科アカマツカサ属アカマツカサMyripristis berndti

の二種が挙げられているので、これも入れる。これで、「景清」の同定比定のオール・スター・キャストということになる。宇井氏は「紀州魚譜」をまず、「カゲキヨ」のホウセキキントキを最初とし、キントキダイとチカメキントキを次候補としているように読める。そして続くクルマダイを入れたのは、そこの『往々前種』(チカメキントキ)『と混同する』とあったことに拠る。但し、以上の六種は、見かけ上、よく似ているものもあるが、ちょっと一緒にするのはクエスチョンの種もあることはあり、私も宇井氏にならって、美麗なる同定第一候補は「ホウセキキントキ」としておく。畔田の観察が生魚のものであるとすると、「星」状の点も解消する。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクさせておくが、その二枚目の写真をクリックすると、『生きているときには宝石とまではいかないが』、『赤く輝いて見える』とぼうずコンニャク氏が言っておられる通り、きらびやかな星状の斑紋が見られる。

「かげきよ」頼朝の命を狙った平家に仕えた藤原悪七兵衛景清。平家の「赤」に因むのであろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」では、『藤原景清』『をモデルにした歌舞伎『景清』の衣装の色合いからではないかと思われる』とされる。しかし、漁師らが綽名するのにわざわざ歌舞伎の「景清」を由来とするのは、ちょっと留保したい気がする。

「紀州日高郡網代浦」現在の和歌山県由良町(ゆらちょう)網代(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)

「紀州在田郡湯淺浦」和歌山県有田郡湯浅町(ゆあさちょう)。

「さけなひ」赤いとこから「酒」か。「なひ」は不詳。「な」はしばしば「魚」の意で用いられるが。

「せうぜう」これはもう、「猩々」で「赤」絡みだ。

「めじろだひ」ホウセキキントキは黒目の周囲に勘定の色の薄い環がある。

「伊豫西條」愛媛県西条市

「めいち」大きな目が一番に目立つからか。

「讚州高松領津田浦」徳島県徳島市旧名東郡地区の津田浦。この附近か。

「じういを」不詳。

「むまぬすと」私の場合、「馬盗人」から連想する「赤」は「厩神」の猿の「赤」だった。

「筑前姪ノ浜」福岡県福岡市西区姪の浜

「土佐浦戶」高知県高知市浦戸。坂本龍馬像があることで知られる。

「勢州阿曾浦」三重県度会郡南伊勢町(ちょう)阿曽浦(あそうら)

「熊野大島」和歌山県東牟婁郡串本町にある紀伊大島

「べんけい」思うに、これは色ではなく、「弁慶の七つ道具」あるまいか? 但し、それはホウセキキントキには相応しくなく、別候補で挙げたクルマダイ辺りが、背鰭・腹鰭・尻鰭が、トッゲトゲ! でマッチする気がする。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをご覧な!

「勢州慥柄浦」三重県度会(わたらい)郡南伊勢町(ちょう)慥柄浦(たしからうら)

「うみご」不詳。

「あかめばち」「めばち」はメバルのことであろう。

「熊野天口浦」不詳。

「臺灣縣志」清の陳文達撰になる台湾地誌。一七二〇年(康煕五十九年/本邦は享保五年)刊。

「塗硃」「硃」鉱石の一種である「辰砂」(しんしゃ)=「丹砂」のこと。赤色の顔料として用いられる。それを塗りつけたようなものの意。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「くだ狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 くだ狐【くだぎつね】 〔甲子夜話巻十〕狐の種類にくだ狐と云ふ一種のもの有るを聞けり。この狐至つて小にして鼬の如しと。予<松浦静山>視んと欲すること久し。蘭山が『本草啓蒙』にも、吾邦この狐あるを挙げず。また『本草綱目』には、集解に「形似小黄狗而鼻尖尾大、全不ㇾ似ㇾ狸」如ㇾ此ありて前状とは違ふ。然ればこれもくだ狐には非ざるべし。且小黄狗とは何物か知らず。近頃浅草御蔵前<東京都台東区内>の道側に小獣を見せ者にす。その形狐に似て少く小狗の如し。鼻も尖りたるが、尾は大ならずして細く、後にさし揚げて、かの詩の綏々《すいすい》の貌はなし。予因てこれぞくだ狐ぞと思ひて人を遣り、就てこれを図せしむ。然る後日月を経て次第に大きくなる。その畜奴は狐児を育て立てたるなりと云ふと聞く。弥〻くだ狐に非ること知るベし。また善庵は狐の事に委し。その言にくだ狐は何とか云ふ霊山にて、修学の山伏へこれを授く。その場所は金峯山か大峯か、山伏の官位を出す処なり。この狐遠州三州<静岡・愛知>の辺、北方の山中に多く有り。但山伏に授くるは、この金峯大峯に限る歟と云ふ。また山伏の中にても、度々入峯して行法も達したる人ならでは猥に不ㇾ授。竹の筒に入れ、梵字などを書し、何か修法を為て与ふると云ふ。これをその儘持念して置くに、いつ迄も元の如くにて、後食餌を与ふることもなし。これは正道にて祈念するの修法と云ふ。またその人により竹筒より出し、食を与ふれば第一人の隠事を知り、心中のことをも悉く悟りて告るゆゑ、姦巫祈躊の験を顕す手寄とす。また人にとり付かするも随意なりと云ふ。これは邪道にて用ふる方術と云ふ。この狐筒より出しては、再び筒に入ること、尋常の行者には不ㇾ能と云ふ。狐使ひこの如くしては、食物等至つてむづかしく、上食を与へざれば用をなし難く、その上へ喰ふこと少なからずと云ふ。右は総て牝牡を筒に入れ与ふる故、出し用ふれば漸々子を生じて数増り、食養に窮るとなり。因て利の為に姦計に役使して、終にはその行者身を亡すに逮ぶとなり。さて狐使ひには狐よく馴るゝまゝに、常々狐出行けば、泥土にまみれ帰りて、そのまゝ行者の臥床にも這いり、臭汚言ふばかり無けれども、これを忍ばざれば狐働かず。因一度授かりては外へ放ちやることも能はず、終身付随ひゐると云ふ。若し或ひは外より懇望の人有りて譲り与ふること有るとも、その人の養方狐の意に協はざれば、再び元の主に立返り来るとなり。狐使ひ死亡すれば、その狐に主無くなりて、今も王子村<東京都北区内>のあたりには多く住めりと云ふ。総て人に付ては人力に依て事をなすゆゑ、その人亡すれば狐の力のみにては人に寄ること能はず。因て彼の辺に散在せりとなり。また飯田町<東京都千代田区内>堀留の町医伊藤尚貞(この人芸州の産にて伊藤氏に養子となり、乃ち善庵の門に学ぶ)より善庵委しく聞きたる。尚貞の言には、彼のくだ狐の付たるを度々療治せり。すべて人に付くには、始め手足の爪の端より入り、皮膚の間に在るゆゑ、先づ手足の指辺を縛して、それより体中所々その潜るところを追て、刺ても害なき所に追つめ、其所を切裂けば膚中より小丸の毛ある物現はる。(この所在を知るは其処必ず瘤の如く陰起すとなり) これ則ち狐の精気と覺ゆ。それよりかの家内を探り索むれば、必ず狐の死たる有り。多くは天井などの上に転僵してありとなり。尚貞その狐の皮を剝取り、二枚ほど貯へ置きしを善庵親しく見たりと。その皮の大を以て想ふに、その体鼬よりはやゝ大きく見ゆ。色黒くして鼬と斉しく、眼竪につきて諸天の額面の一目の如し。またくだ狐の人に付たるは如ㇾ前膚中に瘤の如く顕る。野狐はかくは無し。これ見分けの差別と云ふ。

[やぶちゃん注:以下の図とキャプションは、底本では本文の途中に挿入されおり、標題はややポイント落ち、本文は最小ポイントで、全体が半角下げあるが、ここに配し、本文と同じポイントで、引き上げておいた。図は、前者が宵曲の筆写、後者は所持する東洋文庫版の原画像で、宵曲のそれは野良犬にしか見えず、話にならないので、二種を掲げた。但し、前者は所持する「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)のものをOCRで読み込み、補正・清拭したものである。底本画像は使用許諾を必要とするためである。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

Syoukyokumosya

 

Okuramahemisemononozu

 

  御蔵前みせものゝ図

 児狐鼻の先より尾の末迄一尺九寸餘[やぶちゃん注:ママ。]、尾の長さばかり六寸五歩ほど、身高さ背の所八寸五歩ほど、腹の廻り九寸二歩ほど。

 この狐壬午の正月末に大坂の田舎より江戸に持来ると云ふ。牝にして前年極月生れなり。

 山中にて生じたるを雪中ならでは取り難しと云ふ。食は鰻を飯に入れ、うす味噌にて喰はするとなり。この七月頃にも成らば毛色も好く形も宜く可成と畜奴かたれり。

[やぶちゃん注:事前に念入りに注を附した正規表現版の「フライング単発 甲子夜話卷之十 37 くだ狐の事」を公開してあるので、参照されたい。]

〔秉穂録二ノ上〕遠州にて、くだ狐の人につく事あり。その人必ず、なまみそを食して、余物を飲食せず。鎌いたち<急に転んだときや、ちょっとした動きなどで打ちつけもしないのに、突然皮肉が裂けて切傷の生ずる現象>といふ物と的対なり。平野主膳語れり。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「秉穂録」現代仮名遣で「へいすいろく」と読む(「秉」はこれ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。雲霞堂老人、尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)による考証随筆で、寛政一一(一七九九)年に成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正規表現で視認出来る(左ページ六行目から)。

「的対」上手く対句とすること。「管狐」と「鎌鼬」の名が対句表現に見えるだけで、妖怪或いは怪事での「対句」とは言えない。鎌鼬に就いては、「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」及び「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」を見られたい。私は中学時代、如何にも現実として極めて怪しい擬似的鎌鼬の現場に遭遇したことがある。それは「耳嚢 巻之七 旋風怪の事」の注に詳しく書いた。]

フライング単発 甲子夜話卷之十 37 くだ狐の事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

10―37

 狐の種類に、「くだ狐」と云ふ一種のもの、有(ある)を聞けり。

「此狐、至(いたつ)て小にして、鼬(いたち)の如し。」

と。

 予、視んと欲すること、久し。

 蘭山が「本草啓蒙」にも、吾邦、この狐あるを擧(あげ)ず。

 また、「本草綱目」には、「集解(しつかい)」に、

『形似小黃狗而鼻尖尾大、全ㇾ似ㇾ狸。如ㇾ此。』

ありて、前狀とは違ふ。然(しかれ)ば、これも「くだ狐」には非ざるべし。

 且(かつ)、「小黃狗」とは、何物か、知らず。[やぶちゃん注:以上の引用は「本草綱目」の巻五十一の「狐」の「集解」であるから、場違いである。同書にはそもそも「管狐」は載らず、中国には管狐(くだぎつね)はおらず、日本固有の妖獣である。「維基百科」の「管狐」にも『管狐(日:くだぎつね)是日本民間傳說中能附身於人的一種妖怪,在以長野縣為首的中部地區、東海地方、関東地方南部、東北地方皆有流傳』。『在關東的千葉縣和神奈川縣之间则沒有管狐的傳說、這些地方被認為是關東尾先狐(日:オサキ)的勢力圈』と味覚に書いてある。というか、これ、日本の当該ウィキの単なる漢訳なのだが。なお、そこには二枚の筆写写真があるが、孰れも以下に示す私の図と、私の作ったリンク記事の図の方が遙かに大きく見やすいですぞ。

 近頃、淺草御藏前の道側(みちそば)に小獸を見せ者にす。その形、狐に似て、少(すこし)く小狗(こいぬ)の如し。鼻も尖りたるが、尾は、大ならずして、細く、後(うしろ)にさし揚げて、かの詩の綏々(すいすい)の貌は、なし。

 予、因て、

『これぞ、くだ狐ぞ。』

と、思ひて、人を遣り、就てこれを圖せしむ。

 然る後、日月を經て、次第に大きくなる。

「その畜奴(ちくど)は、狐兒(きつねのこ)を育て立てたるなり。」

と、云ふと聞く。

 彌〻(いよいよ)「くだ狐」に非(あらざ)ること、知るベし。

 また、善庵は、狐の事に委し。その言に、

「くだ狐は何とか云ふ靈山にて、修學の山伏へ、これを授く。その場所は金峯山か、大峯か、山伏の官位を出す處なり。この狐、遠州三州の邊、北方の山中に、多く、有り。但(ただし)、山伏に授くるは、この金峯大峯に限る歟(か)。」

と云ふ。また、

「山伏の中にても、度々、入峯して、行法も達したる人ならでは、猥(みだり)に不ㇾ授(さづけず)。竹の筒に入れ、梵字などを書し、何か修法(しゆはふ)を爲(なし)て與(あたふ)る。」

と云ふ。

「これを、其まゝ、持念(ぢねん)して置(おく)に、いつ迄も、元の如くにて、後、食餌を與(あたふ)ることも、なし。これは、正道にて祈念するの修法。」

と云(いふ)。

「又、其人により、竹筒より出し、食を與(あたふ)れば、第一、人の隱事(かくしごと)を知り、心中のことをも、悉く悟りて、告(つぐ)るゆゑ、姦巫祈躊の驗(しるし)を顯(あらは)す手寄(たより)とす。又、人にとり付かするも、隨意なり。」

と云。

「これは邪道にて用(もちゆ)る方術。」

と云。

「この狐、筒より出(いだ)しては、再び、筒に入(いる)ること、尋常の行者には不ㇾ能(あたはず)。」

と云ふ。

「狐使ひ、この如くしては、食物等、至(いたつ)て、むづかしく、上食を與へざれば、用をなし難く、其うへ、喰ふこと、少なからず。」

と云。

「右は、總て、牝・牡を筒に入れ與(あたふ)る故、出し用(もちふ)れば、漸々(やうやう)、子を生じて、數、增(まさ)り、食養に窘(きはま)る。」

となり。

「因て、利の爲に姦計に役使して、終(つひ)には、その行者、身を亡(ほろぼ)すに逮(およ)ぶ。」

となり。

「さて、狐使ひには、狐、よく馴るゝまゝに、常々、狐、出行けば、泥土にまみれ、歸りて、其まゝ、行者の臥床(ふしど)にも這(は)いり、臭汚(しふを)、言ふばかり無けれども、これを忍ばざれば、狐、働かず。因て、一度、授かりては、外(ほか)へ放ちやることも、能はず。終身、付隨(つきしたが)ひゐる。」

と云。

「若(も)し、或は、外より懇望の人、有りて、讓與(ゆづりあた)ふること有るとも、其人の養方(やしなひかた)、狐の意に協(かな)はざれば、再び、元の主(あるじ)に立返り來(きた)る。」

となり。

「狐使ひ、死亡すれば、其狐に主、無くなりて、今も王子村のあたりには、多く住めり。」

と云。

「總て人に付(つき)ては、人力(じんりよく)に依(より)て事をなすゆゑ、其人、亡(し)すれば、狐の力のみにては、人に寄ること、能はず。因て、彼(かの)邊(あたり)に散在せり。」

となり。

 又、飯田町堀留の町醫伊藤尙貞(しやうてい)【此人、藝州の產にて、伊藤氏に養子となり、乃(すなは)ち、善庵の門に學ぶ。】より、善庵、委しく聞(きき)たる。尙貞の言には、

「彼(かの)くだ狐の付たるを、度々、療治せり。すべて、人に付くには、始め、手足の爪の端より入り、皮膚の間に在るゆゑ、先づ、手足の指邊(ゆびあたり)を縛して、夫(それ)より、體中、所々、その潛(もぐ)るところを追(おひ)て、刺(さし)ても害なき所に、追(おひ)つめ、其所を切裂(きりさ)けば、膚中(はだうち)より、小丸(せうぐわん)の毛ある物、現はる。【此所在を知るは、其處、必ず、瘤(こぶ)の如く、陰起すとなり。】是、則(すなはち)、「狐の精氣」と覺ゆ。夫より、かの家内(いへうち)を探り索(もと)むれば、必ず、狐の死(しし)たる、有り。多くは、天井などの上に轉僵(ころびし)してあり。」

となり。

 尙貞、その狐の皮を剝取(はぎと)り、二枚ほど、貯置(たくはへおき)きしを、善庵、親しく見たり、と。

「その皮の大(おほいさ)を以て想ふに、その體(からだ)、鼬よりは、やゝ大きく見ゆ。色、黑くして、鼬と齊(ひと)しく、眼(まなこ)、竪(たて)につきて、諸天の額面の一目の如し。また、

「『くだ狐』の人に付たるは、如ㇾ前(まへのごとく)、膚中に、瘤の如く、顯(あらはる)。野狐(やこ)は、かくは、無し。これ、見分けの差別。」

と云ふ。

[やぶちゃん注:以下、圖とキャプション。]

 

Okuramahemisemononozu

 

  御藏前みせものゝ圖

 兒狐(こぎつね)。鼻の先より、尾の末迄、壱尺九寸余(あまり)。尾の長さばかり、六寸五步ほど。身、高さ、脊(せ)の所、八寸五步ほど。腹の廻(めぐ)り、九寸二步ほど。「この狐、壬午の正月末に、大坂の田舍より、江戶に持來(もちきた)る。」と云ふ。牝にして、前年極月生れなり。

 「山中にて生(しやう)じたるを、雪中ならでは、取り難し。」と云。「食は、鰻を飯に入れ、薄味噌にて、喰(く)はする。」となり。「この七月頃にも成らば、毛色も好く、形も宜(よろし)く可成(なるべし)。」と、畜奴、語れり。

[やぶちゃん注:「くだ狐」「想山著聞奇集 卷の四 信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」の私の注の冒頭の「くだ」を参照されたい。

「善庵」は儒学者朝川善庵(天明元(一七八一)年~嘉永二(一八四九)年)。鼎は本名。字は五鼎(ごけい)。当該ウィキによれば、本篇の著者『平戸藩主』『松浦氏を初めとして津藩主・藤堂氏や大村藩主』『大村氏などの大名が門人となり』、江戸本所の小泉町』(現在の墨田区両国二~四丁目相当。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版 尾張屋版 本所絵図 本所絵図(位置合わせ地図)」をリンクさせておく)『に私塾を開いていた』とある。

「持念」ここは単に十全に意識して忘れずにそれを信じ念ずること、の意であろう。]

2023/10/18

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「九頭竜川の陰火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 九頭竜川の陰火【くずりゅうがわのいんか】 〔甲子夜話卷之廿三〕越前の大野郡<福井県大野市>に九頭竜川(くづりゆう)と云ふあり。川北は水田数里相連《あひつらな》る。この処陰雨の夜には、必ず数千《すせん》の陰火球《たま》の如く、四方より飛び集り、闘戦《とうせん》するの状《かたち》あり。暫くしてまた砕け散る形、敗走するが如し。遠望に分明にして、その場に至れば有ることなし。暮後より五更<午前三時から五時まで>に至ると云ふ。里人相伝ふ、これ昔平泉寺<現在勝山市内に白山平泉寺跡あり>の僧徒、戦没の冤魂この幽火を為す。また新田義貞自害せし藤嶋の地も、この下流にあれば、皆戦亡の迷魂散ぜずして如ㇾ此《かくのごとし》と云ふ。これその土人目撃にして、妄説に非ず。これ等の陰火は何の為《す》る所なるか。天地間には不可解の異事も有るものなり。(平泉寺今に越前にあれど、昔に比すれば微々たり。昔はその寺最大にして、僧徒の戦争屢〻なりしこと『太平記』を見ても知るべし)

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之二十三 23 越前の陰火」で正規表現・注附きで電子化しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷之二十三 23 越前の陰火

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

23-23

 越前の大野郡に九頭龍川と云(いふ)あり。川北は、水田數里、相連(あひつらな)る。

 この處、陰雨の夜には、必(かならず)、數千(すせん)の陰火、毬(まり)の如く、四方より飛び集り、鬪戰(とうせん)するの狀(かたち)あり。

 暫(しば)しで、又、碎け散る形、敗走するが如し。遠望に分明にして、其場に至れば、有ること、なし。暮後(くれあと)より、五更に至ると云ふ。

 里人(さとびと)、相傳(あひつた)ふ、

「これ、昔、平泉寺の僧徒、戰沒の冤魂、この幽火を爲す。又、新田義貞、自害せし藤島の地も、この下流にあれば、皆、戰亡の迷魂、散ぜずして、如ㇾ此(かくのごとし)。」

と云ふ。

 これ、其土人、目擊にして、妄說に非ず。

 此等の陰火は、何の爲(す)る所なるか。

 天地間には、不可解の異事も有るもの也【平泉寺、今に、越前にあれど、昔に比すれば、微々たり。昔は、その寺、最大にして、僧徒の戰爭、屢(しばしば)なりしこと、「太平記」を見ても知るべし。】。

■やぶちゃんの呟き

「陰雨」ここでは、「しとしとと降り続く雨」の意。

「五更」午前三時頃から午前五時頃まで。

「平泉寺」福井県勝山市平泉寺にあった天台宗の寺。山号は霊応山。養老元(七一七)年、泰澄の創立と伝えられる。加賀国白山権現の別当寺。応徳元(一〇八四)年から延暦寺に属し、「白山信仰」を背景に栄えたが、明治初年、神仏分離により、寺号を失い、白山神社(グーグル・マップ・データ)となった。私は大学生の時、父母と訪れたことがあり、静謐な境内に心打たれた。今も絵葉書を持っている。

「藤島」新田義貞は延元三/建武五(一三三八)年)閏七月上旬、越前国藤島(福井市藤島町附近。グーグル・マップ・データ)の灯明寺畷にて、斯波高経が送った細川出羽守・鹿草公相の軍勢と交戦中、戦死した。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「孔雀飛ぶ」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 孔雀飛ぶ【くじゃくとぶ】 〔甲子夜話巻十八〕孔雀は処々に飼ひてあれども、その飛ぶを見たるものなし。予<松浦静山>在城せしとき、庭籠に養ひ置きたるが、掃夫誤りて籠を開きしかばその雄出たり。あれあれと云ふ中に飛揚りて、空を翔《かけ》ること雲に及ぶが如く、最も高うしてその行くこと平かなり。丹霄《たんせう》を弥(わた)りて外城にや到りけん、その尾を曳くを仰ぎ見れば、風鳶《たこ》に孔雀をしつらへたるに異ならず。『本草綱目』に「孔雀、交趾雷羅諸州甚多、生高山喬木之上又云数十群飛、棲遊岡陵、又云、雨則尾重、不ㇾ能高飛、南人因往捕ㇾ之」これ等の文読過せる人は多かるべけれど、飛びたる所を見し者あらざるべし。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之十七 29 孔雀の飛たるを見たる事」を正規表現で電子化注しておいた。

「丹霄」現代仮名遣「たんしょう」は、「朝焼けの澄み切った雲一つ無い大空」の意。

「風鳶」音読みでは「ふうえん」。とんびだこ。凧(たこ)のこと。]

フライング単発 甲子夜話卷之十七 29 孔雀の飛たるを見たる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。漢文部は後に〔 〕で推定訓読(一部補塡)を示した。]

 

29-17 孔雀の飛(とび)たるを見たる事

 孔雀は、處々に飼(かひ)てあれども、其(その)飛ぶを見たる者、なし。

 予、在城せしとき、庭籠(ていろう)に養置(やしなひおき)たるが、掃夫(さうふ)、誤(あやまり)て、籠(かご)を開きしかば、其(その)雄、出(いで)たり。

「あれ々々。」

と云ふ中(うち)に、飛揚(とびあが)りて、空を翔(かけ)ること、雲に及(およぶ)が如く、最も高ふ[やぶちゃん注:ママ。]して、その行くこと、平かなり。

 丹霄(たんせう)を彌(わた)りて、外城にや到りけん、其尾を曳(ひく)を仰ぎ見れば、風鳶(たこ)に孔雀をしつらへたるに異ならず。「本草綱目」に、

『孔雀、交趾・雷羅諸州、甚多。生高山喬木之上。又云、「數十群飛、棲-岡陵。」又云、「雨レバ則尾重クシテ、不ㇾ能高飛スルコト、南人因ㇾ之。」。』〔孔雀ハ、交趾(かうち)・雷・羅の諸州、甚だ、多し。高山の喬木の上に生ず。又、云はく、「數(す)十、群飛し、岡陵(かうりよう)に棲遊(せいいう)す。」と。又、云はく、「雨(あめふ)れば、則ち、尾、重くして、高飛すること能はず、南人、因(より)て、往(ゆき)て、之れを捕ふ。」と。〕

 これ等の文、讀過(よみすご)せる人は、多かるべけれど、飛(とび)たる所を見し者、あらざるべし。

■やぶちゃんの呟き

「丹霄」(現代仮名遣の音は「たんしょう」)は、「朝焼けの澄み切った雲一つ無い大空」の意。

「交趾」コーチ。ベトナム北部のホン(ソンコイ)川流域の地方。

「雷」雷州。唐代から元初にかけて、現在の広東省雷州市一帯に設置された州。

「羅」比較的新しい羅州は、南北朝から北宋初年にかけて、現在の広東省湛江市北部に設置された州。

『「本草綱目」に、……』同じ部分が、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 孔雀(くじやく) (インドジャク・マクジャク)」に引用されているので、参照されたい。これを見ると、静山の引用は、複数の箇所を継ぎ接ぎしたものであることが判る。敢えて、それを本文では分離しなかった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「公家の遊人」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 公家の遊人【くげのゆうじん】 〔真佐喜のかつら〕武蔵国橘樹《たちばな》郡新宿村<現在神奈川県横浜市橘樹郡>に仮住居《かりずまゐ》する一遊人有り。みな人、名を知らず。公家衆とのみ呼びはやしぬ。此所の鎮守天王祭礼の折、年わかき者どもは一やうに揃ひの浴衣など染出し著飾りしを、かの公家衆も著し度《たく》やありけん、我にもあたへよと云ふ。所のものにあらざればゆるさず。さればこの者大いにいかりて、さらば天王の輿《こし》出《いだ》させまじと云ふ。皆をかしがりてその儘に打捨て置き、やがて時刻にもなりて、天王のこし舁《かき》出しけるところ、途有(とある)場にて輿は大磐石《だいばんじやく》のごとく重くなりて、いかにすれども動かず。皆驚き、かの遊人の云ひ候事おもひ出し、その辺をさがしけるに、彼《かの》者物のかげに入り、古き装束を著し、笏を持ち、何事か唱へ居ける故、なほ驚き、いよいよ詑びける故、こしは元のごとく軽く、宿内《しゆくうち》を渡御しけるにより、所の者ども感じ、またはおそれ、その後申合せ、村中にて金銭とり集め、京都へ送り戻しぬ。全く公家の子にてもありしや。ほど立《たち》て所の者、上京の砌《みぎり》、様子問ひ合せけるに、その頃は家相続して、余所ながら逢ひ給ひしとぞ。弘化の頃のはなしなり。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから(「八」の巻頭)正規表現で視認出来る。

「橘樹郡」は現在は神奈川県横浜市神奈川区の浦島町・入江一~二丁目・七島町附近(グーグル・マップ・データ)。

「弘化」幕末の一八四五年から一八四八年まで。徳川家慶の治世。]

南方熊楠「人魚の話」(正規表現版・オリジナル注附き)

[やぶちゃん注:私は既にサイト版で二〇〇六年九月十日に、一九九一年河出書房新社刊の中澤新一編「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」(河出文庫)所収の「人魚の話」を底本とした電子化注(新字新仮名版。当時の私(県立横浜緑ケ丘高等学校国語教師時代)の割には、よく頑張って注している方だとは思う)のを公開してある。親本は平凡社版『南方熊楠全集』第六巻であるが、新字新仮名である。

 本論考は『牟婁新報』明治三四(一九〇一)年九月二十四日及び九月二十七日附で載った。実は、本作によって、熊楠は『風俗壞亂』の罪で告発され、裁判で罰金二十円の判決を受けている。これは當時の「出版法」の『第十九條 安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壞亂スルモノト認ムル文書圖畫ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ發賣頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得』及び『第二十七條』の「罰金規程」によるものと思われるが、實際には文中に現れる、和歌山県の神社合祀を推進した複数の役人に対する痛罵への不当な報復と考えてよいであろう。この事件、及び、プレの十八日に及んだ留置所拘留を受けた暴力事件(本文芋ちらりと出る)については、一九九三年刊の講談社現代新書「南方熊楠を知る事典」(私は初版を所持する。現在は絶版)に原田健一の解説があり、幸い、『南方熊楠資料研究会』公式サイト内のここ(ページ上方から三分の一程のところ)の『人魚の話(『牟婁新報』1910. 9)』で、その経緯が記されてあるので読まれたい。

 熊楠の作品を新字新仮名に強引に変えてしまうと、ある種、奇体な文章になってしまい、読んでいても、強い違和感がある(少なくとも私は、そう感ずるのである)。されば、戦後の発行であるが、乾元社版の『南方熊楠全集』(渋沢敬三編)の一九五二年刊の「第七巻文集Ⅲ」に所収する「人魚の話」を底本とすることとした。今回も、以前の注をさらにブラッシュ・アップして添えることとする。但し、本文の論考から脱線した熊楠のえげつない洒落などの部分まで全部、注する気はない。今回は文中及び段落末に自在に添える。また、読みは底本(恐らくは初出或いは底本全集の編者が添えたものが殆んどと推察する。元来、南方熊楠は滅多にルビを振らない。送り仮名も同じように熊楠のものに手を加えている可能性が頗る高い。これは私が「南方閑話」・「南方隨筆」・「續南方隨筆」の全電子化をした際に散々困らされた事実に基づく)以外の読みは、原則、附さないこととする。但し、一単語の一部しか振っていない場合に限り、《 》で歴史的仮名遣で読みを添えた。句読点も総てそのままとする。まさに南方熊楠の語りの天馬空を行く天然自在唯我独尊型の文章に躓きながら読まれたい。なお、下線太字は底本では「◦」傍点、下線のみは「・」傍点である。踊り字「〱」は正字化した。]

 

     人 魚 の 話

 

 田邊へ「人魚の魚」賣りが來たとかいふ事ぢや。「賴光源(らいこうみなもと)の賴光(よりみつ)」の格で、叮嚀過ぎた言ひ振りだ。吾輩の家へ魚賣りに來る江川の女が、柴庵(さいあん)のことを「モーズ」樣(さん)と言う。吉人(きちじん)は辭(ことば)寡(すくな)しと言ふが、苗字(めうじ)の毛利坊主と、百舌(もず)の樣に辨(しや)べる事と、三事を一語で言ひ悉(つく)せる所は、「人魚(にんぎよ)の魚(うを)」などより遙かに面白い。扨(さて)、昔しの好人(すきびと)が罪なくて配所の月を見たいと言ふたが、予は何の因果か先日長々監獄で月を見た。昨今又月を賞する迚(とて)柴庵を訪うた處、一體人魚とは有る物かと問はれたが運の月、隨分入監一件で世話も掛け居る返禮に「人魚の話」を述べる。

[やぶちゃん注:「柴庵」毛利柴庵(明治四(一八七一)年~昭和一三(一九三八)年は熊楠の盟友で、高山寺住職にして『牟婁新報』主筆兼主宰。この年、田邊町町議員となり、翌年、県会議員。後、紀州毎日新聞社主。熊楠よりも早く神社合祀運動への強い反対を表明していた。ちなみにこの『牟婁新報』には、荒畑寒村、大逆事件で処刑された管野スガがいた。

「先日長々監獄で月を見た」この明治四三(一九一〇)年八月二十一日、熊楠は田辺中学校で開催された紀伊教育委員会主催の夏期講習会閉会式会場に、神社合祀推進の和歌山県での頭目であった同教育委員会理事田村和夫に泥酔して面会を求め闖入(本人は書簡では会場内で大立ち回りを演じたとあるが、実際には警備員に体よく放り出された)、家宅侵入罪及び暴行罪で翌二十二日に警察に拘引された。当夜は留置、二十三日に未決監に移されて、九月七日に釈放されるまで十八日間、田辺監獄に拘留された。九月二十一日、裁判で「中酒症」(判決理由より)と認定され心神耗弱が認められて免訴となった。因みに、この拘留中にも、監獄の古柱の上に生えていたアメーボゾア Amoebozoa門コノーサ綱Conoseaムラサキホコリ亜綱ムラサキホコリ目ムラサキホコリ科ムラサキホコリ属Stemonitis sp. の一片を採取し、当時の変形菌(現在の真正(性)粘菌)分類学の權威であったイギリスの菌類学者で変形菌の研究で知られたグリエルマ・リスター(Gulielma Lister 一八六〇年~一九四九年)に標本を送付し、新種と認定されている。流石はクマグス、ブタ箱に入っても、ただでは、転ばない。]

 寺島氏の「和漢三才圖會」に、「和名抄(わめいせう)」に「兼名苑(けんめいえん)」を引て云く、人魚一名鯪魚、魚身人面なる者也とある。この兼名苑という書は、今は亡びた支那の書だと聞くが、予「淵鑑類函(えんかんるいかん)」に此書を引たるを見出したれば、今も存するにや。普通に鯪(りよう)といふは當町小學校にも藏する鯪鯉(りやうり)又穿山甲(せんざんかふ)とて、臺灣印度等に住み蟻を食ふ獸ぢや。印度人は媚藥(ほれぐすり)にするが、漢方では熱さましに使つた。人面らしい物に非ず、假令(たとひ)そう[やぶちゃん注:ママ。]有た處が人面魚身と有るは、昨今有り振た人面獸身よりも優(まし)ぢや。扨、「本草綱目」に、謝仲玉なる人、婦人が水中に出沒するを見けるに、腰已下皆魚なりしとあり、定めて力を落した事だろう[やぶちゃん注:ママ。]が、其樣(そん)な處に氣が付く奴に碌(ろく)な物は無い。又査道は高麗に奉仕[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」では『奉使』。それが正しい。]し、海沙中に一婦人を見しに、肘後(ひじしり)に紅鬣(べにのひれ)あり、二つ乍ら是等は人魚也と云へり。「諸國里人談」にも、わが國で鰭(ひれ)の有る女を擊殺(うちころ)し、祟(たゝ)つたと載たり。又、寺島氏「推古帝廿七年[注:六一九年。]、攝州堀江に物有り、網に入る、其形ち兒(ちご)の如く、魚に非ず、人に非ず、名くる所を知らず」[やぶちゃん注:「日本書紀」の記載。]といへる文を人魚として載せたるが、是れは山椒魚(さんしようを)の事だろう。形ちは餘り似ぬが、啼聲(なきごゑ)が赤子の樣だから、前年京都で赤子の怪物(ばけもの)と間違へた例もあり。山師連が之に「しゆろ」の毛を被(かぶ)せ、「へい、是は丹波の國で捕へました、河太郞(かはたろう[やぶちゃん注:ママ。])で御座い」。「見ぬ事は咄(はなし)にならぬ、こんな妙な物を一錢で見らるゝも偏(ひとへ)に大師樣の御引合せ、全く今の和尙樣がえらいからだ」[やぶちゃん注:後者は鍵括弧の始まりがないが、「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」で補った。]などと高山寺などでやらかす也。既に山椒魚(さんしょうを)に近き鯢(げい)といふ物の一名を人魚と呼ぶ由、支那の書に見ゆ。扨寺島氏續けて云く、今も西海大洋中、間(まゝ)人魚あり。頭婦女に似、以下は魚の身、麁(あら)き鱗(うろこ)、黑くて鯉に似、尾に岐(また)あり、兩の鰭(ひれ)に蹼(みづかき)有り、手の如し、脚(あし)無し、暴風雨の前に見はれ[やぶちゃん注:「あらはれ」。]、漁父網に入れども奇(あやし)んで捕(とらえ[やぶちゃん注:ママ。])ず。又云く、和蘭陀人、魚の骨を倍以之牟禮(へいしむれ)(拉丁[やぶちゃん注:「ラテン」。]語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義也)と名づけ、解毒藥となす、神効あり、其骨を器に作り、佩腰(ねつけ)とす。色象牙に似て濃からずと[やぶちゃん注:以上の一文の冒頭部「和蘭陀人、魚の骨を」は「和蘭陀、人魚の骨を」の誤りであろう。「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」でも正しくそうなっている。]。いか樣二三百年前人魚の骨は隨分南蠻人に貴ばれ、隨つて吾邦にも輸入珍重された物だつた證據は、大槻磐水の「六物新誌」にも圖入りで列擧し有るが、今忘れ畢(しまつ)たから、手近い原書より棚卸しせんに、一六六八年(寬文八年)マドリド板、コリン著非列賓島宣敎志[やぶちゃん注:「フィリピンとうせんきやうし」。])八〇頁に、人魚の肉食ふべく、其骨も齒も金創(きんさう)に神効ありとあり、其より八年前出板のナヴァレットの「支那志」に、ナンホアンの海に人魚有り、其骨を數珠と倣し[やぶちゃん注:「なし」。]、邪氣を避るの功有りとて尊ぶ事夥し、其地の牧師フランシスコ・ロカより驚き入たことを聞きしは、或人、漁して人魚を得、其陰門婦女に異ならざるを見、就て之に婬し、甚快(こゝろよ)かりしかば翌日又行き見るに、人魚其所を去らず、因て又交接す、斯くの如くして七ケ月間、一日も缺さず相會せしが、遂に神の怒りを懼れ、懺悔して此事を止たりとあり。

[やぶちゃん注:『寺島氏の「和漢三才圖會」に、「和名抄(わめいせう)」に「兼名苑(けんめいえん)」を引て云く、人魚……』私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」(先日、全体を大改訂した)の「人魚」の項を見られたい。なお、文中で熊楠が散逸を疑っている「兼名苑」は唐の僧、釋遠年の撰になる名物詞硏究書で十卷、現存している。以下に、「和漢三才圖會」上のサイト版に載せた版本の異なる二つの挿絵を掲げておく。

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「淵鑑類函」は類書(百科事典)で、康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した。南方熊楠御用達の書である。

「諸國里人談」寬保三(一七四三)年版行、菊岡沾凉著。以下に、同書「卷之一 一 神祇部」に所収する。私は既に同書全部を電子化注してある。「諸國里人談卷之一 人魚」を見られたい。熊楠の言う「女」は「赤きものまとひ」からの誤解か。按ずるに、「諸國里人談」のこの生物は、アザラシやアシカ等が頸部に褐藻類の葉体片を纏って、たまさか、岩場に上がっていたもののように私には思える。因みに、私の人魚の博物学的な電子化注の三つをリンクさせておく。

『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』(おどろおどろしい人魚のミイラの図があり、特にお勧め!)

「 大和本草卷之十三 魚之下 人魚 (一部はニホンアシカ・アザラシ類を比定)」

「大和本草附錄巻之二 魚類 海女 (人魚)」

「山椒魚」「啼聲が赤子の樣だから」もう、お分かりと思うが、熊楠が同定しているのは、現在の日本固有種である両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ  Andrias japonicus  であるが、オオサンショウウオは鳴かない。これは、熊楠も愛讀した「山海經」の、その注釋である「山海經校注」の「海經新釋」の中の「卷七 山海經」の「第十二 海内北經」にある『廣志曰、「鯢魚聲如小兒啼、有四足、形如鯪鱧、可以治牛、出伊水也。」司馬遷謂之人魚。』の敍述や、北アメリカ東部に生息するホライモリ科の Necturus maculosus 、英名“ Mudpuppy ”(子犬のように鳴くとの傳承からの命名)等からの謂いであろうと思われる。ちなみに、ジュゴンは、立派に鳴く。なお、私の「日本山海名産図会 第二巻 鯢(さんしやういを) (オオサンショウウオ及びサンショウウオ類)」をも参照されたい。

「鯢」「和漢三才圖會」には「鯢」を「さんせういを」と訓じ、その記載も現在のオオサンショウウオである。熊楠が「山椒魚に近き」と言っているのは、中国産の別種のオオサンショウウオを想定してのことであろう。私の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚  寺島良安」の「さんせういを 鯢」の項を参照されたい。

「大槻磐水」蘭学者大槻玄澤(宝暦七(一七五七)年~文政一〇(一八二七)年)のこと。本名は大槻茂質(しげかた)。磐水は雅号。杉田玄白・前野良澤の弟子で、通称の「玄澤」は、その両師匠のそれぞれ一字を貰っている。蘭学入門書「蘭學階梯」で地位を築き、師の「解體新書」の改訂も行っている(「重訂解體新書」)。

「六物新誌」二巻二冊。天明六(一七八六)版行。①一角(ウニコール)=イッカクの角、②泊夫藍(サフラン)、③肉豆賣(にくづく)=肉荳蒄=ナツメグ、④木乃伊(ミイラ)、⑤噴淸里歌(エブリコ)=アガリクス、⑥人魚を、圖入りで解說したもの。

「或人、漁して人魚を得、其陰門婦女に異ならざるを見、就て之に婬し、甚快(こゝろよ)かりしかば翌日又行き見るに、人魚其所を去らず、因て又交接す、斯くの如くして七ケ月間、一日も缺さず相會せしが、遂に神の怒りを懼れ、懺悔して此事を止たりとあり」「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」の長谷川興蔵氏の語注によれば、『「人魚の話」が風俗壊乱で告発されたのは、法廷での賢治の発言によると、主として』この『人魚との交接の記述によるらしい』とある。]

 巫來[やぶちゃん注:「マレー」。]人が人魚を多く畜(やしな)ひ、每度就て婬し、又其肉を食(くら)ふ事屢ば聞及べり。此樣な事を書くと、讀者の内には、心中「それは己(おれ)もしたい」と渴望しながら、外見を裝ひ、扨も野蠻な風など笑ふ奴が有るが、得てして其樣な輩(やから)に限り、節穴(ふしあな)でも辭退し兼ぬ奴が多い。已に吾國馬關(ばくわん)邊では、赤魚(あかえい[やぶちゃん注:ママ。])の大きなを漁して、砂上に置くと其肛門がふわふわと呼吸(いき)に連(つれ)て動く處へ、漁夫(れふし)夢中に成て抱き付き、之に婬し畢り、また、他の男を呼び歡(よろこび)を分かつは[やぶちゃん注:底本では「呼」のルビに「よろこび」と振る。誤植と断じて、かく、した。]、一件上の社會主義とも言ふべく、ドウセ賣て食て仕舞ふ者故、姦し殺した所が何の損に成らず。情慾さへ其で濟めば一同大滿足で、別に仲間外の人に見せるでも無れば、何の猥褻罪を構成せず。反つて此近所の郡長殿が、年にも耻ず、鮎川から來た下女に夜這ひし、細君蝸牛(かたつむり)の角を怒らせ、下女は村へ歸りても、若衆連が相手にし吳れぬなどに比ぶれば、遙かに罪の無い咄し也。

 今日、學者が人魚の話の起源と認むるは、ヂュゴン(儒艮)とて、印度、巫來(マレー)半島、濠州等に產する海獸ぢや。琉球にも產し、「中山傳信錄」には之を海馬(かいば)と書いて居る。但し今日普通に海馬と云ふは、水象牙(すゐぞうげ[やぶちゃん注:ママ。])を具する物で、北洋に產し、勘察加(かむさつか)土人、其鳴き聲に據て固有の音樂を作り出した者だが、「正字通」に之を落斯馬(らくすま)と書いて居る。十餘年前、和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]の大學者シュレッゲル、「通報」紙上に、是はウニコールの事だらうと言ひしを、熊楠之を駁(ばく)し、落斯馬(らくすま)は那威(のーるゑー)語ロス・マー(海馬の義)を直譯したのだ。件(くだん)の「正字通」の文は、丸で(坤輿外紀)のを取たのだと言ひしに事起り、大論議となりし末シュレッゲルが、其頃那威語が支那に知れる筈無し、故に件(くだん)の文が歐州人の手に成った證據有らば、熊公の說に服するが、支那人の作ではどうも樺太邊の語らしいと云ひ來る。隨分無理な言い樣ぢや。彼又自分がウニコール說を主張せしを忘れて、只管(ひたすら)語源の那威に出ぬ事を主張すとて、落斯馬(らくすま)は、海馬は馬に似た物故「馬らしい」と云ふ日本語に出しならんと、眞に唐人の寢言(ねごと)を言ふて來た。吾國では海外の學者を神聖の樣に云ふが、實は負惜の强い、沒道理の畜生如き根性の奴が多い。之は吾邦人が、國内でぶらぶら言い誇るのみで、外人と堂々と抗論する辯も、筆も、殊には勇氣が無いからぢや。然し、熊公は中々そんなことに屈しはしない。返答して曰く、日本の語法に「馬らしい」と言ふ樣な言辭は斷じて無い。然し「か」の字を一つ入れたら、お前の事で、乃ち「馬鹿らしい」と言ふ事になる。日本小と雖ども、已に昨年支那に勝たのを知らぬか。汝は世間に昧(くら)くて、「じやぱん」なる獨立帝國と、汝の國の領地たる爪哇(じやわ)とを混じて居らぬか、書物讀みの文盲(あきめくら)め、次に、人を困らそうとばかり考へると、益々出る說が、益々味噌を付る。件(くだん)の文の出て居る根本の「坤輿外紀」は、南懷仁著と云ふと、支那人と見えるが、是れ康熙帝の寵遇を得たりし天主僧、伊太[やぶちゃん注:「イタリア」。]人ヴァ・べスチの事たるを知らずや、注文通り伊太利人の書た本に、近國の那威の語が出て居るに、何と參つたか。「和漢三才圖會」に、和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]人小便せる時、片足擧ぐる事犬に似たりと有るが、汝は眞に犬根性の犬學者だ、今に人の見る前で交合(つる)むだろう[やぶちゃん注:ママ。]と、喜怒自在流の快文でやつつけしに、到頭「わが名譽有る君よ」てふ發端(ほつたん)で一書を寄せ、「予は君の說に心底から歸伏せり」(アイ・アム・コンヰンスド云々)てふ、中々東洋人が西洋人の口から聞く事、岐山の鳳鳴より希(まれ)なる謙退(けんたい)言辭で降服し來り。予之を持て二日程の間、何事も捨置て、諸所吹聽し廻り、折柄龍動(ろんどん)に在し舊藩主侯の耳に達し、祝盃を賜わった事が有る[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」では、「祝」は『祝盃』とある。]。三年程後に、惠美忍成と云ふ淨土宗の學生を、シュレッゲルが世話すべしとの事で、予に添書を吳れと惠美氏言ふから、「先生は學議に募りてついつい失敬したが、全く眞の知識を硏(みが)くが爲だから、惡からず思へ」という緖言で、一書を贈りしに、其れ切り何の返事せず、惠美氏の世話もせざりしは、洋人の頑强固執、到底邦人の思ひおよばざる所だ。兎に角其れ程バットやらかした熊楠も、白龍魚(はくれうぎよ[やぶちゃん注:ママ。])服(ふく)すれば豫且(よしよ)の網に罹り、往年三條公の遇を忝して、天下に矯名を謠はれたる金甁樓(きんぺいろう)の今紫(いまむらさき)も、目下村上幸女とて旅芝居(たびやくしや)に雜(まじ)はれば、一錢で穴のあく程眺めらるゝ道理、相良無(さがらな)い武(む)とか楠見糞長(くすみふんてう[やぶちゃん注:ママ。])とか、バチルス、トリパノソマ[やぶちゃん注:底本は「トリパノソ」。脱字と断じて、かく、した。]同前の極小人に陷られて、十八日間も獄に繋(つな)がるゝなど、思へば人の行末程分らぬ者は有りやせん。然し、晝夜丹誠を凝し、大威德大忿怒尊の法と云ふ奴を行ひ居るから、朞年(きねん)を出ずして、彼輩腎虛して行倒れる事受合ひ也。

[やぶちゃん注:以上の主文である、オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustave SchlegelGustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)との論争に就いては、『南方熊楠 履歴書(その12) ロンドンにて(8) 「落斯馬(ロスマ)論争」』(新字新仮名)で詳細に語っており、私のオリジナル注も附してあるので見られたい。以上に出るモデル動物も私の注で比定してある。

「中山傳信錄」(ちゅうざんでんしんろく)は清の徐葆光(じょほこう 一六七一年~一七二三年:が江南蘇州府長州県生まれ)が一七一九年(清・康熙五八/日本・享保四)に、琉球王国第二尚氏王統の第十三代国王(在位:一七一三年~一七五一年)尚敬王への冊封副使として来琉し、本書は冊封の顛末を纏めた書。冊封儀礼の様子や、琉球滞在中に見聞した琉球の風俗・言語・地理・歴史等を清朝考証学的な体裁で記し、多くの挿絵を挿入してある。江戸時代の知識人の琉球に関する知識は、この著に依るところが多い。また、アントワーヌ・ゴービル宣教師によってフランス語に抄訳され、ヨーロッパにも紹介されている(以上は当該ウィキ及び「琉球大学」及び同「附属図書館」公式サイト内の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」の「中山伝信録[一]」の記載に拠った)。当該部は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の巻六のここ(左丁五行目)の「海馬」で視認出来る。

「正字通」中国の字書。明末の張自烈の著。初刻本は一六七一年刊行、直後に本邦にも渡来して多く読まれた。現行通行本には清の廖(りょう)文英撰とするが、実際には原稿を買って自著として刊行したものである。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上・中・下に分け、部首と画数によって文字を配列し、解説を加えたもの。形式は、ほぼ明の梅膺祚(ばいようそ)の「字彙」に基づくが、その誤りを正し、訓詁を増したものである。但し、本書自体にも誤りが少くない。「字彙」とともに後の「康煕字典」の基礎となった。その当該部分「三十七」の以下。「中國哲學書電子化計劃」の影印本に拠った(本文の九行目下方から)。

   *

落斯馬長四丈許足短居一海底罕出水面皮堅剌之不可入額一角似鉤寐時角挂石盡日不醒

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これ、幻獣へと変形され、「長崎聞見録」には、奇体な頭部に前方へ逆反りで突き出た角二本が描かれている。「東スポWEB」の『【山口敏太郎オカルト評論家のUMA図鑑320】額に2本のツノを持つ未確認生物「落斯馬(らしま)」の正体』を見られたい。

「坤輿外紀」「南懷仁」の書名は「坤輿外記」が正しい。著者は熊楠の言う通り、中国人ではなく、ベルギー生まれのイエズス会宣教師フェルディナンド・フェルビースト(Ferdinand Verbiest 一六二三年~一六八八年)の中国名。一六五九年、中国に渡り、清朝に仕えてアダム=シャール(中国名、湯若望)を補佐し、天文観測機器の製造や暦法の改革などに携った。七三年には国立天文台長に相当する欽天監監正ともなった。著「坤輿全圖」「霊臺儀象志」等があり、「坤輿外紀」は中国の地誌。禁書であったが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」に日本人が筆写したもの(年代不明)があ