甲子夜話卷之七 27 上總人足、天狗にとられ歸後の直話
[やぶちゃん注:標題は「かづさにんそく、てんぐにとられ、かえるのちのぢきわ」と読んでおく。]
7―27
予が厩(うまや)に使ふ卑僕(ひぼく)あり。下總の產なり。此男、嘗(かつて)天狗にとられたると聞(きけ)ば、或日、自(みづか)ら、其ことを問(とふ)に、奴(やつこ)云ふ。
「今年五十六歲、さきに四十一の春、三月五日の巳刻(みのこく)[やぶちゃん注:午前十時前後。]頃、兩國橋のあたりにて、心地あしく覺(おぼえ)たる計(ばかり)にて、何なる者より誘れたるも曾て不ㇾ知(しれず)。然して、十月廿八日のことにて、信濃國善光寺の門前に不圖(ふと)立居(たちゐ)たり。それまでのことは、一向、覺(おぼえ)ず。衣類は、三月に着たるまゝ故、ばらばらに破(やぶれ)さけてあり。月代(さかやき)は、のびて、禿(かむろ)の如(ごとく)なりし。其時、幸(さいはひ)に、故鄕にて嘗て知(しり)し人に遭(あひ)たる故、それと伴(ともなひ)て江戶に出(いで)たり。其(その)本心(ほんしん)になりたる後(のち)も、食(しよく)せんとすれば、胸、惡(あし)く、五穀の類(たぐひ)は、一向、食(くは)れず。たゞ、薩摩芋のみ、食したり。夫(それ)より、糞(くそ)する每(たび)に、木實(きのみ)の如きもの、出(いで)て、此(この)便(べん)止(やみ)、常の如くなりてよりは、腹中、快(こころよ)く覺(おぼえ)て、穀食に返(かへ)し。」
となり。
然(しか)れば、天地間には、人類に非(あらざ)るものも、有るか。