譚海 卷之九 房總の地狐釣の魚を取る事 / 江戶十萬坪の狐釣の魚を取る事(フライング公開二話)
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。今回のものは、同じ巻で連続して載るもので、孰れも、狐の悪戯という親和性もあるので、カップリングして示す。間に「*」を入れた。]
房總の地、狐、多くして、ともすれば、釣りたる魚を、とらるゝ事、絕えず。獵師、釣りたる魚を、夜陰、家へもて歸(かへる)時は、必ず、狐、跡に付(つき)て來(きた)る。それを、心得て、魚を、いさゝか、投(なげ)あたふれば、やがて、うちくはへて、うするなり。しばらく有(あり)て、また、跡に付て來る。是は、又、魚をねらふにはあらず。あたへたるを、悅びて、家に至るまで送り來るなりと、いへり。
[やぶちゃん注:「送り狼」ならぬ、「送り狐」というところが、面白い。]
*
江戶の十萬坪・六萬坪は、鹽入(しほいり)の川、多く、秋は、日ごとに、海よりの魚あまたのぼりくる故、釣人の、たえずつどふ所なり。
相(あひ)しれる人、同志の者と、一日、かしこに行(ゆき)て、日(ひ)くらし、魚、あまた、釣りえて、
「今は。」
とて、舟に乘(のり)て、歸路に趣(おもむき)しに、橋の下を過(すぐ)る時、橋の上に、奴(やつこ)、壹人(ひとり)ありて、船の中へ、小便(しやうべん)せんとせしかば、
「こは。にくきやつこかな。」
とて、舟を岸に付(つけ)て、
「追(おひ)うたん。」
とて、舟より上りて見れば、奴、見えず。
扨(さて)、船に乘(のり)て、又、次の橋下を過るに、先の奴、又、橋のうへに立(たて)り。
「すは。又、こゝに有(あり)。にくきやつかな。」
と、舟を、岸に着けたれば、奴、又、見えず。又々、ふしぎ成(なる)おもひをなし、舟に歸(かへり)て見れば、釣(つり)えたる籃(かご)の中の魚、殘らず、失せたり。
「これは、狐の、魚をとらんとて、かく、はかりたる成べし。」
と、みな、あざみあへり。
「十萬坪のわたりも、曠野(ひろの)、うち續(つづき)たる所にて、常に、人、狐にまよはさるゝ事なり。釣人、大かたは、魚を、狐にとらるゝ。」
と、いへり。
ある人のいはく、
「釣りたる魚に、つばきを、はき懸置(かけおく)時は、狐にとらるゝこと、なし。」
となん。
[やぶちゃん注:「江戶の十萬坪・六萬坪」底本の竹内利美氏の注に、『東京湾の古いころの埋立地』とあった。「東京富士美術館」公式サイトの広重の「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」に、『「十万坪」は現在の江東区千田』及び『千石周辺に当たる。享保』八(一七二三)年から『行われた干潟の埋め立てにより』十『万坪に及ぶ新田が開発されたため、「十万坪」と呼ばれていた。高潮の被害が発生するなど』、『居住には適さない土地で、一時』、『幕府が鋳銭場(いせんば)を置いたりしたが、寛政』八(一七九六)年には『一橋』『徳川家の所有となった。江戸時代後期には、この付近は』、『春の海辺での潮干狩りや』、『初日の出、月見を楽しめる名所として人気を集めるようになり、海岸に面した洲崎弁天社(すさきべんてんしゃ)(現在の洲崎神社)にも多くの参拝者が訪れていた。天保年間に出版された広重の『東都名所』や『江都名所』などのシリーズでは、そのような潮干狩りや初日の出、洲崎弁天社の賑わいの様子が描かれている』。『広重は『名所江戸百景』で再び同地を描くにあたり、それまで描いた題材から大きく趣向を変えて、海側からの鳥瞰(ちょうかん)という大胆な構図によって、湿地帯の荒涼とした冬の雪景として描き出した。しんしんと雪が舞う浜辺に静けさが漂う一方で、大きく翼を広げた鷲が上空から獲物を狙う様子は躍動感に溢れており、この静と動の対比が本作の大きな魅力となっている。遠方には、富士山と並ぶ関東の霊峰、筑波山が静かに下界を見下ろしている』とある。私も好きな一枚である。画像の自由使用が許されているので、以下に掲げておく。
「六萬坪」の方は、江東区の旧深川区地区六万坪。グーグル・マップ・データのこの中央附近。江戸時代に横川(大横川)を挟んで、茂森町・木場町など、木場掘割の東方に造成された埋立地。「御府内備考」によれば、東西六町・南北一町半。元禄(一六八八~一七〇四)頃まで海浜であったが、江戸市中の塵芥により、埋め立てられた(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。]
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