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2023/10/20

甲子夜話卷之七 16 優曇華の事

7-16

 或日、僧俗、集會せしとき、予、或僧に、

「優曇華(うどんげ)は、何ものぞ。」

と問(とひ)たれば、

「こは、『海底の蓮(はちす)』なり。」

と答たり。

 尙、其ことを聞くに、

「元祿中、志摩國の船頭、臺灣に吹流(ふきなが)されしが、其洋中(なだなか)に、『蓮葉(はちすば)、海面に浮みたる處ありて、葉、各(おのおの)二尺計(ばかり)もあり、其頃は、花は、なかりし。』と云(いひ)し。」

となり。

 又、魯西亞(ロシア)に往(ゆき)たる幸大夫が、洋中にて見たると云は、

「蓮の、殊に大なるもの、大抵、帆柱の高さもありて、葉も繁く、日を蔽ふ計にして、其間(そのあひだ)を、船行せし。花も咲(さき)てありし。」

抔、語れり。

 然れば、海中にも、蓮、あるか。何(いづ)れも、一場の說話なれば、實否いかにと云(いふ)を知らず。

■やぶちゃんの呟き

「優曇華」「優曇波羅華(うどんはらげ)」の略。サンスクリット語の漢音写。仏教では、花が人の目に触れないため、咲いた時を、瑞兆と見、経典には、「三千年に一度咲く」と伝える。咲く時は、転輪聖王(てんりんじょうおう)が出現するという花。「霊瑞華」・「空起花」・「希有花」(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。ウィキの「うどんげ」には、『日本国内では熊本県山鹿市と長崎県佐世保市のみに自生するアイラトビカズラ』(マメ目マメ科トビカズラ属アイラトビカズラ Mucuna sempervirens )或いは、『南アジア原産のクワ科イチジク属の落葉高木』である『フサナリイチジク』『( Ficus racemosa syn. Ficus glomerata )をウドンゲにあてる場合がある』とあり、また、『バショウ』(単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo )『の花をウドンゲと呼ぶことがある』ともあった。

「幸大夫」大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう 宝暦元(一七五一)年~文政一一(一八二八)年)。ロシアから帰国した江戸後期の漂流民。伊勢国河曲(かわわ)郡南若松村(現現在の三重県鈴鹿市)の商家に生まれた。「幸太夫」とも書き、同村の亀屋の養子となり、「兵蔵」を名乗ったともいう。天明二(一七八二)年十二月、伊勢白子(しろこ)浦の彦兵衛持ちの船「神昌丸」の船頭として、同浦を出船し、江戸に向かったが、途中、暴風に遭遇して、翌年、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。ロシア人に救助され、アムチトカ島・カムチャツカ・イルクーツクで暮らし、一七九一年、ペテルブルグで、エカチェリーナⅡ世に拝謁し、帰国を嘆願した。翌年(寛政四年)、遣日使節アダム・ラクスマンに伴われて、帰国の途につき、九月三日、蝦夷地の根室に入港した。翌年、江戸に送られ、取調べや審問を受けた後、江戸城内吹上御苑に召し出され、将軍家斉や、老中松平定信以下の諸臣列座のもと、ロシア事情について質問された。光太夫の話を纏めたものとしては、篠本廉の筆録にかかる「北槎異聞」(ほくさいぶん)や、将軍の侍医桂川甫周(かつらがわほしゅう)が纏めた「北槎聞略」・「漂民御覧之記」が著名。光太夫は幕府の番町薬園内で後半生を送った(小学館「日本大百科全書」に主に拠った)。

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